再読したいこのカテゴリこの3冊「3.11天地人」編
再読したいこのカテゴリこの3冊
「3.11天地人」編
「東日本大震災全記録」 被災地からの報告
河北新報出版センター 2011/08
「3・11その日を忘れない。」―歴史上の大津波、未来への道しるべ
飯沼勇義 2011/6 鳥影社
「ECOシティ」 環境シティ・コンパクトシティ・福祉シティの実現に向けて
丸尾直美他 丸尾直美/三橋博巳他 2010/05 中央経済社
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再読したいこのカテゴリこの3冊
「3.11天地人」編
「東日本大震災全記録」 被災地からの報告
河北新報出版センター 2011/08
「3・11その日を忘れない。」―歴史上の大津波、未来への道しるべ
飯沼勇義 2011/6 鳥影社
「ECOシティ」 環境シティ・コンパクトシティ・福祉シティの実現に向けて
丸尾直美他 丸尾直美/三橋博巳他 2010/05 中央経済社
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再読したいこのカテゴリこの3冊
「メタコンシャス 意識を意識する」編
「野性の実践」
ゲーリー スナイダー (著) Gary Snyder (原著), 重松 宗育 (翻訳), 原 成吉 (翻訳) 1994/08
「惑星の未来を想像する者たちへ」
ゲーリー・スナイダー (著) , Gary Snyder (原著), 山里 勝己 (翻訳), 赤嶺 玲子 (翻訳), 田中 泰賢 (翻訳) 2000/10
「絶頂の危うさ」
ゲーリー・スナイダー/原成吉 2007/08 思潮社
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再読したいこのカテゴリこの3冊
「No Books No Blogs」編
「エリック・ホッファー自伝」 構想された真実
エリック・ホッファー/中本義彦 2002/06 作品社
「上弦の月を食べる獅子」
夢枕 獏 1989/08 早川書房
「OSHO The Luminous Rebel」 Life Story of a Maverick Mystic
Vasant Joshi (著) 2010/05 出版社 Wisdom Tree
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再読したいこのカテゴリこの3冊
「No Earth No Humanity」編
「ニーチェ入門 悦ばしき哲学」
Kawade道の手帖 2010/06 河出書房新社
「預言者」
ジブラン カリール (著), 佐久間 彪 (翻訳) 1984/6 至光社
「月面上の思索」 The Way of the Explorer
エドガー・ミッチェル/前田樹子 2010/07 めるくまーる
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再読したいこのカテゴリこの3冊
「One Earth One Humanity」編
「The Messiah」
Osho 1987/09 Publisher: Osho Intl
「Zarathustra: A God That Can Dance」
Osho 1987/12 Rebel Publishing House
「Osho、ニーチェを語る」
Osho 小森 健太朗・訳編 1990/03 出版:全国エルピー・プル狂連
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再読したいこのカテゴリこの3冊
「ブッタ達の心理学3.0」」編
「精神の哲学・肉体の哲学」
木田元 /計見一雄 2010/03 講談社
「キリスト最後のこころみ」
ニコス・カザンザキス 1990/03 恒文社
「Beyond Psychology」
Osho, 1988 REVEL Book
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「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版
意識をめぐる読書ブログの軌跡(編集中)
<2>目次
85)「道の巻」 NEW 2022/02/09
84)「達の巻」
83)「遼の巻」
82)「進の巻」
81)「蓮の巻」
80)「違の巻」
79)「邏の巻」
78)「辷の巻」
77)「逝の巻」
76)「返の巻」
75)「退の巻」
74)「迷の巻」
73)「述の巻」
72)「禅の巻」
71)「Mindfulness in the Modern World vol.7」
70)「Mindfulness in the Modern World vol.6」
69)「Mindfulness in the Modern World vol.5」
68)「現代世界におけるマインドフルネス4」
67)「現代世界におけるマインドフルネス3」
66)「現代世界におけるマインドフルネス2」
65)「Mindfulness in the Modern World」
64)「イノヴェイション」
63)「Fintech」
62)「Oh my Love 」
61)「把不住」
60)「すべてがムダであることについて」
59)「じゃこうねずみ」
58)「ねぇ、ムーミン」
57)「ボタニカル・スピリチュアリティ」
56)「空と緑」
55)「Zorba The Buddha 」
54)「Yahman Osho」
53)「絆の都」
52)「さすらいの夏休み」
51)「コンシャス・マルチチュード」
50) 「来たるべき地球人スピリット」
49)「無窮のアリア」
48)「時の葦船」
47)「46億年目の地球」
46)「Meditation in the Marketplace5」
45)「Meditation in the Marketplace4」
44)「Meditation in the Marketplace3」
43)「Meditation in the Marketplace2」
42)「Meditation in the Marketplace1」
41)「プロジェクト567」
40)「プレムバヴェシュの孫たちとの対話」
39)「地球人スピリット宣言草稿」
38)「センダード2011」
37)「3.11後を生きる」
36)「3.11天地人」
35)「森の生活」
34)「メタコンシャス 意識を意識する」
33)「No Books No Blogs」
32)「No Earth No Humanity」
31)「One Earth One Humanity」
30)「ブッタ達の心理学3.0」
29)「私は誰か」
28)「クラウドソーシング」
27)「地球人として生きる」
26)「表現からアートへ」
25)「意識とは何か」
24)「ブッタ達の心理学2.0」
23)「バックヤード」
22)「osho@spiritual.earth」
21)「mandala-integral」
20)「agarta-david」
19)「スピノザ」
18)「環境心理学」
17)「アンソロポロジー」
16)「スピリット・オブ・エクスタシー」
15)「マーケットプレイス」
14)「OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2」
13)「チェロキー」
12)「シンギュラリタリアン」
11)「レムリア」
10)「2ndライフ」
09)「ブッタ達の心理学1.0」
08)「マルチチュード」
07)「シンギュラリティ」
06)「アガルタ」
05)「ネット社会と未来」
04)「地球人スピリット」
03)「ブログ・ジャーナリズム」
02)目次
01)はじめに
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「災害ユートピア」―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか <1>
レベッカ ソルニット (著), Rebecca Solnit (原著), 高月 園子 (翻訳) 2010/12亜紀書房 単行本: 440p
Vol.3 No.0513★★☆☆☆
1)原文タイトルには、「A Paradise Bult in Hell」だから、必ずしも「災害ユートピア」は最適の翻訳とは言い難い。パラダイスとユートピアでは、ちょっと違いがある。
2)パラダイスは天国・楽園であり、反対の語としては地獄(Hell)がある。ユートピアは、理想郷という意味だが、現実には決して存在しない、という意味がある。反対語を探すとすれば、現実、ということになろうか。
3)サブタイトルは、The Extraordinary Communities That Arise in Disaster. 災害の中で発生する特異なコミュニティー、という意味だから、日本語の副題はまずまずだろう。
4)しかし、災害パラダイスでは、どうも落ち着きが悪い。やっぱり災害ユートピアという言葉がよかったのであろう。もう、このタイトルだけで、大体のイメージができてしまう。
5)しかし、すごいと思ったのは、このタイトルだけで、他の内容は、あまり親近感をもつことができなかった。この100年位の間の地球各国における災害時のレポートが中心になっており、3.11直前に出版されたとは言え、日本についての記述がない。
6)同じテーマだとするならば、1995年の阪神淡路大震災とか、明治、昭和の両三陸津波との比較であるなら、もっと身近なものに感じたかもしれない。
7)しかしまた、ふと考えた。他の地域の災害は、離れていると、あまり自分のことと思わないまま忘れてしまうのである。日本でのことだって、いつの間にか忘れてしまう。今回の3.11こそは、自分の足元で起きたから、忘れることができなくなっているだけではないだろうか。
8)宮地尚子「震災トラウマと復興ストレス」における環状島モデルは、大変印象深かった。宮地自身もこの「災害ユートピア」に触れていた。「爆心地」における無声状態と、ユートピア。なにか連動するものがありそうだ。
9)しかし、今は、どうもこの本のレポートにはなかなか入っていけない。
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「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版
<1>その思いつきについて
1)こちらの試みを、静かにスタートさせておこう。2006/03に「ブログ・ジャーナリム」としてに始まった当ブログは、準備期間や休養期間を含めながら5年の年月を経て、2011/03に「メタコンシャス 意識を意識する」までで終了するはずであった。ところが、そこへ、時あたかも、あの3.11である。予定していたフェードアウトどころか、突然のブラックアウト。あらたな意味を持って、当ブログが、もがき始めた。
2)5年かけて廻ってきた読書ブログとしての修羅や銀河を、コンパクトにまとめる作業が必要になってきた。自らを、読書ブログとして既定し、最寄りの公立図書館の一般開架棚を中心に読み続けてきた。その数は、現在のところ、ビデオその他含むと2560点あまりになっている。
3)これらのコメントをまとめると、本のタイトルのメモだけで終わってしまう。当ブログのスタートのきっかけとなった「ウェブ進化論」(2006/02)は16行×249頁=3984行である。一行にタイトルを書き、次の一行に短い40文字のコメントを付け加えても、一冊の新書本の分量では、当ブログは収まりきれない、ということになってしまう。
4)スタートした時点では長い沈黙があったが、始まってみれば、長い長い旅路であった。多弁を弄して全体の集合性を失ってしまってはいけない。一体、私はこの5年の時間をかけて何をしようとしてきたのだろうか。そのことを自分自身で分かるためにも、この辺でまとめてみようと思う。
5)タイトルは「地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版」としたが、途中からタイトルを変えるかもしれない。分量的には、ぐっと減らして、さらにコンパクトなものにしよう。
6)このブログは、私にとっては人生において大事な、三番目の文章である。一つ目は、1975年の雑誌「時空間」に残した「雀の森の物語」であり、二つ目は、「湧き出ずるロータススートラ」(1992)である。そして、それにつづく三番目にあたる文章になるので、バランスをとって、分量的にもその程度に縮小しよう。
7)私の人生は、この三つの文章を残しておけば、大体のことは分かるだろう。もちろん、その三つの記録の間の抜けた部分や、まだメモしていない部分も多いのだが、それはまた別な形で表現することとする。。
8)次にスタートしようとしているカテゴリ「センダード2011」に向けて、タテヨコのリンクを図っていく必要がある。過去の36のカテゴリを振り返りつつ、それぞれの108の記事を読みつつ(都合3800以上の記事)、なお、「再読したいこのカテゴリこの3冊」を手に取りながら、全体像をまとめようとしてみよう。
9)気の長い話ではあるが、そこからこぼれるものも出て来ることを覚悟しつつ、より集密度の高い部分をつかみ得たならば、当ブログの最終的な目的のいくつかは達成されたということになる。
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「宮沢賢治の詩と宗教」
森山 一 (著) 1978/06 真世界社 単行本 246p
Vol.3 No.0512★★★☆☆
1)大島宏之編「宮沢賢治の宗教世界」は、やはり順当には読みとおせかった。百家争鳴であり、かつ時代と論旨を越えたオムニバスであるが故に、読みとおすというよりは辞書的に使いこなすのがいいのだろう。
2)と、こちらの本もめくってみた。やはり、野に在る人とは言え、かなり賢治を読みこんだ人ゆえのこだわりがあり、拝聴する値はあるのだが、必ずしも、当ブログの行く手を照らす一冊とは言い難い。
3)当ブログは現在「3.11後を生きる」というカテゴリを走っているわけだが、いつものことだが、定量108の3分の1ほどに来ると、次のカテゴリが気になってくる。いろいろ浮かんだのだが、次のカテゴリは「センダード2012」にしようと思う。
4)賢治ワールドにあやかって「イーハトーブ」を多用することも悪くはないのだが、イーハトーブは賢治流の岩手の呼び方である。3.11で岩手、宮城、福島は、一区切りに呼ばれることもあるが、岩手と宮城には、気候的にも、地形的にも、文化や歴史的にも、寒暖差がある。
5)賢治は、仙台のことを作品の中で「センダード」と呼んでいる。私は、あと数百メートルで隣の市に住んでいるとは言え、仙台の中に住んでいることは間違いない。ましてや飯沼勇義の「仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う!」を読むにつけ、スナイダーいうところのバイオリージョンを意識し始めたところである。あえて、イーハトーブを借用するよりも、その繋がりの地としてのセンダードを借用するほうが、当ブログにおいては妥当性があるようだ。
6)さらに、「後」というニュアンスは、いつまでも3.11の「負」のイメージが付きまとってしまうのではないか。ここではあえて、2011なり、2012とすべきなのではないか、と思えてきた。2011はまもなく終わりである。年賀はがきの注文取りも始まり、来年のカレンダーの印刷も出来あがってきている。
7)2012は、いわゆるスピリチュアル系の人々のお得意のキーワードである。1999というキーワードの次はこの数字で踊ってきている人々も少なくない。マヤ暦が何月何日で終わっている、というその一点で2012を語っている人々もいるわけだが、それはそれで、ここでは多言しないでおこう。しかし、それらを意識した上で、あえてここでは、あらたなる年を迎えるにあたっての姿勢として、敢えて2012としておこうと思うのだ。
8)しばらくは現在の「3.11後を生きる」をテーマとしてメモし続けるわけだが、おのずと方向性は「センダード2012」へと連なっていく。
9)先日、TheaterGroup“OCT/PASS” 「人や銀河や修羅や海胆は」(石川裕人・作・構成・演出)を、県境の沿岸部の避難所となった公民館でみたのだが、この芝居は10回連続公演の最終日を11月26日(土)、あすと長町仮設住宅集会所で迎えることになる。
10)このあすと長町は、先日読んだ、丸尾直美他・編「ECOシティ--環境シティ・コンパクトシティ・福祉シティの実現に向けて」(2010/05)でみたように、ある意味、「センダード2012」に向けての実験として見ることも可能な地域なのである。
11) あすと長町は、生活拠点機能と芸術、文化、産業などの高次な都市機能が集積する複合型の広域拠点の形成を目指した土地区画整理事業であり、施工者は独立行政法人都市再生機構である。「ECOシティ」p147
12)3.11とバイオリージョンと賢治が、どのような形で融合して立ち上がってくるのか楽しみである。黒テントがすでにテントを離れて長く、かつてアンダーグランド(地下)演劇と言われた人々が、都市の8階のスタジオステージで芝居を打つ時である。大地と生き、海と生きようとした人々が、仮の住まいを集合させている、「ECOシティ」あすと長町の空の下で、賢治と共に、どんな「センダード2012」をみることになるのだろう。楽しみである。
13)さて、賢治であるが、すこし読書がすすんだがゆえ、田中智学を一生の矜持とした賢治ではあったが、ついぞ彼とは面識をもたなかった、ということが分かった。また、一生不犯、童貞で終わったとされる賢治だが、入院先の看護師にほのかな恋心を芽生えさせ、あるいは、花街に通った形跡もないとはしないようだ。また、当時のポルノグラフィーである浮世絵の収集も盛んであったということである。
14)そして、妹トシについてのことになるが、これはこれでまた次回に譲ろう。
15)当ブログが賢治を読み進めるには、いくつかの階層があり、人としての賢治の実在性や人物像に細かく迫っていくのがまずは一つ目として考えられる。二つ目は当然のごとく、彼が残した膨大な作品群を読み干す必要もあるだろう。しかしながら、三つめの、いわゆる「法華文学」と称したその先にある、賢治の銀河観、宇宙観を探りながら、そこに賢治の独自性をみるのではなく、未来における普遍性を見る、という作業が成立するはずなのである。当ブログは、この三つ目をやろうとしている。
16)さて、前述のTheaterGroup“OCT/PASS” 「人や銀河や修羅や海胆は」についてである。人や銀河や修羅、までは読めるが、はて、海胆は、すぐに読める人はすくないであろう。海胆はウニと呼んで、三陸地方名産の珍味である。今回の3.11でも大被害を受けて、人々の口になかなか入らなくなるだろう。
17)先日、うちの奥さんが沿岸部の友人たちとミニ同窓会を終えて帰ってきて、「タコはたべないほうがいいよ。タコから髪の毛がでてきたって」とのたまう。一瞬ぞっとしたが、どうやら、そういう噂が広がっていることは本当のようだ。
18)そこで、私は年来の友人であり、女川原発のその先の鮎川港出身のD氏に聞いてみた。即座に彼は笑いながら「それは嘘だ」と言明した。「大きなカレイから指が出てきただの、いろいろ噂があるのは本当だが、奴ら(魚や海の生物たち)だって、死肉は食べない。生きているものしか食べないのだ。港で育ったから、私は小さいころから土左衛門はいろいろ見てきたが、指がなくなっていたり、かじられた後があるような土左衛門はなかったという。
19)ほっとした私は、山のほうに行くと、「クマ出没注意」と書いてあるところには、おいしい山菜が豊富なところが多く、山菜ドロボウが来ないように、わざと看板を掛けているところがあると聞いたことがある。どうやら、海でも漁に出られない浜の人たちが、くやしまぎれにそんな噂を流しているのだ、彼はいう。
20)そして最後に、彼はこう言った。「ただね、海胆(ウニ)は食べないほうがいいよ。あいつらは普段から人間に寄ってくる。奴らなら死肉を食っている可能性がある」。
21)「春と修羅」において、賢治は書いている。
これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ また空気や塩水を呼吸しながら
それぞれの新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こころの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなと共通いたします
(すべてがわたしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから) p92
22)PlayKenji♯6と銘打った宮沢賢治換骨奪胎シリーズの6作目にして、石川裕人はなぜにその芝居のタイトルに「人や銀河や修羅や海胆は」と名付けたのであろうか。今日の私には、この海胆(ウニ)が気になってしかたない。人食い軟体動物=海胆(ウニ)・・・?。
23)食物連鎖のただなかにあって、銀河も修羅も連鎖しているのだ、という賢治。もう、最近の私はタコもウニも食べられなくなっているのだが、こうして空気を吸っている限り、銀河も修羅も食べていることになるのだろう。そして、私は結局、ウニに食べられてしまうのだろうか。銀河も私を食べるだろうか。
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「先生はほほーっと宙に舞った」―写真集 宮澤賢治の教え子たち
鳥山 敏子 (著), 塩原 日出夫 (写真) 1992/07 自然食通信社 単行本:149p
Vol.3 No.0511★★★★★
1)作品の中にも賢治がいれば、後世の読者や評論家の中にも賢治が住んでいる。当然、家族や地域の人々の中にも賢治がいるわけだが、教員として過ごした賢治の時代はそう長くはなく、生徒の数もそう多くはなかったのだが、確かに教え子という人たちの中にも、より実像に近い賢治がいた。
2)賢治が亡くなってから70年も経過したあとで、その教え子の人たちに住んでいる賢治を尋ねる、という気の遠くなる旅である。
3)瀬川さんは、脳のしくみを図解したノートを開いて、善と悪との関係や、意識と無意識の領域のことを話してくれる。
「頭脳の外側の表面をぐるりと取り囲んでいる部分が、意識の領域です。そしてこの、内部の大部分のところが無意識の領域です。善は、中の無意識の領域へ無限に吸収されていきます。悪い考え方は、表面の意識の部部に留まって、中へは浸透していきませんが、善は中へ吸収されて発展していきます。すると、からだは明るくなる、頭は軽くなる。ところが悪いことをすると表面意識に留まって無意識を圧迫する。すると暗くなる。だから悪いことは考えるべきではない、するべきではない。こう先生は言ったんです」
今も、賢治の思想を深く理解しようと、瀬川さんは一語一句もおろそかにせず賢治の書をひもとき、法華経も誦んでいる。p49
4)生徒たちの記憶もさまざまだ。まちまちなイメージの中にも、ひとつの原寸大な賢治の像が浮かび上がってくる。
5)晴山さんの目には、芝居の練習やイギリス海岸の水泳の情景がすぐそこに浮かんでくるのだろう、時々視線が一点を正視したままになり、言語が止まる。
「もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることはできないし、ただ飛びこんで行って一緒に溺れてやろう。死ぬことの向ふ側までついて行ってやろうと思ってゐただけでした。全く私たちには、そのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。そして私は、それが悪いことだとは決して思ひませんでした」
賢治の「イギリス海岸」の一冊を思い出しながら、私の言葉も止まった。
泳げる人の少ない生徒たち。その生徒たちに楽しい時間を保障することは、あまり泳ぎが上手でない賢治にとって死を覚悟することだった。p57
6)この本は写真集であり、登場する80歳年配の教え子たちも、どこにでもいるような実に原寸大のお年寄りたちである。
7)「百姓の生活を何とかよくしようと学校を辞めて羅須地人協会をつくった先生は、一念発起、百姓と同じような生活を始めたんだ。妹のおクニさんが家から持ってきたお重をことわった時の先生の顔は、蒼白でした。親を悲しませたことが悲しくて先生も泣いたんですよ。でも百姓の生活をなんとかよくしたいという先生の決心は固かった。食うものは、納豆と豆腐くらいなもんで、少しの野菜とご飯だけなんですよ。だから、あれっくらい丈夫な人が結核におかされたんですよ」p91
8)ここに転がっている、大きな矛盾は一体なになんだろう。
9)人が見たらバカだとか変人みたいだと思われるのは承知の上で、それでも自然に自分の内側から湧いてくるものには正直に、「ほ、ほ~っ」と奇声をあげて宙に舞ってしまう賢治のからだに魅かれていってしまいました。
「麦わら帽子をかぶってナッパ服着て、そして地下タビにゲートルで鍬をかついで、格好から違ってたね。賢治先生は、こういうふうに少しうつむいて歩くんですよ。左手をこういうふうに、必ずポケットを入れて歩くんです。歩いていて何かひらめくと、小走りになって、右手の手の振りが早くなるんですよ。早くなったかと思うと、ホホ~ウッって奇声をあげるんです。そしてポケットからメモ用紙を出してシャープペンシルで・・・・、いつも首からぶら下げているんですよ。あの時なにを書いたのかなあ、見せてくれって言えなかったな。おかしな格好して、はたから見ると、少しこれはヘンになって、少し精神異常じゃないかと思っても、あの書いているものを見せてくれとは言えないくらい、先生には、威厳というものがあったな・・・」p126
10)きのうTheaterGroup“OCT/PASS”公演、「人や銀河や修羅や海胆は」でみた、小川描雀が演じるところの賢治は、すこし陽気すぎるのではないか、と思っていた。むしろ、もっと陰気で、「黒テント」の斎藤晴彦が演じる賢治のほうが、私のイメージに近かった。しかし、この写真集と教え子たちの「証言」を知るにつけ、賢治はむしろ明るく、陽気だった、ということが分かった。
11)「今は雲の上の偉い先生になっているが、なあに宮澤先生は、いたずらもののチャメな先生だった。」p135
12)宮沢賢治の世界は、芝居の世界で表現されるのが、一番いいのかもしれない。その世界観、スケール、目的、参加のしかた、理解のされかた。私のような賢治についての素養が少ない観客にも、その感動が実に伝わってきた。
13)教え子たちの何気ないことばから、賢治との関係や賢治の残したものをよみとっていく作業は、ワクワクするものでした。
70年たってからも残っているということは、そのことを意識しているかどうかに関係なく、その人のからだや心にとって、よほどの大事件であったということでしょう。p139
14)自らが長く教壇に立っていた鳥山敏子は、賢治から、教育者としての「授業のやり方」を学ぼうとする。それもしかり。大きな学びとなろう。
15)しかし、と思う。今3.11後における「人の巻」の中で、賢治を読み直すとするならば、それは文学や詩、芸術や演劇、あるいは教育や授業、という区分けされた分類に賢治を押し戻すのではなく、全方位的に、賢治をこの東北の地に立ち上らせることが大事なのではないか。ひいては、それはさらなる新しい地球人の生き方へと繋がっていくのではないか、と思えた。
16)鳥山敏子には同名のドキュメンタリー映画がある。
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<22>からつづく
「英知の辞典」<23> 科学
OSHO, スワミ・アナンド・ソパン 1996/05 めるくまーる 単行本 579p
科学 SCIENNCE
私は科学に反対ではない。私は少しも反科学的ではない。私は世界にもっともっと科学が普及してほしい。そうすれば、より高次の何か、貧しい者には手に入らない何かが、人々の手に入るようになるかだ。
宗教は究極のぜいたくだ。貧しい者はパンとバターのことを考えなければならない。彼はそれでさえやりくりすることができない。彼は住む家、衣服、子どもたち、医療費のことを考えなれければならないが、そういった小さなことでさえ賄うことができない。
彼の一生にはささいなことの重荷がのしかかってくる。彼には神にささげるための空間も時間もない。たとえ寺院や教会へ行くとしても、彼は物質的なことだけを頼むために行く。彼のほんとうの祈りではない。それは感謝ゆえのものではない。
それは要求であり、欲望だ。彼はあれが欲しい、これが欲しい---そして私たちは彼を非難するすることができない。彼のことは許してやらなねばならない。必要がそこにあり、彼らは絶えずその重みを感じている。どうして彼にじっと坐って何もしないでいられる時間を見つけることができるだろう? 心(マインド)は考えに考えている。彼は明日のことを考えなければならない・・・・・。
私は世界がいまよりも豊かになってほしい。私は貧しさをよいものだとは思わないし、貧しさが精神性とかかわりがあるなどということは信じない。長い時代にわたって、貧しさは精神性と結びつけて語られてきたが、それは慰めにすぎなかった・・・・。
私にとって、精神性はまったく異なった次元のものだ。それは究極のぜいたくだ----すべてのものを持っているとき、突然、自分はすべてのものを持っているが、内側の深いとこには埋めなければならない空白、豊かさに変容されなければならない空虚がある、ということにあなたは気がつく・・・・。
人は外側にすべてのものを持つようになって初めて内なる空虚さに気がつく。科学はその奇跡を起こすことができる。私は科学を好ましいものだと思っている。なぜなら、それは宗教が起こる可能性をつくりだすことができるからだ・・・・。
私はこの地球が楽園になって欲しい----それは科学なしでは起こりえない。だとしたら、どうして科学に反対することができるだろうか?
私は科学に反対しないが、科学がすべてではない。科学はただ周囲の環境をつくりだすことしかできない。その中心に宗教がなければならない。科学は外面的なものであり、宗教は内面的なものだ。私は人間がこの両面において豊かになってほしい。外側も豊かになるべきであり、内側も豊かになるべきだ。科学はあなたをその内面世界において豊かにすることができない。それは宗教にしかなしえない。
科学が内なる世界などないと言いつづけるのなら、私は確かにそういった言明には反対する----だが、それは科学に反対しているわけではなく、それは特定の言明に反対しているにすぎない。それらの言明は愚かしい。なぜなら、それらの言明をしている人たちは内なるものを何ひとつ知らないからだ。
カール・マルクスは、宗教は人民のあへんだと言っている----だが、彼はどのような瞑想も体験したことがなかった。彼の一生は大英博物館のなかで考え、読み、ノートをとり、自らの大著「資本論」の準備をするために費やされた。
彼はさらにもっと多くの知識を得ようとすることにすっかり熱中して、何度も大英博物館のなかで倒れてしまったものだった! 彼は無意識のまま家まで運ばれなければならなかった。彼がむりやり博物館を追いだされるのはほとんど日課のようなものだった。なぜなら、博物館も時間が来れば閉めなければならないし、一日24時間開けているわけにはいかないからだ。
マルクスは瞑想のことなど聞いたこともなかった。彼はただ考えに考えることしか知らなかった。だがそれでも、彼はある意味で正しい。なぜなら、古い宗教性はある種のあへんの役割を果たしてきたからだ。それは貧しい人々が貧しいままにとどまるのを助け、彼らが今の状態に満足し、来世に希望をつなぐのを助けてきた。その意味で彼は正しい。
だが、仏陀、ツァラツストラ、老子のような人たちを考慮に入れるなら、彼は正しくない----そのときには彼は正しくない。ほんとうに宗教的なのはこういった人たちであり、大衆ではない。大衆は宗教について何ひとつ知らない。
私はあなた方がニュートン、エジソン、エディントン、ラザフォード、アインシュタインらによって豊かになり、そしてまた仏陀、クリシュナ、キリスト、マホメットらによっても豊かになることを望んでいる。それによって外側のものと内側のもの、その両方の次元で豊かになるように。
科学はその射程距離内では好ましいものだが、それは充分なところまで到達しない----またそれはできない。私は、それが到達できるのだが、そうしようとしていないと言っているのではない----それはあなた方の存在の内奥には入ってゆくことができない。
科学の方法論そのものが内側に入ってゆくことを妨げる。それは外面に向かうことしかできないし、客観的に研究することしか知らない。それは主観性そのもののなかに入ってゆくことができない。それは宗教の働きだ。
社会は一方で科学を必要とし、一方で宗教を必要としている。どちらが優先されるべきかと尋ねられたら、私は科学が優先されるべきだと言いたい----なぜなら、まず最初に外側のもの、周辺部が来て、その次に内なるものが来るからだ。というのも、内側のものはもっと微妙で、もっとデリケートだからだ。
科学は、ほんとうの宗教がこの地上に存在するための空間(スペース)をつくりだすことができる。OSHO THE BOOK OF THE BOOKS, Vol.4
p113
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「宮澤賢治の音楽会」 ~人と宇宙の交響曲~
NHKBS 2011/10/29 午後9時~
Vol.3 No.0511★★★★☆
1)なんだなんだ、NHKでも宮沢賢治をやっている。だろうな。今、賢治でなくてはならない。特に今夜は、特にそう。
2)加藤和彦の「雨ニモマケズ」ですか。なんだか負けちゃった人の歌のようにも思うが、まぁいいか。大貫妙子の「雪わたり」、坂本龍一の「月夜の電信柱」、なるほど、なるほど、なるほどね。
3)うちでは本当はBSが観れなくなっていたのだが、急きょチューナーをくれる人があって、この番組を見ることができた。
4)賢治記念館のチェロの音色。セロ弾きのゴーシュを、チェロで表現する女性チェリスト。藤原真理。「銀河鉄道の夜」。朗読。映画の音楽を担当した細野晴臣。音楽は人を癒す。そして、人は自然の中で芸術家になる、と言う面もあるはず。
5)中島みゆき。賢治へのオマージュ。
6)松本隆。抱きしめたい。永訣の朝。花巻弁。雨ゆじゅとてちてけんじゃ。could you please.
