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2011年11月の125件の記事

2011/11/30

失はれた地平線 DVD <2>

<1>よりつづく


「失はれた地平線」
◆監督・脚本:フランク・キャプラ 出演:ロナルド・コールマン、ジェーン・ワイアット、H.B.ワーナー、トーマス・ミッチェル、マーゴ、ジェーン・ワイアット、マーゴ◆1937年公開◆DVD◆132分
Vol.3 No.0556★★★★★

1)かの事件が一応の通過点に到達し「失われた秘境シャンバラ」なるリストをつくってみた。そのトップに位置していたのがこの映画。最近、図書館ネットワークが、視聴覚資料の敷居を低くしたので、他の図書館からもDVDなどが借りやすくなった。

2)前回はビデオだったが、今回はDVDだ。もともと132分だった映画は次第にオリジナルテープが破損し、25分ほどカットされていたらしいが、それを復元し、映像が復活しない部分はスチールカットで穴埋めしての、132分復刻版である。

3)実に、「失われた『失われた地平線』」とも言うべきメタロスト・ワールドである。

4)今、このタイミングで、この映画を見たくなって、あらためて見る、ということに、何かのサイクルを感じる。

5)ブータン国王が3.11被災地を慰問で訪れ、「自分の中の龍を育てなさい」というメッセージを遺した。まさに、シャングリラの一つともいうべきブータンも、次第次第にその神秘のベールがはがされつつある。

6)シャングリラもシャンバラも、あるいは賢治のユートピアとしてのイーハトーブも、ついには自らのうちに「実在」するものであってみれば、現在の実在にくつろぐ以外、どこにも理想郷など存在しないのだ、という結論に行き着く。

7)思えば、いまここが理想郷でないはずがない。大地が揺れ、海が逆巻き、命のゆくえさえ定かでない環境の中で、もし自らの理想郷の中に安住できるとすれば、それはそれで、人間として行き着いた姿なのであろう。

8)映画として古く、ストーリーとしてもなお現代性を失ってしまった物語りだが、1937年、今ら74年前に創られた映像だとすると、感迫るものがある。宮沢賢治が亡くなって4年目に公開された映画だ。

9)この映画には1973年制作の別の映画があり、二つの作品を見比べるのも面白い。二つの映画の高僧ラマとのダルシャン風景を見較べるのも興味深い。

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情報時代の見えないヒーロー ノーバート・ウィーナー伝

情報時代の見えないヒーロー[ノーバート・ウィーナー伝]
「情報時代の見えないヒーロー」 ノーバート・ウィーナー伝
フロー・コンウェイ (著) 松浦 俊輔 (翻訳) 2006/12 日経BP社 単行本  672p
Vol.3 No.0555★★★☆☆

1)生命は宇宙の中の稀な現象であることは間違いないなかろう。おそらく生命は太陽系だけに限られており、われわれが主として問題にしている生命と較べられるような何らかの生命を考えるなら、地球だけに限られてさえいる。

 さらにまた、生命は時間的に限られた期間のものであって、地質時代の最初期以前には存在せず、やがて地球が再び生物の住まない焼けつくしたか或いは凍りついた一惑星になる時が確かに来る、と考えて間違いなかろう。

 この地球上において人間に類するものに限らずあらゆる形態の生命の存続を許している降伏な偶然事は完全な破壊的終末に至るのを免れないということは、いわれなくてもわかりきったことである。

 ある意味で確かにわれわれは死を宣告された一惑星上の難破船の乗客である。にもかかわらず、難破に臨んでも人間の体面と人間の価値とは必ずしも全く消滅しない。そしてわれわれはそれらを十分重んじなければならない。

 われわれは滅びてゆくであろう。しかしわれわれはそれをわれわれの尊厳にふさわしいと思える仕方でむかようと思う。 ノーバート・ウィナー 「時の葦舟三部作 石川裕人戯曲集」p8

2)この本を手に取ったのは、作家の三部作、その第1巻の巻頭に、上のノーバート・ウィーナ―の言葉を見つけたからである。意味的にはまずまずとして、この人物は誰であろうと検索してみて、いわゆるサイバネティクスの提唱者であることがわかり、関連の書物を読んでみることにした。図書館リストから割と新しめの一冊を選びだしたのだが、さて、これが適切であったかどうかは定かではない。

3)アメリカのハードカバー本は、余計な支線や情報が限りなく書いてあり、すっきりしない本が多い。特に、当ブログのような走り読みには適していない本が多く、こちらが求めている情報を探し出すこと自体に苦労する場合が多い。

4)いずれにせよ、この本は原文で2005年に書かれた伝記であり、1894年~1964年の間を生きたノーバート・ウィナーは、むしろ、1896年(明治29年)~ 1933年の間を生きた宮沢賢治と同時代人でさえある。「科学者としての宮沢賢治」と比較しながら研究すべき対象であるかもしれない。

5)当ブログにおける進行上、この本でこの「科学者」を知っておこうと思ったのかと言えば、かの戯曲を書いた作家が、なぜにこの言葉を三部作第1巻の巻頭においたか、を考えるためである。

6)「1991年から1994年まで書き継ぎ、上演してきた戯曲を再読したが、古びたところがなかった。時をテーマにした戯曲だからだろうか?時を旅する異能の家族の物語は戯曲の中で永遠性を勝ち取ったようだ。「時の葦舟三部作 石川裕人戯曲集」p260「あとがき」

7)この三部作の公演は、私も観客のひとりとして見ているはずである。

第1巻 --未来編-- 「絆の都」 センダード公演 西公園図書館前 1991年9月

第2巻 --古代編-- 「無窮のアリア」センダード公演 錦町公園 1993年9月

第3巻 --現代編-- 「さすらいの夏休み」センダード公演 センゼード停車場東口イベント広場 1994年9月

8)大きなサーカステントを設営しての大掛かりなセッティングである。ひとつひとつの情景が思い出される。しかし、正直言ってそのストーリーはよく覚えておらず、その芝居の意義も、よく分かっていたとは言い難い。

9)91年。私は国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス」にかかりっきりだった。私が出した企画が多勢に無勢で危うい立場に立たされ時、私は作家にヘルプの電話をしたことがある。この公演の直後だったと思うのだが、すげなく断られた。私はシンポジウムに劇団のスタッフなどを巻き込みたかったのだが、スピリチュアルな流れといわゆる芝居の人々の流れは、必ずしも一致しないことを確認した。。

10)92年。私は「湧き出ずるロータススートラ」を書いた。もし作家が自らの代表作を1991年から1994年に描いた「時の葦舟三部作」とするなら、同時代に書かれた私の文章はそれに対峙する形に置かれている。

11)93年。私の精神状態や経済状態は最悪の時代を迎えていた。あの時代に作家の芝居を見に行く余裕があっただろうか、と考えてみるのだが、時代背景やそこであったことを突き合わせてみると、やはりこの芝居も見ているのである。

12)そして94年。今は大きな家電店ができてしまって広場などというものではないが、駅の東口という一等地に大きな(すこし古い)テントを立てて行われた公園はある意味、この作家や劇団のみならず、地元の演劇界や演劇界という枠組みを超えたパフォーマンスの金字塔であったともいえる。

13)95年。阪神淡路大震災が起こった。そして麻原集団事件がおこった。ここがひとつの分かれ目だった。作家は、この事件を契機に一つの作品を書き上げ、街中のステージで公演を行った。私はこの芝居が不満だった。それから私は、芝居という世界から遠ざかった。

14)ちょうど同じころウィンドウズ95が発売され、時代はインターネットの時代へと突入する。私はウィンドウズ派であり(仕事上そうならざるを得なかった)、作家は、仲間内のネットワーク上そうならざるを得なかったのだろうがマック派だった。

15)あれから16年が経過し、2011年の最近になって、いわゆる麻原教団に関する裁判はすべて終結することとなり、私は私で「オウム真理教と失われた秘境シャンバラ」などという戯言リストをまとめようとするまでに「回復」した。

16)当ブログ(のまとめ)を、「雀の森の物語」、「湧き出ずるロータススートラ」と並ぶ三部作とするなら、私はどうしても、あの90年代前半まで下りていかなくてはならない。そして、あそこから今日に至るまでの経緯を拾っていく必要がある。

17)さてさて、ノーバート・ウィーナーご本人のことであるが、本当にこの人は、すこしも「古びたところがない」と言えるだろうか。ジョン・フォン・ノイマンやチャールズ・バベッジと並び称せられる存在で、バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセルやアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドとの繋がりの中で読み込まれなくてはならない存在なのであろうか。

18)21世紀の地球規模(グローバル)の社会で、ウィーナ―の遠い夢想は日常の現実となっているが、一方、新しい現実は、情報時代の見えない(ダーク)ヒーローというウィーナーの役割を、あらためて確認している。p510「エピローグ 未来--グローバル社会を生きる」

19)このテーマは、当ブログにおいては「ネット社会と未来」「シンギュラリティ」「2ndライフ」「シンギュラリタリアン」「クラウドソーシング」などのカテゴリの中で語られてきたテーマであり、その底流に流れているどす黒い何かである。

20)実際には、このダークサイドは、当ブログにおいては落とす決断をしたばかりなので、このテーマを復活させ、深追いすることはできるだけ避けたい。むしろ、いままでの持ち札の中でなんとか処理し、より卑近な個的なフィールドに意識全体を戻したいのである。

21)まずはともあれ、当ブログの存在意義を確認するために、あえて作家の三部作を触媒とし、その支線として、巻頭言の縦と横の位置関係を確認するために、この伝記を手にしてみたところだ。

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2011/11/29

地球人スピリット宣言草稿<13> <1.0>&<2.0>統合版目次

<12>からつづく 


「地球人スピリット宣言草稿」 
<13> <1.0>&<2.0>統合版目次 (編集中)

3.11関連リスト

地震関連リスト 
津波関連リスト 
原発関連リスト 
放射線関連リスト 
サバイバル関連リスト 
太陽光発電関連リスト 
エコビレッジ関連リスト

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地球人スピリット宣言草稿 
地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版  
曼荼羅メタ 地球人スピリット・ジャーナル2011NEW2011/12/09
曼荼羅の統合に向けて2011
曼荼羅読書2006~10  
曼荼羅第三の波プロジェクト2010    
曼荼羅プロジェクトG.O.D   
曼荼羅このカテゴリこの三冊2009
曼荼羅agarta-david 2008
曼荼羅Journal of Earth Spirit 両部 2008 
曼荼羅マルチチュード関連リスト2008
曼荼羅地球人スピリット・ジャーナル2007
曼荼羅Osho/gnu0.0.2のための21冊   
新刊本2011年上半期ベスト10    
新刊本2010年下半期ベスト10 
新刊本2010年上半期ベスト10 
新刊本2009年下半期ベスト10 
新刊本2009年上半期ベスト10
新刊本2008年下半期ベスト10
新刊本2008年上半期ベスト10 
新刊本2007年下半期ベスト10 
新刊本2007年上半期ベスト10
今年読んだ本2006年ベスト10   
当ブログが読んだ本ワースト10 エントリー1000記念
当ブログ 7つのキーワード      
当ブログ<第1期>最後の10冊、1年後の振り返り   
当ブログ、想定外の「定番本」たち、その2 
当ブログ、想定外の「定番本」たち、その1 
当ブログへの大学からアクセス  
再読したいこのカテゴリこの3冊-2010~11  
何回もページをめくった本 ベスト10   
「(暫定)カビール達の心理学」フェーズ1   
     

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Osho禅宣言のまな板に乗った人々    
Osho Zen Tarot 出典リスト
Osho Zen Tarot カードリスト    
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Osho著作参考文献玉川信明選 
 
Osho性愛を語る参考文献リスト 
 
Oshoが愛した本のジャンル分け(不完全版) 
Oshoの愛した本「西洋哲学」編  
Oshoのお薦め本ベスト10(私家版) 
Osho Books I Have Loved 入り子曼荼羅2001NEW2011/12/09    
Osho Books I Have Loved ss3
Osho Books I Have Loved ss2
Osho Books I Have Loved ss1 
Osho Books I Have Loved 登場回数の多い著者ベスト10(暫定版) 
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娘と話すシリーズ・リスト 
力道山のロールロイス関連リスト   
マイルス・デイヴィス「ジャズの帝王」を巡る21人 
レスポンスのあった著者たち      
人名索引(準備中)    
書名索引(準備中)

<14>につづく 

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郡山遺跡 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡 長島榮一<5>

<4>よりつづく 

【送料無料】郡山遺跡
「郡山遺跡」 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡<5>
長島榮一  2009/02 同成社 全集・双書 185p
★★★★★

1)図書館に返却する時期が来たので、もう一度通読してみた。科学としての遺跡発掘、あるいは科学としての歴史学については、すぐには読み込めない、理解できないことも多い。しかし、そのあたりはプロに任せて、この本に込められた夢、ファンタジーのほうによりウェイトをかけて読み直した。

2)政治的には東北地方が律令国家の範疇に取り込まれていくが、土器作りの技術では逆に西に広がっていく。技術が政治の動きとは連動していない側面である。政治は東に進むが文化は西へ入り込むことがあるということだろう。p27「コラム 黒い土器」

3)落とし込められた事実、捻じ曲げられた歴史というものがある。

4)この南北棟建物の桁行中央と石組池とが対面する位置にあることから、池との関連を考えておきたい。石敷きの広場のなかにあって池と一体になった使われ方を想定しておく。この建物から池を望み、西前方に見えたのが太白山である。p76「陸奥国府なる」

5)センゼード川とタントリ川が合流する地点から西方を見ると、太白ピラミッドが望めるというのは、実にバイオリージョン的に考えて、ワクワクするような設定である。

6)Ⅱ期官衙の服属儀礼における誓約の対象としたのは、西方に見える太白山の可能性を指摘している。p113「コラム 石組池」

7)「センダード2012」においては、太白ピラミッドは欠くことのできない、重要ファクターである。

8)新しい街づくり「あすと長町」区画整理事業にともなう発掘調査がされているなかで、郡山遺跡の北西端において大きな河川の跡を発見している。Ⅱ期官衙の外溝や竪穴住居跡を削り取り、幅9メートル以上、深さ3メートルに及ぶものである。(中略)

 長町駅東遺跡の西部を通過した河川跡により削り取られた地形の可能性がある。広瀬川が郡山遺跡の北部を侵食し、場合によっては長町駅東遺跡西部を名取川方向に抜けるような流路があった可能性がある。

 河川の流路がきわめて不安定に変わる状況のなかで、集落には適さない地になっていたのかもしれない。p167「ヴァリエーション 郡山遺跡からの問い」

9)飯沼勇義が指摘するように、郡山遺跡が、太平洋からの巨大津波の直撃により、冠水して流失したのではなくても、逆流してきた津波がセンゼード川から反乱して施設の一部を破壊した、と考える可能性は残っている。あるいは、大雨などの水害も決して少なくなかったのかもしれない。

10)1918(大正7)年から旧奥州街道の両側を埋め立てるように貨物駅の工事が開始されると、諏訪神社を現在の地に移動させ、東北線の新線も造っている。p168「同上」

11)移築された諏訪神社を参拝してきた。今回の3.11で鳥居が破壊されたが、すでに氏子たちの献身によって再建されていた。

12)仙台開府400年という言葉を多くの仙台市民は知っている。伊達正宗が仙台を城下町として作ったことに由来している。これからは仙台開府1300年の合言葉を、郡山の地から発して次の世代に継承してもらいたいものである。p169「同上」

13)プロの研究者たちの夢を踏まえた上で、当ブログ「センダード2012」ファンタジーは静かに立ち上がる。

14)歴史を学ぶことを強制することはできないが、自分の生まれ育った地がどのような歩みをしてきたのかに、もっと目を向けるべきだろう。「過去」に目を向けることは、「今」を冷静に見るきっかけであり、望まれるべき「未来」の創出に繋がるものと考える。p170「同上」

15)石川裕人「時の葦舟」では、「未来編」→「古代編」→「現代編」の順になっている。

16)公共機関が発掘調査をしたとしても、そこで得られた情報は、国民、市民共有のものである。p185「あとがき」

17)郡山遺跡の発掘エリアを歩いていると、ワクワクとする情念が湧いてくる。まだまだ表面に見えているものは限られている。しかし、小さな手掛かりから大きなロマンが湧きあがりつつある。

<6>につづく

 

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2011/11/28

石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作<2>

<1>よりつづく

Asi
「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<2>
石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262
★★★★★

1)さて、この本、作家の40年間の活動の代表作とすることに異存はないだろう。その40年間とは、1970~2010年の間、と規定することも可能だろう。前後に僅かのゆらぎがある可能性はあるが、この間、この三部作が上演されたのは、1991/08~1994/09ということになり、執筆され、準備された時間を考えると、まさにその40年間のちょうど真ん中の時期、ということになる。

2)ネットで検索すると、石川裕人と書いて、いしかわひろと、という1974/10生まれのアメリカン・コミックスにかかわる作家がいるようだが、まったく別人であることは確認しておこう。本人たちの間にも何のかかわりもないはずだ。

3)この戯曲集を理解するには、当ブログにとっては、いろいろ予備知識を付けなければならない。そもそも戯曲、戯曲集とは一体なんだろう。当ブログで読んだことのある戯曲とは、サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」ぐらいだ。それもそそくさに通り過ぎ、冊数稼ぎの早めくりであった。

4)「時の葦舟」で検索すると、荒巻 義雄/著のSF連作集(1975)というものがでてくる。必ずしも広く知られた本でもないらしいが、かろうじて図書館ネットワークでも見ることが可能なようだ。そのうち見てみよう。

5)「時の葦舟」という言葉からのイメージだと、何やらUFO的雰囲気もあるし、「葦」というところからきわめてネイティブで、しかも古代をイメージすることもできる。

6)この戯曲は三部作となっており、第一巻「絆の都」、第二巻「無窮のアリア」、第三巻「さすらいの夏休み」となっている。第三部のタイトルならまぁまぁイメージできないこともないが、夏休みはともかくとして、「さすらい」とは一体どうしたというのか。夏休みにヒッチハイクにでも行ったのかな。「絆の都」、「無窮のアリア」から、言葉としてイメージできることは殆どない。

7)第一巻「絆の都」は「未来編」となっている。第二巻が「古代編」、第三巻が「現代編」。

8)第一巻の巻頭には「ノーバート・ウィーナー」という人の言葉が引用されている。誰なのだろう、と検索してみると、サイバネティックスの創設者として知られている。なるほどサイバネティックスね、それはすこしイメージできる。

9)マクルーハンとともにサイバネティクスも読もう読もうと思っているうちに、後回し後回しになって、結局パスしてしまっている。これはこの辺でまた、すこし逆戻りにはなるが、すこし補強しておかなければならないようだ。

10)この戯曲が書かれたのは1990年代のほんの初半だから、ウィンドウズ95で本格的なインターネット社会がくる前のことである。この時代におけるメディア論やロボット論もなかなか興味深いものがある。

11)巻末には「引用作品」としていくつか挙げられている。

作中、以下の書籍から引用している。
全巻    J・R・R・トールキン「指輪物語」
「絆の都」 宮澤賢治「無声慟哭」
       四方田犬彦「GS」vol.3 巻頭言
       デヴィッド・ビート「シンクロニシティ」
 p257

12)賢治の「無声慟哭」はともかくとして、他の作品はどうであろうか。トールキンは断片的には触れているが、当ブログとしては、緩やかに回避してきたエリアである。ここは視聴覚資料も借りやすくなったので、まずはビデオからチャレンジして行こうか。

13)「シンクロニシティ」なら、私はすぐにユングを連想するが、さて、デヴィッド・ビートとは一体何者?と検索してみると「超ひも理論入門」というブルーバックスがある。なるほどブーツストラップ理論ね。「超」とついているから、なにか、もっとすごいことが書いてあるのだろうか。

14)へぇ、一つの戯曲集をめくるにあたって、これだけの予備知識、あるいは支線が必要になる、ということは、これはなかなか大変な旅になるかもなぁ。それでも、40年書き続けてきた作家の代表作とされる一冊を読ませてもらうのだから、こちらもその程度の敬意を払うのは当然のことか。

15)まずは、そろりと、わが葦舟のもやいを緩めてみようか。

<3>につづく

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宮澤賢治イーハトヴ学事典 天沢退二郎・他(編集),

宮澤賢治イーハトヴ学事典
「宮澤賢治イーハトヴ学事典」 
天沢 退二郎 (編集), 金子 務 (編集), 鈴木 貞美 (編集) 2010/11 弘文堂 単行本: 687p
Vol.3 No.0554★★★★★

1)こりゃまたとてつもない本である。ハードカバー全687p、占めて14700円。出版されたのも、まだ一年前と、もっとも最新の賢治ワールドの研究書のひとつ、と言えるだろう。

2)執筆陣もほぼ150名と、とてつもないヴォリュームで、編集期間も、企画や準備期間を含めれば、大変長期に渡ったはずである。それだけに、全部を一読するというのはなかなか難しく、「事典」という通り、気になる項目を引けば、そこから賢治ワールドにつながる仕組みが、すべての項目に渡ってできているということになる。

3)センダード(仙台)

 童話「ポラーノの広場」に登場する都市名だが、仙台をもじった造語。作中では、都市名では「センダード」とし、駅は「センゼードの停車場」、地元紙も「センゼード日日新聞」などとしている。

 その地への交通路として、作中では、「わたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着きそこから汽車でセンダードの市に行きました」としている。その「シオーモ」も実在の塩釜をもじった造語で、賢治行動圏内への親しみの反映が見られよう。

 (関連項目)イギリス海岸、トキーオ・トケイ(東京)、ハームキヤ(花巻)、ヒームカ(姫神山)、モーリオ・マリオ(盛岡)
p286

4)当然、当ブログ現在進行中のカテゴリ名「センダード2012」は、ここに依拠している。

5)賢治の詩を自分の詩集におさめたアメリカの詩人Gary Snyderや賢治の詩集を英訳し、それを出版した佐藤紘明は例外だが、以上に述べて理由などによって、それらも残念ながら、外国の読者の注目をあまり集めなかった。p459「賢治の英訳」ロジャー・パルバース

6)スナイダーの「奥の国」(The Back Country)は、花巻の賢治記念館にスナイダーの写真と共に実物が展示されているが、賢治が外国に広く紹介されているとは言い難い。しかし、生前の国内ではまったく無名であったわけだし、21世紀になってますます高まる賢治の国内人気だけに、今後、どのようなグローバルな広がりをみせていくのかは、今後の楽しみでもある。

7)「奥の国」(The Back Country)は国内の図書館にはほとんどなく、唯一関東圏の大学に一冊あることを図書館スタッフが調べてくれたが、借り出すまではいかなかった。本当に読みたいと思えば、もちろん古書だが、ネットで割と簡単に入手できるようだ。

8)意識/意識現象
 宮澤賢治は自分の作品世界を自ら「心象」のあるがままの「スケッチ」と呼んだが、それは、20世紀への転換期に欧米の哲学界が関心を集めた「意識」現象の問題と深く関連している。
p22

9)なるほど、賢治の「心象」とは、「意識」現象と関わっていたか。便宜上、「意識をめぐる読書ブログ」を標榜する当ブログとしては、読み捨てできない部分である。

10)エマソン
 (前略)明治44年、盛岡中3年の賢治が「『中央公論』の読者で、エマーソンの哲学書を読んでいたのに驚いた」と寄宿舎の同室者は述べている。(後略)
p68

11)このことは他でも読んだが、当ブログにおいてはエマソンはまだスタートしきれていない。さまざまな展開があろうが、まず、エマソン→賢治→スナイダー、エマソン→ソロー→スナイダー、あたりの系譜をもうすこし丁寧になぞることができる時期がくるだろうか。

12)学校づくりと、内容については、人間観などが賢治と多いに共鳴し合うルドルフ・シュタイナーに学ぶことが多く、その名もいただき、学校名としたのだった。p77「賢治の学校」鳥山敏子

13)無限といっていいほどのインターフェイスを持っている賢治ワールドだけに、鳥山敏子シュタイナーと賢治を繋げるという発想は有り得ることだとは思う。当ブログは今のところ、シュタイナーを断片的に取り上げてきたが、まとめて追っかけする予定はない。鳥山は、シュタイナーの「教育」の部分を中心に切り取ったから、このようにリンクすることが可能だったのだろう。

14)賢治が信奉した法華経は、全編いたるところに、すこぶる完成度の高い、ちょうど近代文学の短編小説のような、説話がちりばめられ、古来、人々を魅了してきた。日本文学史では、法華経文学というジャンルが成立しているほど、影響力が強かった。p213「賢治と説話」正木晃

15)正木晃は当ブログでのスターでもあるが、専門のチベット密教と法華文学を直につなぐことには必ずしも適任とは言い難いようだ。賢治を「法華文学」という概念に閉じ込めることも、ちょっと無理だと私は感じているのだが・・・。

16)宮澤賢治はグラデーションをなしている。多面的といってもよい。詩人、童話作家、教師、社会運動家(羅須地人協会の農民芸術運動))、求道者、法華行者、修験者、シャーマンなどなど、賢治のグラデーションを多色図解することも不可能ではない。「賢治の食べ物」p308鎌田東二

17)この事典ではあらゆる方角からの参加を許している。これだけ多面的な賢治であるがゆえに、その可能性の大きいことをもしめているが、また、それらを以下に実像たる賢治へと結像していくかは、賢治そのものが持っていた本質と、それを愛する人々が光のグラデーションの融合のあとに白色化し、無色化していくところに関係してくるだろう。

18)南方熊楠

 (前略)イギリスでは「素人学問」が玄人専門の学者を圧していると主張、賢治にもつういる自然愛好者であった。熊楠の合祀反対運動と自然保護運動を支持した柳田国男と大正2年待つ出会うが、民俗誌「郷土研究」の編集で意見が合わず、大正15年に決裂した。p475

19)熊楠もまた当ブログでは読み込み不足だが、今後の如何によっては、賢治+熊楠、というカップリングを意識していかなければならないかもしれない。

20)以上、ざっとめくればこのような点が目についた。これだけ分厚い「事典」だけに、気がつかないことも山ほどあろう。おりに触れて、まためくってみるのがいいだろう。

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2011/11/27

イーハトーブ悪人列伝 宮沢賢治童話のおかしなやつら 大角修

イーハトーブ悪人列伝 宮沢賢治童話のおかしなやつら
「イーハトーブ悪人列伝」 宮沢賢治童話のおかしなやつら
大角修 2011/2 勉誠出版 単行本: 254p
Vol.3 No.0553★★★★☆

1)賢治ワールド追っかけには切りがない。各人各様、好き勝手に賢治を扱っている。著作権が切れているせいでもあるまいが、かなり自由に賢治を引用し、あるいは切り刻んでいる。賢治自身もまた、そのような活用のされかたに適用しやすくできており、本人自身がそれを意図したかのようでもあり、また、実際に喜んでいるようにも思える。

2)本書は、こんな悪人どものの物語を中心に宮沢賢治の童話をとりあげたものなので、書名を「イーハトーブ悪人列伝」とした。

 賢治の作品は、幻想的で美しい景色の中に、どきっとするほど鋭い悪や汚辱の罪が挿入されている。しかし、何が善で何が悪であるかはカオスの縁のように不分明であり、オツペルときたら、やっぱりたいしたもんなのである。p1「はじめに---賢治のマジック」

3)この本は3.11直前に出版されたものなので、決してブームに乗って出版された本ではない。著者は1949年生まれの宗教学宗教史専攻の人。宮沢賢治研究会「賢治研究」編集委員とやらも務めている方である。

4)それだけに、賢治のことは知りつくしており、生半可な評論など書いてやるもんか、という意気込みを感じる。「イーハトーブ悪人列伝」とは、なかなかいい線ついているタイトルではないか。

5)著者にはすでに賢治についての多くの著書があり、この本においては、ほう、そういう作品があり、そういう読み方があるのか、と驚くことが多い。賢治追っかけをはじめたばかりの当ブログにとっては、ちょっと高級な一冊である。もうすこし、賢治の童話に十分親しんだあとに、このような縦横自由な読み方をするほうがいいのだろうか。

6)また、賢治はたんに賢治なのだから、それ以上、深読みしすぎることは禁物なのではないか、とも思う。せっかく賢治が童話という形で、子どもにも大人にも、農民にも、近代・現代人にも親しめるように書いたのだから、あえて、それを小難しくする必要もないのではないか。

7)そもそも、当ブログが賢治を読んでみようという「大決断」(笑)をしたのは、3.11後に、賢治なら、なんというだろう。この被災地からどのように立ちあがるだろう、という好奇心(?)があったからだ。しかるに、この本は、一般社会とのインターフェイスをほとんど持っていない。ひたすら賢治ワールドに浸っている。

8)著者による他書を並べてみなければよくわからないが、それでも3.11直前にでた賢治本としてはかなり目につく位置にある。こういう本もあるのだ、ということをキチンと記憶しておきたい。

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カイエ・ソバージュ 中沢新一

【送料無料】カイエ・ソバージュ
「カイエ・ソバージュ」
中沢新一 2010/03 講談社 単行本 836p
Vol.3 No.0552★★★★★

1)当ブログにおける中沢新一追っかけは一応終了している。3.11以後において、すこしは再読してみたい本もでてきているが、それは優先課題にはなっていない。

2)ただ、3.11後の「緑の党みたいなもの」をつくりたいという中沢発言を見て、これはすこしフォローする必要があるかな、と思った。さっそく図書館のリストを見ると、この「カイエ・ソバージュ」があった。

3)このタイトルの5冊シリーズはすでに既読である。

「人類最古の哲学」 2002/1 講談社

「熊から王へ」  2002/6 講談社   

「愛と経済のロゴス」 2003/1 講談社

「神の発明」 2003/6 講談社

「対称性人類学」 2004/2 講談社

4)この5冊が合本になって登場したのが、この「カイエ・ソバージュ」。

5)この人の本は面白いのだが、面白すぎるので困る。知や学をエンターテイメントにしすぎている。プロにかかればここまで楽しいか、とはおもうのだが、それほど面白なくてもいいのだ。もっと素朴な味わいが欲しい。

6)あの5冊の本がすべて、この「カイエ・ソバージュ」一冊にまとめられたのかどうかしらないが、一気には読めない。あちこちに散らばった気のきいたフレーズをかき集めるには体力がいる。そこで、ふ~、と溜め息をつきながら表紙を見ていた。

7)Nakazawa Shinichiという文字のデザインを見ていて、ふと気がついた。この人の名前は母音がa-a-a-a i-i-i でできている。なるほど~、この人が先駆的でありながら、全体的ではないのは、この名前にあったのではないか、と思った。

8)この人が、最近になって「緑の党みたいなもの」を言いだしたのは、Midorinotoumitainamonoの中のi-o-i-o-o-u-i-a-i-a-o-oが必要だったのではないか、と思う。それでもeが足りないようだが。

9)「中沢新一」だけでは何かが不足しており、「緑の党みたいなもの」が必要になってくるのだろう。

10)例えば、田中角栄Tanaka-Kakueiでは、a-a-a-a-u-e-iとなりoが不足している、という人がいる。佐藤栄作Satou-Eisakuではa-o-u-e-i-a-uと母音の5つが揃っている。中曽根康弘にしてもNakasone-Yasuhiroでa-a-o-e-a-u-i-oと母音5つが込められている。

11)立花隆はTachibana-Takashiとa-i-a-a-a-a-iとなり、こちらはかなり偏っている。それに比すると、松岡正剛Matuoka-Seigouなどはa-u-o-a-e-i-o-uとなって、五音が揃っている。

12)脱線次いでに、チャンドラ・モハン・ラジネーシュはChandora-Mohan-Rajineshuとなり、a-o-a-o-a-a-i-e--uとかろうじて5音が揃っている。ところが、バグワン・シュリ・ラジニーシ、となると、Baguwan-Syuri-Rajinisiとなり、a-u-a-u-i-a-i-i-iとなり偏り始める。晩年、彼はその不足を埋めるかのようにOshoと呼ばれるようになる。oが不足していたのである。

13)ラジニーシなのか、ラジネーシュなのか、という論争は全然ないが(笑い)、もしこの5音が必要だ、という主張を受け入れるとするながらば、和尚ラジネーシュOsyo-rajinesyuとするとo-o-a-i-e-uとなり、極めて円満な名前となる。これからは日本語としては和尚ラジネーシュと表記することにしよう(爆笑)。

14)さて、中沢新一を考えるなら、やはりこの合本「カイエ・ソバージュ」は欠かせない一冊となる。「野性のノートブック」という意味を持つこの「学問」の始まりは、「緑の党みたいなもの」へと展開していかなれば、全体性を得ることはないだろう。

15)ニューヨークの事件(9.11)の事件があった夜に、私がまっさきに思い浮かべたのが、宮沢賢治のことでした。p171「熊から王へ」

16)なんとも、宮沢賢治は、中沢新一ワールドでは便利に使われているものである。3.11後においても、中沢は「まっさきに宮沢賢治に思いうかべている」

17)「東北人」としての私は、あまり「宮沢賢治」が好きではない。それは、同質なものを彼の中にみるからであり、外在としての宮沢賢治を崇敬する必要を感じないからだ。

18)外国人が「日本」と言えば、「京都」といい、「禅」と言えば「竜安寺」の「石庭」にターゲットを絞るように、「東北」と言えば、すぐに「宮沢賢治」と絞り込んでくる「非・東北人」に対する反感がある。

19)現代世界が「インド」というとすぐに「ガンジー」ということに、鋭く反発したOshoも、似たようなニュアンスを感じていたかもしれない。

20)「非・東北人」中沢新一が、すぐに「宮沢賢治」を持ちだすことには、私個人は反感を感じる。だからこそ、以前に「哲学の東北」をよみつつ違和感を感じ、意識的、あるいは無意識的に、カイエ・ソバージュの中の「熊から王へ」にもなにごとか感じた。

21)しかし、今、3.11を経過した中で、当ブログは「センダード2012」カテゴリのなかで、宮沢賢治は、大きな土台を提供するプラットフォームとして登場してきている。それはエスペラントならぬ、賢治言語ともいうべき共通概念を提供してくれる。

22)そのうち、合本「カイエ・ソバージュ」を概観する必要がでてくるだろう。

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2011/11/26

人や銀河や修羅や海胆は TheaterGroup“OCT/PASS” 石川裕人・作・構成・演出<2>

<1>からつづく

Oct
「人や銀河や修羅や海胆は」<2>
石川裕人・作・構成・演出 2011/10/29  TheaterGroup“OCT/PASS”  センダードあすとナーガ仮設住宅集会所

1)劇団オクトパス、あすとナーガ公演。観劇中。被災者のみなさんの笑い声がもれる。集会所にWi-Fiが設定してある。山元町の時よりは、会場が狭いが、役者たち、奮闘中。

2)会場は天井の低いプレハブのスペース。通常の教室より、ちょっと大きいかな。エプロンをかけたおばあちゃん、めがねのおじいちゃん、お母さんにだっこされた女のこ。背の高い外人さんがビデオを撮っている。役者のダジャレに、会場のみなさん、大笑い。

3)どんぐり山の裁判中。みなさん、どこまで宮沢賢治の童話をご存じだろうか。うふふ、うはは、あちこちから、笑い声がもれる。おしっこに立つおばあちゃん、注意されても鳴りだすケータイ。一旦、退席しても、用事がおわれば、また堂々と一番前の席にもどってくる。仮設住宅集会場の宮沢賢治。

4)このお芝居、アコーディオンの曲がよく似合う。なべぶたのシンバル、空気入れの笛、コーラのゲップ、コーヒーひきの擬音。役者たちの大合唱に、会場のみなさん、大拍手。ゴーシュ君のコーヒーひきは、セロだったのか。

5)苦みばしって、黙って腕組みしていた大柄のおじさん、釣られてついに、あはは、と笑ってしまった。腰掛けだけの、この芝居。照明もなければ、バックミュージックのPAもない。外はまだまだ明るい。カーテンをひいたり、開けたりで、明るさを調整。ちいさな子供たちの笑顔。

6)♪赤い目玉のさそり。入り口でもらった救援物資の飴をなめる。風の又三郎。席がだんだん満席になる。会場の壁には、全国各地からの支援のメッセージ。千羽鶴。血圧計。現代アートの抽象画。魚拓。クマと狩人。

7)ついに、妹トシの登場。和服のトシがますます白い。雪のひとかけらをひろう賢治。銀河の果てを目指すトシ。後ろの新幹線が走り去る。アイスクリームを食べさせる賢治。生まれでくるたで、こんどはわりゃのことだけで苦しまなぁよう生まれでくる。行ってしまうトシ。

8) 自己紹介。そろそろエンディング。会場のみなさん、大きな拍手。あばちゃん、腰をのばして拍手。ひとりひとりの紹介に微笑のみんな。最後の賢治の台詞。今回は、銀河鉄道ならぬ背後の新幹線がとおりすぎる。私という現象はーーーーー。小さな女の子の声も聞こえる。代表のあいさつ。

9)会場からでてきた被災者たち。「最初はどんなものかわからなかったけど、なんだか最後は泣けてきたね。」 「よくまぁ、あれだけ一時間半のセリフを覚えるもんだね。」 「うん、おもしろかった。」 「またね。」 外に出てみると、まだまだ明るかった。

10)次回はオリジナルメンバーで、12月24日(土)、センダード・エルパーク・スタジオホール 時間未定。

<3>につづく

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2011/11/25

「ブッダの方舟」 中沢 新一  夢枕 獏 宮崎 信也

Hakobune
「ブッダの方舟」
中沢 新一 (著) 夢枕 獏 (著) 宮崎 信也 (著), 1989/10 河出書房新社 単行本: 267p
Vol.3 No.0551★☆☆☆☆

1)OSHOは読書量が半端無いですが、かなり英訳のものを読んでいたんじゃなかったでしょうか? 「英訳のものを読んでいた」というのは『ブッダの方舟』の中沢新一の発言なんです。という書込みを某SNSで見て、ああ、そういえば、そういう本があったなぁ、と思った。

2)一時期、精力的に(笑)、中沢新一おっかけをやったことがあり、その時点までにでた本はほとんど手に取ったと思っていたので、おやぁ~と思った。この本はかなり初期的に出た本で、それなりの本だろうと迂回した可能性がある。

3)夢枕 誰の名前を思い出したんだろう、アシュラムで・・・・バグワン・・・・・。

中沢 バグワン・シュリー・ラジネーシ。

夢枕 ラジネーシを思い出した。

宮崎 素晴らしいですよ、書いていることだけはね。僕にもかつて抹香臭い仏教からジャンプする乗り物になった。

夢枕 僕はあの人の「十牛図」とか、あれ読んで、すごかったですよ。「存在の詩」とか・・・・・。

中沢 すごく面白いと思うよ。全篇これ「盗魂」にみちみちているものね。

宮崎 逆説的だからいいんだともいえる。

中沢 みんな英訳されたので勉強するんだものね、あの人って。

宮崎 ラジネーシなんかはどうでもいいんだけど、「般若心経」も一回英訳で読んだらいいですよ。サンスクリットから直接訳した、英語で書いたやつを自分で日本語にするからいいです。自分で経典を翻訳しちゃうの。「解脱」なんて簡単、「レッド・ル―ズ」。「楽にしてやれ」だもの。

夢枕 英語の翻訳ものの「般若心経」って、読んでみたいですね。英語を日本語に翻訳した。

中沢 あるよ、いっぱい。漢字の既成概念を離れて読むのはいいよね。漢字は大袈裟だものね。 p147「山の空間、山の時間」

4)「中沢 みんな英訳されたので勉強するんだものね、あの人って」。「勉強」ってところはちょっと違うだろうな。インド人を相手にしていた時代はずっとヒンディーでレクチャーしていたわけだし、テキストもヒンディーだった。だが、アメリカ人や欧米人を相手にする時は英語が中心となって、英語のテキストを中心に読み込んだ。つまりはグローバルなスピリチュアリティを意識した、ってことだろう。勉強したのではなく、講義のために英語を採用した、ということだ。

5)宮沢賢治にしても、出口王仁三郎にしても、時代性の中で人造語であるエスペラント語に期待していた。イーハトーブなども、岩手のエスペラント語風発音、ということになっている。だが、21世紀におけるエスペラント語の状況はどのようなものだろうか。むしろ、1500語に限定したグロービッシュなどのほうがより現実的な選択肢になっているのではないだろうか。

6)地球上で一番流通しているのはスペイン語だろうし、中国語も流通している地域はかなり広いだろう。しかし、今のところ、世界の共通語といえるのは、やはり英語だ。ダライ・ラマも、今回、被災地を訪れながら、英語を勉強しなさい、と言っている。

7)さて、この本単体で考えた時、この本は宗教ゴロが3人、ゴロゴロしているだけで、あまりまともな本だとは言えない。先年、私が追っかけの中で、この本をパスしてしまったのは、それなりに訳ありと断ずることは可能である。

8)ただ、今回、改めてこの本を読みこんだとするならば、その収穫は、この本の対談が行われた3~4年の間に、夢枕獏のもとで書かれていたのが、「上弦の月を食べる獅子」であったということを確認したことは大きかった。

9)中沢は「2001年宇宙の旅」の話題を盛んに振るのだが、夢枕のほうはわりと簡単にスル―している。巽孝之「2001年宇宙の旅」講義の中で、この二つの小説の共通項が盛んに語られるのだが、割とこの時点では、夢枕獏は自分の作品の意義をよく知らずにいて、なお、中沢のこの対談シリーズの中あたりで、小説の方向性を変えていった、という可能性はある。

10)少なくとも、そういう可能性があるのだ、と気がついただけでも、この本を読んだ意義があった。あるいは、当ブログにおける「アガータ」トリップは、これで一旦落とすことも可能になってきた、と断言できる。 

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映画 ダダッ子 貫ちゃん 監督/竹村正人 ダダイスト 糸井寛二

Dadakan
『ダダッ子 貫ちゃん』
監督/竹村正人 映画(2011,DVD ,93分)
Vol.3 No.0550★★★★★

1)どうもスッキリしない。ここで瞑想でもしようか、と一休み。なかなか良かった。久しぶりに透明感。さて、と、表のポストを見たら、友人から手紙が届いており、ダダカンのDVDが入っていた。いやはや、このタイミングかよ。いやいや、このタイミングなんだろう。

2)先日、民家を開放した「古文書展」に誘われた。その時に企画に加わった友人と再会し、その時に約束してくれたものだった。う~ん、このタイミングなんだなぁ。明日は、センダードあすとナーガで石川裕人作・構成・演出”TheaterGroup“OCT/PASS”「人や銀河や修羅や海胆は」の公演がある。ダダカンの住まいからほんのちょっとの距離のところだ。

