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2011年7月の48件の記事

2011/07/31

福島原発人災記 安全神話を騙った人々 川村湊

【送料無料】福島原発人災記
「福島原発人災記」安全神話を騙った人々
川村湊 2011/04 現代書館 単行本 220p
Vol.3 No.0377 ★★★★★

1)必ずしも原発の専門家でも、サイエンスライターでもない著者が、3.11以降、自らの蔵書が書庫の崩壊ということで読めなくなったことを機会に、ネット上で情報を集めて日記風にまとめたもの。

2)3月11日から始まり、3月25日まで綴られている。約二週間だが、激動の二週間だったといえる。出版されたのは4月。実にあわただしい仕事であっただろう。いずこが正しく、いずこが拙速だったかは、パラパラ読みには分からない。

3)しかし、地震や津波、原発事故に対して、ひとりの人間として立ち向かうことはなかなかむずかしく、無力感が漂うが、少なくも、ネットを使って、個人でも、この程度の情報が集められるのだ、という実によい見本だと思う。

4)インターネットの情報(ウワサ)など、絶対信じてはいけません、なんて論調もあるが、これだけ信憑性のある本に仕上がったのは、著者のセンスによるところもあり、また、著者自身が恥じているがコピペに近い、原典の多用によるところが大きい。

5)日本の支配層は、なぜ、それほどまでに原子力政策(原発政策)を推し進めようとするのだろうか。いったい、いつ、誰が、戦後の日本社会において「原子力」を持ち出したのだろうか。広瀬隆はずばり2人の人間の名前をあげている。正力松太郎と中曽根康弘である。

 この読売新聞社の社長で第3次鳩山内閣で科学技術庁長官を務めた男と、第71~73代総理大臣を務めた男の2人が、日本の原子力国策を生み出した張本人といわれるのである(すなわち、いわゆる日本の原子力の”父”だ)。p163「2011年3月23日」

6)こまかいところをほっくり返すのは当ブログの得意とするところではないが、身に降る「放射性物質」は払わにゃらならぬ。これほどまでに身に迫る危険が押し寄せているかぎり、この原子力行政とやらをもうすこし追求していかなければならない。

7)著者はよくやったと思う。一人でネット情報を組みあげるだけで、これだけの世界が浮きあがってくるのだ。3月26日以降も彼の日記を読んでみたくなるところだが、それは国民(ネット市民)ひとりひとりが、自分でできる範囲のことだろう。

8)当ブログは、そういいつつも、いまだにネット情報を第一義としては考えていない。公立図書館の一般開架棚にあるような本が、一番、コモンセンスとして馴染んでくると思っている。だから、ネットサーフィンして自らの思想体系を作り上げようとは思わないし、できない。

9)書籍に寄る限り、一歩も二歩も遅れてしまうのだが、それでも、再読可能であり、一般に流布している印刷物を底本としておくことで、自らの堅固性が保たれるのではないか、という期待を持っている。

10)この期に及んでも、電力会社というスポンサーや、経済産業省、文部科学省、内閣府といった行政の威光が怖いのだろうか。今回の原発震災は、東電だけに責任があるのではない。電気事業連合会に所属する電力会社全体に共同責任(共犯関係!)があるのだ。その落とし前は、彼ら全員にとってもらわなければならないのである。p213「2011年3月25日」

11)当ブログもそう思う。

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2011/07/30

M9大震災サバイバル術100問100答 知れば知るだけ生存率が高まる! 山村武彦

【送料無料】M9大震災サバイバル術100問100答
「M9大震災サバイバル術100問100答」 知れば知るだけ生存率が高まる!
山村武彦 2011/07 成美堂出版 単行本 111p
Vol.3 No.0376 ★★★☆☆

1)防災対策アドバイザーの肩書をもつ人の監修になる本だから、一通り目を通しておいて悪くない。少なくとも、震災は、どこでどのような環境で遭遇するか計り知れない。あらゆる可能性をインプットしておいても、なお、実際の被災状況は、さらに異なるだろう。

2)これまでは放射性物質に対する防災意識など、原発立地の周辺でしか教育されてこなかったが、今回の東日本大震災においては、逆にそれが裏目にでているようでもある。

3)放射線に関する単位

シーベルト(Sv)人が放射線を浴びることによる影響(その場所に1時間いた場合の実効線量)を表わす単位

グレイ(Gy)物質に吸収された放射線のエネルギーの大きさ(吸収線量)を表わす単位

ベクレル(Bq)放射性物質が放射線を出す能力が放射能で、その量の単位がベクレル

カウント・パー・ミニット(cpm)1分間当たりの放射線を示す単位。数値の大小と人体への影響は関係ない。 p90「原発事故に備えるための基礎知識」

4)ああ、こういうお勉強をしなければならなくなった、ということ自体に驚きと悲しさがともなう。

5)人が胸部エックスCT検査で1回浴びる放射線量は6.9ミリシーベルトですが、一度に100ミリシーベルトを超える高濃度の放射線を浴びるとがんになる恐れがあり、7000ミリシーベルトを浴びれば死に至ります。p90「同上」

6)1ミリシーベルトは1マイクロシーベルトの1000倍。日常生活では単位が大きすぎるのでマイクロを使用することが多い。p90「同上」

7)原発から90キロ圏内の私の生活空間は、ガイガーカウンターで検査してみると、平均0.1マイクロシーベルトだから、一日で2.4マイクロシーベルト。

8)この空間に一年間生活したとして浴びるのは876マイクロシーベルトだから、おおよそ1ミリシーベルトとなる。

9)胃のX線検診  0.6ミリ―シーベルト

胸のX線検診 0.05ミリシーベルト
 p90「同上」

10)ということは、胃の検診を年に2回、胸の検診なら20回の分を、ここに生活しているだけで浴びる、ということになる。半減期や、その濃度の上下もあるだろうから一言では言えないが、このような数値に留意しなければならない時代になったということだ。

11)体重の増減や、血圧の変化を数値化して見続けるのもメンドウなのに、また、あらたなるチェックポイントが増えてしまった、ということになる。

12)国際放射線防護委員会(ICRP)の防護基準とはなに?

万が一事故などにより大量の放射性物質がもれる事態が起こった場合には、緊急被爆状況として「重大な身体的傷害を防ぐ」ことに主眼をおき、一般人の場合で年間に20~100ミリシーベルトの間に放射線量を定めています。p91「同上」

13)つまり、ガイガーカウンターが2.0マイクロシーベルトを超えるようなことがあれば要注意、ということだろう。そこに1年間暮らすようであれば危ない、ということになる。

14)放射線と放射能はどう違う?

放射線とはエックス線やガンマ線、中性子線などの粒子線のこと、放射能とは放射線を出す能力を言います。

懐中電灯に例えると、懐中電灯は光を出す発光能力をもったものであり、懐中電灯は放射性物質、光は放射線、発光能力が放射能となります。放射能は時間とともに減少します。p91「同上」

15)この辺が一般人の私などが、よく理解できないでいる部分。つまり、空中に漂っているのは普通なら光(放射線)なのだが、今回の事故によって、空中に懐中電灯(放射性物質)が沢山放り投げられた、ということになるのだろう。

16)空中を漂った懐中電灯(放射性物質)が風に飛ばされ、雨に打ち落とされて、各地に「ホットスポット」なる汚染地帯を作ってしまった、ということになるのだろう。

17)原子力発電所から放射能もれによる事故が発生した場合、避難すべきかどうかの勧告や指示は国や行政機関が行います。p73「原発事故への対応」

18)そもそも、こういう決まりになっているのであれば、やはり「国」の責任は重い。国民ひとりひとりが、勝手に判断して行動できない限り、国は、キチンと、早め早めの指示を出すべきだ。ここが多くの人が指摘する、今回の国の対応の遅さだ。

19)インターネット上のウワサなどを絶対に信じてはいけません。常にテレビやラジオ、防災無線などで正しい情報を冷静に入手しながら、その間に持ちだす荷物をまとめる等の準備をしましょう。p73「同上」

20)今回の国の対応の遅さと相まって、インターネット上の情報が大いに役だった面もある。いまのところ、なにが「正しい情報」なのかは定かではない。原発や国の公式発表が「正しい情報」だと認識している国民は少ない。だから、ネット上の情報もこまかくチェックしておく必要がある。

21)言い換えるなら、国や原発の公式発表などを絶対に信じてはいけません。常にインターネットや風聞などに留意しながら、その間に持ちだす荷物をまとめる等の準備をしましょう、ということになるか。こう茶化したくなるほど、「正しい情報」が国民に伝わるまで時間がかかっている。

22)体内に取り込まれた放射性物質はどうなる?

放射性物質を口や鼻から吸い込むことを「内部被爆」といいます。とくに人体に影響が大きいのは、ヨウ素131とストロンチウム90です。ヨウ素131は甲状腺に集まりやすく甲状腺がんになる可能性があります。ストロンチウム90は血液を作る骨髄に集まるため、白血病などになる危険があります。

セシウム 全身に行き渡る性質があり、さまざまながんを誘引する要因に

放射性物質とがん  内部被爆をして体内にがん細胞がつくられてもすぐにがんは発症しない。発症するのは約20年後の場合が多い。p93

23)まったく、こまったもんだ。

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2011/07/29

災害から親を救う50の手立て 米山公啓

【送料無料】災害から親を救う50の手立て
「災害から親を救う50の手立て」 
米山公啓 2011/07 扶桑社 単行本 165p
Vol.3 No.0375 ★★★☆☆

1)書いているのは現役のお医者さん。医学博士。遠く離れた親を、災害時にどうするか、という点にテーマを絞っている。

2)災害時に限らず、普段から、どのような付き合いをしているのかが問われる。その点がはっきりしていれば、あとは、この本に書いてあることはそんなに目新しいことではない。ごく当たり前のことである。しかしながら、本当にそのテーマについて再考したいなら、この本はよいチェックシートになってくれる。

3)まず、ホイッスルです。狭いところに閉じ込められたとき、自力では脱出できない状態に追い込まれたとき、周囲に存在を知らせるには、ホイッスルが便利です。声で助けを呼ぶのには、限界があります。ホイッスルの高い音は、遠くまで届きます。p37「常備しておきたい防災グッズ」

4)これは考えたことがあったが、実際には揃えていなかった。必要になる状態が想定できなかったが、災害はいつくるか、どこで遭遇するかわからない。実際に、同年輩の友人は、キーホルダーにつけていた。これは要チェック。

5)パソコンより確実な連絡方法としては、アマチュア無線がある。それも携帯型の無線機を持っていれば、停電になっても、警察や区役所へ連絡が取れる。p57「まず通信システムが大切」

6)今回の3.11ではあまりアマチュア無線は話題になることはなかったが、ケータイやネット回線がぶち切れてしまえば、あとは通信手段として残されている方法はすくない。太陽光発電システムと組み合わせれば、強力な通信手段となる。

7)被災地域が広ければ広いほど、遠くで暮らす人が頼りになることがあります。仮住まいを提供してくれたり、物資を融通してくれたり、被災していない地域からの手助けは、想像以上にありがたいものです。p93「離れた場所の親戚や友人をチェックする」

8)これも本当だ。普段からの連絡網を確認しておく必要がある。

9)歩く以外の移動手段は確保しておきたいものです。通勤や通学には使わなくても、折りたたみの自転車が一台あると、何かと便利です。p97「移送手段を確保しよう」

10)折りたたみ自転車は助かった。被災地の近くにいくと交通規制がかかったり、悪路で車が入れないところがある。そこからは車から取り出した折りたたみ自転車で、地元の人間のふりして境界線を突破したりした(笑)。

11)確認が必要なのは、地震保険に加入しているか否かです。これによって、地震による被害の何処までが保険でカバーされるかが、全く異なるからです。p108「地震保険に加入しているか確認しよう」

12)地震保険については、T社の「超保険」地震上乗せ保障で100%カバーが一番強力。支払いも早かった。地震保険の加入率は地域で違いがあるが、だいたい30%前後。代理店によってはほぼ100%付帯している。

13)自動車保険も、地震や噴火、津波による被害はカバーできません。これらの場合でも補償できる特約を結んでいない限り、対象外なのです。p111「自動車保険は地震では原則下りない」

14)自動車の地噴津特約は安い。今後は絶対チェック項目になるだろう。ただし、現在は大震災の余震が続いているので、まだ受けてくれる保険会社は少ない。

15)最低でも100万円は、現金で自宅に置いておきたいところです。それも、1万円札ではなく、公衆電話や自動販売機などで使えるコイン、特に10円玉は潤沢に揃えておきます。p124「ある程度の現金を自宅に保管させる」

16)これはどうかな。実際に親戚の80歳を超えたおばあちゃんの家は津波でながされ、タンス預金していた「100万円」も流失してしまった。嘆くおばあちゃんを慰めるしかない。生きてるだけでまるもうけ。そう考えるしかないな。

17)ショックは長期にわたって残ります。大きなショックは、PTSDを生んで当然です。高齢者は特に、こ野回復に時間がかかります。p162「PTSDから回復させるには」

18)これは個人差が大きいだろう。戦争や長い人生を体験している高齢者のほうがサバサバしている場合も多い。今後の調査を見ないと、これはなんともいえない。

19)この本は、子どもからみた高齢者の親のケアについて書いているのだが、すでに高齢者になりつつある自分としても、考えておかなければならないテーマだ。常備薬などのリストを作っておくなどは盲点だった。現在の私には常備薬はない。

20)この本には書いていなかったが、私の場合は、老眼鏡がないと何もできない。これは各部屋におくとか、車の中に備蓄するとか、確実に確保しないといけないと思った。

21)被災当時、親としての私は、関東と北海道にわかれていた子供達と、どのように連絡するかを考えた。初期的にはケータイやメールで安否は確認できた。だけど、その後、刻々変化する状況の報告は、やはりツイッターがおおいに役立った。

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2011/07/28

東日本大震災 読売新聞報道写真集

【送料無料選択可!】東日本大震災 読売新聞報道写真集 (単行本・ムック) / 読売新聞東京本社
「東日本大震災 読売新聞報道写真集」 
読売新聞東京本社 2011/05 単行本・ムック p178
Vol.3 No.0374 ★★★☆☆

1)震災後ほぼ一カ月で出版されたもの。書店にはこの手の本が乱立していたから、逆にみる気には全然ならなかった。図書館の中で、一冊だけ離れたところにあって、借りてきてみれば、やはり、しげしげと見ることになる。

2)この写真集で再確認したところは、当日の地震は決して2時46分に一回だけおきたのではなかった、ということ。

3)北からいくと

岩手県沖 3月11日午後4時29分 M6.6

宮城県沖 3月11日午後2時46分 M9.0

福島県沖 3月11日午後4時15分 M6.8

茨城県沖 3月11日午後3時57分 M6.1

千葉県沖 3月11日午後3時15分 M7.4 p109参照

4)地震→津波、と単純化して考えていたが、この地震というくくりも、もっともっと細かく見ていく必要があるのだった。当然、そこから派生したと思われる津波も、決して単純なメカニズムではない。

5)そして、「原発の恐怖」p115の問題が連続する。

6)あるいは「首都圏機能まひ」p126などが起きていたことなど、東北、ましてや沿岸部にいたら、まったく気がつかないで終わってしまう可能性がある。

7)被災に大きい小さいを判断するのは難しいが、ここはやっぱり、すべての人が頑張らなければならないのだ。

8)To Our Friends Around the World Thank You for Your Support

9)なでしこジャパンのワールドカップ優勝でようやく笑顔が増えてきた日本であるが、この横断幕、実は、ドイツで初めてお披露目されたものではなかった。p155を見たら、3月29日、男子サッカー日本代表対リーグ選抜「復興支援チャリティーマッチ」、大阪市長居スタジアムですでに登場していたのだった。

10)自分のことだけで、せいいっぱい。他のことが目に入っていなかった。

11)ガンバレ、日本!のタイトルが躍る。みんな応援してくれているんだな。やっぱり、ここは、そろそろ素直に、がんばろう!日本、でいいじゃないか、そんな気になってきた。  

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TSUNAMI3・11: 東日本大震災記録写真集

TSUNAMI3・11: 東日本大震災記録写真集
「TSUNAMI3・11: 東日本大震災記録写真集」
豊田 直巳 (編集) 2011/6 第三書館 単行本: 541p
Vol.3 No.0374 ★★★☆☆

1)A5判ながら、なんと541ページに渡る写真集。しかも全ページがカラー写真・・・・と言いたかったが、時間が足らなかったか、予算がつきたか、資材がつきたのか、最後の100ページ程はモノクロになってしまった。

2)出版社は、あの第三書館か。決して品のよい出版物とは言い難いが、このような出版物が存在する、ということだけは確認しておきたい。

3)1ページに2枚平均の写真が収められているので、おおよそ1000枚の震災記録写真がコメントもなく並べられている。撮影したのは20名以上にわたるカメラマン。写真を提供した自治体も13以上に渡る。

4)撮影された自治体は全部で60。北海道から千葉県まで。この本であらためて、被災したのは、岩手、宮城、福島だけでなかったのだと、再確認した。とくに北海道や青森でも大変な被害がでていたのだ。普通だったら、これだけでも大ニュースなのに、東北のほうに報道の中心が行ってしまったために、ほとんど報道されていない。

5)茨城、千葉においても、沿岸部においては、まったく大変な被害が起きていたのだ。あらためて、被災された方々にお見舞い申し上げます。

6)しかし、と思う。これだけの数の写真を陳列されても、自分がみてきた風景は、もっとすごいものがあった。ここに陳列された1000枚は、悲しいかな、ごく一部なのだ。

7)第三書館では、この本の続編を企画しているようだ。

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2011/07/27

がんばろう!日本 災害復興計画

 月刊リベラルタイム 2011年6月号

「がんばろう!日本 災害復興計画」

リベラルタイム 2011/06 リベラルタイム出版社
Vol.3 No.0373 ★☆☆☆☆

1)図書館の検索システムに引っ掛かって借り出してしまったからといって、なにもいちいちメモしておく程のこともないのだが、袖触れ合うも多生(多少だろうな)の縁。

2)この本、震災直後の発行とあって、まったく「がんばろう!東北」については書いていない。あるのは「がんばろう!日本」だ。

3)この「がんばろう!」はかなり多くの人が違和感を持っている。1995年当時の「がんばろう!神戸」には、どこか元気があった。

4)昔、マンガの「じゃりん子チエ」で通信簿をもらうシーンがあって、たしかあまり良くない点数の時が「がんばろう!」ではなかっただろうか。「よくできました」、「できました」、に続いて「がんばろう」があったような気がする。

5)じゃりん子チエなら、あのキャラクターと相まって、「がんばろう!神戸」が似合う(本当のところはよくわからない)。あの時、がんばろう関西とか、がんばろう西日本とか、そういう単語は飛びかったのだろうか。

6)1月17日の阪神淡路大震災から2カ月して、麻原集団事件が勃発した。あの時、いつの間にかトップニュースは、地震からサリンへと変わってしまった。その蔭で、「がんばろう!神戸」の合言葉が、地元から遠くまで聞こえてきた。

7)あの頃、通信手段はほとんど固定電話とファックスだけ。ケータイやメールなどはほとんどなかった。ウィンドウズ95の発売は12月のことだった。

8)あの時、阪神淡路の悲惨さから目をそらすために、あえて、誰かが「事件」をでっち上げてしまったのではないか、などという論調もなきにしもあらずだった。

9)今回、東日本大震災後の直後から、原発事故は大きく取り上げられている。北東北においては、沿岸部の津波の事実のほうが大きくて、原発まで頭が回らなかった、のではないか、と思ったりする。

10)別に、津波の悲惨さから目をそらすために、原発事故だけが大きく取り上げられている、とまでは言わないが、どうも構図としては、1995年当時と似ていなくもない、と思う。

11)今回、被災地からは「がんばろう!日本」という声は上がらない。敢えていうなら「がんばろう!東北」だ。あるいは、自らの地名や行政単位の名称がつく。

12)だから、「がんばろう!神戸」のような統一感がない。別になくてもいいのだが(笑)。

13)チーム日本、といういい方もある。

14)いまだに、がんばろう、という単語に違和感を覚える人は少なくない。かくいう私も好んでこの言葉を使うことはない。

15)だけど、他にあんまりいい言葉もないようだ。絆、とか、つながろう、とか、Pray for JAPAN、とかがあることは知っている。しかし、どれもいまいちだ。

16)やっぱり、こんな時、がんばろう!が一番似合いそうな気がする。

17)がんばろう!東北、と、がんばろう!日本、ではだいぶニュアンスが違ってくる。当然のことだが。東北、の場合は、自らががんばる必要がある。日本、の場合は、東北を助けよう、というニュアンスとともに、世界に対して、日本よ、がんばろう、という意味合いもある。

18)総論「がんばろう!日本」で何も問題はない。しかし、各論がバラバラだ。

19)じゃあ、どうするのよ、となると、なんだか、皆んな腰砕けになりそうだぞ。

20)そんな時、なでしこジャパンのワールドカップ優勝は大きかった。国民栄誉賞には、みんな賛成するだろう。

21)夢は実現するためにある。チームワークを保って、最後まであきらめない。やまとなでしこの「たくましい」フェミニン・エネルギーに脱帽した。

22))がんばろう!日本、がんばろう!東北。

23)そういう風に、腹の中から、本当に力が湧いてくるまで、あとどのくらい時間がかかるのだろう。

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検証東日本大震災 そのときソーシャルメディアは何を伝えたか?

