「惑星の未来を想像する者たちへ 」ゲーリー・スナイダー<1>
「惑星の未来を想像する者たちへ」 <1>
ゲーリー・スナイダー (著) , Gary Snyder (原著), 山里 勝己 (翻訳), 赤嶺 玲子 (翻訳), 田中 泰賢 (翻訳) 2000/10 山と溪谷社 単行本: 342p
Vol.3 No.0251 ★★★★★
おこがましくも、この本を評価するとすると、もうほとんど当ブログとしてはレインボー評価するしかないだろう。20世紀後半のアメリカにおける詩人、21世紀の地球の哲人、宇宙を旅するガイア意識のひとり。まぁ、もっとももっと素敵な表現があるに違いない。
だけど、これって、あまりにかっこよすぎるんじゃぁないだろうか。「歩いて生まれる」p155でサカキナナオについて書いてある所を読んで、なんだかそんな気持ちがますます強くなった。詩人たちは言葉の魔術師だ。彼らにかかれば、一つのことが百に聞こえる。百のことが、一つになったような気にさえなる。
「『2050年』から環境をデザインする 都市・建築・生活の再構築」の中で、糸長浩司がゲーリー・スナイダーについて触れていた。当ブログにおいても、いよいよスナイダーが登場する段階になったかと感無量。ナナオや三省についても、ここから波及していくだろうか。スナイダーと山尾三省の対談集「聖なる地球のつどいかな」もある。
これからようやく当ブログにおいても三省を読み込む段階がきたのだろうか、などと感じる。三省ときたら、プラブッタとの対談「ガイアと里」なんて本もあった。エコビレッジに思いをはせながら、また一巡して、ちょっと生臭いに話しになってしまいそうだ(笑)。
一口にいって、スナイダーはかっこよすぎる。詩人過ぎる。情動的で、独創的で、挑発的で、断定的だ。エマーソン、ソロー、ホイットマン、につらなるアメリカンスピリットたち。その現代的代表かつ象徴的な部分を担い続けてきたスナイダー。
今回、あらためてこの本を手にして、スナイダーがまだまだ生存中(失礼!)で現役であることを知った。なんだか自分の中では、この1930年生まれの、1960年代のアメリカにおけるビート・ジェネレーションのヒローの時代は、とっくに終わったと、勘違いしていた。
いや、ナナオやスナイダーや三省やギンズバーグなどを知ったのは1970年直後、私はまだ10代だった。あの時代、彼らは輝いていた。輝きすぎていた。そのカッコよすぎる部分は、私にはどうも納得がいかなかった。
例えていえば、自然派といいつつ、彼らは化粧品を使っている、という感じがした。自然派化粧品、って結局化粧品じゃぁないか。自然とは化粧など、しないことなのではないか。そんな疑念がずっとあった。なにかを「自然」風に化粧して、割り切ってしまっている。彼らが警句的で、断定的であればあるほど、私のなかの「ぜんぜんかっこよくない」部分が抵抗する。
人間生活にはハレもケもある。彼らはケを強調しながら、ケをハレにしてしまっている。ハレをケにしすぎるのも困った習癖だが、私はどちらかと言えば、後者のタイプだ。お祭り騒ぎより、どっか地味にのんびりしていたい、という想いはつよい。
この本は、スナイダーの長期間にわたる活動を網羅してしていて、その輝かしい部分を抜き出したようなエッセンス集になっているからこそ、なお、そのように感じるのだろうか。彼や彼の本は、さまざまな賞を受け、高い評価を数々獲得している。
であるがゆえに、私にとっては、なにかチグハグな想いが残るのである。彼はごくごく人間的な表現者であり、彼の言っていることは、ひとつひとつがもっともなことなのだ。そのもっともなことがもてはやされ、その言が、さも彼独自のものであるように装飾されてしまうところに、その背景にある現代社会の汚濁が見えてくる。
本来、花畑であったはずなのに、一輪の花だけが高く評価される。なぜか。周囲が汚濁されてしまっているからだ。汚濁の中の一輪の花。花は花として、自らの美を全うしようとする。そこに何の矛盾はない。
しかし、その一輪の花を褒めたたえる周囲の汚濁たちは、自らを変えようとはしない。汚濁は汚濁のままだ。スナイダーを高く評価などする必要はない。彼に賞など送る必要はない。彼は彼で、野の一輪の花だ。
周囲の汚濁は、自らが一輪の花であることを思い出すべきだ。他者の美を絶賛する必要などない。他者の美とともに、われもまた一輪の花であったことを思い出し、自らのいのちを輝かせることが必要だ。スナイダーをスターやヒローにしてはならない。
新しい世界を建設しようと試みることよりも、中には亀の島に存在する古い世界の一員になる可能性を選択する者もいるのである。もしウォルト・ホイットマンが今日生きていたならば、世界の指導国となり、この地上でもっとも裕福で最強の国家となったこのアメリカの精神的・文化的貧困に激しく失望したであろうことを我々は知っている。p275スナイダー「流域/ウォルト・ホイットマンの古い『新世界』」1991「ホイットマン没後百年祭」での講演
この本、原題は「A Place in Space」。これでは日本語にならないと思ったのか、翻訳チームは「惑星の未来を想像する者たちへ」という邦題を考えた。だが、説明に堕している。今の私にとっては、A Place in Spaceのほうがはるかに示唆的で美しい。Spirit of Placeという時のPlaceに通じる美しい響きがある。さすが、詩人だ。
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