場所を生きる<1> ゲ-リ-・スナイダ-の世界
「場所を生きる」 ゲ-リ-・スナイダ-の世界 <1>
山里勝己 2006/03 山と渓谷社 単行本 327p
Vol.3 No.0303 ★★★★★
1)空間は定住(あるいは再定住)の営みの中で場所へと変容していく。そして空間を場所へと変容させるものは、定住のプロセスの中で獲得される「場所」の感覚であり、「場所の感覚」を核として「場所の文学」が立ち上がってくる。p7「場所の文学とその現代的意義」
2)「スピリット・オブ・プレイス」(1991)シンポジウム以来、気になっていたプレイスという言葉が、この本によって、ようやくすっきりと収まってくれた。根なし草(デラシネ)文化における再定住だからこそ、「プレイス=場所」の意味があったのだ。
3)もし、現代日本の読者にとって宮沢賢治の詩が難解であるとすれば、その原因はどこに求められるのだろうか。ひとつには、もちろん1920年代の近代詩人であった宮沢が用いた日本語全般に原因があるのであろうが、「場所の感覚」という視点から言うならば、それは宮沢が頻繁に作品に挿入した科学用語や仏教用語に原因を求めることができる。
ひとりの書き手がその作品で取り上げる「場所」は、生態学的な知識をもとに理解されるだけでなく、その自然表象に歴史感覚や宇宙観(あるいは宗教観)も包含して成立する。スナイダーについても同様のことが言えるが、宮沢の自然表象はそのようなもろもろの要素が複雑にからみ合っているのである。p206「場所の感覚を求めて」
4)この本に出会って、ようやく宮沢賢治を読んでみようかな、と思った。そして、山尾三省再読のチャンスでもあるな、とも思った。そう言えば、三省には賢治をテーマとした「野の道」があった。この辺たりから始めようか。
5)ナナオ・サカキは1923年1月1日、鹿児島県で生まれた。両親は染物屋を経営、サカキは九州第二の河川である川内川の流域で育った。義務教育を終えると、鹿児島県庁で使い走りをした。(後略)p136「遭遇するカウンター・カルチャー」
6)以下、何ページにも渡ってナナオ・サカキの略歴が書いてある。いままで漠然としか知らなかった彼の経歴だが、興味がなかったわけではない。だが、あのような存在の経歴には関心を持つべきではない、と思っていたのか、知ろうとしなかった。しかし、今回、これほどほぼ完ぺきに書き出されたナナオの生涯を読み、あらためて、その存在の意味を想った。
7)スナイダーは、1950年代初期には、A・L・サンドラーの翻訳(1928年)で「方丈記」を読んでいた。たとえば、ウェイレンにあてたその書簡の中で「親愛なる鴨長明」と呼び掛け(1953年11月20日)、1953年12月9日付書簡ではウェイレンに禅堂を建てる計画を語り、さらに二年後に「東洋」へ行く計画が実現されなければどこかに土地を見つけて小屋を建て、「方丈記」のような生活をする、と書いている。p55「文明をひっくり返すために」
8)ヘンリー・D・ソローの「森の生活」と比較されることもある「方丈記」である。こちらも読みなおそう。
9)60年安保の全学連のリーダーのひとりであった山尾は、当時国分寺に住んでいたが、作家の宮内勝典が新宿にいたナナオと山尾を繋ぐ役割を果たしている。p140「遭遇するカウンター・カルチャー」
10)宮内勝典に対する当ブログの評価はきわめて低い。されど、そのような繋ぎの役を結果として担っていたのも事実なのだろう。
11)レイチェル・カーソンの「沈黙の春」(1962年)が散文の先駆的な作品であるとすれば、詩においては、カーソンよりほぼ10年早く、スナイダーが自然環境と人間の関係性について鋭い問題提起をしているのである。p158「『アメリカ』から『亀の島』へ」
12)この辺になると、贔屓の贔屓倒しになってしまいかねない。カーソンが一気に注目されたのに比較すれば、スナイダーへの注目は、そしてその自然環境と人間の関係性については、もっと後のこととなる、と見るのが正しいだろう。
13)エマソンはどうですか。
スナイダー エマソンは二流じゃないかな。p80「インタビュー --場所の感覚」
14)と、エマソンを「二流」と切り捨てるスナイダーがいる。
15)フォークナーの「熊」はどう思いますか。
スナイダー 「熊」はすぐれた作品だと思います。アメリカン・ネイチャーライティングの偉大な古典のひとつですね。p83「インタビュー --場所の感覚」
16)「熊」もまた、当ブログの新しい大きなテーマになりつつある。
17)仏教を含む東アジア文化と欧米文化の融合を試みる中で、スナイダーはひとつの「場所」から出発し、究極的には地球という惑星をその主題とする詩学を創造してきた。それは従来の「世界文学」という枠組みを拡大し、自然環境と人間の関係性という視点を導入することで、「地球の文学」とでもいうべきスケールを有するようになった文学である。このような文学をどう読むか、われわれの想像力が問われている。p267「終わりなき山河」
18)長年スナイダーと親交を深めてきた著者にこそ言える、ズバリとした切り口の解説が心地いい。
19)この土地の90%はいまではキャロルとスナイダー氏の所有となっている。ギンズバーグやベイカーの所有分を買い取った、将来は息子や娘たちに残すことになる、とスナイダー氏。p291「スナイダー訪問記」
20)スナイダーも、人の親だ。
21)かつてギンズバーグが所有していた小屋をケーリーが買い取り、改装して来客用コテージになっている。ここまで車で入れるように道ができている。屋根を葺き替え、床を磨き、シャワーを付け、キッチンには古いオーブン・ストーブを入れた。電気もここ専用のパネルを付けた。お湯や火は太陽熱とプロパン。電話もある。Eメールも使える。p207「スナイダー訪問記」
22)そうそう、こんなイメージが「ソロー・ハウス」。
23)(ルース・F・)ササキとスナイダーは、禅研究家として知られているアラン・ワッツを介して知り合っている。p57「文明をひっくり返すために」
24)う~む、アラン・ワッツも要・再読だな。
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コメント
現在は、ロングヘアーとしてのスナイダーや、詩人としてのスナイダーではなく、ZEN者としてのスナイダーを追っかけ中。
投稿: Bhavesh | 2011/06/15 10:07
ちょっと面白そうな本だね。エマーソンは二流といってもあながち間違いではないかも。「熊」は二度目の卒論のテーマで、お情けで通してもらった。ケルアックの『禅ヒッピー』(新訳はザ・ダルマ・バム)のモデルはスナイダーだったですね。
投稿: | 2011/06/14 22:56