仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う! <2> 飯沼 勇義
「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!
飯沼 勇義 (著) 1995/09 宝文堂 単行本 p234
★★★★★
1)深夜まで本を読んでいて、ふとうとうとしていると、ひさしぶりに身体の自由を奪われた。まるで海中をもがいているような、誰かが手をひっぱり、体に抱きついてくるような重たい感覚。声を出せども、声もでず、手を出そうにも身動きできない。足をばたつかせ、頭を振り回しているつもりなのだが、周囲は暗闇ばかりで、唸りこそ聞こえ、何の意味もない漆喰の空間でもがくだけで、数刻過ぎた。
2)ようやく呪縛が解かれ、ふと我に返ってみれば、そうか、今日は10月11日。あれから7ヵ月目の月命日の日であった。死者行方不明者2万名以上。 冥福を祈ります。 合掌
3)息せき切って、一度は読みとおした本書であるが、一息入れて、また最初から読み直してみる。重要ポイントの確認もあり、また見落としていた伏線の発見もある。自らの想いと、自らの第一理解をベースとして、さらに細かいディティールを補完する。
4)それにしても、とてつもない本であると再認識するとともに、今までの自らの無知さを再確認する。なるほど、身近なポイントにこのような見方があったのか。だから、現在こうなったのか。ひとつひとつうなずくことが多い。
5)有史以来、日本を襲った津波のうち、海岸部の最大波高が5m以上に達する津波として記録されているものは約40件ほどあり、この中でも30m以上という想像を絶する巨大津波は過去に8回に上っております。
この8回のうち東北の三陸沿岸または仙台沿岸を襲ったものは、西暦869(貞観11)年の「貞観津波」、1611(慶長16)年の「慶長津波」、そして1896(明治29)年の「明治三陸津波」、1933(昭和8)年の「昭和三陸津波」、更には、1960(昭和35)年の「チリ津波地震」で、日本で発生した巨大津波の半数以上をこの両地域で占めているのです。(理科年表平成4年阪より)p18「津波の恐しさ」
6)3.11以降、あとだしジャンケンのように、数多の研究家やジャーナリストの写真や諸説が流布されているが、この本の恐ろしさは、それを16年前にキチンと予見していたことである。特に「仙台平野」と区切り、平野部における、空白期の、巨大津波の恐ろしさを直言した本としては、唯一と言っていいのではないか。
7)今日、地震予知すら出来ない地震国日本。世界的に優れた地震学者がいる日本。今、地震予知はできないが、ある程度の<予測>は出来るところまでの水準に達していることだけは確かです。
例えば、活断層箇所、地下水水位の異常、動物動向の異常、電磁波の異常、人工衛星からの地形移動とひずみの差・・・・等の事前調査によって、地震発生の予測をすることが出来るようになってきました。
そして、更に、ここではっきり言えることは、仙台平野には過去、数十年、数百年、数千年、数万年・・・・の歴史の中で何回も何十回も巨大津波を被災しているという過去の歴史の教訓を生かした津波防災が絶対必要であるということです。p29「地震予知の不可能性と現実-----歴史津波の重大性の認識」
8)震災後7ヵ月が経過して、早期の復旧・復興が叫ばれる中、全体としてのそのイメージがまだ実像を結ばないのは、いままでの防災意識の不足が加速させているということもできる。以前から考えていなかったので、まずは現実を飲み込むまでに時間がかかっているのだ。
9)それにしても、いままで住んでいたところが好ましく、離れて暮らすことができない、として、いままで以上の「防潮堤」を巨大化して、同じ地区で住み続けようとする動きもある。
10)これだけの広域にわたる被災なのど、一概には言えないが、少なくとも、大自然の猛威の前で、自分や人類の力を盲信・過信するようなプロジェクトだけは慎むべきだろうと思われる。地球上のプレートの上で動いている大地の上で、環境と共存して生かされているのだ、ということを肝に銘じたビジョンでなけばならない。
11)貞観11(869)年の貞観津波から慶長16(1611)年の慶長津波まで742年あります。仮に、この貞観津波で仙台平野の農地が海水をすっぽりかぶり、荒地、荒野原になったとして、この仙台平野が、その後742年間、伊達政宗が仙台へ進出するまで、殆ど、荒野原の原野の大地であったとは、だれがどう考えても不自然でおかしいということです。p134「古代、中世を通じた仙台平野」
