世界のスローハウス探検隊 日本・世界の「建築家」なしの住宅をめぐる
「世界のスローハウス探検隊」日本・世界の「建築家なしの住宅」を巡る
中山 繁信 (著) 2008/12 エクスナレッジ 単行本: 175p
Vol.3 No.0263 ★★★★☆
私が生まれた家は、築300年をゆうに超えた茅葺の古民家だった。大黒柱は、大人二人の腕でも回りきれなかった。囲炉裏があり、屋敷林の枯れ枝を燃やして、萱をスモークしていた。100坪以上の母屋の他に10以上の付帯家屋があり、全体の敷地は、1000坪以上あった。もちろん、掘りの外の一連なりの田畑を合わせれば10000坪以上になっただろう。敷地を二本の川が流れ、100坪ほどの池が二つあった。
柿、ブドウ、リンゴ、梨、梅、ぐみ、無花果、栗、ザクロ、など季節の果物が実った。ヤギ、馬、牛、ニワトリ、猫、犬、そして、結構ネズミもいた。春になればカエルがぴょんぴょん跳ねたし、冬になればニワトリを狙ったイタチが忍び込んできた。家族とともに、他に住み込みで働いていた数人の若者たちが、コメや芹やたくさんの野菜を作っていた。
こんなライフスタイルが次第に崩れていったのは、1960年代の所得倍増計画のあたりから。野菜からコメ中心の農業になり、機械化が進むとともに、農薬も登場した。それまでは、そんな気張らなくても、みんな有機農業しかなかったのである。労力は人力で、馬や牛は大きな動力だった。
高度成長期になると、すぐ家の脇をバイパスが通るようになり、自動車会社の大きな販売店ができた。その後は、どこでもあるような、乱開発の波に襲われ、それまでゆったりと繋がってきた村落共同体は、次第次第に力を弱め、田んぼをつぶしてできた新興住宅がベットタウンと化していった。
川が農薬で赤くなり、フナやドジョウが浮いた。信号のない交差点で、何人も交通事故に遭い、そのうちの何人かは死んだ。味噌や醤油、納豆、畑の野菜類をつくる人たちが次第に減り、みんな町のスーパーに買い物にいくようになった。
昔の農家は、家督相続というものがあったから、次男の私は農家を継ぐ立場にはなかった。それでも未練があったのか、成長してから公的機関で農業を学んだ。決して自然農法ではなかったし、機械化農業、農薬農業、稲作中心農業ではあったが、面白かった。
でも、私は田畑を所有し、あるいは借りて耕作をしたことはない。あるいはしようと試みたことはあっても、決断はできなかった。天は、私のような無精者に土地も与えなかったし、農業をやるような体力も与えなかった。私には別な仕事しか与えられなかった。
私の子供達や孫達は、私がこんなことを言っても想像しにくいだろうが、戦前や戦争直後の日本なんて、大体私と同じような環境で育った人がほとんどだった。もっとも、あの頃の日本人には、30階を超えるような高層マンションや、300キロを超えて走るような地上の乗り物などを想像することはむずかしかった。みんなスローハウスに住んで、スローなライフスタイルを生きていたのである。
もしあのままスローな日本に生きていたら、なにもスローなハウスを訪ねて世界を探検して歩く必要などない。そして、もし世界にスローなハウスを見つけたらからと言って、喜んではいられない。
まず、日本にすむ私たちは、ごく一部の人たちを除いて、かつての村落共同体に支えられたライフスタイルはできない時代となっている。そして、世界のスローな人々も、グローバルな文化の流れとともに、決してスローな生活に安住ばかりはしていられないだろう。
私達が見失ってしまったものは、確かにスローな社会に残っているものもあるが、後ろ向きにバックすることは、決して人類にとってよいことではない。スローハウスという言葉の中に秘められたなにか、見失ってしまった何かを、私たちは、エコビレッジという未来に見つけようとしている。
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