7)牧歌(劇「種山ヶ原の夜」より)
種山ヶ原の、雲の中(なが)で刈った草は
どごさか置いだが、忘れだ 雨ぁふる、
種山ヶ原の、せ高(だが)の芒(すすぎ)あざみ、
刈ってで置ぎ忘れで雨ふる、雨ふる
種山ヶ原の 霧の中(なが)で刈った草さ
わすれ草も入(はえ)ったが、忘れだ 雨ふる
種山ヶ原の置ぎわすれの草のたばは
どごがの長峰(ながね)で ぬれでる ぬれでる
種山ヶ原の 長峰さ置いだ草は
雲に持ってがれで 無ぐなる 無ぐなる
種山ヶ原の 長峰の上の雲を
8)明治三陸津波、昭和三陸津波。その間、37年間の賢治の人生。三陸鉄道リアス線。
9)理想郷=イーハトーブ。風の又三郎。ドボルザーク、新世界。
10)ああ、それからそれから・・・・。 みんな、賢治を愛している。みんなの中に賢治がいる。それぞれの賢治がいて、ひとりの賢治がいる。
11)賢治の残したメッセージ。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無邊行菩薩
南無上行菩薩
南無多寳如来
南 無 妙 法 蓮 華 経
南無釈迦牟尼佛
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
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「人や銀河や修羅や海胆は」<1>
石川裕人・作・構成・演出 2011/10/29 TheaterGroup“OCT/PASS” 宮城県亘理郡山元町中央公民館大ホール
Vol.3 No.0510★★★★★
1)山元町中央公民館は、3.11後、長いこと、避難所として使われてきた。数百人の人たちが身を寄せており、私たちの親戚も寓居していた。残念ながら一人の老人が亡くなったが、他の親族はかろうじて災害を逃れた。家も流され、田畑も流され、寺も流され、お墓も流された。遺影の写真も、仏壇の位牌も、お墓の遺骨も、全部持って行かれた、と老婆は嘆息をついた。
2)数カ月して、仮設住宅ができ、そちらに移ったが、生活の苦しさは以前と変わるものではない。今回、中央公民館を尋ねたら、まだまだ当時の面影は残っているのだが、自衛隊や救援隊がひっきりなしに出入りしていた被災直後の雰囲気は少なくなっていた。
3)ちょっと早目に会場に着いたので、車を置いて、山並みに沿って出来た仮設住宅の方に歩いて行ってみた。坂道があり、森があり、小道があった。小川があり、リンゴ園があり、そして大きな空があった。
4)ふと思った。先日、宮沢賢治記念館を尋ねたが、あの時、強く感じた賢治ワールドの雰囲気が、この地でも感じられるのではないか。まさに地続きである。地続きでないはずがないのだ。この地は東北、イーハトーブとセンダードの地は、繋がっているのだ。
5)会場に行くと、昔からの友人Sさんに会う。久しぶり。彼女は、昔いっしょにつくっていた雑誌に「春の修羅として」という文章を書いた人だ。賢治についてはかなり詳しい。彼女に誘われて、客席の一番前のかぶりつきに座る。
6)いざ始まってみると、役者たちはみんな若くて新鮮な人たち。身のこなしも軽やかだ。先日の黒テント公演と雰囲気も似ていないわけではない。しかし、こちらは、照明も舞台装置もない。ただただ椅子を並べただけのステージだ。
7)だが、小道具や所せましと動く身のこなしで、むしろスケールがでかい。
8)芝居が始まると、やっぱり、賢治にまつわる津波の話から始まった。やっぱりな。3.11後の今、ここに賢治が生きていたら、彼はどんなメッセージをくれるだろう。それこそがこの芝居のテーマであり、観客として観に来た私の眼目である。
9)隣で観劇しているSさんのようには賢治にくわしくない私だが、あちこちにいくつも賢治の小説や詩がちりばめれているのがわかる。あっちのストーリーがこっちにつながり、あのセリフをこちらの場面で語る。渾然となった賢治ワールドである。
10)それを大きな目で見ている子供たち、3歳や4歳くらいの子供たちも、圧倒されて笑ったり唖然としたりして見ている。面白いもんな。この子供たち、ストーリーそのものは分からくても、その圧倒的な迫力は、きっと一生記憶に残るだろう。大きなインパクトだ。
11)昔の子供たちも、笑ったり泣いたりして観ている。私も泣いた。なんだか泣けた。笑ったところも多かった。そうだ、ここでこそこのセリフ、というところもあった。ここで、この動きか、と意表を突かれたりもした。
12)役者たちも、この芝居を被災地で演じてきて、もう何回にもなるので、すっかり自分たちのモノにしている。説得力があり、まとまりもある。アドリブもまずまず、客席との掛け合いもグッドタイミング。
13)最後に、賢治役の小川描雀が、締めにかかり、ひとりセリフを語り始めた時、中央公民館の天井がグラグラ揺れた。すでに天井板も落ちて、むき出しになっていた大ホールだったが、明らかに大きく揺れた。
14)余震だ。だが、皆んなで逃げだす程のことではなかった。グッドタイミングと言えば、本当にグッドタイミング。賢治が宇宙から舞い降りてきたのだ。
15)私は、ずっと昔に別の友人の芝居団のステージに立ったことがある。練習している時、雷が鳴って、中断しなくてはならなくなった。その時、作者に言った。あの雷を、あなたのステージに乗せることができるなら、私は一生あなたの芝居に付き合ってもいいよ。
16)そんなことはなかなかできるものではない。
17)でも、今日のお芝居、あの地震をステージに乗せることができたんではないかな。天地が共鳴した。賢治が一緒にいた。空から舞い降りてきていたな。素晴らしい芝居だった。
18)芝居が終わったあと、そのまま、海岸線に車を走らせた。
19)被災地は、被災地だった。当日のあのままになっている住宅家屋も多い。海はあくまでジェントルだが、海岸線は、もう見る影もない。どこから手を付ける、というお話ではない。もう、私や、私たちが生きている間は、この風景は変わらないのだろう、とさえ思う。
20)だが、この大地で私たちは生きていくのだ。この地球で生きていくのだ。この地で、この人たちと生きていくのだ。
21)今日の芝居、賢治ワールド一辺倒だった。それはそれでいい。だが、当ブログとしては、山尾三省やゲーリー・スナイダー繋がりで宮沢賢治までたどりついた経緯の故、さらに、ウィルダネスやバイオリージョナルな視点が加わるともっといいなぁ、と思った。また、それは、当ブログのこれからの大きなテーマではある。
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「宮沢賢治の宗教世界」 <1>
大島宏之編集 1992/01 北辰堂 763p ¥18,350
Vol.3 No.0509★★★★★
1)賢治を追っかけるにしても、やはり気になるのは、賢治の宗教世界についてである。とりわけ国柱会の田中智学などの関わりはいかがなものだったのか。そこのところが気になって、図書館の検索に引っ掛かったのがこの本である。
2)届いてみれば、なんと700頁をこす大冊である。しかも30名ほどの執筆者たちによるオムニバス形式の一冊だった。最近、3.11関連などでは緊急性もあってか、このオムニバス形式の本がでており、いくつか手にとったが、論旨がバラバラでむしろ忌避すべき形式の一式として、しばらく遠ざけようと思っていた。最初、この本もまた、拾い読みしてすぐ返却しようと思った。
3)ところが開いて見れば、これが面白い。なるほど、賢治ワールドにはこれだけの読み方があるのだ、とあらためて豁目させられた。まだほんの最初の100頁をめくった程度のところなのだが、もう、だいぶ賢治については知った気分になり、ある意味、もう十分という気にもなり、また、新たな疑問も湧いてきた。厚い本は苦手なのだが、この調子だと、最後まで読んでしまいそうだ。
4)賢治の生後5日目の8月31日午後5時、花巻町の西方25キロメートルの地にある沢内村川舟(川尻)に、高さ2メートルに及ぶ長い断層を生ずるほどの大地震が発生、全壊家屋5千6百、死者2百名を記録した。
またこの年の6月15日には、三陸地方に大津波が襲来し、最高24メートルの高波が海岸の家屋を破壊し、2万1千人の死傷者を出した。その上、7月と9月には大風雨が続き、北上川が5メートルも増水、家屋、田畑の損害も甚大であった。そして夏になっても寒冷の日が続き、稲は実らず赤痢や伝染病が流行した。
賢治が日清戦争の直後に、この周期的に天災が訪れる三陸海岸に近い寒冷な土地に生まれたことと、彼が他人の災厄や不幸を常に自分自身のものと感じないでいられなかった善意に満ちた性格の持ち主であったこととは、実に彼の生涯と作品とを決定する宿命であった。p3宮沢清六「序論 兄賢治の生涯」
5)3.11後、あちらこちらから宮沢賢治の精神を立ち上らせようとする機運を感じる。当ブログもまた、3.11後に宮沢賢治を読む、とはどういうことなのか、と自問し始めたところである。実に奇遇というべきか。2万1千人の死傷者を出した明治三陸津波と、今回の3.11東日本大震災は、その被害者数にしてほぼ同等であったのである。
6)昭和8年には兄は起きられるようになり、時には肥料の相談も受け、文語詩を書いたりしていたが、3月3日には三陸沿岸に大津波が襲来し、23メートルもある大津波で死傷者3千名を出し、私も釜石に急行して罹災者を見舞ったのであった。
このように賢治の生まれた年と死亡した年に大津波があったということも、天候や気温や災害を憂慮しつづけた彼の生涯と、何等かの暗号を観ずるのである。p18宮沢清六「同上」
7)まさに、そうであったか、という想いがつよい。
8)そうなると気になりだすのが、大正12(1923)年9月1日の関東大震災のことである。賢治27歳の年であった。賢治が国柱会に入会したのは大正9年で、それ以前の大正7年頃に女子大生だった妹トシの見舞いで上京しており、その時に国柱会を知ったのだろうか。
9)大正10年1月に国柱会を尋ね、結局同年8月には故郷岩手に帰郷するのだが、その間、国柱会の奉仕活動に携わったのはほぼ9ヵ月間ということになるようである。田中智学には、実際には会うことがなかった。
10)賢治の代表作のひとつ「春と修羅」の序が書かれたのは大正13年の1月のことであり、前年9月にあった関東大震災のニュースに少なからず影響を受けていたことは考えられる。
11)実際に賢治の童話を読み、花巻の記念館や童話村を訪ねると、メルヘンタッチのパステルカラーの賢治ワールドをイメージしてしまうのだが、賢治がそのような世界を書かなければならなかったのは、まさに、東北を襲った災害や、転変地異による、人事の無力さを痛感していたことと無関係ではない。
12)賢治の宗教感と言えば、法華経や田中智学などとすぐ連結してしまうのだが、短絡的にそこに急いでリンクしてしまうのは早すぎるようである。むしろ、それらから醸し出された、賢治独自の世界観からこそ、そのいわゆる「宗教」を嗅ぎだしていく作業が必要となる。
13)国柱会を尋ねた時に応答にあたった人物に諭されて「法華文学」を志したと、自らも書いてはいるようだが、実際にはその以前から賢治ワールドはほぼ確立していたのであり、自らの世界を、あたかも「法華文学」と後付けで表現し、その後、その方向性をより強固にしたものと思われる。
14)詩や童話の世界で時間と空間を自由闊達に闊歩した賢治ではあったが、実際の肉体は、その生きた時代や環境に大きく左右されている。科学者としての賢治の側面も様々に評論されているが、もし賢治が21世紀の今日ここに生きていたら、インターネットをどう使いこなし、原発事故に対して、どのような活動をしただろうか。
15)一詩人、一童話作家として賢治を見ることも可能だが、3.11後に宮沢賢治を読むということは、区切られた時間や空間、そして閉じられた37年間の肉体を研究することではなく、その精神が、もし3.11後に生きていたらどうしたかを想い、そして、それを、読む者が、自らの人生として生きることであろう。
つづく・・・・はず
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「インドラの網」 <1>
宮沢 賢治 (著) 1996/04 角川書店 文庫 281p
Vol.3 No.0508★★★★★
1)この文庫を手に取ったのは、表題となっている「インドラの網」を読むためである。このほかには、「竜と詩人」や「風野又三郎」など8編の作品が収められている。
2)仏教におけるこのような世界像の核心的なイメージは「インドラ網」であり、それはすべての存在が幾重にも相互依存し合う様相をし隠したものである。(興味深いことに、宮沢には「インドラ網」という物語がある)。
スナイダーにとって、「インドラ網」はアジアの宗教的ヴィジョンが捉えた世界像であり、エコロジーは西洋の科学的思考から生まれた自然界のモデルなのである。「越境するトポス」p122 山里勝己「越境する精神」
3)スナイダー→賢治のベクトルの中で、上のように山里は指摘していた。他に誰かも同じ様な指摘をしていたが、散逸していまは見つけることができない(あとで加筆する)。
4)巻末に詳しい「年譜」(268p)があり、作品が書かれた年も分かるので、リストを作っておく。私家版でアバウトな部分があるので、次第に訂正し、他の文献からの情報も後に加筆するものとする。
5)宮沢賢治作品年代リスト(私家版)
明治29(1896) 明治三陸津波(6月15日) 賢治誕生(8月27日)
大正06(1917)21歳 「『旅人のはなし」から」
大正07(1918)22歳 「蜘蛛となめくじ」 「双子の星」
大正08(1919)23歳 一冊の歌集(662首収蔵)
大正09(1920)24歳 「摂折御文 僧俗御判」を抜き書き編集
大正10(1921)25歳 「かしはばやしの夜」 「月夜のでんしんばしら」 「鹿踊りのはじまり」 「どんぐりと山猫」 「注文の多い料理店」 「狼森と笊森、盗森」 「雪渡り」 「烏の北斗七星」
大正11(1922)26歳 「雪渡り その二」 「屈折率」 「くらかけ山の雪」 「精神歌」 「黎明行進歌」 「角礫行進歌」 「応援歌」 「生産体操(のちに「飢餓陣営」に改題」 「永訣の朝」 「松の針」 「無声慟哭」
大正12(1923)27歳 「やまなし」 「氷河鼠の毛皮」 「シグナルとシグナレス」 「異稿植物医師」 「イーハトーブ童話集 序」 関東大震災(9月1日)
大正13(1924)28歳 「春と修羅」 「ポランの広場」 「種山ヶ原の夜」
大正14(1925)29歳「鳥(後に「寄鳥想亡妹」と改題」 「過労呪禁(後に「善鬼呪禁」と改題」 「過去情炎」 「---命令---」 「未来圏からの影」 「疱瘡(幻聴)」 「ワルツ第CZ号列車(後に「春」と改題」 「休息」 「丘陵地」 「冬(幻聴)」
大正15 昭和元(1926)30歳 「オッペルと象」 「秋と負債」 「昇寡銀盤」 「雲(幻聴)」 「孤独と風童」 「ざしき童子のはなし」 「心象スケッチ朝餐」 「寓話 猫の事務所」 「農民芸術概論」 「春」 「風と反感」 「『ジャズ』夏の話です」
昭和02(1927)31歳 「陸中国挿秧の図」 「イーハトーブの氷霧」 「銀河鉄道の一月(後に岩手軽便鉄道の一月」と改題」 「奏鳴曲四一九」
昭和03(1928)32歳 「氷質の冗談」(『春と修羅』に収録) 「稲作挿話(未定稿)」
昭和04(1929)33歳
昭和05(1930)34歳 「空明と傷痍」 「遠足許可」 「住居」 「森」
昭和06(1931)35歳 9月、父母その他に宛てて遺書を書く。「雨ニモマケズ」
昭和07年(1932)36歳 「グスコーブドリの伝記」 「早春独白」 「眼にていう」 「民間薬」 「選挙」 「客を停める」 「祭日」 「母」 「保線工手」
昭和08年(1933)37歳 昭和三陸津波(3月3日) 「半陰地選定」 「詩への愛憎」 「北守将軍と三人兄弟の医者」 「朝についての童話的構図」 「移化する雲」 「郊外」 「県道」 「(石川善助追悼文)」 「葱嶺(そうれい)先生の散歩」 「花鳥図譜・七月」 「文語詩稿 五十編」 「文語詩集 一百選」 9月21日永眠。
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「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の原稿のすべて」
宮沢賢治 〔原著〕 入沢 康夫 監修/解説 1997/03 宮沢賢治記念館 21×30cm 111p
Vol.3 No.0507★★★★★
1)賢治に会いたくなった。前から行こうと思っていた花巻の賢治記念館まで車を走らせた。
2)記念館にたどり着くと、あまりに良い天気。南斜面に造られた広くてのびのびとする花壇を下ると、賢治記念館イーハトーブ館があった。周囲が余りに美しく、すぐ館内に入る気になれない。
3)あちこち散歩していると、宮沢賢治童話村へ。美しい。林があり、広場があり、賢治の学校、がある。ひとつひとつの施設がうれしくてしかたない。
4)ただただ散歩しているだけで、一時間も二時間も過ぎてしまった。
5)宮沢賢治記念館では、賢治のチェロをみたり、妹トシのバイオリンを見たり。賢治の人生をまとめたビデオも、なんともいい。
6)パネルには、賢治を世界に紹介したとして、ゲーリー・スナイダーの写真とともに、「The Back Country」が飾られていた。やっぱりな、そうだろうなぁ。ここでは「奥の国」ではなく、「奥地」と訳されていた。
7)紹介ビデオを見ていて、賢治が明治三陸津波 の1896(明治29)年に生まれ、昭和三陸津波の1933(昭和8)年に亡くなったことが、あらためて思いだされた。ある意味、賢治は津波の申し子だった。今、賢治は、3.11東日本震災をどう思っていることだろう。
8)イーハトーブ館には、沢山の賢治研究の資料があった。全部欲しいと思ったが、欲張ってはいけない。まずは一冊目。「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の原稿のすべて」を求めた。
9)21世紀の私たちは、ネットにつながり、ワープロを使うが、賢治の時代は、小説を書くと言えば、20*20字、400字詰めの原稿用紙である。そこに、賢治にやってくるインスピレーションを書きとめるかのように、流れるような文字で、まるで書きなぐられたような字があり、さらに、それに書き加える小さな文字が沢山ある。まさに賢治ワールドである。
10)童話館で「セロ弾きのゴーシュ」の人形たちも待っていた。きのうみた黒テントの「窓際のセロ弾きのゴーシュ」もわるくはないのだが、やっぱり主旨が違ってきている。やればできる、という街場での教訓も悪くはないのだが、賢治ワールドは、やはり、自然界の動物たちとの触れ合いがあってこその世界だと思う。やればできる、というより、人は、自然との触れあいの中で、本当の芸術家になるのだ、というのが賢治の本旨だろう。
11)この本、なまなましい賢治が感じられる。賢治は生きているぞ、とゾクゾクした。
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「窓ぎわのセロ弾きのゴーシュ」ワルプルギュスの夜篇
原作/宮沢賢治 作/山元清多 演出/斎藤晴彦 2011/1026 黒テント仙台公演 演劇・ミュージカル
Vol.3 No.0506★★★★★
1)40年ぶりに黒テント公演を見た。いわゆるアングラ演劇を見たのは1971年の黒テントが初めてだった。「翼を燃やす天使たちの舞踏」。なつかしい。あの日一緒に見に行った同じ高校生だった友人はいまや押しも押されもせぬ立派な演劇人。
2)ひさしぶりの観劇だったので、チケット入手方法も調べず、当日券狙いで早めに会場へ。開場5分前にようやくキャンセル待ちで入場。ゆっくり見た。
3)テントとはいうものの、すでに実際のテントではなく、ビルの8階での公演だった。客席を見ると、やはり私と同じような往年からのファン層が多く、なんだか見知った顔も多い。ややセミ同窓会的な雰囲気。
4)ストーリーそのものは、タイトル通りの内容。「窓際」と「セロ弾きのゴーシュ」で、殆どの内容が分かってしまう。だが、ゴーシュがカラオケ会社の中年で、猫がラーメン屋の出前、カッコウがガードマン、タヌキが妊婦さん、ネズミが掃除婦のおばさん、というところは、なるほどと納得。
5)主演の斎藤晴彦は1940年生まれだからすでに71才。40年前でもすでに「大人」だったから、30+40で、あっという間の人生だと、敬服。はっきり言って、年齢それなりの声量だったりしたが、それでも体の柔らかさや身のこなしは、さすが。
6)あとの役者たちについては知らないが、それでも、当時の黒テントの雰囲気がだんだんかもしだされ、自分が17歳の高校生なのか、57歳のおじいちゃんなのか、よくわからなくなってきた。
7)ピアノの住友郁治の演奏もよかった。芝居が終わったあとに、最後の演奏があり、なるほど、これがいわゆるゴーシュのアンコールの独奏の部分なのだな、とあらためてシナリオの出来に納得。
8)3.11後に宮沢賢治を読む、という志向性のもとで見た演劇だったが、この公演をみたかぎり、まったく3.11を意識させない(なにも触れられていなかった)芝居であった。
9)それがいいのか悪いのか、私にはわからない。一緒に黒テントを高校時代にみた友人は、今週末に、被災地でおなじ宮沢賢治をモチーフにした自作の芝居を打つ。それをみてから、私なりに考えてみよう。
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<2>よりつづく
「上弦の月を喰べる獅子」 <3>
夢枕 獏 1989/08 早川書房 単行本 572p
★★★★★
1)これまでは、アガータ=アーガタつながりで、この長編小説を読んでいた。宮沢賢治が重要なファクターになっていたことは知っていたが、それはあくまで副次的なもので、あくまでもキーワードとしての「アガータ」の旅の中での「上弦の月を食べる獅子」だった。
2)今回は、3.11後における宮沢賢治を読む、というプロセスの中で、この本を思い出し、もう一度めくってみることになった。
3)いざめくってみれば、やはり前回同様、私個人は「アガータ」探しの旅にウエイトがあり、むしろ、今回の読書で、「アーガタ」の細かいディティールも鮮明になってきて、もう、ここまでくれば「アガータ=アーガタ」と、納得してもいいのではないか、とさえ思えてくる。
4)しかしながら、この小説がSFマガジンに描かれだした86年という同時期ではあったが、私はSFマガジンの読者でもなく、他の誰かからも聞いた記憶はない。この同時性は一体どうしたものか、と、いまだに不思議であることに変わりはない。
5)「アガータ」と「アーガタ」は一つのことを表わそうとした二つの言葉であるとして、夢枕獏の「アーガタ」も小説の中では完結したとしても、その意味するところは、多義性に包まれているのだから、あえて、私は私なりに、いまだに「アガータ」を標榜し続けるということは可能であろう。
6)つまり夢枕の「アーガタ」に共感しつつ、それは彼なりの理解であり、彼なりの表現であるのであって、私の「アガータ」は、かなりの同義性をもつつつ、もっと他とのリンクも可能なのであり、独自なファクターを秘めている、としておこうと思う。
7)いざ、そう思ってみれば、この小説の中に出て来る宮沢賢治もまた、共感しつつも、それは作者の中の宮沢賢治なのであって、そこに共感しつつも、それに包括し得ない賢治像を私は私なりに持っている、ということになる。当然のことだが。
8)巽孝之はかなり牽強付会にスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」とこの小説を繋げてしまっているが、かなり想像力を必要とする論点ではある。
9)そして、この小説においても、この小説の中に宮沢賢治を強引に引きこんでいく手法というものは、果たして、一般的な賢治ファンから見た場合、どうであるのだろうか、と、ふと考える。
10)この小説を読みながら、小さい頃に「鉄腕アトム」を読んでいた時のことを思い出した。
11)マンガの中で、アトムの妹、ウランちゃんが、敵の手にかかり、魔の実験室の実験台に乗っている。そして、電機のこぎりのようなもので、縦に右と左に、真っ二つに裂かれてしまうのである。あわや、と思う間もなく、その体の断面から泡状のモノが湧きだし、半身だった二つの体は、やがて、二人のウランちゃんになってしまうのである。
12)この後のストーリーはどうなってしまったのかぜんぜん覚えていないが、まだ小学校4年か5年であった私は、そうとうにエロチックなものを感じたのだった。まだ精通もしていないわが性器が、もの悲しく勃起したのだった。
13)この「上弦の月を食べる獅子」という小説、小説読みでない私に、なにか理屈を超えた情動の波を押しせる力がある。意味も分からず、整理もつかないが、それでも体の心底から揺さぶりをかけてくる力がある。
14)さて、このようなエロチシズムと情動的な力は、宮沢賢治という存在と、うまく整合性がとれているものだろうか。童話的ファンタジー的な賢治ワールドにおいて、さて、このように成熟した大人の感性は、どこまで絡みこんでいるのだろう。
15)考えようによっては、当ブログとこの小説の構造は似ているかもしれない。アガータとして海より来たり、有楼へと昇りつめようとする。しかし、そこに至るとなにもない。
16)双人 樹よ、一本の円生樹と呼ばれる生命であるところの存在よ。私は、この蘇迷楼(スメール)の頂へゆこうとするアーガタです。しかし、私にも、私という存在がどうして、この蘇迷楼に生じたのか、わからないのです。獅子宮(アイオーン)というものの存在も、私にはよくわからないのです。それは、いったいどのような存在で、いつからあるのでしょう。p458「望の倶」
17)あるいは、この燃え立つような情動的な求道心こそが宮沢賢治なのであって、メルヘンタッチな童話にとどめて理解しようとするほうが邪道なのではなかろうか。だとするならば、この業と縁に導かれる世界こそ、当ブログが同調すべき賢治ワールドである、ということもできよう。
18)この小説の中で、繰り返し、南無妙法蓮華経、のマントラを繰り返すうちに、いつか津田真一の「反密教学」を思い出した。この本、初版は1987/09である。あまりに名著なので、自分でも欲しいと思っていたところ、増補新版が2008/10がでたのであった。その時、新たに法華経にまつわる新しい研究の成果が発表されたのであった。
19)この部分も大変重要な部分であったのだが、追っかけも中途半端になってしまっていた。今、あらためて宮沢賢治を読むにあたって、ふたたび、賢治の立脚点である法華経を読む直す必要があるようだ。
20)3.11とは極めて今日的で広大な意味を持ったテーマだが、少なくとも当ブログにおいては、いままで見過ごしてきたことの再認識、やりかけていたことの再スタート、そして、ひとたび終えたと思っていたサークルの、ひとつの螺旋の上昇、そのことを意味するようである。
21)家人が、二階へ上ってゆくと、賢治は、床に大喀血し、青白い顔で法華経を唱えていた。
その賢治を見、最期と見た父が、賢治に遺言を訊いた。
賢治の遺言は、「法華経」1000部を刊行し、それを知己に配ってもらい、
「私の生涯の仕事はこの経をあなたのお手元に届け、そしてその中にある仏意にふれてあなたが無上道に入られんことをお願いするのほかありません」
との意を文章をそれにそえてもらいたいというものであった。p546「果の輪の結び」
22)最終章において、このように描かれているかぎり、やはりこれは、少なくとも半分は賢治へのオマージュと見ていいのだろう。
23)何度か、この物語を中断しようとした時、もし、誰か、ぼくよりこの物語にとってふさわしい書き手がいるのなら、その人間にこの物語を書き綴る役をかわってもらいたいとさえ思った。その方が、この物語のためだからだ。p556「次の螺旋の輪廻りのために」
24)たしかにこれは夢枕獏「アーガタ」&「賢治」ストーリーなのだろう。
25)この小説、賢治の絶筆の二首でしめくくられている。「私は誰か」の帰結はこのようでなくてはならない、と密かに思う。私の「私は誰か」の旅も、芭蕉の絶筆で終わった。賢治、とくれば、やはり、芭蕉も大事である。いずれ、芭蕉と旅する時もくるはずである。
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「エマソン魂の探求」 自然に学び神を感じる思想<2>
リチャ-ド・ジェルダ-ド/沢西康史 1996/12 日本教文社 単行本 280p
★★★★☆
1)スナイダーへの系譜としてソローが上げられ、その師匠としてエマソンが上げられるのは、まずは常套の流れとしても、宮沢賢治までエマソンを読んで影響を受けたとなると、ここは一つ、この本にまずは目を通しておく必要があるな、と思った次第。
2)同じ著者、同じ訳者による「エマソン入門――自然と一つになる哲学」(1999/01)もある。
3)エマソンはすでに古典であろう。宮沢賢治も定番本ではあるが、やはり古典の領域に入っているはず。だから賢治が読んだとされるエマソンは、立派な古典であるはずである。3.11後に賢治を読むということは、そこに「東北」というキーワードが挟まっているだけに、確かに今日的に読むことも可能であろうと思われる。
4)エマソンは、ヨーロッパの呪縛を解いて、アメリカ独自の思想哲学を最初に打ち立てたとされるが、ダイレクトに3.11後に読むというのは、多少無理がある(私の場合)。スナイダーやソロー、三省や賢治を通してエマソンを仰ぐということは可能なようだ。
5)そもそも、3.11とは一体なんであろうか。地震は、あり得るものである。風や嵐のように、自然界の現象として、あり続けてきた。津波もまた、その定期性は多くの方面で指摘されている。自然と人間、という対置なら、そのままエマソンを読むことも可能なようだ。
6)ここに、3.11には新しい要素が含まれている。原発と放射能である。これは、自然界にはない、人間の生み出した業である。地震なら耐震性を高め、津波なら、高台移転と、職住分離という対策もとれそうだ。しかし、原発はなぁ・・・
7)エマソンに原発を乗り越えていく力を求めようとするのはちょっと難しい。もっとも原発を乗り越える思想は、そう簡単に転がってはいないが。
8)エマソンが私たちの時代に持つ意味を理解するのは難しいが、ソーローの場合にもそうであったように、彼がアメリカの各時代の文化的なムーブメントを育む豊かな地下水脈になってきたことは確かだ。
ホイットマンがエマソンからの影響を否定したというエピソードが残っているけれども、それを否定しようとしまいと、またエマソンは哲学者ではなく二流の詩人にすぎないと言おうと、、エマソンとその著作は人びとに対して不思議な感化力を持っているように思われる。
20世紀はアメリカの世紀だと言われるが、その「アメリカ」というシンボルの根底にあるものを見抜くのにエマソンは格好の手がかりになってくれるかもしれない。いや、アメリカにどどまらず、エマソンはその「自然論」をもって、環境の時代を生きる私たちにかけがえのない視点を提供してくれている。p279「訳者あとがき」
9)ゆとりを持って、エマソンとつきあっていこう。
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「自然と文学のダイアローグ」 ―都市・田園・野生 (国際シンポジウム沖縄2003)
山里 勝己・他・編 2004/09 彩流社 単行本: 258p
Vol.3 No.0505★★★☆☆
1)スナイダーがシンポジウムの基調講演「エコロジー、文学、そして新しい世界の無秩序」を行っている。頁数にして20頁に足らないものだが、最近のスナイダーの消息、少なくとも2003年当時の、日本における彼の活動が記録されているのは貴重である。
2)講演当時の写真が掲載されている。これでも8年前の写真である。
3)「文学」に関して言えば、「文学」が存在するために文字は必ずしも必要ではないということを我々はもう一度思い起こすべきだろう。文字が発明される以前には、口承だけの文学伝承がいくつも存在した。
このような口承文学の伝統には、いまでも元気に生き残っているものがいくつかあり、おびただしい数の謎々、格言、神話、リズムを伴った叙事的ナラティブ、世俗的な歌、宗教的なチャント、そして無数の物語などが含まれる。
この中の多くのものが自然を深く描いているが、これらはしばしば今日我々が「ネイチャーライティング」と読んでいるものとは異なっているように見える。p18
4)それぞれの嗜好やアカデミズム上の都合によりさまざまな分類がなされているが、スナイダー自身がネイチャーライティングに分類されていたりする事実をどう感じているだろうか。
5)「生態学」はもうひとつのキーワードである。その主要な語根はギリシャ語のoikosであり、それは単純に「家庭」を意味する。元来、生態学は生物間の相互関係や有機物と無機物の中を流れるエネルギーの研究を意味していた。
しかし、後になって、それは一般的に「自然」の同義語として使われるようになった。私自身は、初期の科学的な意味を強調しながらこの言葉を使っている。p20
6)スナイダーは初期的作品『地球の家を保つには』(Earth House Hold、1969年)の中で次のように記している。
7)エコロジー(ecology)の”eco”(oikos)の意味は”house”。すなわち地上の家を保つこと(Housekeeping on Earth)。 ゲーリー・スナイダー『地球の家を保つには』p226
8)意味はまったく同じことなのだが、どうも、シンポジウムのほうはアカデミズム的表現が要求されているので、少し堅苦しい。
9)このシンポジウムは沖縄大学の山里勝己の企画によるのであろうし、そういった意味では、山尾三省の 『アニミズムという希望―講演録・琉球大学の五日間』(2000野草社)と対をなす仕事であろうと思われる。
10)現在の当ブログは、スナイダー→賢治→3.11後を生きる、というプロセスにいるので、このシンポジウム記録の他の部分は割愛する。
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「The Back Country」 奥の国 <1>
Gary Snyder (著) 1971/06 ペーパーバック: 150p 出版社: New Directions; New版 言語 英語,
Vol.3 No.0504★★★★☆
1)この本、未読ではあるが、スナイダーが賢治の詩集から18編の短詩を抜き出して、必ずしも「翻訳」と銘打たずに、英訳した部分が収録されている。1967年初版。いずれは読みこむとしても、ネットの「なか見!検索」で、その訳詩のタイトルが掲載されている目次を見ることができる。
2)「春と修羅」が「Spring and the Ashura」となっていたりするわけである。いずれ、ひとつひとつチェックしよう。
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「アメリカ現代詩の愛語」 スナイダー/ギンズバーグ/スティーヴンズ
田中 泰賢 1999/08 英宝社 単行本 265p
Vol.3 No.0503★★★★☆
1)「愛語」とは、「愛した言葉」くらいの意味かな、と思ったが、著者にとっては、もっと意味深いキーワードであった。
2)この論文(修士論文)の副題に用いた愛語という言葉は道元禅師が著書「正法眼蔵」の「菩提薩埵四摂法」(ぼだいさったししょうぼう)の中で使われている。道元禅師は仏道を求める菩薩の修行には布施、愛語、利業、同時の四つがあると述べて、この四つについて詳しく説いている。(中略)
道元禅師は愛というは、衆生をみるにまず慈愛のこころをおこし、顧愛の言語をほどこすなり。慈念衆生(じねんしゅじょう)、猶予赤子(ゆうにょしゃくし)のおもいをたくわえて、言語するは愛語なり。徳あるはほむべし、徳なきはあわれむべし、怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむこと、愛語を根本とするなり。むかいて愛語をきくは、きもに銘じたましいに銘ず。愛語よく回天のたからあることを学すべきなりと述べておられる。pi「まえがき」
3)古色蒼然とした言葉使いを、アメリカ現代詩、というハイカラなモダニズムに連結させようとするのが、著者の持ち味なのだろう。処女作は「ゲイリー・スナイダーの愛語」(1992)である。
4)ギンズバーグもスナイダーも若い頃はヒッピーといわれるような生活をしていたと見られる傾向があるが、本当は違っていた。それは自己を見つめ、修行するためであって、決して自堕落な生活におぼれていなかったのである。piii「同上」
5)1946年生まれの著者はどうやら仏寺に生まれて、父から得度を受けた人のようでもあるが、このような人に「ヒッピー」をこのように表現されると、なんだか納得できない。これでは、すべての「ヒッピー」は、「自己をみつめず、修行をせず、自堕落な生活におぼれている」かのように想像してしまう。あるいはスナイダーはとても品行方正なお方に思えてしまう。
6)宮沢賢治は信仰深い家で育った。両親も、兄弟たちも心の温かい人であった。彼は中学時代、曹洞宗の清養院、浄土真宗の徳玄寺、時宗の清淨寺に下宿している。曹洞宗の報恩寺で坐禅もしている。piv「同上」
7)この辺もなんだかなぁ、・・・。堅苦しいやらステロタイプの表現が連続していて、いまひとつイメージが広がらない。
8)宮沢賢治は挫折しながら、起き上がる達磨のように生きた。それはスティーヴンズも、ギンズバーグも、スナイダーもやはり挫折をバネにしていきた点では共通していると思う。彼らは個性豊かな無我に生きようとした詩人たちであって、そこから愛語、即ち真言が湧き出ているのである。1998年春 piv「同上」
9)スナイダー→賢治の脈絡を尋ねて、この本もめくることになったのだが、最初からこの調子だと、ちょっと当ブログのセンスとは違うなぁ、と感じて足がひいてしまう。しかしながら、貴重な資料であるから、メモは残しておこう。
10)第1章は「スナイダーと道元 森と水の循環思想」だ。スナイダーが修行したのは臨在禅であったと思うが、たしかにスナイダーは臨在禅の他、道元に触れていることが多いようだ。つまり、ヒッピーといわずとも、スナイダーが自らを表現する「ロングヘアー」としての「「自己をみつめず、修行をせず、自堕落な生活におぼれている」かのようなイメージに対比すると、道元の「正法眼蔵」に触れたりすれば、見事な対比が生み出される。
11)この本には、スナイダーの詩と邦訳が対置してあって、分かりやすい。なるほど、こうなるか、という美しさがある。考察も興味深いのだが、道元やスナイダーが「素晴らしければ素晴らしいほど」、その文章を書いている本人が問われることになる。他者を美化することなど、それほど難しいことではない。
12)第2章は「スナイダーと宮沢賢治 宇宙的でくのぼうの道を歩む詩人たち」p19である。
13)暁烏敏(あけがらすはや1877~1954 僧侶)は賢治が33歳の頃、アメリカのサンフランシスコやバークレーから程近い町、オークランドで法話を行い、その後エマーソンの墓参りをしている。
その後暁烏が亡くなる1950年代初期、アメリカの詩人、スナイダーはオークランドから近いバークレイの真宗寺院に仏教を学ぶために通っていた。そこで賢治の書き残した「雨ニモマケズ」の英訳に出会って感銘を受けている。p19
14)一説に、日本に来てから触れたという報告もある。エマ―ソンについては別途読み始めている。
15)スナイダーが日本の文化に出会ったように、賢治もアメリカ文化に接触している。(中略)賢治は15歳の頃にはとにかく変わっていて汚れ物はかまわず押し入れにつっこみ教科書は見ず、「中央公論」の読者で、エマーソンの哲学書を読んで友人を驚かせたという。このように賢治がエマーソン(1803~82)の作品に読み耽ったのも、さきほど述べたエマーソンの墓参りに行った暁烏敏と何かの不思議なつながりを覚える。p20
16)エマーソンやソローとの絡みのなかで、スナイダーと賢治の出会いを浮き彫りにしていく部分は興味深い。
17)スナイダーは賢治と出会った様子を次のように述べている。
I first came across his hamous poem"Ame nimo makezu" while attending study-sessions at the Berkley Buddhist Church (Jodo Shin) in the early fifities. I was impressd.