3)「伝説の芸術家、ダダイスト・糸井貫二」の記事を書いたのはもうすでに5年前のこと。友人はこの記事を見て、今年になって連絡をくれたのだった。しかしまぁ、どういう経緯で彼女がダダカンに興味をもったのだろうと、不思議な気分。いやいや、最近、どうやらダダカンは若い女性に人気だということだ。

4)2年前に銀座でダダカンの個展があって、私のところにあった画像も出展させてもらったけど、どうやらその時も、若い女性でいっぱいだったという。不思議だなぁ。

5)竹熊健太郎の棒(ベラボー)な人々」河出文庫、2007)なんて本も読んだな。

6)しかしまぁ、ダダカン90歳の、なんとしなやかなこと。さすが若い時には、徒手体操の国体の選手だっただけのことがある。身のこなしも芸術家だが、脳のやわらかさ。

7)ダダカンは雑誌「黒の手帖」(檸檬社)のことも紹介している。この雑誌、高校時代の私の愛読書だった。ほぼ全巻持っていた。竹熊健太郎は「黒の手帖」でダダカンを知って、あの本を書いたという。私も高校時代からこの本でダダカンのことは知っていた。

Photo

8)未来都市仙台の道路拡張の中に、ダダカンの住まいは全部入ってしまうという。そういう時代なんだな。これは、単純にセンダードあすとナーガのことを言いだせないかも。でも少なくも、繋がりがある、ということは確認できた。

9)この映画、結構長いが、とても興味深い。

10)ダダッ子 貫ちゃん 、こういう芸術もあるんだな。こういう人生もあるんだな。

11)90歳の逆立ちアート。健在なり。ぱちぱちぱち。

12)「殺すな」

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負げねっすよ、釜石 鉄と魚とラグビーの街の復興ドキュメント 松瀬学

【送料無料】負げねっすよ、釜石
「負げねっすよ、釜石」 鉄と魚とラグビーの街の復興ドキュメント
松瀬学 光文社 2011/10 単行本 228p
Vol.3 No.0549★★★★☆

1)「2019年(ラグビー)ワールドカップを釜石で開催したい。元気に復興した証として、世界中に釜石を発信したい。」表紙見返し

2)ホントかよ、と思う。そんな簡単なにいくかよ、と思う。でも、そういう常識があるからこそ、この本のタイトルがあるのだろう。「負げねっすよ、釜石」。

3)現在の市長は、古い知人である。若い時分に、一緒にアメリカオレゴンのコミューン活動に参加した。あの頃、まさか、今回のこのような運命が待ち構えているとは、誰も想像すらできなかっただろう。

4)それぞれの立場がある。ラガーはラガーのファイトがある。きっと復興するに違いない。

5)そして、コミューンに夢を持ったものには、やわらかいハートがある。いずれも、必要だ。

6)釜石が、ファイトに溢れ、暖かいハートに満ち足りた町として復興しつづけていくことを願う。

7)車で行ってはみたけれど、所詮、通りがかりの者にできることなど限られている。

8)しかし、今は「負げねっすよ、釜石」というボールを、しっかりと受け止めておく。、

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南三陸から 2011.3.11~2011.9.11 写真 佐藤信一

【送料無料】南三陸から
「南三陸から2011.3.11~2011.9.11」
写真・佐藤信一 ADK南三陸町復興支援プロジェクト 2011/09 日本文芸社 単行本  写真集
Vol.3 No.0548★★★★☆

1)著者は地元の町の写真屋の二代目。地元の人が、地元の眼で写真を残した。震災前の写真がまずトップにあり、その後の風景が続く。何枚の写真を載せたとて、あの美しかった以前の南三陸町の風景はもどらない。

2)何にも言えない。何も言えないからこそ、写真のもつ意義がある。

3)なにをどう表現する、という問題ではない。現存として目の前にこのような風景がある。日々これらの風景と対峙しながら、生きつづけている人たちがいる。そのことがすごい記録であると思う。

4)著者は、「2011.3.11~2011.9.11」というタイトルに、どんな意味を込めただろうか。3.11はともかくとして、9.11に、どんな意味があるだろう。そこには多分半年が経過した、という以上の意味はないだろう。半年が経過してこの状態なのである。これから何年かかれば、この写真集は「思い出」になるのだろう。今は思い出ではなく、眼の前の現実だ。

5)著者は表紙に、「頑張ろう 南三陸」と書いている。御本人たちが、そのようにおっしゃるなら、それを静かにうなづいて、受け止める以外にない。「頑張ろう 南三陸」、「頑張ろう 南三陸」、と、私もひとり、静かにつぶやいてみた。

6)5月11日、震災から二カ月後に、高台にある中学校の校庭から、整列した人々が、海に向かって祈っている写真がある。この中学校の校長は、10年来の知人。だいぶあとになってからだが、私もこの地に立ってみた。

7)写真なんか、一枚も取れなかったけれど、やっぱり、私にとっては、写真より、その地に立つことのほうが、何倍も必要なことのようだ。 

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フクシマ2011、沈黙の春 八木澤高明

フクシマ2011、沈黙の春
「フクシマ2011、沈黙の春」 
八木澤高明 (著) 2011/10/6 新日本出版社 単行本(ソフトカバー): 95p
Vol.3 No.0547★★★★☆

1)3.11後、何度か被災地に足を運んだ。北は八戸から、南は茨城、千葉あたりまで。特に岩手、宮城、福島の沿岸部に関しては、もう何事も言えない。

2)そもそもカメラマンマインドのない私は、カメラをもっていても、ほとんどシャッターを押すことはない。切り取られた対象が、どのような美をもつかなど、ほとんど量りしれないからだ。しかたなくシャッターを押すのは、せいぜい物的存在を記録する場合とか、自らのアリバイ証明くらいのものだ。

3)被災地、特に福島の、無人化しエリアに残された動物たちが主になっているこの写真集は、カメラマンマインドをしっかり持った人でなければ撮影できないだろう。私にはできないが、このような写真集に意味なしとはしない。

4)瓦礫や、壊れた町の風景の写真集は、今でもなかなか見ることはできない。でも、このように動物たちが主だと、なんとも彼らが言葉をもって話しかけてくるようで、しっかり見ておこうとする。

5)沈黙の春。レイチェル・カーソンの、「想像の世界」が、今や、日本のこの地において、現実のものとして降りかかってきている。

6)下は、5年程前に、今回の被災地の一つの中心となった、仙台平野の港、閖上港の朝市のすぐ脇の風景だ。遠くに防風林が見え、その向こうに太平洋がある。朝日が今登ろうとしている。ここに映っているプレジャーボートどころか、漁船はすべて流された。自分でトイレに行った帰りに偶然撮った写真だが、今では、大変な思い出になってしまった。

Sunrise

7)この写真は私のツイッターの背景にもしている写真でもある。

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2011/11/24

南方熊楠と龍 十二支考 1

十二支考 1 (東洋文庫 215)
「十二支考 1」  (東洋文庫 215)
南方 熊楠 (著), 飯倉 照平 1972/08 平凡社 新書: 342p
Vol.3 No.0546★★★★★

1)中沢新一が「緑の党みたいなもの」の旗頭として選んだのは、宮澤賢治宮本常一、そしてこの南方熊楠。

2)そう言えば、先日見たTheaterGroup“OCT/PASS”公演「人や銀河や修羅や海胆は」の石川裕人、その戯曲集「時の葦舟三部作」にも南方熊楠(桜)が、重要なキーパーソンとして登場してくる。

3)さて、重要だとは思いつつも、当ブログにおいて熊楠はまだ登場したことがない。どうもいまいちタイミングがなかった。そろそろこの辺で、メモだけでも残しておきたい。

4)そこで引っ張りだしてきたのがこの本。「十二支考」三部作は熊楠の主著と言われているが、私がこの本を購入したのは今から20数年前。その頃、なぜか「龍」の夢を見て、すっかり龍に執り着かれて、なんでもかんでも「龍」と繋げて物事が見えていた頃のこと。

5)「十二支考」とは言うものの、「子」、「丑」については書かれておらず、「寅」、「卯」、「辰」、「巳」についての熊楠の論述がまとめられているのがこの第一巻。

6)つまり、「虎」、「兎」、「龍」、「蛇」にまつわる民話や伝説をまとめ、それについてコメントがつけられている。

7)承平のころ俵藤太秀郷(たわらとうたひでさと)という者ありけり。ある時この秀郷ただ一人勢多の橋を渡りけるに、長(たけ)二十丈ばかりなる大蛇、橋の上に横たわって伏したり。両の眼は耀(かがや)いて、天に二つの日をかけたるがごとし。

 双(なら)べる角(つの)尖(するど)にして、冬枯の森の梢に異ならず鉄(くろがね)の牙上下に生いちごうて、紅の舌炎を吐くかと怪しまる。もし尋常(よのつね)の人これを見ば、目もくれ魂消えて、すなわち地にも倒れつべし。

 されども秀郷、天下第一の大剛の者なりければ、さらに一念も動ぜずして、かの大蛇の背の上を荒らかに踏んで閑(しず)かに上をぞ越えたりける。しかれども大蛇もあえて驚かず。

 秀郷もうしろを顧みずしてはるかに行き隔たりける処に、怪しげなる小男一人、忽然とし秀郷が前に来てい言いけるには、われこの橋の下に住むことすでに二千年なり、貴賎往来の人を量り見るに、今御辺(ごへん)ほどに剛なる人をいまだ見ず、われ年来地を争う敵あって、ややもすれば彼がために悩まさる、しかるべくは御辺、わが敵を討ってたび候え、とねんごろにこそ語らいけれ。

 秀郷一義も謂わず、子細あるまじと領状して、すなわちこの男を前に立てて、また勢多の方へぞ還りける。二人共に湖水の波を分けて、水中に入ること五十余町あって一つの楼門あり。p119「田原藤太竜宮入りの譚」

8)承平年間とは西暦923~935年だから、今から1000年ちょっと前の話。二十丈とは、一丈が十尺だから、60メートルくらいの大蛇(龍)が橋の上の寝そべっていた、ということになる。一町とは、およそ100メーターだから、五十余町とは、5~6キロメートル、水中に入っていった、ということになる。

9)大正年間に書かれた熊楠の文章はこのまま、す~と読み進めることができない。いちいちひっかかってしまう。しかし、それでもやっぱり、この話は面白そうだぞ。この田原藤太の竜宮城行きの話を読んでいて、一つのことを思い出した。

10)いつも図書館までウォーキングする。大きな河があり、はば数百メートルの大きな橋を渡るのだが、行きに、その土手の下に小さな社があって、最近、思いついて参拝してみると、なんとそこは「寶龍社」というお名前であった。おお、ここにもドラゴンか、とびっくりしていた。

11)帰り道にも、またこの橋を渡るのだが、ある時、ふと、気がつく、橋の上の歩道に何かが落ちている。すでに秋の夕暮れでよく見えなかったが、足元に来た時にみると、それは、妙に長いネギが一本おちているようでもあった。でも、何日か歩いて橋を渡ると、その歩道においていたのは、実はそれは、長ネギなんかじゃなくて、蛇の抜け殻であった。

12)ありゃぁ、なんだろうな、なんて思っていたところだったので、田原藤太の橋の上の大蛇の話を読んで、ギョ、としてしまった。

13)宮沢賢治にも「竜と詩人」という童話があった。ブータン国王の龍の話も話題になっている。なんだか、またまた、ドラゴントリップになりそうな、という予感がしてきた。 

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エコロジーの大転換 中沢新一 管啓次郎 現代思想2011/11

現代思想2011年11月号 特集=ポスト3・11のエコロジー
「現代思想」 2011年11月号 特集=ポスト3・11のエコロジー
中沢新一 (著), 管啓次郎 (著), 2011/10 青土社 ムック 245ページ
Vol.3 No.0545★★★★★

1)「エコロジーの大転換」というタイトルの元、二人が対談(2011/9/25/明治大学内)をしている。管については何も知らないが、対談者だけあって、中沢新一とは親和性のある方向性にある。

2)中沢 夢みたいな話かもしれませんが、宮澤賢治という存在を考えていくことは大事なのではないでしょうか。確かに賢治がやっていたのはドンキホーテみたいなことで、農業のことなども周りから笑われるようなことをやっていたわけですが、いまになってみれば可能性があるのはこの人しかいないのですよね。

 いまはとにかく馬鹿にされてもいいからその場所に立っていろいろなことを考えてみたいと僕は思っています。

 実際まだよくわからないのですよ。どうしていいのかわからないところはいっぱいあるのですが、国や企業が進行させている事態は決して「東北的」ではないのですね。「東北的」というのは独自の概念としてあると思っています。

 「東北的復興」というのが推進されなければいけない。かといって、「じゃぁそのその組織をどうやってしていくのだ」と問い詰められると、「いまはまだそこまで用意がなくて」としか言いようがないのですが。p49

2)中沢はほかに、南方熊楠や足尾銅山の田中正造、「森は海の恋人」畠山重篤と共に、宮本常一の名前を上げている。

3)中沢 僕は本の中に「緑の党みたいなもの」が必要だと書きました。すると、「日本にドイツみたいな緑の党なんていらないんじゃないか。だけど宮本常一みたいな思想が入っている運動だったら意味がある」ということをインターネットに書き込んだ人がいて、よくわかっている人だなと思いました。

 僕が考えているのも、宮本常一みたいな視点がないと、日本では有効に機能しないし、日本の自然とフィットした運動体にならないと思っています。だから難しいのです。

 普通の政治集団をつくればよいというのではなくて、本当に「宮本常一みたいな」と言えるくらい地べたにくっついたところから発想していかなければならない。先ほどから宮澤賢治とか南方熊楠の名を挙げてきましたが、それに加えて宮本常一の名も挙げたいと思います。p49

4)中沢は、内田樹らとの対談大津波と原発」(2011/05)の中で、「緑の党みたい」なものに触れている。それは少しづつ具体化しそうでもあるし、今だ模索中でもあるようだ。

5)宮本常一みたいな人、という意味では、「地元学」を提唱し「東北を歩く」の著書のある結城登美雄のような人が連想される。

7)ガイア思想のラブロックのようなエコロジストが結局は原発推進に流れたり、グリーンピースの運動が漁師の実体を無視した運動を展開していることに疑問を感じるなか、ふたりは今日的なエコロジー、特に、日本的で、なおかつ「東北的」なエコロジーとは何かを模索する。

8)中沢 僕は仏教はキリスト教やユダヤ教のような宗教とは違うと思っています。それは、ゴータマ・ブッダという人がいなくても、仏教は出現しただろうということです。しかしキリスト教はイエスがいなければ出現していないでしょう。

 つまり、地球上に長い歴史を刻んできた土着思想から湧き出してくる思想が、仏教となって展開したのだと思うのです。だからこそ、内在する自然から超越を考えていく方法ができるのでしょう。

 逆にいうと、アニミズムを思想としてソフィスティケートして深めていくときに現われる思想形態の一つとして、仏教があると思うのです。p40

9)もともとチベット密教の修行者であるべき中沢だから、どうしても仏教びいきになることは仕方ないとしても、ここで単純に西洋=キリスト教、東洋=仏教、という割り切り方では、状況は切り開いていくことは勿論できないだろう。

10)東北とはいうけれど、そこから生まれてくるべきものは、一神教も、旧来のいわゆる仏教も越えた、新しい地球人スピリットともいうべき、未来志向の精神性こそ立ち上らせるべき時期にきているのだ。

11)山尾三省の遺言集ともいうべき「アニミズムという希望」も再読される必要のある一冊ではあるが、当ブログにおいては、ゲーリー・スナイダーのいう環境生態主義 バイオリージョンという言葉で、その性格を表現するほうがより適していると思う。この言葉は容易に「アーバン」・バイオリージョンという新たな展開ができて、より現代の地球人の実存の中に溶け込みやすいと思う。

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2011/11/23

OSHO ZEN TAROT <17> 無(NO-THINGNESS)

Zen006nothingness   <16>よりつづく 

OSHO ZEN TAROT <17>

5. 無(NO-THINGNESS)

 仏陀は、ほんとうに潜在能力の高い言葉のひとつを選んだ——シュニヤータ。英語、それに相当する英語"ナッシングネス nothingness "は、それほど美しい言葉ではない。私がそれを"ノー・シングネス no-thingness "としたいのは、そのためだ——。

 というのも、無というナッシングは、ただのナッシングではないからだ。それはすべてだ。
あらゆる可能性で脈打っている。それは潜在能力、絶対的な潜在能力だ。それはまだ顕現していない。だが、すべてを含んでいる。初めに自然があり、終わりに自然がある。

 だとしたら、なぜ、その真ん中でそんなに大騒ぎするのかね? なぜ、その中間で、そんなに心配し、そんなに気をもみ、そんなに野心を抱くのかね? なぜ、それほどの絶望をつくりだすのかね?
無から無へ、それが旅のすべてだ。
Osho Take it Easy, Volume 1 Chapter 5

解説:

 「隙間のなかに」在ると、方向を見失い、怖くなることすらあります。しがみつくものはなにひとつなく、方向感覚もなく、この先にどのような選択と可能性が待ち受けているのか、そのヒントすらつかめません。

 しかし、宇宙が創造される以前から存在していたのは、まさに純粋な潜在能力という、この状態だったのです。

 今あなたにできることは、この無のなかへとリラックスしていくことだけです……言葉と言葉のあいだにある、この沈黙のなかへと落ちること……出ていく息と入ってくる息の中間にある、この隙間を見守ることです。

 そして、その体験の空っぽの瞬間を、ひとつひとつ大切にしましょう。神聖ななにかが、まさに生まれようとしています。Copyright © 2011 Osho International Foundation

<18>につづく

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OSHO ZEN TAROT <16> 新しいビジョン(NEW VISION)

 

 

Zen013newvision    <15>よりつづく 

 

OSHO ZEN TAROT <16>

 

12. 新しいビジョン(NEW VISION)

 

 あなたが究極なるものに向かって開くと、すぐにそれがあなたに注ぎ込まれる。あなたはもはや普通の人間ではない——あなたは超越したのだ。あなたの洞察は、全存在の洞察になっている。もはやあなたは離れていない——自分の根を見つけたのだ。

 そうではないから、普通は、誰もが根をもたずに動き回っている。自分たちの心臓はどこからエネルギーを受けつづけているのかも知らずに、自分たちのなかで誰が呼吸しつづけているのかも知らずに、自分たちの内側を流れている生(せい)のジュースも知らずに——。

 それはからだではない、それは心(マインド) ではない——それはすべての二元性を超越するなにかであり、それが「バガヴァット——十の方向をもつバガヴァット」と呼ばれている ……。
あなたの内なる存在は、開いたときに、まずふたつの方向を体験する——高み、深み。それから徐々に、それがあなたのしっかり定まった状況になるにつれ、あなたはまわりを見回し、ほかの八つの方向に広がりはじめる。

 そして、自分の高みと深みが出会うポイントを一度達成したら、あなたは宇宙のまさに外周まで見回すことができる。そうなったら、あなたの意識は十のすべての方向に開きはじめる。だが、道はこれまでずっとひとつだったのだ。
Osho Zen: The Diamond Thunderbolt Chapter 9 Chapter 9

 

解説:

 

 このカードの人物は、新たに生まれようとしています。地に閉ざされた自分の根から起き上がり、閉ざされることのないものへと飛び立つ翼が生えています。

 からだのまわりにある幾何学的形は、彼の手に同時に入る生の多くの次元を示しています。正方形は肉体的なもの、現われているもの、知られているものを表わします。円は、現われていないもの、スピリット、純粋なスペースを表わします。そして三角形は、三部からなる宇宙の本性——現われているもの、現われていないもの、そしてその両方を含んでいる人間を象徴しています。

 今、あなたは、生をその深みから高みまで、すべての次元にわたって見る機会を与えられています。それらはともに存在し、闇と困難なことは光と楽なことと同じくらい必要なのだ、ということが体験からわかるようになったとき、世界を見る私たちの視野はまったく違ってきます。

 

 生のすべての色を私たち自身に浸透させることで、私たちはさらに統合されます。Copyright © 2011 Osho International Foundation 

 

<17>につづく

 

 

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OSHO ZEN TAROT <15> 内なる声(INNER VOICE)

 

 

Zen003innervoice    <14>よりつづく 

 

OSHO ZEN TAROT <15>

 

2. 内なる声(INNER VOICE)

 

 もしあなたが、あなた自身の内側に自分の真理を見いだしていたら、この全存在のなかにそれ以上見いだすものはなにもない。真理はあなたを通して働いている。

 あなたが目をあけるときは、真理が自らの目をあけている。目を閉じるときは、真理が自らの目を閉じている。これは途方もない瞑想だ。その仕掛けをまさに理解できたら、あなたはなにもしなくていい。

 あなたがしていることはすべて、真理によってなされている。あなたは歩いている、それは真理なのだ。あなたは眠っている、その休んでいるのは真理なのだ。あなたは話している、話しているのは真理なのだ。あなたは沈黙している、その沈黙しているのは真理なのだ。

 これはもっとも単純な瞑想テクニックのひとつだ。ゆっくり、ゆっくりと、この単純な方式によってあらゆることが落ち着いてくる。そうなったら、テクニックは必要ない。癒されたら、瞑想は捨てるものだ、薬は捨てるものだ。そうなったら、あなたは真理として生きる——活き活きと、光を放ちながら、満たされ、至福に満ち、自らがひとつの歌となって。

 あなたの生全体がどんな言葉もない祈りになる。あるいは、祈りに満ちている状態、私たちの俗世間には属していない恩恵、美、と言うほうがいいだろう。超えたものから私たちの世界の闇に差し込むひと筋の光。
Osho The Great Zen Master Ta Hui Chapter 23

 

解説:

 

 「内なる声」(インナー・ヴォイス) は、言葉ではなく、ハートの無言の言語で語りかけます。それは真理しか話さない神託に似ています。もしそれに顔があったら、このカードの中心に描かれている顔に似ているでしょう——油断なく、見守り、水晶をもっている二本の手に象徴されるように、光と闇の両方を受け容れることができます。

 水晶そのものは、すべての二元性を超越することから生じる明晰さを表わしています。「内なる声」は遊びに満ちたものでもあります。感情のなかに深く飛び込み、そして再び空へと舞い上がるために、浮かび上がってくるからです。

 生の海のなかで踊っている二頭のドルフィンのように——。内なる声は三日月の冠を通して宇宙とつながり、この人物のキモノに描かれている青葉で表わされているように、大地ともつながっています。

 

 生において、あまりにも多くの声が私たちをあっちへこっちへと引き回しているように思える時があります。そうした状況で私たちが混乱すること自体が、沈黙を探し求め、内側で中心に据わることを思い出させてくれます。そうして初めて、私たちは自分たちの真理を聞くことができるのです。Copyright © 2011 Osho International Foundation 

 

<16>につづく

 

 

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OSHO ZEN TAROT <14> 変化(CHANGE)

 

 

Zen011change    <13>よりつづく 

 

OSHO ZEN TAROT <14>

 

10. 変化(CHANGE)

 

 生は愚かにも自らを繰り返す——あなたが気をつけるようにならないかぎり、生は車輪のように繰り返しつづける。仏教徒たちがそれを「生と死の輪廻(りんね)」と呼ぶのはそのためだ——時間の輪。

 それは車輪のように回る。誕生の次に死が来て、死の次に誕生が来る。愛の次に憎しみが来て、憎しみの次に愛が来る。成功の次に失敗が来て、失敗の次に成功が来る。ちょっと見てみるがいい!

 もし数日間でも見守っていられたら、ひとつのパターン、輪のパターンが現われているのがわかるだろう。ある日の晴れわたった朝、あなたはとても気分がよく幸せだ。ところが、別の日にはとてもだるく、死んだような感じがするために自殺を考えはじめる。

 すぐ前の日は、あなたはとても生命に満ちあふれ、至福で満たされ、深く満ち足りた気分でいることを神に感謝するほどだったのに、今日はとても不満で、なぜ人は生きつづけなければならないのか、その理由がわからない……。それがどこまでもどこまでもつづいていく。だが、あなたはそのパターンを見ない。

一度そのパターンを見たら、あなたはそこから出てくることができるのだ。
Osho Take it Easy, Volume 1 Chapter 7

 

解説:

 

 このカードのシンボルは、時間、運命、カルマを表わす巨大な輪です。この絶えず動きつづける円のまわりを銀河が巡り、周辺には黄道十二宮が見えます。周辺のすぐ内側には易の八つの卦、さらに中心に近づくと四つの方角があり、それぞれが稲妻のエネルギーで照らされています。

 

 回転するトライアングルがこの瞬間は上の方を、神聖なるものの方を指していて、中心には中国の陰陽、男性と女性、創造性と受容性を表わすシンボルが置かれています。世界でただひとつ変わらないものは変化そのものだとよく言われてきました。

 

 生は絶えず変化し、進化し、死に、そして再び生まれ変わっています。相反するあらゆるものが、この広大な円形のパターンのなかでそれぞれの役を演じているのです。輪の縁にしがみつこうものなら、目が回ってしまうでしょう! 台風の中心へと進み、これもまた過ぎ去ることを知って、リラックスしましょう。Copyright © 2011 Osho International Foundation 

 

<15>につづく

 

 

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OSHO ZEN TAROT <13> 創造性(CREATIVITY)

Zen004creativity   <12>よりつづく 

 

OSHO ZEN TAROT <13>

 

3. 創造性(CREATIVITY)

 

 創造性とは、自分がしている行動にあなたがもたらす質だ。それはひとつの態度、内なるアプローチだ——あなたがものごとをどう見るかという……。誰もが画家になれるわけではない——また、その必要もない。

 誰もが画家だったら、世界はひじょうに醜いものになるだろう。生きることなどむずかしくなる。そして、誰もがダンサーになれるわけでもない。その必要はない。だが、創造主(クリエイター) には誰でもなれる。

 

 なにをしようとも、あなたがそれを喜んでやったら、愛にあふれてやったら、もし、やるというあなたの行動がたんに経済的なものにとどまらなかったら、そうであったら、それは創造性にあふれている。

 もしあなたの内側になにかが、そこから成長するなにかがあったら、もしそれがあなたに成長をもたらしたら、それはスピリチュアルなものだ。創造性にあふれ、神性を帯びている。

 創造性が増すにつれて、あなたはもっと神性を帯びるようになる。世界の宗教は口を揃えて、神は創造主だ、と言っている。私は神が創造主なのかどうか知らないが、ひとつだけ知っていることがある——創造性が豊かになればなるほど、あなたは神々しくなる。

 あなたの創造性がそのクライマックスに達すると、あなたの生全体が創造性にあふれるようになると、あなたは神のなかで生きている。だから、神は創造主に違いないのだろう。創造的な人びとは、これまでもっとも神に近かったのだから。

 自分のすることを愛するがいい。それをしているあいだは、瞑想的であるがいい——それがなんであろうとも!
Osho A Sudden Clash of Thunder Chapter 4

 

 

解説:

 

 上から差し込む神の光の下にある火と水のアルケミーによって、このカードの人物は創造力に文字通り「乗っ取られ」ています。事実、創造性を体験することは、神秘へと入ることです。テクニック、熟練、知識は、ただの道具にすぎません。鍵は、万物の誕生を活気づけるエネルギーに自分をゆだねることです。

 

 このエネルギーには形も構造もありませんが、それでも、すべての形と構造がそのエネルギーから生じます。あなたの創造性がどんな形を取ろうとも、違いはありません——絵を描いたり歌ったり、庭に木を植えたり料理したりすることかもしれません。

 

 大切なのは、自分を通して表現されたがっているものに対して開いていることです。私たちは、自分が創造したものを自分のものとして所有することはない、ということを覚えておきましょう。それらは私たちのものではありません。

 

 ほんとうの創造性は、神性なるもの、神秘なるもの、そして知ることのできないものとひとつに結ばれることから湧き起こってきます。その時こそ、それは創造する者にとっての喜びであると同時に、ほかの人たちにとっての祝福でもあるのです。 Copyright © 2011 Osho International Foundation

 

<14>につづく

 

 

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地球人スピリット宣言草稿<12> 新しいビジョン、そして無の中へ

<11>からつづく 


「地球人スピリット宣言草稿」 
<12>新しいビジョン、そして無の中へ

1)ジブラン「預言者」邦訳は10種以上あるが、今自分が所有して手元にあるのは3種。小林薫訳「プロフェット(予言者)」(1972/06ごま書房)は最も古く、佐久間彪訳
「預言者」大型特装版(1984/05至光社)には、ジブランの絵が刷り込まれた美しいもの。堀内利美訳「預言者アルムスタファは語る」(1993/03近代文藝社)はほぼ自費出版に近いものだが、素朴で平素な味わいの翻訳で、執筆者の住まいもどうやら近く、身近な感じがする。

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2)今後の当ブログの<3.0>の方向性を占うものとして、3冊をそれぞれめくってみる。それぞれに味わいがあるのだが、どうも私は最も長く手元にある小林薫訳が一番親しみがある。

3)どの本も、ハリール・ジブラーンという著者の名が冠せれていた。しかし私は、どうせ、このごろ流行のヒッピー好みの神秘主義の本だろう、あるいは、ウースペンスキーやグルジェフなどの系譜を踏む精神統一法、ないしはヨガくずし程度だろうと振り向きもしなかった。小林薫「プロフェット(予言者)」p3「まえがき」

4)小林訳の出版は1972/06だから、それより遥か以前の、留学先のニューヨークでの話である。その中の一冊を開いて、小林はジブランに夢中になっていくのだが、どうも、この「ヒッピー好み」とか、「 ウースペンスキーやグルジェフなどの系譜」というくだりが気になる。当ブログはいまだにその辺をひとつのメルクマールとしているのだが。

5)あるいはまた、ZENのことが思われ、どうも玉川信明「OSHO、ZENを語る」(2002/02 社会評論社)が気になりだし、めくり始める。いろいろ問題含みの本ではあるが、ダイジェスト版として読むなら、これはこれでいいではないか、と思う。

Zen
6)Oshoの邦訳ZENだけから抜き出して、しかも著作権にひっかかりそうな危うい存在の一冊ではあるが、ひとりの読者による読書ノートとして見た場合(それをキチンと表記していればの話だが)、それはそれでいいのではないか、と寛容な気分になる。

7)だが、それでも、どうもジブランとZENでは、いまいち落着き悪い。どちらに行くのか、どちらも包括した方向というものを模索するのか、あるいは、どっちも違うのか。腑に落ちないので、ひとまず停止し、OSHO ZEN TAROTを引いてみる。今回は、大アルカナだけの5枚のカード引きだ。

10_38)大アルカナだけだと、かなり意味が強い。

1枚目、中央、主題(問題点) 「創造性 Creativity」

2枚目、左、まだ気づいていない内面の質、「変化 Change」

3枚目、右、すでに気づいていて外面に発揮すべき質、「内なる声 Inner Voice」

4枚目、下、結論を導くための指針、「新しいビジョン New Vision」 そして、

5枚目、上、結論: 理解、「無 No-Thingness」

9)一枚一枚のカードを読んでみる。なるほど~。納得。

<13>につづく

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2011/11/22

未知ノ国守 ダッチャー テーマソング SUPER蝦夷 (エミシ) 歌:ウタダッチャーライト

「未知ノ国守 ダッチャー」SUPER蝦夷 (エミシ)
歌:ウタダッチャーライト
Vol.3 No.0544★  


緑燃ゆる 伊達な都City
金色の稲穂を 前立てに差し
ダッチャー(スーパーエミシ) ダッチャー(陸奥魂)
熱い気持ち 故郷に錦
人は戦う時が来る たれかこくなよ
おどけでねぇパワー ダッチャー
けっぱれわらすこ オラほの力
今こそ発揮だ陸奥から
おだったヤンダー ゴッシャクパワー ダッチャー
ダッチャー んだっちゃだれ ダッチャー んだっちゃだれ
ダッチャー んだっちゃだれ ダッチャー
未知ノ国守ダッチャー

わらすこ きかねぇ くらいでちょうど良い 
思いやる気持ちが あればそれで良い
ダッチャー(スーパーエミシ) ダッチャー(陸奥魂)
惚れ惚れするほど慎ましく 胸がつまるほど情け深く
東北人の誇りを胸に ダッチャー
むつける かつける 勝手にしろ
泣くだけ泣いたら 前へ進もう!
東北人の ポジティブワードは ダッチャー
ダッチャー んだっちゃだれ ダッチャー んだっちゃだれ
ダッチャー んだっちゃだれ ダッチャー
未知ノ国守ダッチャー

海がある 山がある 故郷の美味い米
歴史の景色が詩になる
宮城は良いとこ マナグに焼き付けてけろ
けっぱれわらすこ オラほの力
今こそ発揮だ陸奥から
おだったヤンダー ゴッシャクパワー ダッチャー
むつける かつける 勝手にしろ
泣くだけ泣いたら前へ進もう!
東北人の ポジティブワードは ダッチャー
ダッチャー んだっちゃだれ ダッチャー んだっちゃだれ
ダッチャー んだっちゃだれ ダッチャー
未知ノ国守ダッチャー

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OSHO ZEN TAROT <12> 変容(TRANSFORMATION)

Zen014transformation    <11>よりつづく 

OSHO ZEN TAROT <12>

13. 変容(TRANSFORMATION)

 禅のマスターは、ただの教師ではない。どの宗教にも教師しかいない。彼らはあなたの知らないことを教え、信じるように求める。というのも、そうした体験を客観的現実として表わす方法がないからだ。教師にしても、それらを知っているわけではない——信じたのだ。

 彼らは自分が信じたことを誰かほかの人に伝える。禅は信者たちの世界ではない。信心深い者たちのためにあるのではない。それはすべての信仰、不信仰、疑い、理性、心(マインド) を落とし、境界のない自分たちの純粋な存在へと入って行くことのできる、怖れを知らない魂(ソウル) たちのためにある。
 
 だが、それは途方もない変容をもたらす。だからこそ、私に言わせてもらえれば、ほかの者たちが哲学にかかわっているあいだに、禅は変態(メタモルフォシス) に、変容にかかわるのだ。
 
 それこそが真正なアルケミー。卑金属から金へとあなたを変える。だが、その言語を理解しなければならない。あなたの理性の働きと知的な心(マインド) によってではなく、愛にあふれたハートで——。あるいは、それがほんとうかどうか気にすることなく、ただ聴くことによって——。

 すると、突然、あなたがそれを見る瞬間がやって来る。それは、生涯を通してあなたを躱(かわ) しつづけてきた。突然、ゴータマ・ブッダが「八万四千の扉」と呼んだものが開く。
Osho Zen: The Solitary Bird, Cuckoo of the Forest Chapter 6

解説:

 このカードの中心にある人物は、巨大な虚空の花の上に坐り、変容のシンボル——幻想を断ち切る剣、脱皮して若返る蛇、壊れた限界の鎖、二元性を超越する陰陽のシンボルを手にしています。

 もうひとつの手は、開かれ、受け容れるように、膝の上に置かれています。さらにもうひとつの手は下へ伸ばされ、眠っている顔の口に触れ、私たちが休んでいるときに訪れる沈黙を象徴しています。

 今は深い手放し(レットゴー) をするときです。あらゆる痛み、悲しみ、あるいは苦況をただそこにあらしめましょう。それは「事実なのだ」ということを受け容れて——。

 これはゴータマ・ブッダが何年にもわたる探求の後、もうこれ以上自分にできることはなにもないと知って、ついにあきらめたときのその体験にとてもよく似ています。

 まさにその夜、彼は光明を得ました。変容は死のように、自らの時を得てやって来ます。そして、死のように、あなたをある次元から別の次元へと連れて行くのです。
Copyright © 2011 Osho International Foundation 

<13>につづく

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2011/11/21

オウム真理教と失われた秘境シャンバラ

オウム真理教と失われた秘境シャンバラ

1)遠藤誠一被告の死刑判決が、最高裁判所で確定して、「オウム事件の裁判 すべて終了へ」というニュースのタイトルが躍っている。オウム真理教とは何であったのかという問いに応えるのは簡単ではないが、当ブログが読んだ「麻原集団事件関連リスト」本の中から、10冊を選び出してみた。(タイトルをクリックすると、当ブログの記事がリンクしてあります)

「慟哭」 小説・林郁夫裁判 佐木隆三 2004/2 講談社
「オウムと私」 林 郁夫 1998/9 文藝春秋
「私にとってオウムとは何だったのか」 早川紀代秀 川村邦光 2005/3 ポプラ社
「オウムからの帰還」 高橋英利 1996/3 草思社 
「さよなら、サイレント・ネイビー」 地下鉄に乗った同級生 伊東 乾 2006/11 集英社
「麻原彰晃の誕生」 高山文彦 2006/2 文春新書
「オウム帝国の正体」 一橋文哉 2000/7 新潮社 文庫本化 2002/11
「大義なきテロリスト」 オウム法廷の16被告 佐木隆三 2002/11 日本放送協会出版 初出「放送文化」1999/12~2002/9
「破産者オウム真理教」 管財人12年の闘い 阿部三郎 2008/06 朝日新聞出版
「私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか」 地下鉄サリン事件から15年目の告白 松本聡香 2010/04 徳間書店

2)片や、神秘の世界としてシャンバラの伝説が息づいている。当ブログが読んで来たアガルタ探検隊必携本を探せ」の中から10冊選び出してみた。

「失われた地平線」ヒルトン、 増野正衛・訳 1959/12 新潮社
「映画 失はれた地平線」LOST HORIZON 主演ロナルド・コールマン 監督フランク・キャプラ 1993年発売 原画1937年
「アガルタ --虹の都--」ロバート・E・ディクホフ著  関口野薔薇監修  石川匡祐訳 十菱麟あとがき 1961/11 密教科学社 原書 1951
「シャンバラの道」ニコライ・レーリヒ 澤西康史・訳 1996/11 中央アート出版 原書 SHAMBHALA, THE RESPLENDENT 1930,1990
「謎の地底王国アガルタ」 ヒトラーも熱中した”ブリル・パワー”とは何か? アレック・マクラレン 高橋良典・監訳1983/10 徳間書店 原書 THE LOST WORLD OF AGHARTI 1982
「シャンバラの謎」チベットの地底王国 秋月中央 1994/12 二見書房
「理想郷シャンバラ」チベット奥地にひそむ賢者の国 田中真知 1984/12 学研
「超シャンバラ」 空洞地球/光の地底都市テロスからのメッセージ ダイアン・ロビンス著 ケイ・ミズモリ訳 2006/5 徳間書店 原書 Telos:The Call Goes Out from the Hollow Earth and the Underground Cities by Dianne Robbins
「驚異の地底王国シャンバラ」高橋良典 2007/4 明窓出版
神秘の地底王国「シャンバラ」大預言 月刊ムー8月号 2008/07 学習研究社 四川大地震、チベット動乱は、光と闇の最終戦争の幕開けだった!?

