郡山遺跡 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡 長島榮一<5>
「郡山遺跡」 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡<5>
長島榮一 2009/02 同成社 全集・双書 185p
★★★★★
1)図書館に返却する時期が来たので、もう一度通読してみた。科学としての遺跡発掘、あるいは科学としての歴史学については、すぐには読み込めない、理解できないことも多い。しかし、そのあたりはプロに任せて、この本に込められた夢、ファンタジーのほうによりウェイトをかけて読み直した。
2)政治的には東北地方が律令国家の範疇に取り込まれていくが、土器作りの技術では逆に西に広がっていく。技術が政治の動きとは連動していない側面である。政治は東に進むが文化は西へ入り込むことがあるということだろう。p27「コラム 黒い土器」
3)落とし込められた事実、捻じ曲げられた歴史というものがある。
4)この南北棟建物の桁行中央と石組池とが対面する位置にあることから、池との関連を考えておきたい。石敷きの広場のなかにあって池と一体になった使われ方を想定しておく。この建物から池を望み、西前方に見えたのが太白山である。p76「陸奥国府なる」
5)センゼード川とタントリ川が合流する地点から西方を見ると、太白ピラミッドが望めるというのは、実にバイオリージョン的に考えて、ワクワクするような設定である。
6)Ⅱ期官衙の服属儀礼における誓約の対象としたのは、西方に見える太白山の可能性を指摘している。p113「コラム 石組池」
7)「センダード2012」においては、太白ピラミッドは欠くことのできない、重要ファクターである。
8)新しい街づくり「あすと長町」区画整理事業にともなう発掘調査がされているなかで、郡山遺跡の北西端において大きな河川の跡を発見している。Ⅱ期官衙の外溝や竪穴住居跡を削り取り、幅9メートル以上、深さ3メートルに及ぶものである。(中略)
長町駅東遺跡の西部を通過した河川跡により削り取られた地形の可能性がある。広瀬川が郡山遺跡の北部を侵食し、場合によっては長町駅東遺跡西部を名取川方向に抜けるような流路があった可能性がある。
河川の流路がきわめて不安定に変わる状況のなかで、集落には適さない地になっていたのかもしれない。p167「ヴァリエーション 郡山遺跡からの問い」
9)飯沼勇義が指摘するように、郡山遺跡が、太平洋からの巨大津波の直撃により、冠水して流失したのではなくても、逆流してきた津波がセンゼード川から反乱して施設の一部を破壊した、と考える可能性は残っている。あるいは、大雨などの水害も決して少なくなかったのかもしれない。
10)1918(大正7)年から旧奥州街道の両側を埋め立てるように貨物駅の工事が開始されると、諏訪神社を現在の地に移動させ、東北線の新線も造っている。p168「同上」
11)移築された諏訪神社を参拝してきた。今回の3.11で鳥居が破壊されたが、すでに氏子たちの献身によって再建されていた。
12)仙台開府400年という言葉を多くの仙台市民は知っている。伊達正宗が仙台を城下町として作ったことに由来している。これからは仙台開府1300年の合言葉を、郡山の地から発して次の世代に継承してもらいたいものである。p169「同上」
13)プロの研究者たちの夢を踏まえた上で、当ブログ「センダード2012」ファンタジーは静かに立ち上がる。
14)歴史を学ぶことを強制することはできないが、自分の生まれ育った地がどのような歩みをしてきたのかに、もっと目を向けるべきだろう。「過去」に目を向けることは、「今」を冷静に見るきっかけであり、望まれるべき「未来」の創出に繋がるものと考える。p170「同上」
15)石川裕人「時の葦舟」では、「未来編」→「古代編」→「現代編」の順になっている。
16)公共機関が発掘調査をしたとしても、そこで得られた情報は、国民、市民共有のものである。p185「あとがき」
17)郡山遺跡の発掘エリアを歩いていると、ワクワクとする情念が湧いてくる。まだまだ表面に見えているものは限られている。しかし、小さな手掛かりから大きなロマンが湧きあがりつつある。
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