1950年代初期といえば、スナイダーがカリフォルニア大学バークレー校で日本語、中国語を学んでいた頃である。そのバークレーにある浄土真宗のお寺に仏教を学びに行った時、賢治の作品「雨ニモマケズ」の英訳に出会い、印象深いものを覚えたのである。
I don't know who translated that first version of Kenji's poem I came across in Berkeley.
その英訳が何時、誰によって訳されたものかは残念ながらわからない。ただ筆者は「雨ニモマケズ」の二つの英訳のみ確認している。(中略)
スナイダーは「雨ニモマケズ」の英訳を読んだ青年時代の思い出を振り返ってこう書いている。
I was impressed basically by the message of it, the call for selflessness, simpliity, and generosity.
スナイダーは、その作品から伝わる思想、こだわりのなさ、質素さ、及び寛大さに注目している。そしてスナイダーはこれをきっかけに賢治の作品を学んでいった。
Later, living in Kyotom I read a number of translations of his stories.
彼が読んだのは英訳によるものであったが、理解できた様子を次のように書いている。
While linving in Kyoto and reading Miyazawa's little stories I had no doubt that I understood what they ware about. They are wonderfully clear and tranparent.
さらに彼は賢治の作品を一層深く理解するために原文を読むことに思い至っている。
Then I got the idea of reading more of his poems. I arranged with a Kyodai graduate student to sit and read Miyazawa with me. For several months we met one night a week and he helped me read poems. Our text was the standard Iwanami Bunko"Miyazawa Kenji Shisyu" edited by Tanikawa.
彼と原文を読むのに時間を割いてくれた京都大学大学院生の名前は覚えていないという。彼は原文を読むことによって賢治の世界に一層深く入っていくことができたはずである。
だから彼は「春と修羅」から17編、及び「雨ニモマケズ手帳」中の「月天子」の計18編を英訳し、彼の詩集「奥の国」(The Back Coutry)に収めている。彼は翻訳の際、日本文学に造指の深い友人で、さきほどあげたワトソンに指示を仰いでいる。
I selected the paperback version of Miyazawa to translate at the suggesion of my friend the scholar Burton Watson. p20
18)この本、ここから各作品論に突入していく。そして本の内容としては、これでもまだごく一部だ。「アメリカ現代詩の愛語」というテーマにそって展開していくわけだが、当ブログの「3.11」後に賢治を読む、というテーマから少し離れていくので、今日この本に触れるのは、このくらいにしておく。他日、再読しよう。
つづく、だろう。
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「環状島=トラウマの地政学」
宮地尚子 2007/12 みすず書房 単行本 228p
Vol.3 No.0502★★★★★
1)宮地尚子「震災トラウマと復興ストレス」(2011/08) は、「3.11」後に書かれたものであり、テーマをそこに絞り込んでいる。その元本はこちらの「環状島=トラウマの地政学」(2007/12)である。
2)この「環状島」というモデルは、私自身のサバイバル・マップとして描かれはじめ、徐々に発展してきたものであり、現在もその機能を果たし続けている。私は、精神科医としてトラウマ被害の回復支援にあたってきた。p6「トラウマについて語ること」
3)実際に、ひとつひとつのケースに真正面から向かってきた人こそ、このような大局的かつ俯瞰的な視点が必要だったのだろうし、必然的に、この様な人にこそ見えてきた世界であろう。
4)繰り返すが、「環状島」というモデルは、私が自分の巻き込まれた状況を整理するために、そして混乱の中から思考を進めるためにつくりあげた、頭の中の概念図である。実在するわけではないし、完成したものでもない。つじつまが合わないことも多々あるだろう。p17「同上」
5)この環状島モデルには、風や重力、水位といった、重要なファクターも加えて考えてみなくてはいけない。ただ、私は3.11以降の自分の立ち位置を、この図式の中で、実にはっきりと明確することができた。今後も多いに役だつはずである。
6)本書でとりあつかうのは、トラウマについて語ることの可能性、そして語る者のポジショナリティの問題である。p3「同上」
7)私はこの図式をトラウマについてではなく、「エンライトメント」について転用することができないか、と考える。そして、それを、例えば、ケン・ウィルバーの「インテグラル・スピリチュアリティ」と比較してみると興味深い。
8)吉福 要するに物理化学の分野で、大統一理論というのが希求されているでしょう。その大統一理論を作ることによって、トランスパーソナルという学問分野を展開させて、単に心理学に留まらず、これまでのあらゆる人文科学やハードサイエンスも含めたところまでを統合していきたいというのが、ケン(・ウィルバー)の考えですね。そのケンの根っこにあって、彼のやった仕事の中で最も洞察が働いているのは、物質であれ、人間の心であれ、存在するものはすべて、いくつかの一貫性のある原理によって動かされているという考え方なんです。吉福伸逸「楽園瞑想 神話的時間を生き直す」p218
9)ここまでウィルバーの本を読み進めてきたかぎり、「インテグラル・スピリチュアリティ」は失敗作である。ないし、ウィルバーは、あれではついに表現しきれないものを表現しようとするというジレンマを最終的にも突破できないと思われる。
10)宮地のトラウマ環状島モデルを、あらたなるエンライトメント環状島モデルに作り変えることも可能なのではないだろうか。内海にすでに「行ってしまった」人達をおき、外海に無意識層を置く。そして、「尾根」の上には「菩薩」達を置く。
11)行ってしまった人たちに、言葉はない。あるいは言葉では表せないからこそ、「行ってしまった」と言われるのだ。これは、トラウマ環状島の爆心地からの声が聞けない、という図式に似ている。
12)Oshoがニーチェやカリール・ジブランを高く評価するのは、エンライトメント環状島モデルの「尾根」の上にいて、あえて、幻視の「エンライトメント円錐島」の頂上を語ろうとしているその姿に同調してのことだろう。
13)ウィルバーが、エンライトメント円錐島をあるものとして、最後の最後まで表面化させ、図式化できるものとして努力している限り、その試みは成功するはずがなく、また、全体の真理性が失われるのである。
14)「真上」「垂直」というメタファーは、村上春樹の「ねじ巻き鳥クロニクル」における井戸を私に思い起こさせる。「ノモンハン事件」の後、中国大陸で深い涸れ井戸の底に放置され、何日も過ごす日本軍の注意。暗闇の中、一日一回わずかな時間だけ、太陽の光が井戸の底まで届く。真上に太陽が昇る、正午に近い時間。自分の存在が、自分の傷が、日のもとにさらけ出される瞬間。p160宮地尚子 「井戸の底」
15)トラウマ環状島モデルを、自分なりに作り替えるとすればどうなるのか、ということについて瞑想している時、私にもまた村上春樹の「ねじ巻き鳥クロニクル」のイメージが漂ってきた。
16)この小説を読み解くにあたって、あるいは村上春樹という作家をめぐって、さらにはそれらをとりまく読者や翻訳者やら評論家やら、あるいは私のような通りがかりの野次馬を含めたハルキワールドを読み解くあたって、「ルーツ&ウィング」という、たまたま思いついたスケールの目盛は、有効に役立ってくれそうな気がする。Bhavesh「ねじまき鳥クロニクル(第2部)予言する鳥編」
17)宮地は同一平面上にあって、爆心地がずれている「複数の環状島」モデルを語っているが、実は、爆心地を同一にしながら、立体的に二つ重なった「トラウマ---エンライトメント」複合環状島、ともいうべきモデルが存在しているのではないか。
18)トラウマの中心においては発声力は失われる。そしてまた、エンライトメントの中心においても表現されるものは失われている。そして、それぞれの尾根は一点に重なっており、そこにこそ、アートの限界がある、と言えるだろう。
19)ルーツ&ウィングが、当モデルの幻視である。宮地モデルは、ルーツに偏っている。ウィルバーはウィングに偏っている。この二つを組み合わせて一体化することこそが、当ブログにおける「3.11後を生きる」カテゴリである。
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「震災トラウマと復興ストレス」 Vol.3 岩波ブックレット <3>
宮地尚子 2011/08 岩波書店 全集・双書 63p
★★★★★
1)この本に添付されている図式が極めて興味深い。
2)当然この図式は、震災地におけるトラウマやストレスについての実際的な体験から生まれてきたものだが、この図式を例えば、歴史津波と重ねてみたらどうだろう。
3)「仙台津波の歴史的津波」(1995 宝文社)の飯沼勇義は、地元の郷土史家として、勤務校の地域を手初めに、沢山の史跡を調査し続けてきた。その断片的な資料が、点から線、線から面、そして、面からついに立体的な形で、400年前の慶長津波(1611年)、1000年以上前の貞観津波(869年)の実体をあぶり出したのである。
4)史料上にける尾根の部分から外斜面の傾斜角度を推測し、内斜面からさらに内海化してしまった、本当の被害地を幻視した。そして、そこから消えてしまって、歴史に一切残っていない「円錐島」をあぶり出したのだ。
5)3・11の16年前からいわゆる「赤本」を出して警告していたのだが、飯沼の警告をマトモに受ける人は少なかった。が、彼が見た「環状島」→まぼろしの「円錐島」は、まさに存在していたのである。
6)そのことは、今回のこの3.11で実証されてしまった。「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」にその執念の人生がにじみでている。
7)今後、被災地の中から、どのような文学、詩やアートが生まれてくるのか楽しみです。宗教やスピリチュアルな領域においては、東北は豊かな民俗文化ををもっていました。口承伝承の再評価、祭りや儀礼の復活再生、新たなタイプの祭りや儀礼の創造は、<内海>に沈んだ犠牲者たちの声をよみがえらせ、後世にまで伝えることでしょう。p61宮地尚子「復興とストレス」
8)今、当ブログは、「3.11後を生きる」というカテゴリのもと、宮沢賢治の世界にアプローチし始めている。そして、この宮地の「環状島」モデルから、「円錐島」の幻視へ突出していけるように、意識をクリア化し始めている。
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「神秘主義―ヨーロッパ精神の底流」
川端 香男里 編 他 1988/05 せりか書房 単行本: 217p
Vol.3 No.0501★★★☆☆
1)こちらも山里勝己「場所を生きる ゲ-リ-・スナイダ-の世界」の<註>を手掛かりに探してきたものだが、スナイダー←→賢治の相互ベクトルを探しだすにには、貴重な手掛かりと言える。お目当ては志村正雄の「神秘主義とアメリカ文学」という40頁弱の小論。
2)こういうところから出発してスナイダーは日本の宮沢賢治を発見した。ここにはオルソンの理論をその30年も前に実行していた詩人がいたと思ったに違いないと私は思います。
野山を歩きまわって、首からさげた書冊にすばやく詩を書いて行ったこの神秘主義詩人の作品にスナイダーは共鳴したに違いありません。
だから詩集「奥の国」」(バック・カントリー)(1968年)の第五部を「宮沢賢治」と題して、実体は18篇の賢治の英訳でありながら「訳」という言葉をどこにも使わずに提示したのだと思います。つまりスナイダーが賢治になって、もしくは賢治がスナイダーになって、これを英語で書いたという含みなのです。p203
3)なるほど、これはますます「奥の国」と、それに対応する賢治の詩集を探してみたくなる。
4)この本、「神秘主義」と銘打たれている。日本語において似たような言葉で表現されているものが複数あるが、厳密にどのように違うのかは、微妙なところ。
5)ただ、実際には、当ブログにおいて、三省→スナイダー→賢治、という流れの中で、当ブログ自身は、Oshoの「神秘家への道」へと繋がっていこう、としているわけだから、願わずして、おもしろい方向に展開しているぞ、という期待感が湧いてきた。
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「現代詩手帖」ゲーリー・スナイダーと宮沢賢治についての覚書
富山英俊1996/03 思潮社 雑誌
Vol.3 No.0500★★★★☆
1)ゲーリーは入谷(義高)から中国語の手ほどきを受けていたのだが、その進歩は著しかった。そしてもう一つは、1933年にこの世を去った日本の偉大な詩人、宮沢賢治の詩の英訳(抄訳)である。この英訳も優れたもので、ゲーリーが賢治と自分との類似性を直感し、その仕事をやったことにぼくは特に興味を抱いた。
「スナイダーは賢治の生まれ変わりだ」と言う人もいて不思議ではないと思った。
なるほどこの二人には共通するところがいくつかある。二人とも自然をこよなく愛するタイプの詩人だし、賢治はその言葉こそ知らなかったが、ともに真摯な「エコロジスト」だ。賢治の「昴」をみれば、そのものずばりの詩行がある。
山へ行って木をきったものは
どうしても帰るときは肩身がせまい
そして賢治は法華経だったが、二人とも仏教徒だ。詩集「亀の島」に収められた「詩人といえば」という作品から、寒山と賢治の詩的精神が融合したゲーリーの詩学をみることができる。p13
2)1996年における「ゲーリー・スナイダー アンチ・ビートの詩人」特集号である。12人の人々が50ページに渡って思い々々にスナイダーを語っている。息子たちのカイ・スナイダー「詩人の父をもつのは・・・」、ゲン・スナイダー「ぼくが学んだこと」などが興味深い。ただ、全体的に短文が多く、ちょっと物足らない。特にスナイダーから宮沢賢治を見ようとしている現在の当ブログとしては、この富山英俊の文章以外に強いインパクトは感じなかった。
3)しかし、最後尾についている「ゲイリー・スナイダー年譜」(遠藤朋之・編)は興味深い。突然だが、当ブログの隠れ主人公として転生魂<多火手>が存在する。彼の時代性を考える時、スナイダー本人とは言わないが、その周辺の潮流の中で、あの時代を漂っていたということはできる。そのことを現象化するには、ケルアックの「路上」や「ザ・ダルマ・バムズ」と重なってくるから、不思議である。
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「アメリカ現代詩ノート」
金関 寿夫 (著) 1977/07 研究社出版 単行本 270p
Vol.3 No.0499★★★★☆
1)この本の中に収められた「ゲイリー・スナイダー、仏教、宮沢賢治」と銘打たれた小論文はそう長いものではない。もともとは「無限」(という雑誌か)1975年10月号に書かれたものである。
2)私(金関)はその頃(1956年)京都にいて、洛北大徳寺にあった米国第一禅教会なる機関で、一種のアルバイトとして古い禅語録の英訳を手伝ったりなどしていた。スナイダーはそこへ、先年死んだアラン・ワッツの推薦でやってきたのである。p207
その間彼の日本語、漢文の知識の進境は目ざましく、「寒山詩」の一部、宮沢賢治の詩の一部を英訳したほどである。p207
スナイダーは、前述したように、自分でもその幾つかの詩を英訳するほど宮沢賢治に傾倒している。しかも賢治は、日本詩人のなかで、芭蕉につぐ大詩人ではないか、とさえ言うのである。そう言う理由は、おそらくひとえに賢治のもっていた宇宙的ヴィジョンや、人生と詩への真剣なコミットメントが、その詩作によく現われていると認めたからであろう。つまり賢治は、自分と同質の詩人だったのである。
同質といっても、違ったところも勿論たくさんある。第一賢治には、スナイダーにないとぼけたユーモアがある。だがそのかわりスナイダーのもつ、あの花崗岩のような堅く引き締まった形式感覚に乏しい(つまり賢治のダラダラ書き連ねる欠点)。それにこの二人は、性(セックス)に対する態度がまるで反対である。
すなわちスナイダーは、その解放をうたい、賢治のほうは、その抑圧のもとに詩を書いた。したがって賢治の詩には、スナイダーにはまったく認められない日本的な憂鬱がある。それに(おそらくこれが一番大事な相異点だとおもうが)賢治には人生への深い挫折感があり、それにともなうどろどろしたわだかまりのようなものが、彼の多くの詩のモニュメントになっているが、スナイダーには勿論そういうものはなく、もっとアメリカ風にカラッとしている。
しかし二人とも、宇宙と自我との究極的一体化を信じる点において、根本的に仏教徒なのである。p209
スナイダーと賢治の共通性を考えるばあい、私にとってもっとも面白いことは、二人の仏教的世界観が、いずれも自然科学への強い関心と両立している点である。賢治がさまざまな科学の分野(地質、天文、化学、動植物学その他)にかなりの知識をもっていたことは周知の事実だし、これも彼の作品を一読すれば、いろいろな科学用語が(ときにはわずらわしいほど)現われることに気がつくだろう。
この点スナイダーも同じである。彼も大学では人類学、民族学を専攻として修めたし、また素人として、やはり地質、天文、動植物学に、相当な知識をもっている。だがこれら二人の詩人にとって、科学と宗教とは、ふつう近代人が考えるように、互いに和解しがたい対立物では決してないのである。
すなわち科学というものを、西洋合理主義精神が生み出し、とくに産業社会の出現以来、もっぱら自然の生命を育てるよりは、むしろそれを殺し、征服するのに用いられたもの(すなわちテクノロジーと通常混同されるもの)とは、彼らは考えない。逆に科学の真の目的は、宇宙の万物の相互関係を調べ、万物の生命の交流と助長することにある、として捉えるのである。p210
賢治の語意のなかには、生態学という言葉はなかった。だが彼の詩の至るところに生態学的な考えを見つけることはやさしい。例えば「山へ行って木をきったものは/どうしても変えるときは肩身がせまい(「昴」)という二行は、そっくりそのままスナイダーのものだといってもいいし、彼の「真空溶媒」という、科学現象をモチーフとする長い詩のなかで、おそらく最も美しい部分は、はっきり生態学的と言える感覚を含んでいる。p213
賢治も、宇宙と人間とは究極的に一体であり、詩人も宇宙のエネルギーをとって仕事をするという、根本的には大乗仏教、ひいては生態学的な考え方において、スナイダーの考えと完全に一致する。
例えば「風とゆきさし雲からエネルギーをとってきた」という賢治の言葉は、そのままスナイダーの言葉としても別におかしくない。なぜなら、スナイダーの「詩人の種類」という詩の第二連など、賢治の上の言葉をそっくり言いかえたのではないか、とさえ感じられるからである。p213
それからさいごに、賢治をスナイダーに近づけるもう一つの要因がある。それはほかでもなく、いわば中央集権的な日本の「詩壇」からはっきり独立して、自分自身の詩をつくり、「職業詩人」としてではなく、むしろ「生活者宮沢」として思索をした彼の態度である。p214
賢治の生活全体からする、このいわば非芸術的なコミットメントは、日本史の伝統には異端なものであったが、アメリカ詩の伝統ではむしろ正統なものなのである(その代表としてホイットマン)。そしてとくにスナイダーは、アメリカ詩のこの伝統の上に、しっかりと立っている。p214
賢治という詩人は、東京の詩人というより、むしろアメリカ詩人のほうに近づいている。p215
スナイダーは、わびやさびの伝統、それとフランス伝来のサンボリスムで、いわば骨がらみになっていた日本の詩壇からではなく、むしろそうした詩的風土の圏外から、一人の純粋な「仏教詩人」を発見したのである。
すなわちときには菩薩行を行ない、そしてときには修羅となって天駆ける一人の詩人、宮沢賢治を、まさに自分の分身と認めたのである。そういうふうに考えるならば、真に没我の詩人であった賢治が、日本近代最高の詩人として、スナイダーの眼に映ったとしても、少しもおかしくはない。
それにこの日本のすぐれた農村詩人は、アメリカ詩人がいま直面している問題に、すでに半世紀も以前に、はっきり直面していたのである。p215
3)じつにみごとな一文である。スナイダーを通して賢治を見るとは、こういうことか。この二人の絡みのなかに、当ブログでは、山尾三省をダブらせている。三省の、場や、詩、仏教に対する態度は、二人に共通するようである。ただ科学に対する姿勢は、この二人に比すれば、やや批判的である。性に対する態度や憂鬱などは賢治に似ているだろう。現代人であったということで言えばスナイダーと三省は深い同時代性としてコミットメントしていた。
4)他に「詩と地理 ゲイリー・スナイダーとの三週間」p217という文(1975年)もつづき、こちらはキットキットディジーに金関が滞在したときのレポートとなっており、1975年当時の風景が活写されて、極めて興味深い。
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「宮沢賢治の心を読む(1)」 <2>
草山万兎 2011/09 童話屋 単行本 157p
宮沢賢治関連リスト
「正続 宮沢賢治素描」 関 登久也 (著) 1948/02 真日本社
「The Back Country 奥の国」 Gary Snyder 1971/06 New Directions
「銀河鉄道の夜,風の又三郎,ポラーノの広場 ほか3編」宮沢 賢治 (著), 天沢 退二郎 (編さん) 1971/07 講談社
「校本宮沢賢治全集第12巻上」 雑纂,校異 「農民芸術概論綱要」 1975/12 筑摩書房
「アメリカ現代詩ノート ゲイリー・スナイダー、仏教、宮沢賢治」 金関寿夫 1977/07 研究社出版
「唐版 風の又三郎」 唐十郎1979/10 冬樹社
「セロ弾きのゴーシュ」 高畑勲監督 1981 アニメ VHS
「野の道 - 宮沢賢治随想」 山尾三省 1983/11 野草社
「竜のはなし」 戸田幸四郎・画 1983/12 戸田デザイン研究室
「宮沢賢治」 存在の祭りの中へ 見田宗介 1984/02 岩波書店
「銀河鉄道の夜」 杉井 ギサブロー/監督 1985 朝日ビデオ文庫 VHS
「KOJURO AND THE BEARS」 Junko Morimoto 1986/11 HarperCollins
「兄のトランク」 宮沢清六 1987/09 筑摩書房
「長岡輝子 宮沢賢治をよもう」 ETV8シリーズ 授業 1987/9/29放送 NHK VHS
「神秘主義とアメリカ文学」 志村正雄 1988/05 せりか書房
「注文の多い料理店」 スズキコージ絵 ミキハウスの絵本 1988/05 三起商行
「風の又三郎」 宮沢賢治名作アニメシリーズ 1988/08 コナミ VHS
「上弦の月を食べる獅子」 夢枕 獏 1989/08 早川書房
「風の又三郎/ガラスのマント」 伊藤俊也/監督 1989 朝日新聞社 VHS
「星座紀行 宮澤賢治 銀河鉄道の夜」 斎藤文一監修 加藤登紀子語り 1990/02 平凡社 VHS
「雪わたり」 方緒良・絵 ミキハウスの絵本 1991/11 三起商行
「宮沢賢治の宗教世界」 大島宏之編 1992/01 北辰堂
「先生はほほーっと宙に舞った」 写真集 宮澤賢治の教え子たち 鳥山敏子 (著), 塩原 日出夫 (写真) 1992/07 自然食通信社
「よだかの星」 「虔十公園林」 ピーマンハウス 1993 VHS
「雪渡り」 宮沢賢治/原作 四分一節子/監督 1994/07 VHS
「水仙月の四日」「烏の北斗七星」 ピーマンハウス 1993 VHS
「宮澤賢治をめぐる冒険」水や光や風のエコロジー 高木仁三郎 1995/04 社会思想社
「哲学の東北」 中沢新一 1995/5 青土社
「氷河ねずみの毛皮」 宮沢賢治・原作 1996 T&Kテレフィルム VHS
「賢治の学校」 宇宙のこころを感じて生きる 鳥山敏子 1996/03 サンマーク出版
「ゲーリー・スナイダーと宮沢賢治についての覚書」 富山英俊 現代詩手帖 1996/03
「インドラの網」 宮沢 賢治 1996/04 角川書店
「学者アラムハラドの見た着物」宮沢 賢治 1996/04 角川書店
「宮沢賢治への旅 イーハトーブの光と風」 NHK 1996/09 朝日新聞社 VHS
「宮沢賢治への旅 ほんとうの幸せを求めて」 NHK 1996/09 朝日新聞社 VHS
「ポエム/宮澤賢治 シグナルとシグナレス 春と修羅」 朗読・結城美栄子 1996/09 ポニーキャニオン VHS
「宗教詩人 宮沢賢治」―大乗仏教にもとづく世界観 丹治 昭義 1996/10 中央公論社
「イーハトーブ幻想 KENjIの春」 監督:河森正治/佐藤英一 1996/12/14 日本テレビ系列上映
「猫の事務所」 宮沢賢治/原作 監督: 福冨博 1997/01 VHS
「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の原稿のすべて」 宮沢賢治記念館 1997/03
「ニーチェから宮沢賢治へ」 永遠回帰・肯定・リズム 中路正恒 1997/4 創言社
「アメリカ現代詩の愛語」 スナイダーと宮沢賢治 田中 泰賢 1999/08 英宝社
「水仙月の四日」 黒井健・絵 ミキハウスの絵本 1999/11 三起商行
「注文の多い料理店」宮沢賢治/原作 四分一節子/監督 2003 T&KテレフィルムVHS
「童貞としての宮沢賢治」 押野武志 2003/04 ちくま新書
「新編 森のゲリラ」 西成彦 2004/05 平凡社
「デクノボーになりたい」 私の宮沢賢治 / 山折哲雄 2005/03 小学館
「『銀河鉄道の夜』」しあわせさがし」 千葉一幹 2005/07 みすず書房
「場所を生きる ゲ-リ-・スナイダ-の世界」 山里勝己 2006/03 山と渓谷社
「種山ヶ原の夜」 宮沢賢治・原作 男鹿和雄・脚色・作画・演出 2006/07 ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント DVD
「憲法九条を世界遺産に」 太田光・中沢新一 2006/8 集英社
「どんぐりと山猫」 田島征三・絵 ミキハウスの絵本 2006/10三起商行
「やまなし」 川上和生・絵 ミキハウスの絵本 2006/10 三起商行
「宮沢賢治の世界」 映像で綴る宮沢賢治の37年の生涯 小山哲哉/製作・監督 2007
「宮沢賢治 銀河鉄道の夜 Fantasy Railroad in the Stars」 KAGAYA 2007/01 株式会社アスク
「藤城清治 銀河鉄道の夜」 2007/07 コロムビアミュージックエンタテインメント DVD
「オツベルと象」 荒井良二・絵 ミキハウスの絵本 2007/10 三起商行
「なめとこ山の熊」 あべ弘士・絵 ミキハウスの絵本 2007/10 三起商行
「英語で読み解く賢治の世界」 ロジャ-・パルヴァ-ス/上杉隼人 2008/06 岩波書店
「よだかの星」 ささめやゆき・絵 ミキハウスの絵本 2008/10 三起商行
「狼森と笊森、盗森」 片山健・絵 ミキハウスの本 2008/10 三起商行
「いちょうの実」 及川賢治・絵 ミキハウスの絵本 2008/10 三起商行
「宮沢賢治の銀河世界」 賢治の素顔が見えてくる 宮澤和樹他 2009 龍谷大学 人間・科学・宗教オープンリサーチセンター
「宮澤賢治、ジャズに出会う」 奥成達 2009/06 白水社
「月夜のでんしんばしら」 竹内通雅・絵 ミキハウスの絵本 2009/10 三起商行
「ツェねずみ」 石井聖岳・絵 ミキハウスの絵本 2009/10 三起商行
「狼森と笊森、盗森/月夜のでんしんばしら」 名作ビデオ絵本 原作・宮沢賢治 2010/04 編集NHK ピーマンハウス VHS
「科学者としての宮沢賢治」 斎藤文一 2010/07 平凡社
「宮澤賢治と幻の恋人」 澤田キヌを追って 澤村修治 2010/08 河出書房新社
「雪姫 遠野おしらさま迷宮」 寮 美千子 2010/09 兼六館出版
「気のいい火山弾」 田中清代・絵 ミキハウスの絵本 2010/10 三起商行
「山男の四月」飯野和好・絵 ミキハウスの絵本 2010/10 三起商行
「土神ときつね」 大畑いくの・絵 ミキハウスの絵本 2010/10 三起商行
「宮澤賢治イーハトヴ学事典」 天沢退二郎・他編集、2010/11 弘文堂
「イーハトーブ悪人列伝」 宮沢賢治童話のおかしなやつら 大角修 2011/02 勉誠出版
「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」 飯沼勇義 2011/06 鳥影社
「宮澤賢治 魂の言葉 」 宮澤和樹 監修 2011/06 ロングセラーズ
「宮沢賢治幻想紀行」 新装改訂版 畑山博・他 2011/07 求龍堂
「宮澤賢治 雨ニモマケズという祈り」 重松清他 2011/07 新潮社
「賢治と鉱物」 文系のための鉱物学入門 加藤碵一/青木正博 2011/07 工作舎
「朗読の時間 宮澤賢治」 (朗読CD付き名作文学シリーズ)長岡輝子(朗読)2011/08 東京書籍
「宮沢賢治の心を読む(Ⅰ)」 草山万兎 2011/09 童話屋
「窓ぎわのセロ弾きのゴーシュ」 ワルプルギュスの夜篇 黒テント仙台公演 2011/10/26
「人や銀河や修羅や海胆は」 TheaterGroup“OCT/PASS” 石川裕人・作・構成・演出 2011/10/29
「宮澤賢治の音楽会」 ~人と宇宙の交響曲~ NHKBS 2011/10/29
「八ヶ岳の空から」 本当のしあわせを求めて --宮沢賢治と共に-- 大村紘一郎 2011/10 山梨ふるさと文庫
「蛙のゴム靴」 松成真理子・絵 ミキハウスの絵本 2011/10 三起商行
「氷河鼠の毛皮」 堀川理万子・絵 ミキハウスの絵本 2011/10 三起商行
「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』」 NHKテレビテキスト100分de名著 ロジャー・パルバース 2011/11 NHK出版
「宮澤賢治をめぐる冒険」 水や光や風のエコロジー 高木仁三郎 2011/10 七つ森書館
「雨ニモマケズ風ニモマケズ」 宮澤賢治詩集百選 宮澤賢治 2011/11 ミヤオビパブリッシング
「宮沢賢治祈りのことば」 石寒太 2011/12 実業之日本社