3)そして、上記の二つの世界の大きなギャップを埋めるものとして、「チベット密教関連リスト」からも10冊選んでみた。こちらは、当ブログの今後の再読リストともなっている。(リストはすべて順不同)

「リトル・ブッダ」 キアヌ・リーブス[主演] 監督: ベルナルド・ベルトルッチ  2003年07月 ハピネット 143分
「現代人のための『チベット死者の書』」 ロバート・A.F.サーマン著 2007/5 朝日新聞社 原書1994
「チベット密教の神秘」 快楽の空・智慧の海 世界初公開!! 謎の寺「コンカルドルジェデン」が語る 正木晃・立川武蔵 1997/3
「瞑想と悟り」  チベット仏教の教え ダライ・ラマ14世著 柴田裕之 1997/7 NHK出版  原著 THE WAY TO FREEDOM Core Teaching of Tibetan Buddism 1995
「大乗仏典 ツォンカパ」 (中国・日本篇 第15巻) 中央公論新社 1996/11
「アーラヤ識とマナ識の研究 クンシ・カンテル」 ツォンカパ著  ツルティム・ケサン 小谷信千代共訳 1986/06  文栄堂書店
「ツォンカパ中観哲学の研究1」  菩提道次第論・中篇  観の章 ツルティム・ケサン・高田 順仁・共訳  1996/07 文栄堂書店
「チベット密教・成就の秘法」 ニンマ派総本山ミンドゥルリン寺制定・常用経典集 田中公明・訳注 コクチェン・リンポチェ/ペマ・ギャルポ 序文 2001/11
「虹と水晶」 チベット密教の瞑想修行 チベット密教の瞑想修行 ナムカイ・ノルブ /永沢哲 1992/02 法蔵館
「智恵のエッセンス」 ボン教のゾクチェンの教え シャルザ・タシ・ギャルツェン /森孝彦 2007/01 春秋社

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地球人スピリット宣言草稿<11> シャンバラと<3.0>の相似形

<10>からつづく


「地球人スピリット宣言草稿」 
<11>シャンバラと<3.0>の相似形

1)<3.0>の模索は、実はすでにスタートしており、実際に稼働してすでに一年半以上経過している。ネット上で発見できる場合もあるし、できない場合もある。ネット上で発見できるものは、その片鱗や、蛇の抜け殻のようなもの。三段ロケットの切り離された燃料タンクのようなもので、その本体ではない。

2)「ブータン国王の<龍>とは何か?」という書込みは割と成功した。今まで散漫に読み散らしてきたチョギャム・トゥルンパ「シャンバラ 勇者の道」の、随時書きぬきしておいた本文を、単にひとまとめにして、整列させただけだが、それでも、ひとつの「龍」を呼び覚ます手助けにはなる。

3)カリール・ジブラン「預言者」の<統合>もやってみた。こちらもかなり無理はあったのだが、割とうまくいった。この作業の中で分かることは、読者として抜き書きしているところは、30弱あるテーマのうち、触れているのは、限られているテーマであった、ということだ。

4)つまり、ジブランが作ったアルムスタファの場面設定には、総論的に共感しているが、それぞれの質問に対する答えには、時には疑問を持ち、時には反論さえ持っていたということだ。各論において、異議がある。

5)それはまたOshoが「The Mesiah」の中でやっていることであり、それは今後当ブログが突入して行かなければならないテーマとして残されている。Oshoはジブランが設定した場面を使いながら、そこに実存的に存在しようとした。総論賛成、各論書き直しである。

6)さて、当ブログが、今日のニュースなどに連動して、ひとつの<統合>的書き直しをやろうとしたら、「麻原集団事件関連リスト」あたりが筆頭に挙がってこよう。遠藤誠一被告の死刑判決が、最高裁判所で確定して、「オウム事件の裁判 すべて終了へ」というニュースのタイトルが躍っている。

7)教団関係者の中にはまだ逃亡中の元信徒が数名いる段階では、すべて終了、ということではないのだろうが、いわゆる集団として教団がかかわった事件としては終了ということになるのだろうか。

8)この問題はなかなか直視できない部分がある。当ブログでも取り上げた宮地尚子「震災トラウマと復興ストレス」における環状島モデルも、この事件にあてはめてみることは、当然、可能であろう。

19)そもそも円錐山における頂上が失われてしまったいるからには、せいぜい環状島の尾根に立って、その頂上を仰ぎ見るしかない。そして、それは内海に失われてしまっているのだ。ただ、この環状島は、不思議な類似性を持ってもいるようだ。

10)歴代のリグデン王、すなわちシャンバラの偉大な支配者たちが住む宮殿は、国の中央の環状の山の頂上に建てられている。ミパムによれば、この山はカイラーサ山と呼ばれている。カラーパと呼ばれるその宮殿は、敷地が何平方マイルにも及ぶ壮大なものである。その南面にはマラヤと呼ばれる美しい庭園があって、この庭園の中央には、ダワ・サンポが奉納したカーラチャクラの寺院が建っている。

 別の伝説によると、シャンバラは何百年も前に地上から姿を消してしまったということだ。ある時点で、国のすべての民が悟りを開いて、王国は別のもっと天上的な領域へと消えていった。これらの物語によれば、シャンバラの歴代のリグデン王はいまも人間の行ないを見守っており、いつの日か人類を滅亡から救うために地上に戻ってくるという。
チョギャム・トウルンパ「シャンバラ 勇者の道」p25

11)つまり、ここで当ブログがここで言いたいのは、当ブログにおける<3.0>とは、この失われた内海の海底奥深くでもあるし、失われてしまった山頂のシャンバラのことでもあるのだ。ここに相似形をみることができれば、当ブログにおける<3.0>が、いかにあやふやで曖昧なものであるかがわかる。

12)「麻原集団事件関連リスト」は、当ブログにおける「尾根」の部分にあたる。そこは何も極めていない。そこから、内斜面に入って内海の水面下に降りていくことも可能であろう。あるいは創造力たくましくして、見えざる頂上のシャンバラを幻視することも、あるいは可能であるのではないか、というのが、大きな仮説として抱えている<3.0>のテーマである。

13)リンクすべき尾根伝いには、「OM MANI PADME HUM」リストがあり、108つのマントラが数珠つなぎになっている。また「チベット密教」関連一覧リスト」には数百冊ほどの三角標が、環状にリンクを形成している。

14)今晩書くとすれば、書けるか書けないかはともかくとして、「オウム真理教と失われた秘境シャンバラ」なんて記事を書くことができれば、そこそこアクセス数を稼ぐことができるであろう。

<12>へつづく

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カリール・ジブラン「預言者」統合版 プロフェット(予言者)<6>

<5>よりつづく 

Photo
「プロフェット(予言者)」<6>
ジブラーン (著)小林薫(翻訳) 1972/06 ごま書房 単行本 228p 
★★★★★

1)カリール・ジブラン「預言者」は当ブログが確認しただけでも、11冊のの邦訳がある。それぞれ抜き書きした部分があるので、一つに統合しておく。

2)悩めるアメリカの若者に半世紀にわたって もっとも広く もっとも深く読まれた”現代の聖書” 「プロフェット(予言者)」小林薫訳表紙コピー

3)アル=ムスタファー---この選ばれ、愛られる者---自らの時代への曙光---は、オルファリースの町で、12年ものあいだ、おのれが生れた島に連れ戻してくれる船を待っていた。そして、その12年目の刈り入れの月、9月の7日に、町の城壁の背後にある丘に登り、はるか海の彼方を眺めやった。と、霧に包まれて、近づいてくる船が見えた。

 そのとき、彼の心の奥のもろもろの扉は、さわやかに開け放たれ、彼の喜びは、海上はるかに飛び上がり始めた。彼は、目を閉じ、魂の静寂の中に祈った。
しかし、丘を下りていくや、忽然として、悲しみが訪れてきた。「プロフェット(予言者)」小林薫訳p14「序章 船来る」

4)アルムスタファ、選ばれ、愛され、時代の曙であったアルムスタファ。かれは迎えの船を、12年の間オルファレーズの町で待ち続けていた。かれを故郷の島へ連れ帰るはずの船を。

 その12年目、アイルールの月、すなわち刈り入れの月の七日、かれは町の城壁のかなたの丘にのぼり、遥かに海を眺め渡した。すると、おお、薄靄(うすもや)のなかに、迎えの船が現れたではないか。

 かれの心の扉は弾(はじ)けとび、そこから、嬉しさが溢れ溢れて海のかなたに流れて行った。かれは、目を閉じて、魂の静まりのなかで祈った。しかし丘を降(くだ)ったそのときには、悲しみが迫り、思いに沈んで言った。

 迎えが来たというのに、私の心は安らかでない。かえって、悲しさがおそってくる。この町から、傷跡を胸に残さずに出ては行けない。この城壁の内側に過ごした苦しみの日々は長く、孤独の夜々もまた長かった。この苦しみ、この孤独から逃れ去ったとき、果たして悔いが残らないだろうか。「預言者」佐久間彪訳ポケット版 p9

5)しかし、丘を下りて行くと、悲しみが湧き、アルムスタファは、心密かに思った--- 私は、悲しむことなく、穏やかに、この町を去れるだろうか。いや、心を傷めずに、この町を去ることは、できないだろう。

 私が、城壁の中で過ごした辛い日々は、長かった。孤独の夜も、長かった。私は、名残りを惜しまずに、自分の苦しみと、孤独から、訣別することはできないだろう。
「預言者アルムスタファは語る」堀内利美訳p12「別れの日」

6)愛があなたを招くときは、愛に従いなさい。たとえその道が、苦しく、険しくとも。愛の翼があなたを包むときは、愛に身をまかせなさい。たとえ羽交いに隠された愛の剣が、あなたを傷つけるようになろうとも。

 愛があなたに語りかけるときは、愛にを信じなさい。たとえ北風が花園を荒らすように、その声があなたの夢を砕くようになろうとも。愛は、あなたに王冠をいただかせるとともに、あなたを十字に架りつけるもの。愛とは、あなたをは育むとともに、刈り込むもの。
「プロフェット(予言者)」小林薫訳p30「愛について」

7)お互いの心を与えあいなさい。しかし、お互いが心を抑えあってはいけない。大いなる生命の手だけが、あなたがたの心をくるむことができるのだから。いっしょに立っていよ。しかし、近よりすぎてはいけない。寺の柱も離れて立ち、樫の木も、絲杉の木も、互いの陰の中では育たないのだから。「プロフェット(予言者)」小林薫訳p40「結婚について」

8)あなた方はいっしょに生まれ、これからも永久にいっしょに過ごすのだ。死の白い翼があなた方の人生を破壊するときも、あなた方はいっしょにいるのだ。ああ、あなた方は主の沈黙の記憶のなかでさえもいっしょなのだ。

 しかし、あなた方は二人のあいだに透き間を作っておきなさい。そして天の風があなた方のあいだを縫って踊れるようにしておきなさい。
おたがいに愛し合いなさい。けれども愛で動きが取れないようになってはいけない。むしろ愛を海にしておいて、その潮があなた方の岸辺のあいだを流れるようにしておきなさい。おたがいのコップを満たしなさい。 「よく生きる智慧」柳澤桂子訳p50「結婚について」

9)あなたの愛を与えることはできても、あなたの考えを与えることはできない。子どもは自らの考えを持つのだから。その身体を住まわすことはあっても、その魂までも住まわすことはできない。子どもの魂は、あなたが夢にも訪れることのできない、明日の館に住んでいるのだから。「プロフェット(予言者)」小林薫訳p42「子について」

10)人はみな、大地の芳香を吸って生き、草木のように光によって命を保つことが望ましい。しかし、食べるためには、他の生命を奪い、渇きを癒すためには、生まれたばかりの仔から、その母の乳を盗りさらざるをえない。

 だから、それを敬虔の念をもって行わなければならない。そして、食卓を祭壇となし、森と野にある清らかなもの、無垢なるものにて飾り、人間の内なる、より清き、より汚れなきものの犠牲としなければならない。

 野獣を殺すときは、心のなかでこう説えよ。<おまえを殺めた同じ力におって、私もまた殺され、捧げられる。おまえを私の手に渡した同じ法が、私をより力強きものの手に渡すだろう。おまえの血も、天の木を養う樹液にほかならない。>と。「プロフェット(予言者)」小林薫訳p56「飲み食いについて」

11)いま、私が語っているのは、あなたのなかの人間についてである。なぜなら、罪と罰とを知っているのは、あなたの神なる身でも、霧のなかの小人でもなく、人間なのだから。あなたがたが、悪行を犯した者について語るとき、あたかも彼があなたがたの一人ではなく、見知らぬ人として、あなたがたの世界への侵入者であるかのように語るのを、私はよく耳にしてきた。

 しかし、聖なる者や正しき者でさえ、あなたがたひとりひとりのうちにあるもっとも高いところを超えることはできない。また、邪悪な者や弱い者でさえ、あなたのうちにあるもっとも低いところより下へ落ち込むことはありえない。

 木全体が黙ってはいるものの、その目をかすめて、ただ一枚の葉といえど黄ばむことはないように、悪行をする者は、あなたがた、すべての中に隠されている意思の働きがなくては、かかる行いをすることはできない。「プロフェット(予言者)」小林薫訳p96「罪と罰について」

12)オルファリーズのみなさん、人は太鼓を布で覆ったり、リラの竪琴の弦を緩めたりすることならできます。しかし、ヒバリに歌うなと命じることは、できはしないのです。「預言者のことば」有枝春訳p89「法律について」

13)あなたは、法律をつくることが大好きだが、それ以上に、法律を破ることに喜びを感じる。それはちょうど、海辺で遊ぶ子どもたちが、砂の塔を一心不乱に立てながら、笑ってそれを破壊するのに似ている。

 しかし、砂の塔を建てるあいだに、海はさらに砂を運んでくる。そして、塔をこわせば、海は、あなたといっしょに、声をたてて笑う。ほんとうに、海はつねに、無邪気なものたちに唱和して笑うのだ。
「プロフェット(予言者)」小林薫訳p98「法(おきて)について」

14)オルファリースの人びとよ、太鼓を黙(もだ)させることも、竪琴の糸を緩めることもできるが、空を舞うひばりに、歌うのをやめろとは、だれも命じられないのだ。「プロフェット(予言者)」小林薫訳p100「法(おきて)について」

15)そこでひとりの男が言った。お話しください。「自らを知る」ことについて。アルムスタファは答えて言った。

 あなたの心はひそかに知っているのです。日々夜々の秘密を。しかしあなたの耳は聞きたがっています。あなたの心の「知」の声を。自分の魂がすでに知っているものを、あなたは言葉で知りたいと思う。自分の夢の裸の体に、指で触れたいと思う。
それはそれでよいのです。

 魂の隠れた泉は溢れ出るもの。そしてささやきながら海に流れ入るもの。あなたの無限の深みにある宝は、あなたの眼に触れたがっているのです。しかし、その知られざる宝を、秤で量ってはなりません。そして、あなたの「知」の深みを、測り竿や測り綱で探ってはなりません。なぜなら、「自ら」は極みなく果てしない海だからです。

 言ってはなりません。「私は真理を見つけた」と。言うならば、「私は真理のひとつを見つけたと」。言ってはなりません。「私は魂の道をみつけた」と。言うならば、「私の道を歩む魂に出遭った」と。
なぜなら魂は、およそ道という道を歩む。魂は一本の線の上は歩まず、葦のように育つものでもない。魂は広がって行くのです。無数の花弁を持つ蓮の花のように。  「預言者」 佐久間彪・訳p53「「自らを知ることについて。

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16)つぎに、ひとりの学者が、話すことについてお話しくださいと言った。アル=ムスタファーは、こう答えた。

 あなたが話すのは、あなたが、あなたの考えと、和し安んじていられなくなったとき。心の孤独の中に、もはや住みえないとき、あなたは唇の中に住み、その発する音で、気慰みや気晴らしをする。そして、あなたが話すとき、ほとんどいつも思索は半ば殺される。なぜなら、思考は空を飛ぶ鳥であり、言葉の檻の中では、その翼をひろげることはあっても、舞い立つことはできないのだから。

 あなたがたの中には、孤りいることを怖れて、おしゃべりを求める人もいる。孤りいる沈黙の中では、自分のありのままの姿が、自分の目に明らかになり、また裸の姿が捕えにくくなる。また、話す者の中には、知識も深い慮んばかりがなくとも、自らは理解できない真理を、話の中で現す者もいる。

 さらに、自らの中に真理を抱いていながら、それを言葉では語らない人もいる。このような人の胸の底で、精神は、沈黙の中で律動しながら存在しているのである。道や市場で友と会ったとき、あなたは内なる精神によって、あなたの唇を動かし、舌を動かすがよい。

 声の中のまことの声によって、友の耳のまことの耳に語りかけるようにせよ。なぜなら、葡萄酒の色は移り、樽はなくなっても、その味は忘れられないように、友の魂は、あなたの心情の真実を忘れないものなのだから。
「プロフェット(予言者)」小林薫訳p135 「話すことについて」

17)快楽を追うには、すでに春を過ぎ、しかし、ふり返るに秋にはまだ間がある人々がいる。求めること、思い出すことを恐れて、快楽をすべて遠ざける人たちだ。心をなおざりにし、あるいは、心にそむくことは避けたいからである。だが、そのようにふるまう中にも快楽はある。ふるえる手で根を掘って、思いがけなく財宝に巡りあったりもする。だいたい、心にそむくなというのが無理ではないか。 「ザ・プロフェット」池央耿訳p115 「快楽」

18)あなたがたが、本当に死の精神を見ようとするなら、生の肉体にまで心を広げよ。なぜなら、川と海が一つのように、生と死も一つなのだから。あなたがたの希望と絶望の深奥には、彼岸について、黙せる知識が横たわっている。雪の下で夢みる種子のように、あなたがたの胸は春を夢みている。その夢を信じなさい。なぜなら、その夢の中にこそ、久遠への門が隠されているのだから。「プロフェット(予言者)」小林薫訳p178「死について」

19)今や日は暮れた。巫女のアルミトラは言った。今日という日、ここの場所、そして話して下さったあなたの心、これらすべてに祝福あれ、と。彼は答えた。話したのは私だったろうか。私もまた聞き手ではなかったろうか。「ハリール・ジブラーンの詩」
p93「預言者」より一部抜粋

20)すでに夕方になっていた。女占い師のアルミトラは言った。この日の、この場所、思いでを語ったあなたの精神(こころ)に祝福のあらんことを。アルムスタファは答えて言った。語ったのは果たして私だったのか。私も聞き手ではなかったのか。新しい一日は、前の日と違ったところから始まる

 それから彼は神殿の石段を下りた。ひとびとはみなその後に従った。彼は迎えの船に乗り込み、甲板に立った。それからひとびとの方を向き、声高く言った。

 オルファリースのひとびとよ。風が私に船出を命じている。私は風ほど急いではいないけれども、私は行かねばならない。私たちさすらい人は、いつも孤独な道を探し求め、新しい一日は、前の日とは違ったところで始まる。日の出を前の日と同じところでみることはない。大地が眠っている間も、私たちは旅を続ける。私たちは強い植物の種子(たね)、心が熟し満ち足りた時、風にのり、まき散らされる。 

 あなたがたと共に過ごした日々は短く、あなたがたに語った言葉はさらに短い。私の声があなたがたの耳のなかで消え、私の愛があなたがたの記憶のなかでうすれたら、私は再びおとずれよう。そして、いっそう神の教えにかなった、豊かな心と言葉で、語りかけよう。

 そうだ。私は潮に乗って戻ってこよう。死が私を隠し、もっと大きな静けさが私を包んでも、私は、再びあなたがたの理解を求めよう。私の望みは、必ず報われよう。もし私の語ったことに真理があるなら、もっとはっきりした声と、あなたの考えにさらに近い言葉で、それを明らかにしよう。

 オルファリーズのひとびとよ。私は風と共に去っていく、だが、なすところなく行ってしまうのではない。今日の日が、あなたの求めを満たさず、私の愛をかなえないなら、別の日を約束しよう。

 ひとの求めは変化するが、愛と、愛で求めを満たそうとするねがいは変わらない。それだからこそ知りなさい。私が、もっと大きな沈黙の世界から戻ってくることを。野に露を残し、明け方消える霧は、立ち昇って雲となり、やがて雨となって降り注ぐ。私は、その霧のよう。

 夜の静寂(しじま)に、私はあなたがたの町を歩み、私の精神(こころ)はあなたがたの家に入った。あなたがたの胸の鼓動は私の胸に伝わり、あなたがたの吐く息は私の顔にかかり、私はあなたがたすべてを知っていた。ああ、私はあなたがたの喜びも、苦しみも、知っていた。あなたがたが眠っている時、その夢は私の夢だった。湖が山の中にあるように、ときには、私はあながたのなかにいた。

 私は、あなたがたの頂(いただき)と曲がりくねった斜面ををの水面に映し、あなたがたの考えと望みがうかんでは消えるのも映し出した。子どもたちの笑い声はせせらぎとなり、若者たちの憧れのは川となって、物言わぬ私のもとへ流れこんだ。せせらぎや川は、私の心の深みにとどいても、歌うのをやめなかった。「生きる糧の言葉 ジブラーン」岩男 寿美子訳p146

21)以上、統合感を出すために、当ブログなりの表記法に統一した。配列は、関連している原文の順に沿っている。

<7>につづく

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2011/11/20

OSHO ZEN TAROT <11> けち(THE MISER)

Zen072themiser   <10>よりつづく 

OSHO ZEN TAROT <11>

71. けち(THE MISER)

 けちになるやいなや、あなたは生の基本的な現象——広がること、分かち合うことに対して閉じてしまう。

 ものに執着しはじめるやいなや、あなたは的を外してしまう——あなたは外しているのだ。

 というのも、ものが的なのではなく、あなたが、あなたの最も奥深い実存が的だからだ——素晴らしい家ではなく、素晴らしいあなた、多額の金ではなく、豊かなあなた、多くのものではなく、開かれた実存、無数のものに通用する実存だ。Osho Ancient Music in the Pines Chapter 2

解説:

 この女性はまわりに要塞を築き、自分の宝だと思い込んでいる持ち物すべてに執着しています。実際には、彼女は自分を飾るひじょうに多くのものを——生きものの羽や毛皮もいっしょに ——蓄め込んでいるために、結果として自分を醜くしています。

 私たちが執着しているもの、そして、自分たちの持ち物はとても貴重だから要塞で守らなければならないと感じていること、それをよく見ることをこのカードは促しています。

 その宝はかならずしも多額な預金や箱に満ちあふれている宝石とはかぎりません―自分の時間を友人たちと分かち合って過ごすことや、自分の愛をほかの誰かに表現するリスクを負うことのような、単純ななにかでもありえます。

 もし私たちが分かち合うのを拒否したら、ふさがれ、使われずに澱んでしまう井戸のように、私たちの宝は色あせて価値を失ってしまうのです。

 あなたがなににしがみついていようとも、それを持って行くことはできないことを覚えておきましょう。握り締めている力をゆるめて、分かち合いがもたらす自由と広がりを感じましょう。Copyright © 2011 Osho International Foundation 

<12>につづく

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地球人スピリット宣言草稿<10>「地球人スピリット・ジャーナル3.0」の模索

<9>からつづく 


「地球人スピリット宣言草稿」 
<10>「地球人スピリット・ジャーナル3.0」の模索

1)ようやく「ウェブ進化論」「増補チベット密教」「私が愛した本」を封印、あるいは卒業したと思っていたところ、気になる写真を一枚発見してしまった。

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2)これは、2010/06/07にOne Earth One Humanityカテゴリの中で、No Earth No Humanityカテゴリに向けて、当ブログの総括を試みた場合の案だった。

3)思えば、当ブログ<1.0>は結果として「ウェブ 進化論」一冊に集約し象徴させることができる。そして、もし、当ブログ<2.0>を集約し、一冊に象徴させるとしたら、Osho「私が愛した本」になることに異論はない。そして、今、この文脈で考えるとするならば、<3.0>はどのようなものになるのだろうか。「プロフェット(予言者)<2>」2010/06/07

4)2005/08~2010/3までの「楽天ブログ」を<1.0>とし、2010/03~以降のニフティ「ココログ」を<2.0>としていた。「増補チベット密教」は、有る意味、<1.0>と<2.0>の中で吸収されてしまったことになる。そして、当時、当ブログは、あらたなる<3.0>を模索し始めていた。

)「私が愛した本」の中の、さらに一冊を抜きだせ、となれば、現在のところ「預言者」しかない。ジブランは十分紹介され、理解されている、とは言えない。現在の自分の思いをこの一冊に託することに、大いなる不満はある。しかし、まだ見ぬ<3.0>に向けて、そのイメージを借りるとすれば、この本が最適だろう、と、思う。「プロフェット(予言者)<2>」2010/06/07

6)当ブログにとって<3.0>とは何か。端的に言えば、「読書ブログ」からの脱出である。「読書」からの脱出であり、「ブログ」からの脱出である。そして、その突破口はカリール・ジブラン「預言者」にあるのではないか、という予感である。

7)なぜそう感じたのだろう。まず言えることは、カリール・ジブラーンはOshoが「私の愛した本」の中でもっとも多く触れていた作家であるということ。登場回数の多い著者ベスト10」でジブランは登場回数9回、と、4回のウスペンスキー、3回のウスペンスキー、クリシュナムルティ、トルストイ、ウィトゲンシュタイン、アラン・ワッツを押さえて、ダントツに首位に立っている。

8)さらに言えるのは、「カリール・ジブラン『預言者』邦訳一覧」で当ブログがまとめたところ、なんと現物を確認しただけで11種類ある。なぜにこれまで愛されているのだろうか。きっと何か理由があるはずだ。

9)そして決定的なのは、Oshoにカリール・ジブラン「預言者」についての講話録「The Messiah」があることである。

10)統合的に考えてみると、結局それが、どうして<3.0>につながるのか、ということは今だに分かっていない。単に直感である。だが、それが1年半以上も、その予感が続いているのだから、何かあるに違いない。

11)<3.0>においては、もっとネット的であること、そして、よりメタコンシャスであること。そして、キーワードは「預言者」である。

<11>につづく

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ブータン仏教から見た日本仏教 今枝由郎 <2> 

<1>からつづく 


「ブータン仏教から見た日本仏教」 <2>
今枝由郎 2005/06 日本放送出版協会 全集・双書 230p
★★★★☆

1)ブータンの若きロイヤルカップルが福島の被災地を慰問したニュースが話題になり、にわかにブームが起きている。当ブログでもブータンについていくつか触れていたが、数は多くない。以下、過去の書き込みの抜き書き部分をアトランダムにまとめてみた。

2)「まぁお聞き。そば畑から切り株を抜いたら、トルコ石が出てきたのさ。それが馬になり、馬が牛になり、牛が羊になり、羊が雄鶏になったのさ。ところでお前さん、お前さんの歌をこの雄鶏と交換する気はないかい」

 歌好きの男はびっくり仰天、驚いて棒立ちになってしまいました。ヘレーじいさんは男の腕に雄鶏をあずけ、自分は嬉しい心のうちを歌に口ずさみながら遠ざかっていきました。ブータンでは、誰が見ても馬鹿げた取り引きをする者を、「ヘレーじいさんのようだ」と言います。
今枝由郎 「ブータンに魅せられて」 p97

3)20世紀初頭から、この広大な地域の諸地方はチベット本土も含めて政治的、経済的、社会的に非常な変革を余儀なくされた。その中で現時点ではブータンが、この千年以上続いた文明の唯一無傷の代表者といえるであろう。

 こうした状況の中で、チベット研究にとってのブータンの重要性は計り知れないものがある。しかし逆に、チベットの観点だけからブータンを見ることは、一面しか見ないことになる。

 実際数世紀にわたって、ことにドゥク派政権成立以後、ブータンは色々な分野で独自性を発達させ、これはチベット学にはまだ知られていないが、それ自身のものとして研究されるべきだし、研究されるに値する。あまりにもチベット中心的なアプローチはブータンの独自性を見えなくしてしまう。今枝由郎「ブータン中世史」p22

4)フランス流のチベット歴史文献学といった場合、私にとって一番重要なことは、証明である。”誰でもどんな命題でも提唱することができる。しかし重要なのは、それを如何に論証するかである”というのが、金貨玉条のように教えらえたことである。

 一見、当たり前で、なんら取り立てて言うべきことでもないように見えるが、けっしてそうではない。近くは日本の現状を見てみると、命題はりっぱでも、その論証となると、論理に飛躍があったり、自家撞着を含んだりといったことが往々にして見られる。

 これは論証よりも、命題を重んじるところから由来するのであろうが、論証できない命題は、いかに魅力的であっても何の価値もない。少なくとも歴史文献学の立場からはそうである。今枝由郎「ブータン中世史」p335 

5)ヒューマニズムとは、堂々たる体系をもった哲学理論でもなく、〇〇主義と称される思想でもなく、洋の東西も、時の古今も問わず、あたしたちがなにをする時でも、なにを考える時でも、かならずわたしたちに備わっていたほうが望ましい、ごく平凡な人間らしい心がまえである。今枝由郎 「ブータンに魅せられて」 p168

6)この一世紀余に及ぶ近代仏教研究の成果によって、南伝仏教に関する知識が飛躍的に増大したにもかかわらず、それに照して日本仏教の「奇形」を修正しようという動きはほとんど見られない。日本仏教界は、その「奇形」のうえに開き直っているとしか思えない。このままでは、奇形度は増し、氏(玄侑宗久)の言葉通り、遅かれ早かれ衰えるのは自然の流れであろう。

 次に、上田紀行氏に関して言えば、私が氏の立場であったら「がんばれ仏教!」ではなく「くたばれ仏教!」と題した本を書いたであろう。
今枝由郎 「ブータン仏教から見た日本仏教」p193

ブータン関連リスト(当ブログの記事)

「ブータンのツェチュ祭り---神々との交感---」写真・永橋和雄 /文・今枝由郎 1994/03  平河出版社
「サキャ格言集」サキャ・パンディタ /今枝由郎 2002/08 岩波書店 
「ブータン中世史」 今枝由郎 2003/02 大東出版社
「ブータン仏教から見た日本仏教」 今枝由郎  2005/06  NHKブックス 
「ブータン 地球の歩き方」 2005/2 ダイヤモンド・ビッグ社
「ブータンに魅せられて」 今枝由郎 2008/03 岩波書店
ブータン国王の「龍」とは何か? 「シャンバラ 勇者の道」 2001/6 チョギャム・トゥルンパ めるくまーる
「龍は心の中に 自分の龍を育てなさい」 ブータン国王 2011/11/19 福島 

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ブータン国王の「龍」とは何か? 「シャンバラ 勇者の道」チョギャム・トゥルンパ <13>

<12よりつづく

「シャンバラ 勇者の道」 
<13>
チョギャム・トゥルンパ /沢西康史 2001/6 めるくまーる 単行本 241p

Ryu  
1)ブータン国王が被災地の子供たちに送った、「龍は心の中に棲んでいる。 自分の龍を育てなさい。人は経験を積んで強くなる。」というメッセージは、被災地の人々の心を強く打った。

2)ブータン仏教は、チベット仏教と深く結びついており、この言葉を聞いて、「シャンバラ 勇者の道」を思い出した。今まで書いたところから、関連の部分を抜き出しておく。

 チョギャム・トゥルンパは、幼くしてチベットの活仏となったが、中国共産党に追われて英国に逃げ、さらにはアメリカに渡って欧米人にチベット密教を伝えた。さらには結婚して子供をもうけ、一般人として還俗した。広く若い世代に影響を与えながら、1987年48歳で亡くなった。

3)「始めも終わりもない。
  虎、獅子、迦楼羅、龍の栄光に輝く
  言葉を超えた自信に満ちあふれる
  リグデン王に臣従の礼をささげる」
巻頭より

4)この本はいかにして自分の生き方をより良いものにしていくか、いかにして「勇者の道」のほんとうの意味を見いだしたらよいのかを明らかにしている。それは偉大なチベットの王、リンのゲサルの範例と叡智---彼の測り知れなさと恐れのなさ、この本では四つの尊い性質として論じられている、虎・獅子・迦楼羅・龍(タク・セン・キュン・ドルク)の原理を応用して、彼が蛮族を征服したそのやり方---に触発されたものである。p19

5)チベットには、アジアのほかの国々と同じように、今日のアジアの社会の知恵と文化の源泉となった伝説の王国の物語がある。その伝説によれば、そこは平和で豊かな土地であり、賢明で慈悲深い支配者が治めていた。国民はみな思いやりが深く教養があったので、王国はしばしば理想の社会とみなされた。この国土はシャンバラと呼ばれた。

 シャンバラの社会が発展する上では、仏教が重要な役割を果たしたと言われる。伝説が語るところでは、釈迦牟尼仏はシャンバラの初代王ダワ・サンポに高度なタントラの教えを授けたという。これらの教えはカーラチャクラ・タントラとして受け継がれて、チベット仏教のなかでは最も深遠な知恵とみなされた。王がこの教え授けられたあと、シャンバラの人々は瞑想に親しむようになり、生きとし生けるものを哀れみ慈しむ仏教に帰依するようになった。このようにして、君主ばかりか国民たちまでも高度に啓蒙された人たちになった。

 チベットの人々のあいだでは、シャンバラ王国はいまもどこかに存在し、たぶん奥深いヒマラヤの谷のどこかにあると広く信じられている。またシャンバラに至るための道順を詳細かつ曖昧に記録した仏教の文献がいくつかあるが、これらが具体的なものか比喩的なものなの意見が分かれるところだ。さらに王国の様子を詳細に記述した多くの文献が残っている。例えば、19世紀の高名な仏教教師ミパムが著わした「カーラチャクラ大註解」によれば、シャンバラの地はシータ河の北方にあって、その国土は八つの山脈によって区切られている。

 歴代のリグデン王、すなわちシャンバラの偉大な支配者たちが住む宮殿は、国の中央の環状の山の頂上に建てられている。ミパムによれば、この山はカイラーサ山と呼ばれている。カラーパと呼ばれるその宮殿は、敷地が何平方マイルにも及ぶ壮大なものである。その南面にはマラヤと呼ばれる美しい庭園があって、この庭園の中央には、ダワ・サンポが奉納したカーラチャクラの寺院が建っている。

 別の伝説によると、シャンバラは何百年も前に地上から姿を消してしまったということだ。ある時点で、国のすべての民が悟りを開いて、王国は別のもっと天上的な領域へと消えていった。これらの物語によれば、シャンバラの歴代のリグデン王はいまも人間の行ないを見守っており、いつの日か人類を滅亡から救うために地上に戻ってくるという。

 多くのチベット人が、偉大な勇者の王、リンのゲサルは、リグデン王やシャンバラの叡智から霊感と導きを受けていたと信じている。これは、王国は天上界に存在するという信仰を反映したものだ。ゲサルは実際にシャンバラに行ったわけではなく、彼の王国とのつながりは霊的なものだった、と多くの人が考えている。

 彼はおよそ11世紀の人で、現在の東チベットのカム県にあった、リンという小王国を支配していた。ゲサルの治世のあと、彼の勇者・支配者としての優れた業績の言い伝えが広くチベット中に知られるようになり、ついにはチベット文学の最も偉大な叙事詩とみなされるようになった。一部の伝説が言うところでは、ゲサルは再びシャンバラから現われて、軍勢を率いて世界の闇の勢力を打ち負かすことになる。

 近年になると、シャンバラ王国とは、実際には中央アジアのザン・ズン王国のような歴史上に実在した古代王国だったのではないか、という西洋の学者が現われた。しかしながら多くの学者は、シャンバラの物語は神話にすぎないと信じている。シャンバラ王国をたんなる作り話として片付けてしまうのは容易だが、この伝説のなかに、あらゆる人間のハートに深く根を張った、善良な充実した生き方を求める普遍的な欲求の表われを見ることもできる。

 実際、チベットの多くの仏教教師のあいだには、シャンバラ王国を外側の場所ではなく、万人のなかに潜在する目覚めと健全さの基盤、または根とみなす長い伝統がある。この視点から見ると、シャンバラ王国が事実なのか作り話なのかを判断することはさほど重要ではない。それよりもむしろ、それが象徴する「目覚めた社会」という理想的な価値を認めて、それを見習うべきだろう。p25

6)ここで言う「勇者の道」とは、他人に戦争をしかけることではない。攻撃は問題の原因にこそなれ何事も解決しない。この「勇者」とはチベット語でいう「パウォ」のことで、「勇敢な人」という意味だ。この文脈における「勇者の道」とは、人間の勇敢さの伝統、または恐れのない道のことだ。

 北米のインディアンにはそのような伝統があったし、南米のインディオ社会にも同じ伝統があった。日本の武士道も、知恵ある勇者の道のひとつの表れであるし、西洋のキリスト社会にも、目覚めた勇者の原理があった。アーサー王は西洋における伝説的な勇者の例であるし、ダビデ王のような聖書に登場する君主たちも、ユダヤ教・キリスト教いずれの伝統にも属する勇者たちだ。世界には勇者の道の典型が数多くあるのだ。

7)勇者の道に至る鍵となるもの、「シャンバラの理念(ヴィジョン)」の最初の原理とは、ありのままの自分を恐れないということだ。実のところ、自分自身を恐れないということ、それが勇敢さの定義なのだ。シャンバラの理念は、世界の大きな問題に直面したときに、人は英雄的になると同時に優しくもなりうると教えている。シャンバラの考え方は利己主義の対極にある。p29

8)シャンバラの考え方(ヴィジョン)はたんなる哲学ではない。それは勇者になるための修行にほかならない。目覚めた社会を築く手助けができるように、自分の正しい扱い方を学ぶということだ。そのプロセスの中では、自分に敬意を払うことがとても大切であり、それはすばらしい、まさに並外れた経験になるだろう。p103

9)この自然に存在するエネルギーは、シャンバラの教えのなかでは「風の馬」と呼ばれている。「風」の原理が意味するのは、基本的な善良さのエネルギーは力強く、活気にあふれ、輝かしいものだということだ。それは人生のなかでとてつもないエネルギーを発散する。

 だが、それだけではなく、基本的な善良さは乗ることができる。それが「馬」の原理だ。勇者の修行、とりわけ手放しの修行をすることで、あなたは善良さの風を乗りこなすことができるようになる。ある意味で、この馬はけっして手なずけることができない。

 基本的な善良さは個人的な所有物にはならない。だが基本的な善良さの高揚したエネルギーを人生に呼び込み、誘い込むことならできる。どうすればたったいま自分自身や他人のために、たんなる哲学的な概念ではなく具体的なものとして、基本的な善良さを円満かつ理想的につくりだすことができるのかということがわかってくる。109p

10)私たちが見いだすのは始まりのない知恵、自然な賢さ、宇宙的な鏡の知恵だ。チベットでは、存在のこの魔法のような質、自然な知恵を「ドララ」と呼んでいる。「ドラ」とは「敵」または「対立者」のことで、「ラ」とは「上にいる」ということだ。だから「ドララ」とは「敵より上にいる」こと、「敵を超えている」ことを意味する。

 ドララとは、世界に内在する、あらゆる二元対立を超えた無条件の力と知恵のことだ。ドララはすべての敵や争いを超越している。それは攻撃性を超えた知恵だ。宇宙的な鏡のなかには自立的に存在する知恵と力として、私たち自身や知覚の世界のなかににも反映している。

 ドララの原理をみつけるためのひとつの手がかりは、自分の人間としての知恵はあるがままの事物に備わっている力と異なるものではないと気づくことだ。いずれも宇宙的な鏡の無条件の知恵の反映なのだ。

 だから、あなたと世界とあいだには根本的な分離や対立というものはない。これら二つのものを一度に、いわばひとつのものとして経験するようになったとき、あなたは世界に内在するとてつもない洞察力(ヴィジョン)やエネルギーに近づくことができる。p132

11)ラ・ニェン・ルは、まさに大地の秩序と掟を表すもので、人間が基本的な実在の生地に自分を織り込んでゆく方法を示している。だから、ラ・ニェン・ルの原理を適用することで、ドララまたは根源的に魔法を呼び起こすさらなる方法が得られる。p171

12)「ラ」は元々は「聖なるもの」または「神」を意味するが、この場合には、天上界ではなくて、大地のいちばん高い地点を表している。p172

13)次の「ニェン」は、本来は「友人」を意味している。ニェンは山の雄大な肩に始まるが、森やジャングルや平野も含んでいる。山の頂きはラであり、その雄大な肩がニェンだ。p172

14)最後に「ル」だが、これは元々は「水」を意味している。それは海や川や湖の領域であり、水や湿り気の世界だ。ルにはきらきら輝く宝石のような質があるため、この場合の湿り気は豊かさと結びついている。p173

15)人間はラ・ニェン・ルの秩序を守ることで文明化されるから、私たちはこれを究極の決まり事とみなすこともできる。ラ・ニェン・ルの秩序に従うなら、あなたの人生は現象世界の秩序に調和したものになる。p175

16)自然な階層の調和した生き方とは、硬直した規則に従うことではないし、命のない戒律や行動規範にのっとって生活することでもない。この世界の秩序や活力や豊かさが、他人には優しくし、自分も大事にしながら、有意義な人生を送るその方法を教えてくれる。

 しかしながら、たんにラ・ニェン・ルの原理を学ぶだけでは十分ではない。自然な階層の発見は個人的な体験でなければいけない---自分自身で魔法を体験しなければならない。それを体験したら、帽子を床に置こうなどとは思わなくなるし、さらに大事なことだが、隣人や友人たちを騙そうなどとは思わなくなる。世の中に奉仕しよう、自分を完全に明け渡そうという情熱が湧いてくる。p179

17)最良の人生は平凡な状況の下で実現できる、というのがシャンバラの教えの基本的なメッセージだ。それがシャンバラの基本的な知恵だ---このあるがままの世界のなかで、私たちは充実した意味のある、また他人のためにもなる人生を送ることができる。それがほんとうの豊かさだ。

 世界が核戦争の脅威や大規模な飢餓や貧困という現実に直面している時代にあって、自分の人生を治めるということは、この世界のなかで平凡だが十分に人間味のある生き方をするということだ。世間で暮らす勇者のイメージとはまさにこのようなものだ。p186

18)具体的に、どうやって豊かさや秩序を日常的な生活のなかに持ち込めばいいのか? 勇者がある程度の精神的な成熟に達して、基本的な尊厳と優しさの原理を完全に理解し、ドララの原理や、ラ・ニェン・ルの原理をも正しく認識できるようになったら、自分が人生の豊かさをどう考えているか振り返ってみなければならない。豊かさの基本的な修行とは、いつも善良さが輝きを放つように、自分の存在に備わる善良さを表現できるようになることだ。p186

19)それができるようになったら、さらに一歩進んで、「世界の君主の七つの宝」と呼ばれるものを養って、もっと大きな豊かさを経験することができる。七つの宝とは、古代インドに起源を持つとされる、支配者の資源を表わす概念だ。私たちはこれらの資源をひとりひとり、自分の力で養わなければならない。p187

20)支配者の第一の宝は「女王」だ。女王は---妻や夫は、と言っていい---家庭のなかの寛大さの原理を表わす。自分の知恵も短所も含めた。人生を分かち合える伴侶と暮らすと、あなたは開かれたハートを持つようになっていく。p187

21)世界の君主の第二の宝は「宰相」だ。宰相の原理とは、助言してくれる相談相手を持つことだ。配偶者はあなたが寛大になるのを助け、友人たちは助言や忠告を与えてくれる。p188

22)第三の宝は「将軍」であり、それは恐れのなさや保護を象徴する。将軍もまた友人だが、彼は恐れを知らない友人だ。なぜなら、彼はあなたを守り、あなたを助け、そのとき必要などんなことでもするし、少しもためらうことがないからだ。p188

23)第四の宝は「軍馬」または「乗用馬」だ。軍馬は勤勉さを、懸命に働いて全力を尽くすことを表わす。p188

24)第五の宝は「象」であり、これは安定や着実さを表す。あなたは虚偽や混乱の風に動じることがない。象のようにどっしりと落ち着いている。p188

25)支配者の第六の宝は「満願成就の宝石」であり、これは気前のよさを表している。p188

26)第七は「車輪」だ。古くから全宇宙の支配者は黄金の車輪を持つとされ、この世界の真の君主には鉄の車輪が与えられると言われて来た。p189

27)これら七つの宝の原理を応用すれば、正しく家庭生活を切り盛りすることができる。妻や夫はあなたが寛大になるのを助け、親しい友人は適切な助言を与えてくれる。肉親や仲間はためらうことなく愛してくれる。自分自身も馬のように仕事や人生の旅に最大限の努力を惜しまない。つねにそのエネルギーに乗りつづけ、どんな問題が持ち上がってもくじけない。

 だが、それだけではなくて、象のように着実で、安定していなければならない。そしてこれらすべての宝を手に入れたときに、自己満足するのではなく、満願成就の宝石のように気前よく他人に与えられなければいけない。こうして、あなたは自分の家庭を安らかに治めて、支配者の車輪を手にする。p189

28)いかに治めるかを学びたいなら、第一歩として、自分の家庭や身のまわりの世界を治めることから始めるべきだ。それができたなら、間違いなく、次の一歩は自然にやってくる。p190

29)勇者の道の成果とは、基本的に善良さを根本的に悟ることだ。この理解に達すると、基本的な善良さを疑うことがまったくなくなって、そのために自分自身を疑わなくてもよくなる。むき出しの肉を世界にさらけだすとき、「別の皮膚をつけたほうがいいでしょうか? ちょっと露骨すぎるでしょうか?」などと尋ねるだろうか---そんなことはありえない。

 いったんさらけだしたら、もはや考え直すことはできない。失うものはないし得るものもない。ただ自分のハートを完全にさらすだけだ。p200

30)勇者は、基本的な善良さに揺るぎない確信を抱くようになり、神聖な世界に昇る朝日の反映を見るようになって、初めて四つの尊い性質を体現できるようになる。そうなったら、勇者は無尽蔵なエネルギーの源泉、風の馬のエネルギーとつながりを持つようになり、旅はいっそう力強いものになっていく。つまり、風の馬は四つの尊い性質を活気づける燃料であり、真性な存在はそれで動く乗物であるといえる。p205

31)温和な勇者
 「温和さ」が最初の尊い性質だ。ここで言う温和さとは、弱さとは違って自分の純朴さを信頼すること、率直でありながらしかも親しみやすくあることだ。
p206

