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2011/06/20

狭い道―子供達に与える詩 <1>山尾三省

Sansei
「狭い道」―子供達に与える詩 <1>
山尾 三省 (著) 1982/06野草社 単行本 278p
Vol.3 No.0313 ★★★★☆

1)本書は「聖老人」(1981)から「森の時間海の時間」(2009)までの三省ワールドの中では、極めて初期的な時期に位置し、その中でも、「聖老人」「野の道」の間に位置する。「聖老人」は1960年代中盤以降から1980年前後までの三省の集大成となっており、次の「野の道」(1983)が宮沢賢治論となっていることを考えれば、「狭い道」(1982)は三省にとっての、初めての全文書き下ろし的ニュアンスの強い一冊である。原寸大の三省がここに登場している、と言ってもいい。

2)「部族はどうなったんだ」
 とナシがねちっこく責めよった。部族はすでに過去のものであり、僕は部族の人間として屋久島に移り住んできたわけではない。けれども僕の中には部族の歌は依然として残っていた。
「部族という呼び名は、今はもう僕にはないけれど、部族の精神というのかな、その心は今でも僕の中にあるよ」
と僕は答えた。
「嘘だ!」
とナシが言った。
「サンセイの中にはもう部族なんかない。俺は部族なんだぜ。だからサンセイの中にはも部族なんかないことが判るんだ」
とナシが言った。
「昔俺が見た部族の、自由と解放という光は、今のサンセイの中にはかけらもない」
とナシが言った。
 それは本当だった。そんな光がなくなったからこそ僕の中では「部族」が過去のものになっていたのだ。
p66「ナシとビーナ」

3)この問答は「1978年の初めか77年の暮のことだった」(p66)とされる。私はこの時期、インドのプーナにいた。三省とナシの間にどんな確執があったのか、三省が書く文面から推し量るしかないし、それがナシ側からみた場合の真実とは必ずしも言えない。しかし、この時の問答の在り方を、自分なりに理解することができる。

4)必ずしもナシ側に立つものでもなく、必ずしも三省個人がターゲットではなかったが、私は私なりに「部族」に対するふっきれない何かを抱えていた。実際にはそれは1975年の春に起こった。

5)当時CCC(コズミック・チャイルド・コミュニティ)大使館と名乗っていた「部族」(ながれ)の人々が、具体的な表面化した部分であったが、たしか「オーム」と名付けられた季刊誌のようなものは発行されていたはずだ。

6)後で「プラサード書店」の店主となるキコリや、私たちのコミューンから行ったジープなどが編集していた「星の遊行群」という全国叛文化戦線の合同機関誌の編集途上で、トラブルが起きた。

7)具体的には、印刷を担当していたCCC印刷所が、私の文章だけ自分の印刷機では印刷できない、と言ってきたのだ。版下もきれいにロットリングで書いておいたし、画像もきれい(!)に貼りつけておいた。印刷できないのは、技術的な問題ではなかた。文章でもなかった。その画像が、拒否されたのだ。

8)具体的な問答がどのようなものであったか、間接的に聞くいきさつは明確ではなかったが、最後までCCCのオフセットでは私の文章は印刷されず、私の文章だけが、当時の練馬谷原の「蘇生」の写真製版ガリ版で印刷され、ようやく製本され、すでに購読予約している仲間たちに発送されたのだった。

9)印刷物として、出版物として、その「星の遊行群」という小冊子がどのように評価されるかは未知数だ。決して上出来な一冊だとは、私にも思えない。しかし、そんないきさつがあったものだから、今だにあの時の、私の中にあったわだかまり、不完全燃焼なままひっこめてしまった問題意識が、深く根付いている。

10)あの時のトラブルに巻き込まれてしまった仲間たちには、ここであらためて謝りたい。もう36年前のことだから、もう誰も覚えていないかもしれないが、でも、あの時が一つの分水嶺だったと思う私には、とても大事な一冊であり、一件であったと思う。

11)画像というのは、たわいのないものであった。当時書店で売っていた週刊誌の類から何枚かのセクシーな画像をコピーして自分の文章の間に散りばめておいたのだ。実際には文章とは直接的な関連はないし、セクシーと言っても、21世紀の私たちが日常的にネットで見かけるようなポルノグラフィーではなかった。しかし、印刷が拒否された。印刷機が「けがれる」と言われた。

12)正直言って、これをCCCに言わせたかった、というのが、実際のところのこちらの本音だった。こちらから言わせれば、こちらから仕掛けた罠に、CCCがまんまと引っかかってくれた、というのが本当だった。

13)それほどの挑発行為にまで出るほどに私がいら立っていたのは、何故だったのだろう。

14)もしあの時点で、「聖老人」に収録されているような、60年代からの三省の文章が、もっと一般的に入手できる状態にあり、私自身も、経済的にも、住まいの距離的にも、精神的ゆとり的にも、積極的にそのようなものを読み、情報を得ていれば、あのような葛藤はなかったのかもしれない。

