森の生活―簡素な生活・高き想い
「森の生活―簡素な生活・高き想い」
上岡 克己 (著) 1996/10 旺史社 単行本 302p
Vol.3 No.0292 ★★★★★
1)「ウォールデン シリーズ もっと知りたい名作の世界」の上岡克己が1996年に、ソロー「森の生活」を今日的に解釈した本。とは言え、さらに15年の時代が経過している。まさに、この東日本大震災後、東京電力原発事故後の、2011年的に「ソロー」を感じ、「生き」直さなければならない、と思う。
2)「アメリカでは、春が来ても自然は黙りこくっている。」この一文ほどウォールデンの春と対象的なものはない。「すべては、人間がみずからまねいた禍いだったのだ」と(レイチェル・)カーソンが言うのは、単に殺虫剤のみならず、究極的には増え続ける人間の営みの総量の累積が、自然の耐えうるキャパシティを越えたことにあろう。それゆえ地球規模での環境破壊が起こるべくして起ったのである。人類はもはやとり返しのつかない時代へと突入したといえる。「『森の生活』の春と『沈黙の春』」p155
3)レイチェル・カーソンの警告は60年代初め、ベトナム戦争さえ起こらない前のことだった。上岡の解釈も、すでに一昔前の麻原集団事件直後のことである。人類は、これだけ愚かなことを繰り返しながらも、なお、暗闇の中へと突撃を繰り返してきた。2011年の原発事故は、おこるべくして起きているのである。「沈黙の春」はすでに現実のものとなってしまった。
4)ソローの森の生活も、一種のユートピア実験の一つとみなされるものであったが、他の理想共同体と異なる最大のものは、そこに自然を最も象徴するウォールデンという湖があったことであり、選ばれた人物、すなわちソローひとりしか入れなかったことである。彼はウォールデンで個のユートピア----個人の人間的完成----を求めたのであった。p169 「現代の森の生活」
5)山の椒エコビレッジは、当初、個人の家庭菜園としてスタートした。7年が経過し、エコビレッジの可能性を探りだした。私自身はこの2期目に参加したことになり、私のソロー・ハウスは、あくまでエコビレッジへの布石となるべきものとして歩み出している。しかしながら、やがては個的なものに留まる可能性もあるし、仮に留まったとしても、それを「失敗」とはみなさない。ソロー言うところの「個人の人間的完成」こそがまた、エコビレッジにおける目的地でもあるからだ。
6)(武者小路)実篤は比較的早くソローにふれ、新しき村においては、「トロー(ソロー)のワルデン(ウォールデン)よりはもっと有益なことが示されるべきだ」と語っている。p175「現代の森の生活」
7)実篤の試みが日本で始まるには、アメリカの理想共同体運動から遅れること約70年が必要だったのだ。そして実篤の実験が始まってからすでに一世紀が経過しようとしている。
8)単に自然の中に家を建て、畑を耕して自給自足の生活をするのが「森の生活」ではない。真の森の生活とは、その場所とか滞在期間、独居生活かどうかも問わない。少なくとも文明社会を離れた自然の中で、簡素な生活と高き想いを実践し、見せかけではなく本物に出あうことである。そしてたえず自己完成を目指し、新しい人間に変身して去らねばならないのであり、去ってからも日常生活におりふしに森で学んだことを生かさねばならないという高尚な側面をもっている。p181「現代の森の生活」
9)図式的で分かりやすく、納得できる説明ではある。しかし2011年の今日的には、もっと別な解釈も成立するだろう。
10)もっと多くのもの、例えば衛星放送受信可能なテレビや、どことでも連絡可能な無線機があればずっと快適な生活が送れるのにと考える者は、森に行く資格はない。森の生活の基本は、物に囲まれた文明の人工的生活からの脱皮であり、簡素な生活が絶対条件なのであった。一世紀半前、ソローは銃や時計などの文明の利器を捨てて、森の中に入ったのであった。p190「現代の森の生活」
11)上岡がこの本を書いた1996年と2011年では、大きく違っている。当時、高価でほとんど実現不可能と思われていた技術が、ごくごく一般的な生活の小道具になっている。スマートフォン一台あれば、ワンセグで「衛星放送受信可能なテレビ」や「どことでも連絡可能な無線機」の機能が十分に果たせるのである。
