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2011年6月の57件の記事

2011/06/30

瑠璃の森に棲む鳥について 宗教性の恢復 立松和平/山尾三省

【送料無料】瑠璃の森に棲む鳥について
「瑠璃の森に棲む鳥について」 宗教性の恢復
立松和平/山尾三省 2001/01 文芸社 単行本 214p
Vol.3 No.0338 ★★★☆☆

1)本書は、2000年7月27日から29日(屋久島)、10月10日(東京)の計4日間にわたって行われた対談を編集・収録したものである。p207

2)続編に水晶の森に立つ樹について」(2001/06)がある。

3)装幀に、「パソコンが僕の生き方を変えた」「パソコンで森暮らし」などの著書のある荒川じんぺい、の名前がある。 

4)文芸社、というちょっと訳あり気味の出版社がこの本を出していることが、すこし気にかかる。

5)立松和平、という人、晩年に小説『道元禅師』があったな、と作品群を見て、びっくり。おびただしい量の作品がある。とても当ブログにおいては追っかけ切れるような量ではない。そもそも、人間は、なぜにこれほどまでに書かねばならないのだろう。

6)この対談は、立松の名前が前に来ているように、ネームバリューも一般的には立松のほうが大きいのだろうが、この本の内容となれば、「作家」立松より、「野の詩人」三省があればこそ成り立つような内容だ。「水晶の森~」では三省の名前が前に来る。

7)立松という人も、24歳のときに数カ月のインド旅行をし、日本山に世話になったという話だから、割と身近な感じがする。

8)対談というもの、テープ起こしや、後からの加筆で、どれだけ、本当にその場で語られたのか分からないことが多い。この本についても、一読者として読む場合、どこか上滑りしている。

9)まして、三省からすれば、病を得て、より「瑠璃」化している状態なのだから、この本のような、オーバー・サービスは、もう控え気味にしてもよかったのではないか。

10)敢えてこの本が出来たのは、やはり立松側からのオファーであったのだと思う。

11)93年あたりの屋久島の世界遺産化とか、立松の「盗作」騒ぎなどの話題がでてくるが、今ひとつ、具体的な時代性が感じられない。

12)多くの心象が語られるが、それではどうするか。物書き風情が、ちょっといいカッコしすぎではないか。

13)続刊の「「水晶の森に立つ樹について」にも目を通してから、もう一度、この二冊の本について考えてみたい。 

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2011/06/29

「祈り」 山尾三省 <1>

祈り
「祈り」 <1>
山尾 三省 2002/09 野草社 単行本: 151p
Vol.3 No.0337 ★★★★★

1)「原郷への道」は三省にとってのホワイト・アルバムだろうし、「ぼくらの知慧の果てるまで」だって、デザイン的にはホワイト・アルバムだ。「島の日々」だって、色こそ黄色だが、三省イエロー・ページとは言えない。やはりホワイト・アルバムのひとつだろう。

2)しかし、これまでのところ、当ブログで読み込んできた三省ライブラリーの中においては、三省のホワイト・アルバムの白眉と記録されるべきは、この「祈り」であろう。

3)この「祈り」においてはタイトルの「祈り」という文字でさえ、型押しされているだけで、脱色化されている。なんと、三省にはお似合いのことか。

4)しかし、残念なことに、この本は、三省が亡くなって一年後に出版されているものである。三省自身が、この詩の選定にあたり、自らがこの本を制作したのかどうかは、この本を読む限り、定かではない。

5)永遠の青い海
わたしは それである
わたしは そこからきた意識の形があるから
そこへ還る
意識の底がぬけて
そこへ還る
永遠の青い海 
   p15

6)「聖老人」で始まった三省追っかけの読書、あるいは、三省の人生が、この書で終わるとしたら、それはそれ、何の不足もない。なるほど、そういう読書であったのか。そういう人生だったのか。

7)「祈り」

南無浄瑠璃光
海の薬師如来
われらの 病んだ身心を 癒したまえ
その深い 青の呼吸で 癒したまえ

南無浄瑠璃光
山の薬師如来
われらの 病んだ欲望を 癒したまえ
その深い 青の呼吸で 癒したまえ

南無浄瑠璃光
川の薬師如来
われらの 病んだ眠りを 癒したまえ
その深い せせらぎの音に やすらかな枕を戻したまえ

南無浄瑠璃光
われら 人の内なる薬師如来
われらの 病んだ科学を 癒したまえ
科学をして すべての生命(いのち)に奉仕する 手立てとなさしめたまえ

南無浄瑠璃光
樹木の薬師如来
われらの 沈み悲しむ心を 祝わしたまえ

樹ち尽くす その青の姿に
われらもまた 深く樹ち尽くすことを学ばせたまえ

南無浄瑠璃光
風の薬師如来
われらの 閉じた呼吸を 解き放ちたまえ
大いなる その青の道すじに 解き放ちたまえ

南無浄瑠璃光
虚空なる薬師如来
われらの 乱れ怖れる心を 溶かし去りたまえ
その大いなる 青の透明に 溶かし去りたまえ

南無浄瑠璃光
大地の薬師如来
われらの 病んだ文明社会を 癒したまえ
多様なる 大地なる花々において
単相なる われらの文明社会を 潤したまえ

Om huru Chandali matangi Svaha     p144

8)この詩を結句とすることもできるだろう。
このような人生を送った人が、山尾三省だった。

<2>につづく

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2011/06/28

島の日々 山尾三省


「島の日々」
山尾三省 1991/07 野草社/新泉社 単行本 293p
Vol.3 No.0336 ★★★☆☆

1)野草社からでていた季刊誌「80年代」に、1981年3月~1990年2月の間、39回にわたって連載された記録の全文が一冊になって1991年7月に出版された。

2)季刊誌「80年代」のバックナンバーは何冊も手元にあるけれど、実際にはあまり熱心な読者ではなかった。なぜこの雑誌を購入していたかと言えば、他に類する本で、それ以上に面白い本は少なかったからだ。

3)本文が書き出されてからこの本が出版されるまで、私は、農業を勉強し、死線をさまよう病も得、アメリカに2回、インドに2回行った。その他にも沢山のことがあった。結婚し、子どもも二人生まれた。だが、本の内容と具体的に交差する次元は少なかった。

4)交差したのはこの本がでた数カ月後の「スピリット・オブ・プレイス」でのことだった。

5)その後も、同じ道の途上にいたという感覚は多くない。

6)しかし、それなのに、なぜにこの人は、わりと身近にいる人、というイメージを持つのであろうか。

7)この本の「まえがき」は「岩木山」から始まる。ちょうど当時青森・弘前似合った野草社を訪ねて三省は岩木山を仰ぎ見た。

8)なぜか、私の最近も岩木山に縁ができ、このところ盛んに通っている。それは生涯続くことになるだろう。

9)その野草社の人たちとも、今年の震災後、被災地を訪れるチャンスがあった。

10)縁は異なもの、味なもの。どこでどうなっているのかなんて、本当のことはわからない。

11)それにしても、このような10年間を書き続けることができた作家も幸せであれば、それを掲載しつづけてくれた雑誌があり、それを一冊にまとめてくれる出版社があったということは、幸せなことであろう。また三省の人徳のなせる技であろう。

12)と思うと同時に、これほどまでに、その内容の如何はともかくとして、プライベート(と一読者として思うところが多い)なことを書き連ねることの、どこに、どんな意味があるだろう、と想いをめぐらす。

13)もちろん、書き手側にとっては意味がないはずはないが、読み手側にしてみれば、わざわざ本を買ってまで読む内容なのだろうか、と思う。ひとつの記録であり、ひとつの資料であってみれば、価値なしとはしないが、他にあまり類書を知らない。

14)ジョン・レノンが射殺されるところから始まり、、三省が65歳になったら一人一寺を作りたいと語り、諏訪瀬島に残った人々の現況が語られ、屋久島に8年も住んで「自然生活」という言葉が生まれ、ゲーリー・スナイダーや「部族」について語られる。いつもの三省の定番メニューと言っていい。

15)ある意味では、恐ろしい本である。たった一冊で「島の日々」の10年が語られるのだから。

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2011/06/27

水が流れている 屋久島のいのちの森から 山尾三省

水が流れている
「水が流れている」 屋久島のいのちの森から
山尾三省/山下大明 野草社/1995/04 NTT出版 単行本 99p
Vol.3 No.0335 ★★★☆☆

1)三省にも、このような小さな本があったのか、と思えるコンパクトできれいな本。初版はNTT出版からでており、2001年に野草社から再版されている。

2)「はじめに」も、「あとがき」もなく、ただ詩が始まり、屋久島に住む写真家・山下大明の美しいカラー写真が展開される。

3)晴天の日の谷川は、流れながら青空を映して、澄んだ瑠璃色をしている。
 瑠璃色というのは、最も深い癒しの色であると私は思う。
薬師如来というほとけは、東方からの浄らかな瑠璃光世界に住しているといわれているが、そうではなくて、澄んだ瑠璃色の水そのものが、薬師如来なのである。同様に、万物流転の実相は、万物回帰であると私は思っている。
p41「同じ河」より抜粋

4)水と原発と瑠璃は、三省の三大遺言にかかわるテーマだった。

5)文明は常に進歩するものであるゆえに、常にまた思考錯誤する危険とともにある。象徴的にいうならば原子力発電所の冷却水として利用された水を、私たちは誰ひとりとして自分の口で飲みたいとは思わないだろう。

 一方文化は、それが古いものであればあるほど私たちに信頼と安心をもたらす。森の岩根からしみ出している真水であれば、私たちの多くはそれをひと口飲んでみたいとこころから感じるであろう。p79「雨神の詩」より抜粋

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2011/06/26

ぼくらの知慧の果てるまで 山尾三省他

Photo
「ぼくらの知慧の果てるまで」
宮内勝典 (著)、 山尾三省 (著) 1995/09 筑摩書房 単行本: 164p
Vol.3 No.0334 ★★★☆☆

1)1995年の9月の段階での宮内が登場するということで、今回この本の存在を知った時には、大いに興味をそそられた。対する三省はどう絡むのか。

2)宮内については、

「日本社会がオウムを生んだ」 高橋英利との対談 1999/3 河出書房 

「善悪の彼岸へ」 2000/9 宮内勝典 集英社

「金色の虎」 2002/11 講談社

「麦わら帽とノートパソコン」 2006/9 講談社

などを散発的にめくってきた。

3)さて、こちらの本においては、どのような修羅場が展開されているのか、と思い気や、完全に気勢をそがれた。こちらはなんと、1992年の段階の対談が一度、新聞に三カ月にわたって掲載、95年になって、「少々の手入れ」がされた後に一冊の本になったものだった。

4)あとがきなどで95年の阪神淡路大震災に触れているのだから、当時胎動していた麻原集団事件などにはどのように言及しているのかな、と野次馬根性でめくってみたが、完全にアテがはずれた。

5)この対談、骨子としては、両者とも、二人のもっているイメージから大きく外れるものではなく、三省をおっかけながらも、「批判的」に三省を見ている当ブログとしては、この本においては、宮内の「突っ込み」がちょっとここちよかったりする。三省54歳、宮内48歳。ともに分別盛りをとうに過ぎた初老の域に到達しようとする年代であった。

6)山尾 僕の目がアメリカに向かなくなったは、60年代、安保の後ですね。自分の生きる道筋としてアメリカという原理を、除いてしまったんです。除いたというより、自然に興味がなくなったんですよ。アメリカという力の論理、そこに視点がいかなくなってしまったんです。
 逆に入ってきたのは、インドという視点なんです。そして、そっちに主眼が行ってしまった。
p105「人類は進化の途上にある」

7)これまで三省関連リストをおっかけてきた中で、三省がアメリカに行ったのは、『聖なる地球のつどいかな』
(1998)に見られる、ゲイリー・スナイダーとの対談の時だけだったのではないだろうか。

8)この対談、どちらからのオファーだったのか、気になるところではあるが、実際は、メディアの企画物であったのだろう。宮内は60年代の前半において、三省とナナオの出会いをつくった人物である、ということだから、三省としても無視はできない。

9)この本、今となってはそれほど注目に値する本ではないが、三省の自費出版である「約束の窓」(1975)から詩が一編転載されているところが貴重である。「約束の窓」は三省関連リストの初期に位置していているが、希少本なので、今回の追っかけでは多分読むことはできないだろう。

10)詩画集『約束の窓』(1975年刊)より 画・高橋正明 詩・山尾三省

家の裏 その2

空晴れ 白雲流れる
木の葉 草の葉 静かに 空気流れる
百合の実 茶の実 山椒の実 心に映る
心は水
はるかに遠いものの声 心に映る
辛くとも この道をゆけ
この道は 許された道
いくたりもの尊い先達が 胸に涙し 心 光に満ちて
歩み去った道である

風の音空に舞い 鳥たちもざわめく
すべてに光 沁みとおり
頭上 静まる
妻よ 心 平安であれ そのために眼には見えず努力すること
続けられよ
何処にでもある 裏側の 四万六千日の願かけ風鈴
奥 という言葉の光
そこに澄んだ神の池がある 水草の緑がある

秋の一日
一日の旅
今 ここらは釣船草の花盛りだ
弱く 淋しげな赤紫の花
その花の名を告げたのは やはり旅の途上にあった
上品な中年の婦人であった
歌われぬものを告げる あの出遭いが
廻りきてみれば 慈悲のしずくとなる
沈み 溶けてゆく心に
姉妹なる小鳥達の声が はなやかである 
  p29

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「カミを詠んだ一茶の俳句」 希望としてのアニミズム 山尾三省<1>

カミを詠んだ一茶の俳句―希望としてのアニミズム
「カミを詠んだ一茶の俳句」 希望としてのアニミズム <1>
山尾 三省 (著) 2000/09 地湧社 単行本: 302p
Vol.3 No.0333

1)まるで、「文学者」山尾三省の、最終講義のような一冊。書きためた文章がまとめられたものではなく、最初から一冊の本ととして企画されていること。書かれた時期が、1997年からはじまり、1999年2月などと本文中に記録があり、「あとがき」が2000年6月であってみれば、すでに病を得て、その1年後の2001年8月には亡くなってしまう三省。まさに最終講義にふさわしいような精力を傾けた、渾身の一冊、と言える。

2)というのも、おなじ2000年9月に出版されたアニミズムという希望―講演録・琉球大学の五日間」(2000/09野草社)という本があり、それは1997年7月に行われた集中講義の記録をまとめたものであることからも類推される。

3)「希望としてのアニミズム」と、「アニミズムという希望」では、ほとんど同じ意味であろうが、こちらはあくまで小林一茶の「俳句論」であるが、大学での講義はどんなものであったのか、興味が湧く。

4)この本においては、「ロングヘアー」としての三省の近辺情報がまき散らされているわけでもなく、「再定住者」としての屋久島の自然が多く語られているわけでない。あえていうなら「文学者」としての三省が自らを、「文学者」としての一茶にシンクロさせようとしているかに見える。

5)この二人に共通することは、本体は「ロングヘアー」であり、「再定住者」たろうとしたが、結局は、その半ばにして、あえて「文学者」たらんとする想い断ちがたく、その精神性において、バルドソドルの中間において漂っている、という観があることである。

6)「月花や四十九年のむだ歩き」 一茶

7)「是がまあつひの栖(すみか)か雪五尺」 一茶

8)「大根引大根で道を教へたり」 一茶

9)「我庵の冬は来りけり痩せ大根」 一茶

10)三省が一茶に共感している部分から、三省をみようとすると、不思議と重なってくる部分が多いことに気づく。

11)「青菰(あおごも)の上に並ぶや盆仏」 一茶

12)「雪とけて村一ぱいの子ども哉」 一茶

13)アニミズムや「カミ」という言葉使いは一般的ではないにせよ、三省という人が「最終講義」として小林一茶を選んだのは、「文学者」として、当然であったような気がする。「狭い道」で語った宮沢賢治でもなく、 「ラマナ・マハリシの教え 私は誰か」のようなインド哲学でもなかった。

<2>につづく

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2011/06/25

「終わりなき山河」  ゲーリー・スナイダー <1>

終わりなき山河
「終わりなき山河」 <1>
ゲーリー スナイダー (著) 山里 勝己 (翻訳), 原 成吉 (翻訳) 2002/01思潮社 単行本: 297p
Vol.3 No.0332 ★★★★★

1)ガンジス川の砂の数ほどもある仏界を
さらに十倍も数えたその向こうに
青色の宝石のごとく汚れなきもの、すなわち
   浄瑠璃世界(ラピスラズリ)がある。
その世界を治める仏陀は癒しの王と呼ばれるお方

   薬師瑠璃光如来    p74「瑠璃色の空」より抜粋

2)「終わりなき山河」は、スナイダーが1956年頃から禅画に啓発されて書き出した連作の詩。タイトルどおり終わらないのかな、と思われたが、1996年に完結編として出版された。「瑠璃色の空」の制作年代は、この本では定かではない。

3)この詩は大乗仏教と北アメリカ先住民の伝統にみられる癒しの教えや伝承のいくつかを探求する。サンスクリット語でBhaishajyaguruと呼ばれる癒しの仏は日本では薬師如来と呼ばれている。 p271「瑠璃色の空」

4)自分が16歳のときにヒッチハイクを始めた時のことを思い出した。それは1970年。三省が60年安保で敗北してから10年後。ゲーリーが日本を後にしてから既に2年が経過していた。
 自転車での旅だったが、登りの長い山道になると、自転車ごとトラックにヒッチハイクした。奥羽山脈を越え、日本海をわたって佐渡にいった。最初の夜、あてもなく、山中の山寺を訪ねた。一人の女性しか住んでおらず、食事を出し、お風呂にまで入れてくれたが、泊まったのは、離れの小さな電気のない御堂だった。

5)たった一本のろうそくを吹き消してみると、そこは、漆喰の闇だった。初めての一人旅に興奮していた自分は、そっと御堂の扉をあけて外にでた。そこにあったのは、満天の星。9月末とは言え、もう秋はそこまできていた。あくまで空は広かった。

6)仁明天皇の時代
あの風変わりな女性歌人、小野小町は
十七歳のとき、巡礼となった父を探しに
旅に出た。旅の途中で病を患い、床に伏せているとき
夢の中で

  瑠璃光薬師如来

を見た。薬師如来は、そなたは磐梯山にある吾妻川の岸辺で
温泉を見つけるであろう、そこで病も癒え、そなたの父に
も出会うであろう、と言われた。
 p78「瑠璃色の空」より抜粋

7)そういえば、あのお寺は、磐梯山の山裾のお寺だった。

8)ターラーの誓い
「男の姿で最終解脱を得たいとのぞむ者
その数多くあり・・・
それゆえ願わくは
   この世が空(くう)となるまで
わたしは女の身体で
人びとの役にたてますように」
  p185「ターラーへの捧げもの」

9)二枚の写真を並べてみる。
Photo_3 Photo_5  

街の中の一本の老樹と、森の中の方丈テント。

10)ターラー(多羅仏母)は、慈悲と知恵の両方を司る女性のブッダ。とりわけチベット、モンゴル、そしてネパールなどの仏教では、最高の崇敬をあつめている菩薩の一人。p279「ターラーへの捧げもの」

11)50年代にスナイダーたちと同じ年代で、東海岸から西海岸に車で旅にでた青年がいた。彼は、チェロキーであったけれども、車を運転するセールスマンであった。旅の途中、事故にあい、長く冥府をさまよったが、ついにその魂は東洋、なかんずく日本へと飛んだ。

12)わたしはいつしかこの詩を経典のように考えるようになった。それはチベット仏教の女菩薩、多羅仏母(ターラー)が語る詩的・哲学的・神話的物語である---この「終わりなき山河」を子供たちに捧げよう。p263「『終わりなき山河』の出来るまで」

<2>につづく

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2011/06/24

三光鳥―暮らすことの讃歌 山尾三省

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「三光鳥」 ―暮らすことの讃歌 
山尾 三省 山尾 三省 (著)1996/11 くだかけ社  単行本 104p
Vol.3 No.0331 ★★★☆☆

1)いつの頃からか、三省は、くだかけ社というところと縁ができたようだ。

2)「くだかけ」誌は、1993年の5月に逝去された在野の宗教哲学者であり教育者であられた和田重正先生と、子息の重良先生が展開して来られた、<暮らすこと>に根を置いた大変貴重で文字通り時代に先がけた教育誌であり、私としては長年この「くだかけ」誌に誌を連載させていただいていることを、深く感謝するとともに誇りに思っています。p103「あとがき」

3)三省関連リストを見ると、この『三光鳥』を初めとして、『新月』(1991)、『親和力』(2000)や 『山の時間海の時間』(2009山尾春美と共著)におさめられた詩が「くだかけ」誌に掲載されたようだ。この詩集におさめられたのは1991/07~1995/11月号のもの。

4)南無 淨瑠璃光
樹木の薬師如来
われらの沈み悲しむ心を 癒したまえ
p053「自分の樹」

5)いつの頃から三省は、南無浄瑠璃薬師如来、と唱えるようになったのだろう。今までのところ私が気がついたのは、この『三光鳥』(1996)の他には、  『屋久島のウパニシャッド』(1995)、 『南の光のなかで』(2002)、『原郷への道』(2003) でこの言葉が登場しているので、やはり1994~5年あたりから、ということになるだろうか。未読ではあるが『瑠璃色の森に棲む鳥について』(2001/立松和平と共著)などもあるので、その辺にヒントがあるかもしれない。

6)この言葉で驚いたのは、ゲーリー・スナイダーの『終わりなき山河』(1996)p74「瑠璃色の空」にも、でてくるからである。もっともスナイダーは英語だから、瑠璃ではなくラピスラズリであり、薬師如来ではなく、サンスクリットでBhaishajyaguruとなる。この二人は申し合わせて90年代中ごろからこの言葉を使うようになったのだろうか。それとも、シンクロニシティが起きたのだろうか。あるいはどちらかがどちらかへ影響を与えたのだろうか。

7)三省5冊目の詩集。43編の詩が収められている。

8)私という自我が消えて、世界とひとつに溶け合った時には、世界は私の外に存在する対象物であることを止めて、より深い私自身であったり、より喜びを秘めた私であったり、より静謐(せいひつ)な私である性質そのものになります。
 私の詩はすべて、誰もが日常生活の中で体験しているそのような時を、逃さないように記録したものといえるでしょう。
p102「あとがき」 

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屋久島のウパニシャッド  山尾三省

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「屋久島のウパニシャッド」
山尾 三省 (著)1995/06 筑摩書房  単行本 229p
Vol.3 No.0331 ★★★★☆

1)ウパニシャッドとは、師の前にある、ということである。

2)屋久島の自然を師とした三省が、自らの心象を「屋久島のウパニシャッド」と表現することは的を得た当然のことであろう。

3)この本は1990年9月から1993年に月刊の小冊子に掲載された文章をまとめたものである。

4)インド哲学を題材にした本であるがゆえに、この本に惹きつけられるものでもあるが、私にとっては、この本をめくるのは、また別の意味もあった。

5)この期間に私は肉体的にもっとも彼の近くにいた時点があるのであり、そのシンポジウムについて、なにか語られていないか、興味があった。

6)しかし、この本ではその明確な痕跡はまだ見つけていない。

7)掲載された雑誌が「天竺南蛮情報」というものであり、シンポジウムとはなじまない内容であったからかもと思いなおしたり、著書の関連リストを見ても、そのレポートを書いてくれていそうな、タイムリーな出版もなさそうで、結局は、あのことに触れずに三省は逝ったのか、という思いもある。(もうすこし丁寧にさがしてみよう)。

8)しかし、テーマもタイミングも参加者たちも、時機を得た集まりであったにも関わらず、それぞれの参加者たちのひとりひとりがそうであったように、私は私の日常があったのであり、あの時点でのお互いの距離を相関的に測り直してみることにより、この時代の中でいきていた自分を、見つめ直すのである。

9)現在56歳の私は、年齢からすればそろそろ林住期を迎えつつある処であるが、若い日々にウパニシャッドを読み、また「マヌの法典」に刺激されたこともあって、ほぼ20年前から家族共々にこの島の森に移り住み、家住期と林住期の入り混じったような生活、家住期でありながら森から受ける素朴な啓示をより大切にし、森住まいをしながらやはり止み難く家族生活の維持をはかる、ということをつづけてきた。p6「はじめに」

10)これは、1994~5年頃の心象と思われるが、この精神状態は最後まで続いた、と言えるだろう。

11)この一年来私の中に薬師如来、浄瑠璃光薬師如来、と呼ばれるひとつの言葉が訪れていて、それはたまさかのものではなく、次第に日常的なものとなってきていたことである。「精なるものについて」

12)同時代を生きようと、あるいは肉体的に近くに存在しようと、出会わないもは出会わない。しかし、瑠璃光薬師如来を語る時、彼は側にいるばかりか、一連なりの分身であるかとさえ感じる。

13)しかし、それは現象の差異がないことを示すものではない。山頂がそれぞれの高さにありながら、離れているかのように、谷が同じ深さでありながら、離れて存在しているように、それぞれの事象の中で、同じ心象を得る、ということはあり得る。

14)私の自己、すなわち私のいのちという原郷であり、意識と無意識を超えた意識としてのアートマンが、そのまま宇宙を形成し宇宙に遍在するブラフマン(真実性)であるとする存在観は、これまでに繰り返し述べられてきたウパニシャッドの中軸をなす存在観であった。p196「立ち尽くす樹」

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森羅万象の中へ―その断片の自覚として 山尾三省

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「森羅万象の中へ」その断片の自覚として
山尾 三省 (著) 2001/07 山と溪谷社 単行本261p 
Vol.3 No.0330 ★★★★☆

1)月刊「アウトドア」誌に1991年1月~2001年3月に掲載された分が一冊にまとまっている。同じ雑誌に掲載されたという意味では、「ここで暮らす楽しみ」(1998)の続編にあたる。

2)出版された直後に三省は62歳で亡くなっているので、実際に手に取った最後の一冊に数えられる本だろう。

3)表紙が「森羅万象」といいつつ、緑一色に染め上げられているのは、病み続けていた三省の肉体が必然的に選び取った色であっただろう。

4)この本には、宮内勝典の名前が何度かでてくる。三省と宮内は対談集「ぼくらの智慧の果てるまで」(1995)を出している。

5)三省の最後は、1995年以降の、もっとも混沌とした時代であったわけで、私などにしてみれば、麻原集団事件とともに、にわかに視野に入ってきた宮内などは、ちょっと視点ばかりか、視力さえ弱くなって、ボケているなぁ、という感想を持っている。

6)もっとも、三省にとっては、一平くんこと宮内は、60年代前半において、サカキナナオとの出会いを作った存在であり、三省側からすれば、宮内は、申し出があれば、対談などは断りきれない位置にあっただろう。