【送料無料選択可!】検証東日本大震災 そのときソーシャルメディアは何を伝えたか? TSUNAMI AND SOCIAL MEDIA REVOLUTION (ディスカヴァー携書) (単行本・ムック) / 立入勝義/〔著〕
「検証東日本大震災 そのときソーシャルメディアは何を伝えたか? 」TSUNAMI AND SOCIAL MEDIA REVOLUTION 
立入勝義/〔著〕 2011/06 ディスカバー21 単行本・ムック
Vol.3 No.0372 ★★★☆☆

1)あの日は不思議な日だった。午後からの会議に向けて、電車でいくか、車でいくか、直前まで決断できなかった。それぞれにメリット・デメリットあるのだが、電車で行けば駐車場代がかからず、帰りに書店で長時間立ち読みができる。車で行けば、電車賃はかからないし、歩く時間も短い。

2)あの日、車で行けば、すぐ車に乗ってカーラジオで最新のニュースを聞くことができただろう。自宅へも、スムーズに数十分で帰ることができたかもしれない。いやいや、そうではなく、駐車場の入り口ゲートが故障してしまったので、結局は立体駐車場の中で立ち往生したのではないか。

3)結局、あの日は電車で行ったので、帰りは歩き、ということになった。電車が止まってしまったから。そして、ゆっくりと街並みを見ながら帰ることができた。2時間かけて歩いて帰宅して見れば、自宅の中では家具類が散乱していた。

4)当日、街中の高層ビルの4階の会議室にいた。新築2年で結構きれいで頑丈なビルだった。会議室には机とホワイトボートと大型ディスプレー以外に何もなかった。

5)リスク・コンサルタント達が100人ほど集まっていた。話題はニュージーランドの地震のこと。近々宮城沖にも地震がくる可能性が高いですよ、と、そういう類の話題だった。

6)突然、あちこちの、参加者のケータイから、緊急サインの、「ヒュン・ヒュン・ヒュン・・・・」という音が鳴りだした。地震がくると。それから揺れが来た。机以外、ほとんどなにもない部屋だったが、大部屋を仕切るために付属しているアコーディオン・パーティーションが、扇子のように大きく広がって、揺れた。

7)私は、危ないと思って、机の上のコーヒーカップを手に持った。そのまま、中腰で2分間くらい過ごした。

8)実際、あの地震で、マグニチュード9を体験したわけだが、幸か不幸か、地震そのものは怖いとは感じなかった。

9)しかし、すぐビルの館内放送が流れ、エレベーターを使わず非常口を避難せよ、ということになった。階段を下り始めると、すでに壁には複数、細かいクラックが入っていた。

10)地上に降りてみると、路上のマンホールの蓋が、飛びあがって斜めになっていた。地下鉄はとまり、乗客がどんどん地上に上がってきていた。地下鉄、電車はすでに停止していた。車は動いていたが、交差点の信号が消えてしまったので、あちこちでノロノロ運転が始まった。

11)歩きながら、電話をし、メールを打った。制限規制がかかったので通じなかったが、ほんの一瞬だけ声が聞こえたりした。短いメールが届いたりした。だが、なんども発信を試みているうちに電池がどんどん低下していった。

12)歩いている路上で、建築関係のトラックが、大きなボリュームでカーラジオをつけていた。震源地は宮城県沖で、どうやら海岸線に津波が押し寄せている、ということが分かった。だが、それは、ニュースを聞いたのではなく、トラックの側にいた作業員がかいつまんで話してくれたのだった。

13)途中から雪が降ってきた。私と一緒に、前後しながら歩いている人が何人もいた。

14)その頃、関東にいる娘からメールが入っていた。それは後から分かったことだが、「津波が来ているから、高いところへ逃げて」という内容だった。

15)ちょうどそのころ私は、大きな川の橋にかかっていた。まさかそこまで津波はこなかったが、あの映像と、あのタイミングなら、いや、実際に私だって、津波に飲み込まれた可能性はゼロではないのである。

16)遠く離れた彼岸にいる他人は、マスメディア等を通じて、こちらの状況をマクロで把握できる。しかし、こまかい私の状況はまったくわからない。逆に、此岸にいて、自宅に向かって歩いている自分は、一歩一歩、歩いてはいるが、マクロで一体何が起きているのか、まったく分からない。

17)この時、私はケータイのワンセグでニュースを見るべきだったのである。歩いていたのだから、その余裕はあったはず。だが、いつ連絡が着信するかわからないので、ケータイ機能だけに集中していた。電池の残量が3分の1くらいになってしまったので、今後のことを考えた。

18)自宅に戻り、先に戻っていた家内と近くの小学校体育館に避難した。避難所では発電システムがあったので、ケータイとスマフォを充電した。そしてワンセグを見た。ニュースも断片的であり、しかも全国的な各地のニュースだった。この時、本当に必要なのは、地域のニュースであるが、うまいこと地域のことばかりを報道してくれない。

19)断片的に、私と家内のケータイに家族や身内から連絡が断片的に入った。送受信は実に断片的で、頼りなかった。それでも、まったくないよりは良かった。

20)遠くの友人や知人から断片的なメッセージや伝言が入っていた。ほんの2秒くらいで切れていたりしたが、意味は分かった。こちらから返信しようとしたのだが、ほとんど出来ていなかっただろう。返信できたかどうかさえ、確認できなかった。

21)それから数時間、数日あって、連絡が一段落したところで、刻々と変化する自分の環境を広報するためにツイッターを書き始めた。

22)日本から遠く太平洋を隔てた米国ロサンゼルスに住み、直接的な被害はなかったとはいえ、わたし自身も、一日本人として今回の震災に家族ともども、ひどく心を痛めている。p3「はじめに そのとき、僕は・・・・」

23)この本は、ソーシャルメディア、特に対外国などに対して、日本の災害がどのように捉えられ、情報として流通したか、という点から書かれている。程度の差こそあれ、「被災地」の「中心」にいた私としては、あまり関係がない、あるいは、つよく言ったら「よけいなお世話」とさえ思えるような、世界の対応が書かれている。

24)本当に初期的な身内情報が繋がってしまえば、あとは、公共のマスメディアが頼りになる。公に発信するツイッターへの情報などない。自分の安否情報さえ伝わればそれでいいのである。

25)逆に、全体像がマスメディアで分かってしまえば、今度はまた、それでは、自分は今どのような位置にあるのかを確認したくなる。

26)被災地にいる避難者たちは、全国ニュースを見ていて、自分たちの地域のニュースが流れないことにいら立っていた。もっと地域のことを知りたかったのだ。

27)数週間して、そのような声も反映されて、各市町村単位で、地域災害FMが立ち上がった。

28)場合によっては、印刷手段を奪われた地域紙メディアの記者たちによる、壁新聞さえ活躍した。

29)わたしは自分がブロガーだから、当然、ソーシャルメディアの本流はブログだと思っている。p245「ツイッターとフェイスブックはこれから日本をどう変えるか?」

30)賛成である。私にとっても、新聞の号外、地域災害FM、避難所の壁新聞、電話、ケータイ、メール、ラジオ、SNS、テレビ、ワンセグ、広報車、回覧板、それぞれに役だった。だが、ブログを書いている時、一番、落ち着く。

31)この本、もし私が震災時、海外にいた場合なら、多いに共感できる部分も多いのだろうが、被災地の一員として読めば、震災直後の環境としては、ほとんど意味がない本となる。

32)あとは普段からの心構えであろう。ケータイさえ持たず、公衆電話で過ごしてきた人もいるだろうし、テレビオンリーという人もいたはずだ。なにより新聞を読まないと信じない、という人もいるだろう。

33)スマホやソーシャルメディアは、絶対必要だと、私自身は思う。それは被災したからそう思うのではなく、時代の最先端の技術だから、それを活用しない手はない、と思うからだ。しかし、実際には、ソーシャルメディアは、震災後の、本当に初期的には役立たなかった。

34)一旦、自分の立ち位置が理解できれば、あとは、普段からの自らのスタイルを復旧させ活用するしかない。そういう意味では私にとってはスマホとソーシャルメディアは不可欠だが、万民にとってそれが絶対だとは思わない。

35)デジタル・デバイドとともにソーシャルメディア・デバイドが存在する。だが、それは活用できる人が、自分だけのために使うのではなく、使えない人のためにも使って活用してあげる必要がある。

36)運転免許を持って車を持っている人間だけが、往来を疾走してはいけない。機能が限られた高速道路のようなところならそれも確かによいかもしれないが、街角では、歩行者優先で、車と運転者は、安全運転を心がけなくてはならない。

37)ソーシャルメディアの中においても、暴走族や当たり屋だって存在する。ひとつひとつの事態に対応しながら、ネット社会も成長していくに違いない。

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原発をつくった私が、原発に反対する理由 菊地洋一

【送料無料】原発をつくった私が、原発に反対する理由
「原発をつくった私が、原発に反対する理由」
菊地洋一 2011/07 角川書店 単行本 199p
Vol.3 No.0372 ★★★★★

1)原発問題は、原発を推進して作ってしまった人間たちが解決したらいいだろう、と思ってきた。全くのドシロートが、いくらその危険性を感じ取ったとしても、どうしようもないではないか。担当者たちがキチンと責任を取ってくれ。

2)3.11における被害は甚大なものである。三陸や沿岸部の被害などに無縁の関東以南の人々が、「自分」の問題として原発事故の放射性物質についてケンケンガクガクやっているのなら、その問題は、その人たちに任せておこうと思っていた。

3)そもそも震災直後においては、抱える問題が多すぎた。まずは身近なことから解決しなければならなかった。周囲には、自分がやらなければ何事も進まないことが多すぎた。

4)図書館も壊滅したし、そのネットワークがすこしづつ復興して、3.11関連の図書が少しづつ入り始めた。写真集などが多かったが、現地以上の情報など必要なかったから、出来れば見ないようにしてきた。

5)3.11以降に出版された本も、緊急出版であって、情報が不十分だったり、以前の本が震災をきっかけとして再版されたものも多かった。

6)その中にあって、この「原発をつくった私が、原発に反対する理由」は、当ブログがようやく重い腰を上げた、震災後に書かれた本格的な脱原発・反原発の、強烈な一冊である。

7)自分で作っておいて、今さら反対するのかよ。最初から反対すればよかったではないか。儲けるだけ儲けておいて、事故が起きてから「反対」したって遅いじゃないか、そういう風に斜に構えた態度をとってしまいがちだった。もし本当にそういう人がいるのなら、その態度は今でも変わらない。

8)しかし、この本はちょっと違う。少なくとも、この人は「原発をつくった」人ではない。原発の設計者でもなければ、原発エリートでもない。あえていうなら、いつの間にか「原発建設の現場で仕事をしていた」というにすぎない。それは設計と現場の調整役をするコンサルタントという役目であったとしても、「私が原発をつくった」とするのは、ちょっと大げさな表現である。

9)その彼が、7年間の現場から離れ、時間の経過とともに反原発、脱原発の運動に身を投じた経緯は、この本を読み進めると、よくわかる。三陸の釜石出身ということで、どこか「森は海の恋人」畠山重篤とおなじ、東北の海の匂いさえする人物だ。

10)私が住む宮崎の串間では、地震の揺れすら感じられませんでした。大気中の放射性物質の量が増えることもなく、野菜や魚を東北方面に頼る必要もありません。そうなってくると、多くの人にとって、原発はすでに「他人事」なのです。p052「メルトダウンは津波が原因ではない」

11)著者がこの本を書いたのは6月現在までのことだったと思う。しかし、7月になって、牛肉の餌を媒介として、放射性物質による食物汚染は、全国に広がりつつある。決して九州・四国といえども、無縁ではない状況になりつつある。

12)マグニチュード9の巨大地震が福島原発を襲ったとき、原子炉建屋内いた作業員は、恐ろしい音を聞いたそうです。原発内すべての配管が信じられないほど大きく揺れ、お互いにものすごい音でぶつかり合う音だったといいます。圧力容器の本体は持ちこたえていると東電は言い続けていましたが、大量の配管の亀裂、破損部分から、水が漏れていたことは間違いありません。津波が来る前から、冷却機能は失われていたのです。p50「メルトダウンは津波が原因ではない」

13)非常に重要な告発である。この問題はあまりにも恐ろしいことなので、目を覆ってしまいたい気分が強かった。重要なポイントは、つまり「想定外」だった津波に原因を押し付けようとする立場もあるが、津波が来る前から、原発は地震そのもので冷却機能は失われ、それが原因で5時間後以降、メルトダウンを始めてしまったのだ、と著者が言う点である。

14)日本の原子力事業が始まったのは、1955年に遡るのですが、そもそも原子力発電の先進国はアメリカです。世界初の原子力発電は51年、アメリカで行われた実験です。これは200ワットの電球を4つつけただけだったそうです。071「日本の原発はこうして誕生した」

15)ふりかえってみれば、原発の歴史も意外と浅い。たとえば、スナイダーやギンズバーグがビートニク運動を始めた頃とそう変わるものではない。ほんのちょっと前のことだ。同じことがアメリカ国内で行われ、日本にも飛び火してきていた。

16)GEのエライ人が来るときは、近くのヘリポートに降りるのですが、それはもう大変なVIP扱いでした。ヘリコプターからゲストハウスまで、赤絨毯を敷いてお出迎えです。084p「6号機が完成した翌日、過労死した同僚」

17)原発開発推進派に立つ人々にもさまざまなレベルがある。孫請け、ひ孫請けなどの労働者と、ごくごく一握りの投資家などの間には、極端な開きがある。誰かが巨大な利権を握っていることは間違いない。まずは、ここが、危険が叫ばれていても、なかなか脱原発が進まない大きな原因だ。

18)1985年に原発の仕事から足を洗いました。原発のことを忘れたくて、退職金をはたいて横須賀に喫茶店を開きました。p105「私が原発から『逃げた』わけ」

19)この人はもともと強欲な推進派ではないが、日雇いなどの危険な労働を担う立場にあったわけではない。中間層、少なくとも一般的な原発肯定派であったことは間違いない。その人が1985年まで原発に関わっていた、というのだから、やはり「鈍感」であったということはできる。しかしまた、彼がこういう立場であったからこそ、今、私たちはこの原発現場の「インサイダー」情報を聞けることになるのだ。

20)私はマンションを売り払って、埼玉県の「新しき村」というところで1年ほど暮らしました。1918年に作家の武者小路実篤が自らの理想をかかげてつくった小さな農村です。まずは脱都会をして田舎暮らしになれ、それから旅に出ようと心に決めました。p117「51歳の誕生日から『反原発の旅』へ」

21)この人、理科系の人ではあるが、もともと文科系にも素養があるバランスの取れていた人物だったのだろう。1992年のことである。

22)「原発」というのは「原子炉」だけではないということです。もしも「原子炉」が地震でひくり返らなかったとしても、私が心配していた周囲の配管、とくに再循環系パイプなどの重要配管が、地震で破断しない保障はまったくない。そもそも地震などなくても、亀裂が実際に生じている場所です。p130「冷却機能は簡単に失われる」

23)このような「証言」や「告発」は、推進派においては、まったく無視されてきた。今回の事故を受けて、それでも彼らは、人類の未来をどドブにすててしまおう、というのだろうか。

24)4月7日の余震では、女川、東通原発が自動停止し、非常用電源が使われました。女川の震度は5、東通は震度4です。その程度の震度で、女川は外部電源3系統のうち2系統が喪失、東通1号機は外部電源が喪失。かなり危険な状況に追い込まれているのです。原子炉が壊れたり、ヒビが入ったりしなかったとしても、冷却系統が壊れたら、原子炉の冷却はできません。冷却には長い長い時間がかかるのです。p131「冷却機能は簡単に失われる」

25)実際に、沿岸部だけではなく、内陸部においても3月11日の本震よりも、4月7日の余震のほうが地震の被害が大きかったように思う。一度ゆるんでいたところを、さらに揺さぶられた、という相乗効果があったのだろう。

26)大規模地震にともなって津波が来襲することは想定すべきで、その対策はもちろん大切なことでしょう。しかしながら、「津波さえ防げればだいじょうぶ」に話をすり替えてしまうことには、呆れるほかありません。p152「管首相の『浜岡中止要請」への疑問」

27)浜松原発に強い危機感を持っている著者である。いままで3.11の力学は、地震→津波→原発事故、という図式で考えていた。しかし、実際は、ここでは津波を除外して、地震→原発事故、という図式が成立していたことを、あらためて認識した。

28)CO2を出さないから地球温暖化を抑制するというのも大ウソで、原発は発生する熱量の3分の2を捨てています。温排水というかたちで海にじゃぶじゃぶ流しているのです。それは大きな川に匹敵するくらいの量です。実は原発は地球を暖めているのです。p179「持っていく場所のない『使用済み核燃料』」

29)この辺の数量的な事実関係は、別途、検証していかなければならない。しかし、先年、「不都合な真実」「私たちの選択  温暖化を解決するための18章」などでノーベル平和賞を受賞したアル・ゴアなどのバックには巨大な原発マネーがついていることを、敏感に感じ取らなければならない。

30)喉元過ぎたら熱さを忘れてほしくない。(中略)放射線の被害というのは、未来の子供たちを殺すことだからです。p196「増大する原発の海外輸出」

31)この本には他に、ボランティアのことやら、原発を受け入れた過疎の町が、実際は活性化なんてしていないことなど、身につまされることが縷々述べられている。このような本を読むのはちょっとつらいが、これが今、私が住む地球の、日本における、2011年という現実である。

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2011/07/26

自宅につくる震災対処PCシステム<1> 節電・停電対策から安否確認まで

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「自宅につくる震災対処PCシステム」 <1>節電・停電対策から安否確認まで
日経BPパソコンベストムック 2011/05 日経BP社 ムックその他 129p
Vol.3 No.0371

1)この本は面白い。本当に役だつのかどうか、費用対効果でメリットがあるのか、自分に取って本当に必要かどうかは、よく見極めなくてはならない。しかし、今ある問題点についての解決策の糸口を提示していることに変わりはない。

2)PCサーバーを稼働させるソーラーバッテリーシステムを自作します。目的に合わせて自作すれば低予算でシステムを構築できます。p15「太陽電池とバッテリで動かす 太陽光発電パーツを選定する」

3)いくらサーバーが動いていたとしても、ファイバーであろうと無線であろうと、ネット回線がつながっていなければどうにもならない。逆に、電気と回線がつながっていれば、このシステム自体が不要ということになる。

4)しかし、こういう至近な例から、ソーラーバッテリシステムを自作することによって、電力や情報回線の確保の大切さを学ぶことは、大事なことだ。

5)バッテリーは、ディープサイクルバッテリーで115Ahのものを購入しました。このディープサイクルバッテリーの時間率容量は20時間率です。20wのサーバーなら約2日間バッテリーのみで稼働できる容量があります。p21「太陽光発電システムを組み立てる」

6)60w(実測79w)多結晶ソーラーパネルが2万2800円。ディープサイクルバッテリー115Ahが1万7640円。その他、ソーラーチャージコントローラー3500円、ラバーカーインバーター3580円。そのたパーツ代を込めると、しめて5万9350円。これが高いや安いかは、ユーザーの判断による。

7)現在の私なら、同じ5万円があるなら、ガイガーカウンターのほうが必要に思う。しかし、このようなシステムなのだ、ということを図解入りで、しかも実験済みで説明されることに、快感を感じる。

8)2011年3月に発生した東日本大震災は、放射性物質の流出という原子力事故を招いた。人体への影響が懸念される中、秋葉原では「ガイガーカウンター」が売れているという。p44「放射線量測定器『ガイガーカウンター』」

9)先日、南相馬市に住んでいた姪が子供と共に遊びに来た。彼女が購入したのは通販で3万9800円だったという。この本では3万9800円~5万9800円の6種類が紹介されている。性能は大差なさそうだが、形状に多少の違いがある。

10)近所のホームセンターで入荷のポスターが貼ってあったのは4万9800円。購入すべきかどうか思案中。計測したところ、わが家は公共発表の0.07シーベルトより高めで0.11シーベルト前後。誤差20~30%ということだから、今すぐ危険、というほどの高い数値は見られていない。しかしホットスポットの問題もある。小まめにチェックする必要があるだろう。

11)停電時でもパソコンを使いたい場合があります。しかし停電時には、ブロードバンドルーターの電源がないためにインターネット接続ができません。この場合、Andoroidスマートフォンを介してネットに接続できます。p52「ANdoroidでテザリング通信 USB接続で古い機種でも利用可能」

12)テザリングは比較的新しい流行だが、ケータイ(スマートフォン)とモバイルWi-Fiなどの合体と考えれば、今後の大きなトレンドになる可能性は十分ある。私としても、次のケータイ(スマートフォン)の買い替えは、間違いなくテザリング機能を重視する。

13)ただ、現在のところ、通信料金がまだまだ高い。本当に必要なのかどうか。テザリングを活用することによって、他の回線をカットできるのかどうかなど、周辺環境とのにらみ合いが続く。

14)外出中に震災が発生すると、自宅の中がどういった状況になっているのか気になることでしょう。けれども、震災直後は交通機関が混乱して簡単には帰宅できません。そこで役だつのが、部屋の様子をインターネット経由でライブ中継できる「監視システム」です。p79「外出先から自宅の被害状況を把握」

15)このアイディアもいまいちこなれていない。そもそも、マグニチュード8.0において、家の中はめちゃくちゃ、カメラやコードはぶった切られる可能性が高い。津波で流出した場合には、何の役にも立たない。もし、この監視システムが稼働しているとすれば、被害などは大したことない、という逆証明になってしまう。

16)ただ、震災時に限らなければ、この監視システムは普段から効果的な使い方ができるかもしれない。また、どうしても監視しなければならない場所などでは役だつだろう。それも、回線がつながっていれば、という限定つきであるが。

17)その他、衛星電話や災害情報発信サイトなど、この本には、いろいろ興味深いアイディアが満載されている。なるほどとは思うが、実際に、今回の震災で役だっているのは、ごく一部だろう。今後もこれらのシステムがおおいに普及するとは考えにくい。

18)しかし、それでも、こういう可能性があるのだ、ということがわかる。これらのシステムが、一部のマニアだったとしても稼働させていれば、一命を取り留めたり、地域の助けになる、ということは有り得るだろう。工作心をくすぐる一冊である。

<2>につづく

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災害時ケータイ&ネット活用BOOK 「つながらない!」とき、どうするか? 東日本大震災緊急出版

 災害時ケータイ&ネット活用BOOK 「つながらない!」とき、どうするか? 東日本大震災緊急出版 (単行本・ムック) / 西田宗千佳/著 斎藤幾郎/著  
「災害時ケータイ&ネット活用BOOK 」
 「つながらない!」とき、どうするか? 東日本大震災緊急出版
西田宗千佳/著 斎藤幾郎/著 2011/05 朝日新聞出版 単行本 p96
Vol.3 No.0370 ★★★★☆

1)基本的には「震災に負けない!Twitter・ソ-シャルメディア『超』活用術」とほぼ同内容。

2)「つながらない!」とき、どうするか?  基本的にはどうしようもない。電気が来ず、電波がつながらないとき、個人ではどうしようもない。つながるまで待つしかない。待つまでの体制がどうあるべきか、が問われる。一番、大事なことは、まず、落ち着くことだ。そして、隣の人に声をかけてみる。ここからがはじまりだ。

3)つながってしまえば、あとはネット市民であれば、なんとでもなる。あらゆる方法を考えるだろう。

4)家族や身内の安否確認はケータイや固定などで比較的早くできる。

5)続々と変化する環境についての報告は、やはりツイッターが便利だった。別々に複数に人に伝えるより、自分のツイッターをフォローしてね、と言ってしまうことが、一番簡単。自分の広報版になる。

6)初めての人も、ネット市民であれば、すぐにツイッター登録はできる。

7)仲間内の多くの人々の安否情報はmixiが便利だった。ただ、第三者の情報は、個人情報保護法の絡みから、客観的に流し続けることは難しい。なるべく実名を避けるとか、婉曲な表現を取って、期間を区切って行うとかの工夫が必要だ。

8)震災を機会に、連絡が途絶えていた人々のことが気になるもの。私も10年、20年ぶりに連絡をもらった人もいた。そういう意味では、災害伝言ダイヤルなどに登録しておくとか、まずは、気になる友人をそこから探してみる、という工夫も必要。

9)ようやく連絡をとれたものの、相手は被災して、トンデモない状況にあることが多いので、長電話などは避けて、最小限の確認ですませたほうがいい時もあるようだ。

10)これから予想される巨大災害の該当地域に住んでいたり、職場があったり、旅行したり、あるいは友人知人、取引先がある、という立場であれば、まずはこのような本を読んでシュミレーションしておくことは必須と言えよう。

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2011/07/25

震災に負けない!Twitter・ソ-シャルメディア「超」活用術

【送料無料】震災に負けない!Twitter・ソ-シャルメディア「超」活用術
「震災に負けない!Twitter・ソ-シャルメディア『超』活用術」
新しい情報インフラを考える会 2011/05 エクスナレッジ ムックその他 95p
Vol.3 No.0369 ★★★★☆

1)この本に書いてあることは基本的に共感できる。震災後一カ月の緊急出版であれば、2011年現在、この程度は基本中の基本ということになろう。ウィンドウズ95の発売前だった阪神淡路大震災の当時を考えれば、この16年間に進んだ通信網は、はなはだしく進歩したものだと思う。

2)しかし、本当にその進歩が、震災直後に役だったかどうか、という意味においては疑問点が残る。今後の震災において、どのような対策を組んでいったらいいか、を考える意味では、この本は役だつだろう。

3)震災直後、電気、通信、交通、のインフラがストップした。制限され、あるいは寸断され、復旧するまでに数時間、数日、数週間、数カ月、を要した。

4)この本に限らず、ツイッターが役だった、というコメントは多いが、実際には、通信網が寸断されている限り、ツイッターもスカイプも使えなかった。

5)被災状況によって、大きく違うだろうが、内陸部で、しかも大きなビルの会議室で被災した私の場合の、とっさの優先順位を上げておけば・・・

a.自らの身の安全 とにかく落下物がなく、孤立しない場所に移動
b.移動手段の確保 歩きやすい靴 道順の確認
c.ワンセグ、携帯ラジオ、カーラジオなどでの情報確認
d.ケータイ、災害ダイヤル、メール等で近親者との安否確認
e.避難所の確認、被災状況の確認
f.ライフラインの確認 避難袋の確認
g.長期避難への準備

