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2011/10/19

場所を生きる<3> ゲ-リ-・スナイダ-の世界

<2>からつづく 

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「場所を生きる」 ゲ-リ-・スナイダ-の世界 <3>
山里勝己 2006/03 山と渓谷社 単行本 327p
★★★★★

1)「場所の感覚を求めて---宮沢賢治とゲーリー・スナイダー」という文章は、最初「「越境するトポス 環境文学論序説」(野田研一他・編 2004/07)に収録され、ネイチャー・ライティングの経由の中で語られた。

2)そして、次に、2006/03にでたこちらの「場所を生きる」の中で、ゲイリー・スナイダーの個体史の一側面として同じ文章が収容されている。

3)いずれも殆ど同じ内容だが、スナイダーの個体史を縦軸とし、ネイチャー・ライティングという分野を横軸とした交点において、山里克己は、スナイダーを賢治との対比の中で捉えようとした。

4)ゲーリー・スナイダーはかつて宮沢賢治の詩を18編英訳し、それをみずからの詩集「奥の国」の第5セクションに収めた。それ以来、両者に焦点をあてた比較研究がなされてきた。p204「出会い」

5)(註)これは主として日本陣研究者によってなされてきた。代表的なものに

金関寿夫「アメリカ現代詩ノート」(研究社、1977)

志村正雄「神秘主義とアメリカ文学---自然・虚心・共感」(研究社、1998)

富山英俊「ゲーリー・スナイダーと宮沢賢治についての覚書」(「現代詩手帖」1996年3月号)

などの分析がある。志村は「そこに収められた18編に<訳>の語はない。つまり、それらの詩はもやはスナイダーの一部なのである」と指摘する(169頁)。志村の指摘は鋭いが、ここでは主として「翻訳」という観点から作品を分析する。
p238

6)これら3冊は、図書館に収められているようだ。近日中に読んでみよう。

7)スナイダーが、宮沢の存在を知ったのは、1956年の来日以前のことであった。スナイダーによれば、来日前に知り合ったバークレー仏教協会を主宰する今村寛猛(いまむらかんも)の妻であったジェーンから「雨ニモマケズ」の英訳を見せられたという。

 しかし、スナイダーは、この作品は、彼がカリフォルニア大学バークレー校大学院で読んだ日本の現代史、とくにヨーロッパ近代詩を受けた作品とは著しく異なっていて、その点で顕著であると認めたものの、宮沢についてそれ以上の関心を示すことはなかった。

 1950年代半ば、京都に到着した後で、スナイダーは英訳された宮沢の散文集を手に入れるが、そのときに初めて宮沢が多彩な書き手であることを認識したのであった。

 1960年初頭、スナイダーはユネスコから日本文学を英訳する仕事を依頼される。そのとき、英訳すべき作品について、バートン・ワトソンに相談している。ワトソンはコロンビア大学で博士号を取得した中国歴史を専攻する学者・翻訳者であり、すでに日本に長く滞在していた。

 そのワトソンが推薦したのが宮沢賢治であった。そのころまでにスナイダーはすでに宮沢をすくなからず読んでいたから、ワトソンの提案どおり宮沢を訳することにしたのである。

 カリフォルニア大学ディビスシールズ図書館所蔵で、スナイダーの宮沢作品の翻訳の基礎となった草稿"Miyazawa Kenji:Works Sheets"によれば、実際に翻訳を始めたのは1962年の11月のことである。スナイダーの翻訳を手伝ったのはイノウエ・ヒロツグという京都大学を卒業した日本人だった。

 "Miyazawa Kenji:Works Sheets"を見ると、イノウエとスナイダーが、宮沢の詩語のひとつひとつを丁寧に分類しつつその語義を検討していることがわかる。数カ月かけてイノウエとともに賢治を読んだ後、スナイダーは翻訳を始めた。そして、草稿を改訂し、磨きをかけ、「奥の国」に収められた翻訳に仕上げていったのである。p205「同上」

7)1954年生まれの私にとっては気が遠くなるような昔の話だ。60年代から70年代以降のカウンターカルチャーの教祖的存在として見てしまうスナイダーだが、すでにこのような伏線が張られていたのだった。

