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2011/10/15

ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ    田口ランディ

【送料無料】ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ
「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」 原子力を受け入れた日本
田口ランディ 筑摩書房 2011/09 新書 175p
Vol.3 No.0490★★★★☆

1)およそ10年前に身内の葬儀の時に、親戚のSを紹介された。私より、さらに若い人だったが、とても優秀な人で、東海村臨界事故の際、元JCO社員として田口ランディとメール交換した人だということだった。

2)当時、私は田口ランディという人についてはよくわからず、ちらっと何かを読んだが、それ以上のことはなかった。正直言っていまだに、この人、男なのか、女なのかさえ定かではないのだw 。 だが、この時以来、田口ランディという人の名前が記憶に刻まれた。

3)私の書いた文章を読んだという男性から一通のメールが届きました。その方は「私はJOCの元社員です」と名乗りました。そしてメールには「JCOは私が勤めていた頃はそんな会社ではなかった。社員の方たちも尊敬できる人たちで、彼らがマスコミに責められているのを見るのはほんとうにつらい」ということが書かれていました。p14「はじめに」

4)最初にこの部分がでてきたので、びっくりした。やっぱりそういうことがあったのだ。

5)私からも疑問をぶつけ、この男性(Sさん)と何度もメールをやりとりしていくうちに、それまで知らなかった原子力業界の事情がわかってきました。p17「同上」

6)確かに私の親戚の名前もSである。いまのところ急いで確認するつもりはないが、自分的には、これは同人物で、実際にあった話なのだ、と断定することにした。このやりとりは彼女の著書「寄る辺なき時代の希望」(2006.9春秋社)に記してある、ということなので、いずれ、めくってみよう。

7)この本、敢えてこのタイトルにしなければならなかったか、疑問を持つ。個人的には、ヒロシマやナガサキまでは仕方ないとしても、その後の名称は、あまり世界的共通語になってほしくない、と思う。だから意識して、当ブログでは東電原発事故としてきた。

8)Sが言うには、あのままJCOに残っていたら、自分が責任ある立場になってメディアの矢面に立たされていただろう、ということだった。両親は、本当に早くJCOをやめてホッとしった、よかった、よかった、と言っていたという。

9)Sは優秀な人材である。自らのキャリアをもとに業界狭しと要職を渡り歩く職業スタイルであろうと想像する。だから、同僚たちの姿は「尊敬」できたとしても、実際の現場の堀江邦夫の「原発ジプシー」のような情景は知らなかったのではないか。

10)自分の業界をよく知るには、多方面からのアプローチが必要だったはずだし、すくなくとも「朽ちていった命」のような事故が起きたことは事実なのだ。そして、3.11東電原発事故は起こった。

11)すくなくとも、事故が起きる前に、その仕事を離れていたので、「よかった、よかった」ではすまされない。

12)2年間つづけたtwitterを、私はこの時、自分の情報を発信する道具として全く信頼していませんでした。かなり没頭してこのメディアを使いきった結果として私が行き着いたのが、このメディアは不要だ、ということでした。即効性はありますが、熟慮には向かなかったのです。p136「『わからない』を超える力」

13)私のtwitter観は彼女のそれに近い。そもそも、彼女のことをよく知らないのは、違和感を持つからではない。あえていうと、とても親和性を持つ。親和性をもつがゆえに、敢えてその人物の作品に目をとおそうとしないのだ。この感覚、あえて大雑把に言えば、私が村上春樹という人にもっている感覚と似ている。

14)ただ、あ、この人、私と同じことを考えている、という感覚は、読み手の自分が作者と同じ地平にいることを単純に表わすのではなく、あえてそういう感覚を覚えさせるほどの才能を書き手が持っているのだ、ということのほうが可能性は高い。だから、両者はそれぞれに才能がある人たちであることは間違いないだろう。

15)これから先、もし原発を止めても、廃炉までには長い年月と費用が必要です。さらに放射性廃棄物の管理をし続けるために、原子力という技術を捨てるわけにはいきません。日本が責任をもって核廃棄物を見守り続けるために必要なことは、脱原発後の長く不毛と思える仕事への社会的理解と共感でありましょう。p173「黙示録の解放」

16)各論的にはいろいろ異論はある。しかし、彼女の視点に近しいものを感じるとすれば、彼女は、「震災トラウマと復興ストレス」の宮地尚子が環状島モデルでいうところの「尾根」に立つ人間として自らを見ているからだではないだろうか。

17)それは、私から見た場合、村上春樹という人も「尾根」に立とうとしてしている人間に見えることとに似ている。そして、現在、当ブログが準備中の、宮沢賢治、ゲーリー・スナイダー山尾三省、というトリニティは、そのモデルで言えば、決して「尾根」に留まる人たちではない、ということだ。

18)この三者のトリニティは、斜面に降りていく。それは外海なのか、内海なのか、見る角度によって違う。しかし、明らかに尾根にとどまろうはしていない、ように私には見える。それはやはり「内海」に向かっているのだろう。内斜面を下りていく。意識的に降りていく。そして、内海の真ん中へと消え去ってさえ行きそうだ。

19)しかるに、田口ランディという人は(あるいは村上春樹でもいいのだが)、尾根に立ちつつ、風や引力を感じつつ、決して外斜面には退却すまい、としているようでもあり、内斜面におりていくことこそ、今やるべき人間性なのだ、と思いこみつつあるのだが、やはり、尾根に立ち続ける人のように思える。

20)当ブログもまた、当面は尾根に立ち続けるだろう。内であれ、外であれ、斜面には降りないだろう。ただ、人間として斜面を下るということはあり得るだろう。そして、それは読書ブログという形ではなく、もっと別なスタイルになるだろう。

21)したがって、当面は尾根に立つ者としての視点から、当面3.11を見つ続けようと思う。先のことは、先のことである。

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