6)自分がどのような瞬間に被災したのかによって、大きく状況は変わってくるが、まずはおちついて行動することが基本だ。

7)まずは何が起こっているのか、の確認が大切。隣の人に声をかける。自分の安否を遠方に伝え、そこから間接的に複数の人に安否を拡散してもらう。ケータイは、アンテナ局が倒壊して、通信が使えないばかりか、アンテナを探し続けるために、ケータイのバッテリーはすぐダウンする。発信する時だけケータイのスイッチを入れる、という小まめな配慮が必要。

8)一晩だけ泊まった避難所では、ガソリンで発電していたので、そこでスマホとケータイの充電ができた。避難所では目ざとく充電しやすい場所を確保する必要がある。コンセントが少なく、順番待ちが長くなる。

9)一番の情報源は乾電池の携帯ラジオ。新聞の速報も、早朝から避難所にも無料でくばられたが、地震の規模の大きさを伝えるニュースには圧倒されても、細かい情報は取れない。

10)もともと公衆電話は少なくなっているし、あっても順番待ちが長い。あるいは停電で使えない。とにかく、最初の一日が経過すれば、どう対策すればいいか、大体は分かる。二日目から数日すれば、まずはそれぞれの被害が確定し、復興に向けてじっくり対策を取ればいい。

11)こうしてみると、電気や通信、インフラの被害はわりと「対策」しやすい。まったく駄目だったのは「原発事故」情報とその対策である。これは現在進行中。4月半経過しても、放射性物質による汚染は収まっていない。収まっていないどころか、拡大中である。情けない。 

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2011/07/24

原発・大震災サバイバルブック 週刊朝日臨時増刊

原発・大震災サバイバルブック (週刊朝日臨時増刊)
「原発・大震災サバイバルブック 」 
週刊朝日臨時増刊 2011/5/25 朝日新聞 不定期刊 p143
Vol.3 No.0368 ★★★★☆

1)5月25日号ということだが、発売されたのは5月13日。おおよそ震災後2カ月の緊急出版。「完全保存版」の文字が躍る。臨時増刊号だが、平綴じで、写真やイラストも多い。

2)本当に「完全保存」するかどうかはともかく、当時の一般的な認識を判断するうえでは参考になる。

3)もっとも、被災地においては、図書館、書店、コンビニが壊滅していたため、被災地でこの本を読んだ人はごくごく少ないだろう。

4)ただ、マスメディアは、こういう企画をしなければいけないのだろうから、まあ、しょうがない。

5)ツイッターは被災地でも威力を発揮したようだ。仙台市に住む男性会社員(30代)も地震発生直後、会社の同僚との連絡に使ったようだ。p74「通信回線がつながりにくい場合はどうやって連絡をとればいいのか」

6)被災直後より前、まずは普段からの心構えが必要だ。ざっと考えてみると、わが家の防災準備は、まずまずの60点ラインは行っていたのではないだろうか。災害ダイヤル171も申し合わせていたし、地震直後に、ほんの一言だがケータイで連絡もとった。メールでの最小限の家族連絡もできた。

7)しかし、その後の連絡は、困難を極めた。それは回線の状態と電池(バッテリー)の状態による。携帯ラジオ、ワンセグも役だった。隣の家の屋根に乗っている太陽発電システムも役だった。

8)自宅を建築したのも、阪神淡路大震災後の翌年だったので、耐震には特に気を使った。最小限のコアな部分においては、わが家はサバイバルできた、と言える。ただ、それは運が良かった面が大きい。

7)沿岸部に行くこともあるし、家族がバラバラに存在している時もある。都市部の混乱に巻き込まれることだって予想されうる。今回はその規模の割合においては、まずまずの結果だったが、いつ何時、今回、多くの被災した人々と同じ立場なるのか、分かったものではない。

8)ツイッターは確かに役だった。震災前からスマートフォンを3台用意し、家族と連絡網を作り始めていたこともラッキーだった。安否を心配してくれる友人が多数あったので、いちいち報告するより、ツイッターで同報通信できることもメリットあった。

9)約一カ月間は、ツイッターの威力を大いに活用させてもらった。情報源は多いほどいい。

10)被災地では地元のFMラジオ局の情報が、非常に役に立つ。p78「災害時にラジオは役に立ったのか」

11)携帯ラジオ、ワンセグ(テレビ)、災害FM、まずはこの辺の活用が基本。メールやケータイ、ネットなどのインフラは、個人ではどうにもならないほど使い物にならなかった。

12)しかし次第に復活した。時間が経過して見れば、まずまず、なんとか復帰したということになる。

13)我が家では、一番あってよかったと思うのは、石油ストーブ。普段はファンヒーターを使っているのだが、一台だけ石油ストーブを残しておいた。暖房、調理、夜間の明かりとして、大いに役だった。灯油はポリ缶での保存だったが、節約して使ったので、まずは間にあった。

14)あればよかったと思うのは、やはり太陽発電(プラス蓄電池)と、予備のガソリン。でも、これだって、節約して使えば、準備していたものでなんとか切り抜けることができた。

15)仙台市の災害対策本部によると、市内に設けられた避難所には普段から水や食料は備蓄されているという。p84「自治体指定の避難所は本当に安全なのか」

16)わが家でも、一晩避難所にお世話になった。しかし翌日は我が家に帰った。状況にもよるが、とにかく自立自活へ早期に復活できることが基本であろう。この避難所の開設においては、学校や地域町内会や行政の、それぞれの思いから、必ずしも意思疎通がうまく行く場合だけじゃない、ということも体験した。

17)家庭でつくった電力が余ったときには電力会社が電力を買い取る制度が2009年11月から始まった(1キロワット=42円)ことや、国などの補助があって導入は急激に伸びている。p132「太陽光発電を導入して損しないのか」

18)太陽光発電システムの普及は遅すぎる。これはあきらかに電力行政が間違っている。東電事故や地球温暖化の面から考えても、もっともっと早く着手すべきであった。

19)水道水をくんで置いておけば、放射線の影響は減らせるのか。「水道水をくみ置きすると、本来、雑菌の繁殖を抑えるために入っている塩素が抜けてしまう。そのため、おなかを壊すといった別の健康被害の可能性が出てきます」(厚労省水道課)p38「放射能に汚染された水道水はどう飲んだらいいのか」

20)我が家では水道は止まらなかったので、その分はとても助かった。特にトイレが問題なく使えたのがよかった。キャンプ用の水タンクや、ペットボトル類の水類も最小限ではあったが備蓄しておいて助かった。非常時の為に、震災後、風呂桶を食器並みに消毒して水を満タンにして備蓄したが、それを使うことはなかった。

21)安価なものなら2万円台から見つかるが、果たしてポータブル放射線計測機はどの程度信頼できるのか。p40「市販の放射線計測器は本当に信用できるのか」

22)計測してみると、我が家は0.11シーベルト前後。高すぎるということはなさそうだが、行政が発表している平均値よりは高い。今後の変化も気になる。近くのホームセンターでは、5万弱でガイガーカウンターを売っている。こんなものを個人で買わなければならないなんて、なんて不幸なことだろう、と思う。

23)ネットで検索してみると、家庭にある部品で、割と簡単にガイガーカウンターが自作できるらしい。ただしい数値は出ないが、放射性物質とはどういうものなのか、という認識度は高まるだろう。一回自作してみたい。

24)約7%から約23%へと加入者が増えていた「地震保険」の支払額もかつてないほど巨額なものとなりそうだ。p106「地震保険、建物共済は、本当に頼りになるのか」

25)地震保険については損保TM社の「超保険」が最強であろう。2000万の建物なら2000万まで補償を受けることができる。代理店の規模にもよるが、気仙沼の損保代理店などでは、一代理店で20億円ほどの支払いをしている。内陸部でも、この程度の支払いをしている代理店も多い。

26)この本、震災直後の混乱がありありと感じられるが、多くの要素があるこの3.11サバイバルを多角的にチェックするには役に立つ。

27)自戒を込めて、今後、一番大切なことは何か、と考えてみる。実際にはどのような境遇になるかわからない。まず一番大事なことは、どんなダメージを受けようと、まずは普段から「死」を含めて、どんなことであっても、天が与えることは全て受入れる覚悟をしておくことだろう。

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2011/07/23

思想としての3・11 河出書房新社編集部

思想としての3・11
「思想としての3・11」
河出書房新社編集部 2011/6 単行本: 206p
Vol.3 No.0367 ★☆☆☆☆

1)タイトルこそいかめしいが、この本に「思想としての3・11」の熟成を求めることはできない。つまりは、3.11を思想界はどう受け止め始めているか、というイニシャル・イメージでしかない。思想界とは、いわゆる「口舌の徒」達、ということである。

2)「3.11」という単語はどれだけ一般化し、今後、どれだけ熟成されていくかは未知数ではあるが、現在進行形で体験されているものは、地震、津波、原発事故であり、これを地震名とか津波被害とか、あるいは放射性物質濃度の変化だけなどで、表現できるものではない。表現としては、「3.11」と総称されることは正しい。

3)当ブログにおいては、原発事故はまず置いておいて、地震と津波にテーマを絞ってきた。津波についても、自らのものとしては語りきれないので、いきおい地震にウェイトがあった。その地震もそれなりに収まりつつあり、津波による被害も全体像がすこしづつ見えてきた段階で、実態被害としての原発事故の影響が、新たなる大きな心配事になりつつある。

4)3.11。その総称はこれでいいだろう。しかし、「思想」としての3.11など、今のところ、だれにも表現できるものではない。この本は17名以上の「思想家」たちが、4月末の段階で、インタビューを求められて、簡単にコメントを書き連ねているにすぎない。しかも、具体的な情報や体験に基づくものなど、ごくごく微少である。

5)鶴見俊輔、吉本隆明、木田元、山折哲雄、加藤典洋、廣瀬純、など名の通った書き手たちが、求めに応じて短文を寄せているが、ほとんどどれも意味がない。あとあとになれば、まずはここから始めたのだ、ということは言えるかもしれないが、ここに表現されている「思想」などなにもない。

6)南三陸町の中学校A校長に質問してみた。彼は海岸線を車で走っていて一命を取り留めたものの、両親ともども、自らの中学校体育館に避難しながら、校長室に今でも通っている。今、一番必要なものはなんですか。「食糧。食べるものです」。今、ボランティアに一番求めたいものは何ですか。「瓦礫撤去です」。

7)答えは明快だ。明快すぎる。ここで「思想」など、どのように役立てればいいのだろう。食糧は毎日必要なものだ。いまだに食糧が不足しているなんて、被災地以外では考えられない。瓦礫撤去も、いずれは終了するだろう。終了させるしかない。しかし、目途はまったく立っていない。いずれは終わるだろう。だが、にわかに駆けつけたボランティアなんかに全量撤去などできるわけはない。

8)何を復興というかは不明だが、復興にどれだけ時間が必要ですか、と聞いてみた。「5年」。と言いつつ、すぐ「10年」と言いなおした。そして、すこし間をおいて、「20年」と言いつつ、頭をひねった。多分20年でも無理だな、と心の中では思いなおしていたに違いない。

9)いずれは3.11被害から、復興することができるだろう。そして、いつかは「思想としての3.11」が熟成していく必要があるだろう。だが今は無理だ。今は現実のほうが圧倒的に存在感を示し続けている。

10)いずれは食糧も足り、瓦礫撤去も目途が立ってくるだろう。その時、思想もまた、力を持ち始めるに違いない。その時の為の、まずは助走、というべき一冊として、この本を認知しておくことはやぶさかではない。だが、今、その価値は無に等しい。、

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2011/07/22

哀史三陸大津波 歴史の教訓に学ぶ 山下文男

【送料無料】哀史三陸大津波
「哀史 三陸大津波」 歴史の教訓に学ぶ
山下文男 2011/06 河出書房新社 単行本 247p
Vol.3 No.0366 ★★★★★

1)著者は1924年生まれ(現在86歳)。元の本は1982年に出版され、普及本は1990年に発行されている。今回の3.11大震災を受けて、緊急再版になった。

2)過ぐる3月11日(2011年)の東日本大津波は、死者2万人以上という過去の三陸津波史の中でも最大級の巨大津波であったことを示している。呼吸器関係の病気のため私も岩手県立高田病院に入院中に被災し、「九死に一生」をえたものの、津波の波による打ち身傷害のため、胸部、とりわけ皮膚の激痛のため盛岡に転院したままになっている。p2「はじめに」2011.4.30

3)今回の3.11の被害は甚大である。三陸地方のリアス式海岸の要所要所に散在する漁港、漁村だけではなく、青森八戸あたりから、岩手、宮城、福島、茨城、千葉、あるいはそれ以上の南の地域まで大きな被害を及ぼした。地震だけでも甚大であるが、それに輪をかけた目を覆ってもなお覆い切れない津波の被害があった。

4)日本列島としては、1000年に一度の巨大地震であり、それに伴う巨大津波であると言われる。だけど、それは突如として現われたものではなかった。紐解けば、その「歴史は繰り返され」て来たのだった。

5)三陸沿岸は津波の常習地として日本一はおろか世界一である。にもかかわらず度重なる被害を防止しえなかったのは文明人の恥辱である。したがって抜本的復興と対策を考えるべきである。p219「昭和8年の大津波」

6)本書においては三陸地方の沿岸部にある漁港や漁村を中心に記録されているが、今回3.11においては、さらに広域にわたって津波の被害を受けている。本書においては、復興策として、高所避難を強く主張しているが、実際には、避難すべき高所がないような平地の沿岸部も多く被災してしまっている。

7)津波を運ぶこの三陸の海は魔物のように恐ろしいが、その恵みもまたたぐいなく豊かである。この海を棄てて他所へ行けない以上、流されては建て、建てては流されてきた津波とのイタチごっこにこそなんとかして終止符を打たねばならない。p218

8)この本は貴重である。すくなくとも、心ある人たちは、このように警鐘を鳴らし続けてきたのだ。沿岸部でもなく、ましてや東北から離れて暮らす人々にとっては、三陸津波など、遠くの問題でしかなかった。いやいや、1960年のチリ地震津波でさえ、次第に風化し、「科学技術」盲信の21世紀においては、すっかり過去のものになりつつあった。

9)南三陸町の中学校の校長をしている知人は、小学2年生の時にチリ地震津波を経験している。ぶしつけとは思いつつ、当時と今回の比較を聞いてみた。少なくとも、津波の高さは5倍。5mと25mの違いある。しかし、それは高さに限らず、横、長さ、も5倍だから、5X5X5で125倍の大きさであっただろう、と彼は表現する。

10)今回は、この「哀史」以上の記録が残されることであろう。残念なことではあるが、これが現実である。後世のためにも、おおいに語り継がれる必要がある。それとともに、このような隠れた貴重な人物や資料をあらためて学びなおし、万人共通の意識に叩き込まなくてはならない。

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風評被害 そのメカニズムを考える 関谷直也

【送料無料】風評被害
「風評被害」 そのメカニズムを考える
関谷直也 2011/05 光文社 新書 210p
Vol.3 No.0366 ★★☆☆☆

1)この人、風評被害について12年間も研究してきたということだから、いくら3.11大震災後の発行とは言え、論調そのものはおおめに見なくてはならない。

2)執筆している時点は後半においては4月末であるから、震災の情報も十分に把握できていない。

3)しかし、あの時点における「風評被害」は、ほとんどが、7月下旬の現在、「実態被害」になっている。つまり、ほとんどの「風評」が正しかったとまでは言わないが、火のないところには煙は立たない、の通り、「風評」は注視するに値する、という結果になっている。

4)それもこれも、原発行政の安全神話と情報隠蔽習癖による、ゲリラ的な情報が乱立してしまったことによる。

5)基本的には、情報はステレオ効果を狙わなくてはならない。少なくとも、情報をうのみにしない。情報源を複数持つ。自分で情報を確かめる。誤報を流さない。などなどの基本的な姿勢が、ひとりひとりに必要だ。

6)しかしなお、敢えて曲解、でっち上げ、フレームアップ、ねつ造、嘘、がまかり通っている。それは世の常であり、情報というものは、そのような可能性が常にあるものである、というくらいの余裕ある態度が必要だ。

7)「巨大地震がくる」という予報だって、場合によっては「風評被害」になってしまう。本当に地震がきたから「よかった」ものの、地震がこなかったら、まるでオオカミ少年の嘘のように見られてしまう可能性さえある。

8)「火のないところには煙は立たない」、「人の口には戸は立てられない」、「他人の噂も75日」。ごくありふれたことわざだが、真理を突いている。

9)風評被害を科学的なメスを入れてまとめようとする意図はわかるが、今回の震災に関する限り、むしろ風評のほうが正しかったことが多くあり、風の噂、他人の評判にも、それとなく耳を貸しておく必要は、ある。

10)震災後、ようやく復活した図書館であり、図書館ネットワークである。書店も壊滅し、新しい本を見るチャンスが少なかった。その後、4カ月経過して、新着本も増えてきた。震災後にでた本であれば、ほとんどが、3.11について触れている。その部分だけをピックアップしただけでも、そうとうな「風評」となる。

11)どれだけの「風評」が出回っているのか、どうか。それをチェックするために、当ブログにおいてもようやく、重い腰を上げようと思う。評判のよい本は予約が殺到している。だが、結構、すぐ読める本も山積みになっている。

12)まずはランダムに読み込むこととする。

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命を守る防災サバイバルBOOK <1> Be-pal編集部

【送料無料】命を守る防災サバイバルBOOK
「命を守る防災サバイバルBOOK」 <1>
Be-pal編集部 2011/05 小学館 単行本 96p
Vol.3 No.0365 ★★★★☆

1)3.11大震災以来、すでに4カ月半が経過している。すでに第一次避難は終了し、二次的な具体的な復興プランの実行が叫ばれる段階となっている。

2)ふりかえってみると、今回の被災で、失敗したなぁ、ということは多くない。被災した親族や友人、仕事仲間のことを考えると、大きなことは言えないが、まずは何とか切り抜けた、というのが本音だ。

3)普段から防災グッツは揃えていたし、食糧も足りた。まず、一週間の孤立は覚悟だったが、使い方をセーブすれば、1ヶ月から、場合によっては数カ月の孤立にも耐えることは可能だっただろう。

4)しかし、ご多聞にもれず、エネルギー問題は重大だった。乾電池や灯油、カセットボンベは、多くはなかったが、セーブして使っていけば、サバイバルする期間は長くできただろう。だが、ガソリンと、電気、通信には参った。

5)ガソリンについては、タンクに半量しか入っていなかったので、被災後は事態が把握できるまでは、1メーターも車を動かさないでいた。移動はすべて徒歩と自転車。遠く離れた親族の避難所を訪ねるためにようやく車を動かしたのは一週間後だった。

6)ガソリンは、やはり早め早めに給油しておく必要がある。できるだけ満タンにしておけば、タンクの中にサビがつく可能性も少なくなり、メンテナンス上も良い。

7)被災後、ガソリンの携帯タンクが売れたが、はて、あれは自宅で常備しておく必要があるかどうかは微妙。自宅にガソリンを置けば、危険率は高まる。だが、タンクだけ用意しておいて、いざとなったら、タンクに保管する、という手か。

8)個人的なSOHOビジネスでも、小さな発電機ぐらいは常備するべきかどうかも微妙。むしろ、ハイブリットカーなどにガソリンを入れておいて、100ボルト電源を取ることを考えた方がいいようだ。

9)通信には参った。電源は、乾電池もあったし、パソコンのバッテリーもあった。しかし、光ファイバーの固定電話がまず駄目になった。ケータイの電池がなくなった。それでも、隣の家の屋根には太陽発電システムが乗っている。完全に電気がなくなることは心配していなかった。

10)しかし、通信としてのケータイや、ネット通信の回線は断絶した。

11)とっさのときにワンセグは役に立ったが、ケータイの受信用に保存したかったために、ワンセグはあまり見ることができなかった。役だったのは、携帯ラジオ。かけっぱなしでも、電池はほとんどなくならなかった。

12)水道は出ていた。電気は4日半で復活した。ガスは3週間後に復活した。ガソリンは1ヶ月でほぼ安定供給に戻った。すべては関係者の必死の努力によるところが多い。

13)このBe-pal誌編集「命を守る防災サバイバルBOOK」を読むと、普段から、アウトドアを意識して、大体の備品を揃えておいたことが役だった。あえていうなら、ファミリーキャンプ用に用意していたテントが、少し大きすぎて、サバイバル用には適していないように思った。

14)自分の身を守るのは、これでなんとかなった。課題としては、周囲の人や遠い親族への連絡などだが、伝言ダイヤルやツイッターなどを普段から言い合わせていたから、役立った。致命的な被害がなかったからこそ言えるのかも知れないが、今後、どういう風に災難に巻き込まれるかわからないので、普段から気をつけなければならない。

15)被災地は、被災後、計画停電というものを体験しないですんだが、これから夏場の電力需要期に向けて、どうやら、計画停電もあるらしい。

16)喉元過ぎれば熱さを忘れる。天災は忘れた頃にやってくる。ここで油断せずに、もう一度、身の回りの防災サバイバルグッツを再点検しておきたい。

<2>につづく

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2011/07/21

牡蠣礼讃 畠山重篤

牡蠣礼讃 (文春新書)
「牡蠣礼讃」 
畠山 重篤 (著) 2006/11 文藝春秋 新書:278p
Vol.3 No.0364 ★★★☆☆

1)畠山重篤関連リスト

「森は海の恋人」1994/10 北斗出版

「歌集 森は海の恋人」 熊谷龍子1997/04 北斗出版

「漁師さんの森づくり 森は海の恋人」2000/11 講談社

「牡蠣礼讃」 2006/11 文藝春秋

「森・川・海つながるいのち」 2011/01 宍戸清孝と共著 童心社

「鉄は魔法つかい 命と地球をはぐくむ『鉄』」 2011/06 小学館

2)この人、詩人でもなければ、ジャーナリストでもない。沿岸部の悲哀を憂うるエコロジストでもなければ、研究室で顕微鏡を覗く学者でもない。れっきとした起業家であり、経営者である。場合によっては投資家的面さえ持っている。

3)かと言って、この人は三陸のリアス海岸に生きる一人の漁民であり、れっきとした牡蠣養殖業者である。いわば、成功者としての人生がある。それは「牡蠣」というキーワードではあったかもしれないが、環境さえあれば、この人なら、別な業界においてもビジネス的に成功をおさめたであろう。

4)「森は海の恋人」とはあまりにもうまいネーミングではあったが、元をただせば、それは熊谷龍子の詩に発する言葉であり、また山に植林することも、漁民としての生産に結びつくことを確実に知っていたが故の現実的な運動であった。

5)この本、2006年の本だから当然3.11以前の本であるが、やや爛熟していて、「森は海の恋人」というさわやかな雰囲気からはかなり「深化」しすぎているように思う。すでに「森は海の愛人」を通り過ぎて、「森は海の腐れ縁」的な腐臭さえ漂ってくるように思う。

6)私も若い時に大病をし、いちばん食べたいものは牡蠣だった。毎日牡蠣を食べたおかげで復活したと思っているので、牡蠣には感謝してもしきれない。30年以上も前のことだが、ひょっとすると、著者が若い時に一生懸命作っていた牡蠣で助けられたのかと思うと、ひとしお「牡蠣礼賛」の気持ちが、大きくなる。

7)しかしながら、牡蠣はもともとヨーロッパにおけるグルメに通じるところがあり、あまりに牡蠣の美味さに蘊蓄を傾けてしまうと、一般には、なんだかなぁ・・・、という?マークがつきかねない事態となる。

8)そこに今回の3.11大震災である。著者の近況は最近著「鉄は魔法つかい 命と地球をはぐくむ『鉄』」 2011/06にわずかに記されている。戦後の混乱期から海に生き、一気に生産者としての頂点を極めた著者が、自分の孫の代までの牡蠣天国を夢見ていたにも関わらず、この災害である。その復興はどうなるのだろう。

