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2011/06/17

野の道―宮沢賢治随想<1>  山尾三省

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「野の道―宮沢賢治随想」 <1>
山尾 三省 (著) 1983/01 野草社 単行本: 234p
Vol.3 No.0306 ★★★★☆

1)三省のことは、それなりに知っているつもりでいたが、それは初期的なものばかりで、今回、図書館の蔵書リストを探ってみれば、知らない三省がたくさんいた。この「野の道」は、ずっと手元にあった本だが、もうすでに30年前のことになんなんとする古書の類だった。

2)野の道、という言葉と、森の生活、という言葉を重ねてみる。ほとんど同じ意味としてとらえることもできるし、その陰に三省やソローを置いてみると、かなり違う面もでてくる。そしてバックグランドに賢治やエマソンを置いてみると、三省が「森の生活」という本を書かず、ソローが「野の道」という本を書かなかった理由もわかる気がする。

3)しかし、二人をつなぐ延長線上にスナイダーの「野性の実践」がある。野→野性→森、道→実践→生活、としてみると、それはやはり同じような意味を言っているのではないか、とも思える。

4)野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニイテ 
p172「玄米四合」

5)賢治の有名な詩の一節だが、ここが一つの「ソロー・ハウス」の原点だ。

6)70年代後半、私は、インドの一年の旅を終えて、ふるさとに帰って見れば、いつの間にか、「農業実践大学校」というところにいた。そこで全寮制の2年間を過ごしたのだった。もっとも二年目の後半は体調を崩し、病院における療養生活になったが。

7)野、森、野性、の列に「農」を置いてみる。そして、道や生活の列の「実践」の文字をみつめてみる。それぞれに親和性のある言葉群で、この言葉から連想されるものは、一つのコミュニティを形成しているように思える。

8)<野の道を歩くということは、野の道を歩くという憧れや幻想が消えてしまって、その後にくる淋しさや苦さをともに歩きつづけることなのだと思う。>p5 「呼応」

9)真木悠介は短いまえがきの「呼応」のなかで、三省自身のこのことばを2回繰り返している。

10)私は今、野の道に立ち、野の道を歩いてゆくべく心を決めている。それは、私が選び、私がそのように心を決めたことではあるが、今となっては、私一個の選択や決心になにほどの力があろう。私は、私を含むより大いなるものの呼び声を聴いて、その声と共にただ歩いてゆくばかりである。p20「きれいにすきとおった風」

11)私は、この道を、やはり野の道と呼ぶ。その野の道は、狭く困難の多い道ではあるが、何処にでもあり得、何処にでも通じる法(ダルマ)の道でもある。p41「マグノリアの木」

12)上は三省が日本山妙法寺の藤井日達上人について語っているくだりである。私もまた78年3月に、スリランカ仏足山において日達氏のもとで一カ月の御修行の旅を共にさせていただいたことがある。

13)私の中にも出来得るならば車を棄て、プロパンガスを棄て、電気製品も電燈も棄ててしまいたいという気持ちがある。順子や子供達と分家して、山の中に別に一軒小屋を作り、自分だけでもそういう生活をしたいと思うことがしばしばある。p68「腐植質中の無機質成分の植物に対する価値」

14)1983年。1938年生まれの三省、働き盛りの45歳の時の感慨である。つづけてこういう。

15)けれども、そういう個人的な要求はさておいて、一人の人間として、人間社会の一員として思う時、私達は全体として太古へ帰ることなどは許されておらず、この文明の質の転換を試みる以外に方法がないことは明らかである。

 電気エネルギーというものは原子力エネルギーに比べればずっと良質のものであり、肯定してよいものであると考える。化石燃料としてのプロパンもトラックのガソリンも、使用可能な内は大切に使ってゆくしかない。

 私達の現状は、すでに科学技術文明のわく組みの中に深く組み込まれているので、それを完全に拒絶することはここに住む限りは非現実的なことになってしまっている。p69「腐植質中の無機質成分の植物に対する価値」

