場所の感覚を求めて 宮沢賢治とゲーリー・スナイダー 山里勝己 「越境するトポス」環境文学論序説
「越境するトポス」環境文学論序説
野田研一/結城正美 2004/07 彩流社 単行本 322p
Vol.3 No.0494★★★★☆
1)図書館オンラインで、「宮沢賢治 ゲーリー・スナイダー」を検索したら、この本がでてきた。おお、「宮沢賢治とゲーリー・スナイダー」という文書があるではないか。執筆者は山里勝己。当然、この辺だろうな、と思った。
2)3.11以降、あちこちから「宮沢賢治」について言及されている。いや、私自身が宮沢賢治のことが気になりはじめたので、あちこちの「言及」に目が引かれるのであろう。
3)特に、宮沢賢治、ゲーリー・スナイダー、山尾三省のトライアングルから何事かを探しだそうという当ブログの試み、そろそろスタートしようとしているからだろう。
4)さっそく取り寄せてみると、この本は、環境文学論序説と銘打っているだけあって、広範にネイチャー・ライティングを論じている本だった。10人ほどの研究者たちの論文が合本されている。
5)何はともあれ、他の方々は割愛して、目的の文章を読みだした。30ページほどの決して長い文章ではない。
6)途中まで読んで、気がついた。この文章すでに読んでいる。よく見てみると、この文章は、山里勝己「場所に生きる--ゲーリー・スナイダーの世界」に収録されていたのだ。なんだぁ、そうだったのか。あの文章から更に発展したものを期待していたのだが、同じ文章を再読することになった。
7)二つの本を並べてチェックしてみると、殆ど同じ文章だが、小さなところがちょっと違っている。ならばどちらが新しいのか、と見ると、2004年の「越境するトポス」に対して、2006年の「場所を生きる」、だから、これは後者を精読するほうが正しい読書態度であろう、という結論になった。
8)ただ、この文章を、「ゲーリー・スナイダーの世界」の中の一部として読むことと、「越境するトポス--環境文学論序説」の中の一部として読むことには、おのずと持っている意味が違ってくるだろう。
9)あるいは、このクロスする環境文学とやらに、いつかは逆流していくことも可能であろう、と思い始めた。
10)何はともあれ、ここは、この三冊の再読から始めよう。
『野の道 - 宮沢賢治随想』山尾三省(1983)
『聖なる地球のつどいかな』三省+スナイダー対談集(1998年)
『場所を生きる--ゲ-リ-・スナイダ-の世界』 山里勝己 (2006年)
11)このように見てくると、宮沢賢治とゲーリー・スナイダーの類似性を理解することはそう難しいことではない。スナイダーもまた詩人として出発した初期の頃から科学と宗教の融合を目指してきた。1950年代には、スナイダーはすでにエコロジーと仏教の接点に着いて思索を深めている。
「地球の家を保つには」に収録された1950年代初期のジャーナルには、仏教とエコロジーの接点に関する洞察が記されている。すなわちスナイダーにとっては、仏教とエコロジーは全ての存在の相互依存性を認めるという点で共通の世界像を有するのである。
仏教におけるこのような世界像の核心的なイメージは「インドラ網」であり、それはすべての存在が幾重にも相互依存し合う様相をし隠したものである。(興味深いことに、宮沢には「インドラ網」という物語がある)。
スナイダーにとって、「インドラ網」はアジアの宗教的ヴィジョンが捉えた世界像であり、エコロジーは西洋の科学的思考から生まれた自然界のモデルなのである。p122山里勝己「越境する精神」
12)なるほど、ひとつ、この「インドラの網」あたりから始めよう。
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