石巻赤十字病院、気仙沼市立病院、東北大学病院が救った命 東日本大震災医師たちの奇跡の744時間 久志本成樹他
「石巻赤十字病院、気仙沼市立病院、東北大学病院が救った命」 東日本大震災医師たちの奇跡の744時間
久志本成樹・監修 2011/09 アスペクト 単行本 180p
Vol.3 No.0468★★★★☆
1)図書館に行くと、一番目立つところに、3.11直後の現地の状況をこれみよがしにアップしたグラビア誌が各種多数陳列されている。長いこと被災して閉鎖されていた図書館にしてみれば、ようやく買いそろえた資料なので、貴重といえば貴重なのだが、私は、今は見たくない。
2)事故直後に、言語に言い表せないと言われた惨状である。視覚的な画像での記録は、のちのちには極めて貴重な資料とはなるだろう。
3)しかしながら、震災後半年も経過してくると、言語に言い表せられないものであったとしても、なお、当事者の言葉として残そうとする動きもでてきている。被災地の教育現場からの言葉として「3・11あの日のこと、あの日からのこと」などが出始めた。十分なものとは言えないが、これからだんだん更なる言葉が綴られることになるだろう。
4)さてこちらは、医療の現場からの当事者たちの声である。
5)自然災害の被害予測を完全にすることは不可能である。自然のパワーが人智を超えることもあるからだ。しかし、準備することは可能である。宮城県沖地震の対策があったから、その記憶が被災地に残っていたから、対応できた部分は大きかったということを忘れてはいけない。p018「宮城県では2日前に地震が起きていた」
6)さまざまな記録が残り、対策もされていた。にも関わらず、それを乗り越えてくるのが大自然である。
7)小さな島が点在する美しいリアス式海岸を持つ気仙沼市にも、津波が押し寄せた。避難所にいた女性に話を聞くと「最初の津波は海の水が壁のようにやってきた。次に来た津波は火の海となってやってきた」と当時の様子を話す。p020「同上」
8)多分、このような表現は、歴史書にも残ってはいないではないだろうか。
9)そのとき助けてくれるのは、政治家でも、政治でも、行政でもなく、まず「医療」である。
地震の規模も、津波の大きさも、すべてが想定外とされた東日本大震災。その津波の最前線で、医師たちは医療システムを構築し、体系化し、多くの命を救っていったのである。p021「同上」
10)福島県南相馬市や青森県むつ市などで、その医療活動をした者も身内にいる。県内においても、その現場にいた知人もいる。しかし、あえてまとまった言葉としては聞いていない。いずれ話してくれるのを待つのみだ。
11)この本においては、宮城県内の3つの病院の関係者が、まずはその言葉を記した。
12)石巻管内(女川町・東松島市を含む)には17台の救急車が活動していた。しかし、津波で12台が流され、わずか5台で搬送をしていたのである。しかも、道路の多くは津波で寸断され、活動できる範囲は限られていた。実際、震災当日に運ばれてきた患者は99人しかいなかった。p023「石巻赤十字病院 混乱する医療チームをひとつにまとめあげる」
13)今回の震災では、その規模の割合すれば、初期の緊急患者が少なかったとされる。地震の被害が少なかったせいだが、むしろ、津波の被害者はほとんどが即死状態であったか、存命していても、そこまで救助に行けなかったケースが多かったと思われる。
14)停電のため、病院内の電源は重油による仮設電源に頼っている。その重油も残りが少なくなってきていた。非常用の仮設電源が切れてしまえば、入院患者に影響が出てしまう。
医療スタッフは、まず市内のガソリン販売会社に掛け合った。p077「気仙沼市立病院 透析患者を大規模・長距離搬送する」
15)当時、どこの現場で、どのようなことが起きていたか、という記憶は、記録されなければ、次第次第に薄れていく。
16)テレビ局がヘリコプターを飛ばし、海岸線を中継しはじめていた。津波に襲われる若林区の田畑が映され、市内を流れる名取市を遡上する生き物のような濁流もオンエアされた。しかし、東北大学病院ではトリアージの準備が忙しく、津波の映像を見るスタッフはほとんどいなかった。p107「東北大学病院 後方支援として、すべての患者を受け入れる」
17)トリアージとは、「多数の傷病者を重症度と緊急性によって分別し、治療の優先度を決定すること」wilipediaより
18)外傷患者は少なく、多くの重度の低体温症が運び込まれた。しかし、命の危険をともなう患者は少なかった。これだけの巨大な地震、津波にもかかわらず、現場に運ばれる患者の状態は、阪神・淡路大震災やそれ以降のにDMATが出動したケースとは異なっていた。p145「崩壊した医療システムを、どうやって機能させたのか?」
19)DMATとは「災害派遣医療チーム」のこと。wikipediaより
20)東日本大震災での経験を残したい。残さなければいけない。そう考えていました。それは私個人の記録ではなく、東北大学病院として、宮城県として、未曾有の災害を経験した現場の医療体制全体の記録を残すことによって、今後も起こるであろう災害医療に役立てなければいけない、とそう考えたのです。
しかし、被災地で医療を現在進行形でおこなっている状況で、その思いを具体化することはなかなかできないでいました。p178「おわりに」
21)この本に記されていることは、決して十分な内容ではないだろう。また、医療当事者でなければわからない苦労や体験ということもあろう。時には守秘義務やコンプライアンスに関わる内容もあるに違いない。
しかし、それでもなお、このような形で記録が始まったことに注目したい。読書ブログとしての当ブログは、このような本がでているのだ、ということも、今後十分見つめながら、3.11以後をどう生きるのかを考えていきたい。
| 固定リンク
« 3・11あの日のこと、あの日からのこと 震災体験から宮城の子ども・学校を語る みやぎ教育文化研究センター | トップページ | リアルタイムメディアが動かす社会 市民運動・世論形成・ジャーナリズムの新たな地平 八木啓代他 »
「37)3.11天地人」カテゴリの記事
- 東日本大震災全記録 被災地からの報告 河北新報出版センター(2011.10.07)
- 反欲望の時代へ 大震災の惨禍を越えて 山折哲雄/赤坂憲雄(2011.10.07)
- 3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ<2> 飯沼勇義(2011.10.06)
- 方丈記 鴨長明 現代語訳付き <2>(2011.10.05)
- 「スマート日本」宣言 経済復興のためのエネルギー政策 村上憲郎/福井エドワード(2011.10.04)
コメント