「アニメ版 銀河鉄道の夜」 ますむらひろし原案 杉井ギサブロー/監督 別役実/脚本 谷川茂/構成・ノベライズ 2011/12 理論社
「春の先の春へ」 震災への鎮魂歌 宮澤賢治「春と修羅」をよむ 古川日出男 2011/12 左右社
「書は呼吸する」~臨書・筆に偉人の人生を発見する~ 2012/01 NHKBSプレミアム
「宮沢賢治の心を読む(Ⅱ)」 草山万兎 2012/07 童話屋
「宮沢賢治の世界」吉本隆明 2012/08 筑摩書房
「新装版 宮沢賢治ハンドブック」 天沢退二郎編 2014/07 新書館
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「宮沢賢治の心を読む(1)」 <1>
草山万兎 2011/09 童話屋 単行本 157p
Vol.3 No.0498★★★★★
1)
2)ようやく辿り着いた賢治ワールドだが、そこで私が見つけたのは、「注文の多い料理店」と書いてある看板だったのではないか。ぶる、ぶる、ぶるるる、るううう。これは大変なことになりそうだぞw
3)「宮沢賢治」をキーワードにして図書館の蔵書を検索してみると、あっと言う間に1000件を超える。「チベット密教」だと200余り、ネイティブ・アメリカン関連だとその倍はすぐ行く。しかし、賢治関連はとてもじゃないが、フォローはしきれないほどある。
4)そこで、「3.11以降を生きる」として賢治を読み進めるには、大震災後に発行された賢治本から始めてみようということになった。そして手に取った最初の本が、この本。
5)文字づかいについて 宮沢賢治の原文は新仮名づかいに改め、若い読者を考え、読みにくい感じにはふり仮名をつけました。 p158
6)読みやすい。そしてハードカバーでありながら、文庫本サイズなので、お気軽に読める。短編の4つの童話が収録されている。ひとつひとつついている解説がいい。
「雪渡り」、「なめとこ山の熊」、「注文の多い料理店」、「セロ弾きのゴーシュ」。
それにこの本はどうやらシリーズの第一回だ。今後が楽しみ。
7)きのう図書館にいったら黒テント講演のポスターが貼ってあった。
8)黒テントを最初に見たのは16歳の時、40年も前のことだ。彼らがまだあの活動をやっていて、なおテーマが賢治だというのが、なんとも因果なことだと思える。賢治ワールドは急いで通り過ぎる世界ではない。
9)私のセロである当ブログの、糸の調子もいまいちだが、猫やカッコウ、タヌキの子や野ネズミたちと遊べる時がくるのだろうか。まずは関連リストを作っておこう。
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「場所を生きる」 ゲ-リ-・スナイダ-の世界 <3>
山里勝己 2006/03 山と渓谷社 単行本 327p
★★★★★
1)「場所の感覚を求めて---宮沢賢治とゲーリー・スナイダー」という文章は、最初「「越境するトポス 環境文学論序説」(野田研一他・編 2004/07)に収録され、ネイチャー・ライティングの経由の中で語られた。
2)そして、次に、2006/03にでたこちらの「場所を生きる」の中で、ゲイリー・スナイダーの個体史の一側面として同じ文章が収容されている。
3)いずれも殆ど同じ内容だが、スナイダーの個体史を縦軸とし、ネイチャー・ライティングという分野を横軸とした交点において、山里克己は、スナイダーを賢治との対比の中で捉えようとした。
4)ゲーリー・スナイダーはかつて宮沢賢治の詩を18編英訳し、それをみずからの詩集「奥の国」の第5セクションに収めた。それ以来、両者に焦点をあてた比較研究がなされてきた。p204「出会い」
5)(註)これは主として日本陣研究者によってなされてきた。代表的なものに
金関寿夫「アメリカ現代詩ノート」(研究社、1977)
志村正雄「神秘主義とアメリカ文学---自然・虚心・共感」(研究社、1998)
富山英俊「ゲーリー・スナイダーと宮沢賢治についての覚書」(「現代詩手帖」1996年3月号)
などの分析がある。志村は「そこに収められた18編に<訳>の語はない。つまり、それらの詩はもやはスナイダーの一部なのである」と指摘する(169頁)。志村の指摘は鋭いが、ここでは主として「翻訳」という観点から作品を分析する。p238
6)これら3冊は、図書館に収められているようだ。近日中に読んでみよう。
7)スナイダーが、宮沢の存在を知ったのは、1956年の来日以前のことであった。スナイダーによれば、来日前に知り合ったバークレー仏教協会を主宰する今村寛猛(いまむらかんも)の妻であったジェーンから「雨ニモマケズ」の英訳を見せられたという。
しかし、スナイダーは、この作品は、彼がカリフォルニア大学バークレー校大学院で読んだ日本の現代史、とくにヨーロッパ近代詩を受けた作品とは著しく異なっていて、その点で顕著であると認めたものの、宮沢についてそれ以上の関心を示すことはなかった。
1950年代半ば、京都に到着した後で、スナイダーは英訳された宮沢の散文集を手に入れるが、そのときに初めて宮沢が多彩な書き手であることを認識したのであった。
1960年初頭、スナイダーはユネスコから日本文学を英訳する仕事を依頼される。そのとき、英訳すべき作品について、バートン・ワトソンに相談している。ワトソンはコロンビア大学で博士号を取得した中国歴史を専攻する学者・翻訳者であり、すでに日本に長く滞在していた。
そのワトソンが推薦したのが宮沢賢治であった。そのころまでにスナイダーはすでに宮沢をすくなからず読んでいたから、ワトソンの提案どおり宮沢を訳することにしたのである。
カリフォルニア大学ディビスシールズ図書館所蔵で、スナイダーの宮沢作品の翻訳の基礎となった草稿"Miyazawa Kenji:Works Sheets"によれば、実際に翻訳を始めたのは1962年の11月のことである。スナイダーの翻訳を手伝ったのはイノウエ・ヒロツグという京都大学を卒業した日本人だった。
"Miyazawa Kenji:Works Sheets"を見ると、イノウエとスナイダーが、宮沢の詩語のひとつひとつを丁寧に分類しつつその語義を検討していることがわかる。数カ月かけてイノウエとともに賢治を読んだ後、スナイダーは翻訳を始めた。そして、草稿を改訂し、磨きをかけ、「奥の国」に収められた翻訳に仕上げていったのである。p205「同上」
7)1954年生まれの私にとっては気が遠くなるような昔の話だ。60年代から70年代以降のカウンターカルチャーの教祖的存在として見てしまうスナイダーだが、すでにこのような伏線が張られていたのだった。
8)と、ここまで書いたところで、スナイダー来日のニュースに気がついた。「太平洋をつなぐ詩の夕べ」2011年10月29日東京。もうすぐだな。
9)「3.11後を生きる」というテーマの中で賢治を読み込んでいこうという当ブログの流れだが、また、現在はスナイダーを通して賢治まで遡ってみようという試みでもある。多くの文献もあるようだが、まずはイメージでいい。鈴木大拙やアラン・ワッツ等との系譜の中からもスナイダーは立ちあがってくる。
10)宮沢賢治とゲーリー・スナイダーの類似性を理解することはそう難しいことではない。スナイダーもまた詩人としえ出発した初期のころから科学と宗教の融合をめざしてきた。1950年代に、スナイダーはすでにエコロジーと仏教の接点について思索を深めている。p214
11)スナイダーの作品にはアメリカ先住民の儀式や現代の生態学の成果が取り入れらている。その詩は、1920年代の日本人が書いた「注文の多い料理店」とは文化背景が異なるのであるが、両者の比較から本質的に見えてくるものは、<場所の詩学>を立ち上げようとした賢治とスナイダーの先駆性であり、その東西にまたがるヴィジョンの壮大さであろう。
両者に共通するものは、東西の宗教や科学を融合しつつ近代文明の限界を超えようとする白熱した創造力なのである。宮沢とスナイダーがその鋭い批判のまなざしを向けているのは近代工業文明の人間中心主義であり、これら日米のふたりの詩人は、生態学と仏教を融合しつつ、近代文明の行く末を幻視しようとする点において、深い繋がりを示すのである。p226
12)宮沢が、定住者として、その熟知した土地で人間と大地の新しい関係性を希求したとすれば、一方で、スナイダーは、人間であることのあたらしい意味と地球の未来像を模索するために、シエラ山脈西側斜面の森の土地で再定住を始めたと言っていいだろう。p230
13)宮沢は決して楽観的な文学の世界を構築したわけではなかった。金関寿夫は「賢治の詩にはスナイダーにはまったく認められない日本的な憂鬱がある」と指摘し、さらには「賢治には人生への深い挫折感があり、それにともなうどろどろとしたわだかまりのようなものが、彼の多くの詩のモメントになっているが、スナイダーにはもちろんそういうものはなく、もっとアメリカ風にカラッとしている」と両者を比較した。p234
14)新しい人間像と未来の惑星像は、この世界に満ちているエネルギーの源、すなわち自然の諸要素との接触から想像されるのだということをスナイダーと宮沢は示唆するのである。そして、またそのようなことを幻視することが詩人の領分であることも----。p237
15)20世紀の文化と文学運動は、さまざまな境界を越境する文学や思想の相互作用によって形成された。俳句との接触が契機となって誕生したイマジズムはその顕著な一例である。
宮沢とスナイダーについて言えば、エコロジーと仏教がその世界観の核心にあり、作品が生まれる基盤となっている。そして、このふたつの要素は、アジアと北アメリカを結びつける科学であり宗教でもある。場所に根づいた生活をし、場所の感覚を確立することで、このふたりの詩人は、<場所の詩学>を想像し、人間と地球の新しい姿を提示しようとする。読者は、太平洋の両岸でその作品を読みながら、新しい地球の姿と人間像へと想像力をふくらませていくのである。p236
16)三省、賢治、スナイダー、を繋ぐ、科学としての農業(エコロジー)、人間の営みとしての詩(文学)、そして未来の宗教性(宇宙観)。
15)山里勝己の文章は、立て板に水で、なかなか調子はいいのだが、よくよく読んでいると、うまく出来過ぎていて、薄っぺらいということもできる。特に、「3.11」という今日的課題を抱えた今、三人の中で、もっと被災地に近く、もっとも多くの人々の口にのぼる詩人としての宮沢賢治まで遡上するには、ともするとうわっ調子で、現実味が薄い。場所を生きるといいつつ、山里勝己自身の沖縄や、3.11の「東日本」が見えてこない。
16)まだまだ読み込みが足らず、大体において賢治についての思索が何もなされていない段階ではあるが、当ブログは当ブログなりに、これから賢治ワールドへと入っていこうと思う。そこに、本当に「3.11後を生きる」新しい人間像と、地球像が、あるだろうか。
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「野の道―宮沢賢治随想」 <2>
山尾 三省 (著) 1983/01 野草社 単行本: 234p
★★★★★
1)「3.11後を生きる」というカテゴリの中で、賢治を読み進める、ということはどういうことであろうか。
2)3.11後、直後のショックがやや収まり、本でも読もうかと思った時に、まず頭に浮かんだのはスナイダーの「地球の家を保つには」だった。図書館ネットワークが復活したので、それを活用しながら、未読だった本も含め、関連の本を10冊ほど読み込んだ。
3)その後、三省が読みたくなった。すでに初期的なものは読了しているし、蔵書もしているので、決して目新しくはないのだが、中期から晩年にかけての三省は、私には少し距離がある存在であった。だから、全体像として、いつかは読みたいと思っていた。その機会が3.11後に訪れたのであった。関連の40冊ほどを読みなおした。
4)そしていま、ひととおりの3.11本を150冊ほど読み終えた後に、ふたたび、新たなサイクルに入ろうとしている。
5)スナイダー→三省→の向こうに幻視する賢治。このトラアングルの中に何事かを見ようとする。
6)宮沢賢治が歩いたと思われる「野の道」を、僕が歩いている「野の道」とダブらせながら、主体はむしろ僕自身において書きすすめた。けれども本当は、宮沢賢治が「マグノリアの木」の中で言っているように、僕もなく賢治もなく、僕は賢治であり賢治は僕であり、主体は法(ダルマ)にほかならない。宮沢賢治を愛する方にはここの事情は十分に理解していただけると思っている。p232「あとがき」
7)前回、三省リストを追いながら、この「野の道」を読んだ時は、「宮沢賢治随想」というサブタイトルが大きくついているのに、むしろ、読み込むべきは主体としての三省であって、どちらかというと、賢治に主体の重きが偏っている部分は、急ぎ読みしていた。
8)しかし、今回は違う。今回は、三省を従とし、賢治を主とする読み方をしてみようと、この本に向かった。そして、傍らにスナイダーがいることを、常に意識しようとした。
9)昭和8(1933)年9月21日、賢治は37年の生涯を終えた。
10)三省がこの本を書いたのは1983年、ちょうど賢治没後50年のことだった。真崎守や石垣雅設などとの団欒の中から、一年前に計画され、書き下ろしの一冊として出版されたのである。この時1938年生まれの三省45歳。
11)家族とともに屋久島に移住したのが1977年、38歳の時であった。
12)三省も賢治も、30代の後半までは、ほとんど無名の詩人だった。沢山の作品を残しながら、賢治はそのまま病没し、三省は決して剛健な肉体の持ち主ではなかったけれど、63歳まで生き、出版の機会を与えられ、読者を獲得し、自らの世界を更に円熟なものとした。
13)もし、賢治が健康な肉体を維持していたら、そして出版の機会を与えられ、読者を獲得し、さらに自らを円熟させることができるとしたら、もっと違った世界が開けていたはずである。
14)もし、三省が賢治のような病弱な肉体を持ち、30代後半で病没していたとしたら、ある意味、「難解」ながら、埋もれた天才詩人として「神格化」された可能性もあったのではないか、と思う。
15)賢治が生まれた明治29(1896)年から、三省が亡くなった2001年までのことを考えると、殆ど見事に20世紀というものがカバーされる。だから、賢治の生涯を前半生とし、三省の生涯を後半生とした場合、一人の100歳の人間が生きた歴史と見る、という試みも可能かもしれない。
16)そう思わせるのには、いくつかの理由がある。ひとつには、科学への姿勢。賢治は科学者であらんとし、当時の実業の先端、つまり農業技術を積極的に取り入れた。それに対する三省は、原子力はもとよりコンピュータに代表される科学を積極的に拒否した。科学に対する姿勢は、むしろ正反対であるのにもかかわらず、実際に使われたテクノロジーとしての科学は、両者においては、それほど大きな隔たりはなく、ほとんど同じものであったと言えるだろう。
17)二つ目。二人は詩人であった、ということは衆目の一致するところであるが、三省は、どちらかと言えば、散文的で目の前の事象についてのことどもを描写することに力点を置いていたがゆえに、現実味のある、ある種のルポルタージュやノンフィクション的な手法を多用した。翻って、賢治は、むしろ岩手県花巻にある自らの生活圏の上に、もうひとつのイーハトーブという幻想の都市を必要とし、それがゆえにフィクション力を必要とし、時には寓話や童話、幻想的な物語を多産した。
18)二人の作風はまったく違っているはずなのに、そこに一連なりの「個性」を見るとするならば、30代中盤の生死を分けた両者の事情があった、と思われる。三省が屋久島に行ったまま病没してしまったら、彼は平成の賢治になる可能性もあったし、賢治が伴侶を得、さらに生命を保っていたとしたら、昭和の三省であったかもしれない、と私は幻視する。
19)つまり、賢治は、時代を先取りすることによって、自らの世界の構築や拡大を、次なる命に託したのであり、三省はまた、敢えてその賢治の世界を自らのものとして後継する姿勢を見せたのだった。
20)三つめにこの両者を繋ぐ可能性のある点は、宗教性。三省は、インドの聖人ラーマクリシュナを慕い、賢治は法華経無量品に宇宙をみた。ここでもまた二人の宗教性に共通項はなさそうなのに、二人は極めて親和する。早い話が、古い世界を求めているようで、実は二人とも、新しい物が好きなのである。
21)日蓮宗の寺などない花巻地方から田中智学の国柱会へ出奔するという激しい宗教的情動に駆られた賢治に対し、インドの宗教性など十分紹介されていない時代に三省は、モダニズムとしてのヒンドゥー性を嗅ぎ取り、ついに家族をつれての一年間のインド巡礼の旅にでる。
22)だから、ここにおいて、賢治の世界にみる「個性」というものは、賢治の生きた時代や地域の特性に色濃く脚色されれているものの、今、あえて賢治を読もうとするならば、三省の「個性」を通じて、より普遍的なものへと歩みよっていく必要があるのである。
23)つづめて考えてみれば、ほどよい技術、なにものかを求める渇望、怠惰に堕さない先進的な精神性、これらが三省と賢治、両者をつないでいる、と言えるだろう。
24)だが、どうもこの二人だけでは、何かが物足りない。1930年生まれのスナイダーの影をすこし活用したい。すでに80歳を超えたスナイダーだが、今だ健在であると思われる。彼には、賢治や三省が持っている「病弱」のイメージがない。賢治と三省は、互いに補完しあっているかに思えるのだが、スナイダーは、一人スクッと立っているように見える。
25)死の床にあって、賢治は父に「国訳妙法蓮華経」一千部を印刷して知人友人に配布してくれるよう依頼したという。三省はインドのラーマクリシュナ寺院を訪ね、深く涙した。これらの両者の精神性に対し、スナイダーは、自らの森の住まいであるキットキットデジィーの中に「禅堂」を設け、そこに一人座る。
26)三者三様であり、親和力によって引きつけられる三者ではあるが、まだ一なる像を結ぶまでには近寄ってはいない。
27)3.11後に宮沢賢治を読むということはどういうことであろうか。
28)10数年前、私がPTA活動をはじめた時に、教頭として赴任してきたAは、私と同じ姓で年齢も一つ違いだった。彼は今、新たなる赴任先の沿岸部の中学校におり、校長として被災した。その港町は完全に破壊されつくした。高台にある中学校は避難所となっており、今でも避難民が生活している。A自身が被災し、その避難所で暮らしながら、生徒や教員、地域の人々を鼓舞し続けている。
24)その中学校に、宮沢賢治の弟・清六の孫にあたる人物が慰問に訪れた。そして、賢治の手書きの「雨ニモマケズ」の複製を学校に寄付してくれたという。
25)Aは、贈呈者に厚く御礼を言うとともに、この詩に対する感想を述べたそうだ。
「この詩の一番大切なことは、『行って』、というところですよね。」
26)東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいと言い
27)観念的に、賢治の世界を遊ぶことはできる。しかし、実際に3.11後に賢治を読むということは、この、「行って」、が大事なのだな、と私は改めて恥じ入るような気持ちでAの話を聞いた。
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「聖なる地球のつどいかな」 <3>
ゲーリー スナイダー (著), 山尾 三省 (著) 山里勝己(監修), Gary Snyder (原著) 1998/07 山と溪谷社 単行本: 287p
★★★★★
1)また、この本を読むことになった。三省+スナイダー+賢治のトライアングルをまた新たになぞって行こうとすると、まずはこの本から再スタートということになる。
2)いままではどうかすると部分読み、あるいは何かを探して文面を追っていたのだが、またあらためて一冊の本として読み直してみると、あちこちに、いままで気づかなかったことがたくさんある。そして、すでに13年前の本ではあるが、今こそ読み直すべき内容が満載で、「3.11後を生きる」という当ブログの現在のテーマには実に示唆的一冊であると言える。
3)山尾 日本では宮沢賢治に詩に共通点を見い出せますね。
スナイダー 彼は科学をたくさん取り入れていますね。
山尾 宮沢賢治が読みにくかったのはサイエンスを取り入れたからです。それから仏教を入れた。だから難しいんですね。僕も今ではよくわかります。宮沢賢治が言っていることがよくわかるんですよ。おそらく彼はその時代までにわかっていたサイエンスをみんな取り入れたんでしょう。だから今、20世紀末を生きている我々にはこれがわかるんだと思います。
スナイダー 西洋文化の伝統では、科学と宗教は分けて考えなければいけないことなんです。でもアジアの思想、仏教や道教などでは、宗教と科学は一緒になることができる。
----昨年(1996年)賢治生誕100年だったんですが、改めて世間に見直されはじめてきたというのは、やはり次の時代の予感だと思います。
スナイダー 私が20年前に言ったことを知っていますか? 宮沢賢治は20世紀の日本で、おそらくもっとも重要な詩人ではないかということを言ったんですよ。
----だから宮沢賢治を翻訳したんですね。p246「科学は美の中を歩む」
3)3.11後、40冊以上の三省関連を読み、10冊のスナイダー関連を読み込んだ。その後、3.11本関連本を手当たり次第150冊ほど読み込んだ後に、また、こちらの図式に戻ってきた。
4)3.11関連本の中にも、賢治に言及した本は多く存在した。東日本大震災の復興の中でこそ、賢治は、今こそ読まれるべきなのだ。当ブログにおいては、これから賢治を読み込み始めるところである。
5)三省・スナイダー・賢治の共通項はなんだろう。まずは詩人ということだ。言葉の力を信じている。
6)そして、科学を信じている。いや三省はあまり科学を評価していない時代があった。スナイダーはバランスよく、詩人という範囲で科学を取り入れている。三人の中でもっとも科学者と言えるのは賢治だろう。当時の科学と言われるものは積極的に自らのものとしている。
7)賢治の時代には、原子力発電はなかった。そしてコンピュータもなかった。だから、賢治の時代の科学を、私たちの時代の科学とは言えない。
8)そして、三人の共通項は、宗教性にある。特に仏教。スナイダーは禅を自らのものとする。賢治は法華経に自らの立脚点を見い出す。三省はインド思想に影響を受けながらも、アニミズム的世界に入っていく。
9)彼ら三人は場を持っている。バイオリージョナル(場の思想)であり、ウィルダネス(野性)でもある。三省の屋久島、スナイダーのキットキットディジー、賢治のイーハトーブ。この中では、賢治の世界が一番、町に近いだろう。スナイダーには持って生まれた野性があり、三省は都市から遠ざかって南の孤島へと向かった。賢治は、ふるさとイーハトーブに帰って、幻想の都市の中に住んだ。
10)スナイダーと三省をつなげただけでは、反都市的で、町に住まう私などは、どこか居心地が悪くなる瞬間がある。
11)スナイダー 汚い川のためにダンスをしたり、詩を読んだり、そして音楽を演奏したりもするんです。ちょっとしたことでいいんですよ。こういう活動をアーバン・バイオリージョナリズムと言いますが、いまアーバン・バイオリージョナリズムはたいへん活発です。p121「バイオリージョナリズム---流域の思想」
12)(註)アーバン・バイオリージョナリズム 生態地域主義(生命地域主義)は、行政的に分割された「地域」ではなく、生態系を基礎として分割されたバイオリージョン(生態地域/生命地域)を生活の中心に据えることを提唱する。このような意味では、都市もひとつのバイオリージョンであると見ることができる。p121
13)三省は農業をするために都市を離れ屋久島へ行った。スナイダーは森の詩人として経済的にも自活できるために農を業とまではしていない。賢治は、もっとも人里に近く、村、そして都市的でもある。生活の糧として農業を科学的に推し進めようとした。
14)今、3.11後、というタイミングで見るみると、実は、この三人とも、ズバリこれでしょう、というモデルにはなっていない。それぞれに偏りがあり、それぞれにズレがある。しかし、この三人が見ようとしていた世界観を、うっすらとではあるが、一つのものとして近づけていくことができる。
15)科学を取り入れること。しかし、行き過ぎたモンスターサイエンスは戒めなければならない。
16)芸術の力を信じること。そして、それは人間性とつよく結びついていることが大事だ。
17)柔軟な宗教性を持つこと。それは堅固であったり、組織的である必要はない。
18)私は、この三人の共通項について、ホツマツタエの日高見や、Oshoのビジョンの中にも見ることもできる。
19)私は私なりの3.11後におけるアーバン・バイオリージョナリズムを生きていこうと思う。
20)私には先祖の血が流れている。400年前からの先祖の名前が分かっている。しかし、なぜ400年前なのだろう。これについて3.11をきっかけとして気づいたことがある。この地方においては、1611年に慶長津波という災害があったのである。ちょうど400年前だ。この時、この地方は壊滅したのだ。その後に復活したのが、私の先祖の新たなルーツなのだ、という直感。
21)三省の7000年の命を誇る「聖老人」はいないものの、この地には、樹齢1300年と言われるカヤの木がある。他に類する歴史的史跡が少ない中、この木だけが生き残っているとはどういうことだろうか。繰り返される災害の中、陸前高田の一本松のように、このカヤの木だけは生き残ってきたのではなかったか。
22)スナイダーのいう流域生態地域主義に比して見ると、河川の清流を守る会で清掃活動に参加していたのも、アーバン・バイオリージョナリズムと言える。
23)賢治がイーハトーブに幻想都市を見たように、私も幻想の日高見国で遊ぶことができる。そしてゆるやかな瞑想コミューンの創出に夢をつなぐことができる。
24)スナイダー ひとつのキーとなることなんですが、それは文化を創っていく重要性とか、自然や場所に対する関係をどう築いていくか、ということです。そして同時に他の文化、あるいは文化の多様性に対する寛容さ、寛大さを持つ、つまりコスモポリタニズムの必要性ですね。p46「自分の場所を見つける」
25)私にも私なりの彷徨、旅があった。そして再定住としての、今の暮らしがある。森や島や山の生活ではないが、町を暮らしの場として選んだことには、それなりの深い逡巡があってのことである。ここから、3.11以降のライフスタイルを見つけることから始める必要がある。
26)この本、一つのプラットホームを形作っていると言える。また、近いうちに再読することになるのだろう。
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「寄る辺なき時代の希望」 人は死ぬのになぜ生きるのか<2>
田口 ランディ 2006/09 春秋社 単行本: 299p
★★★☆☆
1)たましいは水に似ている。
そう語ったのは鹿児島県の屋久島で思索を続けた詩人、山尾三省さんでした。
山尾さんは1938年、東京の神田に生まれました。早稲田大学哲学科に進学するも、過激さを増す学生運動に違和感を覚え中退。インド、ネパールへの聖地を巡礼する旅にでます。
革命とは己の生活そのものを変えていくこと、そのことを自ら実践しようとしたのでしょうか、77年にご家族とともに南海の孤島である屋久島に移住。以来ずっと、屋久島に居をかまえ畑を耕し、日々の暮らしを詩に表わしてきました。質素に生き、人間の傲慢さを戒め、自然との共生を説いたたくさんの著書には熱狂的な読者がいます。山尾さんは多くの著書のなかでたましいについて考え、たましいをなぞるように詩を書きました。そして、2003年に突如として短すぎる人生を閉じました。
私が山尾さんを訪ねたのは、山尾さんがガンで亡くなる3ヵ月前でした。偶然ですが、私たちはたましいの話をしたのです。p285「死の向こう側へ」
2)「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」という新刊を見つけ、とんでもないトリニティをタイトルにする奴がいたものだと腹立たしく読み、その中の東海村臨界事故についての下りの中で、私の親戚が登場していたので、そこをさらに詳しく読んでおこうと手に取ったのが、この本だった。
3)その部分さえ読めればそれでよかったのだが、宮地尚子の「震災トラウマと復興ストレス」を再読して、「浦河べてるの家」についての言及を見つけ、またまたこちらのランディの本に「ぺデルの家という希望」という文章があったので、そちらのパートも読んでしまうことになった。
4)このまま返却する予定だったのだが、ちょっと指が引っ掛かったところに「山尾三省」の文字を見つけてしまったので、こちらのパートにも目を通さざるを得なくなってしまった(失笑)。なんという、粘りっこいオンナなんだろう。
5)しかしながら、上の短い三省紹介の文章のなかに、いろいろと、それこそ違和感を覚えてしまったので、メモしておこう。
6)「過激さを増す学生運動に違和感を覚え中退。」と書いているが、これは多分違う。過激さを増していたのは三省たち学生たちであり、違和感を覚えたのは「学生運動」ではなく、彼らが矛先としていた戦後日本社会の方向性についてだった。
7)そして中退後、直ちに「インド、ネパールへの聖地を巡礼する旅」にでたわけではない。三省が大学時代を過ごしたのは1960年前後のことであり、インド・ネパールへの家族との一年間の旅にでたのは1974年。この10年間の三省の動きをあまりに簡単に端折りすぎている。
8)その他、表現の幅の中での誤差ではあるが、あまりすっきりしない紹介のしかただ。「突如として短すぎる人生を閉じました。」という表現はどうだろう。62歳で亡くなったのだから、「短すぎる人生」というのも、もうひとつフィットしない。詩人なら10代、20代、30代で夭折した存在がたくさんいる。わたしなら、大往生、と表現するかもしれない。
9)それに「突如として」というのはどうだ。交通事故で死んだわけではないし、自殺したわけでもない。内蔵のガンで長患いをして、その間に何冊も本を書き、周知の事実として、「次第」に亡くなっていったのだ。意識して、目覚めて死んでいったのが山尾三省です。
10)まぁ、ここまでは許そう。だけど許せないのは、三省が2003年に亡くなった、としていること。三省の命日は2001年8月28日である。2年もサバ読んでいる。
11)しかもだ。「私が山尾さんを訪ねたのは、山尾さんがガンで亡くなる3ヵ月前でした。」とまで書いている。これは危ない。自分が何年に三省と会ったのか完全に忘れたのか、ねつ造している。危ないオンナだなぁ。
12)この本は2006年の9月にでているので、3年前の出来ごとだったのか、5年前の出来事だったのかさえ、混同している、ということである。
13)誤字脱字、勘違い、覚え違いのオンパレードである当ブログが指摘するほどのことでもないかもしれないが、個人ブログのネット上の書き間違いと、「有名」作家の印刷物での書き間違いは、一緒にすることはできない。
14)と、腹正しい気分を抱えながら、ひととおり「終章 死の向こう側へ」のパートを読み終えた。まぁ、これはこれで面白いな、と思う。細かい部分の描写や表現は、やはり眉唾にならざるを得ないのだが、詩やおとぎ話、クライエントが話す言葉としてなら、十分に聴ける内容ではある。
15)よく知らなり著者のことであるが、仮説としては、彼女は、プロのクライエントなのでないか、と思える。話し、書くことは天才的に書き続けることができる。その中に作り話や誤解、記憶違いや、注意深くない点なども、多々あるのだが、それでも、必死に表現し続けることはできる。