9)決して高見の見物なんてものではなく、この人の復活こそ、地域の活性化のシンボルとなるかもしれない。年齢はめされたとは言え、まだまだ現役の雰囲気が漂う。牡蠣や鉄、というお得意のキーワードだけではなく、地域全体、あるいは日本や地球レベルでの、エコロジカルな具体的な復活を期待するのは、私だけではあるまい。

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2011/07/20

グリーン・エコノミー 脱原発と温暖化対策の経済学

【送料無料】グリーン・エコノミー
「グリーン・エコノミー」 脱原発と温暖化対策の経済学 
吉田文和 2011/06 中央公論新社 新書 276p
Vol.3 No.0364 ★★★★☆ 

1)この手の本を、しかも3.11以降のものを、ようやく読みこんでやろう、という気になってきた。

2)その一番大きなきっかけは、なでしこジャパンのワールドカップでの活躍である。最後まであきらめないこと。チームワークを大切にすること。夢は実現するためにあること。教えられた教訓は大きい。

3)To Our Friends Around the World Thank You for Your Support このメッセージも大きかった。そうだな。世界中が注目しているのだ。地球上のマップで見れば、被災地にもっとも近く、原発にも限りなく至近距離にいる。

4)日本であって、本人、親族で震災から影響を受けなかった人はおそらく、皆無であろう。pi「はじめに」

5)沿岸部の津波の被害は甚大なものである。目を覆っても、耳をふさいでも、どうにもならない現実がそこにある。地震に襲われた内陸部においては、やや被害が少ないようにも見えたが、実際には、仕事や人間関係において、被害のない人などいなかった。しかし、それは、ここ東北に限らないのだ。日本全国、おそらく、地球上全体に影響を及ぼしているのだ。ましてや、この原発事故においては、だれもが無関心ではいられない。

6)この手の本を読む気にならなかったのにはいくつかの理由がある。まず、図書館が壊滅した。書店が閉鎖した。そして、あまりに被害が甚大で、しかも目の前にある。なにも図書館や書店に頼る必要などなかったのだ。あるいは、これ以上見たくない、という気持ちもあった。

7)グリーン・エコノミーとは、「環境保全型経済」であり、自然と調和し、環境に優しく、エコロジカルであり、社会正義にも合致した経済システムである。p54「グリーン・エコノミーとは何か?」

8)再開した図書館にも、ようやく3.11以降の新刊本が入るようになった。人気本は予約が殺到しているので後回しにして、とりあえず、手に取れる本からめくってみることにする。この本も必ずしも、目新しいテーマを扱っているとも、稀有な結論に到達しているとも思えない。「当たり前」のことが書いてあると思う。しかし、この、子どもにもわかる「当たり前」のことが、大人の世界では通用しなくなっているのだから、悲しい。

9)この本を読むのなら、ビル・マッキベン「ディープエコノミー 生命を育む経済へ」(2008/4)などもキチンと読んでみたい。ネーミングとしたら、グリーン・エコノミーより、ディープ・エコノミーの方が意味深い感じもする。

10)この本のタイトルにもなっているが、「脱原発」は子供にもわかるテーマであるのに、これが、大人の社会では理解されない。口では言っても、実行できない。悲しいことである。

11)東日本大震災を受けて、長期、中期、短期の復興政策が必要であるが、その柱は、原子力発電の依存を減らしながら、地球温暖化対策をすすめること、そして震災に強く、環境に優しい国土と「よい生き方」を保証する生活の再建をすすめることであることは間違いない。それは膨大な投資需要を生み、雇用と消費をつくり出し、「よい生き方」と将来にわたる持続可能な発展のモデルとなりうる。p247「グリーン・エコノミーの展望」

12)このような文章も実にお題目でしかないように思う。この程度の把握なら、たとえば1992年の「スピリット・オブ・プレイス」などで、十分提案されていたし、理解し得ていた。しかし、そうならない。そうならないまま、このデッドエンドまで来てしまったのだ。そして、デッドエンドに来ても、まだ目が覚めない連中がいる、ということに、絶望する。

13)といいつつ、個人でできることは少ない。節電、ゴミの分別、ボランティア、ツイッターのつぶやき、デモ参加、あれこれ思いをめぐらしても、さして効果があるのかないのか、歯がゆいばかりの日々である。

14)この本の著者は、北海道大学の先生であり、3.11当時はドイツにいたということだから、むしろ、「外」からこの事態を見ることができただろう。結城登美雄畠山重篤のように、「現場」にいる人は、こうは簡単に快活に語ることはできない。

15)いや、現地にいれば重くなる。むしろ、離れたところから、語ってもらうことも、大いに必要なはずなのである。

16)三省スナイダーのように「森に住む」ことで全てが解決するわけでもない。彼らには「生産」や「経済」観念が希薄だ。なにか、もっと新しい現実的でしかも深遠なモデルが必要とされている。

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2011/07/19

東北を歩く 増補新版 小さな村の希望を旅する 結城登美雄

【送料無料】東北を歩く増補新版
「東北を歩く」増補新版 小さな村の希望を旅する
結城登美雄 2011/07 新宿書房 単行本 331p
Vol.3 No.0363 ★  

1) 結城登美雄関連リスト

「山に暮らす海に生きる」 東北むら紀行 1998/10 無明舎出版

「うおッチング」 南三陸の浜をゆく 共著 2001/08 河北新報総合サービス 

「東北を歩く」  小さな村の希望を旅する 2008/07 新宿書房

「地元学からの出発」 2009/11 この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける 農山漁村文化協会

「東北を歩く」<増補新版> 小さな村の希望を旅する 2011/07 新宿書房

2)平成23(2011)年3月11日、東北の太平洋沿岸地気を巨大な津波が襲いかかった。岩手三陸から宮城、福島の海辺の町や村は、一瞬にしてそのすべてを失った。死者・行方不明者合わせておよそ2万5銭人。かけがえのない家族と大切な友人、そして多くの隣人の命が奪われた。

 とりわけ行くえ不明者の数は1万人近くにものぼり、2カ月たった今も生き残った人々に喪失の悲しみと、消えることのない苦しみを与え続けている。加えて昨日まで確かにここにあったわが家、そして商店、学校、病院、事務所が、根こそぎ津波に流された。漁船、漁具、冷凍倉庫、加工場、車両など形あるものはすべて傷つき壊れた。

 さらに2万ヘクタールを超す田畑が塩水とヘドロにおおわれ、たくさんの家畜が死んだ。どこまでも続く膨大なガレキの山々が、「壊滅的」という言葉がメタファーではなくこの世の現実であることを突きつけている。

 加えて福島の原発事故、放射能汚染のひろがり。復興へのすべての努力を無にしてしまいかねない原発事故の罪深さ。人類史の最悪をすべて凝縮したかのような被災地の惨状。はたして人々は再びここから立ち上がっていけるのだろうか。p326「もう一度、東北各地をたずね歩きたい」

3)つらい。直視できない。当ブログも、このテーマにおいて、もっともっと直視し凝視しなければならないテーマであるはずなのに、ひたすら逃げている感じがある。ようやく、結城登美雄という人を思い出し、この人の視点からなら、もう一度見直すことも可能かもしれない、と思うようになった。

4)本書は2008/07に出た「東北を歩く」 小さな村の希望を旅する、の<増補新版>である。この手の本が、わずか3年を経ずして新版がでるということは珍しい。それだけ支持されている本であり、また、今こそ読まれなければならない、貴重な一冊である、ということの証左であろう。

5)緊急に出版されたものであろう。どこをどう増補されたのかは、今はあえて問わない。だけれども、一読書子としては、最後の「増補新版にあたって」の6ページ分が極めて重い。2011年5月15日、というわずか震災後二ヶ月の段階で書かれた文章は、「もう一度、東北各地を歩きたいと思う」と、締められている。

6)私には、この<増補新版>を手にとって、この文章、この結句を読ませていただけで、この本は、それだけで十分な、十分以上の価値がある。

7)大震災から一カ月が過ぎたある日、思いきって三陸沿岸の被災地を訪ねた。陸前高田市、旧唐桑町、気仙沼市、女川町、石巻市、仙台市沿岸地区・・・・。p329

8)この「思いきって」という感覚がよくわかる。当時内陸部においても、まだまだ復興が進んでおらず、ライフラインもぶった切られたままだった。情報も安定せず、余震もまだまだ頻繁に続いていた。しかし、それにしても、沿岸部のそれを、直視しにいくことは、特に、そこを愛してきた著者のような心の持ち主ならば、「思いきって」腰を上げなければ、沿岸部には行けなかっただろう。

9)当ブログも、及ばずながら、すこしづつ「思いきって」踏み入って行かなければならないテーマを直視し始めている。 

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2011/07/18

地元学からの出発 この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける 結城登美雄

【送料無料】地元学からの出発
「地元学からの出発」 この土地を生きた人びとの声に耳を傾ける シリ-ズ地域の再生
結城登美雄 2009/11 農山漁村文化協会 全集・双書 308p
Vol.3 No.0362★★★★★

1)「地元学」とは、そうした異なる人びとの、それぞれの思いや考えを持ち寄る場をつくることを第一のテーマとする。理念の正当性を主張し、押しつけるのではなく、たとえわずらわしくとも、ぐずぐずとさまざまな人びとと考え方につき合うのである。暮らしの現場はいっきに変わることはない。ぐずぐずと変わっていくのである。
 地元学は理念や抽象の学ではない。地元の暮らしに寄り添う具体の学である。
p14「地域が『ぐずぐずと変わる』ための『地元学』」

2)ネーミングからして、いわゆるアカデミックな「学」ではないことはすぐわかる。科学的な、合理性を備えているものでもないだろう。それが分かるまでは、こちらも急がず、ぐずぐずと、結城登美雄の筆につきあってみたい。

3)山形県西村山郡大江町大字小清字田代。ここが私のふるさとである。標高450mの山あいに9軒の家があった。昭和30年代、60人ほどの人口であった。しかし30数年前、村人は挙家離村、山を下りた。雪2m、田は少なく、林業すでに空しく、自給の作物とたばこなどの換金作物。金銭をモノサシにすれば貧乏村というのだろうが、この村の記憶は私にとって明るい。一所懸命働いて、いつも笑顔があった。p35「わが地元学」

4)「山に暮らす海に生きる 東北むら紀行」(1998/10)に目を通した時から、あるいはその以前から、この朝日連峰の中腹にある、彼のふるさとの風景が、結城登美雄というジャーナリスト(記録をする人)の原点であろうと思ってきた。それは、近代の高度成長のブームからは一気に切り離された、異郷とも言うべき集落風景であった。

5)江戸時代、仙台は人口5万人。城下の8割は武家屋敷。下級の武士でも300坪ほどの屋敷を与えられ、その生活の基本は自給自足が原則。そのために割り与えられた広さだった。自給自足のためには30~40坪の家屋以外は徹底的に利用しつくす。(中略)

 近代になってもこの原型は残り、城下の1割を占める社寺林の緑と相まって、仙台は緑豊かな都市として推移していった。大正の頃より人はおのずからそれを「杜の都」と呼び習わすようになったが、もとは個々人の自給的生活空間の連続が、結果として「杜の都」になったわけで、けっして外から眺めていう景観美学でも、樹木の多さを誇る意でもない。「杜の都」とは屋敷内の草木とそこに生きる人びとが限りなく親密に暮らす町のことである。p43「わが地元学」

6)もちろん、現在の仙台市の旧市街地にこのような屋敷林など残っていない。社寺林とて、ビルや幼稚園、駐車場に生まれ変わり、よくもわるくも、「杜の都」という呼称は有名無実化している。朝日連峰中腹の集落だけではなく、時代の流れは、都市部の風景をも、大きく変化させた。

7)(宮城県)丸森町大張地区に、東北版共同店がオープンした。あの集会のあとすぐ、村人の熱意をなんとかしたいと、律儀な区長さんたちが村を一軒一軒まわって、1世帯2000円の協力金出資を呼びかけた。(中略)

 みんなで考えた店の名は「なんでもや」。この村に暮らす人が必要とするものならなんでも対応しようという意味が込められている。商品構成は加工食料品と日用雑貨、地場野菜と工芸品が中心。小さなスーパーと農産物直売所が一緒になった雰囲気。もちろん注文すればなでも取り寄せてくれる。p74「わが地元学」

8)近くに親戚があるので、「なんでもや」で買い物をしたことがある。ああ、こういうところに著者は熱意を込めているのだなぁ、とあらためて感心した。

9)2004年10月23日17時56分。この(山古志)村を悲劇が襲った。新潟県中越地震。未曾有の激震が一瞬にして暖かい村を地獄の村へと突き落とした。正視できないほどの惨状がテレビに映し出された。山古志の信じられない姿がそこにあった。p244「各地の『地元』を訪ねて」

10)2008年6月14日、午前8時43分。岩手・宮城県境の山岳地帯をマグニチュード7.2の大地震が襲った。震度6強。私の住む仙台の街も大きくゆさぶられた。99%の確率で起きると予想されていた「宮城県沖地震」。それがついにやってきたのかと誰もが思ったにちがいない。しかし震源地は海ではなく、宮城、岩手、秋田の三県にまたがる栗駒山付近。震源の深さは8km、直下型の地震だった。

 テレビから次々と送られてくる現場の映像はすさまじいものだった。山が大きくえぐり取られ、緑の森林は崩落し、むきだしの岩場に変わっていた。道路はねじれ、寸断され、土石流が見覚えのある山の温泉宿を押し流していた。土砂に埋まり何人もの犠牲者が出た。想像を絶する惨状がすぐ近くで起きていた。p291「各地の『地元』を訪ねて」

11)これらの文章は数年前にすでに印刷されていた文章だ。これらの被害もとてつもないものであったが、それらと比較しても、今回の東日本大震災は、すぐには直視できないほどの甚大な被害を及ぼしている。「うおッチング 南三陸の浜をゆく」(2001/08)などの仕事もある著者である。25メートルを超すような巨大津波に襲われた東北沿岸部を見ての、その心境を量るにも、余りある。

12)当ブログにおいても、実は、今回のこの惨状を直視することがなかなかできないでいる。せいぜい、すこしづつこのような単行本から過去の情報を集めながら、「ぐずぐず」とこの現実とつきあい始めたところである。  

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2011/07/17

うおッチング 南三陸の浜をゆく  結城登美雄・他

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「うおッチング」 南三陸の浜をゆく
白土 典子 (著), 結城 登美雄 (著), 高崎 みつる (著), 「石巻かほく」取材班 (著) 2001/08 河北新報総合サービス  単行本: 263p
Vol.3 No.0361 ★★★★☆

1)結城登美雄追っかけの中で、この本を知った。彼の活動量に比べたら、出版されている書籍は少ない。東北、しかもその中でも特に太平洋沿岸部の「南三陸の浜をゆく」ことになったのは、この本が地元の新聞「石巻かほく」(河北新報の姉妹紙)の連載企画が元になっているからだ。

2)掲載されたのは1998/08~2000/4の期間。大型企画「うおッチング」の名前もなかなかいい。

3)いまでは、皮肉にも東日本大震災で、全国レベルのネームバリューを持つに至った「南三陸」だが、 志津川町と歌津町の2町が合併し、南三陸町となったのは、2005年10月のことで、ごくごく最近のことである。この本の取材が進んでいた当時は、まだまだ、一般的には「南三陸」という言葉は知られていなかった。

4)この本を読む限り、浜は「豊か」だ。それは山間の過疎地にしがみついて農業を営む農家に比べれば、南三陸の前浜を大事にするだけでも、それなりの収穫がある、ということを意味している。後継者の問題も、農家のそれと比較すれば、大きな問題とはなっていなかった。

5)しかし、今回の大震災で、この本で取材されている地方のほとんどに大きな影響がでていることは間違いない。逆に言えば、今ようやく「南三陸」という地元性に目覚めている私などにとっては、これだけのものが、決定的に失われてしまったのだ、という喪失感の方が大きい。

6)酔っぱらった時など、私は「今度生まれる時は漁師になりたい」というらしい。自分でも自覚があるのだが、この話を始めると、家族が「また始まった」と言うので、いままで何度も話しているらしい。

7)だが、ミミズが怖くて釣りなどもほとんどしたこともなく、海水浴だって年に一度行くかどうかのカナヅチで、船釣りだって、ほんの数回しただけだ。我ながら、よく言うよ、と思う。一方、食卓の魚は大好きだ。南三陸の民宿などに泊まって、何と言ってもあの豪華なご馳走には、圧倒される。

8)今回思い出したことがある。1972年、高校を卒業して、わずかばかりのアルバイトをして、ヒッチハイクで日本一周したことがある。あの80日間の初日は、南三陸町の漁師の家に泊めてもらったのだった。

9)中型のトラックで、気のいい小父さんがヒッチハイクで拾ってくれて、そのまま自分の家に泊めてくれた。魚の流通もしていた人だった。魚市場の近くに家があり、朝早く目を覚まして、あの市場まで散歩したことを、今でも覚えている。

10)この豊かな南三陸は、今回の震災で、どうなってしまったのだろう。その状況すら十分把握できないでいる。これから、どうなるのだろう。

11)継続した「うおッチング」が必要とされる。

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2011/07/16

エマソン魂の探求 自然に学び神を感じる思想<1> リチャ-ド・ジェルダ-ド

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「エマソン魂の探求」 自然に学び神を感じる思想<1>
リチャ-ド・ジェルダ-ド/沢西康史 1996/12 日本教文社 単行本 280p
Vol.3 No.0360 ★★★★☆

1)だいぶ前からこの本が手元にあるのだが(震災前から)、なかなか読み始めることができない。いずれは読みこむはずなのだが、次から次へと後回しになって、何時になるかわからない。これでは困る。この辺で、まずは口火を切って、読もうとしている、ということだけはメモしておきたい。

2)ソローの先生であるエマソン。スナイダーに「二流」と切り捨てられるエマソン。それに、この本は、我が友人の翻訳でもある。何とか読み込みたいとは思うのだが、先にすすまない。

3)紆余曲折を経ながら、当ブログは、終局に入っていた。カテゴリは、「メタコンシャス--意識を意識する」だった。言ってみれば、般若心経の例えを借りて、「空即是空」という位置にあった。

4)しかしながら、わが「空即是空」を求める読書ブログは、遅々として進まず、杳として、その頼りを失いつつあった。

5)3月11日の朝、当ブログが読んでいたのは、「パーマカルチャー」だった。今思えば、何事かのバランスを取るかのごとく「色即是色」のほうに足を踏み出していたといえる。

6)3月11日の時点で、「メタコンシャス--意識を意識する」カテゴリは、残り10程の書込みを残すばかりだった。そして、残り10の書込みを終えれば、この読書ブログは終了するはずだったのである。

7)個人的には、あまりに象徴的であると思う。メタコンシャスな旅は打ち破られた。東日本大震災という「色即是色」によって、一発で、もろくも、崩れた。

8)二ヶ月ほどの休筆のあと、始まったのは「森の生活」カテゴリだった。

9)「空即是空」の延長でなら、エマソンも読みやすかったのではないか、と思う。スピノザに似て、なにやら観念的で、静かに静かにデッドエンドへと突き進みたかった。

10)しかし、そうはならなかった。わが「空即是空」は、いきおい余って「色即是色」へと大きく振れたが、やっぱりここは「色即是空 空即是色」なのであった。「色不異空 空不異色」なのだ。

11)・・・・・・・・

<2>につづく

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2011/07/15

東北を歩く 小さな村の希望を旅する 結城登美雄

【送料無料】東北を歩く
「東北を歩く」 小さな村の希望を旅する
結城登美雄 200807 新宿書房 単行本 324p
Vol.3 No.0359 ★★★★★

1)位置的には、「山に暮らす海に生きる 東北むら紀行」(1998/10)の続編ということになる。収められているのは、1999/06~2006/09の期間に、複数の企業のPR誌などに掲載されたエッセイ群。例によって、見事なモノクロ写真群が、短くも簡潔な文章に、鮮やかな彩りを添える。

2)もうこれ以上、米と田んぼをめぐる切ない話をするのはやめよう。どうやら私たちに腹をくくる時がやってきたようである。もはや国家のために米をつくらず、食の未来を国にゆだねず、もうひとつの道を切り拓いていくしかなのではあるまいか。

 国は滅びてもかまわぬが、生きるための食を支える農業が滅びては困るのである。私も農業、農村をめぐる口舌の徒を脱する覚悟をすべき時が来たようである。p318「あとがきにかえて」

3)私はこの人のことを、口舌の徒、などとののしる気持ちはまったくないが、土地に生き、農を支える、東北の人びとにおいては、マレビトでしかない、ひとりの物書きなど、所詮、口舌の徒でしかない、という本人の自覚は、この人の生きる姿勢が、ますます確かなものであることの表れである。

4) 東北の海や山に暮らす人々を10年近くもたずね歩けば、おのずからたくさんのことを学ぶ。生き方、生業、暮らしぶり。ミイラ取りがミイラになったのか、私も農的な生活に身を置きたくなった。

 何をのんきな、と笑われるかもしれない。当年57歳、今風に言えば定年帰農ということだろうが、残念なことに当方、この10年、定職をもたない中年フリーター。むろん今さら企業に職をとはさらさら思わぬが、心のスキ間に時折風が吹く。それをおさめるためにも、農を中心として残りを生きてみたいと思うようになった。

 さいわいなるかな、これ以上は見込みのなさそうなニッポン。どうせ生きるなら食べものだけでも自分で育てて賄いたい。そんな思いを引きずっていた。そこでこの春、思いきって宮城県北の農家と農地を譲ってもらい、農業一年生には広すぎる一町三反の農地を農業委員会に申請した。p162(2003/07)

5)著者57歳、8年前の心境である。雪の多い宮城県北地方の暮らしは、平地といえども、決して楽な環境ではない。近隣との交際も始まる。その難しさを十分知った上での、著者の必然的な帰農である。

6)かつて同じ岩手の地を生きた宮沢賢治は「おお朋だちよ、いっしょに正しい力を合わせ、われらすべての田園と、われらすべての生活を、一つの第四次元の芸術に創りあげようではないか」と農民芸術概論」で呼びかけたが、それに呼応するかのように実践を積みあげる村があった。p198「山村から日本が見える」

7)今回の震災で分かったことだが、被害が比較的少なかったと見える内陸部だが、内陸部に生活する人間とて、沿岸部に無縁の人はほとんどいない。親戚があり、生家があり、友人がいる。たまたま沿岸を旅していて被災してしまった人も数知れず。仕事で訪れ、その海産物にお世話になっている人もいる。森は海の恋人どころか、森も海も本当は、一体なのである。

8)東北や、農村漁村、山間の寒村だけが、日本から切り離されているわけではない。地方から都市に出て行った人々もあり、都市から里へ帰ってくる人々もある。

9)この人の本を読んでいると、三省とはまた別な意味において、悲しくなる。涙なしには直視できないことがたくさんレポートされている。私なら、涙を流してまで、この問題を直視することは出来ない。敢えて避けてしまうしかない。

10)そんな中にあって、この人のジャーナルは、まさに貴重な記録として残るに違いない。21世紀におけるこの東北の姿、それを広く共感的に記録し続けることができた人は、どれだけいるだろう。「口舌の徒」などと批判するのは、自朝的になった時の著者だけで、その姿勢は、著者特有の美徳でもある。

11)2005年、春。うそ寒くビルが林立する百万都市仙台。だが、ここは確かに人が生き、人が暮らすまちだった。都市計画による移転。地上げや地価高騰。高齢化や商売上の不如意。理由は様々だが、無数のYさんが消えていった。

 人が住み暮らすには、空気がうす過ぎはしないか。人が生きるには、寒すぎはしないか。仙台よ! すでに解体され、今はフランス語の名をつけられたアパートが建つYさんの旧居の前に立ち、Yさんがいだいていた「未練」を思う。p265「失われた風景をたどる」

