原発と人間 朝日ジャーナル 2011年 6/5号 週刊朝日増刊
「原発と人間」 朝日ジャーナル
週刊朝日増刊2011/ 6/5号 雑誌 朝日新聞出版 p146
Vol.3 No.0378 ★★★★★
1)3.11以降、2週間で書かれた川村湊「福島原発人災記」、1カ月後にまとめられた河出書房新社「思想としての3・11」に比較すれば、この雑誌に書かれた記事が、1ヶ月半~2カ月後にまとめられただけあって、極めて方向性が明確にだされた印刷物となった。
2)3.11を包括的にとらえることはなかなか難しい。当ブログは敢えて、「3.11天地人」としてとらえたい。天は地震や津波。地は原発事故。人は、地球人としての意識の在り方。この雑誌においては、天や人はとりあえずおいておいて、地に焦点をぴったり合わせた。それだけに、論調もかなり強く、明確だ。
3)執筆陣はざっと数えて40弱。ほとんどが3.11以前から原発問題について論評してきた人たちだ。なんとも煮え切らない西澤潤一や、一般人としての坂本龍一などの文章も寄せられている。坂本龍一の文章は、一般人としての私等の気持ちをもっとも代弁してくれている。もし私が求められるなら、こう書くしかないだろう、というお手本のように思う。
4)その他は、ほぼすべて、専門家たちと言っていいほどの執筆陣である。もちろん3.11以後、わずか2カ月しか経過していない段階とは言え、河出書房新社「思想としての3・11」よりはるかに的確な指摘が随所に見られる。
5)「原発を知るためのブックガイド106選」(p86)なんてものもついてはいるが、今はあえて過去の本を読むよりも、3.11以降に出された本のほうが真実味があり、また緊迫性がある。
6)広瀬隆、小出裕章、田中三彦、故・高木仁三郎、吉岡忍、などの面々が並ぶ。ひとつひとつが数ページの短い文章になっているので、食い足らない部分も多いが、また、一気に読みやすくもある。
7)天としての地震津波は敢えて甘受しなければならない配剤だ。人としてのスピリチュアリティや意識は、ある意味、各個人のまったくの自由だ。しかし、地としての「原発事故」は、相手や「敵」がいるだけ、文章がまとまりやすい。
8)それでは「原発事故」の何処に今後焦点を合わせていけばいいのか。行政か、電力問題か、農産物や電力不足にあえぐ工業などの、他の産業に対する影響か。
9)身に降る火の粉ははらわにゃならぬ。まずは、今後、多分死ぬまで、年間1ミリシーベルトの放射線を浴び続けることになる我が身のことから始めなくてはならない。自分は一体、どのような境遇におかれているのか、そこのところがまだ把握しきれていない。
10)今日も、巨大津波に襲われた仙台平野の沿岸部に行ってきた。実感として、瓦礫の撤去はかなり進んだという印象を持った。トラック群がかなり活躍したのだ。もちろん、まだまだ爪跡は大きい。だが、あの荒れた田んぼにも、緑の草が覆うようになった。まるでグリーン・ベルトにさえ見え始めた。
11)天としての地震津波はあまりに過酷ではあったが、甘受し、またそれに立ち向かっていく体制を調えて、立ち上がることしかない。いままでの歴史の中でも、もっとも巨大な被害であったとしても、長い時間をかけながら、人々は、その嘆きを、いつかは喜びに変えるだろう。
12)人としての精神性は、どれほど傷つき、あるいは命さえ奪われたとしても、所詮は、人間としての営みの限界性がある限り、これもまた甘受しなければならない運命というものがある。その限界性の中で、人は自らの意識を磨き上げる。
13)しかし、地としての「原発事故」は、どうにも腑におちない。この悲劇を甘受して、ひたすら嘆きの連鎖に逃げてしまうことも、ひとつの可能性としてはある。しかし、もし、今回のこのことを、「3.11という思想」としてとらえ、「原発と人間」として焦点を絞り、「福島原発人災」と明瞭に位置付けることができるなら、これは、人類として、必ずや克服しなければならない課題として浮上する。
14)気は重く、余りに課題は膨大だ。そして今までの経過から考えると、無力感にさえ襲われる。だが、天の下にあり、人として子孫にその命をつないでいく者であったとするならば、地における今回のこの課題は避けては通れない。
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