16)ある意味、彼女は必死になって内斜面を登り続けている存在なのであろう。そして、それをエンターテイメントとして確立してしまったが故に、読者たちに、共感を与えるというより、一時的な救済者的錯覚を与えて「あげる」ことができるのではないか。
17)私はほとんど小説というものを読まないが(それはうちの奥さんのパートだ)、このような存在が小説家や作家などと呼ばれるのかも知れない。
18)結局、他の部分も読んでしまい、この本の大体に目を通したことになってしまった。あちこち飛ばし読みした。文章の上手な人だなぁ、とは思ったが、それ以上の、いいことは書けない。この人の、別な本を読んでみたい、とは、今のところ、思わない。
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「震災トラウマと復興ストレス」 Vol.3 岩波ブックレット <2>
宮地尚子 2011/08 岩波書店 全集・双書 63p
★★★★★
1)なぜにこのブックレットに興味引かれるのだろう。正直言ってタイトルは好みではない。出来れば避けたいような心理が働く。だけど、それは、被災地の写真をあまり見たくないという心理に似ている。写真は見たくないが、現地には定期的に行っている。
2)この本、実際に、今回の3.11の被災地における「人の巻」をうまく描写し、まとめてくれているのではないだろうか。見たくも知りたくもない、という心理は働くのだけれど、やはり、おちついて考えてみれば、直視せざるを得ない現実、特に人間の内面の心理を活写してくれている。
3)この本、女性が書いているからなお魅力的なのかもしれない。田口ランディの文章を「粘っこい文章だなぁ。うん、確かにオンナだなぁ、この感覚・・・・」などと書いておいて、あとでちょっと書きすぎたかな、とも思ったが、やはり女性ならではの感性というものがある。
4)そのように二人の映像がダブったのは、次の文章を読んだ時。
5)精神障害者の回復施設「べてるの家」は「弱さの情報公開」をモットーの一つとしています(浦河べてるの家「べてるの家の『非』援助論」医学書院、2002年)。支援現場では難しいようなら、せめて家族や友人など心の許せる人に連絡し、自分の気持ちを話したりすることも重要です。関わった人すべてが自分の弱さを認め、惨事には衝撃を受ける存在だと自覚することは、とても大事だと思います。p28 「支援者の位置---<外斜面>」
6)この施設について何も知らないが、ゆうべランディの本をめくっていた時、今回は割愛して読み飛ばした部分に、この施設についての一文が含まれていたのだった。
7)私が初めて「べてるの家」を訪れたのは2003年の春のこと。
きっかけになったのは、一冊の本だった。
「べてるの家の<非>援助論」(医学書院)
馴染みのない出版社からの献本だったので、そばらく封も切らずに机の上に積んだままにしていた。半年ほども過ぎた頃だろうか。仕事場を整理するために本を取り出した。タイトルを見て、妙な本だなぁと思った。田口ランディ「寄る辺なき時代の希望」p83「べてるの家という希望」
8)読む気のなかったランディの本だが、ついついこの部分も読むことになってしまった。それにしても、相変わらず粘っこい文章だなぁ。こういうオンナと付き合う時は、うっかり自分の秘密をしゃべってはいけない。全部ばらされてしまいそうだ。逆に、あちこちから集めてきた裏情報を、「無料」でいろいろ教えてくれるから、便利と言えば便利だ・・・・、などと書いておいていいのかな・・・オズオズ。
9)私は家族のことを小説やエッセイに書いているが、それに対して多くの人がこういうのだ。
「あんなに自分のことを書いてしまって大丈夫ですか? 苦しくないですか?」
そういう時、私は笑って「大丈夫です」と答えてきた。
だけど、大丈夫なはずがない。苦しい。でも、どうしても書かないわけにはいかない理由が、私にはあったのだ。
家族の業を自分の言葉として書いて語っていかなければ、どうにも生きていかれなかったから、だから書いてきたのだ。自分を表現し続けなければ、自分が壊れてしまうような気がした。必死になって書き続けてきたのは、自分のためのカルマ落としだ。田口ランディ「同上」p116
10)山尾三省の文章を読んでいても、よくまぁ、これだけ自分の家族のことを書くなぁ、と思っていたが、私には書けない。私もまがりなりにも、守秘義務のある業務についており、また、公的職能規定に基づく心理技能者の一人である。やたらとクライエントや周囲の人々については書けない。ましてや、ネット上ではできるだけぼかすことを心掛けている。
11)しかし、ここにおけるランディの葛藤は、宮地尚子言うところの、<内海>からの脱出であり、<内斜面>を波ぎわから必死にはいずりあがろうとしている姿なのかも知れない。なんだか、癖になりそうな、ランディ・ワールドではある。
12)さて、このブックレットを読み直して気づいたことは、内斜面と外斜面のちょうどピークにあたる、<尾根>についての論及がすくないこと。私自身は、この<尾根>に自らの立ち位置を求めたいと思うのだが、詳しく書いてはいない。ひょっとすると、彼女の前著である「環状島---トラウマの地政学」には、詳しく書いてあるのかも知れない。
13)それと、環状島モデルという非常時に着いて書いてあるわけだけれども、では、平常時には、このモデルはどうなってしまうのだろうか。平坦になってしまうのだろうか。海も山も風も引力もない、真っ平らなのだろうか。
14)環状島モデルというメタファーは、実は、人間世界の「平常時」なのであって、真っ平らな無風+無重力地帯、というイメージこそ、あり得ない世界なのかもしれない。
15)となれば、この環状島モデルは、別に3.11のような被災時にだけ登場するものではなく、規模や形態こそ違え、人間界では常に現われている現象なのではないか、ということになる。
16)そして本来であれば、円錐形であるべき姿があり、なお、その頂点部分が陥没して、環状島になるのだとすれば、いつ円錐形が環状島に変化するのか、そのリミットなんども考慮される必要があるように思える。
17)この無意識の捉え方を図に示すと、円錐島モデルになります。中心が一番高い島です。たしかにゼロ地点に近づくほど、当事者製や、被った損害、抱える負担は大きく、発言権や証言者としての正当性(レジティマシー)も大きくなります。
けれども、ゼロ地点に近ければ近いほど発話力が上がるという単純なモデルは、すでに説明したように事実に反しています。
生き延びて声を出せる人たちでさえ、自分の経験をどこまで語ればいいのか迷います。自分が平静を保てるのか、相手がおじけづいてしまわないか、話した後も自分を受け入れてもらえるのか、さまざまな逡巡の中で、語れることや語っても許されると思えることだけを語るのです。p11「「円錐島とのちがい」
18)自分は「尾根」に立っている、というのも幻想で、実際は、結局は、もとの円錐形が実体としては正しくて、頂上に行けば行くほど空気が薄くなって呼吸が大変になるように、自分が立っているところが、すべてにおける「尾根」ということになるのではないか。
19)本質的には地上から昇った外斜面であるが、とにかく、そこで感じるもは感じ、発信できるものは発信する。そしてやはり頂上を目指す、というのが本来の「山登り」の姿であろう。だから、逆に言えば、どこであろうと、自分が立っているのは、そこが「尾根」なのだ、ということになる。
20)宮地モデルは、救済者としての「外部」の人間から見た場合を想定しているので、環状島モデルということになってしまったが、平常時(被災時もふくむ)の中心から見た場合、環状島というモデルではなく、何か他のモデルが想定されてくるように思いはじめた。
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「地震の準備帖」 時間軸でわかる心得と知恵
国崎信江 2011/08 NHK出版 単行本 159p
Vol.3 No.0497★★★★☆
1)図書館から借りてきた本を居間に無造作に投げ出しておくのだが、うちの奥さんが私の趣味の範囲に入ってくることはほとんどない。それは逆の立場から考えれば、私は彼女の小説の領域に入ることは、まず無いと言っていいのと同じことでもある。
2)この本は、隣の市の図書館がまがりなりにも、仮設事務所と北海道の町から送られた中古の移動バス図書館をベースにして復活しようとしている「お祝い」に、「しかたなく」借りてきた2冊のうちの一冊である。
3)サバイバル本は、すでに20冊弱読んできた。メモこそしなかったが、借りてきた類似のサバイバルブックは、プラス10冊ほどある。正直言って読み飽きているのである。もうこれ以上読み進める気はない。
4)ところがである。めずらしく、私が借り出してきた本であるこの本に手を出した奥さんは、別の部屋で熟読しているかと思ったら、ニコニコ顔でやってきて、「この本、うちに一冊あってもいいんじゃない」と来た。
5)ふ~ん、どんなところがいいの、と聞いたら、いろいろ書いてあるし、文章も短いという。一冊置いておいて、ちょくちょく見ようよ、ということなので、我が家ではさっそくこの本を意冊ネットで注文することにあいなった。
6)別に他の本とそれほど変わらんと思うのだが、奥さんのリクエストなので、それにしたがうことにした。
7)ちなみに、私はまだ、中味を開いて読んでませんw。
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「津波てんでんこ」 近代日本の津波史
山下文男 2008/01 新日本出版社 単行本 235p
Vol.3 No.0496★★★★☆
1)国内有数の津波研究家と言われる著者の、この書名は、3.11後、あちこちから聞こえてきて、今や流行語にさえなりつつある。
2)誰一人として予想していなかった大津波の不意打ちによって集落は阿鼻叫喚、大混乱に陥ってしまった。だが、そうした混乱の中でも、人間としての美しい本能がはたらき、親が子を助け、子が親をたすけようとする。兄弟・姉妹が助けようとする。そのため、結局は共倒れになるケースが非常に多く、これも、死者数を増幅させる結果になった。
共倒れ現象というのは、大なり小なり全ての自然災害につきもので、別に津波に限ったことではないが、一般的にいって津波災害ではその記録が非常に多く、明治三陸大津波の際には目立って共倒れが多かった。
最近、津波防災と関連していわれるようになった「津波てんでんこ」という言葉は、こうした体験を踏まえた明治三陸津波の重要な教訓なのである。p52「節句の賑わいを直撃した狂乱怒涛」
3)沿岸部に行って、被災者の言葉を聞くと、「持って行かれたのは、津波を甘く見ていた人たちと、助けに戻った人たち」という声が聞こえてくる。
4)津波においては、戻って人助けをしたことなどを「美談」としてはいけないのだ。また、あの時、自分が助ければ、よかったなどと後悔するような状況を作ってはいけない。どうして誰も助けなかったのか、などというのもタブーだ。「津波てんでんこ」なのだ。
5)筆者が昭和三陸津波(1993)を体験したのは小学校3年生のときだが、同様、家族ばらばらで、7人兄弟の末っ子だったが、両親も兄たちも、誰も手を引いてはくれなかった。
そのため否応なしで一人で逃げ、雪道を裸足で山まで駆け上がっている。後で聞くと、友だちの多くもみんな同じことだったらしい。助かろうと思ったら子どもでもそうせざるを得ないのである。
要するに、防災教育や防災訓練の中で徹底して貫くべきの第一は、
<津波は猛烈に速い。素早く立ち上がり、全力疾走で逃げるが勝ちと心得よう>
ということである。
「命の他に宝はない」と思って
津波の度に繰り返されている悲劇の一つは、これまでもしばしば述べてきたように、金や物に執着したがために逃げ遅れたり、折角、一度は避難して命拾いしたのに、今度は途端に物欲が出て、金や物を持ちだそうと自宅に戻り、つぎの波に浚われるケースである。そのために、これまでいったい、どれだけ多くの人々が命を失ったか数知れない。p225「自分の命は自分で守る」
6)この本は、三陸地方の津波の記録を中心にまとめたもので、飯沼勇義の「仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う!」(1996)のような予言書的な警告の書ではない。しかし、津波常習地帯においても、今回の3.11においても、同じような大惨劇が繰り返されてしまったのである。
7)著者には、「哀史三陸大津波 歴史の教訓に学ぶ」などの名著があり、佐野眞一の「ルポ大津波と日本人」によって、今回の被災後の姿がレポートされている。
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「寄る辺なき時代の希望」 人は死ぬのになぜ生きるのか <1>
田口 ランディ 2006/09 春秋社 単行本: 299p
Vol.3 No.0495★★★☆☆
1)「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」(2011/09) の中に、1999年の東海村臨界事故にまつわるメールのやり取りのことが書かれており、そのS氏とやらのやり取りを確認するために、この本をめくることになった。
2)問題の部分は「核の時代の希望」p137という、70ページ弱の文章なので、今回は他の部分は割愛した。
3)それにしても、人は死ぬのになぜ生きるのか、というサブタイトルといい、春秋社といい、なかなか魅力ありげな本ではある。他の部分も、いずれ再読することになるかもしれない。
4)それにしても、粘っこい文章だなぁ。うん、確かにオンナだなぁ、この感覚・・・・・。
5)そもそも、広島や長崎と並べて3.11の被曝地を自らの本のタイトルにするなんて、私ならできない。こんなタイトルをつける奴なんて、一体どんな奴なんだ、というのがあの本を開いた動機だった。
6)私はその事故についてインターネットに怒りのコメントを書いた。ありきたりな個人の雑感を述べたに過ぎない。が、それを読んだ元JOC社員で、原子力の研究者であるSさん(原文本名)からマスコミ報道に対する批判のメールが届く。Sさんは、マスコミが原発問題に対して一方的な記事しか書いていないことを怒っていた。p163
7)ああ、やっぱりSとは、私が思っていたSだった。
8)質問8 原子力発電に従事する優秀な技術者が職場を去っているということですが、それはなぜですか?
回答8 優秀かどうかはわかりませんが(本人たちにしかられますが)、少なくとも私の学生時代の親友たちは原子力を離れました。
それ以上に深刻なのは、原子力に対する使命感のある学生たちが減ってきていることのような気がします。これは社会での原子力に対する評価が非常に低く、精神的な充実感が仕事で得にくいためと思います。p176
9)メールとしてやりとりされている部分は、まぁ、そういうやりとりなのだろう、という内容であった。
10)その彼は今どうしているのか知らないが、ネットをググッてみると、画像つきで「バイオマスエネルギーへの期待」などという文章とともに登場しているようだ。
11)事情がよくわからないものだから、私などは、まぁ、よくもぬけぬけと、などと思ってしまうが、真相はこれから調べてみないとわからない。
12)いずれにせよ、3.11が起きてしまった後としては、これらのグレーゾーンの住人たちにとっても、生きにくい社会であることは間違いないだろう。
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「越境するトポス」環境文学論序説
野田研一/結城正美 2004/07 彩流社 単行本 322p
Vol.3 No.0494★★★★☆
1)図書館オンラインで、「宮沢賢治 ゲーリー・スナイダー」を検索したら、この本がでてきた。おお、「宮沢賢治とゲーリー・スナイダー」という文書があるではないか。執筆者は山里勝己。当然、この辺だろうな、と思った。
2)3.11以降、あちこちから「宮沢賢治」について言及されている。いや、私自身が宮沢賢治のことが気になりはじめたので、あちこちの「言及」に目が引かれるのであろう。
3)特に、宮沢賢治、ゲーリー・スナイダー、山尾三省のトライアングルから何事かを探しだそうという当ブログの試み、そろそろスタートしようとしているからだろう。
4)さっそく取り寄せてみると、この本は、環境文学論序説と銘打っているだけあって、広範にネイチャー・ライティングを論じている本だった。10人ほどの研究者たちの論文が合本されている。
5)何はともあれ、他の方々は割愛して、目的の文章を読みだした。30ページほどの決して長い文章ではない。
6)途中まで読んで、気がついた。この文章すでに読んでいる。よく見てみると、この文章は、山里勝己「場所に生きる--ゲーリー・スナイダーの世界」に収録されていたのだ。なんだぁ、そうだったのか。あの文章から更に発展したものを期待していたのだが、同じ文章を再読することになった。
7)二つの本を並べてチェックしてみると、殆ど同じ文章だが、小さなところがちょっと違っている。ならばどちらが新しいのか、と見ると、2004年の「越境するトポス」に対して、2006年の「場所を生きる」、だから、これは後者を精読するほうが正しい読書態度であろう、という結論になった。
8)ただ、この文章を、「ゲーリー・スナイダーの世界」の中の一部として読むことと、「越境するトポス--環境文学論序説」の中の一部として読むことには、おのずと持っている意味が違ってくるだろう。
9)あるいは、このクロスする環境文学とやらに、いつかは逆流していくことも可能であろう、と思い始めた。
10)何はともあれ、ここは、この三冊の再読から始めよう。
『野の道 - 宮沢賢治随想』山尾三省(1983)
『聖なる地球のつどいかな』三省+スナイダー対談集(1998年)
『場所を生きる--ゲ-リ-・スナイダ-の世界』 山里勝己 (2006年)
11)このように見てくると、宮沢賢治とゲーリー・スナイダーの類似性を理解することはそう難しいことではない。スナイダーもまた詩人として出発した初期の頃から科学と宗教の融合を目指してきた。1950年代には、スナイダーはすでにエコロジーと仏教の接点に着いて思索を深めている。
「地球の家を保つには」に収録された1950年代初期のジャーナルには、仏教とエコロジーの接点に関する洞察が記されている。すなわちスナイダーにとっては、仏教とエコロジーは全ての存在の相互依存性を認めるという点で共通の世界像を有するのである。
仏教におけるこのような世界像の核心的なイメージは「インドラ網」であり、それはすべての存在が幾重にも相互依存し合う様相をし隠したものである。(興味深いことに、宮沢には「インドラ網」という物語がある)。
スナイダーにとって、「インドラ網」はアジアの宗教的ヴィジョンが捉えた世界像であり、エコロジーは西洋の科学的思考から生まれた自然界のモデルなのである。p122山里勝己「越境する精神」
12)なるほど、ひとつ、この「インドラの網」あたりから始めよう。
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「ITで実現する震災・省電力BCP完全ガイド」 システム視点で事業継続計画を見直す
日経BPムック 2011/06 日経コンピュ-タ編集部/日経情報ストラテジ-編集部 日経BP社/日経BPマ-ケティン ムック 194p
Vol.3 No.0493★★★☆☆
1)BCPとは、ビジネス・コンティニュティ・プラン、つまり事業継続計画、ということである。
2)つまり、個人におけるサバイバル・ブックのようなもので、いざという時のためにキチンと備えておきましょう、ということだ。
3)3.11後、沿岸部で被災した同業者が、セミナーの席でやたらと、このBCPを連呼していた。今現在、どれだけの同業者が自らの責任の名において、このBCPを立案しているか。早急にプランすべきだと。
4)津波によって、命以外、事務所や書類をすべて失い、残った財産は小さなポシェット一つという男に、説教もされたくもないが、「同情」かたがた、みんな黙って話を聞いていた。
5)いくらBCPを作っていても、今回、なんの影響もなく事業継続できた企業などない。いまだ復活していない企業もおおい。しかし、多くの企業は、復活、復旧しているのだから、いずれかの道程を経て、現状に戻ってきているのだ。
6)そのスピードアップを図ろうというのが、BCPの考え方であり、急がれる有効な対策である、ということになるのだろう。
7)この日経BPムックは、日経BP社が発行している複数のビジネス誌の中の関連記事を抜き出して来て整理・編集し、一部書き下ろしの部分を加えて一冊になったものである。業務上、このような部署で働く人や、トップにとっては、一度は考えておかなければならないテーマである。
8)翻って、わが業務のことを、自分なりに振り返ってみる。ある意味、3.11において、すべてのライフラインが断たれた数日は、仕事にならなかった。その後、影響が残り続けた。しかし、これはこれで仕方なかった、という思いしかない。
9)基本は、わがSOHOの場合、大きなバックアップは関連会社に残っており、業務もまたネットワーク上の他都市の他部門が引き受けてくれていたので、実質的には業務に影響をきたすことはすくなかった。
10)ライフラインの復活とともに、業務は復旧し、キャパを超えるほどの業務量が押し寄せてくることはなかった。むしろ、一番の影響は心理的なものであっただろう。
11)東日本大震災では、平野部までを襲う津波や計画停電など、想定外の事態が多発した。だからといって、「想定外をすべて無くさなければならない」と考えるのは誤解だ。p102「『3.11症候群』を脱出」
12)基本的には、「日照りの時は涙を流し、寒さの夏はオロオロ歩き、みんなにデクノボーと呼ばれ」ている程度でいいのではないか。すくなくとも、私の3.11は、そのようなものであった。
13)BCP=事業継続計画、と言った場合、部署部署においてその意味は違ってくるだろうが、私の業務の場合は、あれはあれでよかった、という程度である。通信や記録はほぼ2系列以上を確保していて、多少のことならすぐ対応できる。負荷はかかるが、ほとんど影響ないほど、ラインはシンプル化している。
14)あのBCPを連呼した沿岸部の同業者においても、ポシェット一つしか残らなくても、スタッフを失ったわけじゃなかったから、あとは周囲のヘルプもあり、基本的には、やるべき業務はすべてできたはずだ。むしろ、彼に対して敬服するのは、その被災直後から、意志をしっかり持ち、折れそうな心を抱えながら、最後まで業務に真正面から向かったことだろう。
15)一概に、がんばろうナントカ、と掛け声を掛け合うことだけがよいわけではない。普段からの防災意識やサバイバル対策を高め、BCPをしっかりやっておくことが、事業を勧める上での基本的姿勢である、という時代になってきた、ということだろう。
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「g2 ( ジーツー )」 vol. 7
2011/4/15(講談社MOOK) [ムック] 講談社 (編集) ムック: 372p
Vol.3 No.0493★★★★★
1)震災後、書店と図書館は、正確に把握したわけではないが、50%はまだ立ち上がっていない。書店が壊滅したのは仕方ないとしても、公立図書館が復活しないのは、ちょっと困る。
2)私が以前よく通っていた隣の市の図書館はいまだに復活していない。部分開館しているとはいうもの車庫にある移動図書館だけで、週に3回、短時間開いているだけだった。
3)ところが、きょう偶然通りかかったら、小さいとは言え、仮設の事務所が駐車場にできていた。しかも、よく見ると、移動図書館が二台に増えていた。、北海道の小さな都市から中古の移動用のバス図書館が贈呈されたのだ。なんだか、じわぁ~と来て、泣いてしまった。ありがとう、北海道のみなさん。
4)でも正直言って、蔵書は極端に少なかった。ましてや、最近の私はだいぶ3.11本を読み込んでしまった。目新しい本はない。しかたなく出ようとしたが、せっかく開館したのだから、その熱意に答えて、借りて「やらなければ」ならないのではないか、と思った。
5)「しかたなく」二冊の本を借り出してきたが、そのうちの一冊がこれである。
6)4月15日号だから、もう半年前の雑誌である。「緊急特大号」とは言え、もう中味は古いだろう。しかし、佐野眞一の「ルポ大津波と日本人」のタイトルに惹かれた。いや、実に、これが面白かった。
7)佐野眞一の場合、「日本人」と言っても、日ノ丸を振って整然と行進するような日本人ではない。日本列島のうえに住んでいる人々、と言った程度の意味で、無名のおおらかな個性豊かな愛すべき人々の群れのことである。
8)山下文雄って知っているかい? 1974年の創共協定を実現させたときの日本共産党の文化部長だよ。創共協定は、あの松本清張が橋渡し役になって、宮本顕治と創価学会会長の池田大作のトップ会談を実現させたものだ。その歴史的創共協定が結ばれたとき、日共側の連絡役となったのが山下文男という男だ。p016「熱も声もない死の街」
9)ほう、「哀史三陸大津波 歴史の教訓に学ぶ」(2011/06)の山下文男とは、そういう人物だったのか、有名な「津波てんでんこ」も今手元にあって、これから読むところ。
10)36人乗りの大型ヘリだった。中にはちゃんと医務室みたいなものまであった。僕はこれまでずっと自衛隊は憲法違反だと言い続けてきたが、今度ほど自衛隊を有り難いと思ったことはなかった。国として、国土防衛隊のような組織が必要だということがしみじみわかった。
とにかく、僕の孫のような若い隊員が、僕の冷え切った身体をこの毛布で包んでくれたんだ。その上、身体までさすってくれた。病院でフルチンにされたから、よけいにやさしさが身にしみた。僕はないちゃったな。鬼の目にも涙だよ。(山下文男・談)p037
11)さすがノンフィクション作家の佐野眞一である。元、新宿ゴールデン街のママ、オカマの英坊の描写とともに、大いに笑える。そして、涙もでる。
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「福島原発と人びと」
広河隆一 2011/08 岩波書店 新書 213p
Vol.3 No.0492★★★☆☆
1)このような記録は後々のために必要である、ということは分かっているのだが、一読者としては、もうtoo muchという気分である。それこそあまりに読み過ぎて、自ら過大な震災トラウマを作りだしてしまうかもしれない。
2)著者については、「暴走する原発」 (2011/05)を読んだ。これは以前に出版されたものの再版ものだったので、まずは最新のものにとりあえず、目を通しておく必要は感じていた。なんせ、著者は小出裕章、広瀬隆 との反原発最強トライアングルの一角を占める存在である。
3)3月13日、福島第一原発近くで私の放射線測定器が振り切れた後、電話が通じる場所を探して、広瀬隆氏に電話をした。彼は絶句して、できるだけ早くその場所を離れるようにと言った。(中略)
小出裕章氏にも連絡した。私は「原発震災について何度もDAYS(「DAYS JAPAN」)で取り上げていたにもかかわらず、いざ起こった時の準備を何もしていなかった。私の放射線測定器は降り切れてしまい、役に立たなかった」と伝えた。小出氏は「私もうかつだった」と語った。彼も実際に自分が予言していたことが起こった時に、何をすべきか、対処の仕方を本気で考えていなかった、と告げ、もう一度「うかつとしか言いようがありません」と言った。p182「間に合わなかった準備」
4)三者三様のキャラが際立っていて、興味深い部分である。
5)今回、この本について触れるのはこのくらいにしておく。フォトジャーナリストの著書だけに、新書本とは言え、豊富な写真がたくさん収容されている。時系列の内容も、あとあと読めば、かなりのドキュメンタリーとなるだろう。
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「小出裕章が答える原発と放射能」
小出裕章 2011/09 河出書房新社 単行本 155p
Vol.3 No.0491★★★★★
1)本書は(中略)、多くの人々の疑問を整理し、それに対して私が答えてきた文章などを整理してまとめてくださったものである。p155「あとがき」2011/7/29
2)本書は一問一答形式でまとめてあり、殆どの記事が見開き2ページでまとめてある。だから、網羅的に著者の考え方を知りたければ、この一冊を読めば、現在の彼の主張やアドバイスは、ほとんど全て分かる、と思う。
3)これまで著者の本に触れてきた人はまとめのおさらいになるだろうし、これから読み始めようとする人は、この一冊を読めば、まずは全体像を理解する、ということになる。
4)私は、このあとがきが書かれた一週間後の8月5日に行われた著者の講演会に参加してきたので、ほとんど同内容のことが語られていた、と確認することができた。
5)今後の事態の変化によっては、著者の今後の発言に留意しなければならない。、以前とは違って、最近はテレビなどにも著者は登場する機会が増えている。今後も要チェックだろう。
6)危険が低い地域に住んでいる人たちは、福島をしっかりと支えてほしいのです。日本国民全員が被曝したとしても、より危険な人たち、より困難を強いられている人たちを、腹を決めて支えるという選択ができたらと思っています。p153「脱原発に向けて」
7)まさに、環状島モデルの外海に埋没しないで、まずは外斜面を登ってきて欲しい。無関心にもどらないでほしい、という、著者からの強いアピールである。
8)著者は原発の専門家だから、それ以上話題を拡大しないが、本来は、原発は、広瀬隆のように巨大地震との関連で考えら得なくてはならない面がある。その面から考えれば、脱原発の速度は、もっともっと迅速に進めなければならないことがよくわかる。
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「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」 原子力を受け入れた日本
田口ランディ 筑摩書房 2011/09 新書 175p
Vol.3 No.0490★★★★☆
1)およそ10年前に身内の葬儀の時に、親戚のSを紹介された。私より、さらに若い人だったが、とても優秀な人で、東海村臨界事故の際、元JCO社員として田口ランディとメール交換した人だということだった。
2)当時、私は田口ランディという人についてはよくわからず、ちらっと何かを読んだが、それ以上のことはなかった。正直言っていまだに、この人、男なのか、女なのかさえ定かではないのだw 。 だが、この時以来、田口ランディという人の名前が記憶に刻まれた。
3)私の書いた文章を読んだという男性から一通のメールが届きました。その方は「私はJOCの元社員です」と名乗りました。そしてメールには「JCOは私が勤めていた頃はそんな会社ではなかった。社員の方たちも尊敬できる人たちで、彼らがマスコミに責められているのを見るのはほんとうにつらい」ということが書かれていました。p14「はじめに」
4)最初にこの部分がでてきたので、びっくりした。やっぱりそういうことがあったのだ。