12)中沢新一「哲学の東北」のことを思った。結城登美雄のジャーナル(記録)のことを考えたら、中沢の「東北」など何ほどのこともない。しかし、あまりに悲しすぎるのも困る。三省はその美学を寒村の清貧の中に求めようとしたのだから、一人の詩人の「嗜好性」として受け入れよう。しかし、同じ詩人でも、スナイダーのような、強靭な精神的な体力も必要なのではないか。

13)この本、震災後のこの7月に、改訂増補版が発行されたようだ。何事かの著者の最近の消息が聞こえてくるはずである。

14)「がんばれ!東北」という言葉を発することができる、一番お似合いの人は、結城登美雄だと、私は思う。そして、それは、震災後の「復興」のためだけの言葉であってはならない。東北が東北であるとはどういうことなのか、そこのところを、深く、具体的に掘り下げていくには、この人の足と涙に学ぶ必要がある。

15)ボランティアの人々も、現地の人々も、歴史の針を2011年3月10日に戻すことを目標にしてはならない。また、孫正義のような人も、メガソーラー設置を契機に、一気に物事を解決しようとしてはいけない。

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2011/07/14

森・川・海つながるいのち 畠山重篤

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「森・川・海つながるいのち」 守ってのこそう!いのちつながる日本の自然
畠山重篤/宍戸清孝 2011/01 童心社 単行本 40p
Vol.3 No.0358★★★★☆

1)今年になっての発行である。「森は海の恋人」の、ひとつの完成形としての一冊がここにある。海の大切さ、森の大切さ、川の大切さを、漁師の立場から解説し、学術的に裏付けながら、なお、子どもたちに対する教育として位置づけた。出版社も童心社という教育関係の出版社からでている。

2)しかし、その数カ月後に東日本大震災が襲ってくる。その近況は震災後に出版された「鉄は魔法つかい」に僅かに報告されている。養殖棚は全滅し、気仙沼港も漁港としての機能を失った。森や川とて、大震災の地割れや放射性物質の影響など、計り知れない被害を受けている。

3)これまで、いくつもの難問を超えて、大きなムーブメントを巻き起こしてきた著者である。すでに68歳という年齢に達してはいるが、これから、まだまだ活躍が期待される。ここから東北沿岸部のリアス式海岸において、復興が進められ、本当の意味での地域が生き返るには、どのくらいの時間がかかることだろう。

4)三陸沖の漁場には、日本列島の河川からの「鉄」だけではなく、中国大陸アムール川(黒龍河)からのフルボ酸鉄も流入していて、さらに良質な漁場を生み出しているという。石巻湾に注ぎ込む北上川とアムール川は、 国魂学では見事に対応しているが、この本に関しては余談となってしまう。

5)アムール川流域も開発の嵐が押しよせています。巨大ダムの建設、森林伐採、森林火災、湿地の喪失、工場排水増加など深刻な問題が横たわっています。アムール川流域に暮らす人びとに、森と川と海がどのようにつながっているかを伝える必要があるのです。

 気仙沼湾に注ぐ大川は、わずか25キロです。しかし、流域に暮らす人びとの心に自然を大切にする気持ちがふくらむと同時に、河川環境が復活してきました。水生昆虫の調査からもそのことが判明しています。新月ダム計画も中止となりました。

 今では、大川はサケが七万尾も上がる川となり、海の環境も大幅に改善されました。
 「森は海の恋人運動」は、人の心に木を植えることだったのです。
 p39「あとがき」

6)なかなか素敵な結句だ。40ページ足らずの子供向けのカラー図鑑であってみれば、このような「ハッピーエンド」でこの本が終わるのは、とても救いがある。

7)しかし、人生は、地球は、真実は、そう簡単な終わり方をしない。東日本大震災は、著者や、「森は海の恋人運動」に新たなる宿題を提出した形になった。この動き、今後も、熱い想いを込めて注目していきたい。

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2011/07/13

山に暮らす海に生きる 東北むら紀行 結城登美雄

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「山に暮らす海に生きる」 東北むら紀行
結城登美雄 1998/10 無明舎出版 単行本 251p
Vol.3 No.0357★★★★☆

1)東北の沿岸部のレポート、ということで、この人のことを思い出した。1945年生まれ、すでに66歳になられている。

2)この人と出会ったのは10代の終わり。1973年の頃だ。ということは私が19歳で、彼はそれでも30歳手前であったのか。あれから随分とガンジス河の水が流れてしまったということだ。

3)当時、三省たちがいうところの「部族」に影響されたわけでもないのだが、やたらと廃村や廃校になった物件を探していた。目的も手段もまったく不明なまま、情報があれば飛び付いていた頃、この人を通じて、山形県の朝日連峰の、とある廃屋を紹介されたのだった。

4)あれは、多分、彼の生家か本家だったのだ。すでに住人を失っていた大きくて頑丈な農家だったが、一見して雪深い地方であるということはすぐ分かった。その二階建ての茅葺の古い農家は、冬になると二階から出入りするという。一階以下は雪に埋もれてしまうのだ。

5)冬でも、年に2~3回くらいしか、長靴を必要とする雪を体験しない街に暮らしていた自分たちには、イメージできないほどの寒村であった。家の中を拝見したものの、そこからの展開の方法を見つけることはできなかった。

6)当時、彼はまだ学生か広告代理店に勤めていたはず。それから、友人の友人である彼のことはそれとなく耳にはしていたが、ことさらその関係の距離が縮まることなく、今日まで来ている。

7)今回、東日本大震災を体験して、私自身の意識はようやく、沿岸部の、具体的な人々の暮らしにフォーカシングをしようかな、と思い始まったばかりだ。これまでは具体的な自分の身の回りやネットワークだけでせいいっぱいだった。

8)この本は1995年8月から約3年の新聞連載を、一本にまとめたものである。「好きなだけ歩いてこい」と肩を押してくれた朝日新聞と河北新報の担当のご配慮に感謝したい。p252「あとがき」

9)このような記事があったことなど全然知らなかったし、当時の私は、このような関心は多少は持ってはいたが、第一義的な関心ごとになることはなかった。

10)今、こうして見てみると、新聞記事らしく、ひとつひとつが簡潔な読み切りになっていて、しかも大きな写真がそれぞれの小さなコラムに二枚づつついている。なんともぜいたくな本だ。

11)震災後の今となっては、非常に貴重な本となってしまった。ここに取りあげられている風景は15年ほど前のことではあるが、ごくごく最近まで、連綿と続いてきた東北の人々の暮らしぶりだ。

12)まだ夜明け前だというのに、海辺のカキむき工場にはあかりがともっていた。宮城県唐桑町鮪立。真っ暗な冬の海から水揚げされたカキ殻が作業場へ運ばれる。寒風の中で黙々とそれをむく十数人の人々。鮮度維持のため暖房もない。聞けばすでに午前1時から立ちずくめ。これから昼過ぎまで食事時間を惜しんでの作業が続くという。p114「カキ養殖 宮城県唐桑町」

13)畠山重篤 「森は海の恋人」の風景に直接つながっていくシーンだ。このままなら、単なる感傷と、情景描写で終わってしまいそう。

14)しかし、震災後の今となっては、ひとつひとつの記録が重い。「早く、以前のように復興したい。昔に戻りたい。戻してあげたい」という風潮がなくはない。しかし、震災以前の東北の沿岸部風景は決して、理想郷でもなければ、問題のない地域でもなかった。あの時点から、様々な矛盾点を抱えていたのだ。

15)食糧を初めとする救援物資、瓦礫撤去を初めとするボランティア活動。ひとつひとつは、限りなく美しい風景で、感謝もするし、学ばなければならない人間としての生き方だ。だが、もし震災が起こる前に、もっと、この沿岸部や、山間の過疎地帯に対して、本格的な想いを広く集めることができたなら、この日本という国は、もっと別な存在に成長していたのではないだろうか、と思う。

16)この人、何冊か本を出している。手元で読める範囲で、もうすこしおっかけてみよう。スナイダーや三省のように「再定住」したわけではなく、敢えていうなら精神性としては「ロングヘアー」につながるようなジャーナル活動だが、その視点や、人々に共感する感性は、完全に地元のものであり、東北の定住者の感覚だ。

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2011/07/12

森の家から 山尾三省・詩集

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「 森の家から」 永劫(アミターユス)讃歌
山尾 三省 (著) 1995/07 草光舎 単行本: 198p
Vol.3 No.0356★★★★★

1)三省の詩集の中では、もっとも身近で、親和力を感じる。

2)この詩集で、三省追っかけがほぼ終わる。そのような全体が見えた、という安心感からくるのだろうか。それとも、1938年生まれの三省1995年と言えば、57歳。ちょうど、今の私と同じ年齢だ。そのような年回りから、何かの安堵感があるのだろうか。

3)詩というものは、その時その場においてつかまえなければ永久に逃げ去るものであり、それといって、つかまえようと意識していてもつかまえ得るものではない。佛ということや神ということと同様に、詩もつねに世界に満ちているのだが、それに出遭うことは必ずしも容易なことではないし、出遭ったとしてもそれをつかまえて言葉に定着させることは、さら容易なことではない。

 この4年間に、どれだけ多くの詩が出遭われながら定着されることなく、永久に失われてしまったかを思うと、詩を業とも行ともする者として慙愧の念がわき立つ。
p193「あとがき」

4)この詩集もまた「南無浄瑠璃光薬師如来」の「祈り」から始まる。この詩はいくつかのバージョンがあり、すこしづつ変化(成長)していったようだが、いずれにせよ、三省の最高級の詩のひとつであることに間違いはない。

5)「祈り」

南無浄瑠璃光
海の薬師如来
われらの 病んだ身心を 癒したまえ
その深い 青の呼吸で 癒したまえ  
p9「序--森の家から」

6)「森の家」と題する連作もすばらしい。まさに当ブログカテゴリ「森の生活」に親和する。

7)「森の家 その1」

しんしんと晴れわたった 五月の空の下に山々はあり
わたし達の小さなあばら家があり
その家を
嬰児(あかちゃん)がいるゆえに 美しく 森の家と呼ぶ
 p82

8)子だくさんの三省にしてみれば、50代半ばにしてまだ赤ちゃんと棲む生活があった。私は街にあり、子どもたちはとうの昔に巣立ち、孫の成長をメールで送られてくる動画でいとおしむ程度のことだが、やはり、その暮らしを「嬰児(あかちゃん)がいるゆえに 美しく 森の家と呼」んでみたい。

9)翻訳ものや再版もの絶版ものを除いて、ほぼ三省おっかけが終了した現在、この辺でソーカツしておくのも悪くはないのだが、いままで、一冊一冊にコメントしてきたので、ランダムな読み方であったとしても、あえてソーカツしないでおこう。

10)そして、最後に読んだこの本が、結局は、現在の私に一番親和力があった、と、そういうことをメモしておく。

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鉄は魔法つかい 命と地球をはぐくむ「鉄」 畠山重篤/著

【送料無料選択可!】鉄は魔法つかい 命と地球をはぐくむ「鉄」 (児童書) / 畠山重篤/著 スギヤマカナヨ/絵
「鉄は魔法つかい」 命と地球をはぐくむ「鉄」
畠山重篤/著 スギヤマカナヨ/絵 2011/06 小学館 児童書 232p
Vol.3 No.0355★★★★☆

1)「森は海の恋人」著者の最新の消息。震災前にほとんどの校正が終わっていたが、出版されたのは震災後。

2)2月末、本書の原稿を書きあげ、出版の日どりも決まって、ほっとしていた3月11日、三陸沿岸は大津波に襲われてしまいました。三陸だけではありません。この400年間大きな津波被害のなかった、福島から仙台湾にかけての平坦な海岸線も襲われたのです。(中略)

 海面から10数メートルを超す濁流に蹂躙された海から、生きものの姿が消えていました。60年も続けてきた、養殖業もこれで終わりかと思うと、絶望感だけが漂っていました。

 1ヶ月ほどして、すこしづつ水が澄んできました。なにか動いています。目を近づけると、ハゼのような小魚です。日を追うごとに、その数がふえてきています。

大津波によて海が壊れたわけではないのです。生きものを育む海はそのままなのです。森・川・海のつながりがしっかりしていて、鉄が供給されれば、カキの養殖は再開できる。そう思ったとき、勇気が湧いてきました。p3「東北再生への希望」

2)図書館をあてにした読書ブログは、どうしても情報としては遅くなる。今回の大震災の被害についても、リアルタイムにはおっかけ切れない。もうすでに震災から4ヵ月が経過した。沿岸部の人々はどうしているだろう。そういう心配の中で、この本は出版された。

3)3月11日、東北地方太平洋沖地震が起きました。支社行方不明者あわsてえ27759人(4月19日現在)という大惨事です。地震の直接的被害だけではありません。原子力発電所の被害による放射能の拡散という深刻な問題まで発生してしまったのです。

 三陸沿岸を襲った大津波により、河口に位置していた施設が被害を受け、母は帰らぬ人となってしまいました。父が創業したカキ養殖場も、全部流されてしまいました。

 呆然と、海を見つめる毎日でしたが、
「鉄の魔法で、海を元気にしらんや」
という母の声をききました。
 その声に押され、第一歩をふみだしたところです。
 2011年4月        畠山重篤
   p221「あとがき」

4)本書は「森は海の恋人」の中のキーワードである、森、川、海を繋ぐ、「鉄」が主テーマとなっている。今後、気仙沼湾の牡蠣養殖は、どのような再生の道筋をたどることになるのか、心をこめて、見守りたい。

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2011/07/11

スナイダー詩集 ノー・ネイチャー<2>

<1>からつづく 

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「スナイダー詩集 ノー・ネイチャー」 <2>
ゲーリー・スナイダー/著 金関寿夫/訳 加藤幸子/訳 2002/01 思潮社 単行本 233P

1)詩ってなんだろう。改めて考えた。

2)限りない自己へのこだわり、美の探究。

3)詩が文字の文芸で在る限り、真善美の、まずは美を持っている必要があるだろう。

4)スナイダー三省を並べて見た場合、三省の方は、より美ととともに真に偏っているのではないだろうか。そして、スナイダーは、どちらかと言えば、善の人か。

5)アメリカで「ゲーリー・スナイダー」として知られている現象に対して、日本人が受けている情報は圧倒的に少ないに違いない。

6)であるがゆえに、少ないとは言われつつも、今、こうして読める詩を、ゆっくりと時間をかけて、読み進めるしかないと思う。

7)スナイダーは詩を作る時、自らがいる環境を、山や川、海や岩石、植物や動物たち、そういうものに触れないと、彼の詩にならないし、彼を語ったことにならない。なかなか、うまい「場所」に自分を連れ込んだものだ。

8)三省に比較したら、「涙」が圧倒的に少ない。いや、三省は「涙」が多すぎる。「神を求めて泣きなさい」。一見では、これは他力だ。

9)スナイダーは「禅」の人だもの、自力でしょう。

10)でも、まだ旅はつづいている。たくましく、慌てず、ある意味、優しく。ある意味、放浪。

11)スナイダーの全読み込みなど、当ブログではできない。永遠にそのチャンスは来ないだろう。だから、今与えられている作品群を、もうすこしミクロに読み進めていこう。

<3>につづく

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2011/07/10

絶頂の危うさ<2> ゲーリー・スナイダー

<1>よりつづく 

【送料無料】絶頂の危うさ
「絶頂の危うさ」 <2>
ゲーリー・スナイダー/原成吉 2007/08 思潮社 単行本 239p

『亀の島』(Turtle Island、1974年)

『ノー・ネイチャー』(No Nature、1992年)

『終わりなき山河』(Mountains and Rivers Without End、1996年)

『絶頂の危うさ』(Danger on Peaks, 2007年)

と続く、スナイダーの詩集。

2)そそっかしい早めくりの当ブログにおいて、ひとつひとつの詩を味わっている余裕がない。それでもやはり気になる詩人は繰り返し読む。

3)最初は、全体像知るために関連リストを作った。すこし時間をおき、全体像を確かめながら、ひとつひとつの位置を確かめ始める。詩はひとつひとつ独立していながら、しかしひとつひとつが関連しているので、折に触れて読んでいるうちに、より明確なイメージを呼び起こすことになるだろう。

4)その中にあってもこの「絶頂の危うさ」はスナイダー最新の消息となる。

5)なるほどケルアックの喧騒を通り過ぎ、ここまで来たスナイダー。しかし、詩だけでは、なかなかその存在を量り知ることは難しい。その風貌だったり、他人の評価だったり、友人たちの交流の中から見えてくるスナイダー。本来であれば、その詩の朗読に立ち会うのが一番なのだろう。

6)どこか決定的に懐かしい思いになるのは、自分が慣れ親しんだ文化のルーツをたどれば、彼が立っているからだろうか。それとも、私自身の過去生が、あの時代性の中にあったからだろうか。

7)すこしづつ手繰り寄せながら、親近感を感じつつ、また突き放されたりしながら、まるでヒッチハイクのよう。スナイダーは長距離トラックか、大陸横断鉄道か。

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歌集 森は海の恋人 熊谷龍子

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「歌集 森は海の恋人」
[単行本] 熊谷 龍子 (著) 1997/04 北斗出版 単行本: 221p
Vol.3 No.0354★★★☆☆

1)「森は海の恋人」「漁師さんの森づくり」の著書のある牡蠣の森を慕う会・畠山重篤に、「森は海の恋人」という素晴らしいキャッチフレーズを贈った人の歌集。

2)丈高くなりし夏草刈られてゆく 地球の地表のひとなつのこと p33

寺山修司のために
少しはにかんだような表情を残しつつ衿たてて汝は往きてしまえり 
p99

森と海と溶け合うという汽水域 朝靄のようならむ水の濃度は p159

肉厚の黄桃のような海鞘目の<海鞘(ほや)>食めば口中に海は広がる p196

何処かにカンブリア紀の風纏い牡蠣は生き継いで私の前に p196

川添いに蛍飛び交うこの村を桃源郷とひと言う勿れ p202

3)森の人、熊谷龍子の詩には、虚飾をすてた、率直な清潔さが溢れている。森にいて、味わいたい。そして、海にいて、もういちど読みたい。

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漁師さんの森づくり 森は海の恋人 畠山重篤/杉山佳奈代

【送料無料】漁師さんの森づくり
「漁師さんの森づくり」 森は海の恋人
畠山重篤/杉山佳奈代 2000/11 講談社 単行本 173p
Vol.3 No.0353 ★★★★★

1)「森は海の恋人」の続編。著者の洒脱な文章と、杉山佳奈代のイラストが素晴らしい。前編イラスト付き、文章にはすべてルビがふってある。小学校中学年でも十分理解できる。しかし、書かれている内容は高等だ。こういう本を読んで、漁師さんにすぐなることはできないまでも、研究者などになることはできるかもしれない。おさかなクンなんかも、こういう本で育ったのかなぁ、と思ったりする。

2)カキの養殖は、海にいかだをうかべますから、津波がくるとひとたまりもありません。長いロープにぶらさがっているカキはグルグルまきになってしまい、こすれておちてしまいます。いかだもどこに流れていくのか、止めようもありません。津波は養殖業者の強敵なのです。

 昭和35年(1960)、三陸地方はチリ地震津波におそわれました。はるか太平洋をはさんだ南米のチリで起こった地震によって、巨大な津波が発生したのです。p69「チリ地震津波」

3)昨夜、とある会合で、南三陸町の中学校のA校長先生のお話を聞いた。沿岸部で商店を営んでいた老いた両親をランクルで救いだし、渋滞した道路の、反対車線を走り抜いて、辛うじて助かった人である。天皇皇后ご夫妻が慰問に訪れた時には、説明役をした人でもある。(この時、聞いた話は、また別な機会にまとめてメモすることにする)。

4)この校長先生は、小学校2年の時にチリ津波地震も体験している、ということで、シロートで大変失礼だとは思ったが、チリ地震津波と今回の津波は、例えて言えば、どのくらいの大きさでしたか、と聞いてみた。
 彼がいうには、「5倍」ということだった。
 チリ地震津波は高さ5メートル。今回は25メートルだった。だが、高さは五倍だが、縦横高さが5倍だから、5×5×5=125で、125倍くらいの威力だった、と表現されておられた。

5)今後の「森は海の恋人」運動はどうなってしまうのだろう。

6)昭和40年代から農業は、科学肥料、農薬、除草剤の時代に入っていたのです。
 わたしは、アメリカのレイチェル=カーソンという人が「沈黙の春」という本を書いたことを思い出していました。
p88

7)体験学習に来る子供達からお礼の手紙がくるという。

8)感想文には
「わたしたちは、体験学習のいったつぎの日から、朝シャンで使うシャンプーの量を半分にしました。お母さんと台所やおふろ、洗たくなどで使う洗剤の量を注意しようと、話し合いました。お父さんには、農薬、除草剤の量をすこし減らしてもらうようにおねがいしました。」
と書かれてありました。
p132

9)上に書いたA校長先生に、「復興と言っても、何を意味するかわかりませんが、とりあえず皆が平和に暮らすには何年かかりますか?」とぶしつけな質問をした。
 先生は、「5年はかかるでしょう」といい、「10年はかかるでしょう」と言いなおし、「20年はかかるだろうな」と言いなおした。彼は、これから「エコタウンとして再生していくプロジェクトに関心がある」と言っていた。

10)森は海の恋人。そして、海は森の恋人なのだ。これから、沿岸部の静かな生命力の回復を祈りたい。

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森は海の恋人  畠山 重篤

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「森は海の恋人」 
畠山 重篤 (著) 1994/10 北斗出版 単行本 192p
Vol.3 No.0352

1)東日本大震災前からのつながりで、震災後も「森」を考えることが多かった。ソローの「森の生活」からついつい樹木や畑作などのことばかり連想していた。しかし、ソロー・ハットの前には実は、ウォールデン・ポンドという湖が広がっていたことを忘れてはならない。

2)震災の、特に津波の被害を受けた地域は、当然のことながら海の近くであり、漁民や水産加工関連の人々が多かった。森にいて、海のことを思うと、そう言えば、「森は海の恋人」という本があったな、と思い出した。

3)著者は1943年生まれ、宮城県気仙沼地方にいて、牡蠣養殖に携わっている人だ。この人の本、とてもいい。さすが名著の噂にたがわず感動的なものだった。

4)牡蠣には、私なりにこだわりがある。かつて20代で大病を患って入院した時、何か食べたいものがないか、といわれると毎回「牡蠣」ばかりが頭に浮かんだ。入院していた時は9月後半から3月後半までのちょうど、牡蠣シーズンにあたっていたせいもあるが、とにかく牡蠣が食べたかった。

5)実際は抗がん剤や放射線治療の効果も大きかったのだが、私は、あれほど毎日食べた牡蠣がこのいのちを助けてくれたのだ、という感謝の気持ちがとてもつよい。

6)その牡蠣、いままでは海のエキスだとばかり思っていたのだが、実は、それは森のエキスでもあったのだ、と、あらためて気づかされた。

7)ハイテク機器が搭載された船を操る現代っ子漁民も、機器に頼り切っている者は漁が少なく事故も多いといわれる。沿岸に生きる漁民にとって、山を読むことは今も変わらぬ必修科目なのである。p15「森と海・初めての出会い」

8)今回の震災で、青森県から茨城県にかけての沿岸部、特にリアス式海岸で営まれている漁業は壊滅的な被害を受けた。著者が住む唐桑地方なども、どうなってしまっているだろう。この本に描かれる、漁村の子供達が、以下に海になじみながら、一人前の漁民になっていくかが活写されているだけに、心痛む。

