地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<9>ブッタ達の心理学1.0カテゴリについて
「地球人スピリット・ジャーナル」
ダイジェスト版
<9>「ブッタ達の心理学1.0」カテゴリについて
1)このカテゴリこそ当ブログの核心部分であり、すでに3.0まで続いている。あまりに長すぎるので、一旦終了してしまっているが、常にここに戻っていく必要がある。
2)書かれたのは2006/07~2009/03の期間。長い期間に間延びしており、あちこちに派生しつつ、結局はここに戻ってきた。
3)再読したいこのカテゴリこの3冊で選んだのは次のとおり。
「究極の錬金術〈1〉」古代の奥義書ウパニシャッドを語る OSHO 2006/03 市民出版社
「グレース&グリット―愛と魂の軌跡〈上〉〈下〉」 ケン・ウィルバー 1999/10 春秋社
「芸術人類学」中沢新一 2006/03 みすず書房
4)Oshoはわたしのマスターなので、常に彼の本に囲まれている。ただ、彼の本はただの「読書」ではない。彼の本をめくるのは私にとっては「読書」以上の意味がある。この「究極の錬金術」は、2006年当時の最も新刊であったが、読書としては、まだ完読していない。
5)ケン・ウィルバーは興味はあるのだが、すこし小難しすぎる。その中にあってこの「グレース&グリット」は、妻との生活が綴られており、原寸大のリアリティがあった。現在は、彼の最新刊に属する「インテグラル・スピリチュアリティ」を読み進めている。
6)中沢新一は「虹の階梯」(1981/7)を書いて、日本の読書界に一風を吹かせた人ではあるが、私はこの人を批判的に読んでいる。当時の最新刊が「芸術人類学」。その言葉の中に「地球人スピリット」との類似項を見ようとしたが、彼は彼なりにアカデミズムの中に退却していく過程にあり、グローバルなスピリチュアリティを自らのテーマにしていたわけではなかった。
7)この時代は何でも気になったものは読むというスタイルだったので、小説、チベット密教、心理学、Osho、仏教、評論、セラピー、人生論、童話、芸術、と渾然としたものだった。割と多様性に富んでおり、種としては殆ど揃っていたようである。
8)いつでもつきまとうのは、ブッタ達、と言った場合の「ブッタ」であり「達」である。ブッタは言葉を持たないと仮定すれば、それは菩薩、と換言できるし、ブッタは全体に溶け去ってしまっているのに、複数形に成り得るのか、という問題もある。
9)さらには、「心理学」という問題もある。科学として意識を解明しようとすれば、ついには失敗するのであり、ブッタの心境というものは「心理学」としてはとらえきれない。しかるに「ブッタ達の心理学」と敢えて表現するには訳がある。
10)現在の心理学が、病者の心理学から、健康学としての心理学でとどまっていることへの焦燥感がある。そこからさらに「新しい心理学」へと飛翔するには、「ブッタ達の心理学」という淡い概念が必要となってくる。この概念は、ついには霧消しなくてはならないのだが、それは心理学だけに留まるものではなく、生命や存在すべてにおいて言えることである。
11)当ブログの主テーマといいつつ、結局は、周辺の書籍に手を出して飛ばし読みしながら、周囲を埋めていただけ。2.0、3.0と続いていくが、これはもっと続けて、なおかつテーマのターゲットを絞り込んでいく必要があるだろう。
12)麻原集団等の読み込みも行ったが、次なるステップにいくために必要だったのだろう。
13)ケン・ウィルバーは小難しく面倒くさいが、あちこちに素晴らしい洞察がちりばめられている。ひとつひとつ拾って、再読してみる価値がある。
14)図書館利用という技術が身に身に付き始めた頃でもあり、手当たりしだいに読み散らした感が強い。
15)Osho本にも手をかけるのだが、なかなか読み込めない。
16)中沢新一も読み込んだが、いわゆるニューアカデミズムとやらの中に逃げられてしまった感が強い。深追いは禁物。
17)チベット密教やトンデモ本にも手をかけたが、断片的に終わった。
18)意識やセラピーにも遭遇するが、ジャンルの拡大領域を確認する程度で終わった。
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