5)私からも疑問をぶつけ、この男性(Sさん)と何度もメールをやりとりしていくうちに、それまで知らなかった原子力業界の事情がわかってきました。p17「同上」
6)確かに私の親戚の名前もSである。いまのところ急いで確認するつもりはないが、自分的には、これは同人物で、実際にあった話なのだ、と断定することにした。このやりとりは彼女の著書「寄る辺なき時代の希望」(2006.9春秋社)に記してある、ということなので、いずれ、めくってみよう。
7)この本、敢えてこのタイトルにしなければならなかったか、疑問を持つ。個人的には、ヒロシマやナガサキまでは仕方ないとしても、その後の名称は、あまり世界的共通語になってほしくない、と思う。だから意識して、当ブログでは東電原発事故としてきた。
8)Sが言うには、あのままJCOに残っていたら、自分が責任ある立場になってメディアの矢面に立たされていただろう、ということだった。両親は、本当に早くJCOをやめてホッとしった、よかった、よかった、と言っていたという。
9)Sは優秀な人材である。自らのキャリアをもとに業界狭しと要職を渡り歩く職業スタイルであろうと想像する。だから、同僚たちの姿は「尊敬」できたとしても、実際の現場の堀江邦夫の「原発ジプシー」のような情景は知らなかったのではないか。
10)自分の業界をよく知るには、多方面からのアプローチが必要だったはずだし、すくなくとも「朽ちていった命」のような事故が起きたことは事実なのだ。そして、3.11東電原発事故は起こった。
11)すくなくとも、事故が起きる前に、その仕事を離れていたので、「よかった、よかった」ではすまされない。
12)2年間つづけたtwitterを、私はこの時、自分の情報を発信する道具として全く信頼していませんでした。かなり没頭してこのメディアを使いきった結果として私が行き着いたのが、このメディアは不要だ、ということでした。即効性はありますが、熟慮には向かなかったのです。p136「『わからない』を超える力」
13)私のtwitter観は彼女のそれに近い。そもそも、彼女のことをよく知らないのは、違和感を持つからではない。あえていうと、とても親和性を持つ。親和性をもつがゆえに、敢えてその人物の作品に目をとおそうとしないのだ。この感覚、あえて大雑把に言えば、私が村上春樹という人にもっている感覚と似ている。
14)ただ、あ、この人、私と同じことを考えている、という感覚は、読み手の自分が作者と同じ地平にいることを単純に表わすのではなく、あえてそういう感覚を覚えさせるほどの才能を書き手が持っているのだ、ということのほうが可能性は高い。だから、両者はそれぞれに才能がある人たちであることは間違いないだろう。
15)これから先、もし原発を止めても、廃炉までには長い年月と費用が必要です。さらに放射性廃棄物の管理をし続けるために、原子力という技術を捨てるわけにはいきません。日本が責任をもって核廃棄物を見守り続けるために必要なことは、脱原発後の長く不毛と思える仕事への社会的理解と共感でありましょう。p173「黙示録の解放」
16)各論的にはいろいろ異論はある。しかし、彼女の視点に近しいものを感じるとすれば、彼女は、「震災トラウマと復興ストレス」の宮地尚子が環状島モデルでいうところの「尾根」に立つ人間として自らを見ているからだではないだろうか。
17)それは、私から見た場合、村上春樹という人も「尾根」に立とうとしてしている人間に見えることとに似ている。そして、現在、当ブログが準備中の、宮沢賢治、ゲーリー・スナイダー、山尾三省、というトリニティは、そのモデルで言えば、決して「尾根」に留まる人たちではない、ということだ。
18)この三者のトリニティは、斜面に降りていく。それは外海なのか、内海なのか、見る角度によって違う。しかし、明らかに尾根にとどまろうはしていない、ように私には見える。それはやはり「内海」に向かっているのだろう。内斜面を下りていく。意識的に降りていく。そして、内海の真ん中へと消え去ってさえ行きそうだ。
19)しかるに、田口ランディという人は(あるいは村上春樹でもいいのだが)、尾根に立ちつつ、風や引力を感じつつ、決して外斜面には退却すまい、としているようでもあり、内斜面におりていくことこそ、今やるべき人間性なのだ、と思いこみつつあるのだが、やはり、尾根に立ち続ける人のように思える。
20)当ブログもまた、当面は尾根に立ち続けるだろう。内であれ、外であれ、斜面には降りないだろう。ただ、人間として斜面を下るということはあり得るだろう。そして、それは読書ブログという形ではなく、もっと別なスタイルになるだろう。
21)したがって、当面は尾根に立つ者としての視点から、当面3.11を見つ続けようと思う。先のことは、先のことである。
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「災害ストレス 直接被災と報道被害 」
保坂 隆 (著) 2011/6 角川書店 新書: 191p
Vol.3 No.0489★★★★☆
1)3.11を受けて、緊急的に発行された本とは言え、専門家からの、ある意味、教科書的なアドバイスの一冊であり、適切な分析や解説、あるいは一般化であり、なるほど、という以上の踏み込みがない。
2)そう感じるのは、宮地尚子の「震災トラウマと復興ストレス」と比較した場合、ということであり、また、一読者としての私が、まだまだこういう事象に対し、量的に、真正面から向き合えない、という理由によるだろう。
3)「3.11人の巻」を意識して読書を進めるのなら、この本のような傾向性のある本を読み続ける必要はあるのだろうが、私の感性にも限度がある。レベル以上の感情がこみあげてくる場合があるので、質的にはともかく、量的には、耐えることができなくなる。
4)宮地尚子の環状島モデルは分かりやすかった。自分の立ち位置が分かってくる。しかるに、こちらでは、ある意味、乱雑に一般化された事象の乱立で、ひとつひとつの表現や対処法は的確なのだろうとは思えるが、3.11全体をとらえる時の、集合性と固着力に欠けている。
5)ストレスを感じている時、人はどうしても呼吸が浅くなりがちです。吐く力が弱いために、吸う力も弱い呼吸では、体に入る酸素が不足してしまいます。すると、血液をリフレッシュできず、イライラして怒りっぽくなったり、落ち着かなくなったりするのです。
そうしたストレス耐性が低い状態になることを避けるためには、ふだんから背中を真っすぐに正して、深く息を吐き、吸うように心がけることが大切です。
呼吸法のなかでも、特に注目されているのが、丹田呼吸法です。p176「知っておきたいストレス解消法」
6)3.11以前から、体のあちこちに忍び寄る老化は感じているものの、3.11以後は、更にさまざまな不調に襲われた。
7)直後に繰り返し現われた悪夢。あれはなんだったのだろう。直後であってみれば、多くの人々の命が失われたという情報はあっても、実感はなかった。しかし、夢の中で、私は多くの人々(たぶん行ってしまう人々)から、手や足を引っ張られ、体に絡みつかれた。それは今でも月命日などが近付くと、また現われる。
8)低体温症、というのもあった。普段より体温が上がらなかったのは、まだ初春ということもあったのかもしれないし、燃料を節約したせいでもあっただろうが、体温を計測してみると普段より低かった。これは家族にも現われていた現象だ。
9)それと、片づけ時に負った手足のキズが原因だろうと思うが、体全体が重かった。どうかすると鉛のように重かった。アルコールも増えて、ダイエットも途中で放り出してしまったせいもあるだろう。
10)血圧にも大きな変動がある。諦めて計測記録をやめてしまっていたが、最近また始めることができるようになった。
11)丹田呼吸法もいいが、当ブログとしては、ここからいかにmeditation=瞑想にたどりつくかが主テーマである。
12)この本においては、「内海」のもっとも中心については触れられていない。「内海」にほど近い人々にとっても、本当の意味で役にたつかどうかは分からない内容である。しかし「内斜面」や「尾根」、「外斜面」にある人々にとっては役にたつものも多い。
13)しかし、概して言えば、この本は「外斜面」にいる、圧倒的多数の人々に語りかけられた本だと結論づけることができるだろう。どうかすると、外斜面の「水位」を上げ、「外海」へと「風」を吹かせ、「重力」をたかめようとしているようでもある。
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「震災トラウマと復興ストレス」 Vol.3 岩波ブックレット 宮地尚子 2011/08 岩波書店 全集・双書 63p
Vol.3 No.0488★★★★★
1)震災後7ヵ月が経過して、ようやくこのような文書が読めるようになった。私自身がこういう文書に真正面から向かい合うことができるようになった、ということであり、一般にこのような視点が流布するようになった、ということでもある。
2)著者は精神科医。「地球社会研究」専攻ということだから、社会学に一分野としてこのような研究は続いてきたのかも知れないが、私の目には、ようやくこのような本も見えるようになってきた、ということなのだろう。著者の他の著書も要チェックである。
3)震災直後から、私自身を悩ましてきたもの。それは、「私は被災者なのか」という疑問だった。それは、「私は傍観者なのか」、とか、「私はボランティア」なのか、とか、という問いかけとともに存在しており、この震災全体の中で、私は一体どこに位置しているのか、と自らの立ち位置をさがしてきたと言える。
4)著者は大震災後の人々の心理的傷害の全体的構図を、平坦地におかれた巨大なドーナッツのような形の「環状島」に例えている。まるで、蔵王のお釜のような形だ。
5)もっとも悲惨な「内海」があり、そこから這い上がろうとする「内斜面」があり、ひとつの頂点として「尾根」があり、そこからまた次第に下り坂となった「外斜面」があり、「外海」へとつづく。
6)内海の最も中心は水没してしまっていて、何も見えない。外海もまた水位の変化によって、被災地のことなど忘れていく。内斜面においても、外斜面においても、滑り落ちたり這いあがったりする動きがあり、それは「重力」や「風」、「水位」としてとらえられている。
7)この図式で言えば、まさに私は尾根に立っていると言えるだろう。もっとも悲惨な内海にいて、死亡したり声を失ってしまったわけでもなく、外海の水位のなかに埋没してしまって、無関心になってしまっているわけでもない。
8)しかし、わざわざ外斜面を這い上がって、尾根を越え、さらに内斜面におりて行って、積極的にボランティア活動や被災地救援の活動をしようとしているわけでもない。
9)もっとも、日々、心の動きがあり、内陸に住んでいる私の周囲はより復旧が進んでおり、このまま、昔に戻ってしまおう、という心理が高まる時もあれば、その逆もある。時には、被災地に車を飛ばし、その後の街並みや海岸線の変化を確認しに行く時もある。
10)放射線が飛散した地域が同心円状に広がっているわけではないことは、多くの調査で明らかになった。著者のいうところの環状島もまた、実際にはドーナッツや蔵王のお釜のように、必ずしも同心円状に広がっているわけではないだろう。ただ図式としてはよくわかる。
11)実際に見聞きすることもあり、メディアで報道されることもあるが、被災地における心理状態はさまざまである。とらえきれない位の事象がある。しかし、この環状島モデルは実によくわかりやすく、現状、人間の心の中に何が起きているのか、説明することができる。
12)当ブログにおける、まさに「3.11人の巻」の骨格を提示してくれるような一冊である。一冊といえども、実は、このパンフレットはわずか63ページの小さな本である。決して冗漫でもなく、不足もしていない。
13)この本は、被災地の方々に向けてというよりも、外部から支援やボランティアに携わる人たち、復興構想や政策にかかわる人たち、遠くにいて何もできないけれど、被災地に寄り添って、深くものごとを考えたいと思っている人たちに向けて書いています。もちろん被災地の方々にとっても意味あるものにしたいと思っています。p3「はじめに」
14)私は環状島の尾根に立っている人間である。被災した状況もまさにそのような立ち位置にあったし、今後も、この3.11に対しては、この位置関係を維持していきたい、と思う。風も吹き、引力もある。周囲の水位の変化にも、きわめて敏感に反応する自分がいる。
15)親戚が亡くなり、友人が何人も被災した。7ヵ月経過しても、3.11の当日のまま、一階部分が崩壊した自宅が、いまだに手つかずに残っている友人宅を目にして、言葉を失った。
16)客回りをしていても、突然、悲惨な話を聞いて、いきなり内斜面に引きづりこまれ、あやうく転倒しそうになったりする。あるいは、風が吹いて、外斜面をころがり、すっかり忘れてしまっている時間帯もある。
17)しかし、やっぱり私は、この環状島の尾根に立ち続けるだろう。
18)「日照りの時は涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き」、と宮沢賢治は表現したが、その真意はともかく、今の私は、そのような状態であり、また、それはそれでよいのだ、と思っている。
19)<内斜面>から<内海>に落ちないようサポートする。<外斜面>の支援者を減らさない。傍観者を<外海>から<外斜面>に誘う。<水位>を上げない。一つの大きな島影を残しつつ、新たな島を想像/創造していく。いずれも可能です。
今、歴史は作られている最中です。復興の過程には私たちみんなが関わることができ、そこでの<重力>や<風>に影響を及ぼすことができるはずです。p55「復興とストレス」
20)シンプルにそぎ落とされた文章の中に、ソリッドな力強いエネルギーを感じる。
21)この本、まるまんま3.11に向けられて書かれている本だが、これまでの他の震災、例えば阪神淡路とか、中越地震などでの研究がもとになってできてきている部分が多いだろう。確かに今回は巨大であり、未曾有の災害ではあるが、人間界におこる図式としては、あり得ることであることを、見事に教えてくれている。
22)今回、私は環状島の尾根に立っていることを意識したが、かつての震災においては、どうだったのだろう。一時的に外斜面にいた時もあっただろうが、殆どはそこからすぐに重力に引かれて外海へと水没して、無関心派へと転向してしまっていたのではなかっただろうか。
23)今後、被災地の中から、どのような文学、詩やアートが生まれてくるのか楽しみです。宗教やスピリチュアルな領域においては、東北は豊かな民俗文化ををもっていました。口承伝承の再評価、祭りや儀礼の復活再生、新たなタイプの祭りや儀礼の創造は、<内海>に沈んだ犠牲者たちの声をよみがえらせ、後世にまで伝えることでしょう。p61「復興とストレス」
24)素直に心から、ありがとう、と言える一冊。感謝。
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「ガイガーカウンターGuideBook」 放射能から身を守る!!
日本放射線監視隊 2011/06 フレックスコミックス 単行本 127p
Vol.3 No.0487★★★★★
1)だいぶ前にリクエストした本なのに、しかも私の前の順番待ちリストはわずかだったのに、ようやく私の番になるまでだいぶ時間が経過してしまった。一人二週間としても、あまりに時間がかかりすぎた。多分、ひとりひとりの自宅での滞在時間がながかったうえに、返却が遅れた人もあったに違いない。
2)その理由は、この本にマニアックな人気があるからだろう。この本、パッとめくって、サッと閉じるという本ではない。ひとつひとつが貴重な資料である。
3)オンラインでみただけでは、この本はムック型の大型本ではないかと思っていたが、いざ手に取ってみれば、オールカラーのきれいな読みやすい本ではあったが、小さな新書本サイズだった。
4)ガイガーカウンターを中心に書いてある本は殆どない。いままで当ブログの読み込みでは、「自宅につくる震災対処PCシステム」(2011/05)あたりがレポートしていただけであった。それでも、わずか見開きで数ページにすぎなかった。
5)だから、この本が貴重であることがよくわかるし、発売当初に私の番が来たら、ヤッパリ私も期間ぎりぎりまで手元においていたに違いない。
6)しかしながら、発行からすでに半年近くが経過し、情報も古くなり、また新しいガイガーカウンターも発売されるに至って、相対的にこの本の価値は変動している。が、記録として、あるいは、企画として、なかなか光るところがある。
7)ロシア製と中国製、アメリカ製、それぞれ当時入力できる16種類の機種が紹介されているが、一般的に言ってロシア製が一番評価が高く、中国製は誤差があり、アメリカ製は感度が微妙で、表示単位が違う、と言えそうだ。
8)その中でも、一般の家庭用としてお手軽に使えそうなのはほんの数種。もちろん工業用で使う場合と家庭用で使う場合の違いもあり、値段も相当に違うようだ。入手方法も、新品、ネットオークション、中古など、まちまちだ。
9)この10月20にはエステー化学から税込み15,750円で「エアカウンター」というガイガーカウンターが発売される。それがなんと実際には税込み9,800円にディスカウントされるようだから、性能や入手時期はともかくとして、まず家庭用としてはこれで十分だろう。
10)ところで、この本の企画力のすごいところは、宝石やカメラや温泉でも被曝する可能性に触れているところ。
11)温泉で湯治と聞くと、湯に入って病気を治す、とイメージするだろうが、玉川温泉ではそれ以外に、岩盤浴を行う人が多い。つまり、地中から放出される微量の放射線によって万病が治る、と信じて岩盤浴を行っているのだ。
本書はその効果について検証するものではないので、このあたりの真偽については触れないが、実際にどの程度の放射線がでているのかは興味があったので、ガイガーカウンターで測定してみることにした。p114「ラジウム温泉で測定してみる」
12)自作キットを含め12機種で計測してみると、場所や機種により、0.45~0.90μSv/hであり、これを高いと見るか低いとみるかはいろいろだが、私は、だいぶ低いんだなぁ、と思った。温泉で岩盤浴をやっている時間などホンの数時間だ。それに比べ高濃度の放射線量に常時さらされている被災地は、やはり要注意だと思う。
13)写真を見てわかるとおりエカナイトは、宝石といっても美しい輝きをはなつわけでもなく、色会いも見栄えしない。このため価格はかなり安く、写真の1カラット未満のものなら数千円で購入できる。
ただ、放射線量は0.5~2.5μSv/hあたりとそれなりにあり、アクセサリーとして身につけるのは避けたほうがいいだろう。p100「放射性宝石を測定してみる」
14)なるほど、こういう宝石も流通しているのだ。ガイガーカウンターはこのようなものを測定する場合でも役にたつ。
15)今回入手したのは、ペンタックスの「SMCタクマ―50mmF1.4」である。製品によって光学ガラスに含まれるトリウムの量が異なるため、放射される放射線量にさがでてくる。
運よくというか運悪くというか、今回入手したSMCタクマ―50mmF1.4は特に高い放射線量を放出する製品のようで、実際に測定してみたところ、思わず「オイ!?」と突っ込みたくなるほどの高い値をたたきだした。p102「アトムレンズを測定してみる」
16)3~4.4μSv/hという放射線量はたしかに高い。レンズのガラスにトリウムをまぜて性能を上げ、数年前まで使われていた、ということだから、びっくり。その名もアトムレンズ。
17)その他、アウトドアグッツとして使われるランタン用のマントル等も強い反応を示している。なにに使われるのかしらないが、ウランガラスなどというものも存在しているようだ。
18)すでにガイガーカウンターを所持している友人・知人も多く、公共団体や行政からの細かいメッシュによる測定値が日々公開される時代が来ている。それなりに放射線量の情報はきめこまかく公開されるようになってきたが、まだまだ知らないことばかり。ここはひとつ、お手軽なガイガーカウンターを家庭に常備する時代になってしまった、ということなのだろう。
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「ガイア―地球は生きている」 <1>
ジェームズ ラブロック (著), James Lovelock (原著), 竹田 悦子 (翻訳), 松井 孝典 2003/08 産調出版 単行本 191p
Vol.3 No.0486★★★☆☆
1)読み手としては、このタイトルでいいと思うし、直感としてはこれしかないのであるが、科学側見れば、それでは困る、という面もあるらしい。科学の姿勢としては、疑ってみる、検証してみる、周囲と関連づける、という作業が必要なのであろうが、そもそも「生命」というもの考え方が、人間側からの見方しかできないから、地球そのものが生きている、などいう表現は鵜呑みにはできない、ということになるであろう。
2)しかし、直感的には「地球は生きている」のであり、芸術的な表現をすれば、「地球は生きている」ことは間違いない。
3)「科学者」としてのラブロックは、芸術的な直感「地球は生きている」を検証して、他と関連づけるために、さまざまな分野を網羅して、自らの主張をより明瞭なものにしようとする。
4)この作業、例えば、ケン・ウィルバーの「インテグラル・スピリチュアリティ」にも似ていると思うし、拡大して考えれば、飯沼勇義の「知られざる中世の仙台地方」にも連なってくるように感じる。
5)専門家ならざる一読者としては、細かいところまでの検証などは、それぞれの専門家に任せればいいわけで、結局、何をいいたいのさ、というところを強く聞きたい。
6)そういった意味では、「インテグラル・スピリチュアリティ」と「ガイア―地球は生きている」には類似性があり、共に、失敗していると、私なら思う。
7)「地球は生きている」という直感のあとは、芸術家にでも転向してしまえばいいのだ。どこまでも科学者であろうとすれば、かならず無理がくる。円球上で永遠に交わらない平行線を書く作業にも似て、科学には科学の役割はあれど、いずれ限界はあるのだ。
8)いろいろ科学的な検証やそれが楽しみなら、それはそれでいいのだが、あまりにも細かい部分については、一読者としてはついていけない。
9)とにかく、なんであれ、「地球は生きている」というコピーは秀抜であり、今こそ、その意味をもっと感性的に受け止めたい。
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「NHKスペシャル MEGAQUAKE巨大地震」 ―あなたの大切な人を守り抜くために! <2>
NHKスペシャル取材班 (編集), 2010/02 主婦と生活社ライフプラス編集部 単行本: 95p
★★★★★
1)この本も、どこか後ろ髪引かれる思いで、このまま図書館に返すのがモッタイないような一冊である。
2)最寄りの公立図書館でも今月末からビデオやDVD、CDなどの視聴覚資料がネットからリクエストして、各館あれば近くの図書館まで転送してもられるサービスが始まるらしい。
3)そこで、この番組のビデオはないかと探したが、なかった。残念と思いつつ、ネットで検索したら、4回のうち3回までネット上の動画でみることができるようだ。あとでゆっくり見ることとして、ここに貼りつけておく。
4)著作権の問題もあるだろうが、もうすでに、このような形で情報が伝達される時代なのだなぁ、と、あらためて思った。「読書ブログ」など、もう古いか。
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「3・11その日を忘れない。」 ―歴史上の大津波、未来への道しるべ <3>
飯沼 勇義 (著) 2011/6 鳥影社 単行本 208p
1)赤本「仙台平野の歴史津波--巨大津波が仙台平野を襲う!」(飯沼勇 1995 宝文堂)のインパクトがあまりに強かったものだから、これは一冊手元におかなければならない、と通販を探すのだが、すでに絶版である。オークションにもでていない。出版元もこの出版不況の中ですでに数年前に倒産し、あとは図書館の蔵書に頼るだけとなる。密かに私家版コピーでもとっておくか。
2)そんなわけで、こちらの本もまた再読ということになってしまった。赤本の再録部分もあり、3.11の事実を踏まえた上での著者の体験談もあったりして、興味は尽きないのだが、他者の文章も混在していて、何回か読み返して行けば、やや冗漫なところがないではない。
3)しかし、それよりも著者自身の視点や論点、あるいは事実認識の変化があることに気づいたことが、再読の効果であった。
4)「知られざる中世の仙台地方」(1986)においての多数の点のあつまりからなる世界観が、赤本においては、一転、仙台平野における歴史津波の警告という一線のするどい閃きに変わり、こちらの「3・11その日を忘れない」においては、地震津波の数も多極化し、その到来する地域も次第に広くなった。
5)今回の国難ともいうべき非常事態に対し、歴史学者として、また被災者として、読者諸兄にぜひともお伝えしたいことがあって、緊急出版というかたちで本書を刊行することになった。その最大の理由は、マグニチュード8以上の首都県直下型地震ととう南海地震が予想され、再び巨大津波に直面する可能性があるからだ。p2「はじめに」
6)まさに今は「3.11後」ではなく、新たなる「3.11」の前にある可能性が高いのだ。
7)出版元の島影社編集部の人は書いている。
(飯沼)先生は、江戸末期から明治初期に日本に輩出降臨した人々、教派神道の教祖たちのように、口を閉ざしても、弾圧されても、押さえることのできない真実を説き続けた予言者の流れを汲むお一人なのだと確信しました。p149「その日、何がおこったのか」
8)文面からはわからないが、日常の著者はかなりユニークな人格を会う者に感じさせるらしい。
9)現在、地震活動は世界的に活動期に入っているといわれる。今後もM9クラスの巨大地震が続く可能性があるうえ、東日本大震災のような超巨大地震は他の地震域への影響を及ぼすことも懸念される。
今後、東京、東海、東南海、南海地震が、今回の東日本大震災のように連動して起こり、M9に他することも考える必要があるだろう。p154「これからをどう生きるか、災害の哲学の構築」
10)著者は、自らの生活基盤である仙台平野と、研究上に気づいた歴史津波にテーマをしぼってきた(しぼらざるをえなかった)が、決してそこにばかりこだわる視野狭窄の人物ではない。
11)何か根本的な意識の変革、生き方を変えることが求められているのではないだろうか。二万五千人ちかくもの犠牲者を出し、何十万人もの被災者を出した今回の震災に対し、私たちが考え方や感じ方を根本的に変えない限り、多くの方々の死は、その意味を失ってしまうのではないだろうか。p156「同上」
12)今後、何度か目を通すことになるであろう、この本であるが、もともと出版業界の人ではないし、16年ぶりの本とあってみれば、3.11の現状を受けて緊急出版された、ある意味、未整理で雑多な内容の一冊である。しかし、その55年間の研究の結果として得られた「結論」には多いなる敬意を払って耳を傾ける必要がある。
13)東日本大震災は千年に一度しか生じないほどの稀な天災であると同時に、被害をここまで拡大させたのは明らかに人災的要素が大きい。津波で壊滅的なまでに破壊された地域を歩くと、これは自然災害というより、何かの核戦争の後のような徹底的なまでに破壊し尽くされた異様な光景が広がっている。p169「同上」
14)今回の東日本大震災は、我々の生き方そのもの、世界観そのものを根本的に変えるほどの巨大な意味を担っている。もし、単に以前と同じような繁栄を復旧させることを目指すのであれば、私たちはふたたびとんでもない間違いを犯すことになるだろう。何万もの尊い命と膨大な犠牲を本当に生かすものとするためにも、私たちは、ここで何が問われているのかを真摯な形で問い直すことが求められているだろう。p170「同上」
15)私がここで命を賭して申し上げたいことは、私たちが自然の主ではないというただ一点である。この世界の主体として働いているものは、人間の心でも考えでもないのである。はかり知れぬ力がこの世界を動かしている。私たちはこの世界に生かされているにすぎない。
この主客の転倒こそが、この大災害のような事態を生み出すのである。原子力も然り、巨大防波堤も然りである。それは世界というものに対する真の畏敬を失った者のなすことである。
この大震災が世界観の大転換を迫っているのは、まさにそういうことが人類全体に問われているという意味ではないか。p193「同上」
16)ここまで書いたところで、ネットで注文していた、私用のこの本が宅急便で届いた。
17)電力システムが重要なのは、インターネットのような電子的情報手段が今後も世界を現実的に支えるだろうと予測されるからである。電子メディアの消費電力は、エアコンや電子調理器具に比べてはるかに小さい。
各家庭の自前の電力でまかなえない電気器具などはやがて淘汰されるだろう。もっとも高度でありながら、もっと身を屈め、頭を低くして、自然を畏敬しつつ、生きていくそういう世界が東北の地に誕生すべきなのである。p199「同上」
18)東北はまったく新たに再出発するだろう。他の日本の地域とは歴然とした違いを明確に打ち出し、自然と一体でありながら、同時にもっとも高度な技術文明を維持できる、その規範となるべき東北州が誕生するだろう。その精神を導くものは、おそらく東北の詩人、宮沢賢治の理想ではないだろうか。p200「同上」
19)山尾三省「野の道―宮沢賢治随随想」の再読あたりを契機として、当ブログでも今後、宮沢賢治の読み込みをしようと思う。
20)彼ほど東北の人々を、東北の自然を愛した者もいない。彼は原体剣舞連やネプタに先住の蝦夷の民の屈折しつつも爆発的な初源エネルギーを見ている。東北の農民に世界に連なる高い意識を求めている。
彼は一介の詩人ではなく、宇宙銀河を探索する天文家であり、自然と人間の共生を模索した科学者であり、農民のために土壌を研究し、たくさんの時間を農民のために割いた農業指導者でもあった。
宮沢賢治を愛する人は多い。たくさんの人が彼の「春と修羅」や「銀河鉄道の夜」を読む。だが、いま私たちに求められているのは、私たちもまた、彼のようにつましく、真摯に、ひたむきに、大地に頭をたれ、天の川の輝きに目をやり、一輪の花に無限の世界を想い、一匹の鳥にも愛を注ぐ、そういう生き方をするということではないだろうか。p200「同上」
21)歴史は繰り返す。とりわけ地震活動は一定の規則性を持っている。「想定外」という言葉は、自らの不勉強と傲慢さを意味しているのである。
今度の震災復興会議に選ばれたメンバーの中に誰一人として歴史上の津波の専門家がいないことにも驚いている。こんなことでは、これからも何十年、何百年後の津波の襲来でも同じことを繰り返すだろう。何度も何度もこういうことを繰り返してきたのだ。歴史に学ぶということを意味を、ぜひともここで熟考していただきたい。p206「同上」
22)「これからをどう生きるか、災害の哲学の構築」と、銘打たれたこのパートにおける著者の「警告」を、いままで以上に重い最終警告して受け止める必要がある。
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「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!
