仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う! <1> 飯沼 勇義
「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!<1>
飯沼 勇義 (著) 1995/09 宝文堂 単行本 p234
Vol.3 No.0483★★★★★
1)赤本。「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」飯沼勇義の啓発の書ともいうべき、16年前の1995年に出されたもの。当時の藤井黎・仙台市長と、浅野史郎・宮城県知事あてに、「陳情書」として書かれている。
2)災害を予言し、警告した、という意味では、広瀬隆「原子炉時限爆弾--大地震におびえる日本列島」(2010/08)にも匹敵する。一人でライフワークとしてコツコツ警告してきた、という意味では京都大学原子炉実験所の小出裕章助教にも匹敵する。いや、こと仙台平野の津波についてだけなら、広瀬隆+小出裕章をはるかに凌駕する驚愕の書である。
3)「蛸薬師堂と薬師如来像の伝説」
蛸薬師堂は、仙台市太白区長町三丁目(旧西浦地内)に祀られている神社です。元来、この社は、川熊醤油店の氏神で薬師如来を観音様と言っておりました。
慶長津波の時、この観音様に蛸がついてこの地へ打ち上げられ、これ以来、この観音を薬師如来とし、川熊家の氏神として屋敷内に蛸薬師堂の神社を建てたと大竹誠氏が言っています。
この地へ津波侵入は、名取川から広瀬川を上り、この辺まで津波が来たということです。
この周辺にまで襲来した津波と、津波とともに流されてきた蛸が、この終着点で薬師如来と結合して神社に祀られています。
元来、薬師如来は、人々の病を治し、災難を取り除いて元に戻してくれるのであり、ここでは、津波という病魔に冒されたこの地を再び、こういう災害が無いように観音様(観世音菩薩)、を薬師如来に仕立てて、その願いを託して祀ったのが蛸薬師堂だということです。
薬師如来とか薬師さま、薬師堂と水難は密接な関係をもっています。薬師如来のことは別名、瑠璃光如来とも言って、慈覚大師によって、主として、東北地方や関東地方の各地におかれました。p118
4)この部分はほんとに唸らざるを得ない。今回の3.11で津波にあったという人は、私の身近にも多くいる。どこでも、まさか、というタイミングだった。しかし、私は、まったくその心配をしていなかった。町中の海岸から7~8キロも10キロも離れているような、そんな地に津波がくるわけがないと思っていたし、そんな話を聞いたこともなかった。
5)しかし、現実には私が被災直後に歩いていた街の界隈には、実は津波伝説があったのだ。人のことを嗤うことはできない。私がいつも行っているあの図書館も、津波に襲われる可能性があったのである。事実、そういう現実が慶長津波(1611年)にはあったということだ。
6)数日後、私の住まいの近くにある樹齢1300年と言われるカヤの木の行事がある。ここもまた薬師如来が祀ってある。深い言われは分からないが、その根元から薬師如来の像がでてきたということが由来になっている。
7)実は不思議と言えば不思議なのだ。樹齢1300年と言われる割には、この地にそれに類する樹木は他に一本もないのだ。本当に一本だけだ。今回も陸前高田の一本松だけが生き残ったとされるが、ひょっとすると、あのカヤの木も、近くの一級河川が氾濫した時に、全てが流され、たった一本だけが残ったのかも知れないと思う。樹齢1300年というと、869年の貞観津波をも見ていた、ということになる。
8)瑠璃光如来。山尾三省の「祈り」が聞こえてくる。
9)浪分(なみわけ)不動と浪分神社の伝説
仙台の海岸線から西方の内陸へ直線距離にして約5kmのところ、仙台市若林区霞目(七郷)に浪分神社があります。この神社の西隣には、「谷風の墓」があって、その西隣接地には、仙台霞ノ目飛行場(現、陸上自衛隊霞目飛行場)で、この飛行場から南小泉遠見塚古墳一帯にかけては南小泉遺跡地帯になっています。ここ、浪分神社の周辺は海抜5~5.5mのところにあります。
慶長津波は、井戸浦川、七郷掘を駆け上がり、この周辺一帯まで及び、現在の神社の位置が浪分けの地となって、ここより二つに分かれて引いていったといわれています。この社には、浪分不動尊をご本尊として祀り、浪分神社というようになりました。p115
10)3.11以後はすっかり有名になってしまった浪分神社だが、それまでに、この伝説を真に受けることができた人はどれだけいたことだろう。すくなくとも私は現実のこととしては聞くことはできなかった。
11)名取の植松地区にある東北最大の規模と威容を誇る雷神山古墳の西、地図上での直線距離約500メートルのところに清水峯(すずみね)神社という縁起の古い神社があります。(中略)
貞観11(869)年5月26日に巨大津波、貞観津波があり。この津波があった翌年の貞観12年の春頃まええには、この清水峯神社がある小豆島(村)一帯から牛野(村)、下余田(村)にかけての名取平野に、疫病が大流行したことが、この清水峯伝承の中に書かれていますが、死者が多く出たことや、その疫病が貞観津波後に発生した伝染病であることなどは、何一つ書かれていません。この地方の人々が、疫病で苦しんだということは、伝染病(腸チフス、赤痢、疫痢、コレラ・・か)の発生があって、多くの死者が出たとみて、間違いないでしょう。p98
12)この地区についての深い考察も実に興味がつきない。
13)過去、仙台平野に大津波襲来があった。今回、こうした巨大津波の歴史上の周期性があったことを踏まえ、今後、こうした規模の巨大津波襲来の歴史予測を捉えることが出来ても、恐らく、高度な文明、高度な文化生活を味わった日本陣は、こうした不都合な歴史の殆どは伝説として片づけ、見倣すことになるでしょう。
そして、現実的な生活と、これからの生活に対して正当化し、過去を無視した政治が優先されていくでしょう。政治家は、こうした自然の災害に対して見向きもしません。もっと身近な現実的なものに対して住民から好まれる利益につながることを実行すればそれでよかったのです。これからの政治や政治家はこれでよいのでしょうか・・・。今、こうした政治家はこれからの日本には要りません。p228
14)この本には原発については書いていないけれど、ここで語られることが、実際に起きてしまったことに、なんとも言えない超リアリティを感じる。
15)しかし、仙台地方の歴史の中で、歴史津波の史実はこういう形であったという事実を後世の人々に伝える必要はないでしょうか。
少なくとも真の文明人とは何か。豊かさと物質文明と自分だけの幸せを追求する人ではないと思う。恒久的な全人的な平和を得るには、人間社会の不都合なことを防止するための英知と努力が必要ではないでしょうか。p229
16)痛み入ります。
17)16年前、麻原集団事件や阪神淡路大震災のごった返しの中で、このような警告の書がでていたのだった。あまりに凝縮された研究が多岐にわたっており、この本を味わうには、じゅっくりと腰を据えて向き合う必要がある。
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