一切経山―日々の風景 山尾三省
「一切経山」日々の風景
山尾 三省 (著) 1997/02 溪声社 単行本 212p
vol.3 No.0348 ★★★★★
1)屋久島から発刊されていた季刊誌「生命の島」1989夏号から1995年の春号までの6年間、20回にわたる「日々の風景」という連載記事が一冊になり、1997年に出版された。
2)当ブログにおける三省追っかけもほぼ終盤である。あと数冊めくれば、ひととおり三省を一巡してきた、と言える。一冊一冊、違った角度とは言え、三省スタイルもほぼ飲み込めた段階で、「日々の風景」も、ほぼ予想できる範囲になってきた。
3)そろそろ飛ばし読みかな、と思ったところ、トンデモない記事にぶつかった。1991年12月の「スピリット・オブ・プレイス」シンポジウムに三省が参加した時の記事がようやく見つかったのだ。心密かに期待してはいたのだが、もう追っかけの残りも少なくなったところで、この記事を読むことができたのは本当にうれしい。
4)この本においては、三省は自分のことを「あなた」と、三人称を用いて語り続けている。これは先年亡くなった先妻の順子さんの視点を借りているのかもしれない。その後、あたらしく春美さんと出会い、子どもたちも得て、新しい生活が始まる風景が、いつもの三省の文章で語られる。
5)ああ、三省は人生におけるおおきな出来事があった、このような時期に、あのシンポジウムに参加してくれていたのだな、とあらためて感謝した。感謝ついでに、関係ありそうな部分を、長文だが、全部転記しておこう。なお「一切経山」は福島県の磐梯山系に実在する山の名前である。
6)宮城県の仙台市で、「スピリット・オブ・プレイス仙台」と称する国際シンポジウムが、(1992年)11月25日から27日までの3日間に亘って開かれた。
「スピリット・オブ・プレイス仙台」とは、仙台というひとつの巨きな都市をその内にはらむ地霊ということであり、これからの都市文明、地域文明というものを考えてゆく上で欠かしてはならない視点であるから、いたる処シンポジウムばやりの世の中ではあるが、あなた(三省)のそれへの関心は当然深いものがあった。
このシンポジウムでは、「ネイティブ・スピリット(地霊)」、「自発的簡素」、「癒し(ヒーリング)」、「ハーモニック・デザイン」、「フラクタル・コスモロジー」、「ネイチャリング」、「エコビジネス」、「有機的社会システム」、「自然(じねん)」の、合計9つの分科会が持たれた。横文字ばかりが並ぶ中で、あなた(三省)がゲストスピーカーとして招かれたのは「自然(じねん)」という日本語の分科会であった。
9つに分かれた分科会に共通のテーマは自然であり、自然地球、自然宇宙そのものであった。自然を利用し、自然を征服し、自然を着用し、自然を略奪し、自然を開発し、自然を滅ぼす、という方向での今世紀の文明が行き詰まり、このままの方向ではこれ以上前へ進むことが出来ないことが多くの人々に理解されてきた今、それではどういう方向へこの文明を向け変えればよいのか。
そのためには私たち一人一人がどういう哲学なり生活観を持てばよいのか、が問われることになる。シンポジウムの共通のテーマが、新しい自然観つまり生活観を見つけ出して行くことに帰するのは当然のことであった。
シンポジウムは、愛知和男環境庁長官を特別顧問とし、本間俊太郎宮城県知事及び石井亨仙台市長を名誉会長として、場所も最近完成したばかりだという仙台国際センターを会場とする大がかりなものであったが、その中で特別にあなた(三省)の注目を引いたゲストスピーカーが二人あった。
一人は、ケン・クーパーという名のアメリカインディアンである。彼はルミ族という部族の出身で、インディアン名をチャ・ダス・スカ・ダムというのだが、大変に太った力士のような体格の人物であった。背広姿の教授たちや専門家のスピーカーが多い中で、彼だけはよれよれのジーンズにTシャツ、首にはヒンドゥ文字の描かれた長い木綿布を巻きつけていた。
持ち歩いている長い竪笛を吹く時などには、Tシャツからはみ出した太鼓腹が揺れるのが見えたりするが、少し尺八に似たその笛の音が非常に深く美しい地霊的な響きを出すので、誰にもそんな服装のことなど忘れさせてしまう人であった。ケン・クーパーは、笛に加えて持参している太鼓で、始終そのシンポジウムに活き活きとしたネイティブ・スピリット、地霊の息吹を醸しだして、シンポジウムそのものをリードしていた。
