野の道―宮沢賢治随想<2> 山尾三省
「野の道―宮沢賢治随想」 <2>
山尾 三省 (著) 1983/01 野草社 単行本: 234p
★★★★★
1)「3.11後を生きる」というカテゴリの中で、賢治を読み進める、ということはどういうことであろうか。
2)3.11後、直後のショックがやや収まり、本でも読もうかと思った時に、まず頭に浮かんだのはスナイダーの「地球の家を保つには」だった。図書館ネットワークが復活したので、それを活用しながら、未読だった本も含め、関連の本を10冊ほど読み込んだ。
3)その後、三省が読みたくなった。すでに初期的なものは読了しているし、蔵書もしているので、決して目新しくはないのだが、中期から晩年にかけての三省は、私には少し距離がある存在であった。だから、全体像として、いつかは読みたいと思っていた。その機会が3.11後に訪れたのであった。関連の40冊ほどを読みなおした。
4)そしていま、ひととおりの3.11本を150冊ほど読み終えた後に、ふたたび、新たなサイクルに入ろうとしている。
5)スナイダー→三省→の向こうに幻視する賢治。このトラアングルの中に何事かを見ようとする。
6)宮沢賢治が歩いたと思われる「野の道」を、僕が歩いている「野の道」とダブらせながら、主体はむしろ僕自身において書きすすめた。けれども本当は、宮沢賢治が「マグノリアの木」の中で言っているように、僕もなく賢治もなく、僕は賢治であり賢治は僕であり、主体は法(ダルマ)にほかならない。宮沢賢治を愛する方にはここの事情は十分に理解していただけると思っている。p232「あとがき」
7)前回、三省リストを追いながら、この「野の道」を読んだ時は、「宮沢賢治随想」というサブタイトルが大きくついているのに、むしろ、読み込むべきは主体としての三省であって、どちらかというと、賢治に主体の重きが偏っている部分は、急ぎ読みしていた。
8)しかし、今回は違う。今回は、三省を従とし、賢治を主とする読み方をしてみようと、この本に向かった。そして、傍らにスナイダーがいることを、常に意識しようとした。
9)昭和8(1933)年9月21日、賢治は37年の生涯を終えた。
10)三省がこの本を書いたのは1983年、ちょうど賢治没後50年のことだった。真崎守や石垣雅設などとの団欒の中から、一年前に計画され、書き下ろしの一冊として出版されたのである。この時1938年生まれの三省45歳。
11)家族とともに屋久島に移住したのが1977年、38歳の時であった。
12)三省も賢治も、30代の後半までは、ほとんど無名の詩人だった。沢山の作品を残しながら、賢治はそのまま病没し、三省は決して剛健な肉体の持ち主ではなかったけれど、63歳まで生き、出版の機会を与えられ、読者を獲得し、自らの世界を更に円熟なものとした。
13)もし、賢治が健康な肉体を維持していたら、そして出版の機会を与えられ、読者を獲得し、さらに自らを円熟させることができるとしたら、もっと違った世界が開けていたはずである。
14)もし、三省が賢治のような病弱な肉体を持ち、30代後半で病没していたとしたら、ある意味、「難解」ながら、埋もれた天才詩人として「神格化」された可能性もあったのではないか、と思う。
15)賢治が生まれた明治29(1896)年から、三省が亡くなった2001年までのことを考えると、殆ど見事に20世紀というものがカバーされる。だから、賢治の生涯を前半生とし、三省の生涯を後半生とした場合、一人の100歳の人間が生きた歴史と見る、という試みも可能かもしれない。
16)そう思わせるのには、いくつかの理由がある。ひとつには、科学への姿勢。賢治は科学者であらんとし、当時の実業の先端、つまり農業技術を積極的に取り入れた。それに対する三省は、原子力はもとよりコンピュータに代表される科学を積極的に拒否した。科学に対する姿勢は、むしろ正反対であるのにもかかわらず、実際に使われたテクノロジーとしての科学は、両者においては、それほど大きな隔たりはなく、ほとんど同じものであったと言えるだろう。