7)「リトル・トリ―」についての高評価なども、どこか浮ついている。

8)三省という人、21世紀へたどりついたものの、あの911の前に亡くなってしまった人なのだった。

9)ぼくがこの本を通して、またこれまでの生涯を通して、必死に読者にお伝えしようとしてきたのは、聖なるもの、カミと呼ばれるもの、あるいはもっと伝統的に神仏と呼ばれてきたものは、個人の自由と合理精神という現代生活の基本条件のもとにおいても、何の差し障りもなしに充分存在し得る、ということである。p257「あとがき」

10)この点については、一読者として、自分の最終意見は保留しておく。事実としては、最後の最後に、彼自身が自らそう言わなければならなかったほどに、一般的には、三省はそう見られてはいなかったのではないか、ということ。

11)ひとつのカウンターパンチ、ひとつの「矛盾」とさえ、三省は見られていたのではないか。あるいは、わたしはそう受け取っている部分がある。

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ここで暮らす楽しみ 山尾三省

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「ここで暮らす楽しみ」
山尾 三省 (著) 1998/12 山と溪谷社 単行本 335p
Vol.3 No.0329 ★★★★☆

1)この本には、月刊「アウトドア」誌1996年7月号~98年6月号に連載された文章がまとめられている。

2)この本のもっとも注目すべき部分は、スナイダーとの再会の部分であろう。1998年の二人の再会の部分は、「シェラネバダにて」というタイトルで前編と後編、二ヶ月に渡って掲載されている。また、のちに二人の対談は、「聖なる地球のつどいかな」(1998年/ 山と溪谷社)として単行本化されている。

3)ゲーリー・スナイダーが、読売新聞社主催の環境問題に関するシンポジウムに呼ばれて来日し、基調講演をしたのが(1996年)8月のことである。近頃はシンポジウムばやりで、いささかアレルギー感がないでもないが、古い友人であり先輩でもある人の発言なので、この頃はどういうことを考えているのか、と新聞に載った講演の要旨に目を通してみると、バイオリージョナル・生命地域主義、というあまりに耳慣れない言葉をテーマにして、話を進めていた。

 ゲーリーによれば、バイオリージョナルとは、ぼく達がこれまでのように自然をモノと見なして摂取することを止め、ぼく達人間が自然の一部であることを認識してその場所(地域)に住み直すこと、を意味しているようで、特に、その場所(地域)に新しい意識を持って住み直すことに重点を置いて話を進めていた。p89「山ん中の湧水」

4)そんな訳で久しぶりに三省は、キットキットディジーのスナイダーに1997年春、会いに行くことになった。バイオリージョナルは生命地域主義、と訳している。

5)ゲーリー・スナイダーについては、以前に少々触れたが、1974年に出版された「亀の島」という詩集で翌年ピュリッツァー賞を受け、昨(1996)年出版された「終わりなき山河」と題する詩集でさらにボリンゲン賞を受けた。
 その他にも数多くの詩集やエッセイ集を出しており、アメリカインディアンの文化とエコロジーと、文化人類学と東洋思想(特に禅)に基づいた彼の著作は、現代アメリカ社会に大きく深い影響を与えるとともに、その社会に根底からの変革を促す原動力ともなってきている。
p174「シェラネバダにて(前編)」

6)「ここで暮らす楽しみ」というタイトルは、どことなくヘルマン・ヘッセの「庭仕事の愉しみ」を思い出させる。

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原郷への道 山尾三省

原郷への道
「原郷への道」 
山尾 三省 (著) 2003/09 野草社 単行本 253p
Vol.3 No.0328 ★★★★☆

1)ビートルズにも、いわゆるホワイトアルバムというものがあったが、この本は、まるで三省のホワイトアルバムであるかのように、装丁が真っ白で、文字だけがくっきり印刷されている。

2)この本には、九州なかんずく鹿児島の小さなメディアに連載した文章に加え、屋久島の季刊誌に寄せた文章もまとめられている。

3)出版されたのは2003年であり、三省没後2年が経過している。晩年の三省、というには、あまりにも若々しかった三省だから、まだまだ寂滅した雰囲気はないが、それでも、ロングヘアー時代のような、事象を時間順に追いかける必要は感じない文章が続く。

4)この本においては、事象というより、より心象に近いものが綴られており、三省の文の、さらにその向こうに立っている三省の「原郷」へとの連なりを感じる。

5)「自己への旅」というタイトルに似て、「原郷への道」もまた、矛盾をはらんだ表現だが、ホワイトカバーと相まって、より三省のエッセンスを思わせる。

6)この本においては、コンピューター、コンピューターと、やたらとこの言葉がでてくるが、書かれた年代がインターネット革命が起きた1995年以降の文章が多く集められていることを考えると、当然のことと言える。

7)コンピューターを否定はしない(できない)ものの、もろ手を挙げて歓迎しているわけではないことが、よくわかる。

8)もちろん、それと対峙してバランスを取るべきものは何なのか、各人は知っているつもりではいるのだが、いつの間にか、時流に流されてしまう、というのは本当のことだ。

9)南無瑠璃光 樹木の薬師如来
われらの沈み悲しむ心を 祝わしたまえ
その立ち尽くす 青の光に
われらもまた静かに
深く立ち尽くすことを 学ばせたまえ

南無瑠璃光 風の薬師如来
われらの閉じた呼吸を
解き放ちたまえ
その深い 青の道すじに
解き放ちたまえ 
   p91「樹木と風」

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2011/06/23

ザ・ダルマ・バムズ (禅ヒッピー、改題)

【送料無料】ザ・ダルマ・バムズ
「ザ・ダルマ・バムズ」  (禅ヒッピー、改題)
ジャック・ケルアック/中井義幸 2007/09 講談社 文庫 497p
Vol.3 No.0327 ★★★★★

1)主人公のひとり、ジェフィ・ライダーは、ゲーリー・スナイダーがモデル、ということになっている。小説だから、当時の状況をどこまで反映しているか定かではない。

2)しかし、ストーリーの流れや、状況描写から考えると、後のスナイダーや、今日のスナイダーへは、直線的に結びついてくるので、当ブログ、スナイダー関連リストの中では、やはり、欠かせない重要な一冊ということになる。

3)原文は1958年に出版されている。邦訳は1975年に「禅ヒッピー」として小原広忠・訳がでて、1982年に「ジェフィ・ライダー物語--青春のビートニク」として、中井義幸・訳がでた。その後2007年に改訂され「ザ・ダルマ・バムズ」となった。

4)思えばかなり古びた小説ではあるが、これだけ長きにわたって読まれ続け、ケルアック人気が下がらないということは、すごいことだな、と思う。

5)一過性の風俗として見られてしまったロング・ヘアーたちの、もともとの明るい問題意識は、21世紀の今日においても、的確に受け継がれているということになろう。

6)本文には、スナイダー(ジェフィ・ライダー)の生い立ちや両親や妹、叔母などの描写があり、興味深い。

7)「ヤブユム」など、かなり仏教に対する理解がアメリカ的で、混交していると思われるが、むしろ、この小説が書かれた50年後の今日の世界的な仏教の広がりを考える時、かならずしも、皮相なとらえ方、とばかりも言えないようだ。

8)「こいつは神聖な儀式なんだぞ。チベットの寺でやるんだ。居並ぶ坊さん達が経を唱えている目の前で、今おれがやっているような工合にな。すると善男善女が一斉に、
『オム・マニ・パドメ・フム』
と念仏を唱える。こいつは『空なる暗闇の中にひらめく有難き稲妻』という意味だ。
p56

9)翻訳の仕方で、酔っ払い小説なのか、ジャンキー小説なのかわからない部分があるが、風俗的な面もあり、精神性の面もあり、そのミックスの度合いが、ケルアックが今だに人気を誇っている理由なのだろう。

10)330pあたりでは、三帰依文がでてくるが、最初、ブッダム、ダンマム、サンガムの順なのに、次はブッダム、サンガム、ダンマム、となる。以前からこの順番が気になっている当ブログだが、おおらかなとらえ方として、これはこれでありなのだろう。

11)「ああ、いずれにせよ、東と西は出会うわけだよ。なあ、東と西が遂に合体する時、どんな世界大革命が起こるか考えてもみろよ。その仕事を、おれたちは今ここで始めるのだ。世界中の何百万人とも知れない人間が、リュックサックを背負って、山奥を歩きまわり始め、ヒッチハイクをしながら、御言葉を万人にもたらしていく様を想像してみろよ」p396

12)私は16歳の時、ヒッチハイクを始めたが、それはこの小説が出て12年後のことだった。

13)ゲーリー・スナイダーと、山尾三省の比較、という流れのなかで、この小説をめくってみた。

     オム・ニ・パドメ・フム

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桃の道―月満ちてぽとりと地に落つ子どもらへ伝えたきこと 山尾三省

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「桃の道」―月満ちてぽとりと地に落つ子どもらへ伝えたきこと
山尾 三省 (著) 1991/10 六興出版  単行本: 189p
Vol.3 No.0326 ★★★★☆

1)1985年から1990年にかけて、雑誌などに投稿された三省の文章がまとめられている。ロングヘアーでもなく、再定住者でもなく、まさに、家住期としての三省の、ごく当たり前の、親としての葛藤が、多く綴られている。

2)子供のひとり、山尾ラーマが、小学低学年時に、まちがって自分の名前を「おやま あらま」と書いた、というあたりは笑える。おやまぁ、あらまぁ・・・・。

3)三省の子供達は、中学、高校と、そして時には大学の中の、野球部で活躍する。高校野球部で活躍して、地区大会などで活躍した時の三省の喜びようは、手にとるようにわかる。

4)このような風景を、ホームビデオではなく、父親の「詩」として残してもらっているのは、それはそれで、輝かしい限りだ。

5)家住期の父親としての、三省の「煩悩」が、しっかりと記されている。

6)私も、高校PTA会長として、野球部とともに甲子園に行ったことがある。だから、この本の中に、三省の「煩悩」が書いてあった時、三省と横一線に並んだ、感じがした。

7)でも、私の子供はテニス部だったので、野球部の影でコツコツ練習していた。それを父である私は見ていたし、子もまた、あれこれ用事をつくって学校に通ってくる父を見ていた。

8)私自身の父は、私が小学3年生になる前の春休みに亡くなった。6年もの長患いの中、自宅に戻らず、子どもたちに、十分なおもちゃさえ与えることなく、逝った。

9)父が逝った年、県内から県立高校の野球部が甲子園にいった。それから40年間、県立高校は甲子園に行ったことがなかった。

10)40年経過して、父が亡くなった病院の谷向かいにある、子供が通う県立高校が、県大会を勝ち抜き、夏の甲子園に行くことになった。実に40年ぶりの快挙である、と全県下からほめられた。

11)あれは、私の父が、父として、私にくれたプレゼントではなかったか、と思う。もちろん、すべては野球部の活躍が基本である。しかし、その場に出会わせてくれたのは、父の力があったはずだ、と、私なら思う。

12)私と子が、ひとつのグランドで動いている姿を、谷向かいの病院の窓から見て、私の父も満足であったに違いない、と、亡くなった時の父より年齢が上になった私は思った。

13)野球部で活躍する子供たちに一喜一憂する姿を読んで、三省と横一線に並んだような気分ではあったが、しかし、私が甲子園球場に子供達と挑んだのは、三省が亡くなった翌年だった。

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「アイ・アム・ヒッピー」 日本のヒッピー・ムーヴメント’60-’90 山田 塊也<1>

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「アイ・アム・ヒッピー」 日本のヒッピー・ムーヴメント’60-’90 <1>
山田 塊也 (著) 1990/05 第三書館 単行本: 324p
Vol.3 No.0325 ★★★★☆

1)三省追っかけの中で、その関連リストを1990年ころまで順次めくってみるが、山田塊也(ポン)に関する記述はほとんどない。

2)三省、ナナオ、そしてポンがあってこその「部族」だと思うのだが、三省があまりポンに触れなかったのは、何か理由があったのだろうか。当ブログのパラパラ早めくりでは、その記述を発見できなかった。

3)遅れてきた世代の私等から見れば、「部族宣言」や「部族の詩」の三省の文章、ナナオという生きた「サンプル」、そして、ポンのあの「ぶっ飛んだ」イラストがあったればこその「部族」だと思うのだが、それがない。

4)そういうスキマを狙ったのかどうかは定かではないが、1990年にポンが出したこの本は、三省追っかけをして行く中では、特に「ロングヘアー」時代の「部族」を追っかけるには、絶対欠かせない一冊であると思う。

5)ポンの「世界」はそれなりなので、こちらもまた、ナナオや三省からの相対化の中で見詰められるべきなのだが、今は、なにはともあれ、この一冊があることを記しておけば、足りるだろう。

6)ポンには他に「トワイライト・フリークス」(2001)など数冊の著書がある。 ポンは2010年4月26日に亡くなった。合掌

<2>へつづく

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回帰する月々の記―続・縄文杉の木蔭にて

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「回帰する月々の記」 ―続・縄文杉の木蔭にて 
山尾 三省 (著) 1990/07 新宿書房 ハードカバー 251p
Vol.3 No.0324 ★★★★☆

1)1985年から89年の10月までの月々の記が一冊の本としてまとめられている。この間、三省は87年に先妻(順子さん)を病気で亡くした。気力が薄れ、月6枚のペースで書き進めれた連載エッセイということだから、読むほうもそのペースで読まなくてはならないかもしれない。

2)しかしながら、家族を失った悲しみは分かるとしても、その悲しみに暮れているのは、何も三省ばかりではない。人の数だけ悲しみもある。

3)私も76~77年にかけて、周囲の者7人を黄泉の国に送った。ほとんどは年寄り達だったが、50代の義父や、禅や仏教について教えてくれた母方の祖父なども含まれていたので、私自身の脱力も半端じゃなかった。

4)もし、あの77年に、すべてを棄てて、またインドに行こうと思ったのは、そういう背景があったからだ。形としてはOshoのもとでカウンセラー・トレーニングを受けるというものだったが、4カ月間の家族4人でのインド滞在は、私にとっても、おおきな人生の節目だった。

5)この本には、スナイダーの長男・開が、成人して沖縄大学に留学していることが書かれている。

6)そして、新しい女性(春美さん)と出会い、再婚したこと、も記されている。

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自己への旅―地のものとして 山尾三省

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「自己への旅」―地のものとして
山尾 三省 (著) 1988/07 聖文社 単行本: 350p
Vol.3 No.0323 ★★★★☆

1)この本、装丁が、処女集「聖老人」と同じ箱入りとなっている。二冊とも、中山銀士が装丁を担当しており、布張りの表紙といい、どこか素朴な味わいの中にも、大事な、貴重な一冊、という思いがひっそりと込められている。

2)「自己への旅」。このタイトルはどこから生まれたのだろうか。三省にとってはともかくとして、私にとって、この本の内容は「自己への旅」で、ズバリだと思う。

3)この本には、北日本のことどもや、私の住む地方都市のこと、そして友人知人のことが書いてある。アソベ族、ツボケ族、津軽、岩木山、アラハバキなど、気になることがいっぱい書かれている。しかし、それは「旅」の途上である。旅は終わってはいない。

4)「地のものとして」。三省らしいフレーズである。

5)序に真木悠介が一文を寄せている。そこに三省の前妻順子さんが亡くなったことが記されている。

6)Oshoに触れるくだりもある。

7)この本も長いこと、手持ちにある本であり、生涯私の手元にあり続けるだろう。また、何時か繰り返し読むことになるだろう。

8)しかるに考える。自己への旅とは、これいかん。旅するものもまた自己であり、目的地も自己であるなら、そもそも旅などは存在しないのではないか。

9)自己が自己へと旅するとしたら、そこには距離があるはずであり、それでは自己とは呼べないのではないか。ふたつの自己が存在するすることになり、分裂したり複製されたものは自己とは呼べないからだ。

10)自己がひとつであり、またひとつという感覚さえ存在しないとすれば、そこには「旅」は成立しないことになのではないか。

11)自己があまりにも広大だとして、その中のA地点からB地点への旅だとしても、それでは、旅する自分と、旅をされている自分と、二つあることになる。

12)「自己への旅」とは、「詩人」山尾三省の「詩」であって、「美学」であったとしても、そこになにかのイメージを重ねていくべきではないだろう。

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びろう葉帽子の下で 山尾三省詩集

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「びろう葉帽子の下で」山尾三省詩集
山尾三省 1987/12 野草社/新泉社 単行本 362p
Vol.3 No.0322 ★★★☆☆

1)「詩人」山尾三省の「詩集」。

2)屋久島に「再定住」してからの10年間に書きためた詩の5分の1が収められているという。

3)私はこれまで ただ一緒にすんできたというだけで おまえに何ひとつしてやれなかった
黒皮ジャンパーも買ってやれなかったし
通学用の新しいバイクも買ってやれなかった
奨学金をもらった上で学費免除の手続きをさせ まるでただで高校をだした
その痛みがないわけではない 
p136「食パンの歌---太郎に---」より抜粋

4)この人は、なぜにこれほどまでに貧しかったのだろうか。

5)もうひとつの夢は、むろんこの地で百姓をすることであった。経済原理の支配するこの時代にあって、敢えて最下層の貧農を志すと同時に、自然の道理と共に呼吸する生活する新しい喜びの世界を、自分のものとして行きたいと願った。p348「あとがき」

6)この人は、「敢えて最下層の貧農を志」したのである。

7)私はなにも、ロールスロイスを93台持っていた存在の弟子であるから言うわけでもないが、息子に通学用バイクが買えないような生活を送りたいとは思わない。せめて自分はせいぜい、ベイシック・ハイブリットカー程度には乗りたいと思う。

8)私は、どのような理想があろうとも、、「敢えて最下層の貧農を志」したりはしない。「最下層の貧農」とは、なるべくしてなるものではなく、やっぱり三省は「敢えて」そうなったのだろう。

9)であるがゆえに、私は三省の「美学」には、一定程度の距離をおいて見つめているしかない。

10)三省たちが屋久島に移った1977年、私はインドへ一年間の旅をした。三省がこの詩集を出した1987年、私たち一家は、1歳と3歳の子供をつれて、インドで4ヵ月滞在した。三省たちが73年に家族5人でインドへ旅立った、ということが頭にあったから、自分たちの家族もできたのだと思う。

11)この本は「あとがき」で一旦閉じられたあと、7ページ程の追記がある。当時のつれあいである順子さんが突然亡くなったのだった。

12)「わたしの ただひとりの妻 順子」p338と、詩は語りかける。妻を亡くした直後であれば、近い将来再婚するばかりか、あらたに3人の子をもうけることなど、想像できなかったにせよ、「詩人」の「美学」には、十分気をつけていなくてはならない。

13)詩の中には、相手があって捧げられたものもあり、スワミ・アーナンド・ヴィラーゴへ、とか、キコリとサチコさんへ、などと知人の名前を見つけたりする。


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2011/06/22

2011年上半期に当ブログが読んだ新刊本ベスト10

2010年下半期よりつづく

2011年上半期に当ブログが読んだ
新刊本ベスト10 

(それぞれの本のタイトルをクリックすると、当ブログが書いたそれぞれの本の感想に飛びます)

第1位
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「緊急復刊アサヒグラフ」 東北関東大震災 2011年 3/30号
朝日新聞出版 2011/3 雑誌 p82

 

第2位
方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) (文庫) / 鴨長明
「方丈記」
 現代語訳付き
鴨 長明 (著), 簗瀬 一雄 (翻訳) 2010/11角川学芸出版 文庫: 243p

 

第3位
【送料無料選択可!】宇宙飛行士が撮った母なる地球 (単行本・ムック) / 野口聡一/メッセージ 宇宙航空研究開発機構
宇宙飛行士が撮った「母なる地球」 
野口 聡一 (著), 宇宙航空研究開発機構(JAXA) 2010/12 中央公論新社 単行本: 120p

 

第4位
【送料無料】人の子イエス
「人の子イエス」
カリール・ジブラーン (著), 小森 健太朗 (翻訳) 2011/5 みすず書房 単行本 320p

 

第5位
ツァラトゥストラ 上 (光文社古典新訳文庫) (文庫) / ニーチェ/著 丘沢静也/訳
「ツァラトゥストラ」
 
フリードリヒ・ニーチェ (著), Friedrich Nietzsche (原著), 丘沢 静也 (翻訳) 2010/11 光文社古典新訳文庫: 325p

 

第6位
ムー・レムリアの超秘密 (5次元文庫) (文庫) / ジョージ・ハント・ウィリアムソン

アンデスに封印された「ムー・レムリアの超秘密」 
ジョージ・ハント・ウィリアムソン 2010/12 徳間書店 文庫 p251

 

第7位
【送料無料】ワンダフル・プラネット!

「ワンダフル・プラネット!」
 
野口聡一 2010/11 集英社インターナショナル/集英社 単行本 95p

 

第8位
【送料無料】未来型サバイバル音楽論

「未来型サバイバル音楽論」
USTREAM、twitterは何を変えたのか
津田大介/牧村憲一 2010/11 中央公論新社 新書 253p

 

第9位
【送料無料】EVライフを愉しむ

「EV(電気自動車)ライフを愉しむ」
 
日本経済新聞出版社 2011/01 単行本 150p

 

第10位
【送料無料】宇宙家族ヤマザキ

「宇宙家族ヤマザキ」
 妻から届いた宇宙からのラブレター
山崎大地 2010/12 祥伝社 単行本 280p

 

次点

【送料無料】現代宗教意識論
「現代宗教意識論」

大澤 真幸 (著) 2010/11 弘文堂 単行本: 328p

2011年下半期へつづく

 

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南の光のなかで 山尾 三省

南の光のなかで
「南の光のなかで」
山尾 三省 (著) 2002/04 野草社  単行本 259p
Vol.3 No.0321 ★★★★★

1)この本、2002年の4月に出版されているが、2001年8月に亡くなった三省の遺書集とも言えるもので、著者自身が本の内容に関わった最後の本となるのではないだろうか。

2)「あとがきに代えて」は、妻である山尾春美さんが書いており、三省最期の日々が、短い文章の中にも、しっかりと記されている。

3)この本も野草社からでており、「ロングヘアー」時代の三省をまとめた「聖老人」の初版こそ関わらなかったが、その後、一貫して、山尾三省---石垣雅設というタッグが、後半生の「再定住者」としての三省を支えたのだった、と再認識した。

4)第一の遺言は、神田川の水を飲める水に再生してほしい、ということである。第二の遺言は、脱原発、代替エネルギーを開発してほしい、ということだ。そして、第三の遺言は、戦争をするな、「南無瑠璃光・われら人の内なる薬師如来」ということである(意訳)。

5)私個人は、この第三の遺言に痛く共鳴する。

6)私には、現在の住処から数百メートル、母の生家に縁のある樹齢1300年のカヤの木が思いだされる。その巨大な老樹は、ちいさな祠を持っており、その中から、瑠璃光薬師如来がでてきたという云われから、お薬師さんと呼ばれている。

7)私にはこの巨大なカヤの木が、屋久杉には樹齢では及ばないにせよ、古代からの生命を保っている存在としては、まったく同じものに見える。ましてや、三省が「南無瑠璃光・われら人の内なる薬師如来」と言った、その言葉の意味をそのまま受け継ぎたいと思う。

8)もともと数十年前からうすうすとは気がついていたが、この木は何か、どこかでつながっている。この本で、最期の最期に、三省がこの言葉を遺したことが、私にとっては、金科玉条のように感じられる。

9)そもそも、三省のように信仰深くない私は、樹齢1300年のカヤの木にあっても、いつもぶつぶつとなかなか素直な気持ちにはなれない男なのだが、これからは、すくなくとも、このカヤの木の前に行ったら、かならず三省を思い出すだろう。

10)そして、「南無瑠璃光・われら人の内なる薬師如来」と、静かに唱えてみようと思う。三省ありがとう。

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深いことばの山河 宮沢賢治からインド哲学まで 山尾三省

【送料無料】深いことばの山河
「深いことばの山河」 宮沢賢治からインド哲学まで
山尾三省 1996/06 日本教文社  単行本 231p
Vol.3 No.0320★★★★☆

1)ネットやメディアは、大震災や原発事故についての報道で満載だ。その震源地により近い場所に住んでいる我が身にしてみれば、むしろ、そのようなニュースに耳をそばだてて、一喜一憂すべき時なのかもしれない。

2)この時期に三省を読みなおすとはどういうことなのであろうか。以前より計画としてはあったものの、なかなかそのチャンスがなかった。この機会をなくすと、もう後がない、ということでもないのだろうが、こういう時期だからこそ、三省をめいいっぱい読んでおく、ということで、大震災や原発事故とバランスを取っている自分がいる。

3)かと言って、走り読みしたところで、三省の奥深いひとつひとつの言葉を全部理解できるはずもなく、今はただ、全体像の中の、ひとつひとつのパーツを埋めるように、山尾三省という人の人生を俯瞰しながら、みようとしている。

4)そして思うことは、身辺のあれこれを常に自らの文章に書き連ねた三省において、一冊一冊が、新しい事どもが書きしるされてはいるが、外況に反応や感応している三省はいるものの、三省そのものは、ロングヘアーの時代から再定住者となった後期まで、ある意味、一貫した視点と人生観を持っていた人であり、そのような人生を生きた人だったな、ということだ。

5)そういう意味からすると、数十冊ある三省関連リストのどの本を読んだとしても、一応、三省を読んだ、ということになり、縁ある数冊を読めば、それなりに、人物と作品のテーマが浮きあがってくるようでもある。

6)この本は、96年6月に発行されており、月刊誌などに別々に掲載された文章をこの時点でまとめて、一冊の本として書きなおしたものであり、時代背景から、麻原集団事件などについて触れている部分もあり、興味深い部分も多い。

7)宮沢賢治やウパニシャッド、日本の祖師方についてのコメント群も、いつもの三省が、誠実に、彼なりに自らの思想を投影していると言える。道元についてのコメントなども格別にうれしい。

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方丈記 鴨長明 現代語訳付き<1>

方丈記 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
「方丈記」 現代語訳付き<1>
鴨 長明 (著), 簗瀬 一雄 (翻訳) 2010/11角川学芸出版 文庫: 243p
Vol.3 No.0319

1)ものすごい大地震があって、ひどくゆれた。そのゆれ方といったら、なみなみのものではない。山はくずれて、川をうずめてしまい、海は傾斜して、海水が陸地をひたした。土が裂けて、水がわき出し、巌石が割れて、谷にころげ込む。海辺を漕ぐ船は波に翻弄され、道を行く馬は立つ足もとが定まらない。p99

