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2011年5月の2件の記事

2011/05/31

現代建築家による“地球(ガイア)”建築<2>

<1>からつづく 

【送料無料】現代建築家による“地球”建築
「現代建築家による“地球(ガイア)”建築」<2>
乙須敏紀 2008/11 ガイアブックス/産調出版 単行本 287p

 前回この本についてコメントしたのは、東日本大震災が起こる3週間前のことだった。ガラスでできたせんだいメディアテークの図書棚から借りてきたこの本は、他の建築物の本に比べ、どこか深く胸に留まった。

 震災で、メディアテークを初めとして、地域の図書館機能は壊滅し、長くそのネットワークが使えずにいた。当ブログはもともと、あと十数冊にコメントを加えたら、「読書ブログ」というスタイルを終了しよう、としていたところだったので、タイミングとしては合致していた。

 本にたよらない暮らし。図書館がない暮らし。そんな物に憧れ始めたのは、逆に、この5年ほど、図書館依存の暮らしを続けてきたからかもしれない。もうそろそろ図書館暮らしを卒業したかった。

 だから、図書館ネットワークが機能しないことを、むしろ私は歓迎できた。なければないでなんとかなる。震災後のライフラインの復活しない中では、読書しようにもままならないものがあった。手持ちでも結構面白い本が残っている。

 されど、やはり1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎると、本に対する禁断症状のようなものが現れた。こりゃ、どうやら、ブックアディプトとでも名付けるべき体質を私は持っているようなのだ。あれこれ、読みたくなる。読み返したくなる。

 その頭によぎってくる本の中で、今、どうしても読みたいと思った本の中の一冊がこれだ。

 現代建築家によるGAIA”地球”建築
石、大理石、テラコッタ、粘土といった地球素材を組み合わせる
これは建築が人間と一体化する、最も自然なやり方である 
表紙

 山の中のくらし、というと、すぐに切り出した丸太で作ったログハウスを連想するが、私などもそれ以上の想像力がつづかない。だが、「現代建築家」にかかると、更なるイメージが展開される。しかも、それはブループリントではなく、現実にすでに存在するものなのだ。

 この本でまず惹かれたのは、決して整地されたわけではない自然の中に、いきなり建築物があることだ。雪原であったり、原生林であったり、荒地であったりする。その中にあって、窓が多用され、そこから切り取られた風景が、一枚の絵画になっていることだ。

 実に憧れる写真が、この本の中には何枚かある。ああ、このような建築物であったらいいのに、と思う。ただ、これは専門の建築家たちが、基準に則して作った「作品」群だ。それなりの建築費がかかっている。富裕層のお遊び的な面がないではない。

 それに反して、当エコビレッジに設営しようという「ハウス」には、それほどの予算はない。ほとんど、大きめなテントを購入する程度の感覚だ。今回の被災地で「全壊」してしまった建築物の廃材を一部利用し、セルフビルドで、2×4材と、簡易な屋根材で作るつもりだ。

 この本、震災前の前日にアップしておいたロイドカーンの「シェルター」と対をなすような、ある意味、対極に位置する一冊である。

<3>につづく

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2011/05/30

ムー・レムリアの超秘密

ムー・レムリアの超秘密 (5次元文庫) (文庫) / ジョージ・ハント・ウィリアムソン
アンデスに封印された「ムー・レムリアの超秘密」
ジョージ・ハント・ウィリアムソン 2010/12 徳間書店 文庫 p251
Vol.3 No.0286 ★★★★☆

カタストロフィーが起こるだろう。
間もなく激しい風が吹き、
大地が揺れ動き始める。
そのときは、
我々の予想を超えた速さで近づきつつある。
それらは結果である。
では、その原因は何なのだろうか?
人類の想念である。
地球の浄化を引き起こすのは、
何十年にもわたって
放射されつづけてきた人類の想念なのである。
憂鬱、絶望、死、そして戦争の惑星。
それが地球なのである。
今や地球のあらゆる元素が、
人類の誤った想念の服従を拒絶するに至った。
元素たち。彼らもまた知性を持つのである!
そして彼らは、
もはや人類の誤った想念に従おうとはしていない。
いずれ彼らは巨大な津波や強風となって、
人類に反旗を翻してくる。
元素類が人類に代わって
一時的にこの地球を治める日が来るのだ。
p8