32)温和さには三つの段階がある。第一に、勇者は謙虚なので、その想念が有害な傲慢さにふくれ上がることがない。p206

33)温和さの第二の段階は無条件の自身の表明だ。温和さは、密林のなかを悠々と、だが細心の注意を払って歩く、たくましい虎に喩えらえる。p207

34)温和さの第三の段階では、ためらいがないために、勇者は広やかな心をもつようになる。p208

35)温和さは広い視野と自信をもたらす。四つの尊い性質はこの謙虚な、誠実な、しかも広やかな、また細心の注意をともなったものの見方から始まる。この旅の始まりには、他人に乞う必要のない自然な充足感がみなぎっている。p209

36)活気に満ちた勇者
 「活気」の原理は、高原の山々の爽やかさを楽しむ雪獅子(スノーライオン)に喩えられる。雪獅子は精力的で、活気に満ち、若々しい。彼は空が高く空気がさわやかな高原を棲み処にしている。
p209

37)活気には二つの段階がある。最初のそれは高揚した快活な心の経験だ。この場合には、高揚した心とは何物にも因らない喜びが持続する状態だ。p210

38)
活気の第二の段階とは、活気に満ちた勇者は決して疑いの罠に落ちないということだ。疑いの根本は自分自身への疑いであり、5章で述べたように、それは体と頭が共調(シンクロ)しないときに起こってくる。p210

39)
要するに、勇者の道の先の段階で生じた温和さや優しさがあるので、次の活気に満ちた状態へと入っていくことができる。活気に満ちた勇者は疑いの罠に捕らわれることがなく、いつも喜びと創意工夫に満ちている。p211

40)
豪放な勇者
 「豪放さ」とは無法さではく、その意味で、乱暴になるということではない。ここで言う豪放さとは、勇者としての強さとたくましさを備えていることだ。豪放さは恐れのなさを達成することに基づいている。
p212

41)
豪放さは、チベットの伝説上の鳥で、昔から鳥の王と言われている、迦楼羅(かるら)に喩えられる。迦楼羅は成鳥の姿で卵から生まれて、宇宙まで舞い上がり、翼をあらゆる境界を越えた彼方にまで広げる。同じように、豪放な勇者は望みと恐れを乗り越えているので、限りなく自由な精神を発達させる。p212

42)
もちろん、このような達成に基礎には温和な勇者や活気に満ちた勇者の修行がある。それらを経験しているから、あなたは豪放になることができる。また豪放な勇者は他人に深い慈悲心を抱いている。何ものにもさえぎられずに視野を広げることができるので、他人のために意のままに働くことができる。彼らを助け、何であれ必要なものを与えることができる。p213

43)
測り知れない勇者
 「測り知れなさ」は龍に喩えられる。龍は精力的で、力強く、堂々としている。だが、これらの龍の性質も、虎の温和さ、獅子の活気、迦楼羅の豪放さの上に初めて成り立つ。
 測り知れなさは二つの部分に分けることができる。最初に、測り知れない心の状態があって、次に、測り知れなさが外に表れてくる。測り知れなさは恐れのなさに基づいている。
p214

44)
伝統的な考え方では、龍は夏は天空に棲み、冬は地中に引きこもるとされる。春が来ると、龍は大地のつゆやかすみとともに天に昇る。嵐を起こすときには、龍は口から稲妻を吐き、その咆哮は雷鳴となって轟く。この比喩は測り知れなさには何か予兆のようなものがあることを伝えている。p214

45)測り知れなさが理想とするのは優しいエネルギーに満ちた、秩序正しく活気にあふれた世界を創造することだ。だから測り知れない勇者は急いだりはしない。きちんと最初から始める。p216

46)測り知れなさが輝かしく恐れを知らないのは、勇者が昇る朝日の理念に導かれているからだ。喜びを味わいながら努力することで、自分自身を高揚させることができる。そうして真正な存在を成就して、最終的には「世界の君主」の境地に至る。

 自分自身を開け放ち、恐れることなく他人に与えることで、あなたは力強い勇者の世界を創造する、その手助けをすることができるp219

47)シャンバラの系譜
 勇者の道を歩もうとするときには、純真さと基本的な善良さをみずから実感することが何より大切になる。しかしながら、旅を続けて、
四つの尊い性質の道を歩み、真正な存在を成就するには、旅の道案内を、あなたに道を示してくれる達人の勇者を持たなければいけない。究極的には、利己心またはエゴを捨て去るために、生きた人間の実例が不可欠なのだ---すでにそれを成し遂げた人がいたら、それを手本にすることができる。p220

48)「魔法を見つける」で話したように、宇宙的な鏡の境地を経験すると、「ドララ」と呼ばれる、争いを超えた、広大で深遠な知恵がわき上がってくる。ドララの経験には多くの段階がある。根源的な、究極のドララとは、宇宙的な鏡の知恵をじかに体験することだ。この知恵を経験するとき、あなたはシャンバラの系譜の起源、知恵の源泉に触れている。p221

49)究極のドララには三つの特徴がある。第一に、根源的であるということ---これはすでに話したように、石器時代や先史時代にまでさかのぼるという意味ではなく、私たちの思考を超えている、またそれに先立っているということだ。宇宙的な鏡の領域を王国とするリグデン王たちはそのような境地にある。

 第二の特質は不変性だ。リグデン王の世界では何かを考え直すことがない。考え直すとは心が揺らぐこと、自分の知覚の純真さに自信がないために、心が揺れ動き、ためらうということだ。そこでは考え直すということがない。それは不変の境地であって、移り変わるものは何もない。

 究極のドララの第三の特徴は勇敢さだ。勇敢さとはかすかな疑いにもなびかないということだ。実のところ、この境地ではわずかな疑いさえも抱くことがない。p222

50)最後に、内側のドララの究極の知恵が生きた人間へと伝えられる。別の言い方をすると、宇宙的な鏡の無条件のあり方を完全に理解して、その原理を実在の明晰な知覚のなかにすっかり呼び込むことで、人間は生きているドララに、生きている魔法になるということだ。

 人はこうしてシャンバラの勇者の一族に加わって、たんにドララを呼び覚ますのではなく、それを体現することによって、ひとりの達人の勇者になる。だから達人の勇者は自分が住む世界のドララを体現していると言える。p224

51)第一に、達人の勇者は始まりも終わりもない、限りない空間が広がる宇宙的な鏡のなかに誕生する。彼の悟りまたは境地は、単なる修行や哲学から生じたものではない。むしろ彼は宇宙的な鏡の無条件の清浄さのなかにゆったりとくつろいでいる。p224

52)第二に、達人の勇者はリグデン王たちの知恵の伝統に自己を完全に同化させているから、生きとし生けるもののなかに基本的な善良さを見る、大いなる優しさ、大いなる慈悲心を養っている。

 達人の勇者が身のまわりの世界を見るとき、あらゆる人間には基本的な善良さが備わっていること、少なくとも自己の純真さを悟る資格があるのだということを理解する。p225

53)最後に、達人の勇者は人々への大いなる慈悲心から、天と地をひとつに結びつけることができる。すなわち、達人の勇者の力があれば、人間としての理解と人間が拠って立つ大地とを結びつけることができるということだ。

 そうなったら天と地はいっしょにダンスを踊るようになり、人々はだれが天の崇高な性質を備えているのか、だれが地の劣悪な性質を持っているのかといったことを議論しなくてもよいのだと感じるようになる。p225

54)「俺は達成したぞ!」と思うようなことがあったら、それはうまくいかないだろう。エゴイステッィクな態度を乗り越えて、初めて天と地をひとつに結びつけることができる。p226

55)過去何世紀にもわたって、究極の善を探究し、それを同胞の人間たちと分かち合おうとした多くの人たちがいた。それを悟るには断固たる決意で修行に励まなければならない。

 探究を恐れることなく続け、人間の根元的な善良さを恐れることなく主張した人たちは、その宗教、哲学、信条が違っていようとも、達人の勇者の系譜に属している。

 このような人類の指導者たち、人間の叡智の守護者たちに共通する共通する特質は、あらゆる有情のために優しさと純真さを恐れることなく発揮していることだ。

 私たちは彼らという実例に深い崇敬の念を抱きながら、彼らが切り開いた道に感謝をするべきだ。彼らはこの退廃的な時代にあって、目覚めた社会を心に描くことを可能にした、シャンバラの父であり母であるのだから。p229

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OSHO ZEN TAROT <10>流れと共に行く(GOING WITH THE FLOW)

 

 

Zen059goingwiththeflow   <9>よりつづく 

 

OSHO ZEN TAROT <10>

58. 流れと共に行く(GOING WITH THE FLOW)

 

 「水になりなさい」と私が言うとき、私は流れになることを意味している。澱んだままではいけない。動くがいい、しかも、水のように動くがいい。

 老子は言っている——タオの道は水の流れる道だ。それは水のように動く。水の、あるいは川の動きとはなんだろう? その動きには素晴らしいところがいくつかある。ひとつに、それはつねに深みに向かって動く、もっとも低い地をつねに探し求める。それには野心がない。最初の者になろうと渇望することはけっしてない。最後の者になりたいのだ。

 覚えておくがいい。イエスはこう言っている——ここで最後の者こそ、私の神の王国では最初の者となるだろう。彼は、タオの水の流れる道について語っている——言及してはいないが、それについて語っているのだ。最後の者であるがいい、野心なくあるがいい。野心とは、上に向かって行くという意味だ。水は下に行く。

 もっとも低い地を探す。それは何者でもないことを望む。自分はユニークだ、例外だ、特別だと宣言することは望まない。エゴの観念はない。
Osho Take it Easy, Volume 1 Chapter 14 

 

解説:

 

 このカードの人物は水のなかで完全にくつろぎ、楽にして、水の流れに任せています。彼は怠惰になったり眠くなったりすることなく、受け身で受容的であるアートをマスターしています。

 

 「それはいやだ」とか「別の方向に行きたい」という考えなどまったくなく、生の流れに身をゆだねています。生という水に入って浮かぶか、それとも流れをさかのぼって泳ぐのか、生のあらゆる瞬間ごとに選択の余地が残されています。

 

 リーディングでこのカードが現われたときは、あなたは今、浮かぶことができるということを示しています。生はくつろぎを支えてくれて、まさに生の望むところに自分を連れて行ってくれるのだと信頼して——。

 

 信頼とくつろぎというこのフィーリングがさらにさらに成長していくのを許しましょう。あらゆることは、まさにそうあるべきように起こっています。Copyright © 2011 Osho International Foundation 

 

<11>につづく

 

 

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私の愛した本 OSHO<82>振りかえり

<81>からつづく 

Photo
「私が愛した本」 <82>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p
★★★★★

1)当ブログにおける「ジャンルを象徴する3冊」なかでも、最後に残るべきはこの本であった。この本は何度も開いた。今回の書込みで82回となる。それでも、まだ読み足りない気がする。実際、こうして、最初から最後まで通読してみると、いままで読み落としていたところがたくさんある。それは、決して大きな部分ではないのだが、ああ、こういう繋がりだったのか、と、今は初めて気がついたりしている。

2)当初のもくろみは、これら三冊は、今回封印しようということだった。だいぶ読んだ本だし、役にも立った。だが、そろそろ卒業すべきであろう。次のステップにいくことにしたからには、古いものは置いていかれるべきだ。

3)「ウェブ進化論」はまぁまぁ封印できるだろう。オープンソースの思想や、ネット上の民主主義、分かち合いや、世界政府としての機能、などなど、まだまだ読み切れておらず、他の本で触れていない重要部分がある。だが、技術革新の日々の中、まずは封印できないこともないだろう。

4)「増補チベット密教」は、ちょっと複雑だ。読書案内リストは十分役だってはくれたのだが、本文をもっと読みこなしてみたい。読めていないところがたくさんある。しかし、こちらもまた、チベット密教そのものを、自らの道としないのであれば、封印してできないことはない。

5)そしてこの「私の愛した本」も封印の予定だった。だが、まだそのリストにあっても手に取っていない本もあるし、あらためて読むと、別な意味にもとれてくる。ましてや自らのマスターの本であれば、ますます取扱いは難しい。それでもやっぱり封印するとする。

6)ただし、逃げ道はある。せっかっくネット上に転記しつづけてきたのだから、今後、この三冊が必要となる時は、できるだけわがブログの流れの中で活用することにしよう。つまり、自分のものとして、もっと血とし、肉としなければならない。

7)あらためてこの本を読みなおし、あ、これも読み直し、これも抜けていると、気がつくところが多い。多分、その作業は延々に続くのであろう。しかし、ここで、当ブログは一旦、締めに入るのであり、また、次なる他のものも吸収していかなければならない。

8)さて、当ブログでは依然、この本をダイジェストする意味でも、「OSHOのお薦め本ベスト10(私家版)」を作成しておいたのだが、どうやら、他にもお勧め本があったのにも関わらず、見落としていたようだ。今回発見したので追記しておく。

9)ヴィマルキルティが死の床に伏せっていた。そこでマンジュシュリが彼に質問している。あるいはむしろ、この人の質問に答えている。このおうにして「ヴィマルキルティ・ニルデッュ・スートラ(維摩経)」は生まれた。本当に偉大な本だ。

 この本が特にどの宗教にも属さないために、気にする者は誰もいないようだ。これは仏教徒の本ですらない。彼は仏陀の正式な弟子だったことはないからだ。ヒトはあまりにも形式に敬意を払い、その精神を忘れる。私はこの本を、真の探究者すべてにすすめる。読む者はここに、ダイヤモンドの鉱山を見つけるだろう。Osho 「私が愛した本」p145

10)この「私が愛した本」はまだまだ読み返す必要がある。だが、今はむしろ、一旦「禅宣言 OSHOのまな板に乗った人々」リストの方に目を移してみようと思う。

11)私はいつも科学を「ますます小さなことについて、ますます多くを知ること」と、そして宗教を「ますます多くのことについて、ますます少し知ること」と定義している。科学の行きつくところは、無についてすべてを知ることだ。そして宗教の行きつくところは、すべてを知ることだ・・・・すべてについて知るのではなく、ただ知るだけだ・・・・「について」ではなく----ただ知ることだ。科学は無知に行き着き、宗教は光明に行き着くことになる。Osho p232

12)この見事な定義も見落としていた。

13)今回、通読してみて、やはり、カリール・ジブラン、ウィットゲンシュタイン、アラン・ワッツの、それぞれの追っかけ+再読は必要だな、と思った。

14)まずは、これを持って、第何次かの、この本の卒業とする。

<83>につづく

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2011/11/19

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる 梅田望夫<44>

<43>からつづく

【送料無料】ウェブ進化論
「ウェブ進化論」 本当の大変化はこれから始まる<44>
梅田望夫 2006/02 筑摩書房 新書 249p
★★★★☆

1)定期的にこの本をよみたくなるらしい。前回読んだのは一年半前だ。最初に読んでからほぼ6年が経過しようとしている。著者の他の本もおっかけた。

2)当ブログにおける「ジャンルを象徴する3冊」のもっともベースになる部分の本書には、感謝している。この本がなかったら、私はブログを書かなかっただろう。

3)ただ、もうさすがに古すぎる。「本当の変化」はだいぶ起きてしまっている。

・ウェブ社会は、パソコンからケータイ、そして今やスマートフォンが主流となっている。

・ツイッターやフェイスブックが台頭し、ブログはやや古く不便なツールとなりつつある。

・ビル・ゲイツは引退し、スティーブ・ジョブズは亡くなった。

・ソフトバンク、楽天に続いて、モバゲーのDeNAがプロ野球球団のオーナーになる。

・ウィキリークスなどが、鋭角的な政治活動を展開している。

・ツイッターが世界を網羅し、各地域の反乱に拍車をかけている。疑似マルチチュードと見てもいいかも。

・3.11が起き、ウェブの必要性と虚弱性が指摘された。

・あの時はまさか、と思ったが、我が家で宅配新聞をとらなくなって4年半以上も経過した。

・図書館ネットワークが大きくウェブに開放した。

・セカンドライフは撃沈した。

・オープンソースやリナックスは、期待したほど、自分の身近なものにはならなかった。

・ブログにおけるアフェリエイトやアドセンスも、自分の身近なものにはならなかった。


4)この本、再読してみたが、私の手元の本は、全頁、黄色のマーカーと、赤のサインペンと、ボールペンの黒で、ぐちゃぐちゃになっている。まともな真っさらな気分で本書を読むことができない。この次、再読する時は、図書館から借りて、もっときれいな本を読みたい(笑)。

5)この本から派生した形で、他の関連もおっかけた。
第三の波プロジェクト曼荼羅2010 
「第三の波」プロジェクト関連リスト<統合版> 
ツイッター関連リスト 
梅田望夫関連リスト 
読書マンダラ2006~10 
奥野卓司関連リスト  
追悼 セカンドライフ 合掌
などなど

6)当ブログも、「意識をめぐる読書ブログ」という固定概念に留まっていていいのか。面倒なので、ブログ→ツイッター→SNSという連動をさせて、一元化を図っていたが、最近は反省して、ひとつひとつを切り離し、個別に機能化を図ろうと思いつつある。

7)まったく違った次元の話だが、ネット上だけであった、チープ化、オープンソース化、マスコラボレーション化が、3.11後、社会的なリアル面で起きている。ネットハイウェイじゃなくて、現実の被災地の高速道路が無料化し、どんどん交通も割安で使えるようになった。

8)ここは、パソコンに張り付いていた6年前と違って、スマホをポケットに入れて、銀河環状高速を駆け巡る時代がきているようなのだ。

9)技術的なことやソフトプログラムなどについてはお手上げで、当ブログではすでに追っかけを中断してしまっているが、時々、定期的には、技術や科学のブラッシュアップを、今後も図っていく必要がある。

<45>につづく 

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OSHO ZEN TAROT <9>内側へ向かう(TURNING IN)

 

 

Zen052turningin   <8>よりつづく 

 

OSHO ZEN TAROT <9>

51. 内側へ向かう(TURNING IN)

 

 

 

 内側に向きを変えることは、向きを変えることではまったくない。内側に入って行くことは、行くことではまったくない。内側に向きを変えるということは、あなたがあれこれと欲望を追いかけてきて、追いかけるたびに何度も何度も欲求不満にみまわれつづけてきたことを意味しているだけだ。

 

 どの欲望も惨めさをもたらすということ、欲望を通しては満たされることはないということだ。あなたはけっしてどこにも行き着かないということ、満足することはありえないということだ。この、欲望を追いかけてもどこにも行き着かないという真理を見て、あなたは止まる。

 

 止まろうと努力するのではない。止まろうと努力したら、またしてもそれは追いかけることだ——微妙な意味で。あなたはいまだに欲しがっている——あなたが欲しがっているのは、今度は無欲かもしれない。内に入るために努力しているのであれば、あなたは依然として外に向かっている。

 

 努力はすべて、あなたを外に、外側に連れ出すことしかできない。旅はすべて外に向かう旅だ。内に向かう旅はない。どうやって内側に向かって旅ができるかね? あなたはすでにそこにいるのだ。行こうとすることなど問題外だ。

 

 行こうとすることが止まったら、旅をすることも消える。欲しがることであなたの心がもはや曇っていないとき、あなたは内にある。「内側に向かう」と言われているのはこのことだ。だが、それは向きを変えることではまったくない。たんに外に出て行かないことだ。Osho This Very Body The Buddha Chapter 9

 

 

 

 

解説:

 

 このイメージの女性は、かすかな笑みを浮かべています。じつは、彼女は心(マインド)のたわむれをただ見守っているのです——。それらを判断せずに、止めようとせずに、同化せずに、まるで通りの往来か池の水面のさざ波でもあるかのように、ただ見守っています。

 

 それに、心のたわむれはあなたの気を引き、ゲームへ誘い込もうとして、跳んだりはねたり、あちこちに捻れたりして、ちょっと可笑(おか)しくもあります。心(マイド)から離れているコツをつかむのは、最大の祝福のひとつです。

 

 瞑想とは、ほんとうはそういうことなのです——真言(マントラ)を唱えたり、誓いの言葉を繰り返したりするのではなく、まるで心は誰かほかの人のものであるかのように、ただそれを見守ることです。

 

 今、あなたには、この距離をとって、ドラマに巻き込まれることなくショーを見守る準備が整っています。そうできるときはいつでも、「内側に向かう」というこの簡素な自由をじっくりと味わえば、あなたの内側で瞑想のコツが育ち、深まっていきます。Copyright © 2011 Osho International Foundation

 

<10>につづく

 

 

 

 

 

 

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増補チベット密教 ツルティム・ケサン /正木晃 <7>

<6>よりつづく

「増補チベット密教」 <7>
ツルティム・ケサン /正木晃  2008/05 筑摩書房 
★★★★★

1)当ブログにおける「ジャンルを象徴する3冊」に残っている本書であれば、ぜひ再読はしておきたいと思っていた。そこに、ブータン国王の「龍発言」があり、一挙にこの本を読みたくなった。

2)ざっと再読して、やり残しているなぁ、と思ったことを列挙しておく。

a、「ミラレパの百万歌」 完読 
b、津田眞一
「反密教学」再読 
c、
「現代人のためのチベットの死者の書」再読 
d、
ツォンカパ追っかけ 
e、
「サンヴァラ系密教の諸相」の再読 
f、
700年前のチベットの確定 明確化 
g、
ナーガルジュナ(竜樹)の追っかけ
h、
「チベット密教の本」再読 
i、
チョギャム・トゥルンパ再読 
j、その他

3)本文は当然としても、巻末の「読書案内」のリストは多いに役だった。リストの殆どを読破したつもりだが、ひょっとすると、「増補」版になった時に、読書案内も増補になった可能性もあり、それはそれで再チェックが必要だ。

4)本文を読んでみて実に奥の深い、よくまとまった一冊だと感心する。さらに数年後に読書したら、もっと違う印象になるだろう。

5)当面、急いやろうと思うのは、a、b、c、の三点。他のは時間がある時に順次やろう。

6)それにしてもチベット密教は、もう、ある意味末期的な症状を示していると思わざるを得ない。津田眞一が「反密教学」で引導を渡そうとする意味が分かる。

7)現代人にとっは、もう手の付けようのない修業体系となっており、グローバルな地球人スピリットを模索する立場とは、これだけの業績を上げたことについては敬意を表しつつ、新たなる始まりに期待する以外にない。

8)グローバルな現代地球人にとっては、もっとお手軽な瞑想法が必要でしょう。

<8>につづく

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地球人スピリット宣言草稿<9>CONSCIOUSNESS

<8>からつづく


「地球人スピリット宣言草稿」 
<9>CONSCIOUSNESS

1)当ブログの30いくつあるカテゴリを三つのジャンルに絞り、読書ブログとし統合してみようとすると、三冊の本が残った。これはこれで納得できる。

3

2)さて、それでは、さらにポイントをZENと定め、さらに、それをOSHO ZEN TROTの中の一枚に求めようとすると、いみじくもCONSCIOUSNESSが出た。なるほど~~、これはこれでいいんじゃないでしょうか。これで決まりでしょう。

Zen069consciousness
3)現在進行形の「センダード2012」カテゴリにおける煮詰めは、この方向でよいのではないだろうか。あとはドラゴンだな、と思いつつ、瞑想をはじめたところ、一番手元にあったのが、チャクラブリージング

Cb_2

4)今のところ、これでしょう、と思っていると、来日中のブータン国王が被災地福島相馬を訪問し、子どもたちにメッセージを贈った。

 「龍は心の中にいる。 自分の龍を育てなさい。」

 いい言葉だな。さっそく当ブログでもいただくとする。

Photo

5)上記「増補チベット密教」の読書案内の中にも、「ブータン仏教」が紹介されている。

ブータン仏教をよく知るために

「ブータン仏教から見た日本仏教」 今枝由郎  2005/06  NHKブックス 
「ブータン中世史」 今枝由郎 2003/02 大東出版社

当ブログ独自に追加 
「ブータンに魅せられて」 今枝由郎 2008/03 岩波書店
「ブータン 地球の歩き方」 2005/2 ダイヤモンド・ビッグ社

<10>につづく 

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チャクラブリージング瞑想

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チャクラブリージング瞑想 
60分
Vol.3 No.0543★★★★☆

7つのチャクラを浄化する瞑想です。
呼吸を使って強烈に全てのチャクラを浄化するための瞑想です。3つのステージをブリージングと共に通過することにより、貴方は生き生きと蘇ったチャクラを感じその中に深くくつろいでいくこととなるでしょう。

  • 第 1 ステージ―― (45 分)
    足を開いて立ち、リラックスし、目を閉じ口を開け、第一チャクラに深く呼吸を入れるようにします。こころちよくチャクラの感覚や感触に気付けるようなリズムで呼吸をしましょう。合図により上のチャクラに移り、第七のチャクラから。また、各チャクラを通過して戻っていきます。この上昇、下降を3回繰り返します。

     

  • 第 2 ステージ―― (15 分)
    目を閉じ静かに座り、観照して下さい。
  • この瞑想は7つのチャクラを目覚めさせ、それを体験するためのものです。動的な瞑想で、深く速い呼吸を使い体を動かし、また音楽的な音によってチャクラを開き、気付きと活力をもたらします。早朝か午後、夕食前の胃の中が空っぽの時に行なうのが適当です。

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    OSHO ZEN TAROT <8>夢(THE DREAM)

     

     

    Zen054thedream  <7>よりつづく 

     

    OSHO ZEN TAROT <8>

    53. 夢(THE DREAM)

     

     これは多くの時代を経て、何度も何度も言われてきたことだ。宗教的な人びとはみな、こう言っている——「私たちはこの世に独りでやって来て、独りで去っていく」。いっしょにいるということは、すべて幻想だ。いっしょにいるという考えそのものが、私たちは独りであり、その孤独が痛みを伴うからこそ生じる。私たちは自分たちの孤独を関係のなかでまぎらわせたいのだ……。

     私たちがこれほど愛に熱中するようになるのはそのためだ。要点を見ようとしてごらん。普通、あなたがたは、自分がある女性あるいは男性と恋に落ちたのは、その彼女あるいは彼が素晴らしいからだと思う。それは真実ではない。真実はまさに逆だ。

     

     あなたは独りでいることができないから、恋に落ちたのだ。あなたは落ちようとしていた。いずれにしろ、自分を避けようとしていた。そして、なかには女性や男性とは恋に落ちない人たちもいる——そうなると、彼らは金(かね)と恋に落ちる。金へと、あるいは権力(パワー)闘争(トリップ)へと入り込み、政治家になる。それもまた自分の孤独を避けることだ。

     

     もし人をよく見たら、自分を深く見守ったら、あなたは驚くだろう——。あなたのあらゆる行動をたったひとつの根源へと還元することができる。その根源とは、あなたは孤独を怖れているということだ。ほかはすべて言い訳にすぎない。ほんとうの原因は、自分はひじょうに孤独だということにあなたは気づいているということだ。Osho Take it Easy, Volume 2 Chapter 1

     

    解説:

     

     ある魅惑的な夕べに、あなたは魂の伴侶(ソウルメイト) 、自分の要求や夢をすべてかなえてくれてる完璧な人に会うことになっている。そうでしょう? でも、違いますよ!ソングライターや詩人たちが好んで不滅のものにしようとするこのファンタジーは、まったく安全で母親と「ひとつ」につながっていた子宮にいたときの記憶に根ざしています。

     

     その場所に帰ることを私たちが生涯を通じて強く望んでいるとしても、不思議ではありません。しかし、残酷な言い方をすれば、それは子どもじみた夢です。そして、現実を目の前にしてすら、私たちが頑固なまでにそれにしがみつくというのは、驚くべきことです。

     

     あなたの今の伴侶であれ、夢に描いた未来のパートナーであれ、あなたの幸せをいとも簡単に運んでこなければならない義務など誰にもありません——たとえその人たちがそうしたいと思っても、それはできないのです。

     

     ほんとうの愛は、自分たちの困窮した状態を他に頼って解決しようとすることから来るのではなく、私たち自身の内なる豊かさと成熟を育むことからやって来ます。そうなったら、私たちには与えるだけの多くの愛があり、ごく自然に恋人たちを引きつけます。Copyright © 2011 Osho International Foundation 

     

    <9>につづく

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    地球人スピリット宣言草稿<8>これでいいのかよ

    <7>からつづく 


    「地球人スピリット宣言草稿」 
    <8>これでいいのかよ

    1)さて、いざやってみると、タロットも禅宣言も、いまいちフィットしない。

    2)タロットはなかなか面白い。以前に同じようにスタートしたところ、出たカードはCOMPROMISE(妥協)」GUILT(罪悪感)」だったからか、すぐ頓挫してしまった。途中で気を取り直して再スタートしようとADVENTURE(冒険)」を引いたが、それでもやっぱりうごかなかった。

    3)今回は、なんと「CONSCIOUSNESS(意識)」THE CREATOR(クリエイター)」と、なかなか調子はいいのだが、逆にいうと、カードをこのように貼りつけるだけではあんまり意味ないのではないか。

    4)禅宣言のほうも、いざ登場し人物たちをリストアップしてみたが、約70名ほどのリストの主要な人物たちはすでに当ブログで取り上げてきたし、残っているのは伝統の中の禅師たちの名前が多く、彼らについてはそれほど資料は多くない。基本的には、最後の講話録・ZENシリーズに連なってくる部分だ。

    5)アラン・ワッツ鈴木大拙は上記のリストの中に含まれていて、階層をひとつ下げただけだし、ウィットゲンシュタインや黒埼宏あたりは、そもそもZENとは直接の関連は少ない。

    6) 禅語事典は、かなり貴重な本で、高価で、内容も素晴らしいという思い込みがあったのだが、いざネットで調べてみると、なんと数百円で古書がでていて、新たに入手する立場になればうれしいのだが、相対的にモチベーションがダウンしている感じがする。

    7)玉川信明「Osho禅を語る」最後の講話録・ZENシリーズに連なってくる部分であり「私が愛した本」仏教、禅関連も新たに読み直す必要が本当にあるのだろうか。

    8)Osho Zen Tarot 出典リストも気になるが、上の各項目と縦横に関連してくる。なかなか決めてが浮かばない。

    9)ここで一枚カードを引いてみる。

    <9>につづく

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    龍は心の中に 自分の龍を育てなさい ブータン国王

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    2011/11/18

    OSHO ZEN TAROT<7> クリエイター(THE CREATOR)

    Zen024thecreator <6>よりつづく 

    OSHO ZEN TAROT <7>

    23. クリエイター(THE CREATOR) 

     世界にはふたつのタイプのクリエイターがいる。一方のタイプのクリエイターは対象に取り組む——詩人、画家、彼らは対象に取り組む、ものごとを創造する。もうひとつのタイプのクリエイター、神秘家は、自分自身を創造する。

     彼は対象には取り組まず、主体に取り組む。自分自身に、自分の実存に働きかける。そして、そういう人こそが、ほんとうのクリエイター、ほんとうの詩人だ。自分自身をひとつの最高傑作にするからだ。

     あなたは自分の内側にひとつの最高傑作を隠しもっている。だが、あなた自身が道に立ちはだかっているのだ。

     ちょっと脇によければ、その最高傑作が現われてくるだろう。誰もが最高傑作だ。というのも、神はなにひとつそれ以下では誕生させないからだ。誰もが何生にもわたってその最高傑作を隠しもっている。自分とはいったい誰なのかも知らずに、ただ表面で何者かになろうとして——。

     何者かになるという考えを落とすがいい。あなたはすでにひとつの最高傑作なのだ。そのあなたをもっと良くすることなどできない。あなたはただそれに気づき、それを知り、それを悟ればいいだけだ。神みずからがあなたを創造したのだ。そのあなたをもっと良くすることなどできはしない。

    解説:

     このカードの禅マスターは火のエネルギーに手綱(たづな)をつけ、それを破壊ではなく創造に使うことができます。情熱の火を抑圧することもなく、破壊的な方向に働らかせてバランスを失うこともなく、その情熱の火をマスターした者たちに備わっている理解を共に認識し、共に参加するようにと、彼は私たちを招待しています。

     彼はとても統合されていますので、内側の自分と外側の世界の自分とのあいだにもはや違いはありません。彼は自分のところにやって来たすべての者たちに、この理解と統合という贈りものを差し出します。それは彼自身の実存の中心からやって来る、創造性にあふれた光の贈りものなのです。

     「火のキング」はこう語っています——成熟から生じる理解があれば、いま私たちが着手しているすべてのことが、私たち自身の生とほかの人たちの生に豊かさをもたらすことになるだろう、と。なんであれ、あなたのもっている技能をすべて使って、自分の生の体験から学んだことを総動員して、自分自身を表現する時です。
    Copyright © 2011 Osho International Foundation

    <8>につづく

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    2011/11/17

    大津波と原発 内田樹/中沢新一 /平川克美

    【送料無料】大津波と原発
    「大津波と原発」 
    内田樹/中沢新一 /平川克美 2011/05 朝日新聞出版 単行本 119p
    Vol.3 No.0542★★★★☆

    1)3.11後、8ヵ月が経過して、壊滅状態だった図書館も一時補強で再開したあと、再び本工事に入って休んでいる館も出てきている。

    2)超人気本だったものも、ウェイティングリストを消化し、次第に新刊本コーナーにも並ぶようになった。

    3)この本も、なかなか読めなかったが、もう一巡したようで、ようやく予約なしで読めるようになった。だから、タイトルといい、内容といい、やや時期を外した本ではあるが、この対談者たちの名前を見ると、やはり手がでてしまう。

    4)平川は当ブログではお初だが、内田中沢はすでに登場している。

    5)震災後一カ月で開かれた鼎談だが、はっきり行って、やはり今読むにはすこし時期を外していて、むしろこの人たちの最近の言説のほうが気になってくる季節となっている。その中でも、気になる部分もあちこちにある。

    6)中沢・・・甘ったるい話だなんて誤解されるのが嫌だから言わないようにしていたんだけれど、宮沢賢治みたいな人が東北をどうするかって考えていたのは、こういうときのためなのだと思うのです。イーハトーヴの思想なんて、これからの復興の基本思想に据えていくべきものです。

     宮沢賢治はそういう思想を童話で表現しておいたから、甘い話だなんて思う人もいるかもしれないけれど、彼は貧しい東北をどうやったら未来にとってもっとも輝かしい地帯につくりかえられるかということを、本気で考えていた人です。

     そんなことを考える思想家が生まれ得たのは、東北だからです。東北はそういう可能性がある場所なんです。ぼくの考える「緑の党」の旗には、宮沢賢治と紀州の南方熊楠が描かれるんだ。p88

    7)中沢「緑の党」はそれなりに前向きに取り組んでいるようだ。今後すこしフォローしてみよう。

    8)それにしても、被災地において賢治をたちあげる、ということはどういうことなのだろう。当ブログでは、賢治をなぞってみると、最も中核になるべき部分は「農民芸術概論綱要」であると判断した。

    9)そして、当ブログの6年を自らダイジェストして行く過程で、賢治の「綱要」にならった形で、「地球人スピリット宣言草稿」を書き進めるプロセスに入っている。そして、この「草稿」は、OSHOの「禅宣言」「ZEN TAROT」の触媒と接触させることによって、さらに今日的で、実際的なものにしようと、目論んでいる。

    10)中沢新一と言えば、今読み返してみたいと思うのは3冊ある。「哲学の東北」 1995/5、「アースダイバー」  2005/5、「憲法九条を世界遺産に」 2006/8。

    11)あるいはもう一冊「芸術人類学」 2006/3を加えてみるのもいいかもしれない。ここからどのように「中沢緑の党」に繋がっているだろう。そこにどのように賢治が働きかけているだろう。

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    OSHO ZEN TAROT <6>意識(CONSCIOUSNESS)

    Zen069consciousness <5>よりつづく 

     

    OSHO ZEN TAROT <6>

     

    68. 意識(CONSCIOUSNESS)

     

     私たちは未知なるものからやって来て、未知なるもののなかへと進みつづける。私たちは再びやって来るだろう。

     私たちはここに何千回となくいたことがあるし、これからもここに何千回となくいることになるだろう。

     

     私たちの本質的な実存は不滅だが、私たちのからだ、形として現われている私たちは、かならず滅びる。私たちがそのなかにいる枠、私たちの家、からだ、心(マインド) は、物質的なものでできている。

     それらは疲労し、年を取り、死んでしまう。だが、あなたの意識——菩提達磨(ボーディダルマ)は「無心(ノーマインド)」という言葉を使い、ゴータマ・ブッダも「無心」という言葉を使っているが——それはからだと心を超えたなにか、あらゆるものを超えたなにかだ。その無心は永遠だ。

     それは表現となり、そして再び未知なるものへと入っていく。この未知なるものから既知なるものへ、そして既知なるものから未知なるものへの動きは、その人が光明を得ないかぎり永遠につづく。

     光明を得たら、それがその人の最後の生になる。そうなったら、この花はもう二度と戻ってこない。自分に気づくようになったこの花には、生に戻ってくる必要はない。生は学ぶための学校以外のなにものでもないからだ。その人はレッスンを学んだ。もう迷いを超えている。

     その人は既知なるものから未知なるものへではなく、不可知なるものへと初めて入っていく。
     Osho Bodhidharma, the Greatest Zen Master Chapter 5 

     

    解説:

     

     この心(マインド)の組(スート) のカードは、そのほとんどが戯画的なものか、あるいは問題のからんでいるものばかりです。それは、心が私たちの生に与える影響が、たいていはばかげているか、あるいは耐えがたいものだからです。

     しかし、「意識」というこのカードは、巨大な仏陀の像を表わしています。彼には途方もない広がりがあるために星さえも超えてしまい、その頭上には純粋な空(くう) があります。彼は意識を表わし、その意識は、心の主人(マスター) となって、その心を本来あるべき召使として使うことのできる、すべての者たちのためにそこにあるのです。

     

     このカードを選んだときは、水晶のように澄んだ明晰さ——超然として、あなたの実存の中核に横たわる静けさに深く根づいている明晰さが、まさに今、用意されていることを意味しています。

     心の尺度で理解したいという欲望はありません——あなたに今ある理解は、存在に即したものであり、全体的で、生そのものの鼓動と調和しています。この大いなる贈りものを受け容れ、分かち合いましょう。
     Copyright © 2011 Osho International Foundation 

     

    <7>につづく

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    2011/11/16

    禅宣言 OSHO<12>まな板に乗った人々

    <11>からつづく

    禅宣言
    「禅宣言」<12> OSHO /スワミ・アドヴァイト・パルヴァ 1998/03  市民出版社 単行本 541p

    「禅宣言」でOSHOのまな板に乗った人々 工事中 

    U.G.クリシュナムルティ p13
    J.クリシュナムルティ p14
    神智学協会 p17
    リード・ピーター p19
    アニー・ベサント p20
    ゴータマ・ブッダ p20
    ソクラテス p25
    鈴木大拙 p26
    ジャン・ポール・サルトル p27
    ボーディ・ダルマ p30 p334
    アラン・ワッツ p31
    マハカーシャッパ p31
    カビール p32
    丹霞天然 p49
    ミケランジェロ p55
    天竺 p57
    カザンザキス p63
    マグダラのマリア p65
    南陽 p70
    百歳 p72
    馬祖 p93
    トマス・マートン p92
    ポール・レップス p96
    ユベール・ブノワ p96 p284
    イエス・キリスト p101 p347 p419
    クリシュナ p101
    アリストテレス p118
    マハヴィーラ p123
    長蘆(ちょうろ) p160
    千崎如幻 p166
    アルバート・アインシュタイン p172
    E.ムーア p174
    石頭和尚 p206
    ラーマクリシュナ p226
    羽紅 p247
    宝徹 p262
    石室 p298
    長髭 p298
    フリッチョフ・カプラ p315
    仰山 p328
    ゲオルギー・グルジェフ p336 p466
    凡兆 p348
    ウィルヘルム・ライヒ p350
    大顛(だいてん) p366
    一休 p368
    ジョン・スティーブンス p381
    ウォルト・ホイットマン p385
    ジークムント・フロイト p395
    芭蕉 p401
    ソロモン p402
    フィリップ・カプロー p402
    ナンシー・ウィルソン・ロス p441
    コンスタンティヌス p444
    清平(しょうへい) p456
    翠微(すいび)p456
    ケン・ウィルバー p458
    マンタク・チア p461
    ヘロドトス p463
    カリフ・オマール p467
    ピカソ p469
    ムムタズ・マハール p471
    一茶 p475
    エーリッヒ・フロム p476
    カール・グスタフ・ユング p478
    洞山(とうざん) p490
    潙山(いさん) p490
    雲厳(うんがん) p490
    ゲシュタ・イタル p492
    カール・ヤスパース p518

    <13>につづく
     
     

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    Osho Zen Tarot <5>カードリスト

    <4>よりつづく

    Zen

    OSHO ZEN TAROT <5>

    MAJAR ARCANA(大アルカナ)

    O    THE FOOL(愚者)
    Ⅰ    EXISTENCE(存在)
    Ⅱ   INNER VOICE(内なる声) 
    Ⅲ   CREATIVITY(創造性)
    Ⅳ   THE REBEL(反逆者)
    Ⅴ   NO-THINGNESS(ノー・シングネス 無)
    Ⅵ   THE LOVERS(恋人たち)
    Ⅶ   AWARENESS(覚醒)
    Ⅷ   COURAGE(勇気)
    Ⅸ   ALONENESS(独りあること)
    Ⅹ   CHANGE(変化)
    ⅩⅠ BREAKTHROUGH(突破)
    ⅩⅡ NEW VISION(新しいビジョン)
    ⅩⅢ  TRANSFORMATION(変容)
    ⅩⅣ INTEGRATION(統合)
    ⅩⅤ CONDITIONING(条件付け)
    ⅩⅥ THUNDERBOLT(稲妻)
    ⅩⅦ SILENCE(沈黙)
    ⅩⅧ PAST LIVES(過去生)
    ⅩⅨ INNOCENCE(無垢)
    ⅩⅩ BEYOND ILLUSION(幻想を超えて)
    ⅩⅩⅠCOMPLETION(完成) 
    THE MASTER(マスター)

    MINOR ARCANA(小アルカナ)

    火:行動をマスターすること

    火のキングTHE CREATOR(クリエイター)
    火のクイーンSHARING(分かち合い)
    火のナイトINTENSITY(激しさ)
    火のペイジPLAYFULNESS(遊びに満ちる)

    水:感情をマスターすること

    水のキングHEALING(ヒーリング)
    水のクイーンRECEPTIVITY(受容性)
    水のナイトTRUST(信頼)
    水のペイジUNDERSUTANDING(理解)

    雲:心をマスターすること

    雲のキングCONTOROL(コントロール)
    雲のクイーンMORALITY(道徳)
    雲のナイトFIGHTING(戦い)
    雲のペイジMIND(心)

