やわらぎの黙示 ことむけやはす 1 矢追日聖
「やわらぎの黙示」 ことむけやはす 1
矢追 日聖 (著) 1991/12 新泉社 単行本: 300p
Vol.3 No.0259 ★★★★★
簡単に分かりやすく言うならば、私の肉体に宿っている心が二つの作用をもっていて、実際は一つのものである。あたかも、天にかかる月と、水に映っている月のような形である。言い換えれば現在意識が普通にいう私とすれば、もう1つの方は、更に更に深いところで生まれぬ先から既に存在し結ばれていた最高潜在意識(自己本霊)であるということである。
自己本来霊が私の実体とすれば、私と思っている現在意識や白髪のこの肉体は、私の実体の影にすぎないということになる。月影は水面の状況によって真実の姿を浮かべることは難しい。
自己本来霊は宇宙創成の気に直結しているから宇宙に包蔵している無限叡智を受け入れる道は通じているのだが、影なら自分である現在意識は、永年にわたって人類が積み重ねてきた我利我欲主義、科学一辺倒、あるいは苦悩、迷妄、病患、執着といったものに固くさえぎられたため、古き真空管をつけたテレビジョンのように感度がいつのまにか鈍くなったと私は言いたいのである。p51「大倭の黎明」
畏敬すべき先達、大倭紫陽花邑の創設者、矢追日聖の仰ぎ見るべき一冊。出版は1991年にでているが、戦後まもなくの昭和20年代初めからの文章が再編成されており、彼の人生が濃縮された形でまとめられている。
こういう本については多くを語れない。語れば語るほど、こちらが裸にされて、知るべきは自らの足元、ということになってしまう。随所に気づかされることがあり、また繰り返し読むことによって、生きていく上での糧となろう。
しかしまた、感動しつつ読み進めつつも、2011年というこの年月に、山の椒エコビレッジ構想のプランニングの過程で読む込む場合、年代や姿勢、表現方法に一定程度のフィルターをかけながら読み進めなければならないのは当然のことである。
先日読んだ「新しいレムリア」はアメリカのシャスタ山に住む女性のチャネリングによるものだったが、こちらの「やすやぎの黙示」もまた、そのアルファベットや表現形態にこだわったら、そこにもともと表わそうとされたものの大部分を失ってしまいかねない。
山の椒エコビレッジは、メインストリーム・アプローチで行こうと決定している。だれかの特別なインスピレーションに導かれるものではなく、どこか特定の場所にしか発生できないようなものではなく、そこにおける形態は、地球上、どこにも移植可能なものであってほしいのだ。その場は、その普遍性を学ぶべき場として提供されるのだ。
新聞やニュース放送で、時おり一家心中や家庭の事情で転落し、人生を台なしにする哀れな事柄を聞くたびに、私はわが身一人の責任のように感じてならないので、今後もしそうした境遇へ不幸にも追い込まれた人があるならば、その前に必ず大倭を訪ねてほしい。抱き合って泣こう。また笑おう。事情によっては、私と共に暮らしましょう。
地獄の中の仏、砂漠の中の泉、暗夜の灯が、今の世における大倭である。 p245「私の大ぶろしき」
この本、77年の日本山妙法寺のご出家たちとの交流の場面で終わっている。この本、随所に接点を見つけることができるが、この時点において、紫陽花邑に行ったこともなければ、著者にもあったこともなければ、普段から思ってきた存在ではないが、かなりリアリティの中で深くリンクする。
続刊に「ながそねの息吹 ことむけやはす2」がある。
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コメント
久しぶりにこの本が人気記事ランキングに登場した。率直な私の意見は、この手のエネルギーからは、敬して遠ざかる、というものである。1を知れば10を知りたくなる。されど、10を知ったからといって、世の中全ての10を知ったことにはならない。脇道を極めることになるのは、相当の機縁を必要とするだろう。公道のど真ん中、ごく当たり前の、ありふれた道が、私は好みである。
投稿: Bhavesh | 2018/08/27 00:46
まだ行ったことはありませんが、親しい友人からは、昔からいろいろお話をうかがっています。ご招待ありがとうございます。
投稿: bhavesh | 2012/05/09 21:02
はじめまして。突然のコメントを失礼します。「矢追日聖」さんで検索していて、こちらのブログと出会いました。その後、大倭紫陽花邑に行かれる機会はありましたでしょうか?私は年に数回遊びに行っている者ですが、もしまだなら、是非、一度お訪ねいただけたらありがたく思います。
投稿: 鶴と舞ふ人 | 2012/05/09 18:19