もう一人は、北海道の二風谷(にぶだに)という所から参加したアイヌ民族の代表である山道康子さんであった。山道さんは、自身一人のシャーマンでもあるそうだが、和人(シャモ・日本人)たちから略奪され、虐殺されてきたアイヌ民族の人々の歴史を話された。<線路の枕木のように>、奪われた土地にアイヌの死体が横たわっているのだ、という表現で、この日本国家を含む文明の総体の在り方を、強く批判された。
一方では<この化け物(モンスター)のような国際センターの会場に私が入ってくる時、私がどんなに恐ろしさを感じたか、おどおどしたか>という表現で、自然民族であるアイヌ人の感性を率直に伝えてもくださった。
「フラクタル・コスモロジー」という分科会は、私たちの内なる宇宙という意味の分科会である。宇宙は無限に広がっており、私たちはその宇宙の中に包まれて存在しているのではあるが、同時に、この私たち一人一人が自分の内に宇宙を包み、全宇宙を自分の内に宿しているのだ、という自然観に立つことをフラクタル・コスモロジーと呼ぶ。
あなた(三省)は、他のいくつかの興味のある分科会と同様にその分科会にも参加したのだが、そこでちょっとした出来事が起こった。ゲストスピーカーの一人である上田紀行君という若い文化人類学者が先導して、会場の参加者全員と共に簡単な瞑想(ゲーム)状態に入ったのである。
集団でおこなう瞑想(ゲーム)というのは、一定の教団なりカルトなり指導者なりが、一定の意図のもとにそれを行う場合には、その意図をよく理解した上で、心してとりかかった方がよいのであるが、上田君の場合は文化人類学を専攻する信頼できる学者であり、教団的なもくろみがあるはずもないので、あなた(三省)も素直にゲームとしてそれに参加し、どういうことがこれから起こるか、それを楽しんでみようと思ったわけである。
「腰かけたまま肩の力を脱いて眼を閉じ、しばらくの間静かに呼吸を整える。それから、眼をとじたままで自分の体を、自分が今一番好きな場所へと想像の中で移してください。自分の家でもいいし、旅をして行った場所でもいいし、故郷でもいいし、想像の中の場所でもいい、自分の今一番好きな場所にいる自分を想像してください」
言われるままに好きな場所を探してゆくと、あなた(三省)の場合は、そこは屋久島の永田という集落の田舎浜と呼ばれる大きな砂浜のはしの、松林のそばであった。よく晴れた風のない日で、海は広々と展け、砂浜は暖かく黄ばんだ白色に輝いていた。ああここが今自分が一番好きな場所なのだな、と思いつつ、ひとりでその海を眺めていると、上田君の声がかかった。
「そこに、あなたの一番好きな人を呼んでください」
その声に誘われてあなた(三省)が妻を呼ぶと、妻は2歳になった海ちゃんと7ヵ月になったすみれちゃんを連れて、すでにそこに来ているのであった。道人(みちと)と裸我(らーが)は学校に行っているからと思ったが、想像の中だからやはり二人も呼んで、そこで皆でいっしょにお弁当を食べはじめた。
もう初冬なのに、ぽかぽかと暖かい陽が照り、海は澄んで青く、砂浜では黒雲母のかけらがきらきらきらきらと、微細な光を反射していた。
「生きている人だけではなく、死んだ人でもいいです」
その声で、あなた(三省)はすぐに4年前に亡くした妻を思い浮かべたが、現在の妻を前にして亡き妻をそこに呼ぶことにはためらいがあり、呼ぶことをやめた。呼ぶことはやめたが、その時深い悲しみが湧きおこり、胸から上がって眼から涙となってこぼれおちた。
「好きな人たちをたくさん呼んでください」
涙は乾かないままに、あなた(三省)は好きな人たちを次々と田舎浜のその松林のかたわらに呼んだ。死んだ父や祖父母たち、生きている母、成人して都会に出てしまった4人の息子たち、弟や妹たち、あなた(三省)が住んでいる白川(しらこ)山の11世帯の隣人たち、親しい屋久島の友人たち、日本の各地に住んでいる多くの友人たち、世界の各地に住む友人やまたその友人たち。
広い永田の浜はたちまち数千数万の人々で埋まり、人々はそれぞれに輪を作って、そこでお弁当を食べたり海を見たり、歌を歌ったりしているのであった。その中のひとりに、亡き妻である人もまたいつのまにか交じっていた。
11月29日に島に戻ると、あなた(三省)は早速に、妻にその時のことを話し伝えた。亡き妻を呼ぼうとして呼ばず、涙がこぼれたことは伝えなかったが、自分がその時一番好きであった場所が思いもかけずに永田の田舎浜であったこと、そしてそこに最初に彼女を呼んだことを伝えた。