 この本もまた、東日本大震災前に読もうと書店に予約していたものが、震災後に届けられたものだ。あの大震災を前にこの本を読むことと、大震災の後にこの本を読むことの意味は、おのずと違ってくるだろう。この期間にまたがって、この本を読んだ、ということがなんとも因果な感じがする。

 徳間書店の文庫シリーズだけに、「信憑性」に欠ける。それはそれとして、割り引いて読まなければならない。しかしながら、読まずにはいられない「面白さ」がある。他に類書が、ありそうで、そうはないのだ。

 そもそもレムリアやムー、アトランティス、などという呼び名すら、ひとつひとつが後付けで付けられたものだから、ネーミングにこだわると、大変なことになる。ここは、ひとつの表象として、シンボリックに読み進んでいく必要がある。

 しかしまぁ、それにしても、それらのシンボルに隠されたひとつひとつの流れを感じる時、この本の言わんとすることの半分は受け入れざるを得ない。もし、受け入れることができない部分があるとすれば、表象としての扱い方がちょっと違うぞ、という面においてだ。

”黒い竜”の勢力が存在する。
この惑星はこれまで、
はるか彼方の銀河からの”黒い軍隊”
----東洋で”黒い竜”として知られる勢力----
に支配されてきた。
彼らは地球の数々の王座に着いている。
いや実質的には、
地球のすべての王座に着いていると
言っていいだろう。
彼らは地球人類の耳に蓋をかぶせ、
天使たちのメロディーが
そこに届くのを防ごうとしている。
全宇宙内には光が存在しない場所
----闇だけしか存在しない場所----
がいくつもある。
人間は闇を恐がる?
それは違う。
人間は光を恐れているのである。
光の中に入っていくためには、
勇気がいる。
勇気が必要なのは、闇の中ではなく、
光の中に入っていくときなのである。
p10

 このような形でブラックドラゴンを色づけすることには賛成できない。そもそも原作者のウィリアムソンはすでに1986年に60才で亡くなっており、この原作はすでに50年前1961年に出版されたものだ。どこか神智学の流れを汲む西洋神秘主義の亜流的な匂いが漂う。

 それを坂本貢一が翻訳し、あのゲリー・ボーネルが序文を寄せるという形で21世紀風にアレンジされているので、注意深く、落とし穴に気をつけながら読み進める必要がある。それでもやはり、ここに秘められたシンボリズムの中に、広く、大きく共通する何かがある。

カタストロフィーのあとには輝かしい世界が出現する。
新しい朝が訪れる前には、夜が訪れる。
カタストロフィーとは、その夜のようなものだ。
この世界に終末などは訪れない。新しくなるだけ。

古いものはすべて清められ、新しいものに変化する。
そして美しい虹とともに、神聖な世界が現れる。
地球は浄化され、
神性のみを持ち越した人類たちとともに、
新しい、より高い波動を放つようになるだろう。
今や、ムーの黄金の太陽が持つ
秘密の知恵への扉が大きく開かれようとしている。
p012

 私は基本的にこの本の趣旨に賛成だ。アトランティスの水のカルマ、ムーの火のカルマ、レムリアの小乗のカルマ、UFOの大乗のカルマを超えて、今、新しい扉が開かれようとしているのは、間違いない。祈り、踊り、瞑想し、そして警告する。様々な知らせはすでに届いているのだ。

 復興とか、想定外とか、被害やボランティア、と言った皮相な現象にだけとらわれていてはいけない。物事の本質を見極める力が必要だ。その力は、人間の根源から湧いてくる叡智だ。そこに深くコネクトする必要がある。

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