2)こんなにものすごく震動することは、しばらくで止まったけれども、その余震はしばらくはやまない。これが大地震のあとでなく、ふだんならびっくりするくらいの地震が、1日に2~30回ゆれない日はない。10日、20日と日がたつと、だんだん間隔が遠くなって、あるいは1日に4、5回、2、3回、また1日おき、2、3日に1回などいうふうになったが、おおよそ、その余震は3ヵ月ほどもあったろうか。p101

3)今度の大地震を経験した人は、みなこの世がつまらないものだということを話しあって、少しは煩悩もうすらぐように見えたけれど、それから月日がたち、年が過ぎたあととなると、大地震のこと、それによって世のはかなさを嘆きあったことなどを、口に出していう人さえいあしない。p101

4)こんな愚痴をとやかく述べている内に、年齢は毎年毎年かさみ、住む家は移るたびごとに狭くなっている。私が前に比べて100分の1というその家の様子は、普通の家とはまるで似ていない。

 家の広さはやっと3メートル平方だし、高さは2メートルそこそこである。私は終生ここでに住もうなどと、場所を決めていないのだから、宅地を選び定めて、そこに家を建てるなんていう普通のやり方をしない。

 土台を組み、簡単な屋根を造り、木と木とのつなぎ目ごとに、つなぎ留の金具をかけてある。こうした考案は、もしこの土地が気に入らないことがあれば、容易に他の場所へ家を移動させるためである。その家を造りかえることに、どれほどのやっかいがあろうか。車に積むと、わずかに2台分であり、車の借り代を支払う以外には、まったく他の費用はかからないのだ。p105

5)方丈のいおりの東側に1メートルたらずのひさしをさし出して、柴を折って、もやす所とする。南に竹のすのこ板を敷き、その西に閼伽棚(あかだな)を造り、北側に衝立て障子をへだてとして、阿弥陀如来の絵像を置き、そのそばに普賢菩薩の絵像をかけ、前に法花経を置いてある。

 いおりの東側のはしに、わらびの穂のほうけたのを敷いて、寝床とする。西南のかどに、竹のつり棚をこしらえて、黒い皮張りの箱三つを置いてある。これは和歌・音楽の書物、往生要集というようなものの抜き書きを入れてある。

 そのそばに、琴と琵琶をそれぞれ一面づつ立ててある。おり琴・つぎ琵琶というものがこれである。仮住まいのいおりのありさまは、このようなものである。p106

6)いおりのある場所の様子を述べてみると、南にかけひがある。岩を組み立てて、水がたまるようにしてある。林が家の近くにあるので、たき木する小枝を拾うのにも不自由をしない。この所の名を外山というのである。

 つるまさきが道をおおいかくしている。谷は木が茂っているけれど、西の方は開けている。だから西方極楽浄土を観法によって念ずる便宜がないわけではない。p106

7)いったい、人間の友人関係にあるものは、財産のある人を大切にし、表面的に愛想のよいものとまず親しくなるのだ。必ずしも、友情のあるものとか、すなおな性格なものとかを愛するわけではない。そんなことなら、人間の友人なんかつくらずに、ただ、音楽や季節の風物を友とした方がましだろう。p111

8)さて考えてみると、私の生涯も月日が傾くように終わりに近く、余命も少なくなった。もうすぐに、三悪道におちようとしているのだ。自分が一生の間になした行為を、今さらなんでとやかく言おうとするのか。仏のお教えくださる大切な点は、なにごとについても、執着を持つなということである。

 ----私が今、この草庵を愛する気持ちも、罪科となろうというものだ。静かな生活に執着するのも。往生の障害になろうであろう。どうして、これ以上、役にもたたない楽しみを述べて、もったいなくも最後に残ったわずかな時間をむだにしようか。いやいや、そうしてはいられないのだ。p114

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<2>につづく

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ディープエコノミー 生命を育む経済へ ビル・マッキベン

「ディープエコノミー」 生命を育む経済へ [DIPシリーズ]
「ディープエコノミー」  生命を育む経済へ
ビル・マッキベン (著) 大槻敦子 (翻訳) 2008/4英治出版 ハードカバー336p
Vol.3 No.0318 ★★★★☆

 

1) ビル・マッキベン関連リスト

「自然の終焉」―環境破壊の現在と近未来 1990/01 河出書房新社

「情報喪失の時代」 1994/01 河出書房新社

「人間の終焉」 2005/8 河出書房新社

「ディープエコノミー」  生命を育む経済へ 2008/4 英治出版

 

 

2)ソロー繋がりで、上岡克己「森の生活―簡素な生活・高き想い」の中に「自然の終焉」があったことをきっかけにして、マッキベンをめくることになった。

3)最初、総論賛成、各論、よくわからず、というか、ひとつひとつの言わんとするところを読みこんだとしても、一人の人間として「自分の手のひら」でやれることは少ないだろう、という印象を持った。これからの人、これから社会を左右することのできる立場に立てる人、立つべき人は、マッキベンから得るものは大きい・・・、だが、そういう本ではない。

4)1989年におけるレイチェル・カーソンの「沈黙の春」たらん、としたマッキベン。山上の僻地に夫婦で住み、子どもをつくらず、現代への警鐘を鳴らし続けるその姿勢は変わらない。

5)山尾三省は屋久島に住んで、二人の奥さんの間に6人の子供をもうけ、更に友人の三人の子供たち、合計9人の子供を育てたが、マッキベン夫妻は、子供は大好きだが、あえて地球の未来を考えて子供をつくらなかった。

6)ディープエコノミーとは、ディープエコロジーに影響を受けた言葉づかいであることはすぐ分かる。パロディっぽいのかなと思ったが、決してそんなことはなく、「深く」エコノミーに降りる。

7)私はアメリカで最大のコ・ハウジング・コミュニティを訪問したときのことを覚えている。ニューヨーク州イサカにあるエコビレッジで、1996年に開設した直後に訪れた。名前が示すように居住者は優れた環境保護運動家たちで、地球に与える影響をそれまでよりも小さくしようとしていた。密集した小さな家々に超断熱材を施し、南向きにすることで日光を最大限に取り入れた。
 食堂での食べ残しはすべて堆肥になり、そのコミュニティのCSA農園で用いられた。農園は、すべての住居を一カ所に集中させることで余った土地を利用したものである。居住者は陳情に成功して入口にバスの停留所を得た。臨時のときには車を共用した。その結果、アメリカ北東部の他の人々よりも四割すくないガスと電気だけで生活できた。
p213「地域に芽生える力」

8)エコビレッジもまた、当ブログにおける当面の追っかけのテーマではあるが、一般的には、その情報は決して多くない。また、広く、よく理解されているものでもない。今後に期待。

9)当ブログにおける「森の生活」カテゴリー、情緒的には、三省の屋久島ライフスタイルを遠く眺めつつ、都市もまた「森」化していく必要があるのだとするならば、地方の中核都市の周辺に住む自分もまた、自らの周囲の環境をチェックし、さらなる「森」化することに留意すべきであろう。 

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屋久島の森のメッセージ ― ゆっくりと人生を愉しむ7つの鍵 山尾三省

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「屋久島の森のメッセージ」―ゆっくりと人生を愉しむ7つの鍵
山尾 三省 (著) テラウチ マサト(撮影) 2000/05 大和出版 単行本 190p
Vol.3 No.0317 ★★★★☆

1)出版されたのは2000年5月。1938年生まれの三省、還暦も過ぎて、一般社会に向けた最後のメッセージの色合いがある。翌年2001年8月にガンで亡くなる。

2)7つのキーワードとは、土、水、火、空気の四大、そして、森、時間、心の三つ。更に、「生活誌」として、屋久島の四季、春、夏、秋、冬、の折々のシーンが描かれている。

3)三省の人生を、スナイダー流に二期に分けて表現しようとすると、「ロング・ヘアー」としての三省、と、「再定住者」としての三省がいるだろう。この本においては、「再定住者」としての三省がほとんどであり、濾過された、すっきりした三省がいる。

4)20世紀文明は石炭と石油の火によって支えられてきましたが、第三の火としてその後半から原子力の火が登場してきました。
 この巨大なエネルギーを放出する火は、核兵器として利用されることに象徴されるように、暴発すれば一瞬の内に何十万、何百人という人間と全生物を焼き尽くします。原子力発電にそのエネルギーを管理することはできないという点でぼく達に大きな不安をもたらすと同時に、プルトニウムその他の新たな猛毒の放射性物質を絶えず排出しつづけるという宿命を持っています。
p48「四つのおおいなるものへの尊敬」

5)当ブログが、ここに及んで三省の再読モードに入ってしまったのは、当ブログのテーマが「森の生活」となったからだった。「再定住者」としての三省の「森の生活」を確認したかったのだろう。

6)情報のグローバル化とネットワーク化が進めば進むほど、東京も含めて、これからは日本中のすべての地域がそれぞれに日本の中心になり、世界中のすべての地域がそれぞれに世界の中心となっていくのですから、自然は田舎に、文明は都市にというあまりにも単純な区分法(ゾーンニング)からは、ぼく達はそろそろ脱却しなくてはなりません。p160「三っつの大いなるものへの尊敬」

7)「再定住者」として屋久島の森で後半生を送った三省にしてみれば、であるならば都市に留まり、都市を森化することを目的とする人生もあったのではないか、とも思う。だが、前半生の「ロング・ヘアー」の三省の時間があってみれば、屋久島もまたよいバランスであったのだろう。

8)屋久島にいても、そこに「隠遁」しているわけではなく、そこにいながら、視線は都市にも向いていて、屋久島にいるからこそ発信することができるメッセージを、三省は送りつづけた。

9)一生をかけて果たすはずだった願いの数々は、もう間に合わない年齢までに、いつのまにか至ってしまいました。若い日の一日一日をおろそかにしたせいで、このようなぶざまな事態になってしまったと悔恨するのです。
 そうであるにもかかわらず、また新たなる夢を先に見て、死ぬまでには何とかなるだろうと、また今日も一日をおろそかにしている自分が、ここにいます。
p183「三つの大いなるものへの尊敬」

10)腰の低い三省、それでも鋭い指摘をし続けた三省。屋久島の森からの、最後のメッセージ。「ゆっくりと人生を愉しむ7つの鍵」。コンパクトに収められた一冊に込められた意味は深い。

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2011/06/21

縄文杉の木蔭にて―屋久島通信 山尾 三省

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「縄文杉の木蔭にて」―屋久島通信
山尾 三省 (著) 1985/07  新宿書房 () ASIN: B000J6QC34 発売日: 1985/07
Vol.3 No.0316 ★★★☆☆

1)78年6月から85年4月にかけての文章がまとめられている。内容はタイトル通りというべきだろう。イラストとして、三省のつれあい順子さんの白黒のペン画が添えられている。

2)「台風の朝」p94とタイトルされたイラストは、線がみずみずしく、必ずしも台風でおれた草木を想わないが、よく見ると、それは台風で折れてしまったトウモロコシの姿だ。あちこちに向いてしまったトウモロコシ、まだ毛は青く、大きくはなったかもしれないが、食べるまで至っていなかったトウモロコシだったのではないだろうか。

3)あと一週間、せめてあと3日くらい待ってくれたら、このトウモロコシも食べられたかもしれない。あるいは、ひょっとすると、このまま倒さずにおけば、折れ曲がったままやがて実も熟し、食べられるようになるかもしれない。

4)それを見ている順子さんのまなざしが思われる。このページでは、三省の父が亡くなった時のことが書かれている。

5)「山のツワブキ」p176のイラストもなかなか考えさせられる。ツワブキという植物についてはよく知らないが、どこかにこの植物についての三省の文章があった。何気ない、ごくありそうな草花達である。ひとつひとつの植物へのまなざしが優しい。

6)落ち着いていて、いかにも、山尾三省、という一人の人と、家族が屋久島に住んでいる、という雰囲気が、静かに、ほのかに伝わってくる本。

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銀河系の断片 山尾三省 堀越 哲朗/編集

銀河系の断片
「銀河系の断片」
山尾 三省 (著) 堀越 哲朗 (編集) 2009/03 幻戯書房 単行本 334p
Vol.3 No.0315 ★★★★☆

1)「山の時間海の時間」が、現在のところの最新の三省の消息だとするなら、この本は、三省の「全仕事」を俯瞰した上での、ベストコレクション、ということになるだろう。

2)三省を、その人生の区間で分けるとすれば、いくつかのパターンがあるだろうが、この本では一部と二部に分かれているのみである。

3)思えば、私の知っている三省は一部に大きなウェイトがあり、当ブログでも、今回読み進めてきたあたりなまでの内容となっている。

4)あとにもさきにも私は三省とは一度しか会っていないので、それこそ一期一会だが、それは1991年の「スピリット・オブ・プレイス」シンポジウムの会場でのことだった。私はスタッフのひとりとして忙しく動き回っており、三省はパネラーのひとりとして二泊三日で来ていた。その時、他のパネラーでもあった生物学者・清水芳孝先生(現在97歳)を紹介しながら、三人で同じテーブルで談笑したのが、印象深く思い出される。

5)二期に分けるとするなら、それは往相と還相にわけることができるかもしれない。あの1991年あたりが、三省にとっての還相がスタートしたあとの直線コースあたりだったかもしれない。

6)本書においては、二部制とはいうものの、一部に大きなウェイトがかかっており、二部は一部の半分の量の文章しか収められていない。しかし、それはそうあるべきであろうと思われる。

7)一部は、情報が多く、事柄の叙述が多い。それに比較すれば、二部は、むしろ透明化した心象が写し取られることが多く、むしろ、分量ではなく、一部の内容を踏まえたうえで、その行間を読んでいくことが大事になるからだ。

8)三省の文章は多い。いまから読み始める人たちにとってみれば、どこから手をつけたらいいのか、分からなくなるかもしれない。そして、三省の生きた世界は一様ではない。そんな時、このベストコレクションは、山尾三省、という人のひとまずの人生をかいま見せてくれる。

9)この本をインデックスにして、三省の元の本を読みだすことができれば、この本の果たした役割は大きいということになる。気取らない表紙が、いい。

10)編集の堀越哲朗は、私と同じ1954年生まれで、一年間のインドの旅の帰国後、雑誌記者などを経て、郊外で暮らしているという。「山暮らし始末記」(1999/06)がある。

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ジョーがくれた石―真実とのめぐり合い 山尾 三省

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「ジョーがくれた石」 真実とのめぐり合い
山尾 三省 (著) 1984/12) 地湧社 単行本: 219p
Vol.3 No.0314★★★☆☆

1)1977年の段階で、すでに部族はすでに過去のもの」とソーカツしている三省ではあるが、1984年になっても、語ることとなると、ついつい「部族」のことになってしまう。けれども僕の中には部族の歌は依然として残っていた」のだからやむを得ないにせよ、釈然としないものが残る。

2)これまで見てきた三省関連の本の中の登場人物たちは、ニックネームを補完するような形で実名が記されることが多い。妻や子ども達、あるいは交友の深い友人など、その来歴や言動にともなって実名が語られることに、どれだけの必然性があり、どれだけの合理性があるのだろうか。

3)一般に公表されている「公人」であれば別であるが、両親が自殺してしまって、今や施設に入るか養子になるか、という瀬戸際にあるほんの数歳の子供たちにとって、両親の名ばかりか、自分の名前や年齢まで、自分が読みもしないような本のなかに描かれてしまう、というのはいかがなものであろうか。

4)それが私小説のようなもので、ストーリーや人物像がボカシて書いてあり、名前も当然、別なものであってみれば、それはそれで許される範囲だとは思う。だが、ジャーナリズムでもなく、記録でもなく、ほとんどノンフィクションとして書かれる「エッセイ」の中で、仮に実名を記すことを許され、大変誠実な書き手として信頼されていたとしても、一定程度の視点からだけ書かれるのは、本人たちにしてみれば、どんな気持ちがするのだろう。

5)この本においては、たとえば日本山で出家したマモがM、ナシがW、などと表記されており、サカキナナオでさえNと表記されている。思えば70年代までのミニコミや80年初頭の野草社あたりまではマイナーな友だち感覚で実名記録も悪くはなかったが、この本においては、やや一般化した「地湧社」からの出版となっている。

6)この表記は、なぜこうなったのか。多分、出版社側の編集出版上の判断から。そうせざるを得なかったのではないか、と、遅れてきた一読者としては読む。その出版社の判断は、正しかったのではないか、と思う。

7)しかし、サカキナナオがNと表記されたのでは面白くない。ナナオはナナオでいいはずである。なにも、山里勝己「場所を生きる」に書かれているような、数ページに渡る来歴などは要らないのだが、公的な場で詩を読むような詩人であり、詩集を出しているような存在であれば、あえてNなどと、ぼかす必要はないだろう。

8)この本もまた、長い間、私の手元に保管されている一冊だが、その記録性から言って貴重なデータが様々ある。三省の手によってこそ残された情景というものや、この本に寄らなければならないストーリーも沢山ある。

9)であるがゆえに、はて、と私は考え込む。

10)まず、これだけの「部族」に関わる情報が「必要」とされるのであれば、少なくとも一元的に三省ソースの情報ばかりでは片手落ちになるだろう。同じ事象、同じ出来事に関して、もうすこし別の角度から書かれた(表現された)記録が必要となるのではないか。登場人物たちはそれぞれに個性豊かである。その人たち側からの「反論」も必要となるのではないだろうか。

11)ここまで思って、山田塊也(ポン)の「アイ・アム・ヒッピー」(1990)を引っ張り出してきた。ポンはあまり得手ではないが、三省を相対化する意味では、ナナオとともに、絶対に欠かせない存在である。

12)10数年前、僕達は自分達を「部族」という名で呼び、身心ともにひとつの運動に立っていた。p24

13)すでに、とうの昔に終わっているという「運動」のことを、なぜ三省は繰り返し繰り返し表現したのだろう。そもそも「部族」はきわめてマイナーな、突出した「運動」であった。だから一般に正しい姿を知られることなく、多くの曲解や中傷も多かった(はず)。60~70年代の現象を、ようやく一般的な表現の場を「与えられた」三省が、いまいちど、過去を振り返り、ソーカツしている、ということはあり得るだろう。

14)しかし、片や現象であり、片や表現であってみれば、過去の現象を、あとから表現することにおいて、そこに「美化」や「歪曲」が混入してくる可能性は十二分にある。

15)吉福 (山尾)三省は、気骨のある男ですから、彼の語っている根っこのところには嘘は全然ないんです。ただ、詩人ですから、言葉が紡がれていくときに、彼の操作が入るんです。ぼくなんかは、「またぁ」っていう感じがすることもあるけれど(笑)。「楽園瞑想」 (2001)吉福伸逸p126

16)私は吉福ほど皮肉屋ではないので、より三省寄りに物事を考えたいとは思うのだが、どうも、ここで三省は「部族」を振り返りすぎる。そして、自らに引き寄せ、自らの立脚点にしてしまおうとする姿勢が見えすぎる。

17)「部族」という場は、ひとりひとりの人間が本当に自由であることを願ってつくりだされた場であった。自由でありたいと願うことは、若者の特権であると同時に万人の願いでもある。なぜならすべての人々は、多かれ少なかれ自分はなにものかに不当に束縛されていると感じ、その束縛が解かれることを望んでいるからである。自由は、あらゆる人によって望まれるけれども、それに到達する道は長く険しい。p100「東大寺三月道の裏木戸の石」

18)とするならば、ここであえて「部族」という名前を出してくるほどでもない。ここにおいては、若者の誰でもが、自らが理想としたグループや運動、ヒーローや実験などの名前を「 」の中に入れてみればいい。当然のことだが、全ての道は「長くて険しい」ということになり、「部族」を特筆する意味が薄れてくる。

19)僕が家族と共に屋久島に移り住んできた頃、僕の中から「部族」という言葉はほぼ消えてしまっていたが、東京の国分寺市の外れのぼろアパートを借りきって「エメラルド色のそよ風族」と称して共同生活をしていた頃には、僕達はひとつの紙箱を持っていた。p129「一湊川の二十畳岩」

20)この本1984年に書かれている。村上春樹が書くところの「1Q84」の下地となったであろう1984年である。

21)空間的な情報は、核兵器の存在や各地の戦争やアフリカの飢餓というような脅威としての情報ばかりではなく、西ドイツに緑の党というエコロジカルな政党が生まれたこととか、フランスに同じ「部族」と名乗る小集団が生まれて華々しく活動していることとか、インドの導師(グル)であるシュリー・ラジニーシがアメリカのオレゴン州に移って、大きな宗教的コミューンを建設中であるとかの、歓迎できる情報をも与えてくれる。p182「つつじのそばの石」

22)当時のOshoやサニヤシンたちの活動については、他書に譲ろう。とくに「OSHO:アメリカへの道」を併読することは役に立つだろう。

23)この本は、この時代にこのような事があった、というふりかえりには役に立つ。そしてその時、三省の場で、三省はこのようなことと出会い、こんな風に考えていたのだ、ということ知るには役にたつ。しかし、副題にある「真実とのめぐり合い」というタイトルはいかがなものか。のちに改訂版がでる段階では「12の旅の物語」と改められている。

24)この本でも、抜き書きしたいところは山ほどあれど、今回は先をいそごう。

25)ヒマラヤの霊とは何であるか、しっかり感じとどけようと心を決めたのである。するとその時、不意に、オンマニペメフーン オンマニペメフーン オンマニペメフーンという、三度の低い祈りのつぶやきが、傍らで眠っている見知らぬ旅人の口から洩れたのだった。それはすぐに寝言であることが知られたが、寝言にしてはそれはあまりにも真実の言葉であった。p98「ポカラの鉦叩き石」

     オンフーン

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2011/06/20

狭い道―子供達に与える詩 <2> 山尾三省

<1>よりつづく 

Sansei
「狭い道」―子供達に与える詩 <2>
山尾 三省 (著) 1982/06野草社 単行本 278p
 

1) 山尾三省関連リスト

1972 季刊DEAD』(なまえのない新聞)

1975 『約束の窓』(詩画集/高橋正明・画)

1978 『やさしいかくめい1リアリティ』(ムック/草思社)

1981 『聖老人』(めるくまーる社)

1982 『狭い道 - 子供達に与える詩』(野草社)


1982 『ラームプラサード--母神(カーリー)賛歌』(共訳/屋久の子文庫)

1982 『ラマナ・マハリシの教え 私は誰か』 (山尾三省・翻訳/めるくまーる)

1983 『野の道 - 宮沢賢治随想』(野草社)


1984 『ジョーがくれた石』(地勇社)


1985 『縄文杉の木陰にて』(新宿書房)

1986 『ガイアと里―地球と人間のゆくえ』(プラブッタと対談/地湧社)

1987 『びろう葉帽子の下で』(野草社)

1988 『自己への旅』(聖文社)

1990 『回帰する月々の記』(新宿書房)


1990 『アイ・アム・ヒッピー』(山田塊也 /第三書館)

1991 『新月』(くだかけ社)


1991 『島の日々』(野草社)


1991 『桃の道』(六興出版)


1992 『コヨーテ老人とともに : アメリカインディアンの旅物語』(ジェイム・デ・アングロ/ 山尾三省・翻訳)

1994 『縄文杉の木蔭にて』―屋久島通信 「増補新版」(新宿書房)

1995 『屋久島のウパニシャッド』(筑摩書房)


1995 『ぼくらの智慧の果てるまで』(宮内勝典との対談集/筑摩書房)


1995 『森の家から』(草光舎)


1995 『水が流れている』(NTT出版)

1996 『深いことばの山河』(日本教文社)


1996 『三光鳥』(くだかけ社)


1997 『一切経山』(溪声社)


1998 『法華経の森を歩く』(水書房)


1998 『聖なる地球のつどいかな』
(ゲイリー・スナイダーとの対談集/山と渓谷社)


1999 『ここで暮らす楽しみ』(山と渓谷社)

2000 『「屋久島の森」のメッセージ ゆっくりと人生を愉しむ7つの鍵 』(大和出版)

2000 『アニミズムという希望―講演録・琉球大学の五日間』(野草社)

2000 『カミを詠んだ一茶の俳句』地湧社)

2000 『親和力』(くだかけ社)

2001 『日月燈明如来の贈りもの ― 仏教再生のために』(水書坊)

2001 『森羅万象の中へ その断片の自覚として』山と渓谷社)

2001 『瑠璃の森に棲む鳥について』(立松和平と共著/文芸社)

2001 『水晶の森に立つ樹について』(立松和平と共著/文芸社)

2001 『リグ・ヴェーダの智慧』(野草社)

2002 『南の光のなかで』 野草社)

2002 『祈り』(山尾三省詩集/野草社)

2003 『原郷への道』(野草社)

2005 『観音経の森を歩く』(野草社)

2007 静寂の瞬間(とき)―ラマナ・マハルシとともに』(バーラティ ミルチャンダニ (編集), 共訳/ナチュラルスピリット)

2008 『春夏秋冬いのちを語る』(堂園晴彦との対談/南方新社)

2009 『銀河系の断片』(堀越哲朗編/幻戯書房) 

2009 『山の時間海の時間』(山尾春美と共著/無明舎)

2012『インド巡礼日記』(三省ライブラリー1/野草社)

2012『ネパール巡礼日記』(三省ライブラリー2/野草社)

 

2)三省には、順子さんとの間に、太郎、次郎、良磨(ラーマ)、道人がおり、ナシとビーナの子、踊我(ヨガ)と裸我(ラーガ)、そして春美さんとの間に、海彦、すみれ、閑(かん)、という子供たちがいたことが、少しづつ分かってきた。

3)僕達は、自分の足でこの道を歩くことによって、この道を楽しく平和に歩くことによって、狭い道として歩くのみならず、ひとつの道として歩かなければならないと思っている。p277「あとがき」


4)この前、道をすこし広げた。もともと狭い道ではあるが、人が歩くには十分な広さがあった。だが、そこに車を入れたかった。県道から250m程は立派に開かれているが、そこからの750m程は、道の両側から小枝が伸びていて、車にキズをつけないでは入れない。

5)作業そのものはなかなか楽しいものである。やればやったなりのことがある。ナタを使い、刈り払い機を使った。でもチェーンソーまでは揃えることをしなかった。


6)僕ひとりが山の中でチェンソウを使わずに頑張ったところで、世界の大勢に何の変化もないことをつくずく知らされるが、逆に言えば僕ひとりからしか世界が始まらないこともまた、明らかなことである。p146「木を伐ること」

