The Osho Upanishad <1>
The Osho Upanishad <1>
[Osho (著) 1986/11 出版社: Rajneesh Foundation Intl ペーパーバック: 1032p 言語 英語,Vol.3
No.0229 ★★★★★
まずは、ここから再開しよう。 この本、初版は1986年11月だ。1986年8月16日からボンベイで語られた講話だ。 この本に当ブログがこだわった理由、あるいは戻ってきた理由は、この日付にある。読まれるべきOshoの本は膨大だ。読んでも読みつくせないし、読むべきタイミングというものもある。
この本の初版はいつの間にか私の蔵書の一冊となっているが、通して読んだことはない。もともと英語は得意ではないし、それでなくても他の日本語訳も全部読んでいないのに、相当の必要性がなければ英語本は読まず、ほとんど翻訳グループにお世話になっている。
しかるに、この本に今回、焦点を合わせようというのは、この日付にある。あの時の私と、あの時のOshoは、どういう位置関係にあったのか。私の側からはOshoは見失われていた。私の側からはOshoの不在としか見えなかった。あの時、Oshoはどこにいたのか。
正確にこの日付ではないかもしれない。さまざまな記録を突き合わせていけば、日付は特定できる。ただ、そのような検証は、もうすこし後でいい。「神秘家の道」と「ニューマン」の狭間にあって、私に強い光を照射つづけていたもの。それが今、解き明かされるかもしれない。
無意識層の中に降りていこうと思った。それはそれで面白そうなのだ。実際、すでにあれから四半世紀というもの、ただただ漂ってきたではないか。更にもう四半世紀、漂うこともできるだろう。でも、その時、私の今回の生も限界にきているだろう。今回の生でやらなければならないことは、あまりに多い。そして、残された日々は次第に少なくなりつつある。
どこまでも遠回りしつづけることもできるだろう。後回し、道草、怠惰、忘却、無意識、眠り、闇、暗黒・・・・・。それはそれでいい。その楽しみ、被虐的ではあるが、その楽しみもないではない。ああ、それはそれで面白いのだ。しかし・・・・・。
いつまで経っても糸口は見つからない。いや、見つけても、見ないふりをし続けている。分からないふりをする。そうではあるまい。どこかで、ひとつのきっかけをつくらないといけない。切り開くような鋭利な洞察が必要だ。まるでナイフのような。
この本、すでにオンラインで全文が読めるようだ。そして部分的にではあるが、日本語訳もネット上にある。あるいは進行の途上で、もっと何かが飛び出して来そうだ。まずは、ゆっくり離陸だ。本を読むことは、本当は目的ではない。むしろ、それは邪魔になるかもしれない。ここでの目的は、焦点を合わすことだ。フォーカシングだ。
ある中心に望遠レンスの焦点を合わせれば、そのポイントだけではなく、周囲も見えてくるはずだ。そしてその前後にある物事も、位置関係として見えて来るに違いない。そして、いずれは全体が見えるだろう。遠くのものは見えない。近くすぎても見えない。適度な距離が必要だ。どこまで合わせられるのか。
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