16)2001年三省は63才で亡くなった。屋久島の元廃村にいて、この感慨である。2011年、東日本大震災に伴う東京電力原発の壊滅的かつ破滅的事故のニュースを聞いて、三省なら、どんなことを記すのだろう。

17)(前略)真崎さんも宮沢賢治が大好きだということが判って、それで先年二人で出した「狭い道」に続いて、賢治をテーマにした本を作ろうではないかということになった。すると、同席していたこの本の発行者である石垣雅設さんが、僕も仲間に入れて、と言って下さったので、約一年がかりでようやく世の中に送り出されることになった。p231「あとがき」

18)三省の処女作「聖老人」をはじめ、多くの三省の著書の出版に関わってきた石垣氏は、今回の大震災後、所要で東北に寄られた。多賀城に行くということで同行したのだが、待ち合わせの場所として多賀城市文化センターに向かった。

19)そこは4月中旬だったので、まだまだ避難民が多く、全国ニュースの発信地にもなっていた。私は、ツイッターにメモするためにも、あいた時間を使って、センターの中に入ったのだが、彼らは決して避難所の中を覗こうとはしなかった。また、あえて、被災地の状況を見ようともしていなかった。三省も生きていたら、ひょっとすると、彼らと同じような行動を取ったのではないか、と思う。

20)思えば、今から60年か70年程前の時代、即ち宮沢賢治がまだ生きて呼吸していた時代は、幸福な時代であった。その頃はまだ一個のサイエンチストであることを、無条件で誇らしく思える時代であったのだ。p72「腐植質中の無機質成分の植物に対する価値」

21)この本について理解しているかどうかはともかく、感情移入し過ぎて、メモしきれない。

22)今から15、6年ほど前に、私達は、長野県の入笠山という山のふもとに雷赤鴉族という名の拠点を開いた。友人とお金を出し合って600坪ほどの畑地を買い、そこに大きな雷赤鴉族の小屋を造った。何十人もの若者が入れ替わり立ち替わり手伝いに集まってきて、八ヶ岳を眼前に見はるかす静かな山腹に、にわかに人間の花が咲いたようであった。p91「祀らざるも神には神の身土がある」

23)私のこれまでの人生は、ラーマクリシュナの言葉に出会ったことで方向づけられ、10年前にはその方向づけは熱狂とも言える形で進行している時期であったから、ドッキネーション寺院のラーマクリシュナの居室の前に立った時の興奮は、今思い出しても胸が高鳴るほどのものであった。p166「野の師父」

24)木を植えること、草を生やすこと、種を播くことは、太陽と共に在ることである。太陽を愛することであり、太陽をこの世界の最大の価値として新しく認識しなおすことである。ソーラーハウスや太陽電池の開発も意味あることではあろうが、それが現代テクノロジーの延長線上で為されるのであれば、そこには産業国家が現われ戦争が現われて、現在の核文明とさして変わることはない。

 私が野の道と呼ぶものは、太陽を最大の価値とし、太陽の下土の上で全人類が隣人ごとに民族ごとに親しみあい、交流し合って暮らす、小さな技術を持った新しい道のことである。p229「野の道」

25)この本において、三省は、賢治を語りながら、自分を語っている。読者に語りつつ、自分に語りかけている。この本において、私は、三省を読みつつ、賢治を読み、賢治を聞いて三省が聞いたことを、私自身のこととして聞こうとしている。

<2>につづく

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コメント

三省は、多くの同時代人にたくさんのメッセージを残しましたね。

投稿: Bhavesh | 2011/06/18 15:21

「狭い道」「野の道」共に、三省さんにお会いする前に読み、ご本人に会いたくて、紫陽花邑での野草塾に出かけました。
それが私の人生の始まりでした。懐かしいです。

投稿: hagu | 2011/06/17 23:21

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