場所を生きる<2> ゲ-リ-・スナイダ-の世界
「場所を生きる」 ゲ-リ-・スナイダ-の世界 <2>
山里勝己 2006/03 山と渓谷社 単行本 327p
1)3月11日の朝に読んでいたのはビル・モリソンの「パーマカルチャー 農的暮らしの永久デザイン」だった。感想を当ブログにメモし、仕事に出かけ、出先の街のビルの中で、今回の大震災に遭遇した。それから、ブログは、電気も来ず、ネットも繋がらない、余震が頻発する、という中で、とてもとても書き続けることはできなかった。
2)ツイッターなどで近況を頻繁に報告したあと、ようやくブログに戻ってこれたのは4月25日なってから。なんと一カ月半、ブログはそのまま停止したままだった。
3)ネットは使えるようになっていたが、図書館は壊滅的ダメージを受けまったく利用できなくなっていた。ふたたび読書ブログとして書き始めたのは、自分の蔵書のゲーリー・スナイダー「地球の家を保つには エコロジーと精神革命」だった。
4)しかし、その後、読書ブログとして4月中に書きとめたのは、僅かに一冊、5月においても、2冊に留まった。6月になってようやく図書館ネットワークも部分的に復活しはじめ、ヘンリ-・D・ソローとスナイダーを並行的に読み始め、そして、スナイダーを再読する過程において、三省との対談「聖なる地球のつどいかな」にたどり着いた。
4)スナイダー本がせいぜい7冊ほどしかなく、物足りない部分があったせいもあるし、三省はいつかは一気に読み干そうと思っていたので、ここからいきなり三省追っかけに突入した、というわけである。その三省追っかけもそろそろ終わりつつある。
5)そして三省が一巡してみれば、残っているのはやはりスナイダーだった。「希望としての山尾三省」と思い始めていたが、実は、もっと根幹にあったのは「希望としてのゲーリー・スナイダー」ではなかったのか。
6)いやいやそうでもあるまい。本来の「希望としての???」は、まだ見つかっていない、と言える。東日本大震災という壊滅的被害の中で、たしかに三省やスナイダーの世界は、一時の気の迷いなのではないか。
7)復興なった図書館に行ってみれば、震災コーナーができており、震災を報道したグラビア誌や新聞などが資料として大きなスペースに広げられている。私は、見るに堪えない、と、視線をはずしたままだ。現地の生々しさを目撃した今、グラビアなどで確認する気など毛頭ない。
8)そんな態度がいきおい余って、現実を直視する力を失っていたようだ。すこしでも「希望」を見たい。そんな思いが強かった。ツイッターや他のブログなどでは、原発や放射性物質の脅威についての書込みが満載だ。だが、すぐそばに原発があり、放射性物資の汚染地帯にいる自分は、いちいちそんな論議に加わっている気力がなかった。
9)そんな中、とにかく震災後のブログが一巡した中、またまた再読したのがスナイダーであり、その最新の研究書ともいうべきこの「場所を生きる」だった。
10)当然のことながら、前回読んだ時よりは、グッとわかりやすくなった。最初に理解していたところを再確認しながらも、より細かく、より客観的に、この本に接することができるようになった。
11)メモすべきところは多々あるが、本筋的に大きな変化はない。ただ、三省の「野の道―宮沢賢治随想」を読んだせいもあるが、スナイダーも賢治を高く評価し、英訳しているということを知るにつけ、ここで賢治突入もありかな、と思う。とくに福島、宮城、岩手と並ぶ被災地の中で、賢治は被災地の「バイオリージョナル」を考える上でも、多いに牽引役になってくれるのではないか、と思う。
12)このスナイダー研究「場所を生きる」は、賢治に限らず、さまざまなところへと飛んでいける、まるでハブ空港のような機能を持っている。エコロジー、アメリカ文学、仏教、禅、地球文学、詩、現代史、カウンターカルチャー、持続可能な地球文化、などなど。あげれば切りがない。
13)今後、当ブログがどんな展開になるか、今のところ未定だが、迷った時には、また、スナイダーに戻ってくる、という手はまずはできた、ということになる。
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