大師のみ足のもとに<2> J・クリシュナムルティ
「大師のみ足のもとに」 <2>
J・クリシュナムルティ 1998/06 竜王文庫 単行本 p93
この本もまた、微妙な境界線上にある一冊と言える。この本をコンテンツとして、フィクションとして読んでしまえば、たんなる噴飯物のお笑い草にしかならない。このコンテンツ、このフィクションを、コンシャスネスへの動機づけとして読むなら、1910年にアルシオーネ(アルシオン)の著者名で出されて以来、100年を経過してなお読者を獲得している意味合いが、少しは見えてくる。
発行された時点では、まるで現在のある閉鎖国家の第三代当主の登場の仕方のように、神秘のうえにも神秘が演出されていて、どんな存在が書いているのか、いくつものベールをかぶせられていた。素顔が発表された青年期以降のクリシュナムルティは、この書籍の方向性とはまったく別な道を歩み始めたし、彼自身、この本の著者であることを、否定せずとも、曖昧な表現で濁わしている。
もっとも、10歳とも、13歳とも、15歳とも言われる執筆当時の年齢であるが、仮にその年齢でこの内容を書いたとしても、それを「天才」ともてはやすのもどうかと思われる。その仕掛け、そのトリックは、21世紀の現代的科学の視点で見れば、明らかだ。
しかし、自らの内面を意識する時、どこかに、それは無意識層を超えて、集合的無意識層へと降りて行く時、どこかにこの神智学的流れが底触してくることは明らかなのだ。それは、ある一定程度の真理を帯びているとも言えるだろうし、自分の過去生におけるなにかと関連づけられている、と言うこともできる。
集合的無意識から、さらに宇宙無意識に繋がっているかどうかはさだかではないが、いずれにせよ、それを解明するには、光が必要だ。無意識は、そのままでは、ついに無意識のままだ。そこには光が必要だ。光があれば、無意識は超意識へ、あるいは集合的超意識へと、その領域を拡大する。
遅々として進まない当ブログのクリシュナムルティ読書であるが、まずはこの「大師のみ足のもとに」はチェックしておかなければならない、と思う。そして、それに先立つこと、マダム・ブラヴァッキーの「シークレット・ドクトリン」。こちらもまったく手つかずに近い状態だが、必読であることには変わりない。そして、「自我の終焉」。
救世主として見いだされながら、その座を蹴って、ひとり自由の境地を歩いたクリシュナムルティの本質は、のちの「生と覚醒のコメンタリー」にも十分表現されているが、まずはこの辺を抑えておけば、神智学→クリシュナムルティの概略はほぼ分かる。さらには、大野純一「クリシュナムルティの世界」あたりに手を出すと、面白すぎ、可笑しすぎて、しばらくは他の読書に戻れなくなるから、要注意ではある。
下手すりゃ、コンテンツ三昧のごろ寝の世界に突入となってしまっては、元も子もないのである。ここは、すみやかに「メタコンシャス 意識を意識する」路線にシフトしていく必要がある。
今、この段に及んでこの辺あたりに着手しようと思い立ったのは、必ずしも、クリシュナムルティや神智学の流れに興味が湧いてきたからばかりではない。むしろ、その後継にあたる現代のチャネリングや神秘傾向のあるグループの読み解きに役に立つのではないか、と思ったからである。
敢えていうなら、当ブログにおける「アガルタ探検隊」と称する事共に、なんらかの光を当てて行く必要を、今更ながらに感じているからである。外側におけるコンテンツとしては、はっきり言って、あまり楽しめない。私には、これらをフィクションとして、読み物や、空想のネタ、として楽しむ才能はなさそうだ。
だが、一旦、自分の内面に入り始める時に、これらの事共がわんさかと押し寄せてくる。それは、つまり無意識→集合無意識へ降りて行く時の、避け得ざる魑魅にして魍魎たる、暗闇の世界でもあるようだ。
すべてが円構造であり、螺旋状であるのなら、ここに瞑想の光のもと、集合無意識は集合超意識へと、変換しないこともない。いや、むしろ、そのために不可欠な道筋なのだと、ここに諦めた、というのが本当のところか。
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