思いもかけずというのは、あなたが今一番好きな場所というのは、どこと正確に指摘はできないとしても、海辺ではなくて山の中であり、自宅の近くの谷川のほとりのどこかであると、自分では思いこんでいたからである。
自分の未来は、谷川が流れ下って行く先の海ではなく、谷川が流れ下ってくる水元(みなもと)の山にある、と、あなた(三省)は前に記した。そのことに偽りはないのであるが、ここから遠く離れた仙台市の国際センターという会場にあっては、一番好きな場所は、従って未来は、不意に海として展らかれていたのである。
12月2日に、そこであなた(三省)たちはお弁当をこしらえて、実際にその田舎浜の松林のほとりへと行った。家のある白川山のあたりは、山なので空には少し雲がかかっていたが、田舎浜に着くと快晴で、瞑想(ゲーム)した時とそっくり同じに風はなく、海は青々と静かにそこに広がっていた。4キロほどもあるだろう広い砂浜には、何かの工事をしているらしい人影が2つあるだけで、見渡す限り無人であった。
瞑想の世界では、そこで6人でお弁当を食べたのだが、その日は道人は学校でおらず、娘は大学の推せん試験を受けるために東京に行ってしまっておらず、4人だけで食べることになった。海を眺めながら、ビニールシートの上の重箱のお弁当を食べていると、沖合から一艚の漁船が真っ直ぐにあなた(三省)たちの方へ近づいてきた。
「お船が迎えに来るよ」
そこらは漁場ではなく、むろん港でもないので、漁船が来るとは思えなかったが、あまりその船が真っ直ぐにあなた(三省)達の方へ向かってくるので、あなた(三省)は半ば冗談で海ちゃんに声をかけた。
けれども船は、本当に眼の前までやってきて、今にも渚に乗り上げそうな所まで来てエンジンを止めた。漁をする様子など全くない。4、5人の男が乗っていて、しきりに海の中をのぞき込んでいるのだった。その内ウェットスーツを着込んだ一人が海に入ってきた。
「ヴェトナム難民かな」
少し気味悪くなった妻に言ってみたが、そういうことでもなさそうであった。しばらくすると、海に入った男は船に戻り、男が戻ると船は錨を上げエンジンをかけて、再び沖合へと走り去って行った。
どうにも意図の分からない船であった。
「何だろうね、おかしな船だったね」
と言い合っていると、今度は左手の永田港の方から、前の船よりはるかに大きい、2、3百トン級の貨物船が、後に小舟を引きつれてやってきた。
「またお迎えの船がきたよ」
冗談を言っていると、その貨物船がまたもやあなた(三省)たちの目前でエンジンを止め、錨を下してしまったのだった。前の漁船よりずっと沖ではあったが、眼の前真っ直ぐの位置であるのは同じであった。後ろからついてきた小舟が、貨物船の周囲を旋回しはじめ、貨物船からアルミのハシゴが海へ向けておろされた。ハシゴを伝って一人の男がやはり海に入ってきたのだった。
「何かの調査かもね」
と言い合いながら、あなた(三省)達は妙に不安になり、落ちついてお弁当を食べることができなかった。けれども、やがてすぐにその男はハシゴを使って船に戻り、ハシゴが引き上げられると、船はエンジンをかけ、ぐるりと向きを変えて、やってきた永田港の方へ引き返して行った。
船の姿が見えなくなると、港にはふたたび無人の静かさが戻ってきて、太陽はあふれるほどの光をそこに降りそそいでくれた。海は真っ青で、沖合いにもどこにももう船影はなかった。仙台の会議場でみた風景が本当なのか、今そこで見ている光景が瞑想なのか、判断しかねるような気持ちにあなたはなっていた。
その時海ちゃんが、食べていたリンゴのひとかけらを砂の上に落とした。砂まみれになったリンゴを、そのまま捨ててしまおうかと思ったが、それはいけないことだと思い直して、拾いあげるとあなた(三省)は渚へと砂浜を下って行った。潮だまりのない砂浜の渚でリンゴを洗うためには、ずぼんを濡らさなくてはならなかった。
渚ちかくは、松林のかたわらに比べて二倍ほども明るく、あなた(三省)は海の光にどっと巻き込まれる自分を感じていた。寄せてきた波でリンゴの砂で洗い流すと、あなたはその半分を食べた。懐かしい海の味が口の中にあった。残り半分を、砂浜を降りてきた妻に渡した。
「海の味がするよ」
あなた(三省)が今世界中で一番好きな場所は、やはり永田の田舎浜の松林のほとりであり、そこで新しい家族においてお弁当を食べることであった。p102~110「海の味」 (三省)と記したところは引用者注
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