反欲望の時代へ 大震災の惨禍を越えて 山折哲雄/赤坂憲雄
「反欲望の時代へ」 大震災の惨禍を越えて
山折哲雄/赤坂憲雄 2011/09 東海教育研究所/東海大学出版会 302p
Vol.3 No.0481★★★★☆
1)3.11以降の本を読み漁っても、「天」や「地」についての本は多けれど、「人」についての本は少ない。この本、赤坂という人は初めだが、山折哲雄という人の声は聞いておきたいと思った。
2)2011/09出版ということだが、残念なことに二人の対談が行われたのは震災後の一月半後の4月28日のことだった。だから、まだまだ生ゆでで、しかも量も少ない。「思想としての3・11」(河出書房新社編集部 )や「いまだから読みたい本ー3.11後の日本」 (小学館)に似て、どこか被災者の一人としての私のハートを打つ鳴らす力が足りない。
3)対談の量が不足しているのを補助するかのように、寺田寅彦、岡本太郎、岡潔、和辻哲郎、柳田國男、聖書、鴨長明、宮沢賢治、佐々木喜善の文章を再録することによって一冊の本を作っているが、どこか生半可だ。
4)そもそも、このタイトルはいかがだろうか。「反欲望の時代へ」という時に、すでに「へ」という「欲望」が見え隠れして、いまいち納得ができない。色即是空、空即是色、色不異空、空不異色、の呼びもどしがされていない。
5)赤坂宣雄は、福島県博物館館長、遠野市立遠野文化研究センターの所長であり、民俗学をベースとした地域学「東北学」を提唱(裏表紙・著者紹介)ということだから、もうすこしこちらの琴線に触れる言葉があるかな、と期待はしたが、その文章の量のせいなのか、あるいは、「東北」というものに触れた「質」ゆえなのか、こちらの琴線に触れる部分は少ない。
6)山折 いま震災後の世の中の気分としては、東北といえば千昌夫の「北国の春」なんですよ。NHKでも「北国の春」は歌われるけど、「俺ら東京さ行くだ」は歌われない。p28「植民地としての<東北>」
7)大学を東北ですごした山折哲夫だけに指摘はするどい。二つの演歌を並べて比較するところなど、秀抜である。当ブログにおいても、吉幾三の唄を思い出していた。しかし、それでもやはり、そこにある世界は、吉幾三ではなく、山折哲夫の世界である。
8)赤坂 「東北地方太平洋沖地震」という命名から「東日本大震災」へと変換するプロセスのなかにアメリカというファクターが影を落としている。p42「<フクシマ50>と西欧文化の『犠牲』」
9)ネーミングは、実はどうでもいいことでありながら、やはり大切なことではある。「東北関東大震災」よりは「東日本大震災」のほうが私は好きだが、「東北地方太平洋沖地震」という呼び名があったことには気づかなかった。
10)しかし、やはり「東日本大震災」でいいのではないか。あえて「東北地方太平洋沖地震」という時に、その裏にある意図があまりに露骨に突出してくる可能性があるのではないか。
11)赤坂 確かに「東北地方太平洋沖地震」は絶妙でしたね。東北が負わされてきた植民地性をむき出しにして、同時に太平洋沖が世界の巨大なイデオロギー的なプレートがぶつかり合う狭間であることが無意識に表現されていた。ところが、「東日本」と称することで日本列島のなかに呼び戻されてしまった。ごまかされてしまった。やはり「東北」なんですよ。p44「同上」
12)家を失い、家族をうしない、先祖の遺影や位牌ばかりか、墓の遺骨までも奪われて、着の身着のままで避難所の毛布にくるまっている人ならば、こんな戯言はどうでもいいことだろう。
13)赤坂 前向きに戦わないと、ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ、あるはチェルノブイリ・フクシマとして歴史に刻まれてしまう。それどころか、道路や鉄道すら福島を迂回しかねない状態になっています。福島が通れない土地になってしまったら、東北にはだれも人がいかなくなる。p118「弥勒のような希望と救済を」
14)私は原発の名前に土地の名前をつけたくない。あえていうなら「東電原発」までだ。だが、やはりヒロシマ・ナガサキや、チェルノブイリと並び称せられることになるのは間違いない。かなしいことだ。
15)南相馬市の20キロ圏まで近づいてみた。あるいは西の東北道は何度も通ったし、南の常磐道からも接近を試みた。すくなくとも、私はあの地を棄てることはできない。
16)山折 復興でも再生でも構わないけれど、そう、まずは希望がなければならない。希望がなければ、福島の人たち、東北の人たち、あるいは日本人全体もみんな動き出せませんね。「モーゼ・プロジェクト」じゃないけれど、なにか神話知の名前をこのプロジェクトにも受けなければいけませんね。「もんじゅ」と「ふげん」は高速増殖炉に持っていかれたから、「ミロク(弥勒)」なんてどうだろう。未来において衆生を救済する菩薩だ。
赤坂 「ミロク・プロジェクト」ですか。いいですね。p119「同上」
17)この本、評価としては★5が正しいだろう。乱立する3.11本の中にあっては、際立った立ち位置を示している。しかしながら、読み手としての私の中には反発も異論もあるから、★をひとつ減らして★4とした。
18)この本を高く評価できないのは、「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」の飯沼勇義のような生き方があることを知ってしまったからだ。
19)山折や赤坂のような生半可な生き方を飯沼は好まない。「東北学」という言葉さえ、飯沼の前では色あせる。飯沼なら「ミロク・プロジェクト」とは言わないだろう。敢えて言うなら、「ヒタカミ・プロジェクト」あるいは、「アラハバキ・プロジェクト」というに違いない。
20)そしてそれは徒党を組むことで行われない。一人で行われる。地震と津波は必ずやってくる。それを実証するために、飯沼は仙台平野の沿岸部、海岸線から1キロのところにアパートを見つけてそこを住処とした。そこに16年間も住み続けて、命をかけて自らのプロジェクトの正しさを証明した。
21)山折においても、赤坂においても、「日本」という国が刺のようにささっている。世界---国---国民、という図式がある。「日本」という国をプラットフォームの真ん中において思考したのでは、脱原発も不可能だし、反核も不可能であり、戦争もなくならない。彼らの「反欲望の時代」への渇望は、絵にかいた餅として終わりかねない。
22)飯沼なら、地球---人間---日高見、と言う図式を描くだろう。地球と人間の間に介在するものはない。そして、その人の内面に存在する世界観はあくまでも精神性としてある。日高見、あるいは荒脛巾、蝦夷、縄文人など、いくつも換置できる表象はあるだろう。しかし、それはあくまでも精神性=スピリチュアリティに留まる。
23)この本の半分以上を占める上に上げた過去の文人たちの文章については、「3.11以後に読みたい本」としてリストアップしておこう。また、この本のお二人にしても、その後、さらにどんなことをおっしゃっているのか気になる。
24)大事なことはプロジェクトのネーミングでもなければ、徒党を組むことでもない。ひとりひとりが、地球人として、この地球の上で、今日から、ここから、どう生きていくか、なのだ。
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