シュタイナー 死について ルドルフ・シュタイナー/高橋巌 <1>
「シュタイナー 死について」 <1>
ルドルフ・シュタイナー/高橋巌 2011/08 春秋社 単行本 282p
Vol.3 No.0479★★★☆☆
1)3.11を挟んで亡くなった、3人の知人の死を考える。
2)一人は昨年から白血病を病んでいた古い知人で、ブログに闘病日記を付けていた。本来が明るい人柄で友人も多かった。明るい日記についつい気がつくことなく過ごしていたが、結局は病院から帰ってくることなく、この春3.11の一月前に亡くなった。友人多数出席の葬儀には、笑いや唄さえあり、若くしてなくなった彼を送り出すにはふさわしい式のようであった。
3)二人目は、中学校時代のバスケット部の部活動で一緒だった同級生。たまに集まる同級会以外に会うことはなかったが、彼は市役所職員として実直な人生を送り、立派な家庭生活を送っていた。その彼は、今回の3.11に沿岸部に勤務していて被災し殉死した。葬儀は時節柄、形としては家族葬ということになったが、市長以下、多数の出席があり、ひっそりとしたものではあったが、立派な式であった。
4)三人目は、震災後半年ほどして亡くなった。人に教えてもらってそのブログには目を通していた。膵臓ガンということで、表面はかなり元気そうではあったが、ひょっとすると本人も覚悟の上か、と思える部分がすくなからずあった。そのお別れ会には、生前を偲ばせる沢山の関係者が列席していた。福島県出身の社会活動家であってみれば、3.11以後にこそ、何事かの活動の場を拡大したがっていただろうことは、容易に推測された。本人の念も残ったことだろうと思えた。
5)人には等しく誰にも訪れる、死。その事実は、どの人間にも同等である。3者には3者の人生があり、この世における接点はほとんどなかっただろうし、それぞれの個性は別ものであったが、死を前にした時、人は等しく厳粛な現実の前に立たされる。
6)3人とも、50代は過ぎたとは言え、平均寿命から考えれば、早すぎた死となる。本人たちも、これでいい、と自分の人生を締めきることができたのかどうか、私にはわからない。
7)かくいう私とて、一人の人間として、死の前に厳粛な面持ちで立たされていることに変わりはない。3.11の前だろうが、その日であろうが、数カ月後、あるいは数年後であろうが、死が厳然と存在していることに変わりはない。
8)2011年の3月11日以降の読者すべての心に、本書が何か大切なものを伝えることができますように。(訳者) pv 「訳者まえがき」
9)シュタイナーは得手ではない。当ブログにおいても「神秘学概論」、「シュタイナーの世界」や「シュタイナーの宇宙進化論 」、コリン・ウィルソンの「ルドルフ・シュタイナー」、などを手にとるのだが、そこに機縁の深みを感じることはいまだない。
10)今回、3.11以後において、このようなタイトルの本があると知って借り出してはきたものの、今回もまたシュタイナーを深く読み込む前に、あるいはページさえ開く前に返却期日が到来してしまった。それも止むをえまい。しかし、ただただ、こういう本があり、3.11以後の私が、何事か方向を変えようとして、この本を借り出してきては見た、という事実は残る。
11)読み込まずとも、この本の存在を感じることによって、当ブログのベクトルの方向性がしなやかに変化する。
12)前述の3人の知人の死とて、外部から語れることは僅かである。語ることさえ憚られる。ただただ、その事実の前に厳粛な気持ちになるだけである。ましてや、3.11における二万人を超える死者行方不明者の人々のことに思いをめぐらせば、当ブログにメモし得ることなど、何ひとつなく、ただただ無力感に打ちひしがれるだけである。
合掌
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コメント
tosibee/kyou-sin-an さん
私は死を思う時、いつも、OSHO講話録「死・終わりなき生」を思い出します。http://plaza.rakuten.co.jp/bhavesh/diary/200811300000/
あるいはチベットの死者の書の「死を学べ、そうすれば、生を学ぶだろう」という言葉を思い出します。http://plaza.rakuten.co.jp/bhavesh/diary/200808300001/
常に他者の死は身近にあるのに、自らの死だけはまったく何処にあるのかわからない。不思議なものです。
投稿: Bhavesh | 2011/10/04 20:50
偶然、ということではありますが、今しがた閲覧していた知人の weblog でも、その方の伯母さまの死が語られておリ、自分もしばらく前に父方の伯母が亡くなったところで、こちらでも死についての言葉を読み、カスタネダの「死はアドバイザー」といった言葉を思い出しております。
投稿: tosibee/kyou-sin-an | 2011/10/04 15:26