9)そう思ってググッてみると、関連の記事があった。やはり著者も大きく被災しており、その状況が報告されている。心よりお見舞い申し上げます。

10)一軒の家で必要な燃料は、薪が五棚、柴が百丸といわれ、どこの家でも、木小屋に大切に保存しておいた。縁談話があって、こっそり家を見に行く時、まず木小屋を見ろ、といわれたものだという。割った薪が、きれいに重なっていれば、その家は、しっかりした家だと評価をされた。結婚適齢期の息子のいる家では、見せ物のように棚木を重ねていたという。p32「森と海・初めての出会い」

11)海のことを考えてくらす海辺の人々にとって、森そのものを考えるチャンスは多くなかったが、それでも、漁具や仕掛けを作る上で、材木の種類を様々組み合わせることが大切で、その差によって、大きく漁獲高が違ったらしい。

12)一時、毎年番(つがい)で飛んでくる鶚(みさご)が、一羽しか姿をみせない年が続いたことがあった。後で知ったのだが、BHCやDDTなどの塩素系の農薬が海に流れ、植物プランクトンからの食物連鎖で、海水域に棲む石斑魚や鯔(ぼら)に繁殖障害が出たらしい。その後、因果関係の解明が進み、BHCやDDTは使用禁止になった。そして親子連れの鶚(みさご)の姿が舞根湾の上空に再び見られるようになったのである。今年も潮干狩の季節がやってくる。親子連れの鶚(みさご)が飛んでくる日も、近い。p61「汽水域の生き物たち」

13)まさに、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」につながっていく部分である。そこに住んで、注意深くみていないと、すぐには気がつかない自然界の変化である。

14)森は海を海は森を恋いながら悠久よりの愛紡ぎゆく  p137「森は海の恋人」

15)この本のタイトルはこの短歌にゆえんしている。この本に要所要所に挟まれている短歌は、熊谷龍子という人の作だ。

16)それというのも、気仙沼湾の母なる川、大川に、こともあろうに、河口から僅か8キロ地点に巨大ダムを建設するという、新月(にいつき)ダム計画が、20年も前から計画され、宮城県も気仙沼市も躍起となっているからである。松永教授は、気仙沼のように、海に依存している地域が、海に近い何百ヘクタールもの森林を失い、しかも川を塞き止めるなんて理解に苦しみますね、と眼鏡の奥を光らせたのであった。p143「森は海の恋人」

17)民主党の脱ダム宣言もいつのまにかうやむやになってしまった。八ッ場ダムのことなど話題になることはなくなってしまった。気仙沼の新月ダムのほうは、下流の気仙沼市等の漁業関係者からカキ養殖に重大な影響を及ぼすとして反対運動が起こり、その後水需要の減少なども重なり計画が中止された、という

18)この文を書いている最中、我が宮城県知事と仙台市長が、土木建築工事に絡む収賄容疑で逮捕されるという大事件が持ち上がり、事件は全国に飛び火していった。その後、各地のダム建設に絡む汚職事件も次々に明るみに出、巨額の金が動くダム建設事業は、大手ゼネコンを始め、建設業界にとっては、垂涎の的であるおとがわかる。そして一部の政治家と、業界との癒着の構図がみえてくると、果たして、今計画されている全国のダム建設計画が本当に正当性があるのかどうか疑惑を感じざるを得ないのである。p156「森は海の恋人」

19)この構図は、原発建設計画と重なるところが多いだろう。山尾三省「一切経山」にもでてくる、バブル期のゼネコン・マネーも交じって成立したシンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」だったが、パンフレットを飾った顔役達は、実は影で、どれだけの汚れた仕事をやっていたのか、計り知れない。

20)たまたま、日本を訪れていたアメリカ・インディアンのデニス・バンクス氏が、長良川を愛する会の所会長と共に応援に駆けつけてくれた。自然と共に生きてきた平原の民のインディアンが船に乗りたいとの希望であった。そして室根山を望みながら、海の民と共に船上で祈りを捧げたのであった。p167「山に翻った大漁旗」

21)森は海の恋人、というフレーズは、もっとももっと広い意味を持っていたのだった。当ブログにおける次なるカテゴリの名前に使わせてもらおうかな。

22)森は此方に海は彼方に生きている 天の配剤と密かに呼ばむ  p189

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2011/07/09

レイチェル・カーソン 上岡克己・他

レイチェル・カーソン
「レイチェル・カーソン」 
上岡 克己 / 上遠 恵子 / 原 強 (編著), 2007/05 ミネルヴァ書房 単行本 175pVol.3 No.0351 ★★★★☆

1) 好著「森の生活―簡素な生活・高き想い」の上岡克己の繋がりで、この本を見つけた。やはりソローとレイチェル・カーソンは繋がっているのだな、と納得しつつ、東日本大震災や東京電力原発事故を体験した今、より今日的に、この先達たちをとらえ直す必要がある。

2)ソローについて、カーソンは「偉大なるナチュラリスト」とか、「身のまわりの世界を瞑想的に観察した代表的人物」という表現を用いて紹介している。p26「レイチェル・カーソン--人・思想・評価」鈴木善次

3)当ブログにおけるレイチェル カーソン読み込みは「沈黙の春」「『沈黙の春』を読む」などで始まったばかりだ。アラン・ワッツ的表現を借りれば、どちらかと言えば「ねばねば」派である当ブログにしてみると、彼女は、ちょっと「とげとげ」しく感じられて、積極的に取り組むには、準備期間が必要である。

4)彼女の後継を意識するビル・マッキベンなども、とげとげ派に属すると思われる。震災後、ひとつひとつの点検が必要であることが分かっているのだが、公立図書館の早めくり読書ブログでしかない当ブログには、なかなか精緻な読書態度を作ることは難しい。

5)いくらそれが事実であったにせよ、「これでもか、これでもか」といわんばかりの批判だけであれば、読者は「沈黙の春」を途中で投げ出してしまうだろう。しかし、「沈黙の春」はそれだけでは終わらない。人間と自然との関係はいかにあるべきかという点についてひとつの回答を示しているのである。p86「『沈黙の春』--世界を変えた本」原強

6)この辺を、これからゆっくり見ていくつもり。

7)彼女は、先進工業国による環境破壊に対して、多くの責任をもつべきだという反省もこめて、新しい環境理論として、「自然との共存共栄」こそ、現代の科学技術文明の矛盾を克服する道であり、人類を含むあらゆる生物が、この地球で生き残りうる唯一の道であるとのべた。

 カーソンのこの思想は、仏教思想や多くの先住民族にみられる「自然との共存思想」と共通したものがみらえる。「一木一草悉皆成仏」とか「一寸の虫にも五分の魂」というのは、東洋思想というより、原始アニミズム思想というべきものだろうが、そのことの現代的意義を、カーソンは、自然科学者の立場から指摘した人である。p132「『センス・オブ・ワンダー』」と幼児教育 竹内通夫

8)読み手側がどう理解するかは読み手に任されているが、彼女自身は、「仏教」や「原始アニミズム」に通じていたかどうかは定かではない。

9)次にあげるカリール・ジブランの詩を読むと、子ども期の大切さだけでなく、子どもの存在の意味について、考えさせられる。

預言者

赤ん坊を抱いたひとりの女が言った
どうぞ子どもたちの話をして下さい
(それで預言者は言った)
あなた方の子どもたちは
あなたがたのものではない
彼らは生命そのもの
あこがれの息子や娘である
彼らはあなたがたを通して生まれてくるけれども
あなたがたから生じたものではない---
あなたがたは彼らに愛情を与えうるが
あなたがたの考えを与えることはできない
なぜなら彼らは自分自身の考えを持っているから
あなた方は彼らの体を宿す事が出来るが
彼らの魂を宿すことはできない
なぜなら彼らの魂は、明日の家に住んでいるから
  p137「『センス・オブ・ワンダー』」と幼児教育 竹内通夫

10)ここでジブランに会うとは思わなかった。こうして、読み手たちが、盛んに他のナニかと「ねばねば」しようとするのは、やはり、彼女自身がすこし「とげとげ」している証左になるのではないだろうか。

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2011/07/08

「タブーの書」<3> アラン・ワッツ

<2>よりつづく

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「タブーの書」 <3>
アラン・ワッツ (著), 竹渕 智子 (翻訳) 1991/01 めるくまーる 単行本  231p

1)山里勝己「場所を生きる--ゲーリー・スナイダーの世界」の中にアラン・ワッツの名がでてきた。

2)ルース・ササキは、日本語と中国語の出来る研究者との共同プロジェクトを必要としていた。ササキは、1949年、京都・大徳寺龍泉庵に米国第一禅教会日本研究所を設立し、曹渓庵が遺言で残した仕事と取り組み初める。

 ササキとスナイダーは、禅研究家として知られていたアラン・ワッツを介して知り合っている。ウェイレンにあてた書簡を読むと、スナイダーが1953年までにササキが編集した禅関係の書物をすでに読んでいたことがわかる。ササキはワッツの義母でもあった。山里勝己「場所を生きる」p57

3)つまり、アラン・ワッツは、ルース・F・ササキの娘と、何回か目かの結婚をしており、スナイダーは、カリフォルニア・文化の中で、「ZEN」を通じて、ワッツと知り合っていたのだろう。この出会いはとても大事で、ルース・ササキとの縁によって、スナイダーの日本・京都行きが具体化するのである。

4)東ネヴァダの広大な砂漠でヒッチハイクをしながら読んだこの文章が、若い人類学徒に強い印象を与えたことは想像にかたくない。後年のスナイダーの詩と思想は「人間であることのいみ」を執拗に追及する。

 その初期において、仏教を媒介にしながら新たな人間観を模索する動きが見えるのもきわめて興味深いが、1956年のスナイダー初来日の背景を考えるとき、鈴木大拙の影響はきわめて大きいと言わねばならない。山里勝己「場所を生きる」p50

5)スナイダーを、わが読書のハブ空港と考えた場合、ここからアラン・ワッツや鈴木大拙へと飛び立つことも可能だろう、とは思う。そう思って、すこし読み始めたワッツではあったが、いまいちノリが悪い。

6)Alan Wilson Watts (6 January 1915 – 16 November 1973) was a British philosopher, writer, and speaker, best known as an interpreter and popularizer of Eastern philosophy for a Western audience.Wikipediaより

7)というように、ワッツは西洋の聴衆に対する東洋思想の紹介者ではあっただろうが、東洋側から見れば、必ずしも注目すべき東洋を開く思想家ではなかった可能性がある。現に25冊ほどあるワッツの英文の著書は、わずかに2冊が邦訳されるに留まっている。

8)「タブーの書」の翻訳者・竹淵智子は、訳者紹介を見る限りOsho門弟であり、どこかでOshoがワッツに触れていることや、Osho「私が愛した本」がワッツに捧げられていることなどから、この本を邦訳する機縁が生じたのではないだろうか。

9)2冊あるワッツの邦訳のうちのもう一つの「心理療法 東と西」もなかなか面白い本だが、ワッツの全体像が紹介されるまでには至っていない。当ブログはそれでも果敢に(汗)、ワッツの英文「The Way of Zen」「This Is It」などにチャレンジしてはみたが、必ずしもワッツの姿をとらえきれてはいない。

10)思わぬ収穫だったのは、「エスリンとアメリカの覚醒」の中に大量のワッツ関連の記述があったことだった。いかにも人間らしい姿のワッツが描きだされているが、まだ、この段階では、東洋趣味の西洋人が、西洋の中で、東洋を語っている、という風景を脱してはいない。

11)ワッツがなくなったのは1973年であり、スナイダーが日本からアメリカに帰国したのは1968年。この間、二人は、限りなく再会する機会はあったのだろうが、再会した、という記述はまだ見つけていない。

12)かくいうスナイダーではあるが、こちらもかなりの出版数を数えているはずなのだが、日本で発行されたのはわずかに7冊。主要な著書は邦訳されているので、これでいいのかもしれないが、スナイダーの実像そのものは、アメリカにおける影響力に比べれば、はるかに日本におけるそれは小さいと言える。

13)当ブログにおいては、禅よりも「ZEN」に関心を持つウエイトが大きく、いきおいスナイダーあたりの活動に期待をしてしまうのだが、1998年に日本の仏教伝道協会より「仏教伝道文化賞」を授与された、とはいうものの、より本格的な、禅もZENも乗り越えたところでの地球文学、というところまでは到達しているのだろうか。

14)逆に、三省などもあれだけ本を書いているのだが、英文に翻訳される機運はあるのだろうか。

15)あるいはまた、1981~1985年当時、アメリカに滞在したOshoの顛末は「OSHO:アメリカへの道」などにも一部活写されているが、この間もスナイダーとOshoは限りなく物理的な近距離にいたわけだから、なんらかのクロスする地点があってもよさそうなのに、と思う。その点、「エスリンとアメリカの覚醒」の中では、Oshoとエスリンの、まさに「エンカウンター」が描写されていて、興味深い。

16)ときどき考えることだが、哲学的論争というものはすべて、「とげとげ」一派と「ねばねば」一派の争いに矮小化できるのではないだろうか。とげとげ派の人々は現実的で厳格で堅苦しく、ものごとのあいだの差異や区別を強調するのが好きだ。

 彼らは、波よりは微粒子を、連続よりは不連続を好む。ねばねば派の人々は感傷的なロマンチストで、幅広い普遍化や壮大な統合を愛する。彼らは、根底にある一体性を強調し、汎神論や神秘主義に傾きやすい。物質の究極的な構成要素としては、微粒子よりも波のほうが彼らにはずっとしっくりくる。(後略)ワッツ「タブーの書」p199

17)たんなる個人的な読書ブログである当ブログは哲学的論争とはいいがたいが、この例で言えば、決してとげとげ派ではなくて、あえて分類するとすれば、ねばねば派ということになろう。繋がりや「壮大な統合」を夢見ているのは事実である。

18)正反対の頂点というのは極であり、極は一方だけでは成立しないのだという実感をもたなければ、そのプロセスは退屈きわまりないものだ。ねばねばなくしてとげとげはなく、とげとげなくしてはねばねばもないのである。ワッツ p201

19)ワッツが西洋の聴衆に受けたという理由がわかる。このイギリス人のウィットに東洋思想を絡ませるのだから、当時、確かに大衆を魅了したことはわかる。

<4>につづく

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2011/07/07

場所を生きる<2> ゲ-リ-・スナイダ-の世界

<1>からつづく 

【送料無料】場所を生きる
「場所を生きる」 ゲ-リ-・スナイダ-の世界 <2>
山里勝己 2006/03 山と渓谷社 単行本 327p

1)3月11日の朝に読んでいたのはビル・モリソンの「パーマカルチャー 農的暮らしの永久デザイン」だった。感想を当ブログにメモし、仕事に出かけ、出先の街のビルの中で、今回の大震災に遭遇した。それから、ブログは、電気も来ず、ネットも繋がらない、余震が頻発する、という中で、とてもとても書き続けることはできなかった。

2)ツイッターなどで近況を頻繁に報告したあと、ようやくブログに戻ってこれたのは4月25日なってから。なんと一カ月半、ブログはそのまま停止したままだった。

3)ネットは使えるようになっていたが、図書館は壊滅的ダメージを受けまったく利用できなくなっていた。ふたたび読書ブログとして書き始めたのは、自分の蔵書のゲーリー・スナイダー「地球の家を保つには エコロジーと精神革命」だった。 

4)しかし、その後、読書ブログとして4月中に書きとめたのは、僅かに一冊、5月においても、2冊に留まった。6月になってようやく図書館ネットワークも部分的に復活しはじめ、ヘンリ-・D・ソローとスナイダーを並行的に読み始め、そして、スナイダーを再読する過程において、三省との対談「聖なる地球のつどいかな」にたどり着いた。

4)スナイダー本がせいぜい7冊ほどしかなく、物足りない部分があったせいもあるし、三省はいつかは一気に読み干そうと思っていたので、ここからいきなり三省追っかけに突入した、というわけである。その三省追っかけもそろそろ終わりつつある。

5)そして三省が一巡してみれば、残っているのはやはりスナイダーだった。「希望としての山尾三省」と思い始めていたが、実は、もっと根幹にあったのは「希望としてのゲーリー・スナイダー」ではなかったのか。

6)いやいやそうでもあるまい。本来の「希望としての???」は、まだ見つかっていない、と言える。東日本大震災という壊滅的被害の中で、たしかに三省やスナイダーの世界は、一時の気の迷いなのではないか。

7)復興なった図書館に行ってみれば、震災コーナーができており、震災を報道したグラビア誌や新聞などが資料として大きなスペースに広げられている。私は、見るに堪えない、と、視線をはずしたままだ。現地の生々しさを目撃した今、グラビアなどで確認する気など毛頭ない。

8)そんな態度がいきおい余って、現実を直視する力を失っていたようだ。すこしでも「希望」を見たい。そんな思いが強かった。ツイッターや他のブログなどでは、原発や放射性物質の脅威についての書込みが満載だ。だが、すぐそばに原発があり、放射性物資の汚染地帯にいる自分は、いちいちそんな論議に加わっている気力がなかった。

9)そんな中、とにかく震災後のブログが一巡した中、またまた再読したのがスナイダーであり、その最新の研究書ともいうべきこの「場所を生きる」だった。

10)当然のことながら、前回読んだ時よりは、グッとわかりやすくなった。最初に理解していたところを再確認しながらも、より細かく、より客観的に、この本に接することができるようになった。

11)メモすべきところは多々あるが、本筋的に大きな変化はない。ただ、三省の「野の道―宮沢賢治随想」を読んだせいもあるが、スナイダーも賢治を高く評価し、英訳しているということを知るにつけ、ここで賢治突入もありかな、と思う。とくに福島、宮城、岩手と並ぶ被災地の中で、賢治は被災地の「バイオリージョナル」を考える上でも、多いに牽引役になってくれるのではないか、と思う。

12)このスナイダー研究「場所を生きる」は、賢治に限らず、さまざまなところへと飛んでいける、まるでハブ空港のような機能を持っている。エコロジー、アメリカ文学、仏教、禅、地球文学、詩、現代史、カウンターカルチャー、持続可能な地球文化、などなど。あげれば切りがない。

13)今後、当ブログがどんな展開になるか、今のところ未定だが、迷った時には、また、スナイダーに戻ってくる、という手はまずはできた、ということになる。

<3>につづく  

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ラームプラサード 母神賛歌 長沢哲夫,山尾三省/訳

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「ラームプラサード 母神賛歌」 
長沢哲夫,山尾三省/訳 1982/04 屋久の子文庫 76p 大きさ 21cm
Vol.3 No.0350 ★★★★☆

1)三省追っかけにおいては、初期の小部数の出版物はなかなか見ることができない。この本も1982年の出版とはいえ、まだまだ三省が一部でのみ評価の高かった時代であり、そもそも出版してくれるところがなかった。

2)インドを旅した長沢哲夫がこのヒンドゥ経典を持ちかえり、一人で訳したものを見て、三省が加わり、わずか500部限定で、屋久島の兵頭さんという女性が代表する機関から出版された。兵頭さんとは、屋久島へ三省を導いた人でもあり、ひょっとするとその人の奥さんかもしれない。

3)この本は、屋久の子文庫から国会図書館に寄贈されたもの。貴重な一冊だ。こうして各地の図書館から、以前のように希少本が送られてくるところまで、図書館ネットワークは復活した。当ブログにとっても、記念すべき貴重な一冊だ。

その日はいつやってくるのだろう
ターラー ターラー ターラーと呼びながら私の両目から
涙が流れ出す その日は
その時私のハートの蓮華がいちどに開き
すべての暗闇は心を去っていくだろう
その時私は絶えずターラーの名を叫びながら
この地上をゆらゆらとゆられて行くだろう
すべての礼拝の違いや区別を棄てて
私の心の悲しみは終わりを告げるだろう
形のない女神
何百ものヴェーダの詩句を遥かに超えたお方が
私の運命となるだろう
聖なるラームプラサードは高らかに言う*
母はすべての器の内におられる
めくらよ
夜の中にあり夜を追い散らす母を見よ!
 LXV

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聖なる地球のつどいかな<2> ゲーリー スナイダー vs 山尾 三省

<1>からつづく

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「聖なる地球のつどいかな」 <2>
ゲーリー スナイダー (著), 山尾 三省 (著) 山里勝己(監修), Gary Snyder (原著) 1998/07  山と溪谷社 単行本: 287p

1)三省追っかけもほぼ終了間際となり、40数冊ある関連本をあと数冊残して読了したことになる。そろそろまとめておく必要があり、さて、三省の本から三冊選ぶとするとどれが残るだろう、と思案した。

2)今のところ

1981 『聖老人』(めるくまーる社)

1998 『聖なる地球のつどいかな』
(ゲイリー・スナイダーとの対談集/山と渓谷社)

2000 『アニミズムという希望―講演録・琉球大学の五日間』野草社)

の三冊が残ることがほぼ決定した。

3)「聖老人」は、三省本としては初期の本ではあるが、それまでの10数年の活動を包括する位置にあり、「部族宣言」や「部族の歌」、「太郎に与える詩」などが含まれており、また、屋久島への再定住というスタイルが確定した、という意味では記念碑的一冊である。

4)「アニミズムという希望」は、まだ三省自身が、自らの死を予感する前のことであったが、それでも琉球大学という場を得て、しかも一週間にわたる連続講義という形で、自らの「思想」を振り返った、ほぼ唯一の貴重な記録がまとめられている、という意味では欠かすことができない。まさに「山尾三省という希望」を感じさせる一冊である。

5)三冊目としては、やや時代は後ろにずれてはいるが、2冊の中間に位置するものとして、この「聖なる地球のつどいかな」は、これまたインパクトの強い一冊となっている。対談するのはゲーリー・スナイダーである。60年代にクロスした二人の詩人は洋の東西に分かれて30年ほど独自の活動を続けていたが、再開してみれば、なんとシンクロしていたことか、という確認作業となった。

6)もっとも、当ブログは、東日本大震災後の読書として始まったのはスナイダーのほうが先だったが、スナイダーはやや消化不良なところがあった。それで、一旦は、この「聖なる地球のつどいかな」で、三省追っかけに入り、ほとんど読み終えたところで、スナイダーに戻ってきた、という経緯がある。

7)山尾 改めておうかがいいたしますが、原子力エネルギーというものをどう思いますか?

スナイダー たいへんひどいものですよ! 人間がコントロールできないもの、特に核廃棄物はね。誰もそれをどう処理していいかわからないんですから。

山尾 人間のキャパシティーを超えてしまっていますね。

スナイダー そうです。その古代エネルギーはあまりにも古すぎて、あまりにも遠すぎて、私たちからかけ離れているものです。まるでネズミ一匹殺すのに大砲を使うようなものですよ。というのは、原子力発電所を造ってやっていることは何かと言えば、水を沸かしているだけなんですよ。そんなこと薪や石炭でできるんですよ。それだけのことなんです。過剰に高温過ぎるんですよ。熱すぎる。

 だから、いっぴきのネズミを撃つのに大砲を使うようなものだと言うんです。過剰に高温にして、その過剰な熱を取り扱わなければいけないんです。ただお湯を沸かして、スチームでタービンをまわしているだけ。それだけですよ。それで高熱と放射線が出るんですからたいへん危険なんです!

山尾 浪費ですね。

スナイダー 電気をつくるのに原子力を使うのは、あまりにも複雑で危険過ぎます。節電をして、もっと安全で効率的に電気をつくるべきです。そのほうがずっと効率的で健康的ですよ。p226「科学は美の中を歩む」

8)いずれ廃止にしなくてはいけない原発であったが、事故が起きても、なおそのリスクにしがみつかざるを得ない人間社会となりはててしまっている。警鐘は、はるか昔から鳴りっぱなしだというのに。

9)-----三省さんとゲーリーさんはグレート・スピリットが用意してあった場所を見つけたということですか。

スナイダー そう言っていいと思います。そして場所というのは地理的な意味の場所であり、また心理的な場所である、と同時に生活の場所でもあります。

-----その時に、都市も地方もないということですね。

山尾 ないですね。

-----都市も人の場所となることができますか?

