検証東日本大震災 そのときソーシャルメディアは何を伝えたか?
「検証東日本大震災 そのときソーシャルメディアは何を伝えたか? 」TSUNAMI AND SOCIAL MEDIA REVOLUTION
立入勝義/〔著〕 2011/06 ディスカバー21 単行本・ムック
Vol.3 No.0372 ★★★☆☆
1)あの日は不思議な日だった。午後からの会議に向けて、電車でいくか、車でいくか、直前まで決断できなかった。それぞれにメリット・デメリットあるのだが、電車で行けば駐車場代がかからず、帰りに書店で長時間立ち読みができる。車で行けば、電車賃はかからないし、歩く時間も短い。
2)あの日、車で行けば、すぐ車に乗ってカーラジオで最新のニュースを聞くことができただろう。自宅へも、スムーズに数十分で帰ることができたかもしれない。いやいや、そうではなく、駐車場の入り口ゲートが故障してしまったので、結局は立体駐車場の中で立ち往生したのではないか。
3)結局、あの日は電車で行ったので、帰りは歩き、ということになった。電車が止まってしまったから。そして、ゆっくりと街並みを見ながら帰ることができた。2時間かけて歩いて帰宅して見れば、自宅の中では家具類が散乱していた。
4)当日、街中の高層ビルの4階の会議室にいた。新築2年で結構きれいで頑丈なビルだった。会議室には机とホワイトボートと大型ディスプレー以外に何もなかった。
5)リスク・コンサルタント達が100人ほど集まっていた。話題はニュージーランドの地震のこと。近々宮城沖にも地震がくる可能性が高いですよ、と、そういう類の話題だった。
6)突然、あちこちの、参加者のケータイから、緊急サインの、「ヒュン・ヒュン・ヒュン・・・・」という音が鳴りだした。地震がくると。それから揺れが来た。机以外、ほとんどなにもない部屋だったが、大部屋を仕切るために付属しているアコーディオン・パーティーションが、扇子のように大きく広がって、揺れた。
7)私は、危ないと思って、机の上のコーヒーカップを手に持った。そのまま、中腰で2分間くらい過ごした。
8)実際、あの地震で、マグニチュード9を体験したわけだが、幸か不幸か、地震そのものは怖いとは感じなかった。
9)しかし、すぐビルの館内放送が流れ、エレベーターを使わず非常口を避難せよ、ということになった。階段を下り始めると、すでに壁には複数、細かいクラックが入っていた。
10)地上に降りてみると、路上のマンホールの蓋が、飛びあがって斜めになっていた。地下鉄はとまり、乗客がどんどん地上に上がってきていた。地下鉄、電車はすでに停止していた。車は動いていたが、交差点の信号が消えてしまったので、あちこちでノロノロ運転が始まった。
11)歩きながら、電話をし、メールを打った。制限規制がかかったので通じなかったが、ほんの一瞬だけ声が聞こえたりした。短いメールが届いたりした。だが、なんども発信を試みているうちに電池がどんどん低下していった。
12)歩いている路上で、建築関係のトラックが、大きなボリュームでカーラジオをつけていた。震源地は宮城県沖で、どうやら海岸線に津波が押し寄せている、ということが分かった。だが、それは、ニュースを聞いたのではなく、トラックの側にいた作業員がかいつまんで話してくれたのだった。
13)途中から雪が降ってきた。私と一緒に、前後しながら歩いている人が何人もいた。
14)その頃、関東にいる娘からメールが入っていた。それは後から分かったことだが、「津波が来ているから、高いところへ逃げて」という内容だった。
15)ちょうどそのころ私は、大きな川の橋にかかっていた。まさかそこまで津波はこなかったが、あの映像と、あのタイミングなら、いや、実際に私だって、津波に飲み込まれた可能性はゼロではないのである。
16)遠く離れた彼岸にいる他人は、マスメディア等を通じて、こちらの状況をマクロで把握できる。しかし、こまかい私の状況はまったくわからない。逆に、此岸にいて、自宅に向かって歩いている自分は、一歩一歩、歩いてはいるが、マクロで一体何が起きているのか、まったく分からない。
17)この時、私はケータイのワンセグでニュースを見るべきだったのである。歩いていたのだから、その余裕はあったはず。だが、いつ連絡が着信するかわからないので、ケータイ機能だけに集中していた。電池の残量が3分の1くらいになってしまったので、今後のことを考えた。