    虹:からだをマスターすること

    虹のキングABUNDANCE(あふれ出る豊かさ)
    虹のクイーンFLOWERING(開花)
    虹のナイトSLOWING DOWN(スローイング・ダウン)
    虹のペイジADVENTURE(冒険)

    火の組(スート)

    火の2POSSIBILITIES(可能性)
    火の3EXPERIENCING(体験している)
    火の4PARTICIPATION(参加)
    火の5TOTALITY(全一性)
    火の6SUCCESS(成功)
    火の7STERESS(ストレス)
    火の8TRAVELING(トラベリング)
    火の9EXHAUSTION(消耗)
    火の10SUPPERESSION(抑圧)
    火のACETHE SOURCE(源)

    水の組(スート)

    水の2FRIENDLINESS(親しさ)
    水の3CELEBRATION(祝祭)
    水の4TURNING IN(内側に向かう)
    水の5CLINGING TO THE PAST(過去への執着)
    水の6THE DREAM(夢)
    水の7PROJECTIONS(投影)
    水の8LETTING GO(手放し)
    水の9LAZINESS(怠惰)
    水の10HARMONY(ハーモニー)
    水のACEGOING WITH THE FLOW(流れと共に行く)

    雲の組(スート)

    雲の2SCHIXOPHERENIA(精神分裂症)
    雲の3ICE-OLATION(アイス・オレーション)
    雲の4POSTPONEMENT(引き延ばすこと)
    雲の5COMPARISON(比較)
    雲の6THE BURDEN(重荷)
    雲の7POLITICS(政治)
    雲の8GUILT(罪悪感)
    雲の9SORROW(嘆き)
    雲の10REBIRTH(再誕生)
    雲のACECONSCIOUSNESS(意識)

    虹の組(スート)

    虹の2MOMENTO TO MOMENT(瞬間から瞬間へ)
    虹の3GUIDENCE(ガイダンス)
    虹の4THE MISER(けち)
    虹の5THE OUTSIDER(アウトサイダー)
    虹の6COMPROMISE(妥協)
    虹の7PATIENCE(忍耐)
    虹の8ORDINRINESS(普通であること)
    虹の9RIPENESS(熟すこと)
    虹の10WE ARE THE WORLD(ウィ・アー・ザ・ワールド)
    虹のACEMATURITY(円熟)

    <6>につづく

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    地球人スピリット宣言草稿<7>当ブログにおけるZENの現況

    <6>からつづく 


    「地球人スピリット宣言草稿」 
    <7>当ブログにおけるZENの現況

    1)さて、話題がZENに絞られてくると、この6年間でやり残してきたことがいろいろ思い出される。宿題として保留していたつもりだったが、何時の間にか後回しになり、ついぞ手つかずで終わってしまうかも知れないのだ。

    2)仮に何時かやるつもりでいたとしても、例えば3.11のような形で、私の人生もサドンデスで終わってしまう可能性もあるのである。

    3)いや、ZENにおいては、ここが終わりということがないのだから、逆に言えば、3.11をもって、当ブログにおけるZENは終了した、としてしまうことだって可能なのだ。一体、どこまで来ていたのだろう。

    4)関連の動きを、前出したものも含め列挙してみれば・・・。

    a、Osho最後の講話録・ZENシリーズ(未確認版)

    b、Osho Zen Tarot 出典リスト

    c、アラン・ワッツ関連リスト

    d、禅宣言

    e、「私が愛した本」 仏教、禅関連

    f、鈴木大拙関連

    g、禅語事典関連

    h、ZENセラピー関連

    i、ウィットゲンシュタインと黒埼宏あたりの絡み

    j、玉川信明「和尚(ラジニーシ)、禅を語る」の再検証

    k、その他

    5)aはどうしてもやりたいのだが、なにぶんに英語であり、また英語本が全て揃っているわけではないので、それを揃えていく必要がある。今あるものを精読するところから始めるのか、全部揃えることを最初にやるのか、悩んでいるうちに3.11が来てしまった。

    6)dはaのシリーズの完結編だが、この一冊だけを精読する、という手もある。登場してくる人物たちを一人一人追っかけていくつもりでいたが、3.11が来てしまった。

    7)bは、順々にタロットの使い手になろうと目論んでいたが、いまいち馴染みが薄いまま3.11が来てしまった。

    8)cはまず文献探しから始めなければいけないのと、必ずしも今日的ではない部分があるので、やや好事家的になってしまうのではないか、と思っているうちに3.11が来てしまった。

    9)eは、ひととおり文献探しとめくり方は終わっているのだが、あとは精読というつもりでいたところに、3.11が来てしまった。

    10)fは、Oshoとは切り離したところでも関心があったのだが、どうもタイミングが悪く、また相性も良くない。飛ばしてしまってもしかたないのではないか、と思っているうちに3.11が来てしまった。

    11)gはまったく好事家的趣味で、どっちみち飽きてしまうだろうとは思っていたが、余裕があるなら、やってみようかなぁ、と思っているうちに3.11が来た。

    12)hは数は多くないが、ZENという三文字を使うセラピストや心理学者もいるので、その辺をすこしパトロールしたい、とは思っていたが、ボリュームはほとんどない。

    13)iは、ほとんどやらないだろう。面倒くさそう。ただ、魅力はあるね。

    14)jはすでに終わったが、kその他と残したのは、どうも他にも手をかけていることがありそうなので、思いだしたら、その時に追記することにする。

    15)何れにせよ、このやりかけの仕事のまま、私の人生が終わったと仮定した場合、私はどれほど、あの世で後悔するだろうか。残念ながら、別に後悔もしそうもない。これはこれで良かった、というレベルまでは行っていたように思う。

    16)では、生まれ変わったとして、一番先に近寄っていきたいポイントはどこだろうか、と考えてみる。それはタロットと「禅宣言」のようだ。

    17)したがって、いろいろやり残したことも多く、突っ込みも不足している部分も多くあれど、まずはタロットと「禅宣言」から再スタートすることにしよう。タロットはカードとして親しみ、宣言は、内部の人物追っかけをしてみよう。

    <8>につづく

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    石川裕人戯曲集「時の葦舟」三部作 <1>

    Asi
    「時の葦舟」三部作 石川裕人戯曲集<1>
    石川裕人 2011/02 Newton100実行委員会 単行本 p262
    Vol.3 No.0541★★★★★

    1)私はこの作家の作品を正当には評価できない。よいのかわるいのか。おもしろいのかおもしろくないのか。それすらもよく分からない。なんせこの人は身近すぎる。モノを見るのでも、適正な距離感というものが必要だろう。50センチとか60センチとか、本の文字ズラとの一定程度の距離が必要だ。

    2)しかし、この人との距離は近すぎる。裸眼のすぐ前にあり、二つの眼が実像をなかなか結んでくれないのだ。いやいや、そうでもないかもしれない。私は私なりに適正な距離を保とうとしてきたのだ。だが、やはり実像が見えないとすれば、この人の本体が大きすぎて、もはや双眼鏡や天体望遠鏡を持ってして見るべき存在となっているのかもしれない。

    3)この人と「友人」になったと思えるのは中学校1年生の時で、9年間一緒の学校に通っていたが、小学校の時は同じクラスにならなかった。同じクラスになったのは、中一の一年間だけだった。

    4)だが、強烈に覚えているのは、小学校3年生の時。学芸会の時、劇に出演することが決まっていた私たちは、役を割り当てられ、最初、主役のキツネを演じるのは、実は私だった。ところが二回目か三回目の練習の時間に、私はなんと「村の子供3」に降格となり、空白となった主役を演じることになったのが、この本の著者であるw。

    5)その時の写真は残っていないが、次の年の4年生の時の「孫悟空」でも、私(最前列中央、大王の左隣)は主役にはなれずに「護衛」となり、主役である「孫悟空1」を演じたのが、やはりこの本の著者(最前列中央大王の右隣)であった。

    1963

    4)中一の時、彼は「ボーイズライフ」という月刊誌をクラスに持ち込み、その影響の下、私たちは、クラスメイト10数人を巻き込む肉筆雑誌「ボーイズファイター」を創刊した。わら半紙に鉛筆で書いたものだが、マンガあり、小説あり、カラーの表紙あり、クイズありの200頁であった。これは一年間のうち5号まで続いて、なんと一回10円で、クラス中を回し読みされたのだ。

    5)残念ながら、この雑誌は後年、手違いでチリ紙交換に回されてしまって実存しないが、結構コミケ・ブームの先を行っていたのではないか。1966年、ビートルズ来日の年である。

    6)その年、3年生の送る予餞会の時、私たち二人は余興で漫才をすることになった。タイトルは「アルバイト」。この時、内容は二人で相談したが、シナリオは私が書いた(ここを強調しておきたいw)。この時、タイムキーパーなど裏方をやったのが、後に東由多可の「東京キッドブラザーズ」に行ったK。

    7)著者とKは同じ高校に進み、二人は学園祭で演劇を立ち上げた。その時のスペースは、階段の踊り場を利用する異色のアイディアであった。観客こそ決して多くなかったが、人気は高かった。この時、すでに「座敷童子」という劇団名を名乗っていたのではないだろうか。

    8)私は別な高校に進学したが、著者とは交流があり、1970年前後は、黒テントや紅テント、夜行館などの公演を一緒に見にいった。黒テントの公演はこの時以来見ておらず、先日40年ぶりで見た。

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    9)高校を卒業すると、互いに作っていたミニコミなどを総合する形で、「時空間」(表紙は私がデザインし、シルクスクリーンで自家印刷した)というミニコミ雑誌をつくるようになったし、一時、共同生活するようになった。ただ、彼は演劇という路線を強調し、私は精神世界への足がかりを探していたために、自然とそれぞれの道を歩むようになった。

    10)当時の彼の演劇のチケット(謄写版)やポスター(シルクスクリーン)を一部手伝ったが、その多くは現存していない。当時のことが彼のブログにすこし書いてある。

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    Tiket1_2 

    11)その後、私の周囲の友人たちの多くが、彼の芝居団にかかわりを持つようになったが、私はOshoの「存在の詩」に触れて、やがてインドにいくことになる。

    12)それ以来、彼の芝居はそれとなく見てはきたが、必ずしも良い観客ではない。回数も多くみていないし、ジックリとその内容を玩味したこともない。

    13)時空はかなり飛んで、今回の3.11の被災地の一つである宮城県山元町で、「人や銀河や修羅や海胆は」 TheaterGroup“OCT/PASS” 石川裕人・作・構成・演出、を見た。久しぶりに感動した。親戚が先日まで避難していたその体育館で、宮澤賢治を彼なりにコンパイルした躍動感あふれる芝居をした。

    14)この芝居はふたたび、この11月26日(土)に、センダードあすとナーガの仮設住宅の集会場で上演される。また12月24日(土)には、エルパーク・スタジオホールで決定版の上演が決まっている(時間未定)。

    15)さて、以上の経緯から、私はこの戯曲集を正当に論評する立場にない。しかし、これは、40年かけて作ってきた彼の世界の、100作の作品のなかから抜き出した自薦の三部作だけに、間違いなく彼の代表作といっていいだろう。

    16)賢治がでてきて、ガイガーカウンターが、考古学が、銀河が、南方熊楠(桜)がでてきてと、今回の上演目とかなり繋がりがあるのではなかろうか。

    17)被災地に立つ賢治。その行く手には何が見えているだろう。

    <2>につづく 

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    わたしの3・11 あの日から始まる今日 茂木健一郎編集

    わたしの3・11 あの日から始まる今日
    「わたしの3・11」 あの日から始まる今日
    茂木健一郎・ 編集 堀江貴文/サンドウィッチマン/上杉隆/高橋源一郎/他 2011/5/20 毎日新聞社 単行: 264p  
    Vol.3 No.0541★★★☆☆

    1)3.11から8ヵ月余が経過した。発生率99%と言われた宮城沖地震に備えていた人たちもいただろうし、突然の被災に驚いた人もいた。私たちOshoサニヤシンにしてみれば、ダイナミック瞑想の「STOP!」がかかったような状態だが、それをキチンと受け止めることができる人はどれだけいただろう。

    2)2011年3月11日午後2時46分。列島の自分がいる場所によっては震動の伝わり方に時差があるだろうし、続いて起きた余震によって、時間的なズレはあっただろう。しかし、3.11という日時は、多くの人々の記憶に叩きこまれた。

    3)震災後、図書館も書店も、ネットさえも壊滅した被災地では、読書もなにもあったものではなかった。また、目の前の光景をみていれば、別に他人の体験談やグラビア雑誌など見る必要もなかった。あるいは、他人の苦労まで背負うほどの余裕がなかった、とも言える。

    4)震災後、短い文章を多くの人が寄せ集める、このようなオムニバス形式のほとんどが面白くなかった。本として首尾一貫しておらず、また、そこに「解決策」があるわけでもない。ほとんどが、印象のパッチワークでしかない。

    5)この本もまた約15人の人々が震災後1ヵ月ほど書いた文章を寄せ集めているわけだが、震災の全体像が描かれているわけではなく、ひとりひとりの生活が、その瞬間として切り取られているだけである。

    6)もちろん、ひとりひとりに関心があれば、それはそれで面白いのだが、それでもやっぱり被災地にはそれほど余裕のある人は多くない、と見るべきだろう。

    7)この本は、茂木健一郎編集となっているわけだが、別にこの本に彼の名前を冠するほど特別な意義もなく、また、彼自身の文章も、普段の「精彩」の片鱗が見えるわけでもない。じつにおざなりな「一般市民」の意見でしかない。

    8)堀江貴文も、たくみに自らの宣伝をしているだけで、ツイッターやその他での彼が自負するほどの「活躍」は、実際の被害に対しては、何事の効果もなかったのではないか、と毒づきたくもなる。

    9)コメディアンのサンドウィッチマンの伊達みきお+富澤たけしは、気仙沼でロケ中に被災し、近くの山に駆け上がって助かったという体験をシェアしている。ビデオでの映像はかなり流布しているが、当日の体験を時系列的に記録している「有名人」の体験談は少ない。被災後一カ月というタイミングだけに、うまくまとめられなかった部分もあるだろうし、コメディアンという立場での表現も苦労があろう。それでも、二人の体験談は貴重だと思える。

    10)他の人々の体験談も押して知るべしという内容である。

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    2011/11/15

    地球人スピリット宣言草稿<6>北極星としてのZEN

    <5>からつづく


    「地球人スピリット宣言草稿」 
    <6>北極星としての
    ZEN

    1)Meditation@Spiritual.Earthとまで絞り込むことができた。しかしだ。ここにきてまで、結局、当ブログはひとつの単語に絞り込めないことを証明してしまったようなものである。「Meditation」、「Spiritual」、「Earth」の三つに分裂してしまったのだ。

    2)そこで考えた。これを「ZEN」という一つの単語にすることができるのではないか。今、私がしているのは、結局、北極星探しなのではないか。VHSビデオ「銀河紀行 宮澤賢治 銀河鉄道の夜」を見ていて、そう気がついた。

    3)北極星ひとつでは、空にならないし、銀河にはならない。また銀河があったとしても、北極星がなかったら、全体の位置が分からないことになる。天の川があり、白鳥座があり、さそり座が、南十字星があるようなものである。

    4)当ブログにおいては、北極星をZENとしよう。そして、そこから銀河世界を紀行しようではないか。

    5)となれば「Osho Zen Tarot 出典リスト」「Osho最後の講話録・ZENシリーズ」の不足分を補いながら、当ブログにおけるZENの意味を明確にしていく手があるだろう。実際には、この二つリストのの不足している未読分はかなりの部分がにオーバラップしている。

    6)そしてそこに、「OSHO@Spiritual.Earth0.3をかぶせていこう。

    7)う~ん、やっぱり、当ブログは常に三つポイントが必要になってくるようだ。絞り込めば絞り込むほど、広がろうとする本質が明確になってくる、とも言える。

    <7>につづく

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    星座紀行 宮澤賢治 銀河鉄道の夜 斎藤文一監修 加藤登紀子語り

    Photo_2
    星座紀行 宮澤賢治 銀河鉄道の夜」
    斎藤文一監修 加藤登紀子語り 1990/02 平凡社 VHS 30分
    Vol.3 No.0540★★★★★

    1)賢治ビデオの中でも秀逸なる一品。1990年と制作年月日は古いが、賢治ワールドをうまくビデオの映像の中に溶け込ませている。

    2)時間も30分と決して長くもなく、アニメやCDに頼っているわけではない。ビデオだし、すでに20年間も図書館で再生されてきたものだから、画質も決していいとは言い難い。

    3)だが、このビデオなら、2回でも、3回でも、何回でもみてみたい、と思ってしまう。

    4)それは、賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフにしながら、決してストーリーに同化せず、映像の技術にも頼らず、ひたすら銀河世界を紀行しようというこころみだからである。

    5)つまりは、プラネタリウムで、「銀河鉄道の夜」を見ているようなものだ。

    6)このビデオを見ていて、ひとつ気がついたことがある。当たり前のことなのだが。人は空を見るために、太陽や月や天の川の位置を確認する。そして、北極星に気づく。北極星がないと、全体が分からない。しかし、北極星だけがあっただけでは、銀河にはならないし、本当の宇宙にはならない。

    7)加藤登紀子のナレーションが、若々しい。

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    地球人スピリット宣言草稿<5>OSHO瞑想へ至る道

    <4>からつづく


    「地球人スピリット宣言草稿」 
    <5>OSHO瞑想へ至る道

    1)互いに支えあい、補完しあう、三つのジャンルという仕分けではなく、ただ一つの言葉で当ブログを象徴させたい、とするなら、それは「瞑想」ということになろう。

    2)当ブログにおいては、「瞑想」は必ずしも、OSHOにダイレクトにつながるものではないが、ブログの進行過程において、OSHOのガイダンスは欠かせないものとなっている。

    3)「瞑想」と「OSHO」の二つのどちらを残すかとなれば、当然一般名詞としての「瞑想」ということになるのだが、当ブログにおいては、それは「OSHO」に大きく依存しているので、結局は、同義と考えてもいい。

    4)したがって、当ブログのこの6年の歩みの中で、「OSHO瞑想」についてどのように触れてきたかが、たった一つの象徴への絞り込みの足がかりとなる。

    5)OSHO瞑想へ至る道

    2008/01/28 Oshoが愛した本のジャンル分け(不完全版)

    2008/03/20 Osho最後の講話録・ZENシリーズ(未確認版)

    2008/03/23 Osho Zen Tarot 出典リスト

    2009/01/15 このカテゴリこの三冊OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2」編

    2009/01/15 このカテゴリこの三冊OSHO@Spiritual.Earth0.3」編

    2009/01/24 英知の辞典 小さな検索(ちょっぴり分) 

    2010/07/25 Osh0講話タイトル:年代順(工事中)

    6)Oshoに対しては、読書量も、瞑想体験も、ブログとしての関与は、我ながら情けなくなることしきりだが、とにかく、ここはここを足がかりとして前にいくしかない。

    7)「Oshoが愛した本のジャンル分け」「Osho Zen Tarot 出典リスト」「英知の辞典 小さな検索」、の三つは「OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2」に集約することができるだろう。ただし、本や講話に特化したOshoということになる。

    8)「Osho最後の講話録・ZENシリーズ」は、当然のことながら他の本の全てとともに「Osho講話タイトル:年代順」に含まれるが、逆に「年代順」は網羅的すぎて、集約への道とは言いにくい。

    「OSHO@Spiritual.Earth0.3こそは瞑想への足がかりではあるが、瞑想CDの紹介というスタイルに留まっている。しかも僅かに3枚だけ。この不足部分こそは、3.11以降の当ブログにおける進むべき道を示しているだろう。

    10)つまり、あらたなる「Meditation@Spiritual.Earth」こそは、今後の当ブログの象徴となる。

    <6>につづく

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    宮沢賢治素描  関 登久也

    Sobyo
    「宮沢賢治素描」
    関 登久也 (著) 1948/02 真日本社 古書 p224
    Vol.3 No.0538★★★★☆

    「続 宮沢賢治素描」
    関 登久也 (著) 1948/02 真日本社 古書 p215
    Vol.3 No.0539
    ★★★★☆

    1)この本、たしか関寿夫「アメリカ現代詩ノート ゲイリー・スナイダー、仏教、宮沢賢治」か、田中泰賢「アメリカ現代詩の愛語 スナイダーと宮沢賢治--宇宙的でくのぼうの道を歩む詩人たち」か、いずれその前後に読んだ本の中で見つけたものだ。

    2)生前の賢治の生身に触れていた人の本としては、弟・清六「兄のトランク」に匹敵するような、ある意味、もっと貴重な二冊でさえある。

    3)県内のネットワークを探したところ、唯一、気仙沼図書館にあることが判明した。気仙沼では、図書館も被災しているだろうし、また、この時期、転送をリクエストするのも不謹慎かな、と自粛した。しかし、もしやと思い、ホームページで確認すると、復興したとあったので、なにはともあれリクエストしてみた。

    4)想像通り、機能は復活しているものの、転送サービスなどには対応してもらえなかった。そこで最寄りの図書館で取り寄せてくれたのがこの本である。関東圏の県立図書館からやってきた。

    5)この本、見かけは新書版くらいの小さな薄い本なのだが、字も細かく、224頁もある。小さく見えたのは、使われている紙質の問題もあるかも知れない。発行された1948年は戦後のどさくさの真最中である。物資とて充分ではなかったはずだ。薄く、裏が透けて見えるような、ちょっと見には和紙にさえ見えるようだが、素人の私には判断がつかない。

    7)この手触りが素晴らしい。当時の面影がしのばれるばかりでなく、賢治を思う当事者たちの気持ちが伝わってくるような存在の本である。

    8)ただ、あまりに賢治に肉薄しすぎていて、賢治と表裏一体となっており、当ブログの過程としては、「賢治的」なものを手繰っているので、距離感がつかめなくなる本である。別な機会にゆっくり目を通したい二冊である。

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    地球人スピリット宣言草稿<4>ジャンルを象徴する3冊

    <3>からつづく 


    「地球人スピリット宣言草稿」 
    <4>ジャンルを象徴する3冊

    1)敢えて30数個のカテゴリを三つに分けて、その10数個づつのカテゴリ名を見ていると、それぞれに経緯が思い出される。まとめようとしてもまとまらず、散漫な思いでイメージが拡散していくのだが、ここでさらに敢えて、「読書ブログ」として、そのジャンルを象徴する本を一冊づつイメージしてみた。

    2)<Ⅰ、創造的科学に向けて>

    ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)
    「ウェブ進化論 」本当の大変化はこれから始まる
    梅田望夫 2006/02 筑摩書房 新書 249p

     科学と言えば、宇宙旅行も原子力発電も最新医療も心理学も、すべてが科学の分野になるわけだが、その中においても、インターネットの発達は大きかった。そして、その中にブログという機能があったことが、当ブログの存在を決定づけた。

     その事実を明確に突きつけてくれたのが本書であり、この本なくして、ネット上の自己確立の旅に出ようとは決心しなかったであろう。この本から派生した読書は多く、またドックイヤーと言われるネット社会の情報革新の波も早く、はや6年近くが経過してみれば、時代遅れや予測違いが発生しているとは言え、その画期性から考えると、この時代の当ブログを象徴するのは、この一冊しかない。

     今や定番となっているツイッターやフェイスブックも、この本の予想の延長にある。ただ、当ブログは、やや保守的で、ブログという形態にこだわり続けている。この辺が、3.11以降を目ざした当ブログの革新にどうかかわるのかは、検討課題として残されている。

    3)<Ⅱ、表現から芸術へ>

    チベット密教 (ちくま学芸文庫) 
    「増補チベット密教」 
    ツルティム・ケサン /正木晃 2008/05 筑摩書房 新書 222p 初版オリジナル2000/01 

     インターネットの発達とともに、知の集積の一つの象徴といえる図書館が変わった。博物館や美術館、天文台や科学館など、公的施設は多けれど、図書館に勝る利用頻度の高い施設はない。

     かつては地域にある一つ二つの図書館と、学校などの付帯してある図書館の蔵書に限られていたわけだが、インターネットの普及とともに、図書館の開放化も進み、地域の行政や学校、とりわけ大学などの図書館が進んだ。

     各施設の図書をネットで確認し、登録すれば閲覧することも可能だし、借り出すこともできる。また、手元になくても、日本全国どこかにあれば、最寄りの図書館まで転送してくれるサービスが、しかも無料でできるようになった。

     この機能の恩恵を受けて、かなりの書籍をみることができた。このジャンルで一番興味深かったたのはこの本。もともとは図書館の開架棚で見つけたのだが、巻末に参考書リストが掲載されていて、殆どの本をネットで取り寄せて読むことができた。

     <表現から芸術へ>というジャンルの中で、なぜに「チベット密教」か、という思いもでてくるが、シャンバラやアガルタなど、無意識から超意識にかけてまで、創造性をかきたてるソースとしては、チベット密教はとびぬけて優れた芸術の源泉と言える。

    4)<Ⅲ、意識を意識する>

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    「私が愛した本」
    OSHO 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本: 269p

     別段にOshoにこだわってきたわけではないのだが、私がOshoのサニヤシンであり、当ブログが自らを「読書ブログ」と規定する限り、この本がこの位置にくるのは至極妥当であるろう。

     意識が意識するために「本」が必要かどうかは微妙な問いだが、少なくともここでOshoが語っていることはメタコンシャスについてである。

     ここで語られた160数冊の文献のうち、30%ほどは読めていないのだが、それもまた、最終的には「本」にこだわるジャンルでないのだから、それはそれでいいに違いない。

    5)当ブログにおいて、しかも6年間という長い年月をかけて何をやってきたのですか、と聞かれたら、まずはこれらの三冊の本を上げることで、簡単な説明ができると思う。かなりの密度で集約されているし、ここをスタートして、かなり広範囲に旅をすることができる。

    3
    6)それでは、この三冊の中から、さらに絞り込んで一冊を選べと言われると、そうとうに難しい。それはほとんど不可能である。3つのジャンルという、互いに支え合う要素があればこそ、この三冊を選び出すことができる、ということだ。

    7)もし一冊を選び出せ、ということになるのであれば、その前に、まずは当ブログを、さらに絞り込んで、たった一行で、一語でまとめることが前提になる。

    8)当ブログにおいては、すべてが多義的なものをまとめようとする傾向がある。「地球人スピリット・ジャーナル」というタイトルも、「地球人」+「スピリット」+「ジャーナル」からできている。それでは、この中の、何が一番大事なのか、問われると、これがなかなか難しい。

    9)「意識をめぐる読書ブログ」という言葉も、三つの語意から成立している。「意識」+「読書」+「ブログ」。この三つのうち、どれが一番大事か、と問われると、答えに窮する。

    10)敢えていうなら、地球人=読書、スピリット=意識、ジャーナル=ブログ、という単語が互いに対応しているということはできるだろう。

    11)ジャーナル=ブログは、「ウェブ進化論」が象徴してくれるだろう。

    12)地球人=読書は、 ちょっと無理があるが、「増補チベット密教」が象徴してくれるだろう。

    13)こちらはさらに矛盾をはらんでいるが、スピリット=意識を、「私が愛した本」に象徴させることも、できないわけではない。

    14)死を前提として、ブログを止める、ブログが抹消される、という可能性を前提とした場合、「ジャーナル=ブログ」というジャンルは消えていくだろう。

    15)外側を見ることを停止し、ひたすら内面を見る、ということであるなら、「地球人=読書」という目を失うことは覚悟しなければならない。

    16)敢えて、敢えて残すとすれば、最後の残るのは「スピリット=意識」であろう。

    17)しかして、最後に残った「スピリット=意識」をずばりそのもので現しているのは、「私が愛した本」であろうか。

    18)確かに「意識を意識する」ジャンルの中には、「ブッタ達の心理学」や「地球人としていきる」などに交じってOsho関連のカテゴリ名が見える。このジャンルにOshoの足跡を残すことはやぶさかではない。

    19)しかし、Oshoの仕事やワーク、業績といったものを「私が愛した本」として象徴させるには、無理がある。

    20)ここは別途、Osho単独で、当ブログを象徴する一冊を選び出す作業を開始すべきではないのか。となれば、重要キーワードは「瞑想」ということになり、それはOsho本を選び出す、という作業よりも、私自身の瞑想が問われる、という、やや苦渋に満ちた道となる。

    <5>につづく

    ------------------
    追記2012/01/06

     ここにおけるジャンル分けは、<Ⅰ、創造的科学に向けて>を「ウェブ進化論」に代表されるのは妥当だとしても、<Ⅱ、表現から芸術へ>には「私が愛した本」を対応させ、<Ⅲ、意識を意識する>にこそ「増補チベット密教」を対応させるべきだろう。

     この方がバランスがいい。

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    郡山遺跡 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡 長島榮一<4>

    <3>よりつづく

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    「郡山遺跡」 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡<4>
    長島榮一  2009/02 同成社 全集・双書 185p
    ★★★★★

    1)買い物ついでに、またまたウォーキング。秋の夕暮れは早く、4時を過ぎるとあっという間の夕暮れだ。大体の方向を定めて遺跡発掘事務所に向かって歩きだすのだが、なんとも乱開発ともいうべき地形に、袋小路やら、遠回りやら、えらく時間がかかる。

    2)辿りついたのは、事務所終業前の時間帯。作業員の人たちが、事務所前で終業点呼をしている。事務所の担当者の若い男性が対応してくれた。

    3)3.11の被害により展示室は壊滅状態で、プレハブ小屋自体が立入禁止となっている、とのこと。再開のめどはまったく立たず、もし再開するとすれば、新しい立派な展示室をつくったあとになるだろう、という。

    4)30年前から発掘しているが、発掘予定地のまだ10分の1しか完了しておらず、いつ完了するかは定かではない。すくなくとも、今の管理者たちが生きている間はできないだろう、というほど、息の長い仕事となる。

    5)やはり、ここは多賀城のように、遺跡公園ともいうべき開かれたスペースになる予定であり、順次、私有地の買い上げが進んでいるらしい。

    6)3.11で被害を受けた私有地も多く、買い上げ希望者も出てきているらしいが、そもそも今回の震災で買い上げの予算が付かず、民間での転売が進んでいるらしい。

    7)発掘事務所の南側に、廃寺跡と見られるエリアがあるのだが、そこには昔、巨石があったという伝説があり、それが塔の心柱を支えていた、と見られている。しかし、そこも、いまだ民間地であり、そのことが明確になるのは、気の遠くなるような時間を必要とするらしい。

    8)飯沼勇義は西暦700年前後に、この郡山国府政庁を巨大津波が襲ったのではないか、と予測しているが、名前を出さずに、おもむろにその可能性を聞いてみた。若い担当者は、「一部の郷土史家はそういう説を出している人もいるらしいが、今のところ、津波の痕跡はない」という回答だった。

    9)10年前と2年前に出されたというパンフレットをもらってきたが、それを見ると、今ようやく私が知ったような事実はすでに10年以上も前に明らかになっていることが多く、この地に対してまったく無知だったなぁ、と反省しきり。

    10)ただ国の史跡指定になったのはこの数年前なのだから、その重要性が広く一般に認知されるようになったのは、ごく最近、と考えていて差し支えないだろう。

    11)周辺の開発も進んでおり、遺跡の北辺は現在工事中の、あすとナーガから国道4号線バイパスに抜けるアクセス道の存在が気にかかるが、もともと、このエリアは、繰り返されたヒロセ川の氾濫により、すでに遺跡の痕跡は失われているという。

    12)それにしても、あの地に、多賀城に匹敵するような遺跡公園が出来たりすれば、あすとナーガと相まった未来都市「ECOタウン」ができあがる可能性はゼロではない、と思えたりする。まずは、もうすこし歩いてみよう。

    <5>につづく

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    地球人スピリット宣言草稿<3>ジャンル分け

    <2>からつづく


    「地球人スピリット宣言草稿」 
    <3>ジャンル分け

    1)当ブログにおける歴代カテゴリを、あえて三つのジャンルに分類してみると、次のようになる。カテゴリ名と内容が必ずしも一致しないのは、読書の進行上、その時期に読んだ本を、その時期に存在したカテゴリに入れておく必要があったからである。

    <Ⅰ、創造的科学に向けて> 

    03)「ブログ・ジャーナリズム」
    05)「ネット社会と未来」
    07)「シンギュラリティ」
    08)「マルチチュード」
    10)「2ndライフ」
    12)「シンギュラリタリアン」
    15)「マーケットプレイス」
    19)「スピノザ」
    23)「バックヤード」
    28)「クラウドソーシング」

    <Ⅱ、表現から芸術へ>

    06)「アガルタ」
    11)「レムリア」
    13)「チェロキー」 
    16)「スピリット・オブ・エクスタシー」
    17)「アンソロポロジー」
    20)「agarta-david」
    21)「mandala-integral」  
    26)「表現からアートへ」 
    31)「One Earth One Humanity」 
    32)「No Earth No Humanity」 
    33)「No Books No Blogs」 
    35)「森の生活」 
    36)「3.11天地人」
    37)「3.11後を生きる」

    <Ⅲ、意識を意識する>

    04)「地球人スピリット」 
    09)「ブッタ達の心理学1.0」 
    14)「OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2」 
    18)「環境心理学」 
    22)「osho@spiritual.earth」 
    24)「ブッタ達の心理学2.0」 
    25)「意識とは何か」 
    27)「地球人として生きる」 
    29)「私は誰か」 
    30)「ブッタ達の心理学3.0」
    34)「メタコンシャス 意識を意識する」

    2)偶然にも、30数個のカテゴリが、それぞれ10数個づつのジャンルに分類されることになった(それぞれのナンバーは「ダイジェスト版」の目次による)。

    3)敢えて言うなら、当ブログの主テーマは<Ⅲ>にあるわけだから、ここを再読検討して、よりエッセンスを絞りだして行けば、当ブログの<宣言>になるように思われる。そしてここは、最終的にはシンプルに、一行コピーにまとまり、ついには<無>に帰すはずなのである。

    4)<Ⅰ>は基本的にはインターネットや情報関連なので、この分野の専門家でもなく、また優れたスキルを持ち合わせているわけではないので、現代におけるIT機器や図書館ネットワークの利用技術さえ見につけることができればいいので、その見極めさえすればよい、ということになる。

    5)したがって、<Ⅰ>と<Ⅲ>の間に挟まった<Ⅱ、表現から芸術へ>という分野が膨大に膨れ上がっていると言える。しかし、この分野については、まとめる、ということを考えずに、<楽しむ>ということを大前提にして、次から次へと<消費>すれば、それはそれで足りるのではないか、という目算がたつ。

    6)かなりざっくりとしたジャンル分けだが、こうでもしないと、収拾がつかない。

    7)当ブログの現在の進行を考えてみれば、まずは<Ⅲ>をまとめ、次に<Ⅰ>を再認識し、最後に<Ⅱ>を無節操に楽しむ、ということになるのではなかろうか。

    <4>につづく

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    2011/11/14

    宮沢賢治への旅 ほんとうの幸せを求めて VHS

    Ken1
    「宮沢賢治への旅」 ほんとうの幸せを求めて
    NHK 1996/09 朝日新聞社 VHS 45分
    Vol.3 No.0537★★★☆☆

    1)「宮沢賢治への旅 イーハトーブの光と風」の後編というべきVHS。

    2)ここまでいろいろ見て来ると、このビデオ(NHKの番組?)は、それなりに平均的な部分を網羅はしているのだが、「みなさまの」NHK的賢治理解が表面化すればするほど、なんともおざなりな内容となってしまう。

    3)「農民芸術概論綱要」から始まるが、もうこう取り上げるしか出来ないのであろうが、もう時代的理解としてはピントがずれてしまっている。制作年代が1996年である、ということを考えても、もうすこしなんとかならなかったのかな、という思いが残る。

    4)少なくも3.11後に賢治を立ち上げるとした場合でも、じゃぁ、センダード2012にどう関わるのか、というところが見えてこない。

    5)ただし、現在、進行中の当ブログ「地球人スピリット宣言草稿」がもし「農民芸術論概論綱領」に触発され、あるいは、それを乗り越えていくものとして位置づけて見た場合、賢治の世界が、人々にどのように広く愛されてきたのか、と考えると、そうそう即断できない、とも思えてくる。

    6)なんにせよ、このビデオは2巻連続でみてこその作品ということであろう。

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    震災によって再確認された「町内旧家の書画、工芸品、古文書展」

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    震災によって再確認された「町内旧家の書画、工芸品、古文書展」
    大河原町 佐藤屋プロジェクト 2011/11/11~13日
    Vol.3 No.0536★★★★★

    1)古い友人に誘われて、蔵王の麓の町に行ってきた。

    2)震災によって再確認された、というコピーが何かを予感させる。

    3)つまりは3~4年前まで棲んでいた旧家の人が離れ、無人になったお屋敷を、地域の文化活動に開放しようという申し出に、地域の人たちが活動をはじめた、というところだ。

    4)かつての味噌醤油醸造元としての風格が残る旧家には、元店舗にも使われただろう蔵屋敷があり、奥座敷や中庭、二階の客間など、何代もつづく旧家の名残が漂う。

    5)三陸大津波の記録

    過去帳の中に書かれた明治の三陸大津波の記録である。

    明治29 年5 月5 日(旧暦)午後8 時に大津波が発生し、負傷者並びに死者が4 万人余とあり、今回の東日本大震災に匹敵するほどの地震であったことがわかる。

    救助金3 円(現在の金に換算して約3 万円)を出したとある。

    震源地の位置なども記された貴重な記録である。 「展示品リストと説明」より

    6)出品されているのは、会場となっている佐藤屋の所蔵品の他に、地域に保存されている古文書や掛け軸、その他の衣食住にかかわる美術品たち。遠く、明治三陸津波の時の記録などもあり、当時でも大きな出来事だったことが分かる。

    7)この地域にくると、いつも私は、ちょっと気がそぞろとなる。

    8)二人の霊能者によって霊視されていたという蔵王王朝も、けっして、一笑にふされるべきヨタ話とはいえまい。私は、秀真伝(ホツマツタエ)のいう日高見高天原こそ、この「幻の蔵王王朝」ではなかったかと考えている。遠からぬうち、必ずや「蔵王紀(ザオウノフミ)」ともいうべき古史古伝が発見されるのではあるまいか。佐治芳彦「謎の秀真伝」p302 1986/06

    9)飯沼勇義「3・11その日を忘れない。」でさりげなく登場してしまったホツマだが、20年ほど前に、盛んに周辺の本を読みあさったことがある。その時以来、この仮称ザオウノフミというロマンに密かに心を躍らせているのだ。

    10)ひょっとすると、今回の「震災によって再確認された」文書の中に、その片鱗が隠されていたりするのではないか、などという好奇心が湧きあがってくる。

    11)震災から数カ月後に、野草社のスタッフと多賀城の多賀神社を尋ねたことがある。その時、社主のI氏にさりげなく、「ザオウノフミ」というものの存在について聞いてみた。彼は一笑に付してしまったので、それ以上、聞かなかったが、私は結構、真に受けているのである。

    12)そんなわけで、今日もまた蔵王の周辺をあちこち散策してきたのであった。

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    2011/11/13

    古代東北統治の拠点 多賀城 シリ-ズ「遺跡を学ぶ」 進藤秋輝

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    「古代東北統治の拠点多賀城」 シリ-ズ「遺跡を学ぶ」
    進藤秋輝 2010/02 新泉社 単行本 93p
    Vol.3 No.0535★★★★☆

    1)アラハバキを尋ね、多賀城へ行った。なに、直線距離でも大したことないのだが、他の所用を兼ねて、センダード銀河環状高速で近くのICまで車を走らせた。タントリ川があり、ヒロセ川があり、Y字につながった二つの河川は大きく太平洋へと流れ出る。

    2)今回は、そのユリアゲ港を3.11の巨大津波が逆流し、Y字と新幹線に囲まれた三角地帯までは逆流しなかったが、ひょっとすると今から1300年前の大津波においては、この三角地帯にあった郡山国府も冠水し壊滅した可能性もあるのだ。

    3)銀河環状高速の中にある多賀城遺跡は、いまや立派な東北歴史博物館などでその全体像を知ることができる。車で、関連史跡をあちこちネットワークすることもできるし、ウォーキングで散策することも勿論可能だ。

    4)歴史博物館付属の売店でこの本をめくった。この本は2010/02の発行になっているから、2009/02発行の長島榮一「郡山遺跡 飛鳥時代の陸奥国府跡」よりさらに新しい。

    5)この僅か100頁に満たない本の中で、まず前章として郡山遺跡のことが約20頁にも渡って説明してある。いまや多賀城を説明するのに郡山遺跡に触れないわけにはいかないことになっているのだ。

    6)もっともこの本は、この郡山遺跡の年代を多賀城前と判定した本人によって書かれている。

    7)この瓦は当初、仙台市太白区にあった富沢瓦窯産の多賀城瓦の模倣とみられ、平安時代のものとされていた。そのため遺跡も平安時代のこの地域(名取郡)の郡家(ごうけ 郡の役所)と見られていてのである。

     その後、筆者(注・進藤秋輝)が行った瓦の検討により、瓦の年代が多賀城をさかのぼる7世紀末から8世紀初頭のものであることが明らかになり、多賀城よりも古い段階の管衙遺跡跡として注目されることになった。p15

    8)郡山国府→多賀城国府と動いた歴史も、いつまでも固定的なものではない。

    9)隆盛をきわめた多賀城も、10世紀後半には急速に機能を失ったようだ。(中略)

     古代東北の行政・軍事の拠点であった多賀城は10世紀後半には終焉したとみてよい。(中略)

     ところが多賀城の終焉から約200年ほど後のことである。(中略)史料に「多賀国府」という行政組織がしばしば登場する。しかし、多賀城では半世紀以上も発掘調査が続いているにもかかわらず、多賀国府の存在を証明するに足る遺構はいまだ発見されていない。中世の多賀国府の所在と実態の解明は今後の大きな課題として残されている。p91「まぼろしの多賀国府」

    10)まさに鴨長明の「方丈記」冒頭を思い起こす史実である。

    11)行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
    淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。
    世の中にある、人と栖と、また、かくのごとし。
    鴨長明「方丈記」

    12)飯沼 勇義の「仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う!」を契機として、突然再燃した歴史探訪ウォーキングの旅。当然の流れではあったのだが、あまりの展開の速さに、ついていけない部分が多い。

    13)しかし、ここはマイペースで歩を進めよう。

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    郡山遺跡 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡 長島榮一<3>

    <2>よりつづく 

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    「郡山遺跡」 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡<3>
    長島榮一  2009/02 同成社 全集・双書 185p
    ★★★★★

    1)図書館でリクエスト本を受け取った後、ウォーキングで東方面に歩いて行って見た。何時もウォーキングしたり、車で走ったりするするエリアなのだが、表通りからちょっと中に入ると、どちらかというと戦後の混乱期を思わせるような、いわゆる乱開発エリア的地域となる。

