屋久島のウパニシャッド 山尾三省
「屋久島のウパニシャッド」
山尾 三省 (著)1995/06 筑摩書房 単行本 229p
Vol.3 No.0331 ★★★★☆
1)ウパニシャッドとは、師の前にある、ということである。
2)屋久島の自然を師とした三省が、自らの心象を「屋久島のウパニシャッド」と表現することは的を得た当然のことであろう。
3)この本は1990年9月から1993年に月刊の小冊子に掲載された文章をまとめたものである。
4)インド哲学を題材にした本であるがゆえに、この本に惹きつけられるものでもあるが、私にとっては、この本をめくるのは、また別の意味もあった。
5)この期間に私は肉体的にもっとも彼の近くにいた時点があるのであり、そのシンポジウムについて、なにか語られていないか、興味があった。
6)しかし、この本ではその明確な痕跡はまだ見つけていない。
7)掲載された雑誌が「天竺南蛮情報」というものであり、シンポジウムとはなじまない内容であったからかもと思いなおしたり、著書の関連リストを見ても、そのレポートを書いてくれていそうな、タイムリーな出版もなさそうで、結局は、あのことに触れずに三省は逝ったのか、という思いもある。(もうすこし丁寧にさがしてみよう)。
8)しかし、テーマもタイミングも参加者たちも、時機を得た集まりであったにも関わらず、それぞれの参加者たちのひとりひとりがそうであったように、私は私の日常があったのであり、あの時点でのお互いの距離を相関的に測り直してみることにより、この時代の中でいきていた自分を、見つめ直すのである。
9)現在56歳の私は、年齢からすればそろそろ林住期を迎えつつある処であるが、若い日々にウパニシャッドを読み、また「マヌの法典」に刺激されたこともあって、ほぼ20年前から家族共々にこの島の森に移り住み、家住期と林住期の入り混じったような生活、家住期でありながら森から受ける素朴な啓示をより大切にし、森住まいをしながらやはり止み難く家族生活の維持をはかる、ということをつづけてきた。p6「はじめに」
10)これは、1994~5年頃の心象と思われるが、この精神状態は最後まで続いた、と言えるだろう。
11)この一年来私の中に薬師如来、浄瑠璃光薬師如来、と呼ばれるひとつの言葉が訪れていて、それはたまさかのものではなく、次第に日常的なものとなってきていたことである。「精なるものについて」
12)同時代を生きようと、あるいは肉体的に近くに存在しようと、出会わないもは出会わない。しかし、瑠璃光薬師如来を語る時、彼は側にいるばかりか、一連なりの分身であるかとさえ感じる。
13)しかし、それは現象の差異がないことを示すものではない。山頂がそれぞれの高さにありながら、離れているかのように、谷が同じ深さでありながら、離れて存在しているように、それぞれの事象の中で、同じ心象を得る、ということはあり得る。
14)私の自己、すなわち私のいのちという原郷であり、意識と無意識を超えた意識としてのアートマンが、そのまま宇宙を形成し宇宙に遍在するブラフマン(真実性)であるとする存在観は、これまでに繰り返し述べられてきたウパニシャッドの中軸をなす存在観であった。p196「立ち尽くす樹」
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