言葉ふる森 作家による「山」のエッセイ・紀行30編
「言葉ふる森」 作家による「山」のエッセイ・紀行30編
山と渓谷社・編 寮美千子・他, 2010/2 山と溪谷社 単行本: 176p
Vol.3 No.0295 ★★★★☆
1)寮美千子追っかけを始めようかな、と、まずは最近本を手に取ってみた。巻頭に寮の文章が掲載されてはいるが、これは30人の作家たちによる山のエッセイ集だった。めぼしいところには目を通したが、他の人々は、今回割愛した。
2)私が今テーマとしているのは、「森」なのか、「山」なのか、という惑いがある。「街」、「都会」、「里」に対置するものとしては「山」のほうがイメージしやすいが、どうしても、そこは旅人として訪れる通過点というイメージがある。
3)「森」は、街や里の機能の一部でもあり、字は違うが「杜の都」を標榜する都市もある。
4)山はどうしても、高山、草木さえ生えぬ超絶した絶壁さえ連想させる。対して森は、どこか優しげだ。あかずきんちゃんがお祖母ちゃんを訪ねていくのは森だったのではないだろうか。
5)森は緑豊か、というイメージがある。
6)私が読書してみようかな、と思ったきっかけに「邂逅の森」という小説があったことを、今回、この30人の中の一人として熊谷達也が含まれている事で思い出した。
7)6~7年前のことになるだろうか。奥さんとドライブしていた時に、私の眠気覚ましにと、最近読んだ本の内容を奥さんが話してくれた。最初は単なるダイジェストだと思っていたが、かなり濃密なストーリーで、あっと言う間に数十分が過ぎてしまい、眠気もすっきり富んでしまって、目的地にたどりついたのだった。
8)あの時、語ってくれたのが熊谷達也の「邂逅の森」だった。これをきっかけに私は、図書館に通うようになり、ブログまで書くようになった。しかし、実はまだ「邂逅の森」そのものは読んでいない。
9)こうしてみると、熊谷達也が「マタギ」に魅力を感じたのは、名前に「熊」がついているからではないか、と思った。
10)いざ、山と言わず、里山の森に入ってみると、結構な熊の出没形跡がある。かくいうわがソロー・ハウス近辺にも、ニホンミツバチの餌を狙い、クマが出没しており、養蜂家を泣かせている。
11)人はクマから逃げようとするが、クマもまた人から逃げようとする。マタギは、そのクマを追うのが仕事だ。今度、熊谷のマタギ三部作とやらを読んでみよう。
12)佐伯一麦も文を寄せている。この人の本もまったく読んだことがない。そのうちテーマの接近を感じることがあれば、目を通してみようと思う。
13)ああ、剥きだしの地球を歩いている、と感じた。天然自然の緑豊かな風景よりも、その岩だらけの無機質な光景が、わたしの心を慰めるのだということに気づいた。
もともと、花よりは星、木よりは石に深い共感を覚えるわたしだった。より死に近いものが、より永遠に近く、親しく感じられる。p009寮三千子「はじめのひと滴」
14)ここで語られているのは「山」だろう。「森」ではない。しかし、ここではっきりと、「森」に対置するものとして、「山」の存在をあらためて思い起こす。
15)「森」は「街」に近い。どうかすると「街」に取り込まれている。我が家のビルドイン・ガレージから、ソローハウスのテントの前まで、約40分。プリウスは音も静かに私を運んでくれる。地続き、別荘というより、庭の離れ、という感じさえする。
16)対して、「山」は、狭義で言えば、もっと超絶した峰を連想させる。「街」にいて、見えなくなったものを、「山」に行く途中の「森」で発見しようというのだろうか。
17)「街」にいて、生が枯れかかった時、人は「山」の死を想い、「山」まで行くことを「森」まで出かけることによって、疑似体験しようというのだろうか。
18)少なくとも、私が「森」に誘われるのは、「死」タナトスからの誘惑をよけきれないからだ。私はいずれ、山に登るのだろうか。あるいは、いつ「街」に帰るのだろうか。帰らないのだろうか。
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