7)私もやっぱり、あの山の中で、数キロ四方にわたって2サイクルエンジン音を響きわたらせて、効率を図ることは、好みではない。

8)場は自然であり、自然環境であると共に、意識としての場でもある。p137「場について」

9)三省が言う「場」は、スナイダーがいうところの「場所=プレイス」と繋がるようでもあり、似て非なるものでもあるような気がする。

10)マーケット・プレイスもまた「プレイス」なのである。そこんとこ、痛烈に感じ始めた今日だった。

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狭い道―子供達に与える詩 <1>山尾三省

Sansei
「狭い道」―子供達に与える詩 <1>
山尾 三省 (著) 1982/06野草社 単行本 278p
Vol.3 No.0313 ★★★★☆

1)本書は「聖老人」(1981)から「森の時間海の時間」(2009)までの三省ワールドの中では、極めて初期的な時期に位置し、その中でも、「聖老人」「野の道」の間に位置する。「聖老人」は1960年代中盤以降から1980年前後までの三省の集大成となっており、次の「野の道」(1983)が宮沢賢治論となっていることを考えれば、「狭い道」(1982)は三省にとっての、初めての全文書き下ろし的ニュアンスの強い一冊である。原寸大の三省がここに登場している、と言ってもいい。

2)「部族はどうなったんだ」
 とナシがねちっこく責めよった。部族はすでに過去のものであり、僕は部族の人間として屋久島に移り住んできたわけではない。けれども僕の中には部族の歌は依然として残っていた。
「部族という呼び名は、今はもう僕にはないけれど、部族の精神というのかな、その心は今でも僕の中にあるよ」
と僕は答えた。
「嘘だ!」
とナシが言った。
「サンセイの中にはもう部族なんかない。俺は部族なんだぜ。だからサンセイの中にはも部族なんかないことが判るんだ」
とナシが言った。
「昔俺が見た部族の、自由と解放という光は、今のサンセイの中にはかけらもない」
とナシが言った。
 それは本当だった。そんな光がなくなったからこそ僕の中では「部族」が過去のものになっていたのだ。
p66「ナシとビーナ」

3)この問答は「1978年の初めか77年の暮のことだった」(p66)とされる。私はこの時期、インドのプーナにいた。三省とナシの間にどんな確執があったのか、三省が書く文面から推し量るしかないし、それがナシ側からみた場合の真実とは必ずしも言えない。しかし、この時の問答の在り方を、自分なりに理解することができる。

4)必ずしもナシ側に立つものでもなく、必ずしも三省個人がターゲットではなかったが、私は私なりに「部族」に対するふっきれない何かを抱えていた。実際にはそれは1975年の春に起こった。

5)当時CCC(コズミック・チャイルド・コミュニティ)大使館と名乗っていた「部族」(ながれ)の人々が、具体的な表面化した部分であったが、たしか「オーム」と名付けられた季刊誌のようなものは発行されていたはずだ。

6)後で「プラサード書店」の店主となるキコリや、私たちのコミューンから行ったジープなどが編集していた「星の遊行群」という全国叛文化戦線の合同機関誌の編集途上で、トラブルが起きた。

7)具体的には、印刷を担当していたCCC印刷所が、私の文章だけ自分の印刷機では印刷できない、と言ってきたのだ。版下もきれいにロットリングで書いておいたし、画像もきれい(!)に貼りつけておいた。印刷できないのは、技術的な問題ではなかた。文章でもなかった。その画像が、拒否されたのだ。

8)具体的な問答がどのようなものであったか、間接的に聞くいきさつは明確ではなかったが、最後までCCCのオフセットでは私の文章は印刷されず、私の文章だけが、当時の練馬谷原の「蘇生」の写真製版ガリ版で印刷され、ようやく製本され、すでに購読予約している仲間たちに発送されたのだった。

9)印刷物として、出版物として、その「星の遊行群」という小冊子がどのように評価されるかは未知数だ。決して上出来な一冊だとは、私にも思えない。しかし、そんないきさつがあったものだから、今だにあの時の、私の中にあったわだかまり、不完全燃焼なままひっこめてしまった問題意識が、深く根付いている。

10)あの時のトラブルに巻き込まれてしまった仲間たちには、ここであらためて謝りたい。もう36年前のことだから、もう誰も覚えていないかもしれないが、でも、あの時が一つの分水嶺だったと思う私には、とても大事な一冊であり、一件であったと思う。

11)画像というのは、たわいのないものであった。当時書店で売っていた週刊誌の類から何枚かのセクシーな画像をコピーして自分の文章の間に散りばめておいたのだ。実際には文章とは直接的な関連はないし、セクシーと言っても、21世紀の私たちが日常的にネットで見かけるようなポルノグラフィーではなかった。しかし、印刷が拒否された。印刷機が「けがれる」と言われた。

12)正直言って、これをCCCに言わせたかった、というのが、実際のところのこちらの本音だった。こちらから言わせれば、こちらから仕掛けた罠に、CCCがまんまと引っかかってくれた、というのが本当だった。

13)それほどの挑発行為にまで出るほどに私がいら立っていたのは、何故だったのだろう。

14)もしあの時点で、「聖老人」に収録されているような、60年代からの三省の文章が、もっと一般的に入手できる状態にあり、私自身も、経済的にも、住まいの距離的にも、精神的ゆとり的にも、積極的にそのようなものを読み、情報を得ていれば、あのような葛藤はなかったのかもしれない。

15)「オーム」などで散見されるチベット密教の交合仏のイラストに、馴染めないでいた自分がいた。タントラと称される流れが、説明不足のまま、イメージだけが先行している(風に見えていた)事態に、納得できないでいた私がいた。

16)60年安保に早稲田の学生として参加し、その後60年代中盤以降、ナナオなどとの出会い(本書に詳しい)を通じて「部族」を名乗っていった三省。かたや、16歳年下で、70年安保を高校生としてデモった私には、「遅れてきた少年」意識がもろにあった。

17)70安保というものが何であったかなんて、いまさらソーカツのしようもないが、「新左翼」をなのり、20世紀末まで走った荒岱介(2011/5/3亡くなったという。享年65歳。冥福を祈ります)のような存在もある中、「部族」は一体、どこにいるのか、という「問いかけ」はあった。

18)決して、自らが「部族」を名乗り、その仲間、あるいはエピゴーネントとして活動したいと思ったわけではない。ただ、乗り越えるべき先人達、敢えて受け継ぐべきバトンは奈辺にありや、と、探索弾を撃ち込んだ、というあたりだった。

19)その手ごたえはあったが、大きな「戦闘状態」は起こらず、ある意味、私の「先制攻撃」は「不発」に終わった。

20)同75年の「日本縦断ミルキーウェイ・キャラバン」は沖縄から始まったが、私は、本書にも登場するキャップたちがヨットを作っていた宮崎から札幌までの間しか参加できなかった。本体は北海道・藻琴山まで辿りつき「宇宙平和会議」を行った。

21)この年の夏、私は自分たちのコミューンの中にそっと置かれていた「存在の詩」を読んだ。喧嘩をし、旅をし、自宅出産で子供達が生まれてくるコミューンの中で、ぽっかり空いた心の空洞に、それはしずかに流れてきた。

22)アメリカに長く滞在し、虹を画くことによって有名になった靉嘔(あい・おう)という画家が、ある時ネパールに言ってみようという気を起こし、カトマンドゥの飛行場に降りたとたん、あっこれはいけない、と感じてそのまま同じ飛行機で引き返してしまったという話しがある。(略)
 
 アジャンタだったかエローラだったかの洞窟寺院の中で、堀田(善衛)氏はある銅像の前にうずくまり、その佛像に手を触れようとして激しい電流のようなものを感じて、「あっ、これに触れてしまったら、書けなくなる」と思うのである。書くという行為を成立させてきた存在の様式が、ほの暗い洞穴の奥に安置されてきた一体の佛像に触れることによって、破壊される危険に見舞われたのだと理解する以外にはない。あるいは、書く、という作家にとって本来純粋行為であるはずであった行為よりも、更に純度の高い何ものかが堀田氏を襲ったのだと解釈出来なくもない。
山尾三省「聖老人」p255「火を見詰めて」

23)75年「存在の詩」を読み、76年印刷屋で資金を溜め、77年インドに行ってサニヤシンになった。その周辺のことは以前も書いたし、自分なりに整理もした。しかし、それは1992年とか、2006年あたりになってからであり、自分たちのミニコミ「時空間」を75年に休刊した後、私は一切文章は書かなくなった。

24)そもそも、思春期に自らの「失語感覚」に苦しんだ中学生以来、自らに「言葉」を与えようとして作ってきたミニコミ群である。本来、「失語感覚」のほうが、実は人間本来の姿なのではないか、とさえ思える時もある。

25)しかし、「たいした意味もない」(ある友人の当ブログ評価)のにダラダラとキーボードを打ち続けている現在の私がいるとすれば、あの失語感覚に、ふたたび姿を与えようとしているにすぎないのだ、とあらためて思う。

26)なにも有名な作家たちになぞらえるわけではないが、私は自らの「表現手段」と思っていた「書く」という行為を、Oshoと出会ったことで、できなくなった。

27)三省「叔父貴」に対しては、問えば問うほど答えは返ってくるのであり、近づけば近づくほど、その実像は次第に明瞭になってくるのである。しかるに、問うても答えが返ってこない時もあり、三省も答えようとしないものがある。そこには問いがあっても、答えはなく、答えがなければ、最初から「問う」こともすべきではない、という不文律の決めごとがあるかのようでもある。

28)1978年の初めか77年の暮れのことだった。「部族」という新聞はとうに廃刊になり、「部族」という言葉もすでに過去のものになっていた。当時の部族の人達はそれぞれに「部族」の光と重みを背負って、それぞれの場で生活する方向を見い出していた。
「部族はどうなったんだ」
 とナシがねちっこく責めよった。部族はすでに過去のものであり、僕は部族の人間として屋久島に移り住んできたわけではない。けれども僕の中には部族の歌は依然として残っていた。 
p66「ナシとビーナ」

<2>につづく

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2011/06/19

森の時間海の時間  屋久島一日暮らし 山尾三省,春美

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「森の時間海の時間」―屋久島一日暮らし
山尾 三省 (著), 山尾 春美 (著) 2009/10 無明舎出版 単行本 123p
Vol.3 No.0312 ★★★☆☆

1)「聖老人」(1981)が三省の最も初期の記録を残している単行本だとしたら、この「森の時間海の時間」(2009)は、三省がなくなった後、もっとも最新の三省の名を冠した一冊、ということになるだろう。とりあえず、この2冊の間を、三省の作品群と規定して、三省を読書してみる。

2)三省が人生の中で触れた人々の数は多く、また残された作品も数多い。彼の人生の中で、彼と触れた人々との数だけ、それぞれの「山尾三省」像があることだろうし、あのような人生は、決して「本」では表わされ得ない部分が多くある。

3)それでもやっぱり、「詩人」としての三省は、しっかりと、その「著書」の中で評価され、愛されていく必要もある。

4)この本は、三省と1989年に結婚した春美さんが、自らのエッセイを加えて、再編集した形になっている。その前には確か病気でなくなった連れ合いさんがいた。今回の詩集にも、海彦、閑、すみれ、という子どもの名前が登場する。子ども本人たちにとってみれば、自分の名前がこのように作品に残されるのは、どうなのだろうと思いつつ、三省の周辺には確か、養子も含めて10人くらいの子供達がいたはずだった、と思い返す。

5)この詩集、当然ながら、「聖老人」とはまったく異なった姿を持っている。この「海の時間~」は、どちらかというと月めくり暦のようで、まるで、最後に「あいだみつを」なんて書いてあるのではないか、と、ひやひやするw 当然、私の知っている三省は「聖老人」の三省のほうにウェイトがあるのだが、それとて、すでに30年前の姿。その後、どんな風な人生があったのか。そして、人々にどのように愛された人だったのか、興味をそそられる。

6)二日に一度 夕暮れ時には
風呂を焚く 
p022「風呂焚き」三省 の中の一節

7)小学生のときの家の手伝いは雨戸閉めや板目拭き、茶碗だしやヌカ運びだった。中学生になってからは風呂焚きがメインになった。家族が多かったし、家業は重労働だったので、風呂は毎日焚いた。二日に一度なんて、私の子供時代では考えられなかった。しかし、屋久島における質素な三省一家のライフスタイルでは、二日に一度だったのだろう。

)「人は死んだらどうなるの」 父の死後、閑は、この質問をくり返してきた。納得する答えを得られないまま、半年程前、閑は久しぶりにこの質問を呟いた。その時、居合わせた兄と姉は「そんな事、わかるわけないじゃん」と笑いながら一蹴した。「だって、知りたいじゃんか」と、閑は頑張ったが、三年の月日を経て、この問いは、閑の胸の中にしまいこまれた。台風が過ぎて、生前父が「静かなお友達」と呼び、私たちには父の魂を連れてくる者である、透き通るように美しい薄緑色のスイッチョ(ウマオイ)が飛びこんでくる季節になった。p038「スイッチョ」春美

9)私もこの問いを問うた。8歳と3日目に父が亡くなって、すでにずっと療養生活をしていて、すでに「家族」ではなかった父だったから、今まであった存在がいなくなった、という淋しさはまったくなかった。しかし、純然たる意味を持って「死」とはなにか、という問いを8歳の私に突きつけた。

10)この本、秋田の無明舎から出版されている。

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「聖老人」 百姓・詩人・信仰者として 山尾三省<1>

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「聖老人」 百姓・詩人・信仰者として<1>
山尾三省 1981/11プラサード書店/めるくまーる社 箱入り単行本 p387
Vol.3 No.0311 ★★★★★

1)この本を★5つにするか、レインボー評価にするか悩む。私の人生の中の10冊、その中の一冊に数えてもおかしくない一冊でもあり、当ブログにおけるベスト10入りもほぼ間違いはない。その本の成り立ちや影響の受け具合から考えてみて、レインボー評価は当然なのであるが、後から道を歩くものとして、三省に意見がないわけではないので、あえて★5とする。

2)この本は、のちに新訂版が他社からでたりしているが、私の持っているものは、ほびっと村の3階にあった「プラサード書店」の店主キコリから手渡しで購入したものだから、私にとっては、後の新訂版とは、持っている意味が違ってくる。

3)キコリは今どうしているのか定かではないが、73~75年当時は、盛んに互いに連絡を取っていた東京練馬の都市コミューン「蘇生」のメンバーだった。彼が大学内でのキャンプインからコミューン活動に移り、やがてミルキーウェイに住むようになった経緯の中で、プラサード書店もできたし、三省の処女本もできたのだった。

4)この本に収容されている「太郎に与える詩」などは、インド行く前の77年前半には知っていたので、76年に掲載された「思想の科学」などで読んでいたのだろう。

5)13歳になった太郎
やがてはっきりと私のものではなくなっていくお前に
父親の私は一つの歌を与える
この歌はやがてお前の人生を指し示す秘密の力となるだろう。
p260「太郎に与える詩」

6)22歳の私はこの詩を読んで泣いた。私の父親は私が8歳になって3日目で亡くなった。しかもそれ以前は6年に渡る療養生活をしていたので、直接には父親の愛というものを知ることはなかった。賢治と同じ病気だった父が私に具体的に残したものは、同室のベットの人に作らせた小さな小物入れひとつである。

7)長じて、私も父親となった。上の子が13歳になった時、私はPTAの役員に推薦された。これも縁と引き受けたものの、その後10年以上に渡って教育関連のボランティアをしたのだから、私なりに進んでその仕事を楽しんだのだと思う。そしてそれは、三省のような詩人ならぬ私の、私なりの「13歳になった」我が子たちに与えた詩だった、つもりである。

8)太郎 中学三年生
後輩にあとをゆずって野球部を引退したお前に
この夏休みの宿題を与える
大きくなったお前と やがて大きくなる次郎
二人の部屋を自分たちの手で建て増しをすること

父が棟梁 図面を引き 根太のほぞを切る
お前は手元 柱にほぞ穴を掘る
次郎はやがて12歳 川で鰻の仕掛に熱中している

何をすることが
本当の楽しみなのか
何をしている時に
胸に希望があり 静かな力が湧いてくるのか
父は子に教えようとし
父はまた 子から学ぼうとしている

大工
おおいなる たくみ 
    p100「大工」

9)思えば、私も14歳になった時、自分の部屋作りをした。中学校の学校新聞部の部長として全校生徒にアンケートを取った。「今ほしいものはなにか」。男子生徒も、女性生徒も、一番は「自分の部屋」だった。
 末っ子だった私に与えられたのは、北向きの雨戸を閉め切った、床が地面までついてしまった納戸だった。天井などない。扉も閉めっぱなし、収納などあったものではない。
 そこで15歳の少年だった私は、ひと夏どころか、数年にわたってこの納戸を直し、自分の部屋とした。床を張り直し、壁をつくり、雨戸を切って窓も付けた。みつけてきた板で天井もはり、拾ってきた椅子などで家具も充実させた。
 少年は少年なりに自慢だった。男友達ばかりではなく、女友達までこの部屋につれてきて話しこんでいたりしていたのだから、釘一本から打ち込んだ自分の部屋が気にいっていたことは間違いない。
 思えば、あれが私にとってのソロー・ハウスだったのではないか。自分で作った窓からは、深々とした屋敷林が見えたし、家神様も、にわとり小屋も見えた。

10)ぼくらは限りなく仲間の部族が増えていくことを願い、そのために働きかける。都会においても田舎においても、いたる所に小さな部族社会が生まれるだろう。ぼくらはそれを現代的に解放区と読んでもいいが、やはりそれは部族と呼ばれるのが最も適当だろう。p118「部族の詩」1968

11)三省の呼び声が聞こえていたのかもしれない。16歳の私は、三省より10年遅れの街頭デモに参加し、18歳の時、デモで知り合った友人たちと共同体を創った。自分たちを「部族」と意識したことは一度もなかったし、エピゴーネンだとも思ったことはない。むしろそれを超える何かを探していたと思う。

12)しかし、今回改めて三省を振り返る旅を始めてみると、私は、年齢も三省より16歳下だったし、首都圏や南日本と、北日本という、活動する地域は違っていたが、三省がいわんとするところの「部族」として私たちは見事に「呼応」していたのではないか、と再認識する。

13)平和とは精神なり肉体なりあるいはその両方がぎりぎりの所まで行きついた場所に、たぶん涙とともに訪れてくるひとつの解放状態である。その平和を破ること、これが私にとってのタブーであり、その平和を守り実現してゆくこと、これが私の内在律である。現代インドに生きる巨きな星のひとつであるバグワン・シュリ・ラジニ―シは、「タントラ」に関する講話の中で次のように語っている。p15「内在律考」

14)ここで紹介しているものこそ、「存在の詩」であり、私をインドに呼んだものであり、その後の人生を大きく支えてくれたインスピレーションの源泉でもある。三省は、ラーマクリシュナのアシュラムを訪れたことをこの本でも書いているが、彼が、どこであれインドを旅したということが、私もまたインドを旅しようと思った大きなきっかけであったことは間違いない。

15)三省は私より16歳上だから、父親ということはできないが、兄貴、と見ることもできない。敢えていうなら、叔父さんの位置だろうか。実際、私には12歳上の叔父さんがおり、叔父さんは叔父さんで、兄貴とはまた違う。

16)改めて、この本を読み直し、貴重な記録がたくさん残っていることに安堵するとともに、当時からこのような記録を遺しておいてくれた三省に、重ねて感謝したい気持ちがいっぱいになる。とくに最後の長本兄弟商会の八百屋としての奮闘記などは、あらためて聞く話であり、そのような事実があったことに驚くことがいっぱいある。

17)「百姓・詩人・信仰者として」。三省はそう言う。「百姓」は、私なりに解釈する。「信仰者」は、瞑想者、という言葉で私なりに置き換えてみる。しかし「詩人」という奴はなかなか曲者だ。宮沢賢治を初め、多くの文学を語る三省であってみれば、詩ではなく、小説を書いてくれたほうがよかったような気もする。物語なら物語として、楽しみ、テンターテイメントとして、安全圏にしまっておけるからである。

18)しかるに、三省の詩は、詩とは言え、ファンタジーでもなくメタファーでもない。それは日記であり、記録であり、報告である。ひとつひとつがリアリティに満ち溢れ過ぎている。もし、それがどんなにリアリティに満ち溢れていようと、多少の距離があれば、たとえば、スナイダーくらいに離れていれば、ああ、西海岸ではそんなことがあったのか、ぐらいに考えることができる。

19)しかしながら、三省の書く「詩」は、あまりに私の立場からは見えすぎる。それは詩という形を取った働きかけであり、叱咤であり、ジャーナリズムである。であるがゆえに、一人の「甥」として、ささやかではあるが、叔父貴に「言いたいこと」がある。

20)私はこの本は一般にはレインボー評価されてしかるべき一冊であると推薦することにやぶさかではない。だが、私自身にとっては星5にとどめておく。いや、批判者として、ポスト三省として、あらためて三省を読みなおすなら、星3か星2くらいに見下して、舐めてかかって、こき下ろしてやろうとさえ思うくらいだ。----それができれば、の話だが。

21)やがて17歳になる太郎
お前の内にはひとつの泪の湖がある
その湖は 銀色に輝いている

13歳の次郎
お前の内にもひとつの泪の湖がある
その湖は 金色に輝いている

8歳になったラーマ
お前の内にもひとつの泪の湖がある
その湖は 神の記憶を宿している

やがて9歳になるヨガ
お前の内にはひとつの泪の湖がある
その湖は 宇宙のごとく暗く青い

6才のラーガ
お前の内にもひとつの泪の湖がある
その湖は 自己というものを持たない

子供たちよ
困難に耐えてすくすくと育ち
お前たちの内なる 泪の湖に至れ 
 p353「子供たちへ」

<2>につづく

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2011/06/18

ウォールデン 森の生活

ウォールデン 森の生活
「ウォールデン 森の生活」

ヘンリー・D. ソロー (著), 今泉 吉晴 (翻訳) 2004/04 小学館 単行本: 435p
Vol.3 No.0310 ★★★★☆

1)なぜ私は「森の生活」のことを考えるようになったのだろう。必ずしもソローのように「森の生活」をしようと思ったわけではないけれど、心のどこかでは、そういう暮らしが一つの典型として、非常に分かりやすいものだ、という意識は結構長いことあったと思う。

2)人々にとっての大学生活の期間にあたる4年間、私は仲間たちと共同生活コミューン活動をした。それは、森林公園の近くだったり、林に囲まれた禅寺の裏手だったりしたので、考えようによっては、青春時代を「森の生活」で過ごした、と言えなくもない。

3)その期間だいぶ旅もしたのだが、自らの「場所」を失うということはなかった。漂白しつつ、定点観測すべき空間を手放すことはなかった。だからスナイダーが強調するような意味においての「再定住」は、とくに大きなポイントにはならないと感じる。

4)ソローやスナイダーのように先祖がヨーロッパから移住し、先住民を押しのけるかたちで「亀の島」に侵入してきたような形では、私の先祖は移動していなかった。むしろ、「定住」を超えて「土着」とでもいえるような生活形態を、分かっているだけでも400年ほど続けてきた。

5)私は、みずからの「場所」を失った人間ではない。しかし、それを誇らしく何時まで言えるかはわからない。少なくとも私の人生はそう言えると思う。しかしながら、私の子供やそのさらに子供の時代になれば、その心境も現実も違ったものになるに違いない。

6)というのも、私の前の世代まで(つまり親の世代まで)しっかりと根付いていた地域社会は、地方都市近郊の都市化の波に飲まれて、高度成長期以降、見事に寸断され機能を破壊されてしまったからだ。破壊されなくてはならないものもあった。民主主義を成長させない封建制度に近い不平等や、偏った迷信的信仰など、必ずしも、「昔はよかったぁ」訳でもない。

7)私たちの体を生かすのにどうしても必要な条件は、体の温かさを保つこと、つまり「動物の火」を燃やし続けることに集約されます。私たちが、食物、避難場所、衣服に加えて、夜着の一種でもある寝床を整えるのもそのためでしょう。p24「モグラの足跡」

8)まずは衣食住、というところだな。

9)私は自分で事件してみて、以上の四つの”暮らしに必要な物”のほかには、以下の若干の物を除いたほとんどすべての物が必要ないことを発見しました。つまり、ナイフ、斧、犂(すき)、手押し一輪車、その他のいくつかの道具類、勉強したいならランプ、紙といくらかの文房具、図書館などの本が読める環境です。これらすべて整えても、たいした費用はかかりません。p24「モグラの足跡」

10)たしかにそう思う。森の中に設営したハウス型のテントは、1×4材で補強し、ソローの時代とは多少は違うが、ほとんど基本的なものを揃えてしまったので、もう、生きて行こうとすれば、生きていける環境は整った。

11)ただし、別荘や週末隠遁という形なら、という制限がつく。ここまではほとんど誰でもできるし、費用も最小限しかかからない。

12)私は最初、来客用トイレ、ネット環境、NPO法人、の三つをプラスの必要物と感じた。私の場合は、ひとりで森に入ろうとしたわけではなくて、人々と触れたかったから、そのツールが必要だと思えたのだ。

13)私はあなたに、今、自分で住居を建てるつもりがおありなら、私よりもいっそう慎重にゆっくり事を運ぶようお勧めします。そうすれば、私よりさらに素晴らしい収穫を手に入れるに違いありません。たとえば、家のドア、窓、地下の貯蔵庫、屋根裏部屋は、人間の本性の何と関係しているかをよく見極め、私たちが普通に言われる世俗的な理由とは別の、もっと根源的な理由なしには作りません。p60「経済(建築学)」

14)ささやかな人生だった私の生涯にも一度、自宅をつくるチャンスが訪れ、しかもそれは阪神淡路大震災の翌年だったので、それこそ耐震性には気を使った。テーマは恐れ多くも「地球」だった。おかげで、今回の東日本大震災の被災状況としては最小限にとどめることができた。

15)さて、ぼくは何を考えていたのだっけ? よくは思い出せないが、こんなふうだったろうか。今、この世はこんな角度で展開しているってなことを考えていた。そしてたった今、ぼくは天国に---つまり瞑想の世界ってことだけど---向かうべきか、はたまた釣りに行くべきか、決断しようとしていた、と。もし、ぼくが今、瞑想を終えたら、これほどの好機はまたと訪れないって感じた。なにしろ、わが生涯で初めて本質を究める寸前だった。p288「動物の隣人たち」

16)ソローは30歳前後で森にハウスを作り、三省は40歳前後で屋久島に入った。まもなく還暦を迎えようとする私には、青年や家住期の責任世代が考えるような家づくりはもうできない。それはそれで私なりにやってしまったことだ。しかし、ソローが提示する、世界や自然や宇宙に対峙する時の姿勢は、大いに学ばれる必要がある。

17)本書は、訳者が「あとがき」で言っているように、他に5~6種ある「森の生活」の訳本の不備を補っている面もある決定版の自負のもとに出版されている。比較的新しい翻訳だけに親しみやすい。

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季刊 DEAD 1972年 吉祥寺

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季刊 「DEAD 」
名前のない新聞 浜田光 1973年早春 ガリ版ミニコミ誌
Vol.3 No.0309 ★★★★★