    2)かつては顧客もあったりして、一度二度は足を踏み入れたが、なんせ交通の便も悪く、東西南北の方角さえわからなくなるような曲がりくねった細道が続く住宅街なので、車ではいるのは諦めていた。

    3)今回、ウォーキングで入ってみて、実は、ここに多賀城を超えるような、壮大なロマンが隠されていたなんて、ついぞ知らないでいた自分を恥じた。

    4)郡山中学校のすぐ脇には、すでに発掘したあとに埋め戻された遺跡跡の一部が広がり、ちょっと離れた一角には発掘調査事務所がある。郡山遺跡展示室もあるのだが、震災のため、残念ながら閉鎖されている。

    Image_01

    史跡仙台郡山官衙遺跡群

    5)この壮大なロマンが浮きあがってくるとともに、私の中には複雑な惑いが生まれる。時の中央権力の野望に対する、まとわざる民=エミシたちの動向はどうなっていたのだろう。

    6)ゲーリー・スナイダーが、アメリカ大陸のことを、ネイティブ・アメリカンの言葉で「亀の島」と捉えなおしたように、この列島もまた、エミシたちの言葉で捉えなおさなければならないのではないか。

    7)”亀の島”の侵略者 合衆国は
    世界中で 戦争おっぱじめる されば
    立ち上がれ 蟻よ アワビよ カワウソよ 狼よ エルクよ
    ロボットの国々から 君らの贈物を取り戻せ!
     ゲーリー・スナイダー「亀の島」p99

    8)いや、エミシやホツマ、などと言っていると、ますますこんがらかる。スナイダーのように、「蟻よ アワビよ カワウソよ 狼よ エルクよ」と、呼び返さなければならないのかもしれない。

    9)発掘調査にながく携わった著者長島榮一は太白山について、遺跡内からは真西に見え、夕景などは非常に美しい光景を現してくれるp114と書いている。えっ、あんな住宅街で本当だろうか、といぶかったが、実際にその地に立ってみると、なるほど新幹線やビル街から数百m離れただけで、空が広くなり、建物の隙間から見事に太白山が見えてくる。

    10)太白山と重なるように奥羽山脈を見ることができる。そこに覗く峰は、神室岳(かむろだけ)である。標高1350m程の峰が二つある。

     カムロはアイヌ語の起源では、「神の住居」といわれている。西方に見える山々に宿る現地の神に対し口を漱いで宣誓する行為と、蓮池が原型とされる石組池から西方世界を望む仏教的観想とを重ねて表現しているのではないのか。長島榮一 p114

    11)スナイダーもまた、仏教徒であった。

    12)灰色ギツネ 雌
    重さ 9ポンド 3オンス
    長さ 尾つきで 39 5/8 インチ

    開の忠告で
    皮剥ぐ前に
    まずは 般若心経
     ゲーリー・スナイダー「亀の島」p135

    13)仏教、あるいは仏教徒、とは何であるか、考えてみる。国家権力が、思想や宗教を、侵略の武器として使ってきた史実は残る。仏教もまた例外ではなかった。

    14)ロング・ヘアーの一部が農耕を志し、辺境へ帰ってゆくのは、郷愁に駆られて19世紀を再現しようというのではない。先住の民インディアンから、謙虚に学ぼうとする白人の時代がやっと現われたのだ。私たちの子供、またその子供が幾世代もこの大陸に(月の上ではなく)生き続けるには、いかにあるべきか。この土くれ、これらの樹々、これなる狼を愛し守り、”亀の島”の原住民となること。ゲーリー・スナイダー「亀の島」p211

    15)郡山遺跡やあすとナーガにおいては、19世紀の再現どころか、今から1300年以上も前の7~8世紀の大地のスピリットを思い起こすことができるのだろうか。

    16)ウィルダネス、バイオリージョンとして、大地や、生命たちの声を聞くことができるだろうか。

    17)二冊ほどの借り出した本をリュックに入れて、手にぶら下げながら、いつもより5000歩も多いウォーキングをした。何度も足を踏み入れてみよう。

    18)そうそう、そう言えば、今日、ドラゴンを祀った社をひとつ見つけた。タントリ川の河畔にあって、いままで車やウォーキングで通り過ぎるだけだったが、ふと立ち寄ってみると、「寶龍社」となっていた。なるほど、ドラゴンね。いるだろうな。

    <4>につづく

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    2011/11/12

    風の又三郎 宮沢賢治  <2>

    <1>よりつづく

    Ginga
    「銀河鉄道の夜,風の又三郎,ポラーノの広場 ほか3編」 <2>
    宮沢 賢治 (著), 天沢 退二郎 (編さん) 1971/07 講談社文庫 文庫: 392p
    ★★★★★

    1)「風の又三郎」を読んだ。以前に読んだ「風野又三郎」や宮沢賢治名作アニメシリーズ VHS「風の又三郎」とはまた別の風格がある。 青空文庫を見ても、「野」と「の」の二つの作品があり、どちらも味わい深いが、どちらかというと、私はプリミティブでスケールのでかい「野」が一番好き。

    2)「の」には「の」の完成された美があるが、それでも文章中には欠字があったり、校了前の原稿的な部分もあったりするので、この読み方が「正しい」ということはないだろう。このような輻輳的な読みかたができるところがまた、賢治ワールドの面白さであり魅力である。

    3)VHSの宮沢賢治名作シリーズも、ひととおり作品を知ることはできるのだが、それだけでは、やはり賢治を「読んだ」ということにはならないようだ。

    4)三郎はいよいよ面白そうに指を一本立てながら、
    「それから? それから? ええ? それから。」と云うのでした。
    耕助は顔を赤くしてしばらく考えてからやっと答えました。
    「風車もぶっ壊さな。」
    「すると三郎はこんどこそまるで飛び上がって笑ってしまいました。みんなも笑いました。笑って笑って笑いました。
    p214

    5)飯沼義勇が「3.11あの日を忘れない」で、「ホツマ」について触れていたので、手元にある何冊かのホツマ本をだしてめくってみた。面白いので、再突入してみたい誘惑にかられるのだが、二の足を踏む。

    6)ここで賢治が「それから? それから?」という問いに対して、「笑って笑って笑いました」という答えを出しているのは、とても見事である。本来、ホツマを通しても、このような明快な結論、「笑って笑って笑いました」という突き抜けた世界にいくのが本当だろうが、どうもそこまで行くには、日が暮れてしまいそうだ。

    7)三省は言う。

    )賢治の眼を世界に向けて開かせたものは、一つには詩を含む芸術であり、一つには科学(サイエンス)であり一つには法華経であったが、彼の胸(ハート)をどこまでも引いて行ったもの存在そのものの姿であった。

     存在とは懐かしいものである。それは根源的懐かしいものである。過去として懐かしいのではなく、現在として懐かしいもの、それが存在である。太陽の下、土の下で働く百姓の姿は、賢治にとって根源的に懐かしい永遠の現存、すなわち存在であった。山尾三省「野の道」p103「祀られざるも神には神の身上がある」

    9)賢治の世界、とりわけこの「風の又三郎」には、現在の存在としての懐かしさを感じる。小学校の4年生や5年生だったことを思い出す。あるいは中学一年生の習字の時間を思い出す。

    10)「人や銀河や修羅や海胆は」を書いたTheaterGroup“OCT/PASS” 石川裕人は、小学校の時、学芸会の劇で一緒だった。最初、私が主役だった「ごんぎつね」(だったかな?)の役割を彼に奪われたりもした(笑)。中学一年生の時の習字の時間、彼の席までいって、雑誌をつくらないか、と言った記憶がある。

    11)今、これらの懐かしい記憶は、根源的な永遠の現存として蘇ってくる。賢治の教室にいると、それは100年前とか、50年前とか、言うのではなく、今、そして、いつも、そして、これからの、世界が連なっていく。

    12)二人はしばらくだまったまま相手がほんとうにどう思っているか探るように顔を見合わせたまま立ちました。

     風はまだやまず、窓ガラスは雨つぶのために曇りながら、まだがたがたとなりました。p231

    <3>につづく

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    2011/11/11

    地球人スピリット宣言草稿<2>目次

    <1>からつづく


    「地球人スピリット宣言草稿」 
    <2>目次

    01)はじめに 
    02)目次
    03)ジャンル分け
    04)ジャンルを象徴する3冊
    05)OSHO瞑想へ至る道
    06)北極星としてのZEN
    07)当ブログにおけるZENの現況
    08)これでいいのかよ 

    09)CONSCIOUSNESS 
    10)「地球人スピリット・ジャーナル<3.0>」の模索
    11)シャンバラと<3.0>の相似形
    12)新しいビジョン、そして無の中へ
    13)<1.0>&<2.0>統合版目次
    14)曼荼羅の統合に向けて
    15)当ブログにおけるタントラの現況
    16)メタ曼荼羅 地球人スピリット・ジャーナル2011 

    17)カオスモス
    18)
    マスタリー
    19)プロジェクト567
    20)エコビレッジ 

    21)ハイブリッド車 
    22)メディア・テーク 
    23)孫たち 
    24)スマートフォン 
    25)ホワイトターラー 
    26)3.11
    27)メタコンシャスと森の生活
    28)Ultimate Truth
    29)THE FOOL、デクノボー、あるいは不用の用
    30)the spirit of the earth.
    31)まとめ--新たなる宣言に向けて おわり 
    32)もし僕らが生き続けるなら
     

    <3>につづく

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    地球人スピリット宣言草稿<1>はじめに


    「地球人スピリット宣言草稿」 
    <1>はじめに

    1)「地球人スピリット・ジャーナル」ダイジェスト版において、僅かに紐が解かれ始まった。静かに手繰り寄せていってみよう。

    2)30数個にわたるカテゴリを、あえて分類すると、やはり3つの大きな流れができる。科学であり、芸術であり、意識である。

    3)当ブログにおける科学とは、大きく言ってインターネットであるし、原子力発電であった。また、宇宙旅行であったかもしれないし、ミクロの脳内活動の発見であったかもしれない。それはゼロから1への誕生であった。

    4)芸術というカテゴリで語られたのは、フィクションや夢想であったかもしれないし、まだ十分に引き寄せられていない、1から無限大への可能性であった。あるいは無尽蔵にちらかった欠片たちの1への帰還であった。

    5)意識で結集させられるものは、空、あるいは無。それは、1から無への還元である。

      3.11から、8ヵ月が経過した日に

    <2>につづく

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    竜と詩人 インドラの網 宮沢 賢治 <3>

    <2>からつづく 

    Photo
    「インドラの網」 <3>「竜と詩人」
    宮沢 賢治 (著) 1996/04 角川書店 文庫 281p
    ★★★★★

    1)「センダード2012」と、空間と時間を確定した。しかもそれは、東北=丑寅=艮の「鬼門」にあたっている、ということまでは確定した。しかし、どうも「龍」の居場所がなかった。

    2)今日、ウォーキングしながら書店に入って、ひとつ気付いた。もう年賀状の話題がでるシーズンになったが、来年、2012年は、辰年だったのだ。つまり、辰=竜=龍に通じる年回りだったのだ。

    3)ここで2012→龍、という図式が成り立つことになるが、さて、センダードに、龍の居場所があるのだろうか。

    4)バイオリージョンの一つとして、主なる地域のエリアをあすとナガナガタンと仮に名付けておいたのだが、ここはむしろ、Ecoタウンあすとナーガ、とすべきなのではないだろうか。例えばナーガルジュナは龍樹と翻訳されるように、ナーガには龍の意味がある。この言霊が、さらに龍を呼び寄せることになるのではないだろうか。

    5)つまり、「センダード2012」の中には、空間的、時間的に、まずは「龍」を含ませることができたのだ。

    6)(おれはその幾千由旬の海を自由に潜ぎ、その清いそらを絶え絶え息して黒雲を巻きながら翔けれるのだ。それだのにおれはここを出て行けない。この洞の外の海に通ずる隙間は辛く外をのぞくことができるにすぎぬ。)p92

    7)この時、賢治は、スールダッタであり、アルタであり、また、チャーナタでもあっただろう。

    8)(尊敬すべき詩人アルタに幸あれ。

    スールダッタよ、あのうたこそはわたしのうたでひとしくおまえのうたである。いったいわたしはこの洞に居てうたったのであるか考えたのであるか。おまえはこの洞の上にいてそれを聞いたのであるか考えたのであるか。

    おおスールダッタ。

    そのときわたしは雲であり風であった。そしておまえも雲であり風であった。詩人アルタがもしそのときに瞑想すれば恐らく同じいうたをうたったであろう。けれどもスールダッタよ。アルタの語とおまえの語はひとしくなくおまえの語とわたしの語はひとしくない韻も恐らくそうである。この故にこそあの歌こそはおまえのうたでまたわれわれの雲と風とを御する分のその精神のうたである。)
     p95

    9)偉い詩人のアルタではなく、もちろん青年スールダッタでもない。ましてや竜のチャーナタですらない我が身とて、洞のうえにて瞑想すれば、雲や風の歌が訪れることもあるだろうか。

    10)(スールダッタよ。わたしは千年の昔はじめて風と雲を得たとき己の力を試みるために人々の不幸を来したために竜王の  から十万年この窟に封ぜられて陸と水の境を見張らせられたのだ。わたしは日々ここに居て罪を悔い王に謝する。)

    (おお竜よ。わたしはわたしの母に待し、母が首尾よく天に生まれたらばすぐに海に入って大経を探ろうと思う。お前はその日までこの窟に待つであろうか。)

    (おお、人の千年は竜にはわずかに十日に過ぎぬ。)

    (さらばその日まで珠を蔵せ。わたしは来れる日ごとにここに来て空を見水を見雲をながめ新しい世界の造営の方針をおまえと語り会おうと思う。)

    (おお、老いたる竜の何たる悦びであろう。)p96

    11)風雲、急を告げるか。

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<37>3.11後を生きるカテゴリについて

    <36>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版

    <37>「3.11後を生きる」カテゴリについて

    1)「後」を生きる、ということは、「前」が問われる、ということと表裏一体であった。

    2)飯沼勇義からスタートしたこのカテゴリだったが、なかなかOshoの方へとは向かわず、次第に過去のカテゴリの整理と集約に追われることとなった。

    3)しかし、その中にあっても、宮沢賢治が一つの柱として立ち上がってきた。関連資料は限りがなく、どこまで読み込むかが問題となるが、それでも、周辺を散歩するうちに、概要と重要ポイントはわかってきた。

    4)また地域環境主義=バイオリージョンのなかから、元国府であり被災者の仮設住宅であり、またエコタウンのモデル地区である「あすと長町」を具体例として、ひとつの場として見てみようという志向性がでてきた。

    5)再読したいこのカテゴリこの3冊は次のとおり。

    「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う! 飯沼 勇義 (著) 1995/09 宝文堂

    「兄のトランク」 宮沢清六 1987/09 筑摩書房

    「人や銀河や修羅や海胆は」 TheaterGroup“OCT/PASS”公演 石川裕人・作・構成・演出 2011/07~11

    6)「仙台平野の歴史津波」は問題の書であり、多くの後だしジャンケンの本が出る中にあって、16年前から警告を発していた本である。また、それだけではなく、地域に関するキーワードが満載であり、当面はこの本に導かれながら、バイオリージョンを体験していきたい。

    7)飯沼は、「3.11その日を忘れない」の中でも、賢治を高く評価している。

    8)「兄のトランク」は賢治の弟の本だが、長くその出版や発掘にかかわった人だけに、賢治「後」あたりの示唆も貴重な者と思われる。賢治ワールドは、一歩足を踏みいれると、まさに奥が深く、迷い子にさえなりかねない。清六のナビは使いやすい。

    9)「人や銀河や修羅や海胆は」は厳密には本ではないが、賢治いうところの芸術であり、被災地で多く公演されている。この11月、そして12月にも繰り返し公演される。可能であれば、これらも再観劇したいと思っている。

    10)一つの方向性が見えてくると、勢い込み、もんどり返って突っ走ってしまう当ブログだが、暗礁に乗り上げないようにしながらも、「後」を生きる、という方向性がすこし見えてきたようだ。

    11)書かれたのは2011/10~2011/11の、わずか一カ月間の間だった。

    12) もう、こうなってくると、タイトルは何もつけようがなくなってきた。これ以上のものを思いつかなかった。でも、これでは、あまりにも振り回されることになるのではないか。

    13)もともとの基本路線を忘れてはいけない。流れを忘れてはいけない。初心を忘れず。一体、自分はこのブログで何をしようとしていたのか。そこをキチンと思いださなければならない。

    <38>へつづく 

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    仙台平野の歴史津波 巨大津波が仙台平野を襲う!飯沼 勇義 <5>

    <4>よりつづく

    Hukkoku
    「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!<5> 
    飯沼 勇義 (著) 復刻版 2011/09 本田印刷出版部 単行本 p234

    1)またまた読んでしまった。最初はショックのあまり、要所要所しか読めなかったが、それでも、ポイントはつかめた。その後、何度かツマミ読みしたが、資料としても、かなりしっかりしている。今回はあらためて、最初から読んだが、大体3分の2程で、体力がなくなってきた。次回、その辺を、より詳しく読んでみよう。

    2)この書に触れてから、地元のあちこちを散策した。郡山遺跡、蛸薬師、多賀城八幡、七北田川河口、蒲生、浪分神社、そして、今日は、多賀城周辺を歩いてきた。

    3)多賀城は時の大和政権の根拠地から見た場合、ちょうど東北45°の位置にあり、ここが開かれる前の国府と見なされる郡山遺跡もまた、ちょうど東北45°に位置しているのである。

    4)つまり、郡山遺跡が仮に西暦700年前後の巨大津波によって壊滅したとしても、それなら、直ぐ近くの向山とか八木山へと移築すればよかったものを、と思ったが、それは浅はかな考えで、つまり、その45°延長線上に国府政庁はなくてはならなかったのだ。

    5)つまり、東北は丑寅、つまり艮の「鬼門」を制圧するためのものであり、このラインをはずすわけにはいかないのだ。ましてや、その多賀城においても、その政庁跡の東北に位置しているのが、「アラハバキ神社」である。

    6)国の史跡となって、あちこちが整地されているにも関わらず、アラハバキ神社だけは、なぜか砂利道のまま、ほとんどごくわずかの人にだけ守られている、という風情である。東北の、さらに東北に祀られているアラハバキ。今回、あらためて訪れて、深い嘆息の声を漏らしてしまった。

    7)ほとんど、歴史的な知識のないボンクラ頭だが、いざ廻ってみようとすると、多賀城の遺跡めぐりも奥が深い。今日も一万歩歩いてしまったが、あと十万歩歩いても、まだまだ全体が見えてこないようにさえ感じられた。

    8)こうしてみると、ごくごく身近な郡山遺跡だが、何時も図書館までのウォーキングの道すじにあるこの地が、実は、多賀城以前の、東北で一番栄えた政庁のあったところで、しかも巨大な歴史津波に襲われたあとに、時空はめぐり、今や、被災者の為の仮設住宅の地となり、あるいは、エコタウンの未来都市構想の実験地になっている、というのは、実に意味の深いことだ、とあらためて、またまた溜め息をついた。

    9)この書、読み込めば読み込むほど、地元学に通じ、郷土史に通じ、バイオリージョンに通じてくる。殆どが徒歩か自転車、あるいは、センダード銀河環状道を使えば、あっという間の距離にある地であることが、ますます興味に拍車をかける。

    <6>につづく

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    2011/11/10

    風の又三郎  宮沢賢治名作アニメシリーズ VHS

    Mata
    「風の又三郎」 宮沢賢治名作アニメシリーズ
    りんたろう監督 C.W.ニコル・ナレーション 1988/08 コナミ VHS 30分
    Vol.3 No.0534★★★★☆

    1)C.W.ニコルがナレーションを担当している。こう書いていなかったら、ただ聞いているだけでは日本人が語っている、としか思えない。

    2)ニコルで思い出すことは、SPSの時、スタッフとして会場を走り回っていた私は、会場にいる西洋人たちに、同時翻訳システムのトランシーバーを配っていたのだった。ちょっと太めの西洋人がいたので、どうですか?と訊いたら、「必要ありません」と言われてしまった。その人がニコル本人だった。

    3)この映画は1988年制作だから、シンポジウムはその3年後のことだ。これだけ日本語が使える人に、翻訳システムとは、これは、また失礼いたしました。(汗)

    4)音楽を宮下富美夫が担当している。

    5)このお話のストーリーはいくつかあるようだが、文庫本「インドラの網」に含まれていた「風野又三郎」のほうが、スケールが大きくて、楽しかったな。 

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    農民芸術概論綱要 校本宮沢賢治全集第12巻上 

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    「校本宮沢賢治全集」〈第12巻 上〉雑纂,校異
    宮沢 賢治 (著) 1975/12 筑摩書房  全集 735p
    Vol.3 No.0533★★★★★

    1)この本を取り寄せたのは、弟・清六が「兄のトランク」p209で「賢治が書き残してこれから書きたいと思った作品」の一つとして次を上げていたからである。

    2)書き換へられたる修身書
        或いは生理学的倫理学       「筑摩書房四十三年版全集」第12巻132頁

    3)ところが実際には、昭和43年度版全集は最寄りの図書館にはなく、多分似たようなものだろうと、こちらの昭和50年度版の「校本」を取り寄せた。上下巻があり、そのp132とやらをめくってみたのだが、残念ながら、その字句を見つけることができなかった。「43年度版」(あればだが)を取り寄せて、再チャレンジしよう。

    4)しかし、それにしても「全集」とは言え、あまりに膨大な資料集となっており、正直言って辟易した。目的は達成しなかったのだから、即返却と思って、ただパラパラとめくっていたところ、ここに「農民芸術概論綱要」があった。

    5)決して長い文章ではなく、前後の「農民芸術概論」「農民芸術の興隆」と合わせても、10数ページというコンパクトなものだ。

    6)曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
    そこには芸術も宗教もあった
    いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
    宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
    芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
    いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
    われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
    いまやわれらは新たに正しき道を行き 
    われらの美をば創らねばならぬ
    芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
    ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
    都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ 
    p10

    7)清六が、孫・和樹にいうには、「賢治の根幹は『農民芸術概論綱要』にあり、ここから賢治の世界が派生していった」と。

    8)科学、芸術、宗教に対する、深い傾斜とともに、深い疑念。それらすべてを新しく建てなおすべく、賢治は宣言している。そして、その根幹となるべき主体を「農民」とし、自らもまた「農民」たらんとした。

    9)職業芸術家は一度亡びねばならぬ
    誰人もみな芸術家たる感受をなせ
    個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
    然もめいめいそのときどきの芸術家である
    創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される
    そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう
    創作止めば彼はふたたび土に起つ ここには多くの解放された天才がある
    個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる 
    p14

    10)奮い立つような、青年賢治30歳のみずみずしい宣言である。

    11)2011年の今日、時あたかもTPP問題で日本全体が揺れている。とりわけ、農業に携わる人びとの杞憂は深い。

    12)さて、2011年の今日、労働人口のほんの数パーセントにも満たない専業農家の人々だけを「農民」と考えてはいけないだろう。賢治の時代においては7割以上、あるいは花巻のイーハトーブにあっては、9割以上が「農民」であったと考えられる。その時代の変貌は激しい。

    13)当ブログにおいては、この時、賢治が「農民」という言葉で言わんとしたことを「地球人」と同義として聞く。「農」もまた、大地に立ちて生を営む「民」たらんとする生業ならば、「地球」もまた、大地に立ちて、時にはマーケットプレイスにおいて、自らのライフスタイルを構築せんとする「人」々のステージなのである。

    14)後続の「農民芸術の興隆」には、エマソンが登場する。

    エマーソン 近代の創意と美の源は涸れ 才気 避難所 p18

    彼の音楽は市井の雑音 ここに求めんとするものは自ら鳴る天の楽
    [#「♂」は矢印が下向き]エマーソン 斯ノ如キ人ハ
     p20

    15)エマソンソロースナイダー、という系譜があるとするならば、エマソンソロー三省、という系譜をたどることも楽しい。

    16)さて、ここで賢治は「芸術」という言葉で何を言おうとしたのか。

    かくてわれらの芸術は新興文化の基礎である p11

    四次感覚は静芸術に流動を容る
    神秘主義は絶えず新たに起るであらう
    表現法のいかなる主張も個性の限り可能である
    p12

    17)当ブログが、「農民」を「地球人」と読み替えるならば、賢治の「芸術」を「スピリット」と読み替えてみようと思う。敢えて農民足らんとした賢治において、科学、芸術、宗教は、三位一体のものであり、唯一芸術のみを樹てようとしたわけではなかった。100年前のイーハトーブにおいて、彼にはまず「芸術」という面に光をあてる必要があった。

    18)「センダード2012」においては、「宗教」は必ずしも時代にフィットした言葉ではない。同義であったとしても「意識」のほうがより原義に迫り得る可能性がある。そしてそのことを当ブログでは「スピリット」と言い慣わしている。

    19)であるならば、賢治の「農民芸術」を「地球人スピリット」とまで読み直すこともできるであろう。あとは、「概論綱要」をどうするかだが、前後の文章で賢治自身も彷徨しているように、細かくは追求しないでもいいだろうし、また細かく規定すべきものでもないだろう。

    20)当ブログであれば、「ジャーナル」と読み替えも可能であるかもしれないし、あるいは新たに「宣言」という言葉を採用することもやぶさかではない。つまりは、「センダード2012」において、賢治を立ち上らせるということは、当ブログにおいては「地球人スピリット宣言」を歌う、ということになるはずである。

    21)この「農民芸術概論綱要」において、賢治の反逆のスピリットが、創造のたいまつを掲げて、キラキラと銀河世界へビックバンを起こす。

    まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
    しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
    ここは銀河の空間の太陽日本 陸中国の野原である
     p15

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    注文の多い料理店 雪渡り 猫の事務所 宮沢賢治原作シリーズ アニメーション映画

    Photo
    「注文の多い料理店」
    宮沢賢治/原作 四分一節子/監督 2003 T&Kテレフィルム/制作・著作 VHS 23分
    Vol.3 No.0530★★★☆☆

    Photo_2
    「雪渡り」
    宮沢賢治/原作 四分一節子/監督 1994/07 VHS 24分
    Vol.3 No.0531★★★☆☆

    Photo_3
    「猫の事務所」
    宮沢賢治/原作 監督: 福冨博 1997/01 VHS 22分 
    Vol.3 No.0532★★★☆☆

    1)記録しようかどうしようか迷ったが、メモはメモとして残しておこう。図書館の視聴覚資料の回送サービスのスタートはうれしいが、書籍に比すれば、その点数は少ない。宮沢賢治関連で取り寄せて見ることのできる映像資料は次第に少なくなり、かなり年季の入ったVHSだけとなってしまった。しかも短編物である。

    2)視聴覚資料は、権利関係が難しく、またネット上における情報も少なく、読書ブログとしては、他者へ購入を呼び掛けるような仕組みをつくることはむずかしい。

    3)「注文の多い料理店」は、「春と修羅」や「銀河鉄道の夜」と同じほどに有名な賢治の作品の代表である。これまで沢山の人々に愛され、上演やアニメ化されてきているだろう。

    4)一番最初にこのアニメを見ることも悪くはないだろうが、原作や他の作品があることを忘れてはいけない。

    5)「雪渡り」、「猫の事務所」にしても同じことである。ただ、小説を読むのが億劫だ、という私のような、面倒くさがり屋は、手っ取り早くアニメでその世界を味わっておく、というのも悪い手ではない。

    6)また、図書館における視聴覚資料回送サービスというものも、どの程度のものか、をチェックしておくのも、必要であろう。

    7)あまり深追いをする気はないが、まずは試掘をしておく必要がある。

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    2011/11/09

    郡山遺跡 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡 長島榮一<2>

    <1>よりつづく

    【送料無料】郡山遺跡
    「郡山遺跡」 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡<2>
    長島榮一  2009/02 同成社 全集・双書 185p
    ★★★★★

    1)太白山は郡山遺跡から西に8キロに位置し、標高320mの円錐形の山である。平野部からは象徴的によく見え、現地の「太白区」はこの山の名称から取ったものである。遺跡内からは真西に見え、夕景などは非常に美しい光景を現してくれる。

     陵糟等が三輪山の神に誓ったように、蝦夷が太白山に誓うというのも頷ける話である。ただし現地で長く仕事をしていた感想であるが、太白山と重なるように奥羽山脈を見ることができる。そこに覗く峰は、神室岳(かむろだけ)である。標高1350m程の峰が二つある。

     カムロはアイヌ語の起源では、「神の住居」といわれている。西方に見える山々に宿る現地の神に対し口を漱いで宣誓する行為と、蓮池が原型とされる石組池から西方世界を望む仏教的観想とを重ねて表現しているのではないのか。

     石組池の存在は、蝦夷と神、さらには仏教世界を結びつけながら、飛鳥と蝦夷の関係を明確化する装置としての機能を持っていたものと考えたいが、いかがだろうか。p114

    2)太白山は、センダード2012における重要なバイオリージョンのポイントである。さらにその向こうの神室岳までは考えつかなかったが、ここで蝦夷やアイヌが登場することによって、ネイティブ・ピーポーの精神世界とつながりつつある予感がある。

    3)現在は休息に住宅地と化し、戸建住宅やアパートが農地を埋めてしまった。また郡山遺跡の西まで「あすと長町」区画整理事業が進み、ビル街が出現する直前となっており、仙台市南部の新たな都市機能の中心地になりつつある。その地に接しながら遺跡の存在や評価を伝えていくのは大変むずかしいことである。

     しかしこの地が1300年前には東北の中心であり、藤原京や平城京のある飛鳥地方と関連のあった地として伝えていかなくてはならない。

     仙台開府400年という言葉を多くの仙台市民が知っている。伊達政宗が仙台を城下町として作ったことに由来している。これからは仙台開府1300年の合言葉を、郡山の地から発して次の世代に継承してもらいたいものである。p169

    4)仙台開府1300年とすれば、当ブログの関心は、そのさらに前の時代にあったとされる蝦夷やアイヌにまつわる精神世界に移行していく。多賀城にも、アラハバキ神社がある。とするならば、この郡山遺跡の中にも、関連の遺跡や痕跡があるのではないだろうか。

    5)公共機関が発掘調査したとしても、そこで得られた情報は国民、市民共有のものである。要請に応じて様々なかたちで提供していかなくてはならないと考えている。p184

    6)著者は1957年宮城県で生まれたセンダード市の職員である。まだまだ若い。これからも続編に期待したい。

    <3>につづく

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    祝・復刻版完成!「仙台平野の歴史津波~巨大津波が仙台平野を襲う!」飯沼 勇義 <4>

    <3>よりつづく 

    Hukkoku
    「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!<4> 
    飯沼 勇義 (著) 復刻版 2011/09 本田印刷出版部 単行本 p234
    Vol.3 No.0529

    1)「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」を読んで、さっそく借りてきた赤本。絶版だったので、一部個人用にコピーしておいた。ところが、これを読みたいという人がいたので、あげてしまった。

    2)また図書館から借りだしてきたものの、またコピーとるのも面倒だし、どこかに古書として存在していないか、探してみた。ネットオークションはまったく駄目。古書店では、さらに前の「知られざる中世の仙台地方」1986)を発見した(なんと8000円)が、赤本はなかった。

    3)復刊サイトあたりではどうなっているのだろう、と見ていて、なんと発見してしまった。実はすでに復刊されていたのである。

    4)そもそもはセンダード地元の宝文堂から発行されたものだが、今回は自力で復刊することができなかった。筆者も被災してしまったために、自費出版のような形では無理だという。

    5)そこで地元の本田印刷が、急きょ「復刻版」を出すことになった。センダード市内では「金港堂」においてあり、只今売上ベストスリーに突入とか。部数が限られているので、希望者は、すぐ書店に走るか、印刷元を尋ねるといい。

    6)私は、感謝の意を伝える意味でも、印刷会社へ車をとばした。数冊求め、他に欲しいと言っていた人に上げることにした。

    7)復刻版は、初版本と表紙のコピーが若干違っている。

    8)「いつ来てもおかしくない”平成の大津波”
      行政の危機管理、避難対策は万全か?
      津波の恐怖とサバイバル策を説く必読書。」
      1995年初版本表紙

    9)これ↑が、復刻版ではこう↓なっている。

    10)「津波研究に生涯をかけた歴史学者による
      大震災を予言した『赤本』待望の復刻!
      16年前に知事・市長へ陳情していた津波防災提言のすべて」
     2011年復刻版表紙

    11)出版マニアから言わせれば、初版本と復刻本の価値は雲泥の差だが、それでも、内容に違いはない。復刻版には4頁に渡るあとがきがついている。

    12)「復刻版出版にあたって」

     平成23年3月11日、東日本大震災が起こってしまいました。私がもっとも恐れていた大惨事を目の当たりにし、自ら被災して避難所で生活するうち、以前出版した私の「赤本」を覚えていて訪ねてくれる人が現われだしました。今回の津波被害を予見した警告の書である本著は出版社の都合で絶版になっておりましたが、縁あって本田印刷さんの協力により再版する運びとなりました。

     初版当時は私の警告が限られた人、地域にしか届かず多くの被害を免れなかった事は非常に残念ですが、大震災を経験した今、本著が復興計画立案のためにの歴史津波学の起点となり、多くの行政、研究に携わる方々に活用される事を心より祈念しております。p235 飯沼勇義 2011/08

    13)わがブログ「センダード2012」カテゴリにおいては、この本が底本となる。

    <5>につづく

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    Lady Gaga: I Love Reading Osho

    1)Creativity and rebellion go hand in hand for American singer, song writer and pop icon Lady Gaga. Arriving in India she spoke in a press conference about her love for books by Osho. -- Asked about a quote about creativity from the book "Creativity" by Osho she sent in August via her Twitter account to her 15 millions followers, the 25 year old singer from New York responded in the press conference:

    "Oh yes Osho! I read a lot of Osho's books and I believe "Rebellion" was my favorite so far. I have been reading a lot about rebellion and how creativity is the greatest form of rebellion in life. It's important to stand up for what you believe in and to fight for equality. Equality is one of the most important things in my life -- social, political, economic equality -- these are all things I fight for in my country as a citizen. So I read Osho because not only do I love his work and what he writes about, but I guess I am kind of an Indian hippie!"

    See OSHO - Creativity is the Greatest Rebellion in Existence: http://goo.gl/KFrkv The books mentioned are: Creativity: Unleashing the Forces Within, by Osho. St. Martin's Press/Griffin; Rebellion, Revolution and Religiousness, by Osho, New Falcon Press; Books by Osho: http://goo.gl/6DZJH -- This video is available for translation as part of the OSHO TALKS Video Translation Project. -- Join the project as a translator at: http://www.oshotalks.info -- OSHO International Foundation: http://www.osho.com Youtubeより

    2)レディ・ガガ 東日本大震災の復興支援
    2011年3月11日に発生した東日本大震災に対し、ガガは即座に「WE PRAY FOR JAPAN 日本の為に祈りを」とデザインしたブレスレットを作成し販売。「収益はすべて日本に寄付する。モンスターたちよろしく」と自身のツイッターでコメントした。その後ブレスレットは2週間で1億2000万円以上売り上げ、全額寄付された。さらにチャリティー以外で個人的にも1億2000万円寄付したことを明かした。また、ガガやU2、エルトン・ジョン、クイーンなど38組のトップアーティストの楽曲が収録されたチャリティーアルバム『SONGS FOR JAPAN』が世界18ヵ国のiTunesチャートで1位を獲得した。そして3月26日にガガは「アイシテイマス」と日本にビデオメッセージを送った。日本記者のインタヴューでも「日本のファンとは強い絆を感じる。だからニュースを観るのが辛かった。何かを口にするより、まず行動すべきだと思った」とコメントし、再び日本で歌うことを約束した。
    Wikipediaより

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    2011/11/08

    プラネタリウム散歩 日帰り宇宙旅行

    【送料無料】プラネタリウム散歩
    「プラネタリウム散歩」日帰り宇宙旅行 最新鋭から変わりだねまで、全国48カ所を網羅!
    マーブルブックス編集部 2011/07 マーブルトロン/中央公論新社 単行本 95p
    Vol.3 No.0528★★★★☆

    1)賢治ワールドで遊んでいると、天文台に行って、プラネタリウムを見たくなるよなぁ。ついつい、先日も、すっかり誘われて、満喫してきてしまった。

    2)この本では、そのセンダード天文台も紹介されている。「東北随一の規模を誇る市民参加型のプラネタリウム」p34 2008年に錦が丘に移築された新しい施設だ。

    3)改装中の図書館の新刊本コーナーで掴んできたのだが、この本、3.11後の7月に発行されているのに、3.11にまったく触れておらず、なんともケレン味のないところがいい。あっさりしている。

    4)先日DVDでみた「銀河鉄道の夜 Fantasy Railroad in the Stars」のKAGAYAも紹介されている。「プラネタリウムは、そこの映しだされた世界に自分を包みこんでくれる装置」 デジタルグラフィックアーティスト KAGAYA。 

    5)「どこに座る? 見やすいチェック」p64がなかなか面白い。私は、他の人の姿が見えなくて、足をぶん投げてのびのびするのが好きだから、いつも一番前の席に座るのだが、この本おすすめは違う。

    6)センダード天文台の場合は、「水平型ドームで座席が一方向配列」だから、「中央後方寄りの席」がベストだとか。「星空のゆがみが少なくドーム全体がよく見渡せます」とのこと。

    7)前回は、ちょっと離れた席の、やはり一番前の席で、デート中の若いカップルがいちゃついていたので、すこし気になった。やっぱり、私は、他の人の姿が見えない角度がいいようだなぁ。

    8)銀河高速環状道を下りて、センダード天文台までは、車で5分。また行きたい。

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    郡山遺跡 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡 長島榮一<1>

    【送料無料】郡山遺跡
    「郡山遺跡」 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡<1>
    長島榮一  2009/02 同成社 全集・双書 185p
    Vol.3 No.0527★★★★★

    1)あたらしいカテゴリ「センダード2012」をはじめよう。センダードはイーハトーブの地続きの隣の町である。2012は、マヤ暦でひとつのサイクルが終了し、あらたなる時代がスタートする時代のことである。

    2)センダードには、海と山と川があり、直径20キロ、総延長60キロの環状銀河高速道路が走っている。トーホー山脈から二つの川が流れ下り、海の近くで合流して、大洋へと流れそそいでいる。

    3)環状銀河高速道路には10のインターチェンジがあり、それぞれに個性がある。今、始めようとしているのは、ナガナガタンICの直ぐそばにあるナガナガタンというエリアについてである。

    4)3.11震災によって、環状銀河道の外側にある大洋から津波が押し寄せ、多くの被災者がでた。数百名から数千名の命が奪われたのである。命が助かった人々も、家も財産も墓も、先祖の遺骨も失い、身ひとつで、避難所や仮設住宅に身を寄せた。

    5)銀河環状道のナガナガタンICの近くに「あすとナガナガタン」があり、そこに400戸ばかりの仮設住宅に約1000名ほどの避難者が暮らし始めている。ここでの暮らしは、これから2年とも3年とも言われる間続くことになるのだが、実際は、それ以上に続いていく可能性が指摘されている。

    6)ここは、昔、飛鳥時代に陸奥国府があったところだ。だが、その歴史は長いこと人々に知られずにいた。この100年の間にさまざまなことが分かってきた。一つには、ここは、東北の地において、もっとも最初に国府として開かれて行った土地であろうことである。

    7)この国府は長いこと栄えなかっただろう、と言われている。この時代に、巨大津波が押し寄せ、全てを押し流してしまったのだ。国もまたその失政を恥じ、歴史書には一切記録を遺さなかった。これらの都市機能は、やがて多賀城に移され、多賀城のみが、近年の歴史ブームで騒がれている。

    8)ここが巨大な歴史津波に襲われたことは飯沼勇義「仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う!」(1995)にくわしい。同じ著者によって3.11以後に書かれた「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」2011/06)も大いに参考になる。

    9)かつて津波に襲われた二本の川と合流地点に挟まれた三角地帯は、今回は震災から逃れ、人々が避難する仮設住宅の場となった。

    10)この地は、長いことトーホー鉄道の列車操車場として使われて、この100年、その土地をひっくり返すなどということは、出来なかった。歴史は封印されたままだったのである。ところが、近年の鉄道会社の再編により、この地が都市部として再開発されることとなり、区画整理事業がおこなわれ。

    11)この地を調査してみると、現在、多くの竪穴住居の遺跡を見ることができる。あすとナガナガタンと名付けられたこのエリアは、未来の副都心構想の中で開発が進んでいる。

    12)その構想の一端は、丸尾直美他「ECOシティ 環境シティ・コンパクトシティ・福祉シティの実現に向けて」(2010/05)に見ることができる。

    13)竪穴住居群、飛鳥陸奥国府跡、巨大津波、空白期、列車操車場、再開発、そして、震災被災者の仮設住宅、そしてさらなる明日の都市としての「あすと」構想。変遷してきたこの土地で、今月11月26日(土)、宮沢賢治の芝居が公演される。被災者たちの為の鎮魂劇だ。

    14)賢治ワールドにインスパイアされた石川裕人・作「人や銀河や修羅や海胆は」はすでに約10ヶ所の被災地で公演されたきた。

    15)この作品、この地において、賢治の夢を立ち上げることになるだろう。いや、弟の清六の「兄のトランク」(1987/09)にある、賢治がやろうとして出来なかったことを、さらに乗り越えていくことになるだろう。

    16)ではなぜこのような竪穴住居が存在するのであろうか。発見された当初は官衙の造営にかかわるとの見方をしていたが、変更を余儀なくされつつある。それは郡山遺跡の西に接する西台畑遺跡や長町駅東遺跡の発掘が進んだことによる。

     この地域は、大規模な区画整理事業により「あすと長町」という、新しい街が創られている。その事前調査により、思いもかけなかった発見がつづいているのである。

     旧JR、さかのぼると国鉄の頃からの貨物駅のあった地区で、長町駅東遺跡という遺跡が平成になってから発見された。その土地は1918年(大正7年)から貨物駅として使われてきた。長く国鉄の施設であったため、撹乱(新しい穴により削平されたり、かき回されている状況をいう)により大規模な存在は予想されていなかった。

     しかし、試掘調査を実施すると、数多くの竪穴住居跡が発見されたのである。長町東遺跡から発見された竪穴住居跡は、270軒程である。現在全体の整理事業が進められつつあるが、今のところ明らかになりつつある概要は次のような内容である。

