« 科学 英知の辞典 OSHO <23> | トップページ | 宮沢賢治の詩と宗教 森山 一 »

2011/10/30

先生はほほーっと宙に舞った―写真集 宮澤賢治の教え子たち 鳥山敏子/塩原日出夫

先生はほほーっと宙に舞った―写真集 宮澤賢治の教え子たち
「先生はほほーっと宙に舞った」―写真集 宮澤賢治の教え子たち
鳥山 敏子 (著), 塩原 日出夫 (写真) 1992/07 自然食通信社 単行本:149p
Vol.3 No.0511★★★★★

1)作品の中にも賢治がいれば、後世の読者や評論家の中にも賢治が住んでいる。当然、家族や地域の人々の中にも賢治がいるわけだが、教員として過ごした賢治の時代はそう長くはなく、生徒の数もそう多くはなかったのだが、確かに教え子という人たちの中にも、より実像に近い賢治がいた。

2)賢治が亡くなってから70年も経過したあとで、その教え子の人たちに住んでいる賢治を尋ねる、という気の遠くなる旅である。

3)瀬川さんは、脳のしくみを図解したノートを開いて、善と悪との関係や、意識と無意識の領域のことを話してくれる。

 「頭脳の外側の表面をぐるりと取り囲んでいる部分が、意識の領域です。そしてこの、内部の大部分のところが無意識の領域です。善は、中の無意識の領域へ無限に吸収されていきます。悪い考え方は、表面の意識の部部に留まって、中へは浸透していきませんが、善は中へ吸収されて発展していきます。すると、からだは明るくなる、頭は軽くなる。ところが悪いことをすると表面意識に留まって無意識を圧迫する。すると暗くなる。だから悪いことは考えるべきではない、するべきではない。こう先生は言ったんです」

 今も、賢治の思想を深く理解しようと、瀬川さんは一語一句もおろそかにせず賢治の書をひもとき、法華経も誦んでいる。p49

4)生徒たちの記憶もさまざまだ。まちまちなイメージの中にも、ひとつの原寸大な賢治の像が浮かび上がってくる。

5)晴山さんの目には、芝居の練習やイギリス海岸の水泳の情景がすぐそこに浮かんでくるのだろう、時々視線が一点を正視したままになり、言語が止まる。

 「もし溺れる生徒ができたら、こっちはとても助けることはできないし、ただ飛びこんで行って一緒に溺れてやろう。死ぬことの向ふ側までついて行ってやろうと思ってゐただけでした。全く私たちには、そのイギリス海岸の夏の一刻がそんなにまで楽しかったのです。そして私は、それが悪いことだとは決して思ひませんでした」

 賢治の「イギリス海岸」の一冊を思い出しながら、私の言葉も止まった。
 泳げる人の少ない生徒たち。その生徒たちに楽しい時間を保障することは、あまり泳ぎが上手でない賢治にとって死を覚悟することだった。
p57

6)この本は写真集であり、登場する80歳年配の教え子たちも、どこにでもいるような実に原寸大のお年寄りたちである。

7)「百姓の生活を何とかよくしようと学校を辞めて羅須地人協会をつくった先生は、一念発起、百姓と同じような生活を始めたんだ。妹のおクニさんが家から持ってきたお重をことわった時の先生の顔は、蒼白でした。親を悲しませたことが悲しくて先生も泣いたんですよ。でも百姓の生活をなんとかよくしたいという先生の決心は固かった。食うものは、納豆と豆腐くらいなもんで、少しの野菜とご飯だけなんですよ。だから、あれっくらい丈夫な人が結核におかされたんですよ」p91

8)ここに転がっている、大きな矛盾は一体なになんだろう。

9)人が見たらバカだとか変人みたいだと思われるのは承知の上で、それでも自然に自分の内側から湧いてくるものには正直に、「ほ、ほ~っ」と奇声をあげて宙に舞ってしまう賢治のからだに魅かれていってしまいました。
 「麦わら帽子をかぶってナッパ服着て、そして地下タビにゲートルで鍬をかついで、格好から違ってたね。賢治先生は、こういうふうに少しうつむいて歩くんですよ。左手をこういうふうに、必ずポケットを入れて歩くんです。歩いていて何かひらめくと、小走りになって、右手の手の振りが早くなるんですよ。早くなったかと思うと、ホホ~ウッって奇声をあげるんです。そしてポケットからメモ用紙を出してシャープペンシルで・・・・、いつも首からぶら下げているんですよ。あの時なにを書いたのかなあ、見せてくれって言えなかったな。おかしな格好して、はたから見ると、少しこれはヘンになって、少し精神異常じゃないかと思っても、あの書いているものを見せてくれとは言えないくらい、先生には、威厳というものがあったな・・・」
p126

10)きのうTheaterGroup“OCT/PASS”公演、「人や銀河や修羅や海胆は」でみた、小川描雀が演じるところの賢治は、すこし陽気すぎるのではないか、と思っていた。むしろ、もっと陰気で、「黒テント」の斎藤晴彦が演じる賢治のほうが、私のイメージに近かった。しかし、この写真集と教え子たちの「証言」を知るにつけ、賢治はむしろ明るく、陽気だった、ということが分かった。

11)「今は雲の上の偉い先生になっているが、なあに宮澤先生は、いたずらもののチャメな先生だった。」p135

12)宮沢賢治の世界は、芝居の世界で表現されるのが、一番いいのかもしれない。その世界観、スケール、目的、参加のしかた、理解のされかた。私のような賢治についての素養が少ない観客にも、その感動が実に伝わってきた。

13)教え子たちの何気ないことばから、賢治との関係や賢治の残したものをよみとっていく作業は、ワクワクするものでした。
 70年たってからも残っているということは、そのことを意識しているかどうかに関係なく、その人のからだや心にとって、よほどの大事件であったということでしょう。
p139

14)自らが長く教壇に立っていた鳥山敏子は、賢治から、教育者としての「授業のやり方」を学ぼうとする。それもしかり。大きな学びとなろう。

15)しかし、と思う。今3.11後における「人の巻」の中で、賢治を読み直すとするならば、それは文学や詩、芸術や演劇、あるいは教育や授業、という区分けされた分類に賢治を押し戻すのではなく、全方位的に、賢治をこの東北の地に立ち上らせることが大事なのではないか。ひいては、それはさらなる新しい地球人の生き方へと繋がっていくのではないか、と思えた。

16)鳥山敏子には同名のドキュメンタリー映画がある。

|

« 科学 英知の辞典 OSHO <23> | トップページ | 宮沢賢治の詩と宗教 森山 一 »

36)3.11後を生きる」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 先生はほほーっと宙に舞った―写真集 宮澤賢治の教え子たち 鳥山敏子/塩原日出夫:

« 科学 英知の辞典 OSHO <23> | トップページ | 宮沢賢治の詩と宗教 森山 一 »