1)山尾三省を追っかけようとすれば、私の場合は、まず、この「DEAD」に降りてこなければならない。残念ながら、現在手元には2号しかないが、1972年秋に「創刊号」が出版され、そこに三省の「部族宣言」が収録されていた(はず)。

2)72年夏、当時私は18歳、ヒッチハイクで日本一周していた。小学校からの友人が、当時、東京キッドブラザーズの東由多加らとともに、鳥取県の山中に「さくらんぼユートピア」なる共同体を建設しようとしていた。彼を訪ねて、その山に入ったのだった。

3)その時、私は初めて「名前のない新聞」を読んだ。東京から誰かが持ってきていたのだろう。ガリ版で作られたわら半紙のミニコミ紙で、強烈な印象だった。旅から帰って自分たちの共同体でミニコミを作る際、大いに影響を受けたし、さっそくあぱっちに連絡を取ったのだった。

4)その秋に、東京吉祥寺から「DEAD」誌が創刊された。おおえまさのり、末永蒼生、片桐ユズル、といった執筆陣の中に、山尾三省の名前があり、「部族宣言」が含まれていた(はず)。この短くも凛々しいマニュフェストは、「聖老人」(1981)に収蔵されている。初出は1967/12「部族」(エメラルド色のそよ風族)第1号。

5)僕らは宣言しよう。この国家社会という殻の内にぼくらは、いまひとつの、国家とはまったく異なった相を支えとした社会を形作りつつある、と。統治するあるいは統治されるいかなる個人も機関もない、いや「統治」という言葉すら何の用もなさない社会、土から生まれ土の上に何を建てるわけでもなく、ただ土と共に在り、土に帰ってゆく社会、魂の呼吸そのものである愛と自由と知恵によるひとりひとりの結びつきが支えている社会---ぼくらは部族社会と呼ぶ。聖老人」p125より

6)その後、東京のカウンターカルチャーは様々な支流から合流して「ほびっと村」ができ、その中にできた「プラサード書店」から「聖老人」は出版された。発売元はめるくまーる社。

7)この間、実に10数年が経過している。激動の60年代、70年代、そして思春期や青年期における10年という時間の幅は大きい。1975年においては「星の遊行群」という日本の当時のカウンターカルチャーの大連合(?)のもとに日本列島縦断キャラバンが行われた。その際に同名のミニコミ誌が作られることになり、当時21歳だった私の文章が障害となり、部族(当時CCC)とトラブルが起きたことがあったが、それはまた別な機会に譲ろう。

8)何はともあれ、21世紀の今日、語り部・山尾三省の名前や作品が残ったとするなら、20世紀後半の日本のカウンターカルチャーの記録が見事に保存されていたということになる。当時のことは、記憶も定かでなくなり、知る人も少なくなっているので、何れは天界のアカシックレコードに静かにしまわれてしまうだけになるかも知れないw。

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「亀の島」―対訳 ゲーリー・スナイダー ナナオ・サカキ <1>

亀の島―対訳
「亀の島」 対訳 <1>
ゲーリー・スナイダー(著)、ナナオ・サカキ (翻訳) 1991/01 山口書店 単行本 251p
Vol.3 No.0308 ★★★★★

 

1)ゲーリー・スナイダー関連リスト 

『リップラップと寒山詩』  ゲーリー・スナイダー・コレクション1(2011/10 思潮社)

『ザ・ダルマ・バムズ』ジャック・ケルアック(「禅ヒッピー」改題、1958年) 

『The Back Country』 (奥の国 1967年)

『地球の家を保つには』(Earth House Hold、1969年)

『亀の島』(Turtle Island、1974年)

『アメリカ現代詩ノート ゲイリー・スナイダー、仏教、宮沢賢治』 金関寿夫 1977/07 研究社出版

『野生の実践』(The Practice of the Wild、1990年)

『ノー・ネイチャー』(No Nature、1992年)

『惑星の未来を想像する者たちへ』(A Place in Space、1995年)

『終わりなき山河』(Mountains and Rivers Without End、1996年)

『ゲーリー・スナイダーと宮沢賢治についての覚書』 富山英俊 「現代詩手帖」1996年3月号

『聖なる地球のつどいかな』(1998年) (屋久島の詩人、山尾三省との対談集)

『神秘主義とアメリカ文学---自然・虚心・共感』 志村正雄 1998年 研究社

『アメリカ現代詩の愛語―スナイダー/ギンズバーグ/スティーヴンズ』 田中 泰賢 1999/08 英宝社

『自然と文学のダイアローグ―都市・田園・野生 (国際シンポジウム沖縄2003)』山里勝己・他・編 2004/09 彩流社

『場所を生きる』山里勝己 (2006年) (ゲ-リ-・スナイダ-の世界)

『絶頂の危うさ』(Danger on Peaks, 2007年)

『場所の詩学』山里勝己訳「異文化コミュニケーション学への招待」鳥飼玖美子他編みすず書房2011/12より抜粋 

『ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン』 「現代詩手帖」2012・7号 新潮社

『聖なる地球のつどいかな 』 山尾三省との対談 再刊新本 山里勝己監修( 2013/04 野草社/新泉社)

『For the Children 子どもたちのために』(2013/04 野草社/新泉社)

2) 巻末の2ページに渡るスナイダー自身の手による略歴が簡潔で、なおかつ、彼から見た場合の彼自身のストーリーとなっていて、それなりにかっこいい。翻訳のナナオのセンスが入っているのか、他所による紹介と、多少違うところが、関心深い。自然の情景をふんだんに取り入れた詩とともに、スナイダーの啓発的な散文が力強い。

3)「アメリカ」は確か西欧人アメリゴ・べスプッチにその名前を由来するが、思えば確かにあの大陸を「アメリカ」と称するのはいかがなものか。とするなら、「USA」にしてもおかしいことになる。なるほど、ネイティブな人々が行っていたように「タートルアイランド=亀の島」と呼ぶことのほうが圧倒的に妥当性がある。
 

4)”亀の島”の侵略者 合衆国は
世界中で 戦争おっぱじめる されば
立ち上がれ 蟻よ アワビよ カワウソよ 狼よ エルクよ
ロボットの国々から 君らの贈物を取り戻せ!
 p99「母なる地球の鯨たち」から抜粋

 
5)灰色ギツネ 雌
重さ 9ポンド 3オンス
長さ 尾つきで 39 5/8 インチ

開の忠告で
皮剥ぐ前に
まずは 般若心経
 p135「漁師を前に 仏陀の戒を説くべからず」から抜粋
 

6)産業による水と空気の汚染に対しては、重い刑罰を----”汚染は誰かの利益”なのだから。内燃機関と石炭、石油の使用を段階的に止めてゆく。汚染なしのエネルギー源、太陽や潮汐流等をもっと研究しよう。

 核廃棄物について、大衆を欺すのは止めさせよう。その安全な処理は不可能だから、今は原子力発電を計画すべきではない。
p189「四易」から抜粋

 
7)合衆国、ヨーロッパ、ソビエトそして日本は、エネルギー大量消費の中毒にかかり、化石燃料を貪り喰らい、注射し続ける。これらの国々は、石油の埋蔵量が先細りになるにつれ、自らの中毒を続けようと、恐るべき原子力エネルギーの賭に手を染める。ここに賭けられるのは、未来にわたる生命圏の健全性なのだ。p207「エネルギーは 永遠の喜び」から抜粋

 
8)ロング・ヘアーの一部が農耕を志し、辺境へ帰ってゆくのは、郷愁に駆られて19世紀を再現しようというのではない。先住の民インディアンから、謙虚に学ぼうとする白人の時代がやっと現われたのだ。私たちの子供、またその子供がいく世代もこの大陸に(月の上ではなく)生き続けるには、いかにあるべきか。この土くれ、これらの樹々、これなる狼を愛し守り、”亀の島”の原住民となること。p211「エネルギーは 永遠の喜び」から抜粋

 
9)現代の国々は、今やこれら化石燃料に、まったく依存している。だが生けるすべての内奥には、源泉なる太陽に近く、しかも異なった形を取るエネルギーがある。それは内なる力。どこから? 喜びから。無常を、死を十分に納得し甘受し、この生を生きる喜び。定義するなら

 
     喜びとは
     互いに溶けまじり合い 抱き合い
     差別と対立の彼方 完璧で 無で 複雑な
     輝くひとつの世界を
     認識し 実現しようと
     湧き上がる 純粋な感動

     p227「”詩人といえば”について」より抜粋

<2>につづく

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2011/06/17

人の子イエス カリール・ジブラーン <1>

人の子イエス
「人の子イエス」 <1>
カリール・ジブラーン (著), 小森 健太朗 (翻訳) 2011/5 単行本 320p
Vol.3 No.0307 ★★★★★

1)当ブログは、年に2回、夏至(6月21日頃) と冬至(12月22日頃)を境に二期に分け、その期間に読んだ新刊本のベスト10を発表している。

2)その事に気がついて、最近になってチェックしてみたら、この半期に読んだ新刊本(10 /12~11/06に刊行された本)は実に15冊ほどしかなかった。少し、期間を以前まで膨らませても、せいぜい5冊増える程度である。

3)それには理由があった。3月11日に、にわかに東日本大震災が起こり、読書どころではなくなったのだ。まず、余震の凄さに、落ち着いて本など読んでいられない。僅かにつながったメディアやネットを通じて情報を収集し、自らの身の振り方を考えるのが精いっぱいだった。

4)自宅の書庫も見事に倒壊し、散乱した書棚をいつまでもそのままにしておくこともできずに、少しづつ片づけた。ようやく整理したかな、と思った時、4月7日の大きな余震でまた崩れた。もう、諦めて、ただただ棚に押し込んである本も沢山ある。

5)図書館ネットワークも完全に壊滅した。私の気ままな読書ライフを、潤沢に支えてくれていた地域図書館は、全て閉鎖に追い込まれた。いまだに完全復旧していない。その中でも、ようやく、この数週間、外からリクエストして、取り寄せてくれた本を、窓口で受け取るシステムが復活した。

6)地域の書店も全滅した。いまだに復旧していないばかりか、廃店に追い込まれてしまった書店もある。ふだんはあまり意識していなかったが、いかに書店に依存したライフスタイルであったか、しみじみと我が身を振り返ったのだった。

7)そんなわけで、3月11日以降、2カ月半あまりに渡って、我読書ブログも停滞せざるを得なかった。

8)しかしながら、いつかは終わってしまう筈のブログであり、読書の次のテーマを求めていた自分としては、こういう形で読書やブログが終わってしまうのもいいのではないか、と思っていた。

9)だが、そうもならない。読書には読書の必然性があり、ブログにはブログの必然性があったのである。読書の次のテーマに「森の生活」を置いたとして、結局、私は森の生活で、またもや「読書」をはじめてしまったのである。

10)ブログの次は、スマートフォンでツイッターだ、とばかり、新しいものに飛びついていた時だっただけに、震災後の近況を告知するのにはツイッターは役に立った。しかし、その140行という制約と、リアルタイム性が、良くも悪くも足かせとなった。

11)次第に余震も落ち着いてみれば、SNSもツイッターも悪いものではないが、一番落ち着いて書けるのは自分の今までのブログであることを再認識した。だから、結局、読書ブログとして、新たなるカテゴリを立て、また少しづつ本をよみ、ブログにメモを残す日々となってきた。このほんの数週間のことであるが。

12)そんな中、ようやく、待望の「新刊」と言えるものを読む機会が来た。カリール・ジブラーン。その代表作とされる「預言者」の邦訳は、当ブログがこれまで読んだだけでも10冊以上になる。翻訳は、小森健太朗Oshoも多くジブラーンについて語っている。当ブログとしては、従来の方向性の延長線上にある一冊にようやくもどり着いた、と言える。

13)そんな思いで、いきなり飛び付いたこの本であるが、3分の1ほど読んで、ふと、本を閉じた。まてまて、慌てるな。この本、とても読みやすい。以前から翻訳者からの情報もあり、期待どうりのできである。一気にこのまま読み切ってしまいたい。

14)だが、その気持ちの裏には、なんとか、今年の「上半期の新刊本ベスト10」にアップしたい、という気持ちが強くあることが、自分でも異常なことに思われてきた。ベスト10入りすることは間違いないだろう。しかし、読書の動機としては、すこし邪道すぎる。

15)ニコス・カザンザキス「キリスト最後のこころみ」や、荒井献「トマスによる福音書」、Osho「愛の錬金術」などとともに、当ブログなりに、このカリール・ジブラン「人の子イエス」を読んでみたいのである。

16)場合によっては、山浦玄嗣「『人の子、イエス』―ケセン語訳聖書から見えてきたもの 続々・ふるさとのイエス」とも関連しながら読み進めたいのである。山浦は、今回の東日本大震災で大被害を受けた宮城県気仙沼市において医業を開業している医師であるが、カトリックに籍を置く作家でもある。

17)その年の春のある日、イエスはエルサレムの市場に立って、大勢の群衆に向かって天の王国を説いた。
 またイエスは、天の王国を希求する者たちに罠を張り巡らし、陥穽に落とそうとする律法学者たちとパリサイ人たちを避難した。イエスは彼らを否定した。
 律法学者やパリサイ人を用語する者たちが群衆の中に大勢いて、イエスとその説教に耳を傾けていた私たちをも捕え拘束しようとした。
 しかしイエスは彼らの追求をかわしてそこから離れ、エルサレム市の北門の方へ歩んで行った。
 イエスは私たちに語った。「わが時いまだ来らず。いまだ語られざることどもわが裡に数多あれど、我天に召さるるより以前に為さるるべき数多の行為有り」 
p1

つづく  

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野の道―宮沢賢治随想<1>  山尾三省

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「野の道―宮沢賢治随想」 <1>
山尾 三省 (著) 1983/01 野草社 単行本: 234p
Vol.3 No.0306 ★★★★☆

1)三省のことは、それなりに知っているつもりでいたが、それは初期的なものばかりで、今回、図書館の蔵書リストを探ってみれば、知らない三省がたくさんいた。この「野の道」は、ずっと手元にあった本だが、もうすでに30年前のことになんなんとする古書の類だった。

2)野の道、という言葉と、森の生活、という言葉を重ねてみる。ほとんど同じ意味としてとらえることもできるし、その陰に三省やソローを置いてみると、かなり違う面もでてくる。そしてバックグランドに賢治やエマソンを置いてみると、三省が「森の生活」という本を書かず、ソローが「野の道」という本を書かなかった理由もわかる気がする。

3)しかし、二人をつなぐ延長線上にスナイダーの「野性の実践」がある。野→野性→森、道→実践→生活、としてみると、それはやはり同じような意味を言っているのではないか、とも思える。

4)野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニイテ 
p172「玄米四合」

5)賢治の有名な詩の一節だが、ここが一つの「ソロー・ハウス」の原点だ。

6)70年代後半、私は、インドの一年の旅を終えて、ふるさとに帰って見れば、いつの間にか、「農業実践大学校」というところにいた。そこで全寮制の2年間を過ごしたのだった。もっとも二年目の後半は体調を崩し、病院における療養生活になったが。

7)野、森、野性、の列に「農」を置いてみる。そして、道や生活の列の「実践」の文字をみつめてみる。それぞれに親和性のある言葉群で、この言葉から連想されるものは、一つのコミュニティを形成しているように思える。

8)<野の道を歩くということは、野の道を歩くという憧れや幻想が消えてしまって、その後にくる淋しさや苦さをともに歩きつづけることなのだと思う。>p5 「呼応」

9)真木悠介は短いまえがきの「呼応」のなかで、三省自身のこのことばを2回繰り返している。

10)私は今、野の道に立ち、野の道を歩いてゆくべく心を決めている。それは、私が選び、私がそのように心を決めたことではあるが、今となっては、私一個の選択や決心になにほどの力があろう。私は、私を含むより大いなるものの呼び声を聴いて、その声と共にただ歩いてゆくばかりである。p20「きれいにすきとおった風」

11)私は、この道を、やはり野の道と呼ぶ。その野の道は、狭く困難の多い道ではあるが、何処にでもあり得、何処にでも通じる法(ダルマ)の道でもある。p41「マグノリアの木」

12)上は三省が日本山妙法寺の藤井日達上人について語っているくだりである。私もまた78年3月に、スリランカ仏足山において日達氏のもとで一カ月の御修行の旅を共にさせていただいたことがある。

13)私の中にも出来得るならば車を棄て、プロパンガスを棄て、電気製品も電燈も棄ててしまいたいという気持ちがある。順子や子供達と分家して、山の中に別に一軒小屋を作り、自分だけでもそういう生活をしたいと思うことがしばしばある。p68「腐植質中の無機質成分の植物に対する価値」

14)1983年。1938年生まれの三省、働き盛りの45歳の時の感慨である。つづけてこういう。

15)けれども、そういう個人的な要求はさておいて、一人の人間として、人間社会の一員として思う時、私達は全体として太古へ帰ることなどは許されておらず、この文明の質の転換を試みる以外に方法がないことは明らかである。

 電気エネルギーというものは原子力エネルギーに比べればずっと良質のものであり、肯定してよいものであると考える。化石燃料としてのプロパンもトラックのガソリンも、使用可能な内は大切に使ってゆくしかない。

 私達の現状は、すでに科学技術文明のわく組みの中に深く組み込まれているので、それを完全に拒絶することはここに住む限りは非現実的なことになってしまっている。p69「腐植質中の無機質成分の植物に対する価値」

16)2001年三省は63才で亡くなった。屋久島の元廃村にいて、この感慨である。2011年、東日本大震災に伴う東京電力原発の壊滅的かつ破滅的事故のニュースを聞いて、三省なら、どんなことを記すのだろう。

17)(前略)真崎さんも宮沢賢治が大好きだということが判って、それで先年二人で出した「狭い道」に続いて、賢治をテーマにした本を作ろうではないかということになった。すると、同席していたこの本の発行者である石垣雅設さんが、僕も仲間に入れて、と言って下さったので、約一年がかりでようやく世の中に送り出されることになった。p231「あとがき」

18)三省の処女作「聖老人」をはじめ、多くの三省の著書の出版に関わってきた石垣氏は、今回の大震災後、所要で東北に寄られた。多賀城に行くということで同行したのだが、待ち合わせの場所として多賀城市文化センターに向かった。

19)そこは4月中旬だったので、まだまだ避難民が多く、全国ニュースの発信地にもなっていた。私は、ツイッターにメモするためにも、あいた時間を使って、センターの中に入ったのだが、彼らは決して避難所の中を覗こうとはしなかった。また、あえて、被災地の状況を見ようともしていなかった。三省も生きていたら、ひょっとすると、彼らと同じような行動を取ったのではないか、と思う。

20)思えば、今から60年か70年程前の時代、即ち宮沢賢治がまだ生きて呼吸していた時代は、幸福な時代であった。その頃はまだ一個のサイエンチストであることを、無条件で誇らしく思える時代であったのだ。p72「腐植質中の無機質成分の植物に対する価値」

21)この本について理解しているかどうかはともかく、感情移入し過ぎて、メモしきれない。

22)今から15、6年ほど前に、私達は、長野県の入笠山という山のふもとに雷赤鴉族という名の拠点を開いた。友人とお金を出し合って600坪ほどの畑地を買い、そこに大きな雷赤鴉族の小屋を造った。何十人もの若者が入れ替わり立ち替わり手伝いに集まってきて、八ヶ岳を眼前に見はるかす静かな山腹に、にわかに人間の花が咲いたようであった。p91「祀らざるも神には神の身土がある」

23)私のこれまでの人生は、ラーマクリシュナの言葉に出会ったことで方向づけられ、10年前にはその方向づけは熱狂とも言える形で進行している時期であったから、ドッキネーション寺院のラーマクリシュナの居室の前に立った時の興奮は、今思い出しても胸が高鳴るほどのものであった。p166「野の師父」

24)木を植えること、草を生やすこと、種を播くことは、太陽と共に在ることである。太陽を愛することであり、太陽をこの世界の最大の価値として新しく認識しなおすことである。ソーラーハウスや太陽電池の開発も意味あることではあろうが、それが現代テクノロジーの延長線上で為されるのであれば、そこには産業国家が現われ戦争が現われて、現在の核文明とさして変わることはない。

 私が野の道と呼ぶものは、太陽を最大の価値とし、太陽の下土の上で全人類が隣人ごとに民族ごとに親しみあい、交流し合って暮らす、小さな技術を持った新しい道のことである。p229「野の道」

25)この本において、三省は、賢治を語りながら、自分を語っている。読者に語りつつ、自分に語りかけている。この本において、私は、三省を読みつつ、賢治を読み、賢治を聞いて三省が聞いたことを、私自身のこととして聞こうとしている。

<2>につづく

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2011/06/16

イオマンテ めぐるいのちの贈り物

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「イオマンテ」 めぐるいのちの贈り物 北の大地の物語
寮美千子/小林敏也 2005/03 パロル舎 65p
Vol.3 No.0305 ★★★★★

1)この本を受け取って、さて、この本をどこで読もうかな、と思った。このまま自宅に戻って、寝っ転がって読もうか。森に行って読もうか。このまま車の中で読んでしまおうか。実際、読んでしまおうと思えば、あっという間に読んでしまえる童話風の絵本だ。

2)本としては大型だが、文字は大きいし(ルビまでふってある)、やさしい文体だ。それに絵がとてもイメージしやすく添えてある。小林敏也というひとの絵。

3)寮美千子、四冊目。一冊目がアメリカ・インディアン、二冊目がネパール(ヒマラヤだったかな)三冊目が岩手県遠野で、宮沢賢治が下地にある。そして、この四冊目は、北の大地アイヌの、熊の物語だった。

4)結局、森に行くのもまどろしく、近くの川原に降りて、ページをめくることにした。川原と言っても、一級河川だから、幅はやたらと広い。増水した時のために大きく川原が広く取ってあり、土手の内側には、畑や作業小屋があったりするし、野球場もある。

5)そして、そこは流木などが根づいたりして、既に森化しているのである。大水が出た時に流されるために、年輪を重ねたような大きな木はないが、それでも、樹齢数十年には至るだろうと思われる木々があちこちに森となっている。車で行きかう人びとの、ちょっとした隠れた休み場になっているのだ。

6)ある日、むちゅうで魚とりをしていたら、
いつのまにか、子熊がいなくなっていた。
青くなって、大声でよびながら川原をはしった。
ひとりで森に帰ってしまったのだろうか。
太陽はもりあがった雲のむこう、
雲のふちが金色にかがやいていた。
あふれる光が、
空いっぱいにひろがっている。
川は金の小舟をうかげたように、
まぶしくきらきら光っていた。
p22

7)このお話においては、「森」や「熊」とともに、「川」もまた、大きなファクターとなって登場してくる。なるほど、それで、私は「川」に呼ばれたのかな。

8)1991年の「スピリット・オブ・プレイス」のシンポジウムに参加していた姫田忠義・作「イヨマンテ」(1977)という長編ドキュメンタリー映画を見たことがある。たしか白黒映画だったので、明暗のメリハリの付いたトーンの強い映画だったが、それでも、そこに展開される熊送りの儀式の様子が鮮やかに写し取られていて、この絵本のように鮮やかな色を持っていたような感じがする。

9)この様な絵本をエンターテイメントとして読んでいいのだろうか。

10)高校二年生の修学旅行は1970年。ちょうど大阪万博の年だった。私たちの学年は大阪万博組と、北海道一周組と二手に分かれた。私はあの時、迷わず北海道一周組に参加したのだった。

11)高度成長期における明るい未来を象徴する大阪万博。それに比すところ、広い大地と、大自然の象徴である北海道。私はその修学旅行で、アイヌコタンを訪れ、熊を観たのだった。

12)今考えれば、それは観光地化されたアイヌコタンではあっただろうが、アイヌの人々の生活の助けになっていたことは間違いない。

13)北海道沙流郡平取町の山道(アシリ・レラ)さんが、時折、「アイヌ文化と歴史の会」、「沙流川を守る会」の会報を送ってくださる。何時だったか、21世紀になってからだと思うが、仙台に地震が来ることが分かったから、たまらず来てしまった、と、突然、わが家に来られたことがあった。

14)それから、わが地は何度も大きな地震に見舞われたが、あの時彼女が霊視していたのは、はて、今回の東日本大震災のことであっただろうか。あるいは、これからさらに大きな地震など、来るのだろうか。

15)いちめんの白が緑にかわり、はげしい夏の光がみちて、
実りの秋には赤や黄になり、またいちめんの白になる。
いくつもの季節がとぶようにすぎていった。
p54

16)こんなに簡単に、一年間を表現し、そしてもっと長い時間を表わすことができるなんて、びっくりした。

17)そう言えば、「コタン」という名前のラーメン屋さんをやっている人がいた。黙々と小さなお店を家族で切り盛りしているだけだが、それでも、あの生活態度には、どこか北の大地の子孫を思わせるところがあった。北海道から来た人たちだ、と聞いている。

18)この本は、「十勝場所と環境ラボラトリー」というところが、財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構の助成を受けて企画したものだという。この「場所と環境」の「場所」は、間違いなく、スナイダーいうところの「場所=プレイス」であろう。

19)北山耕平氏は私のブログの「場所を生きる ゲーリー・スナイダーの世界」について、「20世紀末期、スナイダーは『再定住』という生き方を提唱した。21世紀にはそれは『再土着』へと向かわざるをえないだろう。」とリツイートした。

20)そのネーミングが正しいかどうかはともかくとして、その意味は分かる。土着とは言わないまでも、私は、地域密着型の仕事を選んできたつもりではあるが、それは「再定住」や「再土着」に連なる態度であっただろうか。「地域密着型」から、「地球密着型」のライフスタイルへと変わっていく必要もあるのだろうか。

21)「めぐるいのちの贈り物」。小さな悪戯小僧だった私も、いつの間にか子どもたちは巣立ち、まもなく二人目の孫を持つ老人となった。今回の原発の放射性物質の汚染を考える時、何かとてつもなく大きな間違いをしてしまったのではないか、と、未来のいのち達に対して申し訳ない気持ちが起きてくる。この絵本を見ていて、なお一層そう思う。

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2011/06/15

雪姫 遠野おしらさま迷宮

雪姫(ゆき)―遠野おしらさま迷宮
「雪姫」 遠野おしらさま迷宮
寮 美千子 (著) 2010/09 兼六館出版 単行本 285p
Vol.3 No.0304

1)被災地情報としてツイッターでつぶやいていたところ、著者にフォローしてもらい、リツートしてもらっていた。図書館ネットワークが復活したら、とりあえずお礼も兼ねて、寮美千子追っかけをやろうと思っていた。本書は「父は空 母は大地―インディアンからの手紙」「言葉ふる森」につぐ、第3弾。