スナイダー もちろん、絶対になれますよ。

山尾 シュアー(笑)。

スナイダー 街は魅力的ですからね。街が自分の場所になっている人たちをたくさん知っています。

-----例えば、街を自分の場所にしている人とは誰でしょう?

スナイダー ピーター・バーグですね。彼はサンフランシスコに住んでいて「プラネットドラム」という組織を作って、再定住の運動をしている人です。アーバン・バイオリージョナリズムの主要な哲学者のひとりですね。彼なんかはいい例です。別に地方や田舎に住む必要はない。それが私の言いたいことなんです。

-----それでは街であれ、田舎であれ、自分の場所を見つけるポイントは何でしょう。

山尾 僕の考えでは、そのポイントはその場所に深い喜びがあるかないかだと思います。

スナイダー それはひとつですね。

山尾 もうひとつは、それが有益かどうかですね。

-----誰にとってですか? 自分にとってですか?

山尾 自分にとっても社会にとってもです。

-----自分の生き方や自分が生きているということが他の人にとって有益かどうかということですか?

山尾 人間だけでなく、すべての存在にとってですね。

スナイダー そしてもうひとつには、同志がいることです。

山尾 一緒に仕事をする仲間がいれば楽しいですね。

スナイダー ようするにコミュニティーですね。街のコミュニティー、地方のコミュニテイーです。コミュニティーには祭りがありますね。田舎の祭りがあれば都市の祭りもあります。ピーター・バーグたちはサンフランシスコ市の行政と共に、毎年、鮭がゴールデン・ゲートの下に遡上してくる日を祭りにしようと頑張っています。 p184「都市における癒し」

10)どうもこの部分は二人ともあまり説得力がないなぁ。ネバダ山中のキットキットディジーや屋久島の白川谷のウィルダネスの真ん中に住んでいる二人だからこそ魅力むんむんなのに、ここは、都市にすむ人々への、リップサービスとしてしか聞こえてこない(笑)。

11)だがしかし、超辺鄙なところだけが素晴らしい、と言っているわけではない、ということは了承しよう。ピーター・バーグとは何者か、現在のところは不明だが、中都市周辺部にいて、なおかつ、地球人としてスピリチュアルに暮らしていくことは十分できるはずだ、というのが、当ブログの最初からの見込みである。

12)この本の編集をした山里勝己という人は、琉球大学の教授であり、三省の長期講義をセットした人でもある。「場所を生きる ゲ-リ-・スナイダ-の世界」(2006)も彼の本だ。この人、要チェックだな。

13)山尾 今後、人間とコンピューターとの関係がどうなるのか、非常に興味深いものがありますが、「ローン・イーグル」というのをもう少し説明していただけますか。

スナイダー 「ローン・イーグル」という名前はみんなが面白がってつけているもので、中央から離れ、独立自活した教育のある知的労働者のことをさします。そのために彼らコンピューター、インターネット、ファックス、それに加えて民間の輸送機関をいろいろ駆使します。p236「科学は美の中を歩む」

14)この辺はなんとも1997年の3月の対談なので、大幅に割り引いて受け取らなくてはならないが、当ブログでは、「第三の波プロジェクト関連リスト」で追っかけてきている、アルビン・トフラー言うところのエレクトロニック・コテッジの住人、ということになろう。スナイダーは積極的だが、三省はついぞ、この分野には近寄らなかった。

<3>につづく

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2011/07/06

新月  山尾三省第三詩集  

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「新月」―山尾三省第三詩集
山尾 三省 (著) 1991/06 くだかけ社 変形 p96
Vol.3 No.0349 ★★★☆☆

1)詩は最も内密の私信であると記したが、詩はもちろん最も内密の魂のことばでもある。教育の世界で教育が失われ、科学の世界で科学が失われ、文明社会で文明も文化も失われているように、詩の世界でも詩が失われて久しい。

 詩の道にたずさわるものとして、一行でも一句でも、真実のことばをとらえたいと願ってきた。とらえられたかどうかは覚束ないが、「新月」とタイトルして、あたらしく地球と地域の時代を生きる自らのよすがとしたつもりである。p095「あとがき」

2)実に散文的で、いささかおっちょこちょいでもある当ブログとしては、詩をじっくり味わえているかどうかは、実に、それこそ覚束ない。しかし、グッと来る時は、グッと来る。

3)今回はむしろ、巻頭にあった、くだかけ社の和田重正氏の詩を転記させていただく。

4)いのちの世界

流されて
花をみながら
月をながめて
世の中を泳がずにわたる
その時、その時を
力いっぱい生きているだけ
その時、その時の
縁にしたがって、生きているだけ

自分の手柄でもない
誰のお陰でもない
ただこうなっているだけ
誰はばかることなく
言い放つことのできる
この
いのちの世界  和田重正
   p05

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一切経山―日々の風景 山尾三省

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「一切経山」日々の風景
山尾 三省 (著) 1997/02 溪声社 単行本  212p 
vol.3 No.0348

1)屋久島から発刊されていた季刊誌「生命の島」1989夏号から1995年の春号までの6年間、20回にわたる「日々の風景」という連載記事が一冊になり、1997年に出版された。

2)当ブログにおける三省追っかけもほぼ終盤である。あと数冊めくれば、ひととおり三省を一巡してきた、と言える。一冊一冊、違った角度とは言え、三省スタイルもほぼ飲み込めた段階で、「日々の風景」も、ほぼ予想できる範囲になってきた。

3)そろそろ飛ばし読みかな、と思ったところ、トンデモない記事にぶつかった。1991年12月の「スピリット・オブ・プレイス」シンポジウムに三省が参加した時の記事がようやく見つかったのだ。心密かに期待してはいたのだが、もう追っかけの残りも少なくなったところで、この記事を読むことができたのは本当にうれしい。

4)この本においては、三省は自分のことを「あなた」と、三人称を用いて語り続けている。これは先年亡くなった先妻の順子さんの視点を借りているのかもしれない。その後、あたらしく春美さんと出会い、子どもたちも得て、新しい生活が始まる風景が、いつもの三省の文章で語られる。

5)ああ、三省は人生におけるおおきな出来事があった、このような時期に、あのシンポジウムに参加してくれていたのだな、とあらためて感謝した。感謝ついでに、関係ありそうな部分を、長文だが、全部転記しておこう。なお「一切経山」は福島県の磐梯山系に実在する山の名前である。

6)宮城県の仙台市で、「スピリット・オブ・プレイス仙台」と称する国際シンポジウムが、(1992年)11月25日から27日までの3日間に亘って開かれた。

 「スピリット・オブ・プレイス仙台」とは、仙台というひとつの巨きな都市をその内にはらむ地霊ということであり、これからの都市文明、地域文明というものを考えてゆく上で欠かしてはならない視点であるから、いたる処シンポジウムばやりの世の中ではあるが、あなた(三省)のそれへの関心は当然深いものがあった。

 このシンポジウムでは、「ネイティブ・スピリット(地霊)」、「自発的簡素」、「癒し(ヒーリング)」、「ハーモニック・デザイン」、「フラクタル・コスモロジー」、「ネイチャリング」、「エコビジネス」、「有機的社会システム」、「自然(じねん)」の、合計9つの分科会が持たれた。横文字ばかりが並ぶ中で、あなた(三省)がゲストスピーカーとして招かれたのは「自然(じねん)」という日本語の分科会であった。

 9つに分かれた分科会に共通のテーマは自然であり、自然地球、自然宇宙そのものであった。自然を利用し、自然を征服し、自然を着用し、自然を略奪し、自然を開発し、自然を滅ぼす、という方向での今世紀の文明が行き詰まり、このままの方向ではこれ以上前へ進むことが出来ないことが多くの人々に理解されてきた今、それではどういう方向へこの文明を向け変えればよいのか。

 そのためには私たち一人一人がどういう哲学なり生活観を持てばよいのか、が問われることになる。シンポジウムの共通のテーマが、新しい自然観つまり生活観を見つけ出して行くことに帰するのは当然のことであった。

 シンポジウムは、愛知和男環境庁長官を特別顧問とし、本間俊太郎宮城県知事及び石井亨仙台市長を名誉会長として、場所も最近完成したばかりだという仙台国際センターを会場とする大がかりなものであったが、その中で特別にあなた(三省)の注目を引いたゲストスピーカーが二人あった。

 一人は、ケン・クーパーという名のアメリカインディアンである。彼はルミ族という部族の出身で、インディアン名をチャ・ダス・スカ・ダムというのだが、大変に太った力士のような体格の人物であった。背広姿の教授たちや専門家のスピーカーが多い中で、彼だけはよれよれのジーンズにTシャツ、首にはヒンドゥ文字の描かれた長い木綿布を巻きつけていた。

 持ち歩いている長い竪笛を吹く時などには、Tシャツからはみ出した太鼓腹が揺れるのが見えたりするが、少し尺八に似たその笛の音が非常に深く美しい地霊的な響きを出すので、誰にもそんな服装のことなど忘れさせてしまう人であった。ケン・クーパーは、笛に加えて持参している太鼓で、始終そのシンポジウムに活き活きとしたネイティブ・スピリット、地霊の息吹を醸しだして、シンポジウムそのものをリードしていた。

 もう一人は、北海道の二風谷(にぶだに)という所から参加したアイヌ民族の代表である山道康子さんであった。山道さんは、自身一人のシャーマンでもあるそうだが、和人(シャモ・日本人)たちから略奪され、虐殺されてきたアイヌ民族の人々の歴史を話された。<線路の枕木のように>、奪われた土地にアイヌの死体が横たわっているのだ、という表現で、この日本国家を含む文明の総体の在り方を、強く批判された。

 一方では<この化け物(モンスター)のような国際センターの会場に私が入ってくる時、私がどんなに恐ろしさを感じたか、おどおどしたか>という表現で、自然民族であるアイヌ人の感性を率直に伝えてもくださった。

 「フラクタル・コスモロジー」という分科会は、私たちの内なる宇宙という意味の分科会である。宇宙は無限に広がっており、私たちはその宇宙の中に包まれて存在しているのではあるが、同時に、この私たち一人一人が自分の内に宇宙を包み、全宇宙を自分の内に宿しているのだ、という自然観に立つことをフラクタル・コスモロジーと呼ぶ。

 あなた(三省)は、他のいくつかの興味のある分科会と同様にその分科会にも参加したのだが、そこでちょっとした出来事が起こった。ゲストスピーカーの一人である上田紀行君という若い文化人類学者が先導して、会場の参加者全員と共に簡単な瞑想(ゲーム)状態に入ったのである。

 集団でおこなう瞑想(ゲーム)というのは、一定の教団なりカルトなり指導者なりが、一定の意図のもとにそれを行う場合には、その意図をよく理解した上で、心してとりかかった方がよいのであるが、上田君の場合は文化人類学を専攻する信頼できる学者であり、教団的なもくろみがあるはずもないので、あなた(三省)も素直にゲームとしてそれに参加し、どういうことがこれから起こるか、それを楽しんでみようと思ったわけである。

  「腰かけたまま肩の力を脱いて眼を閉じ、しばらくの間静かに呼吸を整える。それから、眼をとじたままで自分の体を、自分が今一番好きな場所へと想像の中で移してください。自分の家でもいいし、旅をして行った場所でもいいし、故郷でもいいし、想像の中の場所でもいい、自分の今一番好きな場所にいる自分を想像してください」

 言われるままに好きな場所を探してゆくと、あなた(三省)の場合は、そこは屋久島の永田という集落の田舎浜と呼ばれる大きな砂浜のはしの、松林のそばであった。よく晴れた風のない日で、海は広々と展け、砂浜は暖かく黄ばんだ白色に輝いていた。ああここが今自分が一番好きな場所なのだな、と思いつつ、ひとりでその海を眺めていると、上田君の声がかかった。

 「そこに、あなたの一番好きな人を呼んでください」

 その声に誘われてあなた(三省)が妻を呼ぶと、妻は2歳になった海ちゃんと7ヵ月になったすみれちゃんを連れて、すでにそこに来ているのであった。道人(みちと)と裸我(らーが)は学校に行っているからと思ったが、想像の中だからやはり二人も呼んで、そこで皆でいっしょにお弁当を食べはじめた。

 もう初冬なのに、ぽかぽかと暖かい陽が照り、海は澄んで青く、砂浜では黒雲母のかけらがきらきらきらきらと、微細な光を反射していた。

 「生きている人だけではなく、死んだ人でもいいです」

 その声で、あなた(三省)はすぐに4年前に亡くした妻を思い浮かべたが、現在の妻を前にして亡き妻をそこに呼ぶことにはためらいがあり、呼ぶことをやめた。呼ぶことはやめたが、その時深い悲しみが湧きおこり、胸から上がって眼から涙となってこぼれおちた。

 「好きな人たちをたくさん呼んでください」

 涙は乾かないままに、あなた(三省)は好きな人たちを次々と田舎浜のその松林のかたわらに呼んだ。死んだ父や祖父母たち、生きている母、成人して都会に出てしまった4人の息子たち、弟や妹たち、あなた(三省)が住んでいる白川(しらこ)山の11世帯の隣人たち、親しい屋久島の友人たち、日本の各地に住んでいる多くの友人たち、世界の各地に住む友人やまたその友人たち。

 広い永田の浜はたちまち数千数万の人々で埋まり、人々はそれぞれに輪を作って、そこでお弁当を食べたり海を見たり、歌を歌ったりしているのであった。その中のひとりに、亡き妻である人もまたいつのまにか交じっていた。

 11月29日に島に戻ると、あなた(三省)は早速に、妻にその時のことを話し伝えた。亡き妻を呼ぼうとして呼ばず、涙がこぼれたことは伝えなかったが、自分がその時一番好きであった場所が思いもかけずに永田の田舎浜であったこと、そしてそこに最初に彼女を呼んだことを伝えた。

 思いもかけずというのは、あなたが今一番好きな場所というのは、どこと正確に指摘はできないとしても、海辺ではなくて山の中であり、自宅の近くの谷川のほとりのどこかであると、自分では思いこんでいたからである。

 自分の未来は、谷川が流れ下って行く先の海ではなく、谷川が流れ下ってくる水元(みなもと)の山にある、と、あなた(三省)は前に記した。そのことに偽りはないのであるが、ここから遠く離れた仙台市の国際センターという会場にあっては、一番好きな場所は、従って未来は、不意に海として展らかれていたのである。

 12月2日に、そこであなた(三省)たちはお弁当をこしらえて、実際にその田舎浜の松林のほとりへと行った。家のある白川山のあたりは、山なので空には少し雲がかかっていたが、田舎浜に着くと快晴で、瞑想(ゲーム)した時とそっくり同じに風はなく、海は青々と静かにそこに広がっていた。4キロほどもあるだろう広い砂浜には、何かの工事をしているらしい人影が2つあるだけで、見渡す限り無人であった。

 瞑想の世界では、そこで6人でお弁当を食べたのだが、その日は道人は学校でおらず、娘は大学の推せん試験を受けるために東京に行ってしまっておらず、4人だけで食べることになった。海を眺めながら、ビニールシートの上の重箱のお弁当を食べていると、沖合から一艚の漁船が真っ直ぐにあなた(三省)たちの方へ近づいてきた。

 「お船が迎えに来るよ」

 そこらは漁場ではなく、むろん港でもないので、漁船が来るとは思えなかったが、あまりその船が真っ直ぐにあなた(三省)達の方へ向かってくるので、あなた(三省)は半ば冗談で海ちゃんに声をかけた。

 けれども船は、本当に眼の前までやってきて、今にも渚に乗り上げそうな所まで来てエンジンを止めた。漁をする様子など全くない。4、5人の男が乗っていて、しきりに海の中をのぞき込んでいるのだった。その内ウェットスーツを着込んだ一人が海に入ってきた。

 「ヴェトナム難民かな」

 少し気味悪くなった妻に言ってみたが、そういうことでもなさそうであった。しばらくすると、海に入った男は船に戻り、男が戻ると船は錨を上げエンジンをかけて、再び沖合へと走り去って行った。

 どうにも意図の分からない船であった。

 「何だろうね、おかしな船だったね」

 と言い合っていると、今度は左手の永田港の方から、前の船よりはるかに大きい、2、3百トン級の貨物船が、後に小舟を引きつれてやってきた。

 「またお迎えの船がきたよ」

 冗談を言っていると、その貨物船がまたもやあなた(三省)たちの目前でエンジンを止め、錨を下してしまったのだった。前の漁船よりずっと沖ではあったが、眼の前真っ直ぐの位置であるのは同じであった。後ろからついてきた小舟が、貨物船の周囲を旋回しはじめ、貨物船からアルミのハシゴが海へ向けておろされた。ハシゴを伝って一人の男がやはり海に入ってきたのだった。

 「何かの調査かもね」

 と言い合いながら、あなた(三省)達は妙に不安になり、落ちついてお弁当を食べることができなかった。けれども、やがてすぐにその男はハシゴを使って船に戻り、ハシゴが引き上げられると、船はエンジンをかけ、ぐるりと向きを変えて、やってきた永田港の方へ引き返して行った。

 船の姿が見えなくなると、港にはふたたび無人の静かさが戻ってきて、太陽はあふれるほどの光をそこに降りそそいでくれた。海は真っ青で、沖合いにもどこにももう船影はなかった。仙台の会議場でみた風景が本当なのか、今そこで見ている光景が瞑想なのか、判断しかねるような気持ちにあなたはなっていた。

 その時海ちゃんが、食べていたリンゴのひとかけらを砂の上に落とした。砂まみれになったリンゴを、そのまま捨ててしまおうかと思ったが、それはいけないことだと思い直して、拾いあげるとあなた(三省)は渚へと砂浜を下って行った。潮だまりのない砂浜の渚でリンゴを洗うためには、ずぼんを濡らさなくてはならなかった。

 渚ちかくは、松林のかたわらに比べて二倍ほども明るく、あなた(三省)は海の光にどっと巻き込まれる自分を感じていた。寄せてきた波でリンゴの砂で洗い流すと、あなたはその半分を食べた。懐かしい海の味が口の中にあった。残り半分を、砂浜を降りてきた妻に渡した。

 「海の味がするよ」

 あなた(三省)が今世界中で一番好きな場所は、やはり永田の田舎浜の松林のほとりであり、そこで新しい家族においてお弁当を食べることであった。p102~110「海の味」 (三省)と記したところは引用者注

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日月燈明如来の贈りもの 仏教再生のために 山尾三省

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「日月燈明如来の贈りもの」 仏教再生のために
山尾三省 2001/11 水書坊 単行本 205p
Vol.3 No.0347★★★★☆

1)「日月燈明如来の贈りもの--仏教再生のために--」と題して癌を病む私の最後となるやもしれぬ本書を、上梓することになった。p1「まえがき」

2)と、巻頭に三省自身が記したのは2001年8月7日である。屋久島で亡くなるちょうど3週間前のことであった。

3)本の出来方としては、『法華経の森を歩く』(1998)、『観音経の森を歩く』2005)につづく、仏教経典シリーズの深化のはずだった。本書の当初においては、その意欲が見えるのであるが、本書も3分の2ほど進んだ(123p)あたりで、告知がでてくる。

4)11月上旬のある日、どうにも胃が重いので島の診療所で胃カメラを飲んだところ、すでに5センチ以上に肥大しているガンが見つかった。
 即、手術の要ありというので翌日鹿児島市へ飛び、友人でもある総合医学の立場に立つ堂園氏に精密検査をしてもらうと、ガンはすでに大動脈周囲のリンパ節にまで進行移転していて、手術は極めて困難であるとのこと。
p123「ガンという贈りもの」

5)堂園氏とは「春夏秋冬 いのちを語る」(2008)を編集し、本文の中で対談を務めている堂園晴彦医師のことである。

6)あとがきの「森を照らす日月燈明如来---山尾三省氏追悼」は、 『瑠璃の森に棲む鳥について』(2001)、 『水晶の森に立つ樹について』(2001)で、三省との二冊の対談集を出している立松和平である。

7)子供達がすべて眠りについてしまい、成人した息子も自分の家に帰ってしまうと、妻とぼくは二人きりになり、一日の最後の治療に取りかかった。
 眉間にしわを寄せて苦しみ暮らすのも一日暮らしなら、その包囲網をちょっとだけ打ち破って暮らすのもまた一日暮らしの特徴である。もうこだわることは何も残されてはいないのだから。
p197「一日暮らし」

8)この本では、この部分が絶筆となっている。この時点ではすでに「死の床に横たわり、奥さんに口述筆記してもらい、書き留められた原稿を重い手を動かして推敲した」(中松和平p200)という状況であったであろう。

9)私自身も死のベッドに横たわったこともあるし、周囲の者たちをすでに何人か送ってやった。死はいずれの人間にも皆平等に訪れるものではあるとは言え、その厳粛さには、ひとつひとつ頭を垂れて、受け入れていくしかない。

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2011/07/05

親和力―暮らしの中で学ぶ真実 山尾 三省

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「親和力」 ―暮らしの中で学ぶ真実
山尾 三省 (著) 2000/09  くだかけ社 大型本 108p
Vol.3 No.0346 ★★★★☆

1)

『約束の窓』 私家版(絶版) 1975年

『びろう葉帽子の下で』 野草社 1987年

『新月』 くだかけ社 1991年

『森の家から』 草光舎 1995年

『三光鳥』 くだかけ社 1996年

につづく、僕の六冊目の詩集であり、20世紀の最後の都市に出すことができた詩集ということになります。
p107「あとがき」

2)加えておけば

『親和力』 くだかけ社 2000年 

『祈り』 野草社 2002年

『山の時間海の時間』
 (山尾春美と共著) 無明舎 2009年

で、全8冊の三省詩集となるだろうか。

3)ここまで三省を追っかけてきて、詩人・山尾三省であってみれば、詩集をこそ最優先して読むべきであったかもしれないが、図書館ネットワーク等で入手しやすいところから読み進めたので、結果的に詩集の大半が最後に残ることになってしまった。

4)もっとも、三省の本で詩が入っていない本などなく、長くわが手元にある『びろう葉帽子の下で』なども、決して詩だけが詰まった「詩集」とは認識していない自分がいた。『約束の窓』は自費出版の300部限定の詩集であり、半年ほどまえにはネットオークションにでていたようだが、貴重な資料という意味で、2万円の値がついていた。これは今回追っかけることができなかった。

5)それ以外は、今回、すべて目を通すことができるようだ。ここには月刊「くだかけ」1995年12月号~2000年の8.9合併号の約5年間にわたる47編の詩が収められている。 

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コヨーテ老人とともに アメリカインディアンの旅物語 ジェイム・デ アングロ / 山尾 三省

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「コヨーテ老人とともに」アメリカインディアンの旅物語 (世界傑作童話シリーズ)
ジェイム・デ アングロ (著), 山尾 三省 (翻訳) 1992/06 福音館書店 単行本 403p
Vol.3 No.0345★★★☆☆

1)1953年に英文の原著がでて、1970年頃に三省がアメリカ大使館から借りて読み、1992年になって、三省の手によって訳出された一冊。

2)三省追っかけの中で出会った本だが、これはむしろ、福音館書店の世界傑作童話シリーズの中の一冊として読むべき本であろう。

3)文中に、実在する地名としてのシャスタ山がたびたびでてくるのが、興味深い。

4)文章とともに、たくさん挟まれているジェイム・デ アングロの、線画がなんともいい。的確にしてスッキリ。この線画があったればこそのこの童話あり。

5)三省関連リストの中には、翻訳モノは4冊しかなく、他の3冊はインド関連であってみれば、「アメリカ嫌い」の三省が訳出したネイティブアメリカンの唯一の本となる。「友人」宮内勝典にエールを送る意味でも「リトル・トリ―」に触れることの多い三省だが、当ブログが現在まで感知したところ、アメリカに渡ったのはゲーリー・スナイダーとの対談の時の一回しかない。