飯沼 勇義 (著) 1995/09 宝文堂 単行本 p234
★★★★★
1)深夜まで本を読んでいて、ふとうとうとしていると、ひさしぶりに身体の自由を奪われた。まるで海中をもがいているような、誰かが手をひっぱり、体に抱きついてくるような重たい感覚。声を出せども、声もでず、手を出そうにも身動きできない。足をばたつかせ、頭を振り回しているつもりなのだが、周囲は暗闇ばかりで、唸りこそ聞こえ、何の意味もない漆喰の空間でもがくだけで、数刻過ぎた。
2)ようやく呪縛が解かれ、ふと我に返ってみれば、そうか、今日は10月11日。あれから7ヵ月目の月命日の日であった。死者行方不明者2万名以上。 冥福を祈ります。 合掌
3)息せき切って、一度は読みとおした本書であるが、一息入れて、また最初から読み直してみる。重要ポイントの確認もあり、また見落としていた伏線の発見もある。自らの想いと、自らの第一理解をベースとして、さらに細かいディティールを補完する。
4)それにしても、とてつもない本であると再認識するとともに、今までの自らの無知さを再確認する。なるほど、身近なポイントにこのような見方があったのか。だから、現在こうなったのか。ひとつひとつうなずくことが多い。
5)有史以来、日本を襲った津波のうち、海岸部の最大波高が5m以上に達する津波として記録されているものは約40件ほどあり、この中でも30m以上という想像を絶する巨大津波は過去に8回に上っております。
この8回のうち東北の三陸沿岸または仙台沿岸を襲ったものは、西暦869(貞観11)年の「貞観津波」、1611(慶長16)年の「慶長津波」、そして1896(明治29)年の「明治三陸津波」、1933(昭和8)年の「昭和三陸津波」、更には、1960(昭和35)年の「チリ津波地震」で、日本で発生した巨大津波の半数以上をこの両地域で占めているのです。(理科年表平成4年阪より)p18「津波の恐しさ」
6)3.11以降、あとだしジャンケンのように、数多の研究家やジャーナリストの写真や諸説が流布されているが、この本の恐ろしさは、それを16年前にキチンと予見していたことである。特に「仙台平野」と区切り、平野部における、空白期の、巨大津波の恐ろしさを直言した本としては、唯一と言っていいのではないか。
7)今日、地震予知すら出来ない地震国日本。世界的に優れた地震学者がいる日本。今、地震予知はできないが、ある程度の<予測>は出来るところまでの水準に達していることだけは確かです。
例えば、活断層箇所、地下水水位の異常、動物動向の異常、電磁波の異常、人工衛星からの地形移動とひずみの差・・・・等の事前調査によって、地震発生の予測をすることが出来るようになってきました。
そして、更に、ここではっきり言えることは、仙台平野には過去、数十年、数百年、数千年、数万年・・・・の歴史の中で何回も何十回も巨大津波を被災しているという過去の歴史の教訓を生かした津波防災が絶対必要であるということです。p29「地震予知の不可能性と現実-----歴史津波の重大性の認識」
8)震災後7ヵ月が経過して、早期の復旧・復興が叫ばれる中、全体としてのそのイメージがまだ実像を結ばないのは、いままでの防災意識の不足が加速させているということもできる。以前から考えていなかったので、まずは現実を飲み込むまでに時間がかかっているのだ。
9)それにしても、いままで住んでいたところが好ましく、離れて暮らすことができない、として、いままで以上の「防潮堤」を巨大化して、同じ地区で住み続けようとする動きもある。
10)これだけの広域にわたる被災なのど、一概には言えないが、少なくとも、大自然の猛威の前で、自分や人類の力を盲信・過信するようなプロジェクトだけは慎むべきだろうと思われる。地球上のプレートの上で動いている大地の上で、環境と共存して生かされているのだ、ということを肝に銘じたビジョンでなけばならない。
11)貞観11(869)年の貞観津波から慶長16(1611)年の慶長津波まで742年あります。仮に、この貞観津波で仙台平野の農地が海水をすっぽりかぶり、荒地、荒野原になったとして、この仙台平野が、その後742年間、伊達政宗が仙台へ進出するまで、殆ど、荒野原の原野の大地であったとは、だれがどう考えても不自然でおかしいということです。p134「古代、中世を通じた仙台平野」
12)上についての著者の見解は、著者の「知られざる中世の仙台地方」(1986)にくわしい。一郷土史家のほとんど私家版ともいうべき一冊で、決して読みやすいものではないが、一人の地元人が徹底して調べ上げれば、これほどのことまでのことが分かるのかという、目から鱗の一冊である。
13)慶長16年、今から約380年余り前、この仙台地方に想像もできない巨大な津波、慶長津波が押し寄せ、古代から、そして貞観津波以来続いた仙台平野を支えた豊かな耕地は、この津波によって海水と泥砂の堆積で、仙台平野は荒野原となる大災害に見舞われたのです。p135「同上」
14)慶長16年と言えば1611年、今から思えば、ちょうどジャスト400年前のできごとであった。地域の旧家や寺社の由来を尋ねると、約400年前、と答えるところが多い。歴史を遡るには、それくらいが限界なのかな、と思ってきたが、はてどうだろう。少なくとも、私の生家や地域の寺社を含め、このちょうど400年前の慶長津波で一旦流されたあとに再興された農耕文明のなかで、地域が作られてきたのではなかっただろうか。
15)慶長津波は、この名取川河口からものすごい勢いで駆け上がり、(中略)特に海辺の閖上、藤塚、種次にはこうした海辺の村ということばかりではなく、名取川に接している村で、信じられない程の大変な海水の浸水があったことはまず間違いないことでしょう。
こうした仙台湾岸の仙台平野を望む海辺の村々は、この慶長津波で殆ど村ごとのみこまれていて、これまでの藩政初期のこうした村々の津波の歴史は何も書かれることなく、まったくの空白で、何も残していないということもわかったきましたので、それぞれ確認してみてください。
慶長津波によって残された後遺症は、仙台藩にとって大きな痛手だったようです。p167「仙台平野の沖積層土壌と湿地地帯について」
16)なるほど、そうであったのか。この本が3.11以前に描かれているということに留意しておかなければならない。今考えてみれば、すこし控えめである、とさえ感じられるような表現ではある。出版当時には市長、県知事を初めとして、地域の誰もが無視してしまった研究だったのだ。それが現実のものとなったのが3.11である。
17)仙台平野でも多賀城地方から仙台地方にかけては津波の最終到達点又は浸水地と思われる歴史津波地が集中していますが、名取川から南でも仙台平野の最南域である阿武隈川よりの岩沼深山の千貫松と千貫神社の津波伝説地までの中間の名取平野には、貞観津波伝説の清水峯伝承以外の津波伝説は今のところありません。
しかし、の清水峯伝承の中に登場する、赤井江・葦浦・玉浦・牛野の里・小豆島・久穪島・舟繋の松・來着崎・・・・などの地域まで貞観津波が侵入していることがわかり、これらの地域は、海からの入江・内海ではないかということを指摘しましたが、藩政時代になってから名取以南にみられる増田川・川内沢川・五間掘の河川は、これまでのこうした入江・内海と接続した河川に改修した水路であるということはほぼ間違いないと思う。p181「増田川、川内沢川、五間掘、阿武隈川と関係を持った被災地の開発」
18)ここに登場するような地名に関心を惹かれるのは、ひとつひとつが、ごく身近で、すぐに行って確かめることができるような地域にあるからだ。一日も早い復旧・復興が叫ばれてはいるが、この地域の防災教育が遅れていたこともあり、これらの歴史の推移にまなびながら、より大自然が人間たちに提供する自然環境に適したライフスタイルの構築のための復旧・復興でなければならないだろう。
19)一概に、復旧・復興をいそぐことばかりが善ではない。
20)とにかく、ここで書かれているのは、巨大津波が仙台平野に襲来した歴史であって、これは言葉では表現できない大変な災害であったことをまずは知ってほしいということです。p186
21)今回の3.11においては、史上まれにみる動画記録が残されている。それは一地方にとどまらず、日本全国、さらには、インターネットを通じて世界中に配信され、記録された。仙台平野では、貞観津波、慶長津波に続いて、平成津波と記録されることになるだろう。それはまちがいなく繰り返し起こってきていたのだ。
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「原子炉時限爆弾」 大地震におびえる日本列島<2>
広瀬隆 2010/08 ダイヤモンド社 単行本 308p
★★★★★
1)「3.11<後>を生きる」ということは、本質的に「3.11<前>を生きる」ということと、大きな違いがあるはずがない。人間として、ひとりの地球人として生きる、ということにその前後に大きな違いがあったとするなら、その<3.11>とは何であったか、ということが問われてくる。
2)「3.11」とは、西暦2011年3月11日午後2時46分、あるいはそれから2分間の、ある時間帯に限られたことではない。その時点で起きた巨大地震に引き続き起こった巨大津波、そして、さらに続いた原発震災、それらの総称であり、その災害の総称である。
3)しかし、その巨大災害は、突如としてあの日「3.11」として人類の前に登場したのか。それまでは一切想像だにできなかった事態だったのか。そう問われれば、そうではない、そうではなかった、というしかない。
4)「3.11」を警告し、警鐘を乱打していた人々はたくさんいたのである。それをどれほど自らの問題として理解し、その問題の回避に努力していたかはともかくとして、ほとんどの人が、そのリスクについては、うすうす気がついていたのである。いつかは来る、と公けに警告されていたのである。
5)巨大地震→巨大津波→原発震災、と続いたかぎり、まずはその巨大地震のメカニズムについて知らなければならない。巨大地震が繰り返されてきたことは、多くの予言書があった。すくなくとも3.11がやってくる一年前に「NHKスペシャル MEGAQUAKE 巨大地震―あなたの大切な人を守り抜くために!」(2010)に警告されていた。
6)そして、すくなくとも、岩手県の三陸海岸から福島県いわき地方にかけての巨大津波が押し寄せてくることは、飯沼勇義の「仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う!」(1995)に明記されていた。それはすでに16年前のことで、ほとんど予言されていた通りに3.11として現実化したといえる。
7)そして、原発震災も多くの意識ある人びとによって警鐘をならされていた。その最右翼とも言うべき本がこの「原子炉時限爆弾 大地震におびえる日本列島」(2010/08)である。このような、ある意味、突拍子もないことが、わずか半年後に現実化した。しかも、予想された規模を上回る規模で現出してしまったのである。
8)「3.11」とは何か、と問う時、たしかに2011年の3月11日に起きた災害を思い出してしまうが、実際には、上記の3冊が予言しているのは、もっと幅が広く、もっともっと多発し得る、ということである。
9)つまり、少なくとも、<3.11前>から予告されていた<3.11>は終わっていないのである。もう<3.11>は終わった、とは決して言えないのである。
10)それは、震災の片づけに10年、20年かかり、原発が放出した放射性物質の悪影響が消えるまで10万年、100万年かかる、という意味ばかりではない。
11)これからさらに<3.11>は、新たに次々と起こってくるのである。それはもう予定として組み込まれている、と言える。それは以前にもあったし、これからもあるのである。
12)人間の人生80年~100年のサイクルでは見逃しがちではあるが、実は地球は生きている。大きなスパンでその生命を維持している。私たち地球人は、その地球の上で生かされているのである。
13)現代の若者も、そろそろ傍観する優柔不断な評論家スタイルの自分を捨て、立ち上がって、知性的な声を上げるべき時である。室内にとじこもって、インターネットだけに頼るようでは、道は開かれない。インターネットで計算ずくの行動をしたとて、社会は変わらない。では、どうすればよいのか。それは自分の知恵をしぼって考えることだ。2010年8月6日 p283「電力会社へのあとがき--畢竟、日本にすむすべての人に対して」
14)意識を持って<3.11前>を生きていた限り、<3.11>のひとつの現象に遭遇したとしても、<3.11>が終わっていない限り、いまだに<3.11後>になったとは言えない。
15)表面的には時系列的には<3.11後>ではあるかも知れないが、いまだに<3.11前>なのであり、<3.11>そのもののなのである。今後とも、新たなる<3.11>はやってくる。この地球、この日本、この自分が住む街が、<3.11>と化したのである。
16)まず、巨大地震がやってくることは間違いないのだ。それは春がやって来て、夏がやってきて、秋、冬がやってくる、というくらい間違いがない。これは地球上に生きる、ひとりひとりの人間として、ごく当たり前のことととして受け入れるしかない。
17)そして、それに伴う巨大津波は起こるのであり、その津波の被害を最小限にとどめるように、自らのライフスタイルを創造していくしかない。都市を考え、生活の在り方を考える。高層ビル群のような都市構造は亡くしていかなければならない。
18)そして、原発震災。これは絶対避けなければならない。これは人類がコントロールできる技術ではなかった。巨大地震、巨大津波がこなくても、人類は原発震災を起し続けている。ましてや、巨大な地球の動きの上では、原発は即刻中止し、後始末をキチンと始める時期なのである。
19)読書ブログとしての当ブログは、<3.11前>に、一般の公立図書館の2500冊ほどの本を、手当たり次第、ランダムに読み込んできた。その中から、これは、と思える本を何冊か選びとってきた。これから、それらの再読モードに入っていく。そして、それらを<3.11>というプラットフォームの上に広げる形で再検証していくことになる。
20)当ブログにおける「3.11後を生きる」とは、そういう意味をも持っている。
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「NHKスペシャル MEGAQUAKE巨大地震」 ―あなたの大切な人を守り抜くために! <1>
NHKスペシャル取材班 (編集), 2010/02 主婦と生活社ライフプラス編集部 単行本: 95p
Vol.3 No.0485★★★★★
1)「3.11後を生きる」ということはどういうことだろう。
2)まずは「3.11」とは何か、が問われる。
3)そしてその後を「生きる」とはどういうことだろう。
4)生きるということは、「人間として生きる」ということに変わりはない。
5)人間として生きてきたとすれば、3.11を境として、その前は生きておらず、その後は生きた、ということではなく、その前は生きていて、その後は死んでしまった、ということであっても、いけない。
6)地球上の上で生きてきた人間として、3.11を体験したということだ。
7)その3.11は、確かに想定しにくいことではあったが、あり得ることであった。今として思えば、多くの「予言」や「予知」、多くの「警告」が発せられ、「警鐘」が鳴らされていたのである。
8)仙台市の郊外。東北大学、今村文彦教授の研究チームは、海岸から4キロ近く離れた水田の地下から、あるはずのない海の砂を発見した。分析の結果、この砂は約1000年前に起きた日本最大級の津波の痕跡で、1000年ごとに繰り返してきていることがわかった。
つまり、いつ次の大津波が来てもおかしくはない。この津波を起こす地震は、本州東方のプレート境界。最大ではマグニチュード9近くのメガクエイクになる可能性もある。p18「地球に刻まれたメガクエイクの傷跡」
9)この本は、NHKスペシャル番組「メガクエイク(巨大地震)」が、昨年2010年に番組を編集して一冊の記録として残していたものである。この地点で、今回の3.11東日本大震災が、きちんと1000年サイクルでやってくるだろうマグニチュード9の巨大地震として予知されている。この本は、警鐘を乱打していた。
10)この今村教授の、内陸部にある海砂の発見こそ、「仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う!」(1995)の飯沼勇義が16年前から具体的に警告しつづけていた根拠の一つの貞観地震(869年)であった。その後の飯沼の所感は、「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」に緊急的にまとめられている。
11)金森(博雄)氏(カリフォルニア工科大学名誉教授)は「過去の地震を調べることも大切だが、地震は常に想定外に起きるものだと考えて備えるしかない」と語った。驚く宮川ディレクターに、金森氏は続けた。
「過去の地震だけを想定していたのでは、必ず被害は甚大になる。高層ビルや原発、新幹線なども、作らずに済むならそのほうがいいに決まっている。しかし、経済活動のために必要だというのなら、どこまでコストをかけるかは、社会の判断になる。地震に備える技術はすでに発達しているのだから」p27「地震学に半生を捧げた『神様』がたどり着いた結論とは?」
12)まさにこのことを、「原子炉時限爆弾 大地震におびえる日本列島」(2011/08)で、激しいの警告を発していたのが広瀬隆であった。「FUKUSHIMA 福島原発メルトダウン」(2011/05)や「原発破局を阻止せよ!」(2010/08)などにおいて、彼は継続的に警鐘を乱打しつづけている。
13)チェルノブイリ事故も地震で起こったとする船瀬俊介の「原発震災が大都市を襲う 次は首都圏か!?」」(初版2007/09)などという本もある。
14)人間として生きる。とくに3.11を体験したその後に生きる地球人として、巨大地震は常に起こる可能性があるのであるし、その地球の大自然のメカニズムを理解すれば、生きるということは、原発などには頼らないライフスタイルを構築する、ということに他ならない。
15)近い将来発生が懸念されている、南海トラフの東海・東南海、南海地震。それぞれがのマグニチュードは8を超え、3つが同時に発生すると、最悪の場合、2万人以上が犠牲になると想定されるメガクエイクだ。100~150年周期で起きていることが、記録や地質調査などから知られている。p31「期待と失望、そして期待。予知はどこまで進んだのか?」
16)巨大地震→巨大津波→原発メルトダウン。巨大災害の悪連鎖が、多方面から予言されている。
17)人々はどこまで真摯に受け止めることができるだろう。地球の上で、地球人たちは、3.11後をどう生きようとしているのだろうか。
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「知られざる中世の仙台地方」 <1>
飯沼勇義 1986/11 宝文堂 単行本 300p
Vol.3 No.0484★★★★★
1)「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」(2011)、「仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う!」(1995)の飯沼勇義が、40年来研究してきたいわゆる郷土史の一端をまとめた一冊。1986年に出ている。
2)この方には他の著作もあるのかも知れないが、この三冊が一般に流通しているものと見られる。チェルノブイリの1986年、阪神淡路の1995年、東日本大震災の2011年と、なんとも大災害の年回りに著書を発表しているあたりが、なんとも因果なものである。
3)後年の2書に比べれば、著者の「処女作」ともいうべきこちらの「知られざる中世の仙台地方」は、かならずしも読みやすいものではない。ですます調と、だである調を、むしろ意図的に混在させているように思えたり、資料としての漢文や漢字+カタカナまじりの読み下し文は、通常ならサッサと目を飛ばして、ページをめくりたくなる。
4)しかし、1930年生まれの著者が56歳の時、過去35年を越える期間に渡って調べ上げた資料を列挙駆使しながら書き上げたこの一冊には鬼気迫るものがある。
5)特にこの本の主テーマになっている「中世の仙台地方」については、私自身も以前から関心を持っているのだが、いまひとつ手掛かりがないまま時間だけが過ぎてきた。この一冊において、なにかが大きく解決した、ということではないのだが、なるほど、ここまで、こういう形で研究できるのだ、という納得感はある。
6)私の20代、30代、40代の前半までの半生は、仙台地方の歴史を詳しく知るということを重点に、仙台地方の歴史資料を徹底的に集めて調査、研究をさせていただきました。
だが、これまでは、仙台地方の歴史を知ったということだけであった。それもその筈、この間に集めた資料を基にして一つの史実を実証しただけであり、これらの実証した史実を収録しただけでは、価値ある史書の叙述は全く不可能であることを知った時、この半生の間、何かしら人間としての生き方に非常に大きな物足りなさがあることに気づきはじめました。
もう一度、自分を見つめ、このからだで、今まで出来なかったことを自分の肌でその生きざまを経験出来たら・・・・・この経験の中に、巾広い視野の見える人間、そして、過去が透視できる歴史観をもった人間になりたい、・・・ただ、ひたすら、こんなことに執念を燃やして生きてきたが、到底、この境地に到達することは出来ないまま今日に至ってしまいました。p4「はじめに」
7)至って謙虚な述懐ではあるが、真摯な姿勢で人生を生きてきた方ならば、当然、一度ならず通過すべきふりかえりの心境であろう。このポイントから何年も経て、後年の2書が出て来ることを考える時、著者の中の心境の変化に留意すべきである。
8)現在、私達が住んでいるこの土地に、こうした大津波が押し寄せてきたら私たちは一体どうなるのでしょう。どうすれば助かるの? どこへ逃げればよいのですか? と言われたとき、私は歴史研究家として、熱いものが胸につまって言葉が出ませんでした。
今までの歴史研究家は歴史を研究すればそれでよかった。しかし、こうした研究を通じて、実際、これからどうすればよいかということに取り組まなければ、本当の意味での研究者の本懐を達成できないと感じました。「仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う!」(1995)p190「津波防災対策試案 もし、仙台平野に巨大津波が押し寄せてきたら、私たちは、どうするか。」
9)中世の仙台地方を研究していた段階ではまだはっきりとしたテーマが見えてこなかった。もっと思索を深めた時、長い歴史の空白期に、著者は周期的に襲来する巨大津波の存在に気づいた。そこからさらに襲来の時期と規模を推定し、近未来に対する警告を発した。
10)私は半世紀以上にわたって仙台湾に押し寄せた歴史的な津波について調査研究をしてきた。数え切れないほどの伝承を調べ、多くの史跡を訪ね、学際的な研究をも進めて歴史叙述を分析、解析を進めるうちに、戦慄すべき事実に気づき、ある確信を抱くようになった。
三陸海岸と違って津波と無縁であると思われていた仙台平野にも、約200年周期で大津波が押し寄せていること、そしてさらにそれをも超える超巨大津波が約1000年周期で広域の仙台平野全域を襲うだろうという確信である。私はその成果をまとめ、1995年に「仙台平野の歴史津波」と題する本を上梓した。その本はなぜか周囲から「赤本」と呼ばれている。
2007年には「巨大津波がやってくる」と題して仙台市の若林区役所で講演を行った。宮城県庁、仙台市に対しても津波対策、避難経路の確保、防潮林の強化植林を何度も訴え続けた。東北大学の地震学者たちにも共同で研究するように要望書を提出した。
だが、それらのほとんどは無視されたまま、2011年3月11日の、あの日を迎えてしまったのである。「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」(2011)p5「はじめに」
11)著者の無念さが伝わってくる部分である。私たちは、ここから何を学ぶのだろうか。
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「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!<1>
飯沼 勇義 (著) 1995/09 宝文堂 単行本 p234
Vol.3 No.0483★★★★★
1)赤本。「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」飯沼勇義の啓発の書ともいうべき、16年前の1995年に出されたもの。当時の藤井黎・仙台市長と、浅野史郎・宮城県知事あてに、「陳情書」として書かれている。
2)災害を予言し、警告した、という意味では、広瀬隆「原子炉時限爆弾--大地震におびえる日本列島」(2010/08)にも匹敵する。一人でライフワークとしてコツコツ警告してきた、という意味では京都大学原子炉実験所の小出裕章助教にも匹敵する。いや、こと仙台平野の津波についてだけなら、広瀬隆+小出裕章をはるかに凌駕する驚愕の書である。
3)「蛸薬師堂と薬師如来像の伝説」
蛸薬師堂は、仙台市太白区長町三丁目(旧西浦地内)に祀られている神社です。元来、この社は、川熊醤油店の氏神で薬師如来を観音様と言っておりました。
慶長津波の時、この観音様に蛸がついてこの地へ打ち上げられ、これ以来、この観音を薬師如来とし、川熊家の氏神として屋敷内に蛸薬師堂の神社を建てたと大竹誠氏が言っています。
この地へ津波侵入は、名取川から広瀬川を上り、この辺まで津波が来たということです。
この周辺にまで襲来した津波と、津波とともに流されてきた蛸が、この終着点で薬師如来と結合して神社に祀られています。
元来、薬師如来は、人々の病を治し、災難を取り除いて元に戻してくれるのであり、ここでは、津波という病魔に冒されたこの地を再び、こういう災害が無いように観音様(観世音菩薩)、を薬師如来に仕立てて、その願いを託して祀ったのが蛸薬師堂だということです。
薬師如来とか薬師さま、薬師堂と水難は密接な関係をもっています。薬師如来のことは別名、瑠璃光如来とも言って、慈覚大師によって、主として、東北地方や関東地方の各地におかれました。p118
4)この部分はほんとに唸らざるを得ない。今回の3.11で津波にあったという人は、私の身近にも多くいる。どこでも、まさか、というタイミングだった。しかし、私は、まったくその心配をしていなかった。町中の海岸から7~8キロも10キロも離れているような、そんな地に津波がくるわけがないと思っていたし、そんな話を聞いたこともなかった。
5)しかし、現実には私が被災直後に歩いていた街の界隈には、実は津波伝説があったのだ。人のことを嗤うことはできない。私がいつも行っているあの図書館も、津波に襲われる可能性があったのである。事実、そういう現実が慶長津波(1611年)にはあったということだ。
6)数日後、私の住まいの近くにある樹齢1300年と言われるカヤの木の行事がある。ここもまた薬師如来が祀ってある。深い言われは分からないが、その根元から薬師如来の像がでてきたということが由来になっている。
7)実は不思議と言えば不思議なのだ。樹齢1300年と言われる割には、この地にそれに類する樹木は他に一本もないのだ。本当に一本だけだ。今回も陸前高田の一本松だけが生き残ったとされるが、ひょっとすると、あのカヤの木も、近くの一級河川が氾濫した時に、全てが流され、たった一本だけが残ったのかも知れないと思う。樹齢1300年というと、869年の貞観津波をも見ていた、ということになる。
8)瑠璃光如来。山尾三省の「祈り」が聞こえてくる。
9)浪分(なみわけ)不動と浪分神社の伝説
仙台の海岸線から西方の内陸へ直線距離にして約5kmのところ、仙台市若林区霞目(七郷)に浪分神社があります。この神社の西隣には、「谷風の墓」があって、その西隣接地には、仙台霞ノ目飛行場(現、陸上自衛隊霞目飛行場)で、この飛行場から南小泉遠見塚古墳一帯にかけては南小泉遺跡地帯になっています。ここ、浪分神社の周辺は海抜5~5.5mのところにあります。
慶長津波は、井戸浦川、七郷掘を駆け上がり、この周辺一帯まで及び、現在の神社の位置が浪分けの地となって、ここより二つに分かれて引いていったといわれています。この社には、浪分不動尊をご本尊として祀り、浪分神社というようになりました。p115
10)3.11以後はすっかり有名になってしまった浪分神社だが、それまでに、この伝説を真に受けることができた人はどれだけいたことだろう。すくなくとも私は現実のこととしては聞くことはできなかった。
11)名取の植松地区にある東北最大の規模と威容を誇る雷神山古墳の西、地図上での直線距離約500メートルのところに清水峯(すずみね)神社という縁起の古い神社があります。(中略)
貞観11(869)年5月26日に巨大津波、貞観津波があり。この津波があった翌年の貞観12年の春頃まええには、この清水峯神社がある小豆島(村)一帯から牛野(村)、下余田(村)にかけての名取平野に、疫病が大流行したことが、この清水峯伝承の中に書かれていますが、死者が多く出たことや、その疫病が貞観津波後に発生した伝染病であることなどは、何一つ書かれていません。この地方の人々が、疫病で苦しんだということは、伝染病(腸チフス、赤痢、疫痢、コレラ・・か)の発生があって、多くの死者が出たとみて、間違いないでしょう。p98
12)この地区についての深い考察も実に興味がつきない。
13)過去、仙台平野に大津波襲来があった。今回、こうした巨大津波の歴史上の周期性があったことを踏まえ、今後、こうした規模の巨大津波襲来の歴史予測を捉えることが出来ても、恐らく、高度な文明、高度な文化生活を味わった日本陣は、こうした不都合な歴史の殆どは伝説として片づけ、見倣すことになるでしょう。
そして、現実的な生活と、これからの生活に対して正当化し、過去を無視した政治が優先されていくでしょう。政治家は、こうした自然の災害に対して見向きもしません。もっと身近な現実的なものに対して住民から好まれる利益につながることを実行すればそれでよかったのです。これからの政治や政治家はこれでよいのでしょうか・・・。今、こうした政治家はこれからの日本には要りません。p228
14)この本には原発については書いていないけれど、ここで語られることが、実際に起きてしまったことに、なんとも言えない超リアリティを感じる。
15)しかし、仙台地方の歴史の中で、歴史津波の史実はこういう形であったという事実を後世の人々に伝える必要はないでしょうか。
少なくとも真の文明人とは何か。豊かさと物質文明と自分だけの幸せを追求する人ではないと思う。恒久的な全人的な平和を得るには、人間社会の不都合なことを防止するための英知と努力が必要ではないでしょうか。p229
16)痛み入ります。
17)16年前、麻原集団事件や阪神淡路大震災のごった返しの中で、このような警告の書がでていたのだった。あまりに凝縮された研究が多岐にわたっており、この本を味わうには、じゅっくりと腰を据えて向き合う必要がある。
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<19>よりつづく
「神秘家の道」 <20> 珠玉の質疑応答録
OSHO/スワミ・パリトーショ 2009/03 市民出版社 単行本 884p
1)当ブログ、36番目のカテゴリー「3・11後を生きる」をはじめようと思う。
2)何から始めようと、いろいろ思ったが、やっぱり、この本のこの部分から始めようと、思う。
3)大災害は、人をあるがままの現実に目覚めさせる。現実は常に壊れやすい。誰もが、常に危険に晒されている。ただ平常の時は、ぐっすり眠りこけているために、それが見えないだけだ。来たるべき日々や将来に対し、夢を見続け、素晴らしいことを想像し続ける。だが危険が差し迫ってきた瞬間には、人は突然、未来はないかもしれない、明日はないかもしれないということに、自分には今この瞬間しかないということに気づく。
だから、大災害の時というのは、非常に啓示的だ。大災害はこの世に何一つ新しいものをもたらさない。それはただ、あるがままの世界に気づかせるだけだ---それは人の目を覚まさせる。それを理解しなければ、気が違うこともあり得る。それを理解すれば、目覚めも起こり得る。P76
4)この書込みは実は8月に書きかけたものだが、アップするまでに至らなかった。当ブログの主流はこちらのほうだ。しかし、なかなか流れはこちらにこなかった。
