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2011/01/15

虚構の時代の果て―オウムと世界最終戦争

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「虚構の時代の果て」 オウムと世界最終戦争
大澤 真幸 (著) 1996/06 筑摩書房 新書: 302p
Vol.3 No.0221 ★★☆☆☆

 当ブログの現在進行中の唯一のカテゴリは「メタコンシャス 意識を意識する」である。今まで読み飛ばしてきたところの再読モードなのだが、時には新刊本も入れないと、時代の流れとギャップが生じることがある。そこで最寄りの図書館を検索してみると、大澤の近刊「現代宗教意識論」2010/11が引っかかった。

 内田樹「現代霊性論」2010/02といい、葛西賢太「現代瞑想論」2010/03といい、このようなタイトルを付けるのは、現代の流行りなのかもしれない。必ずしも三書に相互の繋がりはないだろうが、当ブログとしては、同じ傾向のものとして読むのは差し支えないだろう。

 ところが、ちょっと「現代宗教意識論」をめくり始めてから、この著者は1995年以降当時、どちらかと言えば麻原集団「寄り」の発言をしていた人ではないか、と気付いた。そしてこの本の存在を思い出したのだが、当ブログ「麻原集団関連リスト」としても未読であった。まずはこちらに目を通すのが先であろう。

 本書は2009/01に「増補」版として文庫化されている。増補版においては巻末の「補論 オウム事件を反復すること」が加えられたようだが、後日、この部分だけでも読む必要はあるかもしれない。

 オウムは、少なくとも80年代末期以降の社会を席巻した思想やサブ・カルチャーのパロディである。p298 「あとがき」

 私にはそうは思えない。あの現象は、80年代末から興ったのではなく、70年代から興っていた「思想やサブ・カルチャー」と関連があるとは思う。高山文彦「麻原彰晃の誕生」 2006/2を読むまでもなく、70年代から熟成されていたのは、松本智津夫ひとりばかりではなく、巻き込まれた周辺の者たち、もてはやしたり、糾弾したりした人々、具体的に事件に被害に遭われ方々を含めての、多くの人々である。

 そして、少なくとも「パロディ」とは思えない。むしろ「具現化」だったのではないか。パロディと称するなら、もとの芸術作品なり思想なりが、確固たる存在であってしかるべきだ。しかるに、70年代、80年代、あるいは90年代において、パロディ化するほどの、確固たる「本物」はあったのだろうか。

 そもそもこの本のタイトルの「虚構の時代の果て」というのも気に喰わない。ここでいうなら、むしろ、「虚構」ではなく、「無意識」とすべきではないだろうか。そして「果て」ではなく、「必然」だったのではないか。「無意識の時代の必然」とするのが、最もこの本のタイトルにふさわしい、と思うのだが。

 無意識が無意識を呼び、集団無意識がどんどん進化した。それは松本ひとりのものではなく、それを支えた集団性、時代性、そして同時代に生きていた人間たちへと拡大して行ってしまったのだ。

 著者は1958年生まれ。1996年当時37歳の社会学者であってみれば、外在する好奇な事件を取り上げて、あとづけで云々することは楽しいことであったに違いない。しかし、それは、カラスはなぜカ~と鳴くか、スズメはなぜチュンと鳴くか、という考察に似て、少々空しい作業のように、私なら思う。

 オウムが、あるいはオム的なものが、私自身もそうでありうる可能性を示している、という自覚なしには、このようなものを書くことはなかっただろう。p298「あとがき」

 なにを持って「オウム的」というかが問題だが、少なくとも、好奇心をそそるような外在的な所業を持って、「私自身もそうでありうる可能性」は、私自身にはない。空中浮遊とか、最終解脱とか、終末論とか、外在する「社会学的」対象になり得るような可能性はない。これらについては、最初から最後まで徹底して批判すべきである。

 もし「~的」と表現されるうちの、内面的なもの、意識的なもの、あるいは「無意識」的なものについては、「私自身もそうでありうる可能性」はある。ないとは断じて言えない。しかし、それに対する否定もまたさらに強いがゆえに、私自身は、決して、いつまで経っても、彼ら「寄り」にはならない。

 無意識を切り開くには、意識、さらには超意識しか解決方法はない、というのが、現在の当ブログの結論である。闇の中をいくら手さぐりしても、闇は消えない。闇を消すには、ただただ光を灯すしかないのだ。

 現在のところ、Oshoの宇宙無意識←集合無意識←無意識←意識→超意識→集合超意識→宇宙超意識、という7つのステージを借りて進行中の当ブログではあるが、超意識や集合超意識への足がかりをつけるためにも、あの時代性や集合無意識性について、しっかりと捉えておく必要を感じる。

 大澤においては「現代宗教意識論」においても、この本の延長線上に何事かを捉えようとしているようでもあり、社会学者という商売上、それもやむを得ないのかと思いつつ、それでもやっぱり「意識論」を期待するのは、無理なのかと、今から興ざめしてはいる。

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コメント

>チダ
ここの文脈においては、個々人の無意識と、小集団の無意識は、さらに大きな社会的な集合的無意識に繋がっていたのではないか、という直感です。
細かな共通項はともかくとして、もしデッドエンド的な結末に至ったとするならば、どこに問題があったのか。そしてひとつひとつの解決策はあるのか。
多くの存在が指摘し、Oshoも示唆していると思うが、当ブログがいま進みつつあるのは、集合的無意識を意識の光で明るくすること。超意識から、集合的超意識の領域へと照らしだす作業です。
そして、私個人としてでできることは、より意識的なエネルギーに意識を向けること。意識を意識する、という方向性に、自分は存在するのだ、という確認です。

投稿: Bhavesh | 2011/01/15 09:57

オウムはこの社会(集団)から生まれているのだから、この社会で起こっていることとかなり共通点があるはずだと思う。よくオウムの異常性を語る際に、自分たち(または「この社会」)が正常であることを前提にして彼らの異常性を批判することがあるけど、自分たちと同じ集団から生まれていることを忘れなければ、自分たちともかなり共通点があり、結果的にこの社会の(隠れた)異常性にも目を向けることができると思う。

投稿: チダ | 2011/01/15 09:20

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