8)と、ここまで書いたところで、スナイダー来日のニュースに気がついた。「太平洋をつなぐ詩の夕べ」2011年10月29日東京。もうすぐだな。

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9)「3.11後を生きる」というテーマの中で賢治を読み込んでいこうという当ブログの流れだが、また、現在はスナイダーを通して賢治まで遡ってみようという試みでもある。多くの文献もあるようだが、まずはイメージでいい。鈴木大拙やアラン・ワッツ等との系譜の中からもスナイダーは立ちあがってくる。

10)宮沢賢治とゲーリー・スナイダーの類似性を理解することはそう難しいことではない。スナイダーもまた詩人としえ出発した初期のころから科学と宗教の融合をめざしてきた。1950年代に、スナイダーはすでにエコロジーと仏教の接点について思索を深めている。p214

11)スナイダーの作品にはアメリカ先住民の儀式や現代の生態学の成果が取り入れらている。その詩は、1920年代の日本人が書いた「注文の多い料理店」とは文化背景が異なるのであるが、両者の比較から本質的に見えてくるものは、<場所の詩学>を立ち上げようとした賢治とスナイダーの先駆性であり、その東西にまたがるヴィジョンの壮大さであろう。

 両者に共通するものは、東西の宗教や科学を融合しつつ近代文明の限界を超えようとする白熱した創造力なのである。宮沢とスナイダーがその鋭い批判のまなざしを向けているのは近代工業文明の人間中心主義であり、これら日米のふたりの詩人は、生態学と仏教を融合しつつ、近代文明の行く末を幻視しようとする点において、深い繋がりを示すのである。p226

12)宮沢が、定住者として、その熟知した土地で人間と大地の新しい関係性を希求したとすれば、一方で、スナイダーは、人間であることのあたらしい意味と地球の未来像を模索するために、シエラ山脈西側斜面の森の土地で再定住を始めたと言っていいだろう。p230

13)宮沢は決して楽観的な文学の世界を構築したわけではなかった。金関寿夫は「賢治の詩にはスナイダーにはまったく認められない日本的な憂鬱がある」と指摘し、さらには「賢治には人生への深い挫折感があり、それにともなうどろどろとしたわだかまりのようなものが、彼の多くの詩のモメントになっているが、スナイダーにはもちろんそういうものはなく、もっとアメリカ風にカラッとしている」と両者を比較した。p234

14)新しい人間像と未来の惑星像は、この世界に満ちているエネルギーの源、すなわち自然の諸要素との接触から想像されるのだということをスナイダーと宮沢は示唆するのである。そして、またそのようなことを幻視することが詩人の領分であることも----。p237

15)20世紀の文化と文学運動は、さまざまな境界を越境する文学や思想の相互作用によって形成された。俳句との接触が契機となって誕生したイマジズムはその顕著な一例である。

 宮沢とスナイダーについて言えば、エコロジーと仏教がその世界観の核心にあり、作品が生まれる基盤となっている。そして、このふたつの要素は、アジアと北アメリカを結びつける科学であり宗教でもある。場所に根づいた生活をし、場所の感覚を確立することで、このふたりの詩人は、<場所の詩学>を想像し、人間と地球の新しい姿を提示しようとする。読者は、太平洋の両岸でその作品を読みながら、新しい地球の姿と人間像へと想像力をふくらませていくのである。p236

16)三省、賢治、スナイダー、を繋ぐ、科学としての農業(エコロジー)、人間の営みとしての詩(文学)、そして未来の宗教性(宇宙観)。

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15)山里勝己の文章は、立て板に水で、なかなか調子はいいのだが、よくよく読んでいると、うまく出来過ぎていて、薄っぺらいということもできる。特に、「3.11」という今日的課題を抱えた今、三人の中で、もっと被災地に近く、もっとも多くの人々の口にのぼる詩人としての宮沢賢治まで遡上するには、ともするとうわっ調子で、現実味が薄い。場所を生きるといいつつ、山里勝己自身の沖縄や、3.11の「東日本」が見えてこない。

16)まだまだ読み込みが足らず、大体において賢治についての思索が何もなされていない段階ではあるが、当ブログは当ブログなりに、これから賢治ワールドへと入っていこうと思う。そこに、本当に「3.11後を生きる」新しい人間像と、地球像が、あるだろうか。

<4>につづく

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