17)二つ目。二人は詩人であった、ということは衆目の一致するところであるが、三省は、どちらかと言えば、散文的で目の前の事象についてのことどもを描写することに力点を置いていたがゆえに、現実味のある、ある種のルポルタージュやノンフィクション的な手法を多用した。翻って、賢治は、むしろ岩手県花巻にある自らの生活圏の上に、もうひとつのイーハトーブという幻想の都市を必要とし、それがゆえにフィクション力を必要とし、時には寓話や童話、幻想的な物語を多産した。
18)二人の作風はまったく違っているはずなのに、そこに一連なりの「個性」を見るとするならば、30代中盤の生死を分けた両者の事情があった、と思われる。三省が屋久島に行ったまま病没してしまったら、彼は平成の賢治になる可能性もあったし、賢治が伴侶を得、さらに生命を保っていたとしたら、昭和の三省であったかもしれない、と私は幻視する。
19)つまり、賢治は、時代を先取りすることによって、自らの世界の構築や拡大を、次なる命に託したのであり、三省はまた、敢えてその賢治の世界を自らのものとして後継する姿勢を見せたのだった。
20)三つめにこの両者を繋ぐ可能性のある点は、宗教性。三省は、インドの聖人ラーマクリシュナを慕い、賢治は法華経無量品に宇宙をみた。ここでもまた二人の宗教性に共通項はなさそうなのに、二人は極めて親和する。早い話が、古い世界を求めているようで、実は二人とも、新しい物が好きなのである。
21)日蓮宗の寺などない花巻地方から田中智学の国柱会へ出奔するという激しい宗教的情動に駆られた賢治に対し、インドの宗教性など十分紹介されていない時代に三省は、モダニズムとしてのヒンドゥー性を嗅ぎ取り、ついに家族をつれての一年間のインド巡礼の旅にでる。
22)だから、ここにおいて、賢治の世界にみる「個性」というものは、賢治の生きた時代や地域の特性に色濃く脚色されれているものの、今、あえて賢治を読もうとするならば、三省の「個性」を通じて、より普遍的なものへと歩みよっていく必要があるのである。
23)つづめて考えてみれば、ほどよい技術、なにものかを求める渇望、怠惰に堕さない先進的な精神性、これらが三省と賢治、両者をつないでいる、と言えるだろう。
24)だが、どうもこの二人だけでは、何かが物足りない。1930年生まれのスナイダーの影をすこし活用したい。すでに80歳を超えたスナイダーだが、今だ健在であると思われる。彼には、賢治や三省が持っている「病弱」のイメージがない。賢治と三省は、互いに補完しあっているかに思えるのだが、スナイダーは、一人スクッと立っているように見える。
25)死の床にあって、賢治は父に「国訳妙法蓮華経」一千部を印刷して知人友人に配布してくれるよう依頼したという。三省はインドのラーマクリシュナ寺院を訪ね、深く涙した。これらの両者の精神性に対し、スナイダーは、自らの森の住まいであるキットキットデジィーの中に「禅堂」を設け、そこに一人座る。
26)三者三様であり、親和力によって引きつけられる三者ではあるが、まだ一なる像を結ぶまでには近寄ってはいない。
27)3.11後に宮沢賢治を読むということはどういうことであろうか。
28)10数年前、私がPTA活動をはじめた時に、教頭として赴任してきたAは、私と同じ姓で年齢も一つ違いだった。彼は今、新たなる赴任先の沿岸部の中学校におり、校長として被災した。その港町は完全に破壊されつくした。高台にある中学校は避難所となっており、今でも避難民が生活している。A自身が被災し、その避難所で暮らしながら、生徒や教員、地域の人々を鼓舞し続けている。
24)その中学校に、宮沢賢治の弟・清六の孫にあたる人物が慰問に訪れた。そして、賢治の手書きの「雨ニモマケズ」の複製を学校に寄付してくれたという。
25)Aは、贈呈者に厚く御礼を言うとともに、この詩に対する感想を述べたそうだ。
「この詩の一番大切なことは、『行って』、というところですよね。」
26)東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいと言い
27)観念的に、賢治の世界を遊ぶことはできる。しかし、実際に3.11後に賢治を読むということは、この、「行って」、が大事なのだな、と私は改めて恥じ入るような気持ちでAの話を聞いた。
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