2)これがなかなか面白かった。ちょうどスナイダー→山尾三省→宮沢賢治と流れつつある当ブログにおいて、この小説は、岩手県遠野市の風土を背景としているのが、ちょうどタイミングとして良かったのだろう。

3)ソローよりはスナイダーのほうが同時代人だけに感情移入しやすいし、三省はさらに日本人であるという意味では、引き寄せて考えやすい。しかし、いまいち納得できなかったのは、「東北」という血を持っている我が性が、どうしても、他の地の話しにはすこしブレがあると感じてしまうからだろう。

4)それに比すると、小説ではあるが、熊谷達也の「邂逅の森」は面白かった。「場所」の思想とするなら、同じ市内に住む、同じ年代の、前職は私と同業であった熊谷の書きだすストーリーにはぞくぞくするものを感じた。もちろんそれは作家のなす技でもあるが、一読者として読む場合、より感情移入できる作品に出会えたほうが幸せである。

5)寮三千子は確か東京生まれで現在奈良県在住ということなので、東北にはそれほど縁がないと思われるが、その舞台となっている遠野は、まさに東北神話の源泉みたいに見られている地域でもあり、どこか東北人としてのこちらの琴線に触れられている想いがした。

6)「宮沢賢治は、地元が地元が誇る作家ですからね、地元にいれば、自然と詳しくなります。賢治は、岩手県をイーハトブとかイーハトーヴォと呼んだりしていたんですよ」
「イーハトーヴォ?」
「自分でそう名づけたんですね。エスペラントとはちょっと違いますけどね、その影響でしょう。岩手は、旧仮名遣いだと『イハテ』になるです。イーハというのは、きっとそこからきているのでしょう」
p87「フォルクローロ」

7)そう言えば、小学校以来の畏友・石川裕人(劇作家)が10代の時に立ち上げた劇団名が「座敷童子(ざしきわらし)」だった。私はその情宣を手伝い、ポスターやチケット、チラシを作ったりしたのだった。一緒に黒テントや状況劇場、夜行館などを見に行った高校生時代が懐かしい。だが、私は、芝居のほうには進まなかった。

8)あのあたりから私の小説嫌いが始まっていたのだろう。現実は小説より奇なり、とは誰の言葉か知らないが、それは本当だと思っていた。しかし今にして思えば、現実は現実として、それを表現しようとした場合、小説という形態でこそ表わすことができる場合が多いのだ、ということが、最近になって、ようやく分かってきた気がする。

9)「おらハなっす、生まれづき目が悪がったもんで、小さい頃、イタコの家さ養女さ出されだのす。イタコのおばあさんハ、あつこつ口寄せなどすながら旅すて回ったもんだのす。おらハ小さい頃がらずっと、それさ、ついて歩ぎますた。年頃さなるど、おらもイタコをするようになりますた。祭文などもたくさん覚えております。子どもの頃があら厳すく仕込まれますたがら。」p153「マヨヒガ」

10)今時、このようなネイティブの言葉を使っている人たちがいるのかどうか定かではない。隣県とは言え、私が育った田舎ともまた違った言葉使いだ。それに遠野にイタコという文化があったのかどうかも定かではない。イタコは恐山ではなかったのか。

11)もし私にその辺の詳しい知識があったならば、この小説の構造全体が崩れてしまうのかもしれない。だが、よくもわるくも遠野やイタコに対する深い知識はない。それがゆえに、小説から得るストーリーのほうが優先して、どんどん惹きつけられた。

12)これは、熊に対する知識がないために、「邂逅の森」にすっかりはまったのと同じような構図だ。

13)イタコのおばあさんといっしょに訪れるどの家にも、どの家にも、暗い秘密があったのす。秘密のね家など、ねのす。秘密ハ秘密である限り、暗ぐわだがまって、その場所さ閉ずこめられているのす。痛みも苦しみもそのまんまで。んだがら、知ってもらうべど、おらさ、話すかけてくるのす。そうやって救われるべとするのす。p231「ファターロ」

14)こういう言葉使いが本当にあるのか、一般的なのか、よく知らないが、「邂逅の森」においても、秋田のマタギの世界を表わすのに、似たような言葉が使われていた。小説においては効果的であると思うし、これが現代のNHK言語オンリーでは、表現され得ない部分もあったに違いない。

15)作者も、東北にそれほど縁があるとは思えないのに、よくまぁ、ここまで書いたなと思う。当然、取材旅行などはしただろうが、それでも、誰か地域考証してあげなければ、なかなかこうはいかないだろうと思う。たとえば、私は関西弁で小説などは絶対に書けない。

16)遠野。隣県なのに実は行ったこともない。先日、東日本大震災の被災地を巡った時に、釜石あたりで「遠野」の標識をみた。あ、ここから行けば遠野に行くのだと、まさに、ひとつの迷宮の入り口を見つけたような気分だった。次回、機会があれば、遠野にぜひ行ってみよう。

17)この小説は、作者における最新作である。作者の東北への思いがひしひしと伝わってくる。そんなところからも、この小説が、小説でありながら、どこか読み手の私の琴線にふれたのだろう。

18)私が育ったのは南部曲がり屋ではないが、東北の農家であることには変わりはない。馬もいたし、雪も降った。おしらさまはいなかったけど、家神様はいた。開かずの部屋に近いような納戸もあった。

19)親近感と言えば、スナイダーのような詩より、はるかにここに書かれている世界に共鳴している自分がいることを発見して驚く。

20)小説は小説である。「邂逅の森」もそうであったが、中ごろから、これは小説なのだ、だから、こういう展開になるんだと、すこし邪心を挟みながら、読み進めた。しかし、その直前、不思議なことがあった。ほんと久しぶりにデジャブがあったのだ。

21)2~3日前に見た夢でもあるようだし、ずっと前に現実にあったことだったかもしれない。なにかのきっかけがあった。私の中のなにかが開いた。だが、それもつかの間、それは消えてしまった。だけど、この小説は、確実に、私の中の何かに、何かをしてしまった。

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2011/06/14

場所を生きる<1> ゲ-リ-・スナイダ-の世界

【送料無料】場所を生きる
「場所を生きる」 ゲ-リ-・スナイダ-の世界 <1>
山里勝己 2006/03 山と渓谷社 単行本 327p
Vol.3 No.0303

1)空間は定住(あるいは再定住)の営みの中で場所へと変容していく。そして空間を場所へと変容させるものは、定住のプロセスの中で獲得される「場所」の感覚であり、「場所の感覚」を核として「場所の文学」が立ち上がってくる。p7「場所の文学とその現代的意義」

2)「スピリット・オブ・プレイス」(1991)シンポジウム以来、気になっていたプレイスという言葉が、この本によって、ようやくすっきりと収まってくれた。根なし草(デラシネ)文化における再定住だからこそ、「プレイス=場所」の意味があったのだ。

3)もし、現代日本の読者にとって宮沢賢治の詩が難解であるとすれば、その原因はどこに求められるのだろうか。ひとつには、もちろん1920年代の近代詩人であった宮沢が用いた日本語全般に原因があるのであろうが、「場所の感覚」という視点から言うならば、それは宮沢が頻繁に作品に挿入した科学用語や仏教用語に原因を求めることができる。

 ひとりの書き手がその作品で取り上げる「場所」は、生態学的な知識をもとに理解されるだけでなく、その自然表象に歴史感覚や宇宙観(あるいは宗教観)も包含して成立する。スナイダーについても同様のことが言えるが、宮沢の自然表象はそのようなもろもろの要素が複雑にからみ合っているのである。
p206「場所の感覚を求めて」

4)この本に出会って、ようやく宮沢賢治を読んでみようかな、と思った。そして、山尾三省再読のチャンスでもあるな、とも思った。そう言えば、三省には賢治をテーマとした「野の道」があった。この辺たりから始めようか。

5)ナナオ・サカキは1923年1月1日、鹿児島県で生まれた。両親は染物屋を経営、サカキは九州第二の河川である川内川の流域で育った。義務教育を終えると、鹿児島県庁で使い走りをした。(後略)p136「遭遇するカウンター・カルチャー」

6)以下、何ページにも渡ってナナオ・サカキの略歴が書いてある。いままで漠然としか知らなかった彼の経歴だが、興味がなかったわけではない。だが、あのような存在の経歴には関心を持つべきではない、と思っていたのか、知ろうとしなかった。しかし、今回、これほどほぼ完ぺきに書き出されたナナオの生涯を読み、あらためて、その存在の意味を想った。

7)スナイダーは、1950年代初期には、A・L・サンドラーの翻訳(1928年)で「方丈記」を読んでいた。たとえば、ウェイレンにあてたその書簡の中で「親愛なる鴨長明」と呼び掛け(1953年11月20日)、1953年12月9日付書簡ではウェイレンに禅堂を建てる計画を語り、さらに二年後に「東洋」へ行く計画が実現されなければどこかに土地を見つけて小屋を建て、「方丈記」のような生活をする、と書いている。p55「文明をひっくり返すために」

8)ヘンリー・D・ソローの「森の生活」と比較されることもある「方丈記」である。こちらも読みなおそう。

9)60年安保の全学連のリーダーのひとりであった山尾は、当時国分寺に住んでいたが、作家の宮内勝典が新宿にいたナナオと山尾を繋ぐ役割を果たしている。p140「遭遇するカウンター・カルチャー」

10)宮内勝典に対する当ブログの評価はきわめて低い。されど、そのような繋ぎの役を結果として担っていたのも事実なのだろう。

11)レイチェル・カーソンの「沈黙の春」(1962年)が散文の先駆的な作品であるとすれば、詩においては、カーソンよりほぼ10年早く、スナイダーが自然環境と人間の関係性について鋭い問題提起をしているのである。p158「『アメリカ』から『亀の島』へ」

12)この辺になると、贔屓の贔屓倒しになってしまいかねない。カーソンが一気に注目されたのに比較すれば、スナイダーへの注目は、そしてその自然環境と人間の関係性については、もっと後のこととなる、と見るのが正しいだろう。

13)エマソンはどうですか。
スナイダー エマソンは二流じゃないかな。
p80「インタビュー --場所の感覚」

14)と、エマソンを「二流」と切り捨てるスナイダーがいる。

15)フォークナーの「熊」はどう思いますか。
スナイダー 「熊」はすぐれた作品だと思います。アメリカン・ネイチャーライティングの偉大な古典のひとつですね。
p83「インタビュー --場所の感覚」

16)「熊」もまた、当ブログの新しい大きなテーマになりつつある。

17)仏教を含む東アジア文化と欧米文化の融合を試みる中で、スナイダーはひとつの「場所」から出発し、究極的には地球という惑星をその主題とする詩学を創造してきた。それは従来の「世界文学」という枠組みを拡大し、自然環境と人間の関係性という視点を導入することで、「地球の文学」とでもいうべきスケールを有するようになった文学である。このような文学をどう読むか、われわれの想像力が問われている。p267「終わりなき山河」

18)長年スナイダーと親交を深めてきた著者にこそ言える、ズバリとした切り口の解説が心地いい。

19)この土地の90%はいまではキャロルとスナイダー氏の所有となっている。ギンズバーグやベイカーの所有分を買い取った、将来は息子や娘たちに残すことになる、とスナイダー氏。p291「スナイダー訪問記」

20)スナイダーも、人の親だ。

21)かつてギンズバーグが所有していた小屋をケーリーが買い取り、改装して来客用コテージになっている。ここまで車で入れるように道ができている。屋根を葺き替え、床を磨き、シャワーを付け、キッチンには古いオーブン・ストーブを入れた。電気もここ専用のパネルを付けた。お湯や火は太陽熱とプロパン。電話もある。Eメールも使える。p207「スナイダー訪問記」

22)そうそう、こんなイメージが「ソロー・ハウス」。

23)(ルース・F・)ササキとスナイダーは、禅研究家として知られているアラン・ワッツを介して知り合っている。p57「文明をひっくり返すために」

24)う~む、アラン・ワッツも要・再読だな。

<2>につづく

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人間の終焉 ビル・マッキベン

人間の終焉
「人間の終焉」
ビル・マッキベン (著) 山下 篤子 (翻訳) 2005/8 河出書房新社 単行本: 360p
Vol.3 No.0302 ★★★☆☆

1)前著「情報喪失の時代」から約10年。マッキベンの著書にもネット社会の動向が色濃く反映されている。しかし、スタンスとしてはそれほど変わるものではなく、情報社会の大変革の中で、この人、ひたすらブレーキ役だけを引き受けてきたのだろうか、と、ちょっといぶかしくなる。

2)結局は、メソジスト・コミュニティにライフスタイルの軸足を置きながら、ジャーナリストというよりはサイエンス・ライター的な手法を使いながら、ひたすら警告を発し続けている人、というイメージが固まってきた。

3)「この宇宙は何処から来たのか」
「なぜ<無>ではなく、<何か>が存在するのか」
「意識をもつ存在には、どんな意味があるのか」

 失礼なことは言いたくないが、私たちはそんなことのために人間であることを引きかえにするのだろうか? もちろんこれらの問いは、とくに最後の問いは、重要である。しかしきわめて重要というわけではない。テクノユートピアンは無視しているが、同じくらいに切実な問いはほかにもたくさんある。たとえば「夕食はなんにしましょうか?」、「あなたはどう思いますか?」、「よろしければ力を貸しましょうか?」、「あなたもずっと私を愛してくれますか?」p
301「もう十分だ」

4)最終章になってこれらの言葉を見つけたのは、ささやかな幸いだった。だが、この結末なのだから、やはりマッキベンという人に感情移入できない自分がいることが理解できた。この人は、よくもわるくも西洋的良心派なのであって、東洋思想的精神性、無や空についての素養がないようである。だから、技術革新に歯止めをかけることによって、自らの精神性のバランスを取ろうとしているのだ。

5)この本において、「スピリチュアル・マシーン」(2001)、「ポスト・ヒューマン誕生」(2007)、のレイ・カーツワイルが引用されているところを面白くよんだ。メソジスト・コミュニティ的良心派においては、カーツワイルなどどうしても認めることはできない存在なのだろう。私も正直言って、ちょっと気持ち悪い、と思う。

6)しかしながら、「もう十分」と言う時、アーミッシュ的な前近代的なスタイルに留まることができない以上、遺伝子工学も含めて、さらなる「可能性」に突き進んでしまう必然性の前では、あまりに無力なように思う。

7)これらの技術革新に対置すべきは、良心ではなく「無」や「空」だ。意識のありようをさらに高めることによって、あるいは純化することによって、あるいは、本来あるべきところにあることによって、技術革新の流れに対応できる。

8)原子炉のようなモンスター・サイエンスは、いずれ自滅するしかないのだ。自滅させ、廃炉させたから、と言って、人間の究極の目的が達成されたわけではない。人間における、意識における、問いかけの、最初で最後、もっとも重要かつ、普遍的なテーマはなんであるのか。そこを対置していくしかない。

9)この本の英文タイトルは「ENOUGH : Staying Human in an Engineered Age」だ。日本語のタイトルは、十分ニュアンスを含めることができたのか、私は不満を持った。

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2011/06/13

情報喪失の時代

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「情報喪失の時代」
ビル・マッキベン (著) 高橋 早苗 (翻訳) 1994/01 河出書房新社単行本: 263p
Vol.3 No.0301 ★☆☆☆☆

1)時代はインターネットのビックバン以前のことである。やむを得ないと言えばやむを得ないが、あまりに時代感覚からはズレているのではないか。少なくとも、この時点で「情報」を語るなら、パーソナルコンピュータやインターネットについての洞察も、もうすこし組み込まないといけない。

2)アメリカの数あるケーブルテレビの一日分を録画して、山の一日と、テレビの一日を半年かけて検証するという、アイディアに支えられた企画ではあるが、だからどした、と、ちょっとどっちらけ。アメリカ文化に興味がある人は面白いかも。マッキベンという人がどういう人なのか、というアウトラインを知りたいなら、この本を手にとることも必要か。

3)この本でも、メソディスト・コミュニティについて触れている。この人のマインドは、西洋的良心派とでもいうべきカテゴリに、自らをはめようとしているのではないだろうか。

4)ソローやスナイダーやマクルーハンなどが時折引用されたり傍証に使われたりするが、こちらも、だからどした、という感じ。

5)企画力に頼った一冊だったが、ここでぜひとも登場しなければならない一冊とは言いにくい。この人、「自然の終焉」ではかなりデカい口聞いているが、意外と凡人だったりして。

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自然の終焉―環境破壊の現在と近未来

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「自然の終焉」 環境破壊の現在と近未来
ビル マッキベン ビル (著) 鈴木 主税 (翻訳) 1990/01 河出書房新社 単行本: 278p
Vol.3 No.0301 ★★★★★

1)マッキベンには4冊の主著がある。この「自然の終焉--環境破壊の現在と近未来
(原著1989)、「情報喪失の時代」原著1992)、「人間の終焉--テクノロジーは、もう十分だ」(
原著2003)、「ディープエコノミー---生命を育む経済へ」(原著2007)。このような場合、新刊から読むべきなのか、刊行順に読み進めるべきなのか、悩む。

2)今回は、ソロー繋がりで、上岡克己「森の生活―簡素な生活・高き想い」の中にマッキベンの「自然の終焉」を見たことがきっかけになったので、この本から、つまり刊行順に読み進めることにする。

3)小数の人びとが、たいてはソローに感化さえて、大学の三学年を休学してどこかの人里離れた湖のほとりでテント生活をしたであろうが、その人びとにしてもたいていは普通の社会に戻ってきている。この事実を説明するには、ソローの説---われわれはそうするよりしかたがないと考えるということ---が参考になるかもしれない。(中略)

 われわれはよい暮らしをしている。世界は、20世紀末の西欧諸国の大半の人間にとって、なかなか住み心地がよ。湖のほとりでキャンプ生活をするヒッピーの数が多くないのはそのためだ。われわれはキャップが好きだが、それは週末だけのキャンプ生活である。p215「より困難な道」

4)マッキベンの言は、警句に富み、どこかニヒルで、いささか読みにくい部分も多いが、時に1989年におけるレイチェル・カーソンの「沈黙の春」たらん、としたことを思えば、多少の無遠慮な表現は当然のこととも言える。

5)この本も、彼女(レイチェル・カーソン)の著書と同じ道を行かなければならない。これを書いている現在、温室効果は政治上の重大な懸案の一つとして---おそらくは最も重大な政治課題といsて---浮上史は而得んている。p174「不遜な対応」

6)バックミンスター・フラーを語り、ラブロックを語る。そして遺伝子工学に触れる。

7)原子炉は電気をつくりだす新しい方法である。しかし、遺伝子工学は新しい生命を作り出す初めての方向なのだ。これは驚異的な考え---ある生物学者の表現によれば「第二のビックバン---である。物理的な意味でも商業的な意味でも、史上最も重要な科学上の進歩のうちに数えられる---温室効果の脅威のただなかで従来の生活様式、経済成長を維持するための頼みの綱となる方法である。p200「不遜な対応」

8)Oshoは「大いなる挑戦---黄金の未来」(1988)の中で遺伝子工学に触れていた。極めてデリケートなテーマである。

9)私はかなりまともなメソジストで、日曜日には教会に行く。それは交際のためでもあり、イスラエル人の歴史や福音を重視するからであり、讃美歌を歌うのが好きだからでもある。しかし、私が神の存在を最も強く感じる場所は、この「神の家」ではない---戸外の、太陽に温められた松林の斜面や海岸の波打ち際なのである。このような場所でこそ、人間がこの神秘を包みこむために考え出した木の滅入るカテゴリー---罪、贖罪、受肉など---が消え去り、善と優しさが世界に働いていることが圧倒的に感得される。p95「自然の終焉」

10)人間と地球(自然)の間に存在するもの---技術。石や火に始まる道具の類は、今、原子炉を通り越し、生命の根幹たる遺伝子工学へと及んでいる。

11)宗教はなくならないだろう---決してなくならない。おそらく、終末論的な狂信的な宗教がはびこるだろう。しかし、神についてのある種の考え方---述べられないものを述べるための、ある種の言語---は消え去るだろう。p105「自然の終焉」

12)ソローが森に入ったのは人間を救うためであって、自然を救うためではなかった。彼の著作は人間中心主義の強いものであった---彼にとっては、人間が自然を冒涜することは人間が自然を冒涜することほど憂慮すべき事態ではなかった。自然は重要であったが、それはすばらしい教科書としての重要性だった。p219「より困難な道」

13)この辺の領域に立ち入れば、問われているのはソローでもなければ、マッキベンやレイチェル・カーソンではない。読み手であり、思索者であり、人間として地球=自然の中に存在している、私自身こそが問われていることになる。

14)純粋に個人的な努力は、もちろんただの意志表示にすぎない---良い意思表示ではあるが、やはり意志表示に留まる。温室効果は、われわれが森に移住しても逃げられない初めての環境問題である。個人的な解決はない。意識に目覚めた子どもたちを育てれば、彼らが少しづつ世界を変えていくだろうと言っても、そんな時間の余裕はないのだ。p254「より困難な道」

15)この文章が書かれてからすでに22年。地球上においては、放射性物質の本格的な漏えいという、新たなるパンドラの箱が開かれてしまった。

16)われわれが自然の終焉を間近にしていたころ、ソローの文章はますます価値と重要性を増していったが、彼の言葉がわからなくなり、洞窟に描かれた絵の意味がわれわれにわからないのと同じように、彼の考えが未来人にとって意味不明となる日が足早に近づいている。p263「より困難な道」

17)マッキベンが自らをメソジストと自己規定する中で、自然を見、環境問題を考えている。この著に始まる彼の思索はまだまだ続くのであるが、科学、芸術、意識、の三つの融合の視点から見た場合、科学や芸術に対する言及に比べ、意識への言及が少なすぎる。意識こそが、科学や芸術の上に立つものであってみれば、更なる思索を、他書において求めたい。

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2011/06/12

ガイアと里―地球と人間のゆくえ<1> 山尾三省+プラブッタ

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「ガイアと里」 地球と人間のゆくえ 屋久島対談 <1>
山尾 三省 (著) , スワミ・プレム・プラブッダ (著) 1986/01 地湧社 単行本: 221p
Vol.3 No.0299 ★★★★★

1)発行1986年1月。あらためて月日の過ぎる速さを感じる。あれから四半世紀が過ぎた。プラブッダの本は、このブログが始まる前にまとめ読みして、某SNSに列記しておいた。三省の本はほとんど持っているが、一度、まとめて再読してみようとは思っていた。その機会がめぐってきただろうか。

2)「山」と呼ぶべきか「森」と呼ぶべきか、を考えていたが、この二人は「ガイヤ」と「里」という概念を出す。本人たちの生き方に大きく関わるテーマである。どのように言おうとも、二人にとっての「ガイヤ」であり「里」である。いずれが正しい、いずれが間違っている、ということもない。

3)しかし、今、私自身が抱えている問題は、「ガイヤ」でも「里」でも解決できないだろう。地球生命圏としてのガイヤのイメージは魅力あふるるものだが、そこにはプラスαのイメージが付きすぎている。「里」は、三省を通してこそのイメージであり、単体としてのイメージではむしろ、「山」や「森」に対置すべきものとしてあるようだ。

4)P:排尿処理の仕方から、農業のやり方---有機農法、またもっと進んだかたちの自然農法などは、大きな意味では適正技術に含まれるとぼくは思いますし---よく取り上げられる例では、石油をたいて暖房する代わりにソーラーシステムで太陽熱を利用するというようなこともあります。p51「里からの科学のながめ」

5)基本的な「自然」農法的な試みは、すでに近代化以前に広く日本一般に実践されていたものがほとんどだ。なにか「適正技術」と言われてしまうところに目新しい想いもあったが、これは屈折した視点からのレポートにすぎないのではないか。

6)三:いま、「場」という言葉がでてくると、なにかすごくうれしいですよね。それで、サイエンスの言葉として場というと。
P:フィールド。
三:フィールドですか、あれは。その「場」という言葉がでてくるときに、やはりぼくたちは---プラブッタもそうなんだけど---この島にいて一つの場というものがあるわけですよね。自分の考えとしては、やはりこの場がすべてであるという感じがするわけです。
p83「神秘へと啓かれた科学」

7)三省にしてもプラブッタにしても、東京から屋久島に入ったわけで、決して長い期間住んでいたわけではない。いずれはそこから離れることができる人間。あるいは、「場」を持っていない人が、疑似的に「場」を持ったときに、感動的に「場」を語っているだけで、実は、やはり「場」からは疎外されているのではないか。

8)「場」は、フィールドではなく、英語では「プレイス」と表現されているのではないだろうか。

9)今となっては、時代ものとしてしかこの本を読めなくなっている。示唆に富んではいるのだが、多弁な二人がどこでどういう形でダブルスタンダードで表現しているのか、よく注意しないとわからない。Pはこの本においてOshoを多く語っているが、説明的で、どこまでが本音かよくわからない。

10)よくもわるくも1985年後半における、二人の「作家」の近況報告、というニュアンスが強い一冊。地湧社の企画によってできた一冊。

<2>につづく

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2011/06/11

東日本大震災 アサヒグラフ

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「緊急復刊アサヒグラフ」 東北関東大震災 2011年 3/30号
朝日新聞出版 2011/3 雑誌 p82
Vol.3 No.0300

1)今年もまもなく夏至を迎える。当ブログは年に二回、読んだ新刊本のベストランキングを発表している。今年度の上半期発表の準備をして気がついたのだが、その新刊本のジャンルに入る本は、僅かに15冊しか読んでいなかった。しかもそのほとんどは3月11日以前に読んだ本だった。

2)3月11日を境に、読書などできる環境ではなくなった。電気が来ない。書店が営業しない。図書館が壊滅。どれほど、メディアで報道されたとしても、眼の前に展開されているリアリティのほうが重かった。

3)テレビもまともに見れない、新聞雑誌など読むこともできない環境の中、新聞販売店がわずかに稼働しているのを見て、この一冊のグラビア雑誌を購入していた。震災後10日くらい経った時だろうか。

4)表記もまだ東日本大震災という名前に統一されていない段階のものである。正直言って、買ったものの、まだこの雑誌を読んでいない。見なくていい。何年かあとに、ああ、こういうこともあったなぁ、と振り返るチャンスになればいい。

5)この本にレインボー評価などできない。しかし、ベスト10を作るとするなら、この本は、ベスト1に来なければならない。だから、ランキングのためにだけ、この評価をしておく。本当の気持ちは、無視して、引き出しの下にいれたまま、忘れてしまいたい。

6)3ヶ月近く経過して、ようやく正常稼働し始めた図書館には、震災関連の図書が沢山入っている。ひとつひとつ読んでみようかなと思い立つ時もあるが、リクエストの数が多いので、私の順番が来るまで、時間がかかりすぎる。読むのは、今年後半か、来年以降になるだろう。