     集落が作られるようになったのは6世紀の終わりから7世紀の初め頃で、古墳時代の東北地方南半の土師器を使っていた人々である。「郡山遺跡」p16

    17)ふむふむ、なかなか面白い展開になりそうだな。

    18)え、あなたは誰ですか、って? 私は、川をひとつ挟んで生きてきたカヤの木の老木じゃよ。人間たちは、私をセンダード名木の一つに選んで、根元に社まで作って薬師如来を祀っているが、それはそれでよい。樹齢を1300年としているが、それはそれでいいだろう。

    19)ひとつ言えることは、若い時から、私はずっとこの地方のことを見てきたということだ。昔は平原にあり、あるいは森の中にあり、時には川の氾濫で、岸辺に立ったこともある。このところ人間どもが開発したため、周囲の樹木はすべて切り倒され、乱立するマンション群の中に、残ったのは私だけになってしまった。

    20)私もどれほどこれから命を保つことができるか分からない。聞きたいことがあったら、まぁ、私の知っていること教えてもいいよ。そうそう、源の頼朝が、馬を私の根元に繋いだ、という伝説もあるが、まぁ、それについては、ゆっくり話すことにしよう。

    21)ひとつのバイオリージョン、あるいはアーバン・バイオリージョンの始まりである。

    <2>につづく 

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    再読したいこのカテゴリこの3冊「3.11後を生きる」編

    前からつづく

    再読したいこのカテゴリこの3冊
    「3.11後を生きる」編

    Photo
    「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!
    飯沼 勇義 (著) 1995/09 宝文堂 単行本 p234

    Ani
    「兄のトランク」 
    宮沢清六 1987/09 筑摩書房 単行本: 241p

    Oct
    「人や銀河や修羅や海胆は」 TheaterGroup“OCT/PASS”
    石川裕人・作・構成・演出 2011/07~11 東日本大震災被災地10ヶ所にて公演

    次へつづく  

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    学者アラムハラドの見た着物 インドラの網 宮沢 賢治 <2>

    <1>からつづく

    Photo
    「インドラの網」 <2>「学者アラムハラドの見た着物」
    宮沢 賢治 (著) 1996/04 角川書店 文庫 281p
    ★★★★★

    1)宮沢清六は「兄のトランク」の中で、「『臨終のことば』から」に、賢治のやり残した仕事として、いくつかの作品の未完部分に触れている。

    2)そこに3つの作品が上げらていたが、最初、それは架空のタイトルかなと思ったが、実は、それは作品として全集にも掲載されているものだった。

    3)「書き換へられたる修身書 或は生理学的倫理学」は、ネット上では本文を探すことはできなかった。今後、全集で確認してみる。

    4)「科学に威嚇されたる信仰」は、メモとして残されているものだが、ネット上では「誠心庵 庵主」という人が、考察を加えている

    5)「学者アラムハラドの見た着物」は、ネット上で見ると、実際に存在した作品で、なんと「青空文庫」では全文が読める。そればかりか、賢治作品は青空文庫では、なにも図書館から借りださなくても読めるものがたくさんある。

    6)などと納得していたら、なんと「学者アラムハラドの見た着物」に関しては、これまで目を通していた文庫本「インドラの網」の中に収容されていたのだった。小さい作品なので、何気なく通り過ぎていたが、あまりに丁寧に描かれている作品でいかにも賢治らしい。ただ、あまりに丁寧すぎて、この密度で、どこまで描かれるのか、と心配にさえなる。あるいは、続編があるなら、ぜひ読んでみたい作品であることはまちがいない。

    7)ひとつひとつ、賢治が残した宿題を探してみることも楽しい賢治散歩だ。

    <3>につづく

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    兄のトランク 宮沢清六 <2>

    <1>よりつづく 

    Ani
    「兄のトランク」 <2>
    宮沢 清六 1987/09 筑摩書房 単行本: 241p

     「賢治はこの世に執着を持っていたでしょうか。」と聞かれると、私は答えに窮するのであるが、或時はこんな風に答えることもあるだろう。「やはり見ないでしまったこの地球の中のあこがれの土地、例えば北欧とか南欧、またドリームランドとしてのベーリング地方やカシュミール、北倶虜州や中央亜細亜、そんなところへ好きな人と旅をしたり、心清らかな人たちと棲んでみたかったでしょう。」と

     そんな想像から私はもう案外賢治はあこがれの土地に生まれ変わって、「また起きて詳しく書きます。」ということばを実行に移しているではないかと、子供の考えるようなことを思うのである。
     そしてそんな土地をいま仮りに瑞典あたりに仮定して、賢治が書き残してこれから書きたいと思った作品をそのメモの中から拾って見ると、

     書き換へられたる修身書
        或いは生理学的倫理学       「筑摩書房四十三年版全集」第12巻132頁

    などを賢治風の文体で、ストックホルムあたりで書いている青年があるだろうなどと考えることは楽しいことだ。
     またウクライナあたりで、

      科学に威嚇されたる信仰
      本述作の目安、著書
        1、異空間の実在、餓鬼、分子--原子--電子--真空--異単元--異構成
          幻想及夢と実在、
        2、菩薩仏並に諸他八界依正の実在
          内省及実行による証明
        3、心的因果法則の実在
          唯有因縁
        4、新信行             「同」第12巻157頁

    などという不思議な著述が、若いヒッピー族の一人によって発表されて、もうそういう本の日本語訳が出ていても、賢治の人生観や四次の世界では少しも可笑しくないと私は思うのである。
     或るはいま日本に生まれている沢山の天才たちのうちの一人が、

     「学者アラムハラドの見た着物」    「同」第9巻63頁

    の著書によって投げ棄てられた後半の空白を、全然別の発想で書いているだろうと想像することも差し支えないことと思う。 1970/07  p209「臨終のことば」から 

    <3>につづく

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    2011/11/07

    宮沢賢治への旅 イーハトーブの光と風

    Ina
    「宮沢賢治への旅 イーハトーブの光と風」
    NHK 1996/09 販売元: 朝日新聞社 VHS] 時間: 45 分
    Vol.3 No.0526★★★☆☆

    1)賢治という「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」に、今となって、周囲の人々は、あまりに多くのことを重ね合わせてみようとしすぎているのではないだろうか。

    2)多くの人に愛され、多くの解釈が成立するのは、必ずしも拒否するものではないが、ひとりの人間に多くのことを期待しすぎているように思える。

    3)ビデオや解説に頼るのもほどほどにして、賢治が直接残した詩や絵などに、戻っていくべきものだろう。

    4)賢治が愛した大自然も、たしかにイーハトーブの大事なファクターではあるが、それはあたかもイーハトーブだけが聖地であるかのような錯覚を与えてしまう。

    5)かと言って、解説も評論もなければ、賢治ワールドも遠のいてしまうし、動物たち、植物や鉱物たちも、賢治を理解するには不可避の入り口である。

    6)とにかく、今は、賢治、賢治、とつぶやきながら、もう少し、ぶらぶらと散歩をつづけてみよう。

    7)それにしても、「原体剣舞連」はすごかった。

    8)これはNHKの番組だった。

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    2011/11/06

    ポエム/宮澤賢治 シグナルとシグナレス 春と修羅

    Poem
    「ポエム/宮澤賢治」シグナルとシグナレス 春と修羅
    宮澤賢治 朗読・結城美栄子 1996/09 販売元: ポニーキャニオン  形式: VHS  時間: 30 分
    Vol.3 No.0525★★★☆☆

    1)こちらは、ビデオ作品だが、映像はイメージ風景で、女性の声による朗読。

    2)賢治と言えば、誰でも思い出す「雨ニモマケズ」。アニメでもすっかり定番となっている「銀河鉄道の夜」。それに比べれば、もっともその心象スケッチの頂点とされる「春と修羅」のような詩はタイトルばかりで、なかなか読み込むのが難しい。

    3)しかし、このように朗読してもらうと、ひとつのリズムとして入ってくるので、その脈絡がつかみやすい。

    4)DVDやビデオなどの視聴覚資料が容易に借りだせるようになったとは言え、いくら賢治関連でも無尽蔵にあるわけではない。今後は、CDやカセットテープを含めた音源の視聴となる。ちょうどいいタイミングかもしれない。

    5)もうすこし賢治ワールドに浸ってみよう。

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    氷河ねずみの毛皮

    Hyouga
    「氷河ねずみの毛皮」
    宮沢賢治・原作 1996 T&Kテレフィルム VHS 24分
    Vol.3 No.0524★★★☆☆

    1)24分の短編。こちらは文部省選定。シンプルなストーリー構成だが、含みのある賢治の世界。

    2)小説が苦手な私には、ひとつひとつがこのようにすでに作品になっているアニメがあるというのは実にありがたい。気に言ったものがあれば、あとでまたゆっくり小説を読めばいいのだ。

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    銀河鉄道の夜 朝日ビデオ文庫 杉井 ギサブロー/監督

    Ginga
    「銀河鉄道の夜」 
    杉井 ギサブロー/監督 宮沢 賢治/原作 田中 真弓/[ほか]声 1996/7 朝日ビデオ文庫]アニメーション VHS 107分 1985年度作品 <文部省特選>Vol.3
    Vol.3 No.0523

    1)1985年文部省特選作品。今なら文科省推薦となるのか。あまりお行儀のよさそうなのは窮屈で、あまり当ブログには登場しないが、この映画は必ずしもそうでもない。

    2)放送時間が107分あるので、いままで見た銀河鉄道の夜のなかでもフルバージョンのストーリーとなる。私が借り出したのは図書館の、しかもビデオだったので、必ずしも保存状態がよくなく、画質もいまいちだった。多分最近はDVDとかもあるだろう。

    3)あの原稿用紙からこのようなアニメになるのだから、原作を書いたほうも、アニメをつくったほうも創造力がすばらしく発達している人々なのだろう。

    4)細かいところまで作り込まれているから、こちらの創造力がそがれてしまうところがあるが、そういうなら、もう原作を読んでいればいいわけだし、あとは自分で作ってしまうしかない。

    5)ジョバンニ。カンパネルラ。死、友情、十字架。いのち。いくつものことが、幾層にも重なって賢治の描いた世界の頂点に位置する物語。

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    兄のトランク 宮沢清六 <1>

    Ani
    「兄のトランク」 <1>
    宮沢 清六 1987/09 筑摩書房 単行本: 241p
    Vol.3 No.0522

    1)賢治の8歳下の弟。生前、ほとんど読者を得られなかった賢治文学にとって、この人がなければ、現在のこれほどのブームは起きなかっただろう。「ひまわり」などで有名なヴィンセント・ヴァン・ゴッホが、生前に一枚の絵も売れず、死後、弟のテオ・ファン・ゴッホのサポートによって評価を得ていったことに似ている。

    2)宮澤賢治の教え子たちの証言を綴った写真集「先生はほほーっと宙に舞った」(鳥山敏子/塩原 日出夫)や、宮沢賢治記念館発行の「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の原稿のすべて」も、原寸大の賢治を伝えるには貴重な資料ではあるが、それ以上に、弟清六の業績は、賢治と一体であったことによって、さらに大である。

    3)清六のの仕事は死後、「宮沢賢治の銀河世界--賢治の素顔が見えてくる」 に出演している清六の孫の和樹「林風舎」に引き継がれている。

    4)吹雪はいつか静かになって、みちのくの野山には、いましんしんと雪が積もっているようだ。
     こんな晩にも、第三紀の四次元世界のイギリス海岸では、怪鳥の群れが飛びめぐり、幾条もの飛竜は空に駆け上がり、怪鳥はつかんで来たものをなげつけたりしているのであろうか。

      まことのことばはうしなはれ
      雲はちぎれて空をとぶ
      ああかがやきの四月の底を
      はぎしり燃えてゆききする
      おれはひとりの修羅なのだ

    と、唾し歯軋り叫んだ兄はいまどこで何をしているのだろうか。1977年11月  p76

    5)ここでも、あの宮地尚子の「環状島モデル」を思い出す。 

    16)詩として残された、あるいは「思い出」として残された賢治は、環状島の尾根に立つ三角標としての役目を果たしているにすぎないのではないか。不可視の真実を、円錐島と仮定するならば、その頂にあるものを、あるいは、その内海に深く沈む、そのものを幻視していくことが大事だ。

    7)修羅のいかりがあまりにもはげしく、頭髪さえも針となれば、檜(チェブレッセン)や糸杉(サイプレス)も忿りに燃えて、巻雲を灼くように枝を空にのばすのだ。
     それらの景色は、まさしくあのヴァン・ゴッホのカンヴァスの中である。

      サイプレス
      忿りに燃えて
      天雲の
      うづ巻をさへ灼かんとすなり

      天雲の
      わめきの中に沸きいでて
      いらだち燃ゆる
      サイプレスかも
       p99

    8)この断片的ではあるが示唆的である清六の本には、いくつものインターフェイスを見ることができる。こまかく追求しないが、賢治から当ブログへのメッセージというものを見ようとすれば、かすかにだが、しかし、確実な系譜を読む取ることもできる。

    8)最近その書き直すつもりの原稿の幾分を発見したので、読んで見るといろいろ興味深い点が多いので、次にそれを所々写してお目にかけよう。

     「さる9月4日、花巻温泉で第十七回極東ビヂテリアン大会が行われた。
     これは、世界食糧問題に対する相当の陰謀をも含むもので昔は極めて秘密に開催されたものであるが、今年は公開こそしなかったが別に隠しもしなかったやうだ。
     たぶんそれは、世界革命の陰謀などに比べると、余りにこどもじみたものなので、誰もびっくりしないためであつたらうと思はれる。
    ・・・・・(中略)p172

    9)これは書きかけの原稿だけが残されて、完成しなかった作品だが、賢治の旺盛な創造力が見てとれる。ここにビヂタリアンと表現されているのは、ベジタリアンということであろう。賢治自身はベジタリアンであったようであるが、ここにある極東大会や万国大会、という表現の中に、コスモポリタンの賢治から、マルチチュードやサニヤシン・ネットワークなどへつながる系譜も見ることができる。

    10)エスペラントにも強い関心を賢治は示していて、今なら、英単語1500語で成立するグロービッシュなどを普及させようとするのではないだろうか。ここ数日ダライ・ラマがセンダードを訪問していたが、彼は、学校生徒には、英語を学ぶようにといつも話している、と語っている。

    11)「世界」と賢治が軽く童話の中などで書いている場合には、ふつうにいう「世の中」とか、あるいは「地球」とか、そういう意味で書いている場合もありますが、これが「農民芸術概論」のような場合には「世界」というのはもっと深い意味で言っていると思います。p199

    12)清六は、ここで賢治のいう世界とは、過去、現在、未来、そして東西南北、上下をいうのであって、空間全体ということなのだ、と強調している。

    13)もう案外賢治はあこがれの土地に生まれ変わって、「また起きて詳しく書きます。」ということばを実行に移しているではないかと、子供の考えるようなことを思うのである。
     そしてそんな土地をいま仮りに瑞典あたりに仮定して、賢治が書き残してこれから書きたいと思った作品をそのメモの中から拾って見ると、

      (中略)

    などを賢治風の文体で、ストックホルムあたりで書いている青年があるだろうなどと考えることは楽しいことだ。
     またウクライナあたりで、

      (中略)

     などという不思議な著述が、若いヒッピー族の一人によって発表されて、もうそういう本の日本語訳が出ていても、賢治の人生観や四次の世界では少しも可笑しくないと私は思うのである。
     或るはいま日本に生まれている沢山の天才たちのうちの一人が、

      (中略)

    の著書によって投げ棄てられた後半の空白を、全然別の発想で書いているだろうと想像することも差し支えないことと思う。(中略)  1970/07 p209「臨終のことば」から

    14)この部分を読むことは楽しい。賢治は1933年に亡くなったのだから、1930年生まれのゲーリー・スナイダーは賢治の転生ということにはならないが、スナイダーが賢治の詩を英訳して「The Back Country 奥の国」の中に収めたのは1967年のことであった。清六はこのことを当然知っていて、「不思議な著述が、若いヒッピー族の一人によって発表」される、という表現を使っていたのではないだろうか。

    15)あるいは、山尾三省は1938年生まれだから、転生ということも、まさに「子供の考えるようなこと」も有り得るが、 「いま日本に生まれている沢山の天才たちのうちの一人」として、三省がその仕事を受け継いでいる可能性をゼロとはしないでおきたい。

    16)ここにおいて、三省→賢治、スナイダー→賢治、というベクトルは、見事に賢治→スナイダー、賢治→三省、という逆方向の変遷を遂げ、見事なトライアングルが完成したようである。「野の道」「聖なる地球のつどいかな」「The Back Country」、そして賢治の遺言としての「兄のトランク」。ここに、当ブログ「3.11後を生きる」カテゴリのひとつのピークを見い出し、新カテゴリ「センダード2012」への橋渡しとする。

    Photo

    17)さて、それでは、ということで、上で(中略)にしてしまった部分が大きな存在になってくるのだが、それについては、次回に譲ろう。

    18)死の十日前に教え子に出した手紙には「私の惨めな失敗は、まだまだ慢心という気分が残っていたため」と深く反省して書いている。p237「兄賢治の生涯」

    19)南無妙法蓮華経      合掌

    <2>へつづく

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    2011/11/05

    種山ヶ原の夜 宮沢賢治・原作 男鹿和雄・脚色・作画・演出

    Tane
    「種山ヶ原の夜」
    宮沢賢治・原作 男鹿和雄・脚色・作画・演出 2006/07/07 ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント DVD 27 分 ジブリがいっぱいシリーズ
    Vol.3 No.0521 ★★★★★

    1)なんとも懐かしい語り。ネイティブなイーハトーブ語は聞いたことないけど、昔から知り合いのハンコ屋さんのおじさんの言葉にかなり似ている。言葉の抑揚も、ことばも、やさしさも、とても似ている。

    2)あの語調、ハンコ屋さんの、独自の口調なのかな、と思っていたが、きっとあのおじさんもイーハトーブの世界の人なのだ。70歳も過ぎた人だけど、ホントに彼を連想する語り。

    3)子ども達も、ちゃんとイーハトーブ語を話している。

    Tane_5            スタジオジブリ

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    狼森と笊森、盗森/月夜のでんしんばしら 名作ビデオ絵本

    狼森と笊森、盗森

    月夜のでんしんばしら
    「狼森と笊森、盗森/月夜のでんしんばしら」 名作ビデオ絵本
    原作・宮沢賢治 2010/04 編集NHK ピーマンハウス VHS 50分
    Vol.3 No.0520 ★★★★☆

    1)アニメやコンピュータ・グラフィックスや、影絵劇やら、いろいろあるが、こちらは、まるで紙芝居のような世界。だが、むしろ、日本むかし話みたいに、語りで聞かせる作品ということになる。朗読は、市原悦子と木ノ葉のこ。

    2)なるほど、これは、アニメでもCGでもいけない。まさに童話絵本のような絵がぴったりなストーリーを選んでいる。

    3)先日、花巻の童話村に行ったら、この「月夜のでんしんばしら」が、実際に行進していた。でも、童話の中ほどは迫力なかったな。

    4)東京電力の原発事故が地球に危機を与えている時、この小説はどんな読まれ方をするだろう。

    5)最近は、電柱や送電線と鉄柱を見ていると、なんだか反自然的で、あまり美的ではないなぁ、と思うことがおおかったのだれども、このような賢治の目になってみると、電柱や送電線も、おとぎ話の出演者たちになったみたいで、親しい感じがしてくる。

    6)でんしんばしらとも、仲良くしないとね。

    ドッテテドッテテ、ドッテテド

    ドッテテドッテテ、ドッテテド

    ドッテテドッテテ、ドッテテド

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    藤城清治 銀河鉄道の夜

    藤城清治 銀河鉄道の夜 [DVD]
    藤城清治「銀河鉄道の夜」 
    藤城清治 2007/07 コロムビアミュージックエンタテインメント DVD  48 分
    Vol.3 No.0519 ★★★★☆

    1)こちらは影絵劇。これもまた、どうしたらこんなにきれいなものができるんだろう、と思うほどの作品。

    2)宮沢賢治の世界を光と影で描いた、藤城影絵劇の最高傑作。初演から50年を経て、ハイビジョン撮り下ろし映像にいて初DVD化。ケース裏面

    3)ストーリーにやや忠実。

    4)いやはや、いろいろな「銀河鉄道の夜」があるものだ。

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    宮沢賢治  銀河鉄道の夜 Fantasy Railroad in the Stars KAGAYA

    Kagaya
    「宮沢賢治 銀河鉄道の夜」 Fantasy Railroad in the Stars
    KAGAYA  2007/01 株式会社アスク DVD 48分
    Vol.3 No.0518 ★★★★☆

    1)これはアニメではない。実写かな、と見間違うような、これはコンピュータ・グラフィックスなのだろう。あれ~、どんな風にしたんだろう、と思うくらい、きれいな映像。

    2)80年前の作品、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」。そこに描かれた風景が、デジタル映像として完成。
     映像は、透明感あふれる作風で国内外に多くのファンを持つアーティストKAGAYA。3年の歳月をかけて創り込まれた精緻で臨場感あふれる映像は幻想の世界へと誘います。
    ジャケット裏面

    Akinokeiben

    3)天体に関する描写も素晴らしい。この前プラネタリウムに駆け込んだ時、工作の天体望遠鏡を売店で見つけた。今度あれをつくって、プラネタリウムじゃなくて、本当の夜空をみてやろう。

    4)星占いには自信があるけれど、夜空の星ぼしにはあまり詳しくない。

    5)1950年代はまだまだ満天の星空という実感があったけど、最近は、もう夜空を見る機会というものが、まったくなくなってしまった。

    6)もし賢治が今生きていたら、インターネットにも夢中になるだろうし、宇宙飛行士たちの活躍にも目を見張ることだろう。

    7)「月夜のでんしんばしら」という童話がある賢治のこと、原発や火力発電所から伸びている送電線の大きな鉄塔にさえ、ファンタジーを見るかもしれない。

    8)科学がまだまだ夢をかきたてる時代だった。

    9)センダード2012に賢治がよみがえったら・・・・。そんなことを、いちいち考えてみる。

    10)去年3月、センダードを取り巻く環状線の自動車専用道路が、完成した。

    Photo

    10)一周60キロ、約45分の旅だ。最近、銀河鉄道をイメージしながら、内回り、外回りを廻ったりしている。賢治だって、きっと好きだろう。

    11)ぐるぐる回っていると、どんどん賢治ワールドにつながっていくような気がする。

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    仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う! <3> 飯沼 勇義

    <2>よりつづく 

    Photo
    「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う!<3>
    飯沼 勇義 (著) 1995/09 宝文堂 単行本 p234

    1)秋晴れに誘われて、自転車で町にでた。図書館にいったが、なんと本日はお休みときた。ここまで来たからにはと、前から気になっていた蛸薬師まで足を伸ばすとしよう。

    2)正確には淵上蛸薬師瑠璃光如来。「参拝のしおり」には次のようにある。

    3)いつの頃か、この地方一帯に洪水があって水が引いたあとを見ると、池の中島に蛸に吸いつかれた薬師様の像が流れついていた。それ以来、薬師様の漂着した中島に生えている葦はみな片葉になり、この片葉の葦を夜泣をする子供の布団の下に敷いて寝かせると夜泣が止まるという。「参拝のしおり」

    4)この部分は飯沼勇義に言わせれば次のようになる。

    5)慶長津波の時、この観音様に蛸がついてこの地へ打ち上げられ、これ以来、この観音を薬師如来とし、川熊家の氏神として屋敷内に蛸薬師堂の神社を建てたと大竹誠氏が言っています。「仙台平野の歴史津波」p118

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    6)慶長津波は1611年だから、ちょうど400年前のこととなる。「参拝のしおり」によると、またこうある。

    7)その後川村家では、粗末にしては勿体ないと薬師様を屋敷内に安置していたが、薬師様が繁盛すると家運が衰えると聞いて池の西にお堂を建てて移しお祭りすることとなり縁日は5月朔日で昔から赤飯をはじめ供物は川村家で供える。「参拝のしおり」

    8)どうやら現在地の太白区長町4-2-12の、その地点まで正確に波が来たということではなく、これまで何回か移動してきたようである。ただ、気になったのは「薬師師様が繁盛すると家運が衰える」というくだり。たしかにホトケごころが過ぎると、競争社会を生き抜くことは難しくなるのかなぁ。<再訪>2016/04/05

    9)すぐ近くの知人の事務所を尋ねると、こちらもまた不在。よし、いい機会だ。今日は、沖野の「浪分神社」まで行ってみよう。 

    10)慶長津波は、井戸浦川、七郷掘を駆け上がり、この周辺一帯まで及び、現在の神社の位置が浪分けの地となって、ここより二つに分かれて引いていったといわれています。この社には、浪分不動尊をご本尊として祀り、浪分神社というようになりました。「仙台平野の歴史津波」p115

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    11)浪分神社は若林区霞目の自衛隊駐屯地の東北にある。自衛隊機の発着でかなりやかましい。道路沿いのちょうどローソンの道路を挟んで反対側。こちらも400年前の慶長津波ゆかりだが、おなじように、あとから移築されているようだから、必ずしも現在地がその浪分けのポイントとは言い難いようだ。

    12)社務所は地震の被害があって修理中だが、今回の3.11津波は来ていない。そこから2キロほど東に東部道路が見える。田んぼの中を自転車で走っていくと、たしかに、この地点には建物がほとんどない。

    13)東部道路のガードをくぐると、もうそこは海岸から3キロほどのところなので、あちこちに3.11の痕跡が見えてくる。さらに海岸に近付いていけば、あとは動画で有名なポイントとなる。

    14)賢治のイーハトーブと地続きのセンダード2012は、巡回する高速環状線で一周45分の旅だ。今日はシコシコと自転車でその高速下の側道を走った。

    15)宮地尚子によれば、これらの神社などの痕跡は、尾根にある中間地点ということになろう。

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    16)たしかにゼロ地点に近づくほど、当事者や、被った損害、抱える負担は大きく、発言権や証言者としての正当性(レジティマシー)も大きくなります。けれども、ゼロ地点に近ければ近いほど発話力が上がるという単純なモデルは、すでに説明したように事実に反しています。宮地尚子「震災トラウマと復興ストレス」p11「円錐島とのちがい」

    17)見えない内海部を幻視する力が必要となる。

    18)神秘家たちが、「指を見ないで月をみよ」という時、私たちは、「指」としての歴史的遺跡をばかり注目しているわけにはいかない。そして、また「津波」でさえ「指」でしかないのではないか。

    19)見られるべき「月」とは何か。人生そのものを賭けた問いである。

    20)それにしても、蛸薬師の「薬師様が繁盛すると家運が衰える」という因縁と、浪分神社のすぐそばにある自衛隊基地。自転車をこぎながら、福祉予算と軍備予算の比較のことが思い出された。どっちかに大きく傾くと、人心は乱れることになる。

    21)瑠璃光薬師如来については、三省もスナイダーも賢治も詩で歌っている。我が家の近くにもカヤの木ゆかりの瑠璃光薬師如来がある。

    22)自衛隊や電気事業もなくてはならない存在である。3.11で思わぬ新たなテーマについて、いろいろ思いをめぐらすことが多くなった。

    23)塩害で枯れた草原と化した田園の中を自転車を走らせた。ここで生きよう、ここがセンダード2012だ。

    <4>につづく

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    2011/11/04

    イーハトーブ幻想 KENjIの春 監督河森正治他

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    「イーハトーブ幻想 KENjIの春」 
    監督:河森正治/佐藤英一 1996/12/14 日本テレビ系列上映 VHS 53分
    Vol.3 No.0517 ★★★★★

    1)登場人物たちが、猫を中心とした動物たち。賢治の世界がファンタージとして蘇る。どこからが賢治の人生か、どこからが小説の世界か、渾然とした中に、イーハトーブの幻想はつづく。

    2)ところどころに賢治のモチーフがでてくるが、結局はイーハトーブの幻想として終わる。1996年のテレビ番組という限界があるか。

    3)それでもやっぱり素晴らしい。まだ未読の賢治作品が多いので、どこかに作品のモチーフが隠されているのだろうが、見つけることができないものもあるだろう。

    4)あっという間の53分間。賢治理解を、もう一歩すすめたい。

    5)宮沢賢治生誕百年記念作品。

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    2011/11/03

    「宮沢賢治の世界」 映像で綴る宮沢賢治の37年の生涯 小山哲哉/製作・監督

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    「宮沢賢治の世界」 映像で綴る宮沢賢治の37年の生涯
    小山 哲哉/製作・監督 2007 キャピタルABCインターナショナル 12cm 60分  DVD
    Vol.3 No.0516★★★★★

    1)ナレーションはなく、ひたすら画像と静かな動画で綴られる賢治の世界。

    2)先日、賢治記念館に行った時、まずは南斜面の花壇で遊んでしまったのだが、あれは賢治自身の設計による花壇だと、このDVDで知った。

    3)水彩画も描いている。シュールな絵もある。

    4)当時の学校を現在の地に求めるので、実際に賢治がいた当時のものではないが、そこに確かに賢治の面影があるように思えてくる。

    5)こうして見ると、賢治ゆかりの地はまだまだありそうだな。花巻を尋ねる楽しみが増えそう。

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<36>3.11天地人カテゴリについて

    <35>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版

    <36>「3.11天地人」カテゴリについて

    1)ようやく3.11関連の書籍を読んでみようかな、と思うようになったのは、7月17日の女子サッカーチーム・なでしこジャパンのワールドカップ優勝だった。

    2)原発が破壊され、配電システムも十分復活しないままの状態の中、深夜放送のサッカーゲームを見るのは勇気がいったが、実に優勝してくれたので、感動でいっぱいになった。涙が流れた。すごく元気をもらった。

    3)よし、3.11に向かい合おう、と、ようやくそんな気持ちが湧いてきた。

    4)書かれた期間は、2011/08~2011/10の間。3.11関連の本を前後200冊ほど読み込んだ。地震、津波、原発、放射線、ストレス、PTSDなど、あらゆるジャンルを読みこんだ。3.11に天地人の災害が起こっていた。

    5)再読したいこのカテゴリこの三冊は次のとおり。

    「東日本大震災全記録」 被災地からの報告 河北新報出版センター 2011/08

    「3・11その日を忘れない。」歴史上の大津波、未来への道しるべ 飯沼勇義 2011/6 鳥影社

    「ECOシティ」 環境シティ・コンパクトシティ・福祉シティの実現に向けて 丸尾直美他 丸尾直美/三橋博巳他 2010/05  中央経済社

    6)一冊くらいは3.11記録として写真集も残しておかなければならないだろう。「東日本大震災全記録」は地元の新聞社が数カ月経過してからあらためてまとめたもの。

    7)飯沼勇義は「仙台平野の歴史津波」を書いて、16年前から巨大津波が仙台平野を襲うことを警告しつづけていた人。その本は絶版になっているが、「3・11その日を忘れない。」が、大人しめのタイトルとは裏腹に、凄まじい迫力を示す。

    8)「ECOシティ」は3.11以前にでた本だが、私の住まいからもっとも近い仮設住宅がある、あすと長町の、ECOタウンプロジェクトをレポートしていた本。

    9)3.11後をどう生きるのか。当ブログ次なる「センダード2012」への大きな掛け橋になってくれるはず。

    10)とにかく震災のショックは大きかった。あまりに複雑で多岐に渡った。それを天地人と三つに分けた。天としての地震・津波。地としての原発事故。そして、本来、もっともメインテーマは人である。

    11)人とはなにか、意識とはなにか、私はだれか。結局はここに戻ってくる。

    <37>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<35>森の生活カテゴリについて

    <34>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版

    <35>「森の生活」カテゴリについて

    1)3.11で、図書館も書店も自宅の本棚も壊滅した。読書などおちついてできるものではなかった。

    2)一方、3.11以前に、森の中にエコビレッジを創ろうというプロジェクトも、持ちこんだテントを建てる前に被災し、原発から90キロ圏内にある森も、決して安全地帯とは言えない場所となってしまったのである。

    3)どっちに向かっても歩みだせないような状況の中で、当ブログは、まず自宅にある本から読書をはじめた。

    4)被災直後は、ツイッターを使って近況報告を続けた。

    5)被災後、新たなるカテゴリは「森の生活」とした。

    6)スナイダー、三省、ソロー、エマソン、「東北を歩く」の結城登美雄、「森は海の恋人」の畠山重篤などを読み進めた。

    7)書かれたのは2011/06~2011/08の頃。

    8)再読ししたいこのカテゴリこの三冊はつぎの通り。

    「東北を歩く」 増補新版 小さな村の希望を旅する 結城登美雄 2011/07 新宿書房

    「アニミズムという希望」 講演録・琉球大学の五日間 山尾三省 2000/09 野草社

    「森は海の恋人」 畠山重篤 1994/10 北斗出版

    9)結城登美雄は、以前より東北の村々に独特の愛情をそそいできた人。とくに以前からの沿岸部のレポートが貴重なレポートとなっていた。

    10)三省は独特な詩情を遺した同時代の詩人だが、その中でも、沖縄大学での最後の講義は貴重な遺書となっている。

    11)畠山重篤は、沿岸部の実業家として、成功している。最近は冗漫な部分もあるが、「森は海の恋人」は、見事なムーブメントを起していた。沿岸部の今後の復興のバロメーターとなってくれるのではないか。

    12)この時点で、被災地でも3.11関連の図書を見ることができるようになったが、被災直後はとてもとても、それらを直視する力はなかった。

    14)「森の生活」というニュアンスの中に、何かの救いを求めていた。

    15)3.11後に、まずはイメージしたのが「森の生活」だ。現実的にそのような環境も準備されていたが、かならずしも、そう簡単にはいかない。だが、イメージは「森の生活」だろう。

    16)とにかく、震災のリアリティが圧倒的だ。なにか救いが欲しい。なにか足がかりがほしい。そんな時、「森の生活」がベストの選択肢であっただろう。

    <36>へつづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<34>メタコンシャス 意識を意識するカテゴリについて

    <33>よりつづく 

     


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版

    <34>
    「メタコンシャス 意識を意識する」カテゴリについて

     

    1)科学、芸術、意識、の三つの柱で成り立ってきた当ブログは、意識に一本立ちさせ、さらには、意識を意識する、というさらに内面への旅を強めていった。コンシャスをコンシャス。メタコンシャスである。

     

    2)書いたのは、2010/12~2011/06。

     

    3)ただし2011/03~04に大きくブランクがある。

     

    4)当ブログ、メタコンシャス瞑想が大地へとつながり、3.11は起きた。

     

    5)3.11の午前、「パーマカルチャー 農的暮らしの永久デザイン」を読んでいた。

     

    6)そして、ようやく4月25日になってブログを再開することができるようになり、ゲーリー・スナイダー「地球の家を保つには エコロジーと精神革命」から読み始めた。

     

    7)再読したいこのカテゴリこの三冊は次のとおり。

     

    「野性の実践」 ゲーリー スナイダー 1994/08

     

    「惑星の未来を想像する者たちへ」 ゲーリー・スナイダー 2000/10

     

    「絶頂の危うさ」 ゲーリー・スナイダー 2007/08 思潮社

     

    8)とりあえず、当ブログは、3.11以降、ゲーリー・スナイダーから再スタートした。

     

    9)当ブログはここで終わって良かったのだ。あるいは、終わった。まだ続いている、というのは幻想だ。ここに執着してはいけない。

     

    10)3.11後、すでに何かが変わってしまっている。いつ止めてもいいように。

     

    11)いつサドンデスが来ても、それはそれで正しいのだ。終わる時が、終わった時なのだ。

     

    <35>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<33>No Books No Blogsカテゴリについて

    <32>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <33>No Books No Blogs」カテゴリについて

    1)カテゴリ名は、前のカテゴリ名「No Earth No Humanity」に関わりがある。「No Books No Blogs」。ブログを書く必要がなければ、読書もする必要がない。本がなければブログもない。読書ブログとしての、自己解体である。

    2)書かれたのは、2010/08~2010/12の期間。すでに解体過程にあるので、これまで読み込まれなかった不足の部分などを補っている。

    3)再読したいこのカテゴリこの三冊は次のとおり。

    「エリック・ホッファー自伝」 構想された真実 エリック・ホッファー 2002/06 作品社

    「上弦の月を食べる獅子」 夢枕 獏 1989/08 早川書房

    「OSHO The Luminous Rebel」 Life Story of a Maverick Mystic Vasant Joshi (著) 2010/05 Wisdom Tree

    4)エリック・ホッファーは、無学なところから独学で大学教授まで務めた人。独自の個性を輝かせる。

    5)「上弦の月を食べる獅子」は、SF「2001年宇宙の旅」を日本的に昇華したとされる作品。意識から無意識へ。意識から超意識へ。集合意識から宇宙意識へ。不思議な螺旋を醸しだす。アガータ・ワールド。

    6)「OSHO The Luminous Rebel」 は「反逆のブッタ」で不足していた部分を不足する、最近刊の増補版。

    7)一つの円環が、このカテゴリで試みられている。ひとつの終焉だ。

    8)うん、いい調子、これでいいのだ。これで当ブログは終わって構わない。すくなくとも、これで一巡している。あとは、また螺旋階段をひとつ上に上がっていくだけであり、まぁ、この程度が、当ブログの活動エリアなのである。

    9)この程度の実力である、ということであろう。よくも悪くも。

    <34>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<32>No Earth No Humanityカテゴリについて

    <31>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <32>「No Earth No Humanity」カテゴリについて

    1)「No Earth No Humanity」というネーミングは、「One Earth One Humanity」と、もうひとつの言葉、No Water No Moon から出来ている。

    2)ひとつの地球、ひとつの人間性、という概念は、理想的な目標ではあるが、ここにこだわると、迷いになってしまう可能性がある。桶の水がなくなってしまえば、水に映っていた月影もなくなってしまう。

    3)地球にこだわる心がなくなれば、人間性について悩む惑いも消えてしまう、という暗喩を含んでいる。

    4)書かれたのは、2010/06~2010/08の期間。

    5)カテゴリ通り、縮小過程のなかで、さらに一つの像を結び、さらに無化される方向に向かっていく。

    6)再読したいこのカテゴリこの三冊は次のとおり。

    「ニーチェ入門 悦ばしき哲学」 Kawade道の手帖 2010/06 河出書房新社

    「預言者」 ジブラン カリール (著), 佐久間 彪 (翻訳) 1984/6 至光社

    「月面上の思索」 The Way of the Explorer エドガー・ミッチェル 2010/07 めるくまーる

    7)再読本も、「One Earth One Humanity」と対応させてある。ニーチェ、ジブラーン。そしてエドガー・ミッシェル。「月面上の思索」の中にニーチェやジブラーンを見ることができるだろうか。

    8)かなり面白いと思う。このひっくり返しは、なかなか本質的だ。さらに一転、さらに二転、さらに三転できたら、もう、絶対に面白いと思う。

    9)究極へ突き進む。

    <33>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<31>One Earth One Humanityカテゴリについて

    <30>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <31>「One Earth One Humanity」カテゴリについて

    1)カテゴリ名は、1977年に直接Oshoからもらったメッセージに依っている。「私たちは、一つの地球、一つの人間性を信じている」。それは、私にとっての考案でもある。

    2)書かれたのは2010/04~2010/06の間。この時期、カテゴリは一つしか進行していない。以前は10個のカテゴリがあり、同時進行していた。やがて3つのカテゴリが進行している時代がつづき、やがて、一つだけにした。縮小過程に入った当ブログは、やがて、フェードアウトするスケジュールを考え始めた。

    3)再読したいこのカテゴリこの三冊は次のとおり。

    The Messiah Osho 1987/09 Publisher: Osho Intl  

    Zarathustra: A God That Can Dance Osho 1987/12  Rebel Publishing House

    「Osho、ニーチェを語る」 Osho 小森 健太朗・訳編 1990/03 出版:全国エルピー・プル狂連

    4)The Messiah はOshoがカリール・ジブランの「預言者」について語ったシリーズ。

    5)Zarathustra: A God That Can DanceはOshoがニーチェの「ツァラトウストラ」について語ったシリーズで、続刊に「Zarathustra: The Laughing Prophet」がある。

    6)「Osho、ニーチェを語る」は、1990年にニーチェやジブラーンについてOshoが語った部分が抜き書きされて邦訳されたもの。私家版として翻訳されているので、一般には出回っていないが、貴重な資料として当ブログでは何度も読み込んできた。

    7)このカテゴリはまだまだ未消化なので、今後、落ち着いたら、なんとかこの辺から打開策をとっていかなくてはならない。

    8)ここまで来ると、もういい加減、共通項を探しだし、統一したベースに根差した、一つの根源に根差したいという、焦りさえ感じられる。インテグラル、凝縮、絞り込み、などなど、あらゆるポインティングを試みようとする。

    9)ひとつ、とまでは言えないが、かなり絞りこみは成功しているようだ。10個、あるは3個、あるいはそれからさらに、と絞り込みは進行する。

    10)しかし、それとともに、これでいいのか、という反発力もおのずと首をもたげる。

    <32>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<30>ブッタ達の心理学3.0カテゴリについて

    <29>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <30>「ブッタ達の心理学3.0」カテゴリについて

    1)「ブッタ達の心理学1.0」「ブッタ達の心理学2.0」の後継である。3.0まで来て、これでおしまいと思ったが、こうして再読してみると、今後ももっと継続して深めていかなければならないカテゴリであると痛感する。

    2)書いたのは2010/03~2010/04。期間は短いが、この時期は、進行させるのは一時期一カテゴリに限定したので、おのずとその時期に目を通した本がすべて放りこんである。

    3)Oshoの「私が愛した本」やZEN関連を含め、割と絞りこんではいるものの、心境のアップダウンがあり、スパイラルは縮小過程にありながら、まだ円運動をつづけている。

    4)再読したいこのカテゴリこの三冊は、次のとおり。

    「精神の哲学・肉体の哲学」 木田元 /計見一雄 2010/03  講談社

    「キリスト最後のこころみ」 ニコス・カザンザキス  1990/03 恒文社

    「Beyond Psychology」 Osho,  1988  REVEL Book

    5)木田元の仕事は注目すべきである。「精神の哲学・肉体の哲学」 は当時の木田の最新刊。もうすこし時系列的に彼の仕事を追っかけてみる必要を感じる。

    6)ニコス・カザンザキスには「その男ゾルバ」がある。その彼がキリストを描きだす。ジブラーンの「人の子イエス」を合わせて再読したい。

    7)心理学についての言及が多いOshoだが、「Beyond Psychology」のタイトルが示す通り、次なる心理学、あるいは心理学を超えた世界を示唆しているのが彼のワークの全体なのだ。この本あたりを糸口に一歩前に、一歩奥に、歩をすすめたい。