12)上についての著者の見解は、著者の「知られざる中世の仙台地方」(1986)にくわしい。一郷土史家のほとんど私家版ともいうべき一冊で、決して読みやすいものではないが、一人の地元人が徹底して調べ上げれば、これほどのことまでのことが分かるのかという、目から鱗の一冊である。
13)慶長16年、今から約380年余り前、この仙台地方に想像もできない巨大な津波、慶長津波が押し寄せ、古代から、そして貞観津波以来続いた仙台平野を支えた豊かな耕地は、この津波によって海水と泥砂の堆積で、仙台平野は荒野原となる大災害に見舞われたのです。p135「同上」
14)慶長16年と言えば1611年、今から思えば、ちょうどジャスト400年前のできごとであった。地域の旧家や寺社の由来を尋ねると、約400年前、と答えるところが多い。歴史を遡るには、それくらいが限界なのかな、と思ってきたが、はてどうだろう。少なくとも、私の生家や地域の寺社を含め、このちょうど400年前の慶長津波で一旦流されたあとに再興された農耕文明のなかで、地域が作られてきたのではなかっただろうか。
15)慶長津波は、この名取川河口からものすごい勢いで駆け上がり、(中略)特に海辺の閖上、藤塚、種次にはこうした海辺の村ということばかりではなく、名取川に接している村で、信じられない程の大変な海水の浸水があったことはまず間違いないことでしょう。
こうした仙台湾岸の仙台平野を望む海辺の村々は、この慶長津波で殆ど村ごとのみこまれていて、これまでの藩政初期のこうした村々の津波の歴史は何も書かれることなく、まったくの空白で、何も残していないということもわかったきましたので、それぞれ確認してみてください。
慶長津波によって残された後遺症は、仙台藩にとって大きな痛手だったようです。p167「仙台平野の沖積層土壌と湿地地帯について」
16)なるほど、そうであったのか。この本が3.11以前に描かれているということに留意しておかなければならない。今考えてみれば、すこし控えめである、とさえ感じられるような表現ではある。出版当時には市長、県知事を初めとして、地域の誰もが無視してしまった研究だったのだ。それが現実のものとなったのが3.11である。
17)仙台平野でも多賀城地方から仙台地方にかけては津波の最終到達点又は浸水地と思われる歴史津波地が集中していますが、名取川から南でも仙台平野の最南域である阿武隈川よりの岩沼深山の千貫松と千貫神社の津波伝説地までの中間の名取平野には、貞観津波伝説の清水峯伝承以外の津波伝説は今のところありません。
しかし、の清水峯伝承の中に登場する、赤井江・葦浦・玉浦・牛野の里・小豆島・久穪島・舟繋の松・來着崎・・・・などの地域まで貞観津波が侵入していることがわかり、これらの地域は、海からの入江・内海ではないかということを指摘しましたが、藩政時代になってから名取以南にみられる増田川・川内沢川・五間掘の河川は、これまでのこうした入江・内海と接続した河川に改修した水路であるということはほぼ間違いないと思う。p181「増田川、川内沢川、五間掘、阿武隈川と関係を持った被災地の開発」
18)ここに登場するような地名に関心を惹かれるのは、ひとつひとつが、ごく身近で、すぐに行って確かめることができるような地域にあるからだ。一日も早い復旧・復興が叫ばれてはいるが、この地域の防災教育が遅れていたこともあり、これらの歴史の推移にまなびながら、より大自然が人間たちに提供する自然環境に適したライフスタイルの構築のための復旧・復興でなければならないだろう。
19)一概に、復旧・復興をいそぐことばかりが善ではない。
20)とにかく、ここで書かれているのは、巨大津波が仙台平野に襲来した歴史であって、これは言葉では表現できない大変な災害であったことをまずは知ってほしいということです。p186
21)今回の3.11においては、史上まれにみる動画記録が残されている。それは一地方にとどまらず、日本全国、さらには、インターネットを通じて世界中に配信され、記録された。仙台平野では、貞観津波、慶長津波に続いて、平成津波と記録されることになるだろう。それはまちがいなく繰り返し起こってきていたのだ。
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