5)こういう原子力発電所は全て、本質的に安全ではないからだ。もし何か失敗し---そして今や我々は、一つの発電所に欠陥があったことを知っているのだが---そうなったら、彼らはどんな力もない。彼らはただただ無力なのだ。彼らは自分たちが創り出しているエネルギーを制御できない。p80
6)この講話は、1986年5月の初旬に行われたものだ。チェルノブイリの事故が起きた直後、わずか一週間のことである。
7)たった今死んだのが誰だとしても…その死は、すべて自分の死だ。なぜなら、人の死はすべて、自分は永久にここにいるのではないということを、思い出す縁(よすが)だからだ。人の死はすべて、目を覚ますための機会だ。死がやってくる前に、死を超えたものを達成するために、生の機会を使いなさい。
心配しても仕方がない。そんなことをしても、この瞬間を見逃すことになるだけで、誰の役にも立ちはしないからだ。しかも危険に晒されているのは自分の両親、自分の友人、自分の愛する者だけではない。全世界が危険にさらされている。p81
8)私はこの講話を他人のブログの中にみつけ、コピペしたまま、自分のブログに貼り付けようとした。だが、ことはそう甘くはなかった。コピペしてみると、他人の転写は、その人なりの転写方法がある。どの部分を強調し、どの部分を避けてしまうか。どんな書き間違いをするか。同じ人の同じ言葉の扱いでも、扱う人によって、違いがでてくる。
9)もっと油断なく醒めていなさい。そうすれば自分の中に、死が手を触れられないものを見い出せる。それこそが唯一の避難所、唯一の防衛、唯一の安全だ。そしてもしお前たちが自分の友人や家族を助けたいと思うなら、その人たちにこの秘密を気づかせてあげなさい。p81
10)私はまだまだOsho読みのOsho知らずだ。他人はどう読んでいて、自分はどう読んでいるのか。あるいは、自分はなにを読まないでいて、他人は何を読まないでいるのか。微妙に違う重ね絵のズレに、自らのマインドの移ろいが際立って描写されている。
11)「3・11後を生きる」。まずはここからスタートしよう。
「東日本大震災全記録」 被災地からの報告
河北新報社/河北新報出版センター 2011/08 単行本 255p
Vol.3 No.0482★★★★☆
1)当ブログのカテゴリ「3.11天地人」はこれで108冊目となる。恒例により、この本にて次のカテゴリに移る。
2)本当は、最後の本としてこの本でカバーするかどうかは最後まで悩んでいた。飯沼勇義 「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」がもっともふさわしいのではないか、と思ったり、 ジェームズ・ラブロック「ガイア 地球は生きている」(未メモ)がいいのではないか、と思ったり、いきなりはずして、ニュートンムック 「今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電」も悪くない、と思っていた。
3)しかし、結局は、この本で締めくくることになった。
4)実はこの本、まだよく読んでいない。この手の本は、今、世の中に数多流通している。本当のこと言って、あんまり読みたくない。
5)この本は、新聞社が学校図書館にそれぞれ記録として贈呈したりしている。記録としては、この本はどの図書館にもあるべき一冊だろう。地元の新聞社だし、発行も8月になっている。かなりまとまったものだろう。
6)気を取り直して読み始めようとしたところ、家族が、どうせ読まないだろうと気をつかって、すでに図書館に返してしまったという。なんというタイミングか。
7)いずれは、私もこの本をじっくり読むだろう。だが、今はいやだ。読めない。被災地の惨状と、被災者たちのうめきを、いまだに私は直視できない。
8)3.11、というもの、私はそこから目をそらそうとしているのかも知れない。いまだに直視できないが、それでもやっぱり直視せざるを得ないもの、それが3.11なのだ。
9)「3.11天地人」カテゴリを、今、このタイミングで締めるには、この本がベストだろう。これ以上でも、これ以下でもない。ここから歩み始めるしかない。
10)「東日本大震災全記録」。それは無理だろう。このタイトルには無理がある。「全記録」と言ったところで、まだ進行中なのだ。ましてや、「全」などと言えるはずなど、最初からない。一冊の写真集に収まるほど、「東日本大震災」はコンパクトではない。
11)しかし、それでもなお、地元の新聞社は、このタイミングで、この名前で、この一冊を出さざるを得なかったのだろう。
12)そのことを諒として、この写真集を、当ブログ「3.11天地人」カテゴリ108冊目に置く。
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「反欲望の時代へ」 大震災の惨禍を越えて
山折哲雄/赤坂憲雄 2011/09 東海教育研究所/東海大学出版会 302p
Vol.3 No.0481★★★★☆
1)3.11以降の本を読み漁っても、「天」や「地」についての本は多けれど、「人」についての本は少ない。この本、赤坂という人は初めだが、山折哲雄という人の声は聞いておきたいと思った。
2)2011/09出版ということだが、残念なことに二人の対談が行われたのは震災後の一月半後の4月28日のことだった。だから、まだまだ生ゆでで、しかも量も少ない。「思想としての3・11」(河出書房新社編集部 )や「いまだから読みたい本ー3.11後の日本」 (小学館)に似て、どこか被災者の一人としての私のハートを打つ鳴らす力が足りない。
3)対談の量が不足しているのを補助するかのように、寺田寅彦、岡本太郎、岡潔、和辻哲郎、柳田國男、聖書、鴨長明、宮沢賢治、佐々木喜善の文章を再録することによって一冊の本を作っているが、どこか生半可だ。
4)そもそも、このタイトルはいかがだろうか。「反欲望の時代へ」という時に、すでに「へ」という「欲望」が見え隠れして、いまいち納得ができない。色即是空、空即是色、色不異空、空不異色、の呼びもどしがされていない。
5)赤坂宣雄は、福島県博物館館長、遠野市立遠野文化研究センターの所長であり、民俗学をベースとした地域学「東北学」を提唱(裏表紙・著者紹介)ということだから、もうすこしこちらの琴線に触れる言葉があるかな、と期待はしたが、その文章の量のせいなのか、あるいは、「東北」というものに触れた「質」ゆえなのか、こちらの琴線に触れる部分は少ない。
6)山折 いま震災後の世の中の気分としては、東北といえば千昌夫の「北国の春」なんですよ。NHKでも「北国の春」は歌われるけど、「俺ら東京さ行くだ」は歌われない。p28「植民地としての<東北>」
7)大学を東北ですごした山折哲夫だけに指摘はするどい。二つの演歌を並べて比較するところなど、秀抜である。当ブログにおいても、吉幾三の唄を思い出していた。しかし、それでもやはり、そこにある世界は、吉幾三ではなく、山折哲夫の世界である。
8)赤坂 「東北地方太平洋沖地震」という命名から「東日本大震災」へと変換するプロセスのなかにアメリカというファクターが影を落としている。p42「<フクシマ50>と西欧文化の『犠牲』」
9)ネーミングは、実はどうでもいいことでありながら、やはり大切なことではある。「東北関東大震災」よりは「東日本大震災」のほうが私は好きだが、「東北地方太平洋沖地震」という呼び名があったことには気づかなかった。
10)しかし、やはり「東日本大震災」でいいのではないか。あえて「東北地方太平洋沖地震」という時に、その裏にある意図があまりに露骨に突出してくる可能性があるのではないか。
11)赤坂 確かに「東北地方太平洋沖地震」は絶妙でしたね。東北が負わされてきた植民地性をむき出しにして、同時に太平洋沖が世界の巨大なイデオロギー的なプレートがぶつかり合う狭間であることが無意識に表現されていた。ところが、「東日本」と称することで日本列島のなかに呼び戻されてしまった。ごまかされてしまった。やはり「東北」なんですよ。p44「同上」
12)家を失い、家族をうしない、先祖の遺影や位牌ばかりか、墓の遺骨までも奪われて、着の身着のままで避難所の毛布にくるまっている人ならば、こんな戯言はどうでもいいことだろう。
13)赤坂 前向きに戦わないと、ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ、あるはチェルノブイリ・フクシマとして歴史に刻まれてしまう。それどころか、道路や鉄道すら福島を迂回しかねない状態になっています。福島が通れない土地になってしまったら、東北にはだれも人がいかなくなる。p118「弥勒のような希望と救済を」
14)私は原発の名前に土地の名前をつけたくない。あえていうなら「東電原発」までだ。だが、やはりヒロシマ・ナガサキや、チェルノブイリと並び称せられることになるのは間違いない。かなしいことだ。
15)南相馬市の20キロ圏まで近づいてみた。あるいは西の東北道は何度も通ったし、南の常磐道からも接近を試みた。すくなくとも、私はあの地を棄てることはできない。
16)山折 復興でも再生でも構わないけれど、そう、まずは希望がなければならない。希望がなければ、福島の人たち、東北の人たち、あるいは日本人全体もみんな動き出せませんね。「モーゼ・プロジェクト」じゃないけれど、なにか神話知の名前をこのプロジェクトにも受けなければいけませんね。「もんじゅ」と「ふげん」は高速増殖炉に持っていかれたから、「ミロク(弥勒)」なんてどうだろう。未来において衆生を救済する菩薩だ。
赤坂 「ミロク・プロジェクト」ですか。いいですね。p119「同上」
17)この本、評価としては★5が正しいだろう。乱立する3.11本の中にあっては、際立った立ち位置を示している。しかしながら、読み手としての私の中には反発も異論もあるから、★をひとつ減らして★4とした。
18)この本を高く評価できないのは、「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」の飯沼勇義のような生き方があることを知ってしまったからだ。
19)山折や赤坂のような生半可な生き方を飯沼は好まない。「東北学」という言葉さえ、飯沼の前では色あせる。飯沼なら「ミロク・プロジェクト」とは言わないだろう。敢えて言うなら、「ヒタカミ・プロジェクト」あるいは、「アラハバキ・プロジェクト」というに違いない。
20)そしてそれは徒党を組むことで行われない。一人で行われる。地震と津波は必ずやってくる。それを実証するために、飯沼は仙台平野の沿岸部、海岸線から1キロのところにアパートを見つけてそこを住処とした。そこに16年間も住み続けて、命をかけて自らのプロジェクトの正しさを証明した。
21)山折においても、赤坂においても、「日本」という国が刺のようにささっている。世界---国---国民、という図式がある。「日本」という国をプラットフォームの真ん中において思考したのでは、脱原発も不可能だし、反核も不可能であり、戦争もなくならない。彼らの「反欲望の時代」への渇望は、絵にかいた餅として終わりかねない。
22)飯沼なら、地球---人間---日高見、と言う図式を描くだろう。地球と人間の間に介在するものはない。そして、その人の内面に存在する世界観はあくまでも精神性としてある。日高見、あるいは荒脛巾、蝦夷、縄文人など、いくつも換置できる表象はあるだろう。しかし、それはあくまでも精神性=スピリチュアリティに留まる。
23)この本の半分以上を占める上に上げた過去の文人たちの文章については、「3.11以後に読みたい本」としてリストアップしておこう。また、この本のお二人にしても、その後、さらにどんなことをおっしゃっているのか気になる。
24)大事なことはプロジェクトのネーミングでもなければ、徒党を組むことでもない。ひとりひとりが、地球人として、この地球の上で、今日から、ここから、どう生きていくか、なのだ。
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「3・11その日を忘れない。」 ―歴史上の大津波、未来への道しるべ <2>
飯沼 勇義 (著) 2011/6 鳥影社単行本 208p
★★★★★
1)いやはや、とてつもない本である。あらためて読み直して、そのインパクトの強さに、心底、打たれる。圧倒される。驚愕の一冊である。
2)この本、図書館にリクエストするとすぐ読める。不人気本だからではない。大人気だからだ。この数カ月前に出版されたばかりなのに、すでに20冊ほどが図書館に入っている。そのほとんどは貸し出し中だが、すぐ読み終わったものが戻ってくる。
3)当ブログとしても、図書館が復活以来、意識して「3.11本」を100冊以上めくり続けてきたが、ついぞ、この本を超える本は無かった。地震や津波を「天」とし、原発や放射線を「地」とした。これらについてのテーマ本は数多ある。しかし、「人」に触れているものは少ない。人間としていかに生きるのか、そのことについて総合的にアプローチし、破綻なく全体が丸く収まっている本は少ない。
4)現在のところ、残念ながら、というべきか、唯一この本だけが、「3.11天地人」を象徴してくれる一冊である。
5)そこには「人」として生きた著者の姿がある。そして、後塵を拝する若輩の私たちに、「人」として生きる道を教えてくれる。
6)ここで「荒脛巾(あらはばき)の神」について簡単に説明しよう。津波から話がそれるようだが、決して無関係ではない。
この神は日本人祖霊の最古の神で縄文時代から継承されてきた日本古来の源神だった。
荒脛巾は二つの神が一対となって初めて機能してきた。「荒」は荒神と言って男神であり、光と熱を大地へと送りとどける太陽が男神である。それがのちの「荒神信仰」だった。もう一つ、地上にもたらされた太陽の恵みを大地が受容し、あらゆる生きものたちを生み、繁殖させる女神、それが「脛巾神(はばきかみ)信仰」である。
熱日高彦神社は「伊具郡衙(ぐんが)」にあった頃の鎮守神といわれてきたが神社であるが、もっと古い時代には「伊具国造」がここにあった。それは縄文時代にあった世界でも最も古いという由緒ある社である。p42「予言された津波 古代の神々と津波」
7)10数年前から、古老より聞いて阿武隈川流域にあるこの熱日高彦神社の存在を知り、参拝もしていた。しかし、この本でもって初めて、その意義を知った。そして、石巻の日高見の誉れを語るものは多いが、この阿武隈流域の古社の希少性も初めて知った。なるほど、しかも、これには「津波」にまつわる大きな話がバックにあったのだ。
8)仙台平野への6回にわたる大規模津波によって、船が航行できる津波水系というべき巨大運河がここにあったことがわかっている。
その規模は、岩沼~名取一帯で、東西距離は太平洋沿岸から西方丘陵地までは約4.5キロメートル。大衡で約2.0キロメートル、三本木で約3.0キロメートル、古川で約4.0キロメートルと海岸から丘陵に到る東西線は、その地域によってみな違うが、広域の仙台平野から大崎平野の古川に至る南北線は、約百キロメートルにわたって津波水系による運河が自然に形成されていたのである。
特に東西線で大きな水系を有していたのは、岩沼~名取地方と古川から60キロメートル地方である。広大な海水がこの地方を覆っていた。津波によってできた巨大運河だったともいえよう。p44「同上 古代の神々と津波」
9)こちらはもろに私の生地にかかわる話だが、生家の屋号には「島」がつき、近隣からとついできた祖母の生家の屋号にも「島」がついている。実際、幼い時に遊んだ近くの田畑の中には、7つの島状の遺跡があった。思えば、平野部から切り立っていく丘陵部にも、次から次へと「島」の地名がついている。これは、巨大津波による浸水で、できた海岸線の名残りだったのだ。うすうすとは聞いてはいたが、今回の3.11の事実と、この本によって、ますます明確になってきた。
10)この地方を襲った津波の大きさは、仙台平野一連の歴史津波市場、最大のものであり、地震寝ネルギーを全量放出したと考えられるのである。その津波の波及域は仙台・名取の山岳丘陵下にまで達した。
この津波は長徳2(西暦996)年に起こった巨大地震(宮城県沖と関連する海溝型の震源地と連動した)による津波で、これを仙台・名取熊野堂津波という。p59「西暦996年(長徳2年)(仙台・名取熊野堂津波=長徳地震)
11)う~む、まさにここで語られているものは、私の住むこの地の話である。
12)ところで、宮城県名取市には熊野新宮寺という名刹が存在する。(中略)当時、東北一円に強い熊野信仰が広まったのだが、その背景には一連の大規模な津波が深く関わっていると考えられる。津波と、更に加わった洪水、飢饉、疫病の流行による災いから人々を救済し、極楽浄土へと導いてくれるのが、熊野信仰であった。名取熊野信仰が東北一円にまで拡まったということは、この地方に住むあらゆる人々が、津波の地獄から這い上がり、極楽浄土を求める強い祈願があったことを意味してはいないだろうか。p60「同上 東北の津波信仰と津波」
13)熊野本宮社、熊野新宮社、熊野那智神社、今熊野神社などの古社がすぐ近くにある縁を以前より感じていたが、なるほどそうであったか、と漠とした今までの思いが明確になってきた。
14)今回被災した閖上(ゆりあげ)地区の名前の由来は、海岸線に仏像が「揺り上がった」とこころから付いたとするものがある。その仏像は丘陵地帯にある高館の熊野那智神社に奉納された、と聞いたこともあった。津波と熊野信仰、ますます信ぴょう性は高まる。
15)慶長16(1611)年10月28日、東北地方の太平洋岸に大地震、津波が発生した。この津波は、午前10時頃から午後2時頃まで来襲し、午後5時までには収まった。そして、この津波によって仙台平野一帯は浸水し、平野の耕地、住家は殆ど冠水した。p70「同上 慶長津波と仙台平野の津波伝説」
16)自分の先祖はこの地に400年ほど前から住んでいると聞いているが、まさにこの慶長津波はちょうど今から400年前のこと。我が先祖はこの津波と何らかの関係があるだろう。菩提寺の墓石には、こまかく年代が刻まれているのだが、いままで気にもしたことがなかった。今度、もうすこし丁寧に参拝してみよう。
17)大自然の背後には、はっきりと目には見えない威力が存在していると、縄文人たちは感じとっていた。万物を生み育てると共にすべてのものを破壊する恐るべき大自然の力。そこに私たちは寄り添って生きていくことしか許されないと蝦夷たちは感じとっていたのである。p181「これからをどう生きるか、災害の哲学の構築」
18)著者は「津波学」の構築を訴える。それは、単に津波のメカニズムや予知に偏ったものではなく、「自然科学の分野と人文科学的領域に跨(またが)ったきわめて統合された学」p207(「あとがき」)と見定めている。
19)おそらく、現在よりさらに効率のよいエネルギー変換率が30パーセントを上回る太陽光発電法を用い、その電力を高性能電池で蓄電する方法が最も正解だろうと考えられる。p198「同上」
20)原発、火力、水力、シュールガス、風力、潮力、地熱、など、多くの発電方法に思いをはせながら、著者は太陽光に一番期待しているかのようである。しかし、さらに、進化した発電法に展望をさぐる。
21)東日本大震災直後の2011年4月、英科学雑誌「ネイチャー」の電子版に、光合成で太陽光発電が植物中の水を分解して酵素や電子を発生させるメカニズムを日本の研究者が世界で初めて解明したという論文が掲載された。p198「同上」
22)昭和5年生まれ、現在80歳の方ではあるが、その学究の熱情には、ただただ見上げるしかない。
23)東北はまったく新たに出発するだろう。他の日本の地域とは歴然とした違いを明確に打ち出し、自然と一体でありながら、同時にもっとも高度な技術文明を維持できる。その規範となるべき東北州が誕生するだろう。p200「同上」
24)「3.11天地人」。当ブログにおける100冊を超える3.11関連本のもっともバランスの取れたベスト本として、この本を推奨したい。
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「方丈記」 現代語訳付き <2>
鴨 長明 (著), 簗瀬 一雄 (翻訳) 2010/11角川学芸出版 文庫: 243p
1)3.11以後に出た本でもないし、ごく最近の本でもない。もともと書かれたのは、建暦元年というから1212年。ちょうど900年前のことである。現代語訳で読むと、人間界での出来事は、いつになってもかわらないなぁ、と思う。
2)「いのちと環境 人類は生き残れるか」の柳澤 桂子によれば、よい文学に触れることが大切だという。
3)今すぐみなさんにできることがあります。まず自分の意識レベルを上げるような勉強をしてください。いい芸術に触れることをお勧めします。特に優れた文学を読みよく考えてください。あなたの周囲の人の意識レベルを上げるような会話をして下さい。柳澤 桂子「いのちと環境 人類は生き残れるか」p212
4)「方丈記」は文学なのか、優れた文学なのか、という問いに、私は即答できないが、思いつくのはこのような作品だ。
5)ソロー関連を読んでも、スナイダー関連を読んでも、「方丈記」はでてくる。当ブログにおいても、なぜか「我が家に手作りガーデンハウス―DIYで建てよう!“小さな家”」へのアクセス数は高い。
6)人間の生き方を考える時、人は、自らの「家」を象徴として考えるのだろう。まさにスナイダーの「地球の家を保つには」こそが、エコロジーと精神革命のキーワードとなるのであろうか。
7)「方丈記」。前回はあまりにも3.11にも匹敵する表現に、ただただ転写するにとどめたが、すこしはコメントを加えておこうと思った。だけれども、3.11を代表させるには、無理がある。
8)「3.11天地人」。まさに「方丈記」は、「3.11人の巻」を切り拓いてもらいたいような一冊だ。
9)静かな夜の明け方に、この道理をよくよく考えて、そこで、私自身の心に向かって問いを発してみる。---長明よ、おまえが世俗から脱出して、山林に入り込んだのは、乱れやすい心をととのえて、仏道を修行しようがためである。それなのに、おまえは、姿だけは清浄な僧になっていて、心はけがれにそまったままだ。
住む家は、まるでそのまま淨名居士維摩の方丈の小室をまねてはいるが、そこでおまえのやっていることは、どんなに見つもたって、周利槃特の修行にさえもかなうものではないぞ。ひょっとすると、これは、宿業のむくいといsての貧賤がおまえ自身を悩ましているのか。
あるいはまた、みだりな分別心、なまはんかな知性がこうじて、気が違ったのか。さあ、どうだ。----こうして問いつめた時、私の心は、まったく答えることができない。答えられないのだ。
残った方法は一つ。ここに、けがれたままの舌をうごかして、阿弥陀如来をお迎えする儀礼もととのえず、ただ念仏を二、三べんとなえるだけ。それで終わったのだ。
今は建暦の二年、三月の終わりごろ、出家の蓮胤、日野の外山の庵において、この文をしるすのである。p114
10)当ブログのスタイルは、meditation in the marketplace だった。ここにもどっていこう。
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「『スマート日本』宣言」 経済復興のためのエネルギー政策
村上憲郎/福井エドワード 2011/08 角川書店 新書 191p
Vol.3 No.0480★★★☆☆
1)このところ、頁をめくる手が動かない。文字を追う目もショボついて、どうも頭になにも入ってこない。メンドウな仕事が溜まり、血圧は一向に下がる気配がない。図書館復活後、手当たり次第3.11関連を読みこんだが、そろそろtoo muchになってきた。
2)「3.11天地人」カテゴリも現在残すところ数冊。このカテゴリをどんな本で締めようか、と考える時期になった。「3.11後を生きる」という後継のカテゴリのことを考えれば、すこしでも希望が見える方向性に持っていきたいものだと思う。
3)地震・津波、原発・放射線、そして「人」についてのものごと。カテゴリについて考えたが、どうもまだ収まりが悪い。かと言って、あまりいいアイディアもでてこない。ここはあわてずに、のんびりいくことに決めた。
4)この本、「スマート日本」のスマートは、いわゆるスマートフォンのスマートにつながるものであろう。
5)東日本大震災と原発事故が引き起こした電力危機は、我が国のエネルギー政策の問題点を顕わにした。その解決策として注目を集める「スマートグリッド」は、電力のみならず様々な新しいビジネスを育む可能性を秘めている。表紙見返し
6)我が家の電気量を最適化するためにスマートメーターを導入することもいいことだと思うし、持続可能なエネルギーを考える上では、屋根の上に太陽光パネルを乗せたいとも思う。復旧復興のモデルとして、スマートシティ、という概念も悪い物ではないと思う。
7)グリッドとウェブの差異
スマートグリッドは、モノではない。なんらかの「完成系」があるような技術の話にも限定されない。その上で、さまざまなサービスやビジネスが生まれるネットワークである。
インターネットはWWW(ワールドワイドウェブ)誕生以来の20年ほどで爆発的にふきゅうしたものの、大まかに行けば、スマートフォンを含むパソコン、プリンタと、せいぜいテレビにつながっている程度である。
一方、スマートグリッドは、まず、家の中で電気を使う機器のすべてにつながる。そして、冷蔵庫と発電所が会話するようになるのである。ネットワーク上のエンド・トゥー・エンドのコミュニケーションがひとつの特徴である。
「グリッド」という呼び方は、「ウェブ(蜘蛛の巣)」と同様に、洒落を込めた表現で値トワークを表わしている。「グリッド」とは、ちょうど城壁の内側のような「囲まれた地域」を意味しており、都市あるいはそれよりも少し広い地域をイメージさせる言葉である。厳密な定義はないが、ウェブの場合と比べると、地域性がある。そのため、「グリッドには個性がある」のである。p108
8)この本をめくる前に、まずは福井エドワードの「スマートグリッド入門」(2009)でも読むべきだった。ただ、今のところ、どうも当ブログは、これらのテクノロジーにのめり込むような方向性はでてこない感じだ。
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「シュタイナー 死について」 <1>
ルドルフ・シュタイナー/高橋巌 2011/08 春秋社 単行本 282p
Vol.3 No.0479★★★☆☆
1)3.11を挟んで亡くなった、3人の知人の死を考える。
2)一人は昨年から白血病を病んでいた古い知人で、ブログに闘病日記を付けていた。本来が明るい人柄で友人も多かった。明るい日記についつい気がつくことなく過ごしていたが、結局は病院から帰ってくることなく、この春3.11の一月前に亡くなった。友人多数出席の葬儀には、笑いや唄さえあり、若くしてなくなった彼を送り出すにはふさわしい式のようであった。
3)二人目は、中学校時代のバスケット部の部活動で一緒だった同級生。たまに集まる同級会以外に会うことはなかったが、彼は市役所職員として実直な人生を送り、立派な家庭生活を送っていた。その彼は、今回の3.11に沿岸部に勤務していて被災し殉死した。葬儀は時節柄、形としては家族葬ということになったが、市長以下、多数の出席があり、ひっそりとしたものではあったが、立派な式であった。
4)三人目は、震災後半年ほどして亡くなった。人に教えてもらってそのブログには目を通していた。膵臓ガンということで、表面はかなり元気そうではあったが、ひょっとすると本人も覚悟の上か、と思える部分がすくなからずあった。そのお別れ会には、生前を偲ばせる沢山の関係者が列席していた。福島県出身の社会活動家であってみれば、3.11以後にこそ、何事かの活動の場を拡大したがっていただろうことは、容易に推測された。本人の念も残ったことだろうと思えた。
5)人には等しく誰にも訪れる、死。その事実は、どの人間にも同等である。3者には3者の人生があり、この世における接点はほとんどなかっただろうし、それぞれの個性は別ものであったが、死を前にした時、人は等しく厳粛な現実の前に立たされる。
6)3人とも、50代は過ぎたとは言え、平均寿命から考えれば、早すぎた死となる。本人たちも、これでいい、と自分の人生を締めきることができたのかどうか、私にはわからない。
7)かくいう私とて、一人の人間として、死の前に厳粛な面持ちで立たされていることに変わりはない。3.11の前だろうが、その日であろうが、数カ月後、あるいは数年後であろうが、死が厳然と存在していることに変わりはない。
8)2011年の3月11日以降の読者すべての心に、本書が何か大切なものを伝えることができますように。(訳者) pv 「訳者まえがき」
9)シュタイナーは得手ではない。当ブログにおいても「神秘学概論」、「シュタイナーの世界」や「シュタイナーの宇宙進化論 」、コリン・ウィルソンの「ルドルフ・シュタイナー」、などを手にとるのだが、そこに機縁の深みを感じることはいまだない。
10)今回、3.11以後において、このようなタイトルの本があると知って借り出してはきたものの、今回もまたシュタイナーを深く読み込む前に、あるいはページさえ開く前に返却期日が到来してしまった。それも止むをえまい。しかし、ただただ、こういう本があり、3.11以後の私が、何事か方向を変えようとして、この本を借り出してきては見た、という事実は残る。
11)読み込まずとも、この本の存在を感じることによって、当ブログのベクトルの方向性がしなやかに変化する。
12)前述の3人の知人の死とて、外部から語れることは僅かである。語ることさえ憚られる。ただただ、その事実の前に厳粛な気持ちになるだけである。ましてや、3.11における二万人を超える死者行方不明者の人々のことに思いをめぐらせば、当ブログにメモし得ることなど、何ひとつなく、ただただ無力感に打ちひしがれるだけである。
合掌
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「チベット密教瞑想入門」 <1>
ソナム・ギャルツェン・ゴンタ 2011/08 法蔵館 単行本 261p
Vol.3 No.0478★★★★☆
1)現在の流れで言えば、唐突という感じもするが、実際は、当ブログの全体の流れはこちらのほうに傾いていた。「チベット密教」関連一覧リスト 、「ダライ・ラマ」関連リスト、「さらに深くチベットの歴史を知るための読書案内」 とか「マンダラをさらに深く知るために」など、あるいはOM MANI PADME HUM一覧など、気の向くまま、図書館から借りだした本をメモしてきた。
2)ここに来て3.11関連本を100冊以上読んでみて、ちょっと息切れ、そんな時、新刊コーナーに「チベット密教瞑想入門」などといタイトルが並んでいると、ついつい読みたくなる。
3)本書は1996年に金花舎から出版された「チベット密教の瞑想法」に基づいて内容を見直し、帰依についての詳しい説明と、「ガンデン・ラギャマのグル・ヨーガ」についての解説、そして、曼荼羅供養についての実際の実践法の詳細説明などを新しく付け加え、偉大なる四つの前行の教えすべてを揃えたものになっています。pviii「はじめに」
4)チベット密教瞑想入門、とはいうものの、この本は極めて総合的であり、必ずしも初心者用の入門書ではない。基本中の基本がキチンと語られており、チベット密教もまた仏教であるならば、これは仏教の基本中の基本が書かれている本ということになる。
5)チベット密教であるならば、それは瞑想と切り離しては考えることはできないので、仏教の真髄を表わしながら、また、この本こそ、チベット密教の文化の骨格をキチンと把握している本もない、というくらい緻密である。
6)さて、しかしながら、仏教があり、チベット密教が、システムとして外在していたとしても、そこに人間がいなければ、なんの役にも立たないことになりかねない。現代人、とりわけ地球人において、さて、仏教やチベット密教が、避けては通れない、唯一の道になっているか、と問われれば、必ずしもそうとは言えない。
7)つまり、ひとりの地球人が人間として生きていくにあたって、仏教徒であり、自らの道としてチベット密教を選びとるとするならば、この本にこそ帰依すべきである、とさえいえる。あるいは、道として選択できないまでも、何事かの魅力を感じることができるとすれば、この本から人はチベット密教を学び、仏教をまなび、人間そのものの生き方を学ぶことができる、ということになろう。
8)折に触れ、タイミングを見て、このような本に出会えることはうれしい。手元にあっても、なかなか機縁がないと読み込めない。少しでも、半分でも、途中からでも、このような本を読みこめるということは、人間として幸せなことである。
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