リグ・ヴェーダの智慧 アニミズムの深化のために 山尾三省
「リグ・ヴェーダの智慧」 アニミズムの深化のために
山尾三省 2001/07 野草社/新泉社 単行本 317p
Vol.3 No.0339 ★★★★★
1)本書は「天竺南蛮情報」1994年2月号~1999年12月号に連載されたものを一冊にまとめたものである。単行本としては、「屋久島のウパニシャッド」(1995)の続編にあたる。発行されたのは2001/07で、生前の三省は同年3月に「あとがき」を書いている。
2)私がアニミズムとしてリグ・ヴェーダをとらえ、アニミズムをほかならぬ現代思想の核としてとらえるのは、それが自然現象の普遍の知にほかならないからである。自然現象の知がそのまま人間というものの究極知に重なる処に、アニミズムの時代と地域を超えた普遍性がある。p33「自然現象という叡智」
3)腰の低い三省は、決して真っ向から科学を否定するようなことはしない(できない)が、個人的なライフスタイルでは、科学技術の最後尾をいやいや採用する、という程度のことである。
4)もし科学技術をまったく受け入れないアニミズム的世界観が成立するとすれば、それはごくごく一部の地域の認識に留まり、世界思想や現代思想とはならない。
5)地球市民という言葉が真に成立するためには、その前提として地球の全体が大小の差はあれ都市化し、全人類が都市の住民であることが必要であろう。地球上が都市におおわれた時、地球市民という言葉が真に成立するのだとすれば、それはおそらく地球市民の破滅であり、人類の終わりとなるほかはないだろう。
同様に、地球村人という言葉が普遍性を持つためには、都市は消滅せねばならず、<地球>という認識を可能にしたテクノロジー自体も論理的には終滅してゆくことになる。
私自身は、自分を地球村人という場におくけれども、それは地球市民という光を否定することでは少しもない。両者は、これまではどちらかといえば反目しあっていたのだが、<地球>という認識そのものがその反目の無意味性を告げている以上、村人は市民を包み、市民は村人を包み、共通の眼に見える地球というカミを祀ってゆくことが今の課題であり、これからの課題でもあるのだと思う。
そこで自分をも含めた地球市民に提案することは、地球上のすべての河の水を飲める水に、特にすべての都市の川の水を飲める水にと、本気で願うことをはじめよう。p85「大河の神サラスヴァティー」
6)当ブログも、自らのタイトルをつける上で、あちこちを逡巡したが、「地球市民」も「地球村人」も採用しなかった。当ブログが採用したのは「地球人」である。そして、三省が「カミ」と言い慣わそうとしていることについては、「スピリット」を対応させている。
7)三省は、ほとんど遺言である「南の光のなかで」(2002)において、自分の生まれ故郷である神田の川の水を飲めるようにしてほしい、と訴えている。
8)三省独特の「詩情」的表現としては受入れることはできるけれど、「科学的」な視点に立てば、宇宙開闢以来、地球上の川の水が全て飲料に適した時代などというものはあるまい。インドの大河であって、聖水と見られる水であっても、決して飲料水に適しているとは言い難い。
9)私がウパニシャッドからリグ・ヴェーダへとインドの精神現象を遡っているのは、そこに<世界思想>とも呼ぶべき、新たな世紀を準備する普遍的な思想の種子、あるいは骨格を感じ取っているからである。p96「森の女神アラニアーニー」
10)頑な思想性を堅持する三省は、「深化」という言葉を、「進化」と同義ではなく、源泉へと「逆流」することさえ望んでいるようである。残念ながら、時代は戻らない。不可逆的に地球も人類も、前に進み続けている。
11)「深化」という言葉を、「ディープ」という言葉に対応させるなら、「ディープエコロジー」や、ビル・マッキベンの「ディープエコノミー」(2007)などとの関連で読み進める必要がある。
12)21世紀に棲む私たち地球人たちは、野口聡一宇宙飛行士がはるか天上から地球をひとつのものとして見ながらツイッターでメッセージをおくり、それを地上で受け取る各地の地球人たちはまるで地球村「Twitterville」を形成しているかのごとく受け止めている時代である。
13)20世紀は、テクノロジー神が正式に私達の大神といての座を獲得した世紀であったが、今それは大震災という現象を待たずとも、あちこちで明瞭にほころび始めている。テクノロジー神と併立して、ヒンドゥの自然神達、タイの民族神達、日本でいえば神道アニミズム神達が、起こるべくして起きてくる時代なのだと言わざるを得ない。p67「テクノロジー神のほころび」
14)当ブログは、科学、芸術、意識、の三つの要素がバランスよく融合する世界を目ざしているのだが、科学神(テクノロジー神)という言葉使いはしない。科学は科学であり、ここで三省が仮にテクノロジー神と言い棄てているのは、ひとつのアイロニーなのであって、そこに彼が「カミ」を見ていないのは当然だ。
15)震災地をどう復興するか、サリン事件のような宗教的な犯罪にどう対処するか、もとより私などに良案があるわけではないが、一本の(100万本の)桃の木を植えるという施策と、その桃の木に桃源郷を見る心性の、両面の方向性が大切にされるならば、そこに癒しと恢復と、希望さえも存在することは確かである。p77「暴風雨神マルト神群」
16)ここで語られる震災は「阪神淡路大震災」のことであるし、1995年を含むエッセイ集であれば、麻原集団事件について語られないわけではない。いや、むしろ、1995~2000年という「逆境」にあって、晩年の三省は、その語意を強めてテクノロジー暴走を戒める。
17)当ブログにおいては、いわゆるインド哲学の再読、深化、が要求されているが、果たせないでいる。例えばOsho「私が愛した本」のインド編を手掛かりに、再読、探索モードに切り替えようか、と思わないでもない。
18)しかし、三省が繰り返し言っているように、辻直四郎「リグ・ヴェーダ賛歌」以外に、適当な日本語テキストがないように、「読書ブログ」としては、まずその資料探しに手間取ってしまうことになりかねないと危惧する。三省の言わんとする世界観に啓発されつつ、また、この本を再読する必要もあるだろう。
19)「装丁をしてくれた羽倉久美子さんにも、長年の友情を含めて、お礼を申し上げる」p316「あとがき」、などのコメントも見える。
20)1960年代の後半、30歳になったかならぬかの年齢の頃に、私は生まれて初めて東京から九州の鹿児島まで、一人でヒッチハイクの旅をした。国道一号線で京都まで行き、京都からは山陰線沿いの国道9号線に入った。p23「夜の暗黒を失った時代」
21)それは1967~8年頃のことであろう。私は1970年、16歳でヒッチハイクをはじめた。16歳の年齢差はあるが、あの時代に三省もまた、そこにいたのだと、という親しみを覚える。
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