12)むしろ、2011年的現代の森の生活は、文明を忌避するのではなく、文明の最先端を行きつつあるのではないか。自然の森の中にあっても、「文明の利器」(それはほとんど安価に提供されている)を使えば、十分に現代社会の仕事や生活をこなしつつ、自己完成の修練にあてる時間を捻出できるのでななかろうか。
13)ソローの「森の生活」が読者の覚醒に重点がおかれていたのと同じように、スナイダーも自らの悟りだけを望むのではなく、それを人類すべての問題に敷衍(ふえん)しようとする深遠な使命感をもっていたように思われる。彼の政治的な発言にはそれが明確に読み取れる。p219「現代の森の生活」
14)山の椒が、エコビレッジをかかげ、あるいはNPOとしての機能を果たそうとするならば、それはひとつの「使命感」を感じるからである。しかしながら、その「使命感」を引っ込めてしまうことも、決してやぶさかではない。ひとりひとりの自己完成がもっとも大事であったとしてみれば、過重な「使命感」を振り回すことは、むしろ迷惑にすらなる。
15)スナイダーのZENと、ソローの覚醒、あるいは、日本の伝統的禅文化、を並べて感じる時、必ずしも一様なものとはならない。むしろ、ひとつひとつの違いが際立ってくる、と言える。私は私個人のブログの中で、その「森の生活」カテゴリの中で、Osho-Zenを読み直すのである。生き直す、と言ってもいい。
16)この具体的な例として、「一年の何日かは工場で働くが、残りの日々はヘラジカと共に歩むコンピュータ技術者」を挙げる。スナイダーはすべてのテクノロジーを排除するつもりは毛頭なく、ソローと同じく文明の進歩にみあった人間の心の進歩を世の人に問いかけているのである。p230「現代の森の生活」
17)2011年においては、コンピュータ技術者は必ずしも、先端の花型職業ではなくなってしまった。工場で働けず、しかたなくヘラジカと共に歩まざるを得ないコンピュータ技術者さえ登場している。
18)たとえば(ビル・)マッキベン(「自然の終焉」著者)の家にはソローの時代になかった電気が通じ、タイプライター、コンピューター、ラジオ、石油ストーブが設置され、ファックスでニューヨークと繋がっている。更には鉄道がソローの時代を象徴したように、現代文明の象徴たる車を、ホンダの小型車とはいえ所有している。もちろん銀行口座をもっているのは言うまでもないなかろう。p252「現代の森の生活」
19)2011年の今日においては、一台のスマートフォンをポケットに忍ばせておけば、これらのことが全てできる。口座の確認も振り込みも、お好みであればリアルタイムの株の売買さえできる。電源だって、ベーシック・ハイブリッド車があれば、一家族分の生活は十分できる。
20)山の椒に最初に入った時、将来必要であろうと思うものを3つに絞っておいた。ひとつは、「女性でも安全に使えるトイレ」だった。これはすでに前進している。しかし、これだけの広さである。もっと数が必要になるであろう。バイオマスなどの利用で、さらに工夫されていくに違いない。
21)二つ目は「ネット環境」の構築であった。これは、そもそも電灯線や電話線が通っている山の椒においては、すぐにも利用可能であるが、私は敢えて、モバイル・ルーターを使うことによっての利便性を追求している。これも、限りないグレードアップが可能である。
22)「NPO」設立が三つ目の課題であった。自閉した隠遁の地ではなく、外に開かれた情報発信の「場」、常に共同性を確認し、公的な認知を受けた動きであるべきだ、という思いがあったからだ。三つめの課題は、まだ人が十分集まっていない段階では、「共同性」を語ることができない。あまり先を急がず、じっくり待ちたい。
23)私たちが短い一生を精一杯生きたソローの軌跡に、生きる屍と化した20世紀末の現代人が回帰しなければならぬ原点を見い出したように思われる。作家のヘンリー・ミラーがいみじくも述べているように、「自分自身の人生を十分生きることによってのみ、ソローの思い出を尊ぶことができる」のであるならば、私たち現代人に与えられた課題は、まず自分の一生を大切に生きることから始めなければならないであろう。p290「エピローグ」
24)東日本大震災後の「高地移転」が語られる。そこに従来の「街」を作ってしまうのでなく、ソローにつらなるエコロジカルなライフスタイルを探訪することもまた、「現代の森の生活」になるのではなかろうか。
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