7)このグラビア雑誌、巻頭を飾るのは私の故郷である。その故郷から数キロしか離れていないところに住んでいるわけだから、私はこの雑誌を見て、現地を想像したりする必要はない。見たければ、自転車ですぐそばまで行けばいい。

8)いや、本当のことを言えば、雑誌など見る気にもなれないし、現地の惨状の写真など一枚たりとも撮影することができない。

9)「大津波と原発 故郷が消えた」 こんなコピーなど書ける訳がない。本当のことだから。表現は、何か表に出ていないことを表わすことだろう。すでに表に現れていることを、表現しなおすことなどできない。

10)風化するのを待つのか。風化しないように記憶し続けるのか。

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2011/06/10

邂逅の森

【送料無料】邂逅の森
「邂逅の森」
熊谷達也 2004/01 文藝春秋 単行本 456p
Vol.3 No.0298 ★★★★★

1)読書って面白いのかも、と思わせてくれた本。当ブログを書き始めたきっかけはいくつかあり、その一つは「ウェブ進化論」。それは「ブログ」にポイントがあり、それだけでは「読書ブログ」にはならなかった。図書館から本を借りてみようかな、と思ったのは、この「邂逅の森」のあらすじを、ドライブの途中でナビゲーター役の奥さんが、眠気覚ましに話してくれたのがきっかけだった。

2)とはいうものの、小説はいたって好きではないほうで、実際に読むのはどんどん後回しになっていた。いまいくつかのステップを経て「邂逅の森」に邂逅したのも、「山の神様」のお導きかもしれない。いや、そうに違いない。

3)スナイダーの描く山や森よりも、熊谷達也の描く山や森のほうにリアリティや親近感を感じたのは、書かれている現場がが近くにある、ということがあるだろう。人間関係的には2次の隔たりである。同時期に同業をしていた。極めて身近に思える作家の一人。会う気なら、いつでも会える距離にある。

4)しかし、「クマ」にまつわる話は私にとっては初めての話。森の生活が始まったこと。そこのニホンミツバチを狙ってクマが来るという話を聞いて、あらためてクマとの距離をはかった。

5)森でクマと遭遇しないためにはどうするか、ばかりを考えていた。ところがマタギの世界では逆だ。いかにしてクマと会うかを画策する。クマ対人間。逃げるのは人間だと思っていたが、マタギの世界では逃げるのはクマである。終章においては、そうばかりも言えないが。

6)山や森、マタギの世界は、隣県で行われていたとされる業態にせよ、あまりに生々しく、息をのむようなシーンが続いた。

7)後半は、クマや森から離れて、寒村や人間関係の「小説」となり、すこし「ものがたり」ぽくなってしまって、通常の小説となっている。だから「リアリティ」という意味では、こしらえられている、という感じがする。それでもやはり、その話を聞いてから7年ほど経過してから読むこの小説には素直に感動した。

8)里人には、ただただ混沌とした森が続いていると見える奥山の相も、富治たちマタギにとっては、狩猟の山として実に秩序だって見えるのと同様、明治から大正へと時代が移り行くにつれて近代化が進んできた鉱山の佇まいには、採鉱の山としての合理性と秩序がある。それが今の富治には、まだ見えていないだけだとも言えた。p143

9)自然林にはいり、そこに身をおいてみて、そこにある「秩序」に気づくには、更なる時間が必要となる。最後まで気づくことができないかもしれない。あるいは、運よく、ひとつふたつに気づくことができるかもしれない。

10)こんな山の奥に、これだけでけえ街があって、欲しいものはなんでも揃っていてよ、麓にはないような電灯の明かりまで点いているってこと自体、何かが間違っているように思えてならねえ。人間てのは、お天道様と一緒に生きていくべき生き物だって、俺ぁ思うんだ。p243

11)そうなんだけどなぁ。この小説を読んでいる間はそう思う。すっかり小説の中の気分に浸っている。だが一旦小説を離れると、この小説の方が、現代では通常のことではない。

12)だどもな、本来、ウサギの幸せは野山を駆け回ることだべ。そうすた幸せを最初から奪っておいで殺すのは、決していいことではねえのしゃ。そうまですて獣を殺さねばなんねえ今の世の中は、徐々に狂ってきてるように、俺には思えてなんねえんだ。俺達マタギも、自分らでもわがらねえうちに、欲ば大っきぐすてすまったような気がする。p403

13)遠くマタギやアイヌの世界では、熊を祭る儀式があった。自然に対する感謝と、自制の念が、狩手としての人間側に大きく働いていた。その秩序が、何時の間にか、大きく外れていた。今や、自制の念や感謝の気持ちがあったことさえ、忘れ去られている。

14)ミナグロだのミナシロだの、あるいはコブグマだのな、マタギさ伝わる獲ってわがんねえクマが現れるのは、山の神様がらの人間さ対する警告なのしゃ。森や獣の何かがおがしぐなりはじめている時に、奴らは姿を現すに違えねえんだ。俺を獲るのはかまわねえ、しかし、俺と刺し違えてマタギとしてのおめえも死ね。そう語ってんだべな、たぶん。p404

15)読み進めるうちに、どんどんストーリーに吸い込まれ、一気に読み切ってしまった。だが、最後の最後の部分は、う~ん、結局はエンターテイメントの小説なんだな、と思わずにはいられない。この辺は、もっとリアリズムに徹してもよかったようにも思う。

16)熊谷達也。もうちょっと読んでみようかな。巻末に「参考文献」として10数冊の「マタギ」関連の書物が掲載されている。こんなにあるのか。

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2011/06/09

森を読む 種子の翼に乗って ソロー

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「森を読む」―種子の翼に乗って
ヘンリー・D. ソロー (著), 伊藤 詔子 (翻訳) 1995/01 宝島社 単行本: 270p
Vol.3 No.0298 ★★★☆☆

1)ソローは死に先立つ数年「この原野の言葉を学ぶ」ことに強迫の念さえ覚えるようになった。彼にとって森は読まれるべく待っている一冊の本であったが、文法を掌握し構文の音律を学ぶのにかなりの時間をつぎ込まなければならなかった。彼は自然の秩序を信頼していたので、勤勉な学徒ならば確かめうる全植物形態の深遠な構造があることを信じていた。p7

2)植物学や博物学のような知識の網羅は、記憶力の劣った初老の読み手にとって、かなりの重労働だ。もともと理科が苦手な自分としては、これだけの量に目を通すのはほとんど不可能。

3)されど、後にレイチェル・カーソンやビル・マッキベンなどに連なる系譜のルーツのひとつがここにある、と理解できれば、この本を一度は開いた意味がある、ということだ。

4)森にベースキャンプをつくり、そこに何年も住みつき、あるいは通い、じっくりとその森を観察する、という活動はとても魅力的に思える。そのような森に巡り合えるのか、そのような観察の機会が与えられるのか。

5)森を読む、というタイトルはなかなか示唆的だ。そうありたい、と願う気持ちより、それは無理だろう、と諦めてしまうほうが先に来る。そもそも人間としての素質が問題になるだろう。

6)図書館に通っているうちに、いつかは数千冊の本についてコメントしてしまったように、なにかのスタイルを見つけ出せば、実は「森を読む」ことができるようになるかも知れない。

7)そんな淡い期待をもちつつ、今日のこの快適な気候の一日、森へのドライブを楽しんできた。

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翼ある生命(いのち)―ソロー「森の生活」の世界へ

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「翼ある生命(いのち)」 ソロー「森の生活」の世界へ
ロバート ブライ (著), Robert Bly (原著), 葉月 陽子 (翻訳) 1993/11 立風書房 単行本: 198p
Vol.3 No.0297 ★★★★☆

1)森の中に自らのハウスを建てるとして、ソロー・ハウスと名付けるのがよかったか、スナイダー・ハウスと名付けるのかよかったか。それは悩むまでもなく、元祖ソロー・ハットにちなんでソロー・ハウスにすべきだった、と確信する。

2)スナイダーは、キットキットディジーにおいて、いまだ健在であり、すでに40年の「再定住」生活を送っている。それは立派な定住だ。定住しがたい「場」における定住であったとしても、それは定住であり、定住には定住の良い点もあるだろうし、思わぬ陥穽もあるはずだ。

3)2年2カ月と2日で、ウォールデンの地を去ったソロー。通過者として、あるいは「逗留者」として、その地に留まったソローだからこそ感じ得たこともあるはずだ。そしてその短い期間だからこそ、ある局面については、実にシンボリックに物事を表わすことができる。

4)スナイダーは、その「家」にこだわるべきではないだろう。むしろスナイダーにとっての「家」は「地球」そのものであってしかるべきだ。決して家族生活を送るプライバシーが保たれた空間を、なにか特別なものとすべきではない。

5)さて、わがソロー・ハウスのこれからの行方は、というと。元祖ソロー・ハットに肉薄できるかどうかはともかく、「ハウス」という概念まで到達するには、ソローのイメージはどうしても有効だ、と思える。

6)問題はその後だ。現在の、1×4材を骨組みとして強化した大型テントで、実は個人的「森の生活」を送るのは十分なのである。雪深い森とは言え、風にさえ飛ばされなければ、十分冬を越せると判断する。

7)しかしながら、2年位は持つだろうが、40年は持たないだろう。数年のうちにその森を離れるのか、ついの住処をそこに見つけようとするのかでは、取り組みがおおいに違ってくる。当然だが。

8)ソロー・ハウスがソロー・ハウスで終わってしまうなら、それは一つの青年期の試み、ということでカタがつく。老年期にそれを思い立ったとするなら、青年期のやり直しにすぎない。

9)わがソロー・ハウスの次に待ち構えているのはなにか。スナイダーにちなんで言えば、ZENであろう。ソロー・ハウスからスナイダーZENへのステップを見つけることこそ、ソロー・ハウスの目的そのものだと言える。

10)孤独のうちに入ってゆきたければ、社会からだけでなく書斎からも隠棲しなければならない。読んだり書いたりしているとき、私はひとりでいるが、孤独ではない。ひとりきりになりたければ、星を見上げればいい・・・・・・自然の懐に抱かれていると、人は心からの悲哀に浸されているときでさえ、荒々しい歓喜が身内を駆け抜けるのを感じる・・・・  p11 ラルフ・ウォルドー・エマーソン「自然」より

11)ソローの師にして友人、エマーソンにおける「孤独」とはなにか。わがソロー・ハウスは人里離れた森の中にあったとしても、モバイル・ルーターWIFIを使ってネット接続するだろう。そこでは「孤独」をON・OFFできる。

12)スナイダーはもうすこし深く進む。ZENへと進む。ZENへといざなう。

13)雪が降りしきり、森で風がうなりをあげる冬の長い夜にはよく、この植民地が開かれた頃の入植者であり地主であった人物がぼくを訪ねてくる。ウォールデン池を掘り、岸を石で固め、そのぐるりに松の木を植えたと伝えられている人だ。彼は昔の話や新しい永遠の話しをしてくれる。林檎や林檎酒なんかなくても、陽気に笑い、気持ちのいい意見を交換して、ふたりで愉快な一夜を過ごすことができる。とても賢くてユーモアのある友だちで、ぼくは彼が大好きだ。ゴフやウェイリー以上に謎に包まれた人物で、死んだと思われているが、どこに葬られているのか誰も知らないのだ。169p「森の生活」「孤独」

14)森の中にハウスを作ろう、と思いたった時にはソローが役立った。ここはソローにしかできない役割がある。しかし、森の中に足がかりができてしまえば、私なら、ここからZENへと進む。これからはスナイダーZENが役立つだろう。

15)自然よ、ぼくは望みません、
あなたの聖歌隊の長になりたいとは。
大空の流星や
天翔ける彗星になりたいとは望みません。
願うのはただ西風になること、
低きを流れる河のほとりの葦をそよがせる西風に。
隠れた場所をください、
そこでかろやかに駆けめぐれるように。
誰も知らふひそかな草原で
葦笛に吐息をもらさせてください、
でなければ、木の葉のさんざめく森で
静かな黄昏にそっとささやきかけさせてください。
あなたの子となり、
野性の森であなたの生徒となりたいのです、
ほかの場所で人びとの王となり、
心労の高貴な奴隷となるよりも。
あなたの曙の一瞬を楽しみたいのです、
街でみじめな一年をすごすよりも。
ぼくに静かな仕事を与えてください、
ただ願わくはそれがあなたの身辺で為す仕事でありますように。
p179 「自然」

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2011/06/08

スナイダー詩集 ノー・ネイチャー<1>

 スナイダー詩集 ノー・ネイチャー

「スナイダー詩集 ノー・ネイチャー」 <1>
ゲーリー・スナイダー/著 金関寿夫/訳 加藤幸子/訳 2002/01 思潮社 単行本 233P
Vol.3 No.0296 ★★★☆☆

1)ゲーリー・スナイダー。ロックスターかポップアーティストみたいで、カッコいいけどな。ちょっとカッコよすぎるところが、妬けるところでもあるし、いまいち、のめり込めないところでもある。

2)スナイダー詩集。読み始めても、どこかバージンスノーに足を踏み入れるような感動がない。すでに古典になっているのか、50年前の詩から始まったり混在したりする。スナイダーという「詩人」を理解するのに、それほどに、その個体史をたどらなければならないのか。

3)「最後のビート詩人でありながら、ポスト・ビートさらに、ビートを突き抜けた詩人 スナイダーの本邦初の選詩集。」裏表紙コピー

4)いまさらながらに「ビート詩人」と呼ばれることに、本人はどう感じているのだろうか。一つの遺産として多いに受け取っているのか、すでにそれなしには自らの思想の原点を持てない、ということか。

5)1930年生まれのスナイダー。既に80才を超えている。かっこいい彼のプロフィール写真に誤魔化されてしまうが、いまだ健在とは言え、すでに高齢者の領域に達している。

6)おれが今日いいにきたのは、
ほかでもない循環(サイクル)のことを、子供たちに教えてやれってことだ。
そう生命の循環のことを、それからすべてのものの循環。
宇宙のすべてはこれにかかっている。ところがみんなが、そいつを忘れてるんだ。
p146「ル―へ/ルーから」

7)本人はどう歌っているのか。どんな心境を今生きているのか。だが、周囲がすでに「ゲーリー・スナイダー」という「ポップスター」の存在になじみ過ぎている。

8)この詩集のタイトル。「ノー・ネイチャー」という言葉に、どんな思いがこめられているだろう。ここでは「ネイチャー」にポイントはない。「ノー」のほうに大きなウェイトがかかっているだろう。無だ。無死、無我、無心の無だ。無自然。

9)無がないことには循環はできない。どこかで原点に戻ってこなければならない。あるいは、常にいまここに戻るからこそ循環できる。

10)霜が寝袋の上に積もる。
焚火の最後の燃え滓、
お茶をもう一杯飲む、
ここはまわりを雪に縁取られた 高い湖のほとりだ。
p152「戦略空軍総司令部」

11)またいつもの儀式だ。ぼくはパッと目をさまして
ふらつきながら起き上る。足がやっと立つ、
棒を掴んで、闇の中に駆けこむ----
ドッドッと床踏み鳴らし
洗熊に向かって吠えるぼくは大鬼だ。
奴らはすごい勢いで 部屋の隅を走りまわる
引っ搔く音がして
   奴らが気に登ったことがわかる。
p154「ほんものの夜」

12)「もう50に手が届こうというのに」p156というところを見ると、この「ほんものの夜」もすでに30年以上も前の詩なのだ。

13)「老子」がどう言っていたか
思い出してみるがいい。道が大事なのではない。
どの道を行っても、行きたい所へは行けないだろう。ぼくらは、道を大きくそれてしまった。
p198「道をそれて」

14)スナイダーを理解するには、もうすこし周辺を歩いてみる必要があるが、結局は、人々はスナイダーという一詩人に多くを期待しすぎる。詩人はひとり野に生きるのであって、我もまた、ひとり野に生きていかなければならない。一人の詩人をどれほど高く評価しようとも、それはこのような詩人の正しい評価の仕方ではない。

15)スナイダー、好きだな。カッコイイな。だけど、スナイダーの「読み方」は、一冊の詩集の中から読みだす何かを探すことではない。それではむしろ、本の栞として挟んだ「押し葉」のようなものになってしまう。それをもし「自然」というなら、それは本当の「自然」ではない。それを超えたところ、「無・自然」にこそ本物がある。

16)ノー・スナイダー、となることこそ、この詩集の正しい読み方だ。

<2>につづく

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言葉ふる森 作家による「山」のエッセイ・紀行30編

言葉ふる森
「言葉ふる森」 作家による「山」のエッセイ・紀行30編
山と渓谷社・編 寮美千子・他, 2010/2 山と溪谷社 単行本: 176p
Vol.3 No.0295 ★★★★☆

1)寮美千子追っかけを始めようかな、と、まずは最近本を手に取ってみた。巻頭に寮の文章が掲載されてはいるが、これは30人の作家たちによる山のエッセイ集だった。めぼしいところには目を通したが、他の人々は、今回割愛した。

2)私が今テーマとしているのは、「森」なのか、「山」なのか、という惑いがある。「街」、「都会」、「里」に対置するものとしては「山」のほうがイメージしやすいが、どうしても、そこは旅人として訪れる通過点というイメージがある。

3)「森」は、街や里の機能の一部でもあり、字は違うが「杜の都」を標榜する都市もある。

4)山はどうしても、高山、草木さえ生えぬ超絶した絶壁さえ連想させる。対して森は、どこか優しげだ。あかずきんちゃんがお祖母ちゃんを訪ねていくのは森だったのではないだろうか。

5)森は緑豊か、というイメージがある。

6)私が読書してみようかな、と思ったきっかけに「邂逅の森」という小説があったことを、今回、この30人の中の一人として熊谷達也が含まれている事で思い出した。

7)6~7年前のことになるだろうか。奥さんとドライブしていた時に、私の眠気覚ましにと、最近読んだ本の内容を奥さんが話してくれた。最初は単なるダイジェストだと思っていたが、かなり濃密なストーリーで、あっと言う間に数十分が過ぎてしまい、眠気もすっきり富んでしまって、目的地にたどりついたのだった。

8)あの時、語ってくれたのが熊谷達也の「邂逅の森」だった。これをきっかけに私は、図書館に通うようになり、ブログまで書くようになった。しかし、実はまだ「邂逅の森」そのものは読んでいない。

9)こうしてみると、熊谷達也が「マタギ」に魅力を感じたのは、名前に「熊」がついているからではないか、と思った。

10)いざ、山と言わず、里山の森に入ってみると、結構な熊の出没形跡がある。かくいうわがソロー・ハウス近辺にも、ニホンミツバチの餌を狙い、クマが出没しており、養蜂家を泣かせている。

11)人はクマから逃げようとするが、クマもまた人から逃げようとする。マタギは、そのクマを追うのが仕事だ。今度、熊谷のマタギ三部作とやらを読んでみよう。

12)佐伯一麦も文を寄せている。この人の本もまったく読んだことがない。そのうちテーマの接近を感じることがあれば、目を通してみようと思う。

13)ああ、剥きだしの地球を歩いている、と感じた。天然自然の緑豊かな風景よりも、その岩だらけの無機質な光景が、わたしの心を慰めるのだということに気づいた。
 もともと、花よりは星、木よりは石に深い共感を覚えるわたしだった。より死に近いものが、より永遠に近く、親しく感じられる。
p009寮三千子「はじめのひと滴」

14)ここで語られているのは「山」だろう。「森」ではない。しかし、ここではっきりと、「森」に対置するものとして、「山」の存在をあらためて思い起こす。

15)「森」は「街」に近い。どうかすると「街」に取り込まれている。我が家のビルドイン・ガレージから、ソローハウスのテントの前まで、約40分。プリウスは音も静かに私を運んでくれる。地続き、別荘というより、庭の離れ、という感じさえする。

16)対して、「山」は、狭義で言えば、もっと超絶した峰を連想させる。「街」にいて、見えなくなったものを、「山」に行く途中の「森」で発見しようというのだろうか。

17)「街」にいて、生が枯れかかった時、人は「山」の死を想い、「山」まで行くことを「森」まで出かけることによって、疑似体験しようというのだろうか。

18)少なくとも、私が「森」に誘われるのは、「死」タナトスからの誘惑をよけきれないからだ。私はいずれ、山に登るのだろうか。あるいは、いつ「街」に帰るのだろうか。帰らないのだろうか。

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2011/06/07

父は空 母は大地―インディアンからの手紙

父は空 母は大地―インディアンからの手紙
「父は空 母は大地」インディアンからの手紙
寮 美千子 (編・訳) 篠崎 正喜 (画) 1995/03 パロル舎 単行本: 36p
Vol.3 No.0294 ★★★★★

1)「神戸の震災の後、「父は空 母は大地」  が被災で多く読まれ, 現地で復興支援のためのTシャツも作られました。「生きる勇気をもらえた」との声がうれしかった。アメリカ先住民の言葉を絵本にしたものです。」

2)被災後の近況を伝えるために、細かく報告していたツイッターが、思わず友人知人たち以外にもフォローされていた。上は、その中の寮美千子さんがいくつかのリフォローしてくれる中、みずからの作品についてツイートしてくれたものだ。

3)その日は3月29日だったが、なぜかその日は私の誕生日。思いがけないプレゼントとなった。しかし、そこの頃はまだまだライフラインが復活しておらず。ガスが来ず、ガソリンも手に入りにくかった。ましてや壊滅した図書館は復興の目途など立っていなかった。

4)図書館ネットワークが復活したら読みますと約束したままだったが、このたび、ようやく図書館が復旧し始めた。さっそくリクエストして読んでみた。

5)獣たちが いなかったら
人間は いったい何なんだろう?
獣たちが すべて消えてしまったら
深い魂のさみしさから 人間も死んでしまうだろう。

大地は わたしたちに属しているのではない。
わたしたちが 大地に属しているのだ。
p26

6)Father Sky, Mother Earth。原題をそのままだと、「父なる空 母なる大地」としたくなるところだが、本書では「父は空 母は大地」となっている。翻訳全体が女性らしく目配りされている。篠崎正喜のイラストも素晴らしい。このイラストがあってこその一冊と言える。

7)しかし、ふと思う。これは必ずしも、純粋な意味での「インディアンからの手紙」ではない。「リトル・トリ―」ほどには脚色されていないだろうが、純粋な「手紙」としてではなく、「物語」として読まれるべき一冊なのだ。

8)「パパラギ」のように、よくできた文明批評でもあるようだし、岡倉天心の「茶の本」のような比較文化論でもあるようでもある。短く、インスピレーションに富んだ本ではあるが、ややもすると理想化されすぎたネイティブ・ピーポーの姿が戯画化されてしまうことさえ懸念する。

9)あらゆるものが つながっている。
わたしたちが この命の織り物を織ったのではない。
わたしたちは そのなかの 一本の糸にすぎないのだ。
p34

10)こまかいことは、もうどうでもいい。これは、母の胸にだかれた幼子が、母親が語るおとぎ話に誘われて、そっと夢の世界に入るように、静かに、静かに、読むに限る。そして、再び、篠崎正喜の絵の世界が、終わりのない深い夢の中へと誘う。

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生き方の原則 ヘンリ-・デイヴィッド・ソロ-

【送料無料】生き方の原則
「生き方の原則」 
ヘンリ-・デイヴィッド・ソロ-/山口晃 2007/12 文遊社 単行本 96p
Vol.3 No.0293 ★★★☆☆

1)ソロー関連の中では新刊に属する一冊。小さな一冊に仕上がっている。読もうと思えば簡単に読み切ってしまう。そういう面からか、少し読みだして、すぐ、カリール・ジブランの「プロフェット」を思い出した。

2)そう思ってしまうと、ソローが何を言っているか、という細かいディティールより、ソローからジブランに連なる系譜、というあたりが気になり始めた。エマソン → ソロー → ニーチェ → ジブラン、と並べてみると、ここにある西洋近代思想のひとつの底流を見る思いがする。

3)正直言って、「森の生活」というカテゴリに立ってみれば、スナイダーあたりが、2011年の今日的に一番感情移入しやすいわけだが、それでも、スナイダーのZENあたりでさえ、いまひとつ、煮え切れていない感じがする。

4)「森の生活」とスナイダーZENをつないでも、なお、埋められていないスキマがある。敢えて「東洋的」と言わないまでも、今日的な「地球的」ZENとは何か。

5)一週間、毎日、新聞を一紙読むというのは、読みすぎではないでしょうか。最近、私はそれを試してみましたが、その一週間というもの、自分が生まれた故郷に暮らしているような気がしませんでした。太陽、雲、雪、それに樹木が、これまでのように私に語りかけてくれないのです。二人の主人に使えることはできません。一日がもたらす富を知り、我がものとするには、一日だけではだめです。もっと長い時間をそれにかけねばなりません。p38

6)もとよりこの4年ほど、日刊新聞は購読しなくなってしまっていたが、読書であろうと、ツイッターであろうと、ブログであろうと、そこにはまった後に、抜け出してみると、そこにぽっかりと空間があいていることがよくある。

7)この本のタイトルは「Life without Principle」。白洲次郎が当時の日本を「プリンシパルのない国家」と牛耳ったが、白洲は自らの生き方にプリンシパルを貫き通そうとし、ソローはそのプリンシパルを除いた生き方を望んでいたのか。

8)白洲にせよソローにせよ、パッと見には、所詮やんちゃな小難しいおっさんにすぎないのだが、プリンシパル、という単語を持ちだしながら、人間なんて、結局は原理原則では生きられないのだ、という真理を垣間見せることになる。

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2011/06/06

森の生活―簡素な生活・高き想い

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「森の生活―簡素な生活・高き想い」
上岡 克己 (著) 1996/10 旺史社 単行本 302p
Vol.3 No.0292 ★★★★★

1)「ウォールデン シリーズ もっと知りたい名作の世界」の上岡克己が1996年に、ソロー「森の生活」を今日的に解釈した本。とは言え、さらに15年の時代が経過している。まさに、この東日本大震災後、東京電力原発事故後の、2011年的に「ソロー」を感じ、「生き」直さなければならない、と思う。

2)「アメリカでは、春が来ても自然は黙りこくっている。」この一文ほどウォールデンの春と対象的なものはない。「すべては、人間がみずからまねいた禍いだったのだ」と(レイチェル・)カーソンが言うのは、単に殺虫剤のみならず、究極的には増え続ける人間の営みの総量の累積が、自然の耐えうるキャパシティを越えたことにあろう。それゆえ地球規模での環境破壊が起こるべくして起ったのである。人類はもはやとり返しのつかない時代へと突入したといえる。「『森の生活』の春と『沈黙の春』」p155

3)レイチェル・カーソンの警告は60年代初め、ベトナム戦争さえ起こらない前のことだった。上岡の解釈も、すでに一昔前の麻原集団事件直後のことである。人類は、これだけ愚かなことを繰り返しながらも、なお、暗闇の中へと突撃を繰り返してきた。2011年の原発事故は、おこるべくして起きているのである。「沈黙の春」はすでに現実のものとなってしまった。