    8)「ブッタ達の心理学」シリーズは、今後もつづくだろう。

    9)Osho「私の愛した本」もだいぶ読み込んだ。当ブログでは一番登場した本である。自分としてはかなり読み込んだつもりなのだが、それは単に文献探しをした、というに留まっているのではないか。

    10)「私の愛した本」を読むことによって、当ブログのテーマがより絞られたといえる。

    11)「最後のZENシリーズ」も近日中に再読をはじめたい。

    12)木田元の「反哲学」シリーズも悪くはないが、またまた論理にかすめ取られてはいけない。

    <31>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<29>私は誰かカテゴリについて

    <28>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <29>「私は誰か」カテゴリについて

    1)書かれたのは2009/10~2010/03の間。「私は誰か」は、古くて新しい、ほぼ唯一の正しい問いかけである。そして回答はない。このカテゴリの上においてみれば、どんな事象でも、溶け去ってしまう。

    2)この問いかけの中でも多くの本が読まれた。しかしながら、当然のことと言えるだろうが、それにふさわしい本たちが近付いてきた。セラピーやZEN、トランスパーソナル心理学、などが語られた。

    3)再読したいこのカテゴリこの三冊は次のとおり。

    「心を生みだす脳のシステム」 「私」というミステリー 茂木健一郎 2001/12 日本放送出版協会

    「神の詩」 バガヴァッド・ギーター 田中嫺玉 /ラーマクリシュナ研究会 2008/09 TAO Lab

    「哲学者たちの死に方」サイモン・クリッチリー (著),  2009/8 河出書房新社  Philosophers 2008

    4)茂木健一郎の仕事は注目すべきではあるが、ブームとなってかなり荒れた仕事となっている。再起を期待したい。ただ、意識は科学で解明できるか、というテーマは、結局は良い結論を得ることはできないだろう。

    5)バガヴァット・ギータは実に示唆に富んだ経典である。いくつもヴァージョンがあるので、さまざまな読み方を研究していく必要がある。

    6)網羅的ではあるが「哲学者たちの死に方」は実に興味深い一冊である。

    7)「私は誰か」という問いには正解はない。しかし、問いとしてはこれ以上の問いはない。

    8)このカテゴリも面白い。「私は誰か」とは基本的な問いであり、究極的な問いでもある。ただ、当ブログにおいては、かならずしも、このカテゴリ独立のテーマと考える必要はなく、この時期はこのような「カテゴリ」名で走っていた、ということであり、他の、前後の類似のカテゴリとの連携の中で再読される必要があろう。

    9)もう、ここまで来ると、やっぱり、もう読書なんかしなくていいな、と思い始める地点である。

    <30>へつづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<28>クラウドソーシング・カテゴリについて

    <27>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <28>「クラウドソーシング」カテゴリについて

    1)この時期、にわかに「クラウド・コンピューティング」という波が流れてきた。それぞれのパソコンをネットにつながった、出入力の端末と化し、中央の大きなコンピュータにつないでしまおうという流れである。維持やセキュリティにメリットはあったが、結局はそれぞれのパソコンの独立性が失われるというデメリットもあった。

    2)模様眺めをしていたが、どうも積極的にクラウド・コンピューティングには賛成できないでいた。そのころ、あらたな言葉としてクラウドソーシングと言う言葉も聞こえてきた。ただ、ふたつのクラウドは、日本語では同じでも英語ではまったく意味が違う言葉だった。

    3)一つは「雲」を意味し、デカいコンピュータを雲の上において、すべてのデータを雲の上に置こうという動きであり、他方は「群衆」を意味し、ひとつの仕事や作品を多くの人々でネットでつながりながら完成させようという動きであった。

    4)概念としては殆ど反対の意味をもっており、このカテゴリ名は最初「クラウド・コンピューティング」だったのだが、途中から「クラウドソーシング」へ変更した。

    5)さて、そのクラウドソーシングだが、明瞭な成果はまだ上がってきていないと言える。「マルチチュード」に繋がってくる概念で、今、世界中のネットワーカーがツイッターやフェイスブックで繋がり始めており、このクラウドソーシングと近似な現象が生まれているか、という観測も成り立つ。

    6)しかしながら、当ブログの読書としては芳しいものではなく、結局、当時読み込んでいた村上春樹作品の中から、再読したいこのカテゴリこの三冊(+一冊)、が選ばれることになった。

    「そうだ、村上さんに聞いてみよう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける282の大疑問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? 村上春樹 2000/08 朝日新聞出版

    「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? 村上春樹 /絵・安西水丸 2006/03 朝日新聞出版

    「ひとつ、村上さんでやってみるか」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける490の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? 村上 春樹 (著), 安西 水丸 (イラスト) 2006/11 朝日新聞社

    「少年カフカ」 村上春樹編集長 村上春樹 2003/06 新潮社

    7)私は、ハルキニストでもなければ、良き読者でもないが、同時代性としては、彼の小説の背景は理解できる。あるいは、これほど人気になった理由も知りたかったし、ノーベル賞の呼び声もかかるのはなぜか、と疑問ももっていた。

    8)しかし、上の4冊を読んでみて、彼がこれほどの人気を呼ぶほどの努力をしていることがよくわかった。4冊は決して最近の本ではないが、ネット上で読者やファンたちとの交流をしていることを知り、この人のこのシリーズに、当ブログの「クラウドソーシング」賞の栄誉を贈ったのだった。

    9)当ブログにおいては、村上春樹関連の60冊ほどを1~2ヵ月ほどかけて読み、メモしておいただけなのだが、アクセス数としては、彼関連が一番多い。これは当ブログの質の問題ではなく、ネット上にいかに村上ファンやハルキニストが多いか、ということを表わしているのだろう。

    10)当ブログとしては特に彼を推奨しているわけではない。

    11)このカテゴリをスタートした時点から、だいぶ目的が違ってしまった。途中から目的を見失ってしまったと言える。結局は、村上春樹おっかけになってしまい、それもしかたないか、という諦めになってしまった。

    12)ただ、なぜに村上春樹がこれだけ受けるのか、ということを考える意味では、なかなか有意義なカテゴリであったと思う。

    13)春樹ワールドにどっぷり浸かったのは、ほんの1ヵ月ほどであったが、いまだに当ブログへのアクセスのトップは春樹ワールドからの入り口である。まぁ、人気が高いということはこういうことなのか、と思い知らされる。

    14)基本的には、ここには戻らなくていいと思う。

    <29>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<27>地球人として生きるカテゴリについて

    <26>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <27>
    「地球人として生きる」カテゴリについて

    1)どうしてこのカテゴリ名を思いついたのだろう。地球人として生きる、というのは当たり前のことなのだが、よく考えてみると、これがなかなか難しい。日本人だったり、現代人だったり、あるいは地方人だったり、東洋人だったりする。

    2)どうかすると、宇宙人の存在が気になったり、地下から湧き出て来るという不可視の人々のことも気になる。未来人だったり、仏教徒だったり、若い人、老人、オンナ、男、いろいろな存在がある。

    3)それらを全部ひっくるめて、地球人と呼んでみたい。そこにある共通項はなにか。

    4)書かれたのは2009/04~2010/02の間。結局は小説読みに大半が費やされた。そこで選ばれた、再読したいこのカテゴリこの三冊は、ちょっと毛色の違っている。

    「世界の葬送」125の国に見る死者のおくり方 松涛弘道 / 「世界の葬送」研究会 2009/06 イカロス出版

    「新しい宇宙像」 ピョ-トル・デミアノヴィチ・ウスペンスキー 2002/06 コスモス・ライブラリ- /星雲社

    「私の愛するインド」輝ける黄金の断章 OSHO /スワミ・プレム・グンジャ 1999/11 市民出版社

    5)「世界の葬送」は2009/11に読んだサイモン・クリッチリー「哲学者たちの死に方 The Book of Dead Philosophers」の影響を受けているだろう。合わせて再読してみたい。

    6)ウスペンスキーは、地球人スピリットの基礎の部分を創ろうとしていた。彼の本は得手ではないが、勧める人もあり、新しい宇宙像」も、再読、精読する必要を感じている。

    7)「私の愛するインド」もきれいな本である。人間とは何か。コスモポリタンOshoのバイオリージョンを感じる一冊。

    8)トータルであること、原寸大であること、生きていること、などなどがあいまって、このカテゴリ名はできあがり、読書も進行していった。

    9)イメージとしては「地球人スピリット」の後継カテゴリである。

    10)村上春樹やドストエフスキーなどの作品を読みこんだ。

    11)いろいろ周りをキョロキョロみながら、視野を広げている感じ。

    <28>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<26>表現からアートへカテゴリについて

    <25>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <26>
    「表現からアートへ」カテゴリについて

    1)科学と意識をつなぐ掛け橋はアート、芸術だ。表出から表現、そして芸術へ。芸術から科学へ舞い降り、芸術から意識へと飛翔する。

    2)書かれたのは2009/05~2010/01の期間。村上春樹小森健太朗ドストエフスキーヘッセなど、小説も積極的に読んだ。

    3)再読したいこのカテゴリこの三冊は次のとおり。

    「ザノーニ」 エドワード・ブルワ=リットン 1985/04 国書刊行会

    「ミケランジェロの生涯」苦悩と歓喜 アーヴィング・ストーン 1966/02 二見書房

    「炎の人ゴッホ」 アーヴィング・ストーン 1990/07  中央公論新社

    4)リットンは、わが内なる神秘へと繋がっている作家。アーヴィング・ストーンはOsho推薦。ゴッホの伝記のほうが評価が高い。ミケランジェロについても書いている。

    5)このカテゴリの延長で賢治ワールドも立ち上がってくるだろう。

    6)このカテゴリでは、ジックリ一冊の本を読みこむことが必要となるため、ちょっと疲れる。楽しみで、無目的に、一冊一冊を手にとっていった結果、このカテゴリが存在しているのなら、それが一番理想的である。

    7)何かを求めて冊数を稼ごうとするなら、このカテゴリは苦痛である。これらの中から、「これこそは」と思えるものを見い出して、ジックリ取り組むことが大事であるように思う。

    8)あまり焦らず、時間をかけて、ゆっくり楽しんでいくべきカテゴリであろう。

    <27>へつづく 

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    銀河鉄道の夜,風の又三郎,ポラーノの広場 ほか3編 <1>

    Ginga
    「銀河鉄道の夜,風の又三郎,ポラーノの広場 ほか3編」 <1>
    宮沢 賢治 (著), 天沢 退二郎 (編さん) 1971/07 講談社文庫 文庫: 392p
    Vol.3 No.0515★★★★★

    1)賢治の手書き原稿の写しをみながら、「銀河鉄道の夜」を読む。

    2)なんだか天文台に行きたくなり、さっそくプラネタリウムのお姉さんの声にうっとり、秋の夜空の散歩を楽しんだ。

    3)お手軽な天体望遠鏡や、岩石コレクションのサンプルなどがあり、なかなか賢治ワールドと繋がる部分が多いことに納得。

    4)後日、センダードを取り巻く、高速の環状線を一回り。約45分の旅だ。また次の日は、逆回りにセンダードをグルグル廻る。一人でに荒井由美の「中央フリーウェイ」が口からでてくる。

    5)賢治の「銀河鉄道の夜」は黄泉の世界につながる夜空の旅だ。

    6)弟の清六は骨董とかは好きでなかったという。プラスチックとかガラスなどの方が好きだったらしい。和樹の林風舎も、決して「松の林の小さな小屋」ではない。賢治をも、決して清貧主義の素朴さの中に落とし込めてはいけないだろう。

    7)「センダード2012」は、明るく、楽しく、透明で、しかも、もっともっと未来的であっていいはずだ。

    <2>につづく

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<25>意識とは何かカテゴリについて

    <24>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <25>「意識とは何か」カテゴリについて

    1)読んで字のごとくのテーマのカテゴリである。具体的には茂木健一郎ブームにのり、彼の本のタイトル「意識とはなにか」をカテゴリ名にした。

    2)その本の巻末についていた<より詳しく知りたい人のためのブック・ガイド>を抜き書きしておいたのだが、このリストの読書はすすまなかった。そもそも意識は科学で解明できない、という見込みと、脱税問題で茂木の人気が急落したのが、影響した。

    3)書かれたのは2009/03~2009/08の間。ジャンルとしてはかなり限定した、いい雰囲気のカテゴリとなった。ただし、あまりに深く、再読したい本が多すぎた。このカテゴリだけは6冊の宿題を残している。

    4)再読したいこのカテゴリこの<6>冊。

    「ツォンカパの中観思想」 ことばによることばの否定 四津谷孝道 2006/11  大蔵出版

    「ハシディズム」 マルティン・ブーバー 1997/03 みすず書房

    「トマスによる福音書」 「聖書の世界」 第5巻 新約 1 田川 建三ほか著 1970 講談社

    「ディオニュシオス・アレオパギテス」 「中世思想原典集成3 」後期ギリシア教父・ビザンティン思想 上智大学中世思想研究所 1994/08 平凡社

    「達磨二入四行論」 「禅家語録 1」世界古典文学全集 36A <1> 西谷 啓治, 柳田 聖山 1972/12 筑摩書房

    「シークレット・ドクトリン」 宇宙発生論 上 神智学叢書 H・P・ブラヴァツキー 1994/02 神智学協会ニッポン・ロッジ

    5)いずれもヘビーな6冊である。本来一冊でひとつのカテゴリができそうな本たちであり、また、結局は読まずに済ましてもよい本たちでもある。あるいは読むとしても、なんども再読を重ねないといけない本たちでもある。

    6)いずれ、再読する。リストの上にあげておこう

    7)このカテゴリは実に面白い。「意識をめぐる読書ブログ」であるだけに、このカテゴリを再読するだけでも、当ブログの本質へと繋がっていく。ひとつひとつ読み直してみるか。あるいは、特に一冊だけを取り出して、精読するか、いずれの支線をつくったとしても、面白いものになると思える。

    8)ただ、それが「読書」という形ではなく、例えば「瞑想」とか、「ZEN」という形に発展していくのであれば、そちらのほうがずっといい。 

    <26>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<24>ブッタ達の心理学2.0カテゴリについて

    <23>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <24>「ブッタ達の心理学2.0」カテゴリについて

    1)ここから、ニフティブログ=ココログに引っ越ししてきた。その理由はいくつもある。

    ・楽天ブログは動画を貼り付けることができなかった。

    ・楽天ブログは、アクセスログがあまりに簡単で物足らなくなった。ココログは、あちこち見たかぎり、無料ブログとしては、一番アクセスログが充実していた。

    ・楽天ブログはすこしコマーシャル臭がする。いまいちスピリチュアルではない。いやマーケットプレイスでいいではないか、と思うが、どうもいまいちフィットしなかった。

    ・楽天ブログは書けばすぐアクセスがありレスポンスもいいのだが、ジャンク・トラックバックがありすぎて、どうにも我慢できなくなった、などなど。

    2)ココログに引っ越してきてから、スタイルをすこし変えた。それまでは同時に3つのカテゴリを走らせていたのだが、次第に減らし、一時期一カテゴリに収束した。

    3)「ブッタ達の心理学2.0」は、当然だが、楽天における「ブッタ達の心理学」後継である。書かれたのは2009/03~2009/08の間。

    4)再読したいこのカテゴリこの三冊は次のとおり。

    「ターシャム・オルガヌム」 第三の思考規範―世界の謎への鍵 P.D. ウスペンスキー 2000/06 コスモスライブラリー

    「サイコシンセシス」 統合的な人間観と実践のマニュアル ロベルト・アサジョーリ 1997/06 誠信書房

    「覚醒の舞踏」 グルジェフ・ムーヴメンツ スワミ・アナンド・プラヴァン 2001/06 市民出版社

    5)なかなかいい品ぞろいだ。この三冊を切り口すれば、当ブログでいうところの「ブッタ達の心理学」はグッと近づいてくる。

    6)「ターシャム・オルガヌム」はウスペンスキーの代表作である。「人間に可能な進化の心理学」を合わせて読みたい。

    7)「サイコシンセシス」は心理学的手法をインテグラルした。統合的である。ここから技法が生まれてくる。

    8)「覚醒の舞踏」は、日本人サニヤシンが、現代的な視点からグルジェフを見た一冊。こなれかたはいまいちだが、その視点は貴重。

    9)本当に当ブログを続けるなら、主テーマになるのはこのあたりだろう。

    10)オバマが大ブームになった。今となれば、かなり限界が感じられるが。

    11)茂木健一郎もブームだったので追いかけてみたが、いまいちだった。

    12)ウスペンスキーは再再読が必要である。

    13)当然、グルジェフも再読要。

    14)末永蒼生や諸富祥彦は、もう十分だろう。

    <25>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<23>バックヤード・カテゴリについて

    <22>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <23>
    「バックヤード」カテゴリについて

    1)本来このカテゴリは、物置として使われていた。ところが、楽天ブログにおいてカテゴリが21個になったのを機に、ニフティ・ブログに引っ越しをすることになった。余っていた部分に適当なものをぶち込んで、引っ越し準備にかかった。

    2)使われたのは2006/12~2009/03の間。物置とはいうものの、「再読したい三冊」とか、「新刊ベスト10」などの大事な記録が収蔵されている。この中の記録については、別途、別建てで再考するチャンスがあるだろう。

    3)このあとに「22番目のカテゴリ」もあるが、その名のとおり、「バックヤード」の後継として、ニフティブログへ引っ越し後に、楽天ブログに書込みが必要になったものを放り込んでいる。

    4)バラバラにいれてあるから、とにかく、トンデモないものが飛び出してきて、実は一番おもしろいのが、この物置、「バックヤード」カテゴリだ。

    5)ここは文字通り、物置。最初はカテゴリからはみ出したものを一時的に収めておくために、臨時的に作られたカテゴリだった。ところが、いつのまにか108まで来てしまったので、単独のカテゴリ名として独立した。

    6)何が飛び出してくるかわからないびっくり箱だ。「何回もページをめくった本ベスト10」なんてのも相当に面白い。これはアップデイトしていないので古い情報だ。「このカテゴリこの三冊曼荼羅」なんてのもあるぞ。

    7)「吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第 <2> 」も、本当は当ブログにとってのキモ中のキモである。大学から当ブログへのアクセス」なんていう追っかけもかなり面白かった。当ブログにとっての七つのキーワード」という追っかけも存在していたのだ。忘れてた。

    8)いやはや、骨董店にいって美術品に出遭ったような驚きがある。このカテゴリ、ひょっとすると一番面白いかも。

    <24>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<22>osho@spiritual.earth カテゴリについて

    <21>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版

    <22>osho@spiritual.earth」カテゴリについて

    1)OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2カテゴリの後継である。

    2)書かれたのは、2008/04~2009/01の間。

    3)Oshoが好きならば、Oshoを読み進めることは当たり前のこと。積極的に読み込んだ。しかし、本を読むことが、Oshoを理解する最短の道なのか? 

    4)再読したいこのカテゴリこの三冊(?)は次のとおり。

    「バルド瞑想」  再誕生への道案内 CD4枚組 市民出版社

    「マハムドラー瞑想」CD

    OSHO evening meeting meditation OSHO global conection

    5)Oshoを理解するには本も入口になるが、瞑想するにはそれなりの準備が必要だ。読書ブログであるかぎり、なにかのアイテムを上げておくしかないので、とりあえず、上の三枚のCDを上げておいた。

    6)「バルド瞑想」は、チベット密教ゆかりの「死者の書」のOshoバージョンである。

    7)「マハムドラー瞑想」は、Osho的チベット密教理解である。

    8)OSHO evening meeting meditationはOshoの夕方の瞑想である。

    9)結論としてこういうことになったのは、それなりに良かった。

    10)曼荼羅インテグラルでに詰められたものが自己であったとするなら、こちらのカテゴリでインテグラルされるべきはOshoである、という認識である。Oshoとは一体なにか、という問いかけである。あるいは、私にとってのOshoとは何か、と言える。そして、それはOshoにとっての私とは何か、ということになり、私Oshoとは何か、となり、最後には「何か」という疑問視だけが残る。そして、答えは「 」として存在する。

    11)ここでに詰められ答えは、誰か個的に運用されるための解ではなく、あまねく地球人全体に適用されうるべきものである。

    <23>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<21>mandala-integral カテゴリについて

    <20>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <21>mandala-integral」カテゴリについて

    1)インテグラルという単語はウィルバーの「インテグラル・スピリチュアリティ」から借りた。統合する上で、さらに曼荼羅の力を借りようという算段である。

    2)ウィルバーが失敗するように、集めただけでは本当のインテグラルにはならない。環状島の尾根に立つことができるだけである。そこから内海に向かって、声なき声を聞き、姿なき姿を見い出さなければならない。

    3)書かれたのは2007/12~2009/01の間。こちらも休眠状態が長かった。

    4)チベット密教、ウィルバー、曼荼羅、ZEN、ダライラマ、エサレン、ユング、神秘主義、クリシュナムルティ、ウィトゲンシュタイン、トランスパーソンル、セラピー、シュタイナー、なんでもありのごった煮だが、それをインテグラルしようというのである。

    5)ひとつひとつはとても楽しいのだが、そのインテグラルのさらに真ん中。そここそが眼目である。

    6)再読したいこのカテゴリこの三冊は次のとおり。

    「密教的生活のすすめ」 正木晃 2007/11 幻冬舎

    「スピリチュアル臨床心理学」こころがよくわかる 石川勇一 2005/11 クレイヴ 

    「超密教 時輪タントラ」 田中 公明 1994/11 東方出版

    7)正木晃は実に注目すべきチベット密教の研究者である。この「密教的生活のすすめ」は、現代人、とくに若い世代に密教というものを身近に感じさせてくれる一冊である。

    8)石川勇一は若手の心理学者だが、広範に、しかも「スピリチュアル」に周辺の事情をまとめている。ちょっと学術的に平衡感覚がありすぎて優等生的だが、なるほど、ここまで心理学の現場も来ているか、と納得の一冊。

    9)田中公明の仕事も興味深い。特に「超密教 時輪タントラ」はチベット密教の究極に位置する部分の研究・解説だけに見逃せない。

    11)凝縮しようとするのだが、中心部はやはり見えない。尾根に立って、中心部に思いを馳せる以外にない。

    12)ケン・ウィルバーの「スピリチュアル・インテグラル」のインテグラルと、「チベット密教」の曼荼羅から、カテゴリ名をつくっている。トランスパーソナル心理学的煮詰めを使いながら、さて、何をインテグラルしようとしていたのか。それは自己である。

    13)このカテゴリにおける成果は大きかった。転生魂・多火手の足跡がかなり明確になってきた。決定的と言える。ネットではあまりあからさまには書けない部分まで見えてきた。ここから前に進むには、個的な瞑想が欠かせなくなる。

    <22>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<20>agarta-david ・カテゴリについて

    <19>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <20>agarta-david」カテゴリについて

    1)このカテゴリのネーミングは、内面の話であり、他者と共有できにくい出来かたをしている。かと言って秘密にしておくというわけではないのだが、説明に困る。共有しようとするからこそこのネーミングができたわけで、いずれは共有できる日が来るかもしれないし、いずれ消えていってしまうかもしれない。

    2)当然このカテゴリは、「アガルタ」「レムリア」の後継となる。

    3)書かれたのは207/12~2009/01の間。だいぶ長い期間となるが、休眠も長かったので、実質はそれほど長い期間ではない。あるいは、なかなか書き進めることができなかった、とも言える。

    4)シャリー・マクレーン、セカンドライフの仮想社会、トランスパーソナル、ケン・ウィルバー、ウースペンスキー、グルジェフ、ジブラーンなどと、このカテゴリ名で何をやっているのか、と問われそうである。

    5)実は、一番当ブログらしいカテゴリがここなのである。コインの裏にあるものを表にだそうとしている作業である。あるいは表を無化しようとした作業だった、とも言える。

    6)再読したいこのカテゴリこの三冊は次の通り。

    「トランスパーソナル心理学」 岡野守也/著 1990/01 青土社

    「生は〈私が存在し〉て初めて真実となる」 ゲオルギー・イヴァノヴィチ・グルジェフ 1993/08 平河出版社

    「人間に可能な進化の心理学」 P.D.ウスペンスキー 1991/03 めるくまーる

    7)トランスパーソナル心理学については他に紹介者も多いが、岡野守也的紹介が一番すっきりする。

    8)グルジェフは難解だが、避けては通れない。

    9)ウスペンスキーは、未完だが、「ブッタ達の心理学」のもっとも基礎となるモデルを持っている。

    10)結論としては、こういう世界にたどりついたのであった。

    11)カテゴリ名「agarta-david」は、実は極めて私的なものである。アガルタ----ディビッドは、個的な幻視の統合を狙ったネーミングである。アガルタは、アガータであり、ディビットは多火手である。「アガータ多火手」というのが、正式なカテゴリ名である。転生魂としての名前である。

    12)私的な煮詰めは「読書ブログ」としてはなかなか難しい。これはもっと瞑想を深め、表記法も再検討しなければならない。

    13)「agarta-david mandala 2008」はよくできている。当時の葛藤をよく表わしている。「カウンセラー・トレーニング・メモ」の葛藤もいとおしい。心理学や瞑想法にその救いを求めているが、そのメソッドや心理学の体系が問題なのではない。「私は誰か」という煮詰めなのである。

    <21>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<19>スピノザ・カテゴリについて

    <18>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <19>「スピノザ」カテゴリについて

    1)当ブロブの志向性は、拡大と凝縮と二つの方向性がある。拡大・拡散する場合は、限りなく手当たり次第ということになる。とはいうものの、やはり自分の手の届く範囲にとどまる。

    2)「スピノザ」カテゴリは、縮小・凝縮の過程にあった志向性である。しかしながら、スピノザは、私の中にあるわけではなく、外側にあるテーマであり、結局は、充分な凝縮効果は得られなかった。スピノザを理解するのに、周辺の知識や情報を集めなければならなかった。スピノザは魅力的ではあるが、深追いは禁物である。

    3)書かれたのは2007/12~2008/10の間。

    4)スピノザは、西洋社会、キリスト教社会を背景にしながら読み進められなくてはならないが、結局、当ブログでは東洋思想にすぐ鞍替えしてしまった。この期間に読まれた本はひとつひとつが興味深いが、スピノザ本人への追及はほどほどにしよう。

    5)再読したいこのカテゴリこの三冊は次のとおり。

    「ウィトゲンシュタインが見た世界」 哲学講義 黒崎宏 2000/06 新曜社

    「反哲学入門」 木田元 2007/12 新潮社

    「マンダラとは何か」 正木晃 2007/08 日本放送出版協会

    6)ウィットゲンシュタインはいつかは徹底的に追っかけてみたいが、それは時間があれば、ということで、実際にはやらないだろう。私の手にあまる。だが魅力的で黒崎宏の仕事のなかからウィトゲンシュタインを見つめることのほうが面白そうだ。

    7)木田元の仕事も面白い。「反哲学入門」は津田真一の「反密教学」と合わせて今後、当ブログで読み進める予定。

    8)正木晃の一連の仕事も実に興味深い。当ブログは彼の仕事にかなりの恩恵を受けた。

    9)スピノザ、という名前の元、原点に帰ろう、凝縮しようという努力は見える。ただ、中心の中心たる無や空にたどり着いたかどうは、定かではない。

    10)スピノザそのものも興味深いが、このカテゴリで「スピノザ化」した内容もなかなか面白い。ここで読み込んだものは、当ブログの中核になっている部分だ。

    11)ウィットゲンシュタインも読んだが、まだ食いたらない。

    12)松岡正剛や立花隆の読書法も学んだ。

    13)チベット密教を扱っている時が、一番たのしいな。2順目の旅にでようか。

    14)うん、なかなかいい。

    <20>につづく  

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<18>環境心理学カテゴリについて

    <17>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <18>
    「環境心理学」カテゴリについて

    1)「環境心理学」カテゴリは、1991/11の国際シンポジウム「スピリット・オブ・プレイス仙台」にちなんだネーミングである。素晴らしいシンポジウムだった。だが、スタッフをやっていたのだが、今ひとつ追っかけ切れていない。それをこのカテゴリで出来ないか、と思った。

    2)思えば、2011年現在のゲーリー・スナイダー関連からバイオリージョナルやウィルダネスとして新しい展開ができるかもしれない。

    3)「スピリット・オブ・プレイス」と「スピリット・オブ・エクスタシー」は対をなす概念である。

    4)書かれたのは、2008/02~2008/10の間。実に充実した日々だった。当時、図書館ネットワークがどんどん開放されて、近隣の公立図書館や大学図書館の蔵書リストがネットで見れるようになり、いままでなら一般人として見ることのできない資料を見ることができた。質的にも、量的にも、文献ならほとんど活用できる時代になりつつある。

    5)それに比べてYouTubeなどの画像をネットに貼りつけておいても、数年経過してみるとほとんどが削除されている。書籍文献は残す資料としての価値は大きい。

    6)再読したいこのカテゴリこの三冊は次のとおり。

    「エスリンとアメリカの覚醒」人間の可能性への挑戦 ウォルター・トルーエット・アンダーソン 1998/09 誠信書房

    「ゾクチェンの教え」 チベットが伝承した覚醒の道 ナムカイ・ノルブ 1994/03 地湧社

    「反密教学」 津田 真一 1987/09 リブロポート

    7)いずれも名著である。「エスリンとアメリカの覚醒」はシリーズでかなりおっかけた。かなりの貴重な資料である。

    8)チベット密教を探るなら「ゾクチェンの教え」ははずせない。マハムドラーとの比較で読み直す必要がある。

    9)「反密教学」は、当ブログとして、今後大きな柱になるであろう一冊である。

    10)このカテゴリは実に楽しい。「ブッタ達の心理学」シリーズに連なる重要なカテゴリである。

    11)スピリット・オブ・プレイス・シンポジウムを下敷きにスタートしたこのカテゴリだったが、必ずしも読み込みが成功したわけではない。

    12)ジャンルが広すぎる。あるいは、タイミングを逃している。あるいは、「学」が邪魔している。

    13)荒岱介も読み込んだ。

    14)セカンド・ライフにも期待していた。

    15)杉山正明も読んだなぁ。

    16)チベット密教がいよいよ全面展開し始めた。チベット密教に関する読書はほぼ一巡した。

    17)このカテゴリは今読んでみても楽しい。再読する価値あり。

    18)かなりの達成感がある。ここからは、「なぜブログを書いているのか」というテーマにさらに上っていくだけである。

    <19>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<17>アンソロポロジー・カテゴリについて

    <16>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <17>「アンソロポロジー」カテゴリについて

    1)意識としては「アガルタ」「レムリア」「チェロキー」などの後継カテゴリとして考えられた「アンソロポロジー」カテゴリではあったが、最初の目的は結局達成できなかった。

    2)書かれたのは2008/01~2008/08の期間。チベット密教や白洲次郎、フィンドフォーンなどに視野を広げた。それがアンソロポロジーであったのだろうか。

    3)再読したいこのカテゴリこの三冊は次の通り。

    「裸形のチベット」チベットの宗教・政治・外交の歴史 正木晃 2008/07 サンガ

    「白洲次郎 日本で一番カッコイイ男」 河出書房新社 2002/04 

    「ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ」 北山耕平 2007/9  太田出版

    4)「裸形のチベット」はじつに示唆に富んだ一冊だった。正木晃の仕事は実に勉強になった。

    5)「白洲次郎 日本で一番カッコイイ男」は、数ある白洲次郎本の中で、タイミングよくこのリストになっただけ。東北電力の社長をも務めた次郎は、最近では原発を推進した悪役になりつつあり、今後、批判的に再評価が必要となるだろう。

    6)関心は、戦争中から田舎暮らしをしていた次郎から、古美術に詳しい正子に移り、日本のアンソロポロジーへ進もうとした。

    7)北山耕平は今後追っかけてみる必要があるだろう。「ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ」はあまりよく読みこんでいない。まずはここから再開する必要がある。

    8)充分やり切れていないテーマであり、今後、どこかでまた再スタートする。

    9)「チェロキー」の後継カテゴリである。もっと広げて「アンソロポロジー」とした。そうするとネイティブアメリカンを超えて、もっと広く、地球全体の民俗学へと飛翔して、取りとめのないものになってしまう。

    10)レヴィ・ストロースの再読から再スタートしなければならない。この時に、集約すべきものととして、何を想定し得ているのか。それは過去のものとしてではなく、現在から未来への地球人としてのアンソロポロジーになっていく必要がある。

    11) 地球人スピリットとしてのアンソロポロジーこそが、当ブログが目指すべきものである。

    <18>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<16>スピリット・オブ・エクスタシー・カテゴリについて

    <15>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <16>「スピリット・オブ・エクスタシー」カテゴリについて

    1)某SNSで話題になったOshoのロールス・ロイスを追っかけているうちに、ロールス・ロイスのボディにある人形の名前が「スピリット・オブ・エクスタシー」という名前であることが分かった。その名前にあやかって、このカテゴリ名がついた。

    2)2008/06~2008/08の間の短い期間だったが、実に楽しいカテゴリだった。辻が花や力道山白洲次郎、あるいはビートルズなど、思わぬ展開を見せた。こういう展開のカテゴリはまたやってみたいな、と思う。「Oshoが愛したロールスロイス<総論>の書きかけ」なる記事も残っている。この部分なら一冊の本にしても面白いだろう。

    3)再読したいこのカテゴリこの三冊はつぎのとおり。

    「Automobile Quarterly」 Volume XXIV、Number4 1986

    「Opulence」 一竹辻が花 the kimono and robes of Itchiku Kubota 久保田一竹 /山辺知行 1984/03 講談社インターナショナル

    久保田一竹名品集 「一竹辻が花」 「太陽」臨時増刊 1982/03

    4)実に楽しいカテゴリだった。一冊目の「Automobile Quarterly」はネットで発見し、アメリカの版元から取り寄せた。Oshoのロールス・ロイスがカラーで掲載されている。

    5)その車にカー・ペインティングされているのが、一竹辻が花が英文で紹介された「Opulence」にインスパイアされたデザインである。これはネット・オークションで手にいれた。

    6)久保田一竹名品集 「一竹辻が花」は古書店で入手。いつかは中部地方にある久保田一竹の美術館に行ってみたいと思う。

    7)なぜ、このカテゴリがこんなに楽しかったのだろう。なにかの秘密がここにある。

    8)このカテゴリを思い出すが楽しいのは、まずはヒーロー達を扱ったからだろう。ロールスロイス、一竹辻が花、レクサス、力道山、ビートルズ、他のロックスターたち、白洲次郎・正子・・・・・。ひとつひとつが、無責任に語れるエンターテイメントたちである。

    9)過去の完結していたテーマも多く、それについての図書を探す楽しみがあった。そして、ひとつひとつが数十冊の範囲に収まったので、楽しみながら読書を進めることができた、ということになる。

    10)じゃあ、ここから何かが派生したかというと、ほとんどなにもない。ただただ、楽しんだ、ということに尽きてしまうのではないか。

    <17>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<15>マーケットプレイス・カテゴリについて

    <14>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <15>「マーケットプレイス」カテゴリについて

    1)書かれたのは2007/10~2008/05の間。コインの裏側の「アガルタ」や「レムリア」に光を当てようとすると、表の「マーケットプレイス」も主張し始める。手元にたまったものを処理しようとしたカテゴリとなった。

    2)再読したいこのカテゴリこの三冊は次のとおり。

    「セカンドライフマガジン(vol.1)」 仮想社会を創るコラボレーション情報誌 インプレスR&D /インプレスコミュニケ  2007/12

    「ニューエイジについてのキリスト教的考察」 教皇庁文化評議会 /教皇庁諸宗教対話評議会 カトリック中央協議会  2007/4 

    「お茶のおけいこ」 裏千家茶道 指導・阿部宗正  2005/10 世界文化社

    3)かなり雑多な本を次から次へと読みこんだのに、抜き出したのはこの三冊。「セカンドライフ」は、ひとつのカテゴリを作ってまで追っかけたが、結局はそのブームは霧消した。当時、あらたな話題になりつつあったモバゲーは2011年11月現在、プロ野球球団を買収するまでに成長している。一方、当ブログは知っていてもモバゲーにはまったく手がでなかった。マーケットプレイスのトレンドを見極めるのは難しい。

    4)バチカンの本「ニューエイジについてのキリスト教的考察」も、半面教師的に面白かった。何回も読み返したが、笑えるところが多かった。これが世界で一番大きな宗教教団なのである。当ブログにおいてはマーケットプレイスは遠い世界のようでもある。

    5)「お茶のおけいこ」は、親戚が書いている本なので追っかけてみた。このような本もシリーズで図書館に収蔵されている。こういうマーケットプレイスってものもある。

    6)反動的に作ってみたカテゴリだったが、まとまりはなかった。

    7)前カテゴリ名「OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2」にも含まれているように、マーケットプレイスは、当ブログにとって重要なキーワードである。瞑想をレムリアの小乗のように山の中に籠ることで完成をしてはならない。市場にあって、人々との触れあいの中でこそ完成されるべきである、という意味を持っている。

    8)当ブログが、積極的に、一般公立図書館の開架棚からごく「ありふれた」本たちに触れてきたのは、そのような意味もある。特別な、ごく限られた人にしかとどかないような情報であってはならない。また、それを根拠にしてはならない。

    9)さて、当ブログに見えているマーケットプレイスとは何か。それはむしろ、当ブログが徘徊する反対地にあったりする。日本の伝統美であったり、西洋保守の基盤であるカトリックだったりする。それらのなかに、オープンなシンギュラリティに対応できるスピリチュアリティはあるのか。

    10)上もあり、下もある。内もあり、外もある。市場における瞑想とは何か。自らの日々の生業を含めての見直しが必要である。これはこれで相当に難しいテーマである。このカテゴリは未完である。さらなる煮詰めが必要である。

    <16>につづく 

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    2011/11/02

    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<14>OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2カテゴリについて

    <13>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <14>
    「OSHOmmp/gnu/agarta0.0.2」カテゴリについて

    1)当ブログの場合は、Oshoにかかわる物事が一番多く、基本はここから始まり、ここに戻る。

    2)いろいろやってはみたが、またOshoに戻ろうという意図がこのカテゴリ名にある。何故に0.0.2としたかと言えば、ほんの小さなスタートである、という意味と、すでに某SNSで同じような試みがすでにスタートしており、その後継としてこちらで再スタートした、という意味合いを込めている。

    3)いわゆる基本ソフトウェアのカーネルを装った、Oshoの原点探しの旅である。この試みは、名称を変えていくつかのカテゴリへと継承されていくことになる。

    4)書かれたのは2007/11~2008/04の間。積極的にOshoを読みこんだ。

    5)この間、当ブログは読み込んだ本の冊数としてはすでに1000点をこえ、冗漫になるのを嫌って、1024を定量として、Vol..2へとカウントしなおすことにした。その1024冊目として、Osho「The Zen Manifesto」を取り上げている。

    6)ここに当ブログなりの形態が確立した。

    7)いかに私なりにOshoが好きなのか、ということを再認識した。

    8)再読したいこのカテゴリこの三冊で残ったのはこの三冊。

    「私が愛した本」 OSHO 1992/12 和尚エンタープライズ・ジャパン

    「英知の辞典」 OSHO 1996/05 単行本: 579ページ めるくまーる 

    「OSHO ZEN TAROT」 79枚のカードと191ページのハンドブック  AGM

    9)いずれも大好きな本である。「私が愛した本」は以後、当ブログにおけるかなりのスペースをとってフォローされることになった。フォローはまだ十分ではないが、まぁまぁ70%くらいは終わっている。深追いせず、この程度でいいのではないか。

    10)「英知の辞典」は今後とも、当ブログで読みこんでいきたい。英語の3冊組の本であり、項目も3倍はあるだろう。いずれ英語で読み直す。

    11)「OSHO ZEN TAROT」は、本ではないが、示唆に富んだ、Oshoのエッセンスが含まれているアイテムだ。カードをプレイしているうちに、自然とOshoのヴァイブレーションとなじむ。

    12)当然のことながら、このカテゴリは、後々に続いていき、今後ももっと中心に引き寄せたいカテゴリである。

    13)次なる「センダード2011」カテゴリでは、この辺あたりの再浮上となるであろう。

    14) このカテゴリ名の中にgnuが入っていることを見逃してはならない。これはオープンソースを意味する。そして、mmpは、meditation in the market place 市場での瞑想を意味する。これは、スピリチュアリティ・ソフトの中のさらに基本ソフト・カーネルを意味する。

    15)0.0.2は、その試みがスタートした直後であることを意味する。agartaは「アガルタ」。幻視する頂上部分を仰ぎ見ていることを意味する。このソフトはヴァージョンアップされつづけている。

    <15>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<13>チェロキーカテゴリについて

    <12>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <13>「チェロキー」カテゴリについて

    1)このカテゴリは、「アガルタ」や「レムリア」から派生した。そもそものネイティブ・アメリカンの取り込みを中心に目論んだものだった。それは自らの過去生にも関わるインスピレーションの旅でもあったが、必ずしも成功したとは言えない。

    2)この後は「アンソロポロジー」カテゴリへと継承されたのだが、食い足りなさが目につく。そもそも、他の分野と違って、ひとまとまりのものとしてとらえることができない難しさがある。体制を整えて再突入と機会を狙っている。

    3)表面に出してしまっていいものと、あくまで深く沈潜してこそ意味のあることもある。

    4)2007/06~2008/01の間にかかれた。

    5)再読したいこのカテゴリこの三冊は次のとおり。

    「1491」 先コロンブス期アメリカ大陸をめぐる新発見 チャールズ・C.マン 2007/07 日本放送出版協会

    「プレアデスの智恵」 チェロキーインディアンからのメッセージ 薗田綾 1996/05 総合法令出版

    「ローリング・サンダー」 ダグ・ボイド 1991/1 平河出版社

    6)なかなか糸口の見いだせないカテゴリではあったが、2011/11の現在、ゲーリー・スナイダーのウィルダネスやバイオリージョンなどとリンクしながら、もう一度読み直す機会がくるかもしれない。

    7)しかし、この分野はあまりに膨大過ぎて、しかもなかなか収集のつかない結果になることが予想されるので、深追いはしなくてもいいのではないか。

    8)当ブログにおける「チェロキー」は必ずしも、一部族としてのチェロキーを意味しない。ネイティブアメリカン全体を代表させている。それでもなぜその名前を選んだかと言えば、それは転生魂・多火手の前世にかかわる。

    9)カテゴリとしての展開は十分ではない。今後、カテゴリ量としていえば、あと2つか3つが必要だろう。ネイティブカルチャーは、チベット密教のようなまとまりあるものとしてとらえることが難しい。量的にもっと読み込み続けるしかない。

    10)実は、このカテゴリは、シャスタ山やゲーリー・スナイダーたちのロングヘアーたちの活動と繋がってくる。