「野性の実践」 ゲーリー スナイダー <1>
「野性の実践」 シリーズ・ナチュラリストの本棚 <1>
ゲーリー スナイダー (著) Gary Snyder (原著), 重松 宗育 (翻訳), 原 成吉 (翻訳) 1994/08 東京書籍 単行本: 270p
Vol.3 No.0275 ★★★★★
この本は、ゲーリー・スナイダーの日記なのだろうか、歴史書なのだろうか、旅行記やエコロジーの教科書なのだろうか。はたまた、ZENの解説書、なのであろうか。多分それらすべての総合であり、またそれ以上のものであろう。20世紀のアメリカに現れた大きな知性、スピリチュアルな存在、地球に投げかける、大いなる愛のメッセージ。そして実践の数々。
この本、英語で1990年に出版され、その後、この東京書籍からナチュラリストの本棚の一冊として出た後、2000年に山と渓谷社から新版がでたようだ。新版のほうはスナイダーの写真が表紙になっているだけに、やたらとイメージが強烈過ぎる。図書館にも両方入っていたが、先日途中まで読みかけたものが新版で、今回は旧版を手にしたわけだが、私には、むしろこちらのほうがライトな感覚で楽だった。
場所の中心は家であり、家の中心は炉や炉辺である。炉辺は、子供時代のおっかなびっくりの探究が始まる場所であり、老人になって戻ってくる場所でもある。p41「『場所』に生きる」
ふと気付いてみると、この本のタイトルは、「野性の実践」となっている。日本語表記には、野性と野「生」があるようだ。英語タイトルは「The Practice of the Wild」。特段に野性と野生の使い分けがされているようではないが、原野に生きる、という意味よりは、人間自らの、内なる「野」性にこそ、未来を切り開く永続可能な命がある、と彼は強調するのだ。
「自然を愛する」とか「ガイア(大地の女神)との調和」を望むだけでは不十分だ。我々と自然界の関係は、ある具体的な「場所」から始まる。だからその関係は情報と経験に基づいたものではなくてはならない。例えば、「真の人間」は、その土地の植物に慣れ親しみ精通している。
これは、かつてヨーロッパ、アジア、アフリカの誰もが知っていて当たり前の知識であった。現代のアメリカ人の多くは、「植物を知らない」という事実にすら気づいていないのが現状だ。そのkとが疎外の尺度になる。植物相について多少の知識があればこんな会話を楽しむことができる。
「アラスカとメキシコが出会うのはどこだい」 p58
具体的な「場所」として、56才と7ヵ月の私は「山の椒エコビレッジ」に立った。初めていく土地でもあったし、他人に連れられて偶然のように行った土地であってみれば、そこの植物相などについては、ほとんど何も知らない。そこを通り過ぎるのか、そこが終いの住処にさえなる可能性があるのかさえ、気づいていない。
だが、その土地は、私の中の「野性」をプロボークする。私の中の「場所」が息を吹き返した。
これからの地域適正型コミュニティを維持するには、雑多な作付けによる永続的な家庭菜園型農業がきわめて有効であるという。このことは、「野性」が土地の生産力の源であることを改めて教えてくれる。これまでにも「その土地が良いのは、そこに野性が生きているからだ」と言われてきた。p126「良き土地、野性の土地、神聖な土地」
パーマカルチャーを実践するエコビレッジをつくろう。NPOを作って、みんなで関わろう。「先進的」で「批判的」なムーブメントを起こそう、というのが、現在の私がいるワイルド・フィールドである。
野性の中での生活とは、ただ、日向でイチゴを食べることではない。私は、「ディープ・エコロジー」を想う。それは、自然界の潜在的側面---動物の糞の中にある砕かれた骨のかたまり、雪の中にある鳥の羽、満たされることのない食欲の話など---に行きつく。野性の生態系は、ある深い意味で批評を超えたものだ。しかし同時に、非合理的で、かび臭く、荒々しく、寄生的でもある。p152「青山は常に歩く」
人々とともに、なにかをしよう、行動しようとすれば、合意も必要になるし、言葉として表現される必要もある。しかしながら、自らの内から突きあげてくる「野性」は、本当は言葉やひとつふたつの行動では表現しきれるものではないのだ。
私は、敬意をもってこうした老木を見上げる。彼らは、中国の名声不朽の人々にそっくりだ。寒山、拾得みたいな人物で、それだけ長く生きたからには、奇人であることも許されるのだ。林間の詩人であり、画家であり、笑いこけ、ぼろぼろの服をまとい、恐れ知らずの存在なのだ。老木を見ていると、私は、老年を待ちわびるような気になる。p190「極西の原生林」
今、手元に自由になる100万円があったら、欲しい物は二つある。一つは、近くのお寺に墓地を求めること。終いの住処は墓地であろう。決して無縁仏になることを厭いはしないが、子や孫に恵まれた今生であってみれば、彼ら子孫が自らのルーツを求めた時、ひとつの助けにはなろう。私の墓標は私のためではなく、彼らのためにある。
もうひとつ、欲しいものがあるとすれば、オンボロの中古キャンピングカーと、それを引っ張る金具のキットだ。わが家のベーシック・ハイブリッド車にそれをつないで、林間へと移動するだろう。そこはしばしのわが住まいとなる。リュックにナタ一本を偲ばせて山にはいり、洞窟を探したり、木々を倒して一人分の住まいを作るには、私の中から遠く「野性」は失われてしまっている。
道元は「正法眼蔵」で言う、「自我を探求するのは、自我を忘れるためである」と。「自我を忘れたとき、万物と一体となるのだ」と。ここでいう「万物」とは、現象世界のすべての存在のkとである。心が開かれたとき、我々の中に「万法」が満ちてくるのだ。p205「道を離れて道を行く」
当ブログにおけるこのカテゴリは「メタコンシャス 意識を意識する」というネーミングだった。スタート地点においては、科学や芸術を離れ、いよいよ意識の意識たる部分へと突き進むはずだった。
しかるにどうであろうか、私は、意識の意識たる部分へ突き進んでいけばいくほど、エコビレッジという具体的な場を与えられ、大いなるガイアへと繋がり、さらなる「万法」と導かれようとしているかのようである。
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