15)「オーム」などで散見されるチベット密教の交合仏のイラストに、馴染めないでいた自分がいた。タントラと称される流れが、説明不足のまま、イメージだけが先行している(風に見えていた)事態に、納得できないでいた私がいた。

16)60年安保に早稲田の学生として参加し、その後60年代中盤以降、ナナオなどとの出会い(本書に詳しい)を通じて「部族」を名乗っていった三省。かたや、16歳年下で、70年安保を高校生としてデモった私には、「遅れてきた少年」意識がもろにあった。

17)70安保というものが何であったかなんて、いまさらソーカツのしようもないが、「新左翼」をなのり、20世紀末まで走った荒岱介(2011/5/3亡くなったという。享年65歳。冥福を祈ります)のような存在もある中、「部族」は一体、どこにいるのか、という「問いかけ」はあった。

18)決して、自らが「部族」を名乗り、その仲間、あるいはエピゴーネントとして活動したいと思ったわけではない。ただ、乗り越えるべき先人達、敢えて受け継ぐべきバトンは奈辺にありや、と、探索弾を撃ち込んだ、というあたりだった。

19)その手ごたえはあったが、大きな「戦闘状態」は起こらず、ある意味、私の「先制攻撃」は「不発」に終わった。

20)同75年の「日本縦断ミルキーウェイ・キャラバン」は沖縄から始まったが、私は、本書にも登場するキャップたちがヨットを作っていた宮崎から札幌までの間しか参加できなかった。本体は北海道・藻琴山まで辿りつき「宇宙平和会議」を行った。

21)この年の夏、私は自分たちのコミューンの中にそっと置かれていた「存在の詩」を読んだ。喧嘩をし、旅をし、自宅出産で子供達が生まれてくるコミューンの中で、ぽっかり空いた心の空洞に、それはしずかに流れてきた。

22)アメリカに長く滞在し、虹を画くことによって有名になった靉嘔(あい・おう)という画家が、ある時ネパールに言ってみようという気を起こし、カトマンドゥの飛行場に降りたとたん、あっこれはいけない、と感じてそのまま同じ飛行機で引き返してしまったという話しがある。(略)
 
 アジャンタだったかエローラだったかの洞窟寺院の中で、堀田(善衛)氏はある銅像の前にうずくまり、その佛像に手を触れようとして激しい電流のようなものを感じて、「あっ、これに触れてしまったら、書けなくなる」と思うのである。書くという行為を成立させてきた存在の様式が、ほの暗い洞穴の奥に安置されてきた一体の佛像に触れることによって、破壊される危険に見舞われたのだと理解する以外にはない。あるいは、書く、という作家にとって本来純粋行為であるはずであった行為よりも、更に純度の高い何ものかが堀田氏を襲ったのだと解釈出来なくもない。
山尾三省「聖老人」p255「火を見詰めて」

23)75年「存在の詩」を読み、76年印刷屋で資金を溜め、77年インドに行ってサニヤシンになった。その周辺のことは以前も書いたし、自分なりに整理もした。しかし、それは1992年とか、2006年あたりになってからであり、自分たちのミニコミ「時空間」を75年に休刊した後、私は一切文章は書かなくなった。

24)そもそも、思春期に自らの「失語感覚」に苦しんだ中学生以来、自らに「言葉」を与えようとして作ってきたミニコミ群である。本来、「失語感覚」のほうが、実は人間本来の姿なのではないか、とさえ思える時もある。

25)しかし、「たいした意味もない」(ある友人の当ブログ評価)のにダラダラとキーボードを打ち続けている現在の私がいるとすれば、あの失語感覚に、ふたたび姿を与えようとしているにすぎないのだ、とあらためて思う。

26)なにも有名な作家たちになぞらえるわけではないが、私は自らの「表現手段」と思っていた「書く」という行為を、Oshoと出会ったことで、できなくなった。

27)三省「叔父貴」に対しては、問えば問うほど答えは返ってくるのであり、近づけば近づくほど、その実像は次第に明瞭になってくるのである。しかるに、問うても答えが返ってこない時もあり、三省も答えようとしないものがある。そこには問いがあっても、答えはなく、答えがなければ、最初から「問う」こともすべきではない、という不文律の決めごとがあるかのようでもある。

28)1978年の初めか77年の暮れのことだった。「部族」という新聞はとうに廃刊になり、「部族」という言葉もすでに過去のものになっていた。当時の部族の人達はそれぞれに「部族」の光と重みを背負って、それぞれの場で生活する方向を見い出していた。
「部族はどうなったんだ」
 とナシがねちっこく責めよった。部族はすでに過去のものであり、僕は部族の人間として屋久島に移り住んできたわけではない。けれども僕の中には部族の歌は依然として残っていた。 
p66「ナシとビーナ」

<2>につづく

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