環状島=トラウマの地政学 宮地尚子
「環状島=トラウマの地政学」
宮地尚子 2007/12 みすず書房 単行本 228p
Vol.3 No.0502★★★★★
1)宮地尚子「震災トラウマと復興ストレス」(2011/08) は、「3.11」後に書かれたものであり、テーマをそこに絞り込んでいる。その元本はこちらの「環状島=トラウマの地政学」(2007/12)である。
2)この「環状島」というモデルは、私自身のサバイバル・マップとして描かれはじめ、徐々に発展してきたものであり、現在もその機能を果たし続けている。私は、精神科医としてトラウマ被害の回復支援にあたってきた。p6「トラウマについて語ること」
3)実際に、ひとつひとつのケースに真正面から向かってきた人こそ、このような大局的かつ俯瞰的な視点が必要だったのだろうし、必然的に、この様な人にこそ見えてきた世界であろう。
4)繰り返すが、「環状島」というモデルは、私が自分の巻き込まれた状況を整理するために、そして混乱の中から思考を進めるためにつくりあげた、頭の中の概念図である。実在するわけではないし、完成したものでもない。つじつまが合わないことも多々あるだろう。p17「同上」
5)この環状島モデルには、風や重力、水位といった、重要なファクターも加えて考えてみなくてはいけない。ただ、私は3.11以降の自分の立ち位置を、この図式の中で、実にはっきりと明確することができた。今後も多いに役だつはずである。
6)本書でとりあつかうのは、トラウマについて語ることの可能性、そして語る者のポジショナリティの問題である。p3「同上」
7)私はこの図式をトラウマについてではなく、「エンライトメント」について転用することができないか、と考える。そして、それを、例えば、ケン・ウィルバーの「インテグラル・スピリチュアリティ」と比較してみると興味深い。
8)吉福 要するに物理化学の分野で、大統一理論というのが希求されているでしょう。その大統一理論を作ることによって、トランスパーソナルという学問分野を展開させて、単に心理学に留まらず、これまでのあらゆる人文科学やハードサイエンスも含めたところまでを統合していきたいというのが、ケン(・ウィルバー)の考えですね。そのケンの根っこにあって、彼のやった仕事の中で最も洞察が働いているのは、物質であれ、人間の心であれ、存在するものはすべて、いくつかの一貫性のある原理によって動かされているという考え方なんです。吉福伸逸「楽園瞑想 神話的時間を生き直す」p218
9)ここまでウィルバーの本を読み進めてきたかぎり、「インテグラル・スピリチュアリティ」は失敗作である。ないし、ウィルバーは、あれではついに表現しきれないものを表現しようとするというジレンマを最終的にも突破できないと思われる。
10)宮地のトラウマ環状島モデルを、あらたなるエンライトメント環状島モデルに作り変えることも可能なのではないだろうか。内海にすでに「行ってしまった」人達をおき、外海に無意識層を置く。そして、「尾根」の上には「菩薩」達を置く。
11)行ってしまった人たちに、言葉はない。あるいは言葉では表せないからこそ、「行ってしまった」と言われるのだ。これは、トラウマ環状島の爆心地からの声が聞けない、という図式に似ている。
12)Oshoがニーチェやカリール・ジブランを高く評価するのは、エンライトメント環状島モデルの「尾根」の上にいて、あえて、幻視の「エンライトメント円錐島」の頂上を語ろうとしているその姿に同調してのことだろう。
13)ウィルバーが、エンライトメント円錐島をあるものとして、最後の最後まで表面化させ、図式化できるものとして努力している限り、その試みは成功するはずがなく、また、全体の真理性が失われるのである。
14)「真上」「垂直」というメタファーは、村上春樹の「ねじ巻き鳥クロニクル」における井戸を私に思い起こさせる。「ノモンハン事件」の後、中国大陸で深い涸れ井戸の底に放置され、何日も過ごす日本軍の注意。暗闇の中、一日一回わずかな時間だけ、太陽の光が井戸の底まで届く。真上に太陽が昇る、正午に近い時間。自分の存在が、自分の傷が、日のもとにさらけ出される瞬間。p160宮地尚子 「井戸の底」
15)トラウマ環状島モデルを、自分なりに作り替えるとすればどうなるのか、ということについて瞑想している時、私にもまた村上春樹の「ねじ巻き鳥クロニクル」のイメージが漂ってきた。
16)この小説を読み解くにあたって、あるいは村上春樹という作家をめぐって、さらにはそれらをとりまく読者や翻訳者やら評論家やら、あるいは私のような通りがかりの野次馬を含めたハルキワールドを読み解くあたって、「ルーツ&ウィング」という、たまたま思いついたスケールの目盛は、有効に役立ってくれそうな気がする。Bhavesh「ねじまき鳥クロニクル(第2部)予言する鳥編」
17)宮地は同一平面上にあって、爆心地がずれている「複数の環状島」モデルを語っているが、実は、爆心地を同一にしながら、立体的に二つ重なった「トラウマ---エンライトメント」複合環状島、ともいうべきモデルが存在しているのではないか。
18)トラウマの中心においては発声力は失われる。そしてまた、エンライトメントの中心においても表現されるものは失われている。そして、それぞれの尾根は一点に重なっており、そこにこそ、アートの限界がある、と言えるだろう。
19)ルーツ&ウィングが、当モデルの幻視である。宮地モデルは、ルーツに偏っている。ウィルバーはウィングに偏っている。この二つを組み合わせて一体化することこそが、当ブログにおける「3.11後を生きる」カテゴリである。
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