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2011/10/29

宮沢賢治の宗教世界 大島宏之編<1>

宮沢賢治の宗教世界
「宮沢賢治の宗教世界」 <1>
大島宏之編集  1992/01 北辰堂 763p ¥18,350
Vol.3 No.0509
★★★★★

1)賢治を追っかけるにしても、やはり気になるのは、賢治の宗教世界についてである。とりわけ国柱会の田中智学などの関わりはいかがなものだったのか。そこのところが気になって、図書館の検索に引っ掛かったのがこの本である。

2)届いてみれば、なんと700頁をこす大冊である。しかも30名ほどの執筆者たちによるオムニバス形式の一冊だった。最近、3.11関連などでは緊急性もあってか、このオムニバス形式の本がでており、いくつか手にとったが、論旨がバラバラでむしろ忌避すべき形式の一式として、しばらく遠ざけようと思っていた。最初、この本もまた、拾い読みしてすぐ返却しようと思った。

3)ところが開いて見れば、これが面白い。なるほど、賢治ワールドにはこれだけの読み方があるのだ、とあらためて豁目させられた。まだほんの最初の100頁をめくった程度のところなのだが、もう、だいぶ賢治については知った気分になり、ある意味、もう十分という気にもなり、また、新たな疑問も湧いてきた。厚い本は苦手なのだが、この調子だと、最後まで読んでしまいそうだ。

4)賢治の生後5日目の8月31日午後5時、花巻町の西方25キロメートルの地にある沢内村川舟(川尻)に、高さ2メートルに及ぶ長い断層を生ずるほどの大地震が発生、全壊家屋5千6百、死者2百名を記録した。

 またこの年の6月15日には、三陸地方に大津波が襲来し、最高24メートルの高波が海岸の家屋を破壊し、2万1千人の死傷者を出した。その上、7月と9月には大風雨が続き、北上川が5メートルも増水、家屋、田畑の損害も甚大であった。そして夏になっても寒冷の日が続き、稲は実らず赤痢や伝染病が流行した。

 賢治が日清戦争の直後に、この周期的に天災が訪れる三陸海岸に近い寒冷な土地に生まれたことと、彼が他人の災厄や不幸を常に自分自身のものと感じないでいられなかった善意に満ちた性格の持ち主であったこととは、実に彼の生涯と作品とを決定する宿命であった。p3宮沢清六「序論 兄賢治の生涯」

5)3.11後、あちらこちらから宮沢賢治の精神を立ち上らせようとする機運を感じる。当ブログもまた、3.11後に宮沢賢治を読む、とはどういうことなのか、と自問し始めたところである。実に奇遇というべきか。2万1千人の死傷者を出した明治三陸津波と、今回の3.11東日本大震災は、その被害者数にしてほぼ同等であったのである。

6)昭和8年には兄は起きられるようになり、時には肥料の相談も受け、文語詩を書いたりしていたが、3月3日には三陸沿岸に大津波が襲来し、23メートルもある大津波で死傷者3千名を出し、私も釜石に急行して罹災者を見舞ったのであった。

 このように賢治の生まれた年と死亡した年に大津波があったということも、天候や気温や災害を憂慮しつづけた彼の生涯と、何等かの暗号を観ずるのである。p18宮沢清六「同上」

7)まさに、そうであったか、という想いがつよい。

8)そうなると気になりだすのが、大正12(1923)年9月1日の関東大震災のことである。賢治27歳の年であった。賢治が国柱会に入会したのは大正9年で、それ以前の大正7年頃に女子大生だった妹トシの見舞いで上京しており、その時に国柱会を知ったのだろうか。

9)大正10年1月に国柱会を尋ね、結局同年8月には故郷岩手に帰郷するのだが、その間、国柱会の奉仕活動に携わったのはほぼ9ヵ月間ということになるようである。田中智学には、実際には会うことがなかった。

10)賢治の代表作のひとつ「春と修羅」の序が書かれたのは大正13年の1月のことであり、前年9月にあった関東大震災のニュースに少なからず影響を受けていたことは考えられる。

11)実際に賢治の童話を読み、花巻の記念館や童話村を訪ねると、メルヘンタッチのパステルカラーの賢治ワールドをイメージしてしまうのだが、賢治がそのような世界を書かなければならなかったのは、まさに、東北を襲った災害や、転変地異による、人事の無力さを痛感していたことと無関係ではない。

12)賢治の宗教感と言えば、法華経や田中智学などとすぐ連結してしまうのだが、短絡的にそこに急いでリンクしてしまうのは早すぎるようである。むしろ、それらから醸し出された、賢治独自の世界観からこそ、そのいわゆる「宗教」を嗅ぎだしていく作業が必要となる。

13)国柱会を尋ねた時に応答にあたった人物に諭されて「法華文学」を志したと、自らも書いてはいるようだが、実際にはその以前から賢治ワールドはほぼ確立していたのであり、自らの世界を、あたかも「法華文学」と後付けで表現し、その後、その方向性をより強固にしたものと思われる。

14)詩や童話の世界で時間と空間を自由闊達に闊歩した賢治ではあったが、実際の肉体は、その生きた時代や環境に大きく左右されている。科学者としての賢治の側面も様々に評論されているが、もし賢治が21世紀の今日ここに生きていたら、インターネットをどう使いこなし、原発事故に対して、どのような活動をしただろうか。

15)一詩人、一童話作家として賢治を見ることも可能だが、3.11後に宮沢賢治を読むということは、区切られた時間や空間、そして閉じられた37年間の肉体を研究することではなく、その精神が、もし3.11後に生きていたらどうしたかを想い、そして、それを、読む者が、自らの人生として生きることであろう。

つづく・・・・はず

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