アニミズムという希望 講演録・琉球大学の五日間 山尾三省
「アニミズムという希望」 講演録・琉球大学の五日間
山尾三省 2000/09 野草社/新泉社 単行本 397p
Vol.3 No.0341 ★★★★★
1)1999年12~16日の5日間に、琉球大学で行われた集中講義の記録。この講義の段取りをしたのは三省とゲーリー・スナイダーとの対談「聖なる地球のつどいかな」(1998)を企画した山里勝己・琉球大学文学部教授。
2)発行時期から考えれば、 「カミを詠んだ一茶の俳句 希望としてのアニミズム」』(2000)、「リグ・ヴェーダの智慧 アニミズムの深化のために」(2001)と並ぶ、三省アニミズム三部作としてこの「アニミズムという希望」が存在している。
3)アニミズムという呼び方ではあるが、この本は、むしろ「山尾三省という希望」というタイトルにしてもおかしくないような内容である。もちろん、三省はそういうタイトルにはしないけれども、東日本大震災の後、長く閉鎖されていた地域の図書館がようやく復活し、まずはとにかく読んでみようと取りかかったのが三省であってみれば、当ブログにおいては、一筋の「希望」を、その三省の詩や人生に求めようとしたのは事実である。
4)40数冊ある三省の著書のリストのうち、すでに30冊以上を手にとってめくってきた。残るのは10冊程度のところであるが、こうしてほぼ全巻を取り寄せて読める体制が復活した、ということに、まずは図書館スタッフをはじめ、関係者たちへ心から感謝したい。
5)「島の日々」以来、野草社から出るのは9年ぶりということだから、この野草社空白の90年代というのも三省においては、なんらかの意味があるかもしれない。
6)一日に90分を3コマ、4時間半ずつ5日間という集中講義だから、かなりの分量である。ましてや具体的な学生達4~70人ほどを目の前にして、三省が自らを語りつくすのだから、圧巻である。この一冊で三省を「読んだ」ということにはならないにせよ、この一冊を読んだだけで、三省を「知っている」と言うことは可能だろう。
7)『聖なる地球のつどいかな』(1998)(スナイダー・三省の対談)、『場所を生きる』山里勝己 (2006年) (ゲ-リ-・スナイダ-の世界)、と並んで、再びこの三省アニミズム三部作を関連で再読することも面白かろう。
8)現在原発の廃棄物として出てくるプルトニウムの毒性は、それが半減するだけで2万4千年という時間がかかるわけですね。半減するだけですよ。そういうものをぼく達は、今日常的につくりだしているわけですね。ですから少なくとも2万4千年先まで、プルトニウムの毒性が全部消えるのはその100倍の240万年先だとすると、少なくともその時までぼく達の責任があるんですね。
今ぼく達がここにいて、沖縄には原発はありませんから沖縄の人達は原発の責任なんかないよと言われるかもしれませんけれども、それは確かにそうですけれども、文明全体の担い手として、一人一人のぼく達は全部プルトニウムに責任があります。
文明全体となれば原発だけじゃなくて、あらゆる種類の科学的毒性物をこの地球にぼく達は毎日排出しながら暮らしておりますね。その象徴が半減するだけで2万4千年という気の遠くなるような時間を必要とするプルトニウムなんですね。何としても原発は、今止めたほうがいいですよね。
そういうことを含めて清らかな水を保つ。もう汚れてしまっているのが事実であるなら、それを再生していくという方向にこれからは向かっていく時代なんだと思います。p229「水というカミ」
9)地震が来ても大丈夫か、という問題ではない。原発自体が悪である。腰の低い三省は、自ら否定する物事に対しても、普段はゆるく逃げ道を作っておくのが常だが、原発は、三省にとっての「絶対悪」だ。
10)しかし、反原発の基礎となる思想的体系がなかなか一致していないことが多いのだが、三省は敢えて、ここで、ズバリと「アニミズム」称揚の提言をする。子供を守る、原発を減らす、というだけ問題ではなく、人間が人間として、この地球上に生きていくためには、いわゆる三省いうところの「アニミズム」的視点が絶対に必要なのである。
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コメント
三省のアニミズム三部作は至宝です。また読みたい。何度でも読みたい。だけど、三省は、欠陥品だと、私は思う。足が取れていても、穴があいていても、美術品は美術品。美しいものは美しい。だけど、日常品としての、価値はさがる。
投稿: bhavesh | 2014/03/09 07:18