科学 英知の辞典 OSHO <23>
<22>からつづく
「英知の辞典」<23> 科学
OSHO, スワミ・アナンド・ソパン 1996/05 めるくまーる 単行本 579p
科学 SCIENNCE
私は科学に反対ではない。私は少しも反科学的ではない。私は世界にもっともっと科学が普及してほしい。そうすれば、より高次の何か、貧しい者には手に入らない何かが、人々の手に入るようになるかだ。
宗教は究極のぜいたくだ。貧しい者はパンとバターのことを考えなければならない。彼はそれでさえやりくりすることができない。彼は住む家、衣服、子どもたち、医療費のことを考えなれければならないが、そういった小さなことでさえ賄うことができない。
彼の一生にはささいなことの重荷がのしかかってくる。彼には神にささげるための空間も時間もない。たとえ寺院や教会へ行くとしても、彼は物質的なことだけを頼むために行く。彼のほんとうの祈りではない。それは感謝ゆえのものではない。
それは要求であり、欲望だ。彼はあれが欲しい、これが欲しい---そして私たちは彼を非難するすることができない。彼のことは許してやらなねばならない。必要がそこにあり、彼らは絶えずその重みを感じている。どうして彼にじっと坐って何もしないでいられる時間を見つけることができるだろう? 心(マインド)は考えに考えている。彼は明日のことを考えなければならない・・・・・。
私は世界がいまよりも豊かになってほしい。私は貧しさをよいものだとは思わないし、貧しさが精神性とかかわりがあるなどということは信じない。長い時代にわたって、貧しさは精神性と結びつけて語られてきたが、それは慰めにすぎなかった・・・・。
私にとって、精神性はまったく異なった次元のものだ。それは究極のぜいたくだ----すべてのものを持っているとき、突然、自分はすべてのものを持っているが、内側の深いとこには埋めなければならない空白、豊かさに変容されなければならない空虚がある、ということにあなたは気がつく・・・・。
人は外側にすべてのものを持つようになって初めて内なる空虚さに気がつく。科学はその奇跡を起こすことができる。私は科学を好ましいものだと思っている。なぜなら、それは宗教が起こる可能性をつくりだすことができるからだ・・・・。
私はこの地球が楽園になって欲しい----それは科学なしでは起こりえない。だとしたら、どうして科学に反対することができるだろうか?
私は科学に反対しないが、科学がすべてではない。科学はただ周囲の環境をつくりだすことしかできない。その中心に宗教がなければならない。科学は外面的なものであり、宗教は内面的なものだ。私は人間がこの両面において豊かになってほしい。外側も豊かになるべきであり、内側も豊かになるべきだ。科学はあなたをその内面世界において豊かにすることができない。それは宗教にしかなしえない。
科学が内なる世界などないと言いつづけるのなら、私は確かにそういった言明には反対する----だが、それは科学に反対しているわけではなく、それは特定の言明に反対しているにすぎない。それらの言明は愚かしい。なぜなら、それらの言明をしている人たちは内なるものを何ひとつ知らないからだ。
カール・マルクスは、宗教は人民のあへんだと言っている----だが、彼はどのような瞑想も体験したことがなかった。彼の一生は大英博物館のなかで考え、読み、ノートをとり、自らの大著「資本論」の準備をするために費やされた。
彼はさらにもっと多くの知識を得ようとすることにすっかり熱中して、何度も大英博物館のなかで倒れてしまったものだった! 彼は無意識のまま家まで運ばれなければならなかった。彼がむりやり博物館を追いだされるのはほとんど日課のようなものだった。なぜなら、博物館も時間が来れば閉めなければならないし、一日24時間開けているわけにはいかないからだ。
マルクスは瞑想のことなど聞いたこともなかった。彼はただ考えに考えることしか知らなかった。だがそれでも、彼はある意味で正しい。なぜなら、古い宗教性はある種のあへんの役割を果たしてきたからだ。それは貧しい人々が貧しいままにとどまるのを助け、彼らが今の状態に満足し、来世に希望をつなぐのを助けてきた。その意味で彼は正しい。
だが、仏陀、ツァラツストラ、老子のような人たちを考慮に入れるなら、彼は正しくない----そのときには彼は正しくない。ほんとうに宗教的なのはこういった人たちであり、大衆ではない。大衆は宗教について何ひとつ知らない。
私はあなた方がニュートン、エジソン、エディントン、ラザフォード、アインシュタインらによって豊かになり、そしてまた仏陀、クリシュナ、キリスト、マホメットらによっても豊かになることを望んでいる。それによって外側のものと内側のもの、その両方の次元で豊かになるように。
科学はその射程距離内では好ましいものだが、それは充分なところまで到達しない----またそれはできない。私は、それが到達できるのだが、そうしようとしていないと言っているのではない----それはあなた方の存在の内奥には入ってゆくことができない。
科学の方法論そのものが内側に入ってゆくことを妨げる。それは外面に向かうことしかできないし、客観的に研究することしか知らない。それは主観性そのもののなかに入ってゆくことができない。それは宗教の働きだ。
社会は一方で科学を必要とし、一方で宗教を必要としている。どちらが優先されるべきかと尋ねられたら、私は科学が優先されるべきだと言いたい----なぜなら、まず最初に外側のもの、周辺部が来て、その次に内なるものが来るからだ。というのも、内側のものはもっと微妙で、もっとデリケートだからだ。
科学は、ほんとうの宗教がこの地上に存在するための空間(スペース)をつくりだすことができる。OSHO THE BOOK OF THE BOOKS, Vol.4
p113
| 固定リンク
「36)3.11後を生きる」カテゴリの記事
- 学者アラムハラドの見た着物 インドラの網 宮沢 賢治 <2>(2011.11.08)
- 再読したいこのカテゴリこの3冊「3.11後を生きる」編(2011.11.08)
- 宮沢賢治への旅 イーハトーブの光と風(2011.11.07)
- ポエム/宮澤賢治 シグナルとシグナレス 春と修羅(2011.11.06)
- 氷河ねずみの毛皮(2011.11.06)
コメント