4)ソローの森の生活も、一種のユートピア実験の一つとみなされるものであったが、他の理想共同体と異なる最大のものは、そこに自然を最も象徴するウォールデンという湖があったことであり、選ばれた人物、すなわちソローひとりしか入れなかったことである。彼はウォールデンで個のユートピア----個人の人間的完成----を求めたのであった。p169 「現代の森の生活」

5)山の椒エコビレッジは、当初、個人の家庭菜園としてスタートした。7年が経過し、エコビレッジの可能性を探りだした。私自身はこの2期目に参加したことになり、私のソロー・ハウスは、あくまでエコビレッジへの布石となるべきものとして歩み出している。しかしながら、やがては個的なものに留まる可能性もあるし、仮に留まったとしても、それを「失敗」とはみなさない。ソロー言うところの「個人の人間的完成」こそがまた、エコビレッジにおける目的地でもあるからだ。

6)(武者小路)実篤は比較的早くソローにふれ、新しき村においては、「トロー(ソロー)のワルデン(ウォールデン)よりはもっと有益なことが示されるべきだ」と語っている。p175「現代の森の生活」

7)実篤の試みが日本で始まるには、アメリカの理想共同体運動から遅れること約70年が必要だったのだ。そして実篤の実験が始まってからすでに一世紀が経過しようとしている。

8)単に自然の中に家を建て、畑を耕して自給自足の生活をするのが「森の生活」ではない。真の森の生活とは、その場所とか滞在期間、独居生活かどうかも問わない。少なくとも文明社会を離れた自然の中で、簡素な生活と高き想いを実践し、見せかけではなく本物に出あうことである。そしてたえず自己完成を目指し、新しい人間に変身して去らねばならないのであり、去ってからも日常生活におりふしに森で学んだことを生かさねばならないという高尚な側面をもっている。p181「現代の森の生活」

9)図式的で分かりやすく、納得できる説明ではある。しかし2011年の今日的には、もっと別な解釈も成立するだろう。

10)もっと多くのもの、例えば衛星放送受信可能なテレビや、どことでも連絡可能な無線機があればずっと快適な生活が送れるのにと考える者は、森に行く資格はない。森の生活の基本は、物に囲まれた文明の人工的生活からの脱皮であり、簡素な生活が絶対条件なのであった。一世紀半前、ソローは銃や時計などの文明の利器を捨てて、森の中に入ったのであった。p190「現代の森の生活」

11)上岡がこの本を書いた1996年と2011年では、大きく違っている。当時、高価でほとんど実現不可能と思われていた技術が、ごくごく一般的な生活の小道具になっている。スマートフォン一台あれば、ワンセグで「衛星放送受信可能なテレビ」や「どことでも連絡可能な無線機」の機能が十分に果たせるのである。

12)むしろ、2011年的現代の森の生活は、文明を忌避するのではなく、文明の最先端を行きつつあるのではないか。自然の森の中にあっても、「文明の利器」(それはほとんど安価に提供されている)を使えば、十分に現代社会の仕事や生活をこなしつつ、自己完成の修練にあてる時間を捻出できるのでななかろうか。

13)ソローの「森の生活」が読者の覚醒に重点がおかれていたのと同じように、スナイダーも自らの悟りだけを望むのではなく、それを人類すべての問題に敷衍(ふえん)しようとする深遠な使命感をもっていたように思われる。彼の政治的な発言にはそれが明確に読み取れる。p219「現代の森の生活」

14)山の椒が、エコビレッジをかかげ、あるいはNPOとしての機能を果たそうとするならば、それはひとつの「使命感」を感じるからである。しかしながら、その「使命感」を引っ込めてしまうことも、決してやぶさかではない。ひとりひとりの自己完成がもっとも大事であったとしてみれば、過重な「使命感」を振り回すことは、むしろ迷惑にすらなる。

15)スナイダーのZENと、ソローの覚醒、あるいは、日本の伝統的禅文化、を並べて感じる時、必ずしも一様なものとはならない。むしろ、ひとつひとつの違いが際立ってくる、と言える。私は私個人のブログの中で、その「森の生活」カテゴリの中で、Osho-Zenを読み直すのである。生き直す、と言ってもいい。

16)この具体的な例として、「一年の何日かは工場で働くが、残りの日々はヘラジカと共に歩むコンピュータ技術者」を挙げる。スナイダーはすべてのテクノロジーを排除するつもりは毛頭なく、ソローと同じく文明の進歩にみあった人間の心の進歩を世の人に問いかけているのである。p230「現代の森の生活」

17)2011年においては、コンピュータ技術者は必ずしも、先端の花型職業ではなくなってしまった。工場で働けず、しかたなくヘラジカと共に歩まざるを得ないコンピュータ技術者さえ登場している。

18)たとえば(ビル・)マッキベン(「自然の終焉」著者)の家にはソローの時代になかった電気が通じ、タイプライター、コンピューター、ラジオ、石油ストーブが設置され、ファックスでニューヨークと繋がっている。更には鉄道がソローの時代を象徴したように、現代文明の象徴たる車を、ホンダの小型車とはいえ所有している。もちろん銀行口座をもっているのは言うまでもないなかろう。p252「現代の森の生活」

19)2011年の今日においては、一台のスマートフォンをポケットに忍ばせておけば、これらのことが全てできる。口座の確認も振り込みも、お好みであればリアルタイムの株の売買さえできる。電源だって、ベーシック・ハイブリッド車があれば、一家族分の生活は十分できる。

20)山の椒に最初に入った時、将来必要であろうと思うものを3つに絞っておいた。ひとつは、「女性でも安全に使えるトイレ」だった。これはすでに前進している。しかし、これだけの広さである。もっと数が必要になるであろう。バイオマスなどの利用で、さらに工夫されていくに違いない。

21)二つ目は「ネット環境」の構築であった。これは、そもそも電灯線や電話線が通っている山の椒においては、すぐにも利用可能であるが、私は敢えて、モバイル・ルーターを使うことによっての利便性を追求している。これも、限りないグレードアップが可能である。

22)「NPO」設立が三つ目の課題であった。自閉した隠遁の地ではなく、外に開かれた情報発信の「場」、常に共同性を確認し、公的な認知を受けた動きであるべきだ、という思いがあったからだ。三つめの課題は、まだ人が十分集まっていない段階では、「共同性」を語ることができない。あまり先を急がず、じっくり待ちたい。

23)私たちが短い一生を精一杯生きたソローの軌跡に、生きる屍と化した20世紀末の現代人が回帰しなければならぬ原点を見い出したように思われる。作家のヘンリー・ミラーがいみじくも述べているように、「自分自身の人生を十分生きることによってのみ、ソローの思い出を尊ぶことができる」のであるならば、私たち現代人に与えられた課題は、まず自分の一生を大切に生きることから始めなければならないであろう。p290「エピローグ」

24)東日本大震災後の「高地移転」が語られる。そこに従来の「街」を作ってしまうのでなく、ソローにつらなるエコロジカルなライフスタイルを探訪することもまた、「現代の森の生活」になるのではなかろうか。

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2011/06/05

絶頂の危うさ<1> ゲーリー・スナイダー

【送料無料】絶頂の危うさ
「絶頂の危うさ」 <1>
ゲーリー・スナイダー/原成吉 2007/08 思潮社 単行本 239p
Vol.3 No.0291 ★★★★★

1)節々の痛みで目が覚めた。若い時は肉体疲労の回復は早かった。だが、年齢とともに、肉体はすでにピークをとっくに通過してしまっていることを痛感する。

2)風呂に入る。いつもより熱めにして、体を温める。熱さがマッサージ効果を生むのか、体の痛さがすこしづつ消える。

3)肉体の衰弱とともに、精神の衰弱も訪れていることに気がつく。心も疲れやすく、回復も遅い。ひとつひとつが気にかかる。

4)だがしかし、魂は結構元気だぞ、と自分で思う。体は精神の高揚についていけなくなり、精神は魂の高揚についていけなくなりつつある。、

5)肉体も初老の時代を迎え、心や精神も柔軟性が失われつつある。でも、魂は、転生を繰り返してきたという意味では決して若くはないのだが、それでも、光を求めて、活動し続ける。

6)山の椒で水を発見した。水があれば、あとは火だ。火と水、とくれば、まずお茶だが、水の安全性を確保するまでは飲料水として使うことはできない。まずは風呂だろう。

7)いつか、山の椒の火と水で風呂を沸かすことができるだろうか。温泉が湧かなかったために開発が途上で放棄された土地で、今、風呂を沸かして入る。痛快だな。

8)山の仕事に未だ体が馴染めないのだろう。いや精神もまだ十分馴染んでいない。だが、魂だけは意気軒昂だ。何かに突き動かされる如く、前へ行こうとする。

9)スナイダーのこの本、セントヘレナ山の想い出から始まる。時にスナイダー13歳。1943年。私は私なりに、彼の人生にダブらせて、自分の魂を見ることができる。そうそう、あの時、あそこで、こんなことがあった。

10)「人間中心の見方に、騙されてはならぬ」と道元は言う、
シッダールタはそれを吟味し、こっそり抜け出す----森を求めて---
----生と死の問題に集中するために。
p47

11)私もこっそりと抜け出して、森に行くことがある。たしかに生と死の問題に集中しようと思うこともある。だが、私の場合は、朝早く抜けだしても、昼ごろには帰ってきたりする。

12)欲しいものは----
24ミリ径の塩化ビニルの給水管
3メートルの煙突掃除用ブラシ

草刈り機の歯を研いでくれる人
丸太用の鎖、
隣人たちの春の仕事。

チェーンソーのおが屑
土がこびりついた
踏み鋤
リンゴの花とミツバチ p35「仕事の日」

13)私も給水管を求めている。16ミリ径でいい。草刈り機の歯は、ボロボロだけど、新しい替刃は用意してある。確かに土のこびりついた道具類も、誇らしくはあるが、たまには洗ってあげないとな。リンゴの花はどこにあるかわからないが、ミツバチは、いる。ニホンミツバチ。

14)スナイダーの60年以上にわたる追想が語られる。再定住者。場、なら、もうとっくに400年も同じところに暮らしている私の血族がいる。だが、これからはどうかな。

15)「メタコンシャス 意識を意識する」カテゴリはこの本で108冊に達した。次なるカテゴリは「森の生活」である。

<2>につづく

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2011/06/04

沈黙の春 レイチェル カーソン

沈黙の春
「沈黙の春」
レイチェル カーソン (著), Rachel Carson (原著), 青樹 簗一 (翻訳) 2001/06 新潮社 単行本  403p
Vol.3 No.0290 ★★★★★

1)自然資源のうち、いまでは水がいちばん貴重なものとなってきた。地表の半分以上が、水---海なのに、私たちはこのおびただしい水を前に水不足になやんでいる。奇妙なパラドックスだ。というのも、海の水は、塩分が多く、農業、工業、飲料に使えない。こうして世界の人口の大半は、水飢饉ですでに苦しめられているか、あるいはいずれおびやかされようとしている。

 自分をはぐくんでくれた母親を忘れ、自分たちが生きていくのに何が大切であるかを忘れてしまったこの時代----、水も、そのほかの生命の源泉と同じように、私たちの無関心の犠牲になってしまった。p37「地表の水、地底の海」

2)山の椒で水源を見つけた。ほんの指一本ほどの湧水だが、こんこんと流れつづける。これをソロー・ハウスまで給水しようとすると、約200メートルのホースが必要になる。まぁ、それも必要な出費と考えていたところ、実はソロー・ハウスそのところまで水が地下水路を通って流れてきていることが分かった。

3)山の椒の隣は、ゴルフ場である。幸い、尾根を境にして、背中を向けあっており、あちらとこちらの斜面がまったく逆方向なので、水源が汚染される可能性はすくない。しかし、今のところ、この水を直接飲料水に使うことはできない。

4)だが、一般的な農業用であるとか、トイレ用とか、生活用水に使えることは間違いない。これをうまいことすくい取るシステムも考えてみた。明日、ためしてみる。

5)水があれば、火を使うことができる。山での火の扱いは、山火事を起こす可能性があるので怖い。だが、ソロー・ハウスそのものに水源があることが分かったわけだから、これからは薪ストーブとロケット・ストーブの使用計画にはいる。

6)青年時代に、インド旅行から帰ってきて、農業学校で学んだ。危険物取扱者とか、毒物劇物取扱者の資格を取った。しかし、勉強しただけで、もうすでに薬剤の名前などすっかり忘れてしまった。レイチェル・カーソンのように深く化学物質について考えることはなかったけれど、どうも、毒物劇物を取り扱うのは苦手だ。

7)水が、本当に豊富なところに私は生まれた。四六時中ポンプで汲み続けても、枯れるということがなかった。水質もよかった。浪の音、名取駒、大豪、というブランドの日本酒メーカーが三社、毎日水を汲みに来ていた。その水質と水量の良さを確認した上で、サッポロビールが近くに大きな工場を作った。

8)されど、今回の3.11以降の原発事故を思い出すまでもなく、すでに水は自由に使えない段階になってきている。おそろしい進展だ。どうして、ここまで突き進まなければならなかったのだろう。

9)私たちは、いまや分かれ道にいる。だが、ロバート・フロストの有名な詩と違って、どちらの道を選ぶべきか、いまさら迷うまでもない。長いあいた旅をしてきた道は、すばらしい高速道路で、すごいスピードに酔うこともできるが、私たちはだまされているのだ。その行きつく先は、禍いであり破滅だ。もう一つの道は、あまり<人も行かない>が、この分かれ道を行くときにこそ、私たちの住んでいるこの地球の安全を守れる、最後の、唯一のチャンスがあるといえよう。

 とにかく、どちらの道をとるか、きめなければならないのは私たちなのだ。長いあいだ我慢したあげく、とにかく<知る権利>が私たちにあることを認めさせ、人類が意味のないおそるべき危険にのりだしていることがわかったからには、一刻もぐずぐずすべきではない。毒のある化学薬品をいたるところにまかなければならない、などという人たちの言葉に耳を貸してはいけない。目を見開き、どういう別な道があるのか、をさがさなければならない。p304「べつの道」

10)レイチェル・カーソンの警告に満ちたメッセージはすでに50年前に発せられている。ほとんど2世代に渡って、根本的な解決策を見いだせないまま、人類は禍いの道、破滅の道を突き進んできてしまったと言える。

11)東京電力原発事故についての情報開示も実にあいまいで、私たちの一般市民の知る権利に十分こたえたものになっていない。さらには、甚大な生活上の影響が発生している。人類史始まって以来の、未曾有の大事故なのだ。

12)もう遅いかも知れないのだ。きっと、遅きに失したかもしれない。それでも、どこかの詩人は、あした地球が終わろうとも、私はリンゴの木を植えるだろう、と言ったという。絶望もまた希望と同じく虚妄である。

13)生きてある限り、命ある限り、生命は生きていく必要がある。前に、上に、明日に向かって生きていく必要がある。

14)沈黙の春が、ひとつの喩え話でなくなりつつある2011年の春。私たち、ひとりひとりは、今どのように生きているのだろうか。

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レイチェル・カーソン 『沈黙の春』を読む

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「『沈黙の春』を読む」 かもがわブックレット
レイチェル・カ-ソン日本協会 1992/04 かもがわ出版 双書 61p 
Vol.3 No.0289 ★★★★★

1)レイチェル・カーソンは、『沈黙の春』を出版したとき、自分の生命があまり残されていないことを知っていました。しかし、この本がすべての人の中で生き続けることを信じて、1964年4月14日、56歳の生涯を閉じました。p6

2)このブックレットが出されたのは1992年3月、私たちは、「スピリット・オブ・プレイス」シンポジウムの片づけにかかっていた。あれからすでに19年。私もレイチェル・カーソンと同じ年齢になった。

3)カーソンは子どもたちが本来もっている「センス・オブ・ワンダー=神秘や不思議さに目をみはる感性」をいつまでも失うことがないように、そのために「私たちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動を分かちあう」ようにしなければならないと強調しています。

 子どもにとっても親にとっても「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない、美しいものを美しいと感じる感覚され養うことができれば、知識は自然に豊かになっていくというのです。

 このようなカーソンの主張に耳を傾けるとき、現在、自然保護教育や環境教育の重要性が叫ばれますが、自然をまもる大切さを声高にいうよりも、自然を探検し、五感で自然をともに感じとっていくことの重要さを考えるべきなのだと考えさせられます。p13「次の世代へのメッセージ」

4)『沈黙の春』には放射線についての記述が少なくありません。なかにはヒロシマの被爆者に関することやビキニの核実験で被災した久保山さんのこともでてきます。p25「カーソンと放射線」

5)すでにレイチェル・カーソンの警告から50年が経過しているのに、人類は心からの反省ができずに来てしまった。この3月11日の東日本大震災における、東京電力原発事故で、大量の被爆が起きてしまっているのは、決して「想定外」の事故ではない。分かっていて人類はここまで来てしまったのだ。ストップをかけることができなかった。

6)「私たちは、考えをかえなければならない。人間がいちばん偉いのだ、という態度を捨てるべきだ。自然環境そのもののなかに、生物の個体数を制限する道があり手段がある場合が多いことを知らなければならない。そしてそれは人間が手を下すよりもはるかにむだなくおこなわている」p56 レイチェル・カーソン

7)「私たちは、いまや分かれ道にいる」のです。一方は「禍いと破滅」への道であり、「べつの道」が人間と地球を守る道なのです。いまが最後の、唯一のチャンスなのです。私たちは、私たち自身と、私たちのあとを継ぐ子どもたちのために、「べつの道」を選択しなければなりません。p57「べつの道」

8)山の椒エコビレッジには、やがてレイチェル・カーソン・ハウスもお目見えするだろう。

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我が家に手作りガーデンハウス―DIYで建てよう!“小さな家”<1>

我が家に手作りガーデンハウス―DIYで建てよう!“小さな家” (Gakken mook―DIY series)
「我が家に手作りガーデンハウス」 ―DIYで建てよう!“小さな家” (Gakken mook―DIY series)
ドゥーパ! (編さん) 2005/10 学研 単行本: 145p
Vol.3 No.0288 ★★★★★

1)いざ、森の中にソロー・ハウスを自作しようと思い立ち、マニュアル本などをめくってみると、書店にも図書館にも似通ったような書籍はいくつも並んでいる。しかし、これといった決定打に出会わない。

2)ログハウス、DIY、セルフビルド、2×4、ガレージハウス、物置、手作り、などなど、近似のキーワードがある。その中でも、自分のイメージに一番近いのは「ガレージハウス」という概念のようだ。大きさといい、手軽さといい、材質といい、この本が一番ぴったりくる。

3)しかし、実際には、小さいけれども、一冊の書籍になっている限り、かなりがっちりした建物になっている。こちらの希望はもっと簡素でケータビリティに富んだ、解体可能なガーデンハウスである。組み立ても、取り外しも簡単なものがいい。

4)したがって、結局は、あちこちを参考にしながらも、手さぐりで自分サイズの好みのハウスをセルフビルドする以外にはない。

5)そして、その中に、今まで見てきた、自分なりの好みのイメージは残しておきたい。

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6)さて、いざ「手作りガーデンハウス」となった時、「山で暮らす愉しみと基本の技術」は、実に現実的なサイズで、実現可能な領域にある教則本だが、余りに実際的過ぎて、世界や宇宙に広がる「夢想的」な部分が少なすぎる。

7)「パーマカルチャー 農的暮らしの永久デザイン」は立派なお手本で、ひとつの指標とはなる。しかし、我がソロー・ハウスにおいては、アグリカルチャー的な農業「カルチャー」に手が届いていないので、ちょっと範囲が広すぎる。また、あまりに教則本的に扱ってしまうと、どこか堅苦しいものにも思えてくる。

8)もっとのんびりと、もっといい加減に、ファジーにやりたいのが、わがソロー・ハウス流だ。

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9)「“地球(ガイア)”建築」は、原野に毅立する現代建築のイメージだが、セルフビルドや手作り感からは遠い。また、ロイド・カーンの「シェルター」に取り上げられている家は、全て、なんとか真似て作れそうな気もするが、スケールが大きすぎるものが多い。

10)「シェルター」の地産地消的感覚は、時代や地域を超えたフォークロア的匂いがプンプンする。ひとつひとつのアイディアは実に面白い。山の椒の植物や自然物で作ってみたいものがたくさんある。

11)しかし、それでも、やっぱりできる物は、もっと現実的で、自分サイズの、使い勝手をもっともっと考慮したものになるだろう。

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12)さて、この本をソロースナイダーで挟んでみる。元祖ソロー・ハットほどにはシンプルではなく、スナイダーのキットキットディジーほどには本格的ではなく、というあたりか。もっとも元祖ソロー・ハットは、実によく出来ているし、一部プロの手さえ借りている。

13)スナイダーはすでに40年近く森の中に「再定住」しているわけだから、その間に、ハウスの状況も変わっただろうし、家族とともにあって、公開されていない機能もあるだろう。

14)あえて、こうして領域を狭めてみると、我がソローハウスの、コンテナ、コンテンツ、コンシャスネス領域におけるターゲット群、という感じがしてくる。これらの的の中に、次第にひとつの存在が生まれてくるだろう。

15)そろそろ「メタコンシャス 意識を意識する」カテゴリは終了する。最初は想定していなかった次なるカテゴリだが、「森の生活」にしようと思う。

<2>につづく

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2011/06/03

ウォールデン シリーズ もっと知りたい名作の世界

ウォールデン (シリーズ もっと知りたい名作の世界)
「ウォールデン」 シリーズ もっと知りたい名作の世界(3)
上岡 克己 (著), 高橋 勤 (著) 2006/04 ミネルヴァ書房 単行本: 167p
Vol.3 No.0287 ★★★★★

1) 久しぶりにブログを書く作業に戻って見れば、これはこれで懐かしい作業であり、必要な精神的営為であることに気づく。

2)図書館ネットワークも復活して見れば、読むべき本の数々が、またまたリストとともに積み上がっていく。

3)当カテゴリもあと数冊残すところとなり、これで「読書ブログ」は終わるとしても、「読書」も「ブログ」も、なんらかの形で継続する必要を感じる。

4)ならば次のカテゴリ名をなんとしようか。

5)ソローの建てた小屋は重厚華美なログハウスではなく、簡素な板張りの小屋である。間口3.3メートル。奥行き4.5メートル、柱の高さ2.4メートル、屋根裏部屋と押し入れ、両側に一つづつ大きな窓がある。室内にはベッド、テーブル、机、椅子、食器類があった。p27「ウォールデンの森と湖と小屋」

6)元祖ソロー・ハットは、わがソロー・ハウスのテント小屋とほぼ同等の大きさである。テントを2×4材に置き換えようとしている現在、その設計と材質、広さを検討中である。基本に戻って、よりシンプルな構造とすべきであろう。

7)山里勝己の「ソローの家、スナイダーの家---生態地域主義の視点から」p113が面白い。ソローの「逗留者」としての立場から、ウォールデンに2年2カ月と2日暮らしたのに比べ、スナイダーはキットキットディジィーに30年以上、「再定住者」として暮らしている。

8)「現代代建築家による“地球(ガイア)”建築」に見られるような自然の中に起立する建築物には目を見張るものがあるが、そこの住人が自然をどのようにとらえ、どのようにそれらと接するのかを考える時、おのずと、ソローやスナイダーとの違いが明確になる。

9)しかしながら、大きなガラス窓で切り取られた、まるで一服の絵のような概観の風景には大いにそそそられるものがある。

10)わが、山の椒におけるソローハウスは、さて、どのような形の、どのような大きさの、どのようなものになるであろうか。ソローのような「携帯性」を持ち、スナイダーのような「土間」を持ち、そして大きなガラス窓を持つだろう。

11)ソローのように一人で森に入っていくのか、スナイダーのように妻と子供たちの手をひいて森に住むのかで、ハウスの大きさも作りも違ってくる。また、街から多く友人たちを呼び、おおいに語りあうのか、密かにプライバシーを守るのか。「方丈記」の鴨長明のように隠遁するのか。

12)山の椒は「エコビレッジ」を掲げている。おのずとそこには「共同体」の可能性を見る。「逗留者」であっても、「再定住者」であっても、そこには多数の「人間たち」の風景も織り込まれている。

13)オーク・ビレッジの稲本正も書いている。「挫折しない『森の生活』の読み方」p31

14)ウィルダネスを好む作家がいる一方で、アメリカにはレイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」に代表される、感性のネイチャーライティングがある。この場合自然は大きくても小さくてもいい。観察眼が優れていればいい。いや、素直に自然と接すればいいのである。「ネイチャーライターの座標軸」p101岡島成行

15)この本を読み進めることによって、自らの立ち位置が少しづつ明確になる。元祖ソロー・ハットとの違いも明確になってくる。しかしながら、多くの先人たちの試みに連なる共通項も多く見つけることができる。

16)ラルフ・ウォールドー・エマソンについて言及している文章も多い。これからの読書リストに載せておこう。

17)13世紀の鴨長明、19世紀のソロー、20世紀のスナイダー、そして21世紀のわがソローハウス。それぞれの時代背景があってこその存在だと言える。森の中に入ることによって、より明確になることがある。

18)森がある。人がいる。植物たちがいて、動物たちがいる。大自然があり、人はその中で生きていく。家を建て、水と火を確保する。電気や通信、交通などの文明を入れる。さて、それを何処までいれるのか。無反省に取り込むのではなく、例えば原発と対峙できるようなライフスタイルを堅持できるのかが、21世紀のソロー・ハウスには求められる。

19)「場」がある。「与えられた」場がある。与えられても、受け取らなければいいのだが、敢えて「受け取って」みる。その「場」に立ってみる。その場に「定住」してみる。定住とはまではいかなくても、「定点観測」してみる。「観測」するだけの感性が必要だ。「感性」が強すぎて森に入れない場合もある。感性の前に「肉体」を山に慣らさなければならない。肉体を山に持っていく「技術」が必要だ。技術と「頭」が先行してしまう場合もある。人間として「山」に入る。全存在として、「そこ」にある。「いま」という時代を、山という環境の中で「生きて」みる。

20)人間として、一番コンパクトな生き方とは何か。人間として一番ぜいたくな生き方とは何か。人間として、一番根源的な生き方とは何か。人間として、最後の最後にやらなければならない事は何か。人間として、最初の最初にやらなければならないのはなにか。人間とは、本質的に何か。人間とは何か。私という人間とは何か。私は何か。私は誰か。

21)今日の空模様は快晴だ。思いは山に馳せても、体は街にいる。煩雑な仕事をこなしながら、次に山にいく日程を考えている。

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