ガイアと里―地球と人間のゆくえ<1> 山尾三省+プラブッタ
「ガイアと里」 ―地球と人間のゆくえ 屋久島対談 <1>
山尾 三省 (著) , スワミ・プレム・プラブッダ (著) 1986/01 地湧社 単行本: 221p
Vol.3 No.0299 ★★★★★
1)発行1986年1月。あらためて月日の過ぎる速さを感じる。あれから四半世紀が過ぎた。プラブッダの本は、このブログが始まる前にまとめ読みして、某SNSに列記しておいた。三省の本はほとんど持っているが、一度、まとめて再読してみようとは思っていた。その機会がめぐってきただろうか。
2)「山」と呼ぶべきか「森」と呼ぶべきか、を考えていたが、この二人は「ガイヤ」と「里」という概念を出す。本人たちの生き方に大きく関わるテーマである。どのように言おうとも、二人にとっての「ガイヤ」であり「里」である。いずれが正しい、いずれが間違っている、ということもない。
3)しかし、今、私自身が抱えている問題は、「ガイヤ」でも「里」でも解決できないだろう。地球生命圏としてのガイヤのイメージは魅力あふるるものだが、そこにはプラスαのイメージが付きすぎている。「里」は、三省を通してこそのイメージであり、単体としてのイメージではむしろ、「山」や「森」に対置すべきものとしてあるようだ。
4)P:排尿処理の仕方から、農業のやり方---有機農法、またもっと進んだかたちの自然農法などは、大きな意味では適正技術に含まれるとぼくは思いますし---よく取り上げられる例では、石油をたいて暖房する代わりにソーラーシステムで太陽熱を利用するというようなこともあります。p51「里からの科学のながめ」
5)基本的な「自然」農法的な試みは、すでに近代化以前に広く日本一般に実践されていたものがほとんどだ。なにか「適正技術」と言われてしまうところに目新しい想いもあったが、これは屈折した視点からのレポートにすぎないのではないか。
6)三:いま、「場」という言葉がでてくると、なにかすごくうれしいですよね。それで、サイエンスの言葉として場というと。
P:フィールド。
三:フィールドですか、あれは。その「場」という言葉がでてくるときに、やはりぼくたちは---プラブッタもそうなんだけど---この島にいて一つの場というものがあるわけですよね。自分の考えとしては、やはりこの場がすべてであるという感じがするわけです。p83「神秘へと啓かれた科学」
7)三省にしてもプラブッタにしても、東京から屋久島に入ったわけで、決して長い期間住んでいたわけではない。いずれはそこから離れることができる人間。あるいは、「場」を持っていない人が、疑似的に「場」を持ったときに、感動的に「場」を語っているだけで、実は、やはり「場」からは疎外されているのではないか。
8)「場」は、フィールドではなく、英語では「プレイス」と表現されているのではないだろうか。
9)今となっては、時代ものとしてしかこの本を読めなくなっている。示唆に富んではいるのだが、多弁な二人がどこでどういう形でダブルスタンダードで表現しているのか、よく注意しないとわからない。Pはこの本においてOshoを多く語っているが、説明的で、どこまでが本音かよくわからない。
10)よくもわるくも1985年後半における、二人の「作家」の近況報告、というニュアンスが強い一冊。地湧社の企画によってできた一冊。
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