6)このお話は作者のジェイム・デ アングロの創作ではあるが、動物や植物たちを見る目が、まさに三省が晩年に強調した「アニミズム」に通じるものがある。この本をすでに1970年頃から英文で読んで感動した三省には、もともとこのような「源郷」があったのだろう。

7)「わぁ、知ってる。自分の子どもたちをみんな死なせてしまって、シャスタ山で狩りをしているあのオソロシトカゲ、でしょ。子どもをみんな亡くしたせいで、陰気で獰猛な人になってしまったんだわ。父さんがその物語をしてくれたことがある」p147

8)「母さん、おれはシャスタ山で狩りをしてたんだ。母さんが呼んでいるのを聞いて、すぐにそのまま来たんだぜ」p153

9)そして東の方のはるかかなたに、シャスタ山が見えてきました。それは、ひとつだけ独立してそそり立った美しい山でした。非常に高く、頂は雪におおわれていました。p231

10)鹿の腱の長いひもをよじって、その一方を自分の腰おびに結び、もう一方をシャスタ山に結びつけておいて、トカゲのところへもどっていった。p320

11)なぜか気になるシャスタ山。カリフォルニアのインディアン(ネイティブ・アメリカン)について語ったということだから、シャスタ山がでてくることは当然のことなのか。

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2011/07/04

春夏秋冬 いのちを語る 山尾 三省

春夏秋冬 いのちを語る
「春夏秋冬 いのちを語る」 
山尾 三省 (著), 堂園 晴彦 (編集) 2008/7 南方新社 単行本(ソフトカバー): 162p
Vol.3 No.0344 ★★★☆☆

1)語られたのは春(1999/04)、夏(1999/07)、秋(1999/10)、冬(2000/01)だが、出版されたのは2008年になってから。

2)鹿児島にある堂園メディカルハウスというホスピスケアの施設内における4回シリーズの講演の収録となっている。聞き手の堂園医師は若い時に、寺山修司の天井桟敷に在籍して薫陶を受けたということである。

3)すでに胃が重かった三省であろうが、ガン告知前であった。しかし、最後の三カ月前までは、堂園医師が主治医であったということだから、まさに最期の三省の雰囲気を味わうには、この本をおいてない、というほど貴重な一冊であろう。

4)ここには、ロングヘアーとか再定住とか、あるいは、屋久杉や原発などの単語は登場せず、ひたすら「死」と向き合う三省や周囲の人々の息遣いが聞こえる。

5)その実体があるから、今まで薬師という一つの如来が、わたしたちに病を癒してくれる仏陀として伝えられてきたと思うんです。如来というのは「如し」と「来る」、「来ている如し」、そういうものなんですね。もとの言葉はインドの「タターガタ」というもので、「タター」は「ここに」、「ガタ―」は「来る」という意味なんですよ。p15「春 1999年4月」

6)わたし達の特徴は「意識を持っている」ということなんですよね。この意識が、死を恐怖しているわけですね。その意識の源は水素にある、逆にいえば、水素が意識を持っていたに違いないんですね。水素は意識の源ということになる。と、生命と非生命、生物と非生物の境目は融けていくんですよね。だって生命からしか生命は生まれないんですけれども、生命の源は非生物だったからです。非生物からしか生命は生まれてこなかった。そうすると、生命と非生命の境目は必ず融けてくるんですね。p58「夏 1999年7月」

7)水という非生命体から生命体が生み出されてきた、何かの作用によって。今、その原因を必死になって生命科学者たちが探って、9分9厘までわかってきたみたいですけれど、最期の1厘がわからない。けれど水と太陽の光から生命が生まれてきた、というのは確かです。p90「秋 1999年10月」

8)最終的な癒しは大地、天地からくると思います。そこ以外に、われわれ全生物は行く場所はないんですよね。天地から最終的な癒しがくるし、最終的な滅亡もおそらく天地からくるんでしょう。p156「冬 2000年1月」

9)最近になっても、こういう形で三省本が出版されるということは、いかに多くの人々に三省が愛されていたか、という証左であろう。ひとりひとりの三省像があり、その総体がまた三省という人物、ということになるだろう。

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観音経の森を歩く 山尾三省

観音経の森を歩く
「観音経の森を歩く」 
山尾三省 2005/08 野草社/新泉社 単行本 237p
Vol.3 No.0343 ★★★★★

1)月刊「KARNA」に1999/02~2001/4に掲載された記事が一冊にまとめられたもの。2001年8月に亡くなった三省にとってみれば、絶筆とまではいかないまでも、最晩年のシリーズということになる。

2)観音経は法華経の中にあり、当然、この本は「法華経の森を歩く」(1999/04)の続編という位置にある。

3)観世音菩薩の性質は、こう在りたい、ああ在りたいという私たちのポジティブな願いをかなえてくれる菩薩よりは、私たちが苦難に陥った時にこそ救いの手を差しのべてくれる菩薩であることが、よく分かる。p63「抜苦」

4)晩年にガンという病を得た三省であったが、まさにこの本に書かれた期間がその時期だったはずなので、最初は、この分はそれを踏まえて(それを隠して)書かれているのかと思っていたが、そうではなかった。

5)この本の終盤部に至った207p「マリア観音---与えられた二つの実証」において、三省自身に下される「ガン告知」が語られる。通常人であれば、それを常に書き留め、ましてや月刊誌に投稿するということはなかなかできるものではないが、われらが詩人は、自らの肉体や精神を、正直に素直に書きとめつづけることにいささかのケレンミもない。

6)チベット密教の根源仏のひとつが観世音菩薩であり、オン・マニ・パドメ・フーンという真言がチベットにおいて最もポピュラーな観音讃仰の言葉であることは、最近はずいぶん日本でも知られてきたが、チベットでなぜそうなったかといえば、この仏格の根本の働きが、「抜苦与楽」、という悲願の一事にあるからにほかならないと、私は推測する。p95「普門示現」

7)本書においては、多く観音経の経文が引用され、また、三省独覚の理解が述べられる。ロングヘアーから再定住者へ、そして2001年に亡くなっていく存在であってみれば、その最後の姿は、一人の修行者、一人のまったき人間の、問いかけ、問い詰めた、最後の述懐に近い濃縮された宗教観が語られる。

オン・ニ・パドメ・フーン

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2011/07/03

法華経の森を歩く 山尾三省

【送料無料】法華経の森を歩く
「法華経の森を歩く」
山尾三省 1999/04 水書坊 単行本 285p
Vol.3 No.0342

1)本がでたのが、1999年4月で、麻原集団事件についても書かれているから、1995年以降ということになるが、その中の二年間の間に「ナーム」という月刊誌に連載されたものが、連載終了後に一冊にまとめられた。順当に考えれば96~98年の間のいずれかの期間に書かれた、ということになるだろう。

2)月刊「ナーム」は水書房というところからでている。

3)私たちの時代は、地上の全生物を十度全滅させても余るほどの核兵器を所有している時代であり、同様の邪悪なプルトニウムを日々刻々と算出しつづけている幾百機の原発におって、電気という火を入手している時代である。

 一見して火宅の喩えとは逆に、無心に遊んでいる私達子供である庶民が、この火は危険だ、この火は私達の家である地球を滅ぼす、と声をあげても、国家およぶ一部の科学者や経営者である長者達は、よく管理してあるから大丈夫だと強言しつづけるのみだ。

 小指の先ほその量で10万人が死に、しかもその毒性の半減期が2万年というプルトニウムが、原発を通して日本のみならず世界のあちこちで日々に排出蓄積されている事実こそが、現代の最大の火宅性である。

 けれどもこの火宅性も、もとをただせば私達自身にその原因がある。私達の社会が原発を持ったのは、それを意図した巨大な悪人が存在したからではなく、私達一人一人の言うに言われぬ微細な無明の集積として、その結果としてあのようなものが構築、システム化されてしまったのである。

 それゆえに逆に、原発及び核兵器という私達の時代の最大の火宅性は、私達一人一人がその無明に気づき、無明を乗り越えてゆくことを通して消滅させてゆくことができる。p44「この三界の火宅において」

4)三省、しかも法華経、とくれば、これは日本山妙法寺であり、藤井日達上人の話がでてくることを期待せざるを得ないのであるが、この本においては、そのあたりをグッと抑えて、ひたすら経典としての法華経読みが続く。

5)法華経については、他にもいくつか読んだが、これだけ三省から法華経をたたきこまれると、やたらとリアリティがあり、説得力があるので、こちらとしても「逃げ場」を失い、ひたすら、いまある自分の中に、どれだけの真実味があるのかを、再確認せざるを得なくなる。

6)細かい字句や経典の出典をメモするほどではないが、ここにおいて、当ブログが長いこと追っかけてきた「アガルタ」や「やってくる人々」などは、一気に「アガータ」=「タターガタ」、「やってくる人々」=「如来」と、ほとんど短絡的に同義と決めつけてしまいたくなるほどの、つよいエネルギーを感じる。多分、これはこれでいいのだろう。

7)自我ではなく自覚(ブッディ)、流行ではなく法(ダルマ)、群衆ではなく共同性(サンガ)。
 仏(ブッダ)・法(ダルマ)・僧(サンガ)の三宝を尊ぶということが、天人常充満ということの内実であり、この世紀末の劫火を乗り越えてゆくうえでも、欠かすことのできない視野であると考えるのである。
p200「法華経の森を歩く」

8)私の個人的な法華経観は「湧き出ずるロータス・スートラ」に断片的にメモしておいた。もちろん、それで足るということではなくて、それを生きていかなければならない。しかしながら、基本的な姿勢は変わらない。

9)仏滅後五五百年の、2500年後、つまり、21世紀の今日こそが、ブッタの法輪が一サイクルする時代であり、新たなるいのちがその法輪に吹き込まれなくてはならない。

10)この「法華経の森を歩く」は、タイトルからしても「観音経の森を歩く」(2005)と対をなす部分もあるだろう。あるいは、「日月燈明如来の贈りもの ― 仏教再生のために」(2001)も続けて読み込む必要があるだろう。

11)南無妙法蓮華経は、日蓮聖人があったればこそのマントラであり、また、個人的には、日本山妙法寺の藤井日達上人があったればこその仏縁である。そしてまた、山尾三省が法華経を語る場にあってこそ、この時の意味なのであろう。

12)私達の生死のありようは、場という事実を離れてはありえない。私達は、家庭という場に在り、職場という場にあり、地域という場、いましばらくは国家という場、この惑星という場、銀河系という場に到るまでの大小のすべての場の内に在ることを宿命としているのであり、場とはすなわち私達自身のありようそのものですらある。p242「ひとつの終り」

13)南無妙法蓮華経  合掌

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アニミズムという希望 講演録・琉球大学の五日間  山尾三省

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「アニミズムという希望」 講演録・琉球大学の五日間
山尾三省 2000/09 野草社/新泉社 単行本 397p
Vol.3 No.0341

1)1999年12~16日の5日間に、琉球大学で行われた集中講義の記録。この講義の段取りをしたのは三省とゲーリー・スナイダーとの対談「聖なる地球のつどいかな」(1998)を企画した山里勝己・琉球大学文学部教授。

2)発行時期から考えれば、 「カミを詠んだ一茶の俳句 希望としてのアニミズム」』(2000)、「リグ・ヴェーダの智慧 アニミズムの深化のために」(2001)と並ぶ、三省アニミズム三部作としてこの「アニミズムという希望」が存在している。

3)アニミズムという呼び方ではあるが、この本は、むしろ「山尾三省という希望」というタイトルにしてもおかしくないような内容である。もちろん、三省はそういうタイトルにはしないけれども、東日本大震災の後、長く閉鎖されていた地域の図書館がようやく復活し、まずはとにかく読んでみようと取りかかったのが三省であってみれば、当ブログにおいては、一筋の「希望」を、その三省の詩や人生に求めようとしたのは事実である。

4)40数冊ある三省の著書のリストのうち、すでに30冊以上を手にとってめくってきた。残るのは10冊程度のところであるが、こうしてほぼ全巻を取り寄せて読める体制が復活した、ということに、まずは図書館スタッフをはじめ、関係者たちへ心から感謝したい。

5)「島の日々」以来、野草社から出るのは9年ぶりということだから、この野草社空白の90年代というのも三省においては、なんらかの意味があるかもしれない。

6)一日に90分を3コマ、4時間半ずつ5日間という集中講義だから、かなりの分量である。ましてや具体的な学生達4~70人ほどを目の前にして、三省が自らを語りつくすのだから、圧巻である。この一冊で三省を「読んだ」ということにはならないにせよ、この一冊を読んだだけで、三省を「知っている」と言うことは可能だろう。

7)『聖なる地球のつどいかな』(1998)(スナイダー・三省の対談)、『場所を生きる』山里勝己 (2006年) (ゲ-リ-・スナイダ-の世界)、と並んで、再びこの三省アニミズム三部作を関連で再読することも面白かろう。

8)現在原発の廃棄物として出てくるプルトニウムの毒性は、それが半減するだけで2万4千年という時間がかかるわけですね。半減するだけですよ。そういうものをぼく達は、今日常的につくりだしているわけですね。ですから少なくとも2万4千年先まで、プルトニウムの毒性が全部消えるのはその100倍の240万年先だとすると、少なくともその時までぼく達の責任があるんですね。

 今ぼく達がここにいて、沖縄には原発はありませんから沖縄の人達は原発の責任なんかないよと言われるかもしれませんけれども、それは確かにそうですけれども、文明全体の担い手として、一人一人のぼく達は全部プルトニウムに責任があります。

 文明全体となれば原発だけじゃなくて、あらゆる種類の科学的毒性物をこの地球にぼく達は毎日排出しながら暮らしておりますね。その象徴が半減するだけで2万4千年という気の遠くなるような時間を必要とするプルトニウムなんですね。何としても原発は、今止めたほうがいいですよね。

 そういうことを含めて清らかな水を保つ。もう汚れてしまっているのが事実であるなら、それを再生していくという方向にこれからは向かっていく時代なんだと思います。p229「水というカミ」

9)地震が来ても大丈夫か、という問題ではない。原発自体が悪である。腰の低い三省は、自ら否定する物事に対しても、普段はゆるく逃げ道を作っておくのが常だが、原発は、三省にとっての「絶対悪」だ。

10)しかし、反原発の基礎となる思想的体系がなかなか一致していないことが多いのだが、三省は敢えて、ここで、ズバリと「アニミズム」称揚の提言をする。子供を守る、原発を減らす、というだけ問題ではなく、人間が人間として、この地球上に生きていくためには、いわゆる三省いうところの「アニミズム」的視点が絶対に必要なのである。

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2011/07/02

水晶の森に立つ樹について 宗教性の恢復 山尾三省/立松和平

【送料無料】水晶の森に立つ樹について
「水晶の森に立つ樹について」 宗教性の恢復
山尾三省/立松和平 2001/05 文芸社 単行本 240p
Vol.3 No.0340 ★★★★☆

1)「瑠璃の森に棲む鳥について」に続く対談集の2冊目。1冊目が屋久島で、2冊目は東京で行われた対談をまとめたもの。質的に一個の対談と考え、一連なりのものとして読むことができる。

2)「瑠璃の森」が屋久島で、「水晶の森」が東京、と読めないこともないが、ちょっと美化しすぎ。「棲む鳥」と「立つ樹」も、表現としては面白いが、必ずしも、現地に即した表現とは言い難い。

3)この本も荒川じんぺいが装丁を担当しており、田中一村の絵がデザイン処理されているが、立松側から見ればどうなのか定かではないが、今回の三省追っかけ読書の中からみると、必ずしもベストな表紙ではない。

4)立松 ・・・言葉を使う人間というのは、ぼくは米を作る人間に劣っているとは思わない。「ブッダのことば」のバーラドヴァージャじゃないけれども、心田を耕すというか、見える米はできないかもしれないけれども、貴重な仕事だと思うんです。p30

5)際限なく宗教性を語り、際限なく宗教性に降りていこうとする二人ではあるが、言葉を語っている間は、ついにはたどりつけないポイントというものがある。とくに、個人的には、まだ立松のものをまったく読んでいない段階での判断だが、どうも言葉が上滑りすると思う。

6)片や詩人であり、片や作家であり、言葉の使い手達であることに変わりはないが、なぜにそこまで言葉にこだわるか、という疑問も湧く。

7)若くして、インドを旅し、日本山妙法寺などに世話になったという二人ではあり、(そして私にもその経験があるが)、なかなか個性豊かなぶつかり合いで、丁々発止のやりとりはなかなかのものだ。

8)しかし、三省追っかけの中で感じる「カウンターパンチ」あるいは「反逆性」が、立松においてはかなり薄まっている。体制容認、伝統社会の迎合、とさえ感じてしまう時がある。語られている内容はともかくとして、ではなぜにそのことをこの人から聞かなければならないのか、というところが分からなくなる。

9)立松は、知床になにかの御堂をつくり、15年ほど通っているようだが、対応として考えてみれば、屋久島の三省と、好対照となり得るかもしれない。しかし、その「俗」性は、三省の「聖」性と、うまく対比されているとは言い難い。

10)この二冊の対談集、読み出しは面白いし、中ごろまでは一気に読むのだが、後半は飛ばし読みになる。コンテナ、コンテンツまでは語られているが、コンシャスネスにおいては、言葉を超えた言葉としては十分表現されていないようだ。

11)仏教用語や人脈が多く語られ過ぎ、シンボルにエネルギーを取られてしまうため、その意味のエネルギーが低下している。

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2011/07/01

リグ・ヴェーダの智慧 アニミズムの深化のために 山尾三省

リグ・ヴェーダの智慧
「リグ・ヴェーダの智慧」 アニミズムの深化のために
山尾三省 2001/07 野草社/新泉社 単行本 317p
Vol.3 No.0339

1)本書は「天竺南蛮情報」1994年2月号~1999年12月号に連載されたものを一冊にまとめたものである。単行本としては、「屋久島のウパニシャッド」(1995)の続編にあたる。発行されたのは2001/07で、生前の三省は同年3月に「あとがき」を書いている。

2)私がアニミズムとしてリグ・ヴェーダをとらえ、アニミズムをほかならぬ現代思想の核としてとらえるのは、それが自然現象の普遍の知にほかならないからである。自然現象の知がそのまま人間というものの究極知に重なる処に、アニミズムの時代と地域を超えた普遍性がある。p33「自然現象という叡智」

3)腰の低い三省は、決して真っ向から科学を否定するようなことはしない(できない)が、個人的なライフスタイルでは、科学技術の最後尾をいやいや採用する、という程度のことである。

4)もし科学技術をまったく受け入れないアニミズム的世界観が成立するとすれば、それはごくごく一部の地域の認識に留まり、世界思想や現代思想とはならない。

5)地球市民という言葉が真に成立するためには、その前提として地球の全体が大小の差はあれ都市化し、全人類が都市の住民であることが必要であろう。地球上が都市におおわれた時、地球市民という言葉が真に成立するのだとすれば、それはおそらく地球市民の破滅であり、人類の終わりとなるほかはないだろう。

 同様に、地球村人という言葉が普遍性を持つためには、都市は消滅せねばならず、<地球>という認識を可能にしたテクノロジー自体も論理的には終滅してゆくことになる。

 私自身は、自分を地球村人という場におくけれども、それは地球市民という光を否定することでは少しもない。両者は、これまではどちらかといえば反目しあっていたのだが、<地球>という認識そのものがその反目の無意味性を告げている以上、村人は市民を包み、市民は村人を包み、共通の眼に見える地球というカミを祀ってゆくことが今の課題であり、これからの課題でもあるのだと思う。

 そこで自分をも含めた地球市民に提案することは、地球上のすべての河の水を飲める水に、特にすべての都市の川の水を飲める水にと、本気で願うことをはじめよう。p85「大河の神サラスヴァティー」

6)当ブログも、自らのタイトルをつける上で、あちこちを逡巡したが、「地球市民」も「地球村人」も採用しなかった。当ブログが採用したのは「地球人」である。そして、三省が「カミ」と言い慣わそうとしていることについては、「スピリット」を対応させている。

7)三省は、ほとんど遺言である「南の光のなかで」(2002)において、自分の生まれ故郷である神田の川の水を飲めるようにしてほしい、と訴えている。

8)三省独特の「詩情」的表現としては受入れることはできるけれど、「科学的」な視点に立てば、宇宙開闢以来、地球上の川の水が全て飲料に適した時代などというものはあるまい。インドの大河であって、聖水と見られる水であっても、決して飲料水に適しているとは言い難い。

9)私がウパニシャッドからリグ・ヴェーダへとインドの精神現象を遡っているのは、そこに<世界思想>とも呼ぶべき、新たな世紀を準備する普遍的な思想の種子、あるいは骨格を感じ取っているからである。p96「森の女神アラニアーニー」

10)頑な思想性を堅持する三省は、「深化」という言葉を、「進化」と同義ではなく、源泉へと「逆流」することさえ望んでいるようである。残念ながら、時代は戻らない。不可逆的に地球も人類も、前に進み続けている。

11)「深化」という言葉を、「ディープ」という言葉に対応させるなら、「ディープエコロジー」や、ビル・マッキベンの「ディープエコノミー」(2007)などとの関連で読み進める必要がある。

12)21世紀に棲む私たち地球人たちは、野口聡一宇宙飛行士がはるか天上から地球をひとつのものとして見ながらツイッターでメッセージをおくり、それを地上で受け取る各地の地球人たちはまるで地球村「Twitterville」を形成しているかのごとく受け止めている時代である。

13)20世紀は、テクノロジー神が正式に私達の大神といての座を獲得した世紀であったが、今それは大震災という現象を待たずとも、あちこちで明瞭にほころび始めている。テクノロジー神と併立して、ヒンドゥの自然神達、タイの民族神達、日本でいえば神道アニミズム神達が、起こるべくして起きてくる時代なのだと言わざるを得ない。p67「テクノロジー神のほころび」

14)当ブログは、科学、芸術、意識、の三つの要素がバランスよく融合する世界を目ざしているのだが、科学神(テクノロジー神)という言葉使いはしない。科学は科学であり、ここで三省が仮にテクノロジー神と言い棄てているのは、ひとつのアイロニーなのであって、そこに彼が「カミ」を見ていないのは当然だ。

15)震災地をどう復興するか、サリン事件のような宗教的な犯罪にどう対処するか、もとより私などに良案があるわけではないが、一本の(100万本の)桃の木を植えるという施策と、その桃の木に桃源郷を見る心性の、両面の方向性が大切にされるならば、そこに癒しと恢復と、希望さえも存在することは確かである。p77「暴風雨神マルト神群」

16)ここで語られる震災は「阪神淡路大震災」のことであるし、1995年を含むエッセイ集であれば、麻原集団事件について語られないわけではない。いや、むしろ、1995~2000年という「逆境」にあって、晩年の三省は、その語意を強めてテクノロジー暴走を戒める。

17)当ブログにおいては、いわゆるインド哲学の再読、深化、が要求されているが、果たせないでいる。例えばOsho「私が愛した本」のインド編を手掛かりに、再読、探索モードに切り替えようか、と思わないでもない。

18)しかし、三省が繰り返し言っているように、辻直四郎「リグ・ヴェーダ賛歌」以外に、適当な日本語テキストがないように、「読書ブログ」としては、まずその資料探しに手間取ってしまうことになりかねないと危惧する。三省の言わんとする世界観に啓発されつつ、また、この本を再読する必要もあるだろう。

19)「装丁をしてくれた羽倉久美子さんにも、長年の友情を含めて、お礼を申し上げる」p316「あとがき」、などのコメントも見える。

20)1960年代の後半、30歳になったかならぬかの年齢の頃に、私は生まれて初めて東京から九州の鹿児島まで、一人でヒッチハイクの旅をした。国道一号線で京都まで行き、京都からは山陰線沿いの国道9号線に入った。p23「夜の暗黒を失った時代」

21)それは1967~8年頃のことであろう。私は1970年、16歳でヒッチハイクをはじめた。16歳の年齢差はあるが、あの時代に三省もまた、そこにいたのだと、という親しみを覚える。

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