スナイダー詩集 ノー・ネイチャー<1>
「スナイダー詩集 ノー・ネイチャー」 <1>
ゲーリー・スナイダー/著 金関寿夫/訳 加藤幸子/訳 2002/01 思潮社 単行本 233P
Vol.3 No.0296 ★★★☆☆
1)ゲーリー・スナイダー。ロックスターかポップアーティストみたいで、カッコいいけどな。ちょっとカッコよすぎるところが、妬けるところでもあるし、いまいち、のめり込めないところでもある。
2)スナイダー詩集。読み始めても、どこかバージンスノーに足を踏み入れるような感動がない。すでに古典になっているのか、50年前の詩から始まったり混在したりする。スナイダーという「詩人」を理解するのに、それほどに、その個体史をたどらなければならないのか。
3)「最後のビート詩人でありながら、ポスト・ビートさらに、ビートを突き抜けた詩人 スナイダーの本邦初の選詩集。」裏表紙コピー
4)いまさらながらに「ビート詩人」と呼ばれることに、本人はどう感じているのだろうか。一つの遺産として多いに受け取っているのか、すでにそれなしには自らの思想の原点を持てない、ということか。
5)1930年生まれのスナイダー。既に80才を超えている。かっこいい彼のプロフィール写真に誤魔化されてしまうが、いまだ健在とは言え、すでに高齢者の領域に達している。
6)おれが今日いいにきたのは、
ほかでもない循環(サイクル)のことを、子供たちに教えてやれってことだ。
そう生命の循環のことを、それからすべてのものの循環。
宇宙のすべてはこれにかかっている。ところがみんなが、そいつを忘れてるんだ。p146「ル―へ/ルーから」
7)本人はどう歌っているのか。どんな心境を今生きているのか。だが、周囲がすでに「ゲーリー・スナイダー」という「ポップスター」の存在になじみ過ぎている。
8)この詩集のタイトル。「ノー・ネイチャー」という言葉に、どんな思いがこめられているだろう。ここでは「ネイチャー」にポイントはない。「ノー」のほうに大きなウェイトがかかっているだろう。無だ。無死、無我、無心の無だ。無自然。
9)無がないことには循環はできない。どこかで原点に戻ってこなければならない。あるいは、常にいまここに戻るからこそ循環できる。
10)霜が寝袋の上に積もる。
焚火の最後の燃え滓、
お茶をもう一杯飲む、
ここはまわりを雪に縁取られた 高い湖のほとりだ。p152「戦略空軍総司令部」
11)またいつもの儀式だ。ぼくはパッと目をさまして
ふらつきながら起き上る。足がやっと立つ、
棒を掴んで、闇の中に駆けこむ----
ドッドッと床踏み鳴らし
洗熊に向かって吠えるぼくは大鬼だ。
奴らはすごい勢いで 部屋の隅を走りまわる
引っ搔く音がして
奴らが気に登ったことがわかる。p154「ほんものの夜」
12)「もう50に手が届こうというのに」p156というところを見ると、この「ほんものの夜」もすでに30年以上も前の詩なのだ。
13)「老子」がどう言っていたか
思い出してみるがいい。道が大事なのではない。
どの道を行っても、行きたい所へは行けないだろう。ぼくらは、道を大きくそれてしまった。p198「道をそれて」
14)スナイダーを理解するには、もうすこし周辺を歩いてみる必要があるが、結局は、人々はスナイダーという一詩人に多くを期待しすぎる。詩人はひとり野に生きるのであって、我もまた、ひとり野に生きていかなければならない。一人の詩人をどれほど高く評価しようとも、それはこのような詩人の正しい評価の仕方ではない。
15)スナイダー、好きだな。カッコイイな。だけど、スナイダーの「読み方」は、一冊の詩集の中から読みだす何かを探すことではない。それではむしろ、本の栞として挟んだ「押し葉」のようなものになってしまう。それをもし「自然」というなら、それは本当の「自然」ではない。それを超えたところ、「無・自然」にこそ本物がある。
16)ノー・スナイダー、となることこそ、この詩集の正しい読み方だ。
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