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2011/06/28

島の日々 山尾三省


「島の日々」
山尾三省 1991/07 野草社/新泉社 単行本 293p
Vol.3 No.0336 ★★★☆☆

1)野草社からでていた季刊誌「80年代」に、1981年3月~1990年2月の間、39回にわたって連載された記録の全文が一冊になって1991年7月に出版された。

2)季刊誌「80年代」のバックナンバーは何冊も手元にあるけれど、実際にはあまり熱心な読者ではなかった。なぜこの雑誌を購入していたかと言えば、他に類する本で、それ以上に面白い本は少なかったからだ。

3)本文が書き出されてからこの本が出版されるまで、私は、農業を勉強し、死線をさまよう病も得、アメリカに2回、インドに2回行った。その他にも沢山のことがあった。結婚し、子どもも二人生まれた。だが、本の内容と具体的に交差する次元は少なかった。

4)交差したのはこの本がでた数カ月後の「スピリット・オブ・プレイス」でのことだった。

5)その後も、同じ道の途上にいたという感覚は多くない。

6)しかし、それなのに、なぜにこの人は、わりと身近にいる人、というイメージを持つのであろうか。

7)この本の「まえがき」は「岩木山」から始まる。ちょうど当時青森・弘前似合った野草社を訪ねて三省は岩木山を仰ぎ見た。

8)なぜか、私の最近も岩木山に縁ができ、このところ盛んに通っている。それは生涯続くことになるだろう。

9)その野草社の人たちとも、今年の震災後、被災地を訪れるチャンスがあった。

10)縁は異なもの、味なもの。どこでどうなっているのかなんて、本当のことはわからない。

11)それにしても、このような10年間を書き続けることができた作家も幸せであれば、それを掲載しつづけてくれた雑誌があり、それを一冊にまとめてくれる出版社があったということは、幸せなことであろう。また三省の人徳のなせる技であろう。

12)と思うと同時に、これほどまでに、その内容の如何はともかくとして、プライベート(と一読者として思うところが多い)なことを書き連ねることの、どこに、どんな意味があるだろう、と想いをめぐらす。

13)もちろん、書き手側にとっては意味がないはずはないが、読み手側にしてみれば、わざわざ本を買ってまで読む内容なのだろうか、と思う。ひとつの記録であり、ひとつの資料であってみれば、価値なしとはしないが、他にあまり類書を知らない。

14)ジョン・レノンが射殺されるところから始まり、、三省が65歳になったら一人一寺を作りたいと語り、諏訪瀬島に残った人々の現況が語られ、屋久島に8年も住んで「自然生活」という言葉が生まれ、ゲーリー・スナイダーや「部族」について語られる。いつもの三省の定番メニューと言っていい。

15)ある意味では、恐ろしい本である。たった一冊で「島の日々」の10年が語られるのだから。

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