18)自宅に戻り、先に戻っていた家内と近くの小学校体育館に避難した。避難所では発電システムがあったので、ケータイとスマフォを充電した。そしてワンセグを見た。ニュースも断片的であり、しかも全国的な各地のニュースだった。この時、本当に必要なのは、地域のニュースであるが、うまいこと地域のことばかりを報道してくれない。
19)断片的に、私と家内のケータイに家族や身内から連絡が断片的に入った。送受信は実に断片的で、頼りなかった。それでも、まったくないよりは良かった。
20)遠くの友人や知人から断片的なメッセージや伝言が入っていた。ほんの2秒くらいで切れていたりしたが、意味は分かった。こちらから返信しようとしたのだが、ほとんど出来ていなかっただろう。返信できたかどうかさえ、確認できなかった。
21)それから数時間、数日あって、連絡が一段落したところで、刻々と変化する自分の環境を広報するためにツイッターを書き始めた。
22)日本から遠く太平洋を隔てた米国ロサンゼルスに住み、直接的な被害はなかったとはいえ、わたし自身も、一日本人として今回の震災に家族ともども、ひどく心を痛めている。p3「はじめに そのとき、僕は・・・・」
23)この本は、ソーシャルメディア、特に対外国などに対して、日本の災害がどのように捉えられ、情報として流通したか、という点から書かれている。程度の差こそあれ、「被災地」の「中心」にいた私としては、あまり関係がない、あるいは、つよく言ったら「よけいなお世話」とさえ思えるような、世界の対応が書かれている。
24)本当に初期的な身内情報が繋がってしまえば、あとは、公共のマスメディアが頼りになる。公に発信するツイッターへの情報などない。自分の安否情報さえ伝わればそれでいいのである。
25)逆に、全体像がマスメディアで分かってしまえば、今度はまた、それでは、自分は今どのような位置にあるのかを確認したくなる。
26)被災地にいる避難者たちは、全国ニュースを見ていて、自分たちの地域のニュースが流れないことにいら立っていた。もっと地域のことを知りたかったのだ。
27)数週間して、そのような声も反映されて、各市町村単位で、地域災害FMが立ち上がった。
28)場合によっては、印刷手段を奪われた地域紙メディアの記者たちによる、壁新聞さえ活躍した。
29)わたしは自分がブロガーだから、当然、ソーシャルメディアの本流はブログだと思っている。p245「ツイッターとフェイスブックはこれから日本をどう変えるか?」
30)賛成である。私にとっても、新聞の号外、地域災害FM、避難所の壁新聞、電話、ケータイ、メール、ラジオ、SNS、テレビ、ワンセグ、広報車、回覧板、それぞれに役だった。だが、ブログを書いている時、一番、落ち着く。
31)この本、もし私が震災時、海外にいた場合なら、多いに共感できる部分も多いのだろうが、被災地の一員として読めば、震災直後の環境としては、ほとんど意味がない本となる。
32)あとは普段からの心構えであろう。ケータイさえ持たず、公衆電話で過ごしてきた人もいるだろうし、テレビオンリーという人もいたはずだ。なにより新聞を読まないと信じない、という人もいるだろう。
33)スマホやソーシャルメディアは、絶対必要だと、私自身は思う。それは被災したからそう思うのではなく、時代の最先端の技術だから、それを活用しない手はない、と思うからだ。しかし、実際には、ソーシャルメディアは、震災後の、本当に初期的には役立たなかった。
34)一旦、自分の立ち位置が理解できれば、あとは、普段からの自らのスタイルを復旧させ活用するしかない。そういう意味では私にとってはスマホとソーシャルメディアは不可欠だが、万民にとってそれが絶対だとは思わない。
35)デジタル・デバイドとともにソーシャルメディア・デバイドが存在する。だが、それは活用できる人が、自分だけのために使うのではなく、使えない人のためにも使って活用してあげる必要がある。
36)運転免許を持って車を持っている人間だけが、往来を疾走してはいけない。機能が限られた高速道路のようなところならそれも確かによいかもしれないが、街角では、歩行者優先で、車と運転者は、安全運転を心がけなくてはならない。
37)ソーシャルメディアの中においても、暴走族や当たり屋だって存在する。ひとつひとつの事態に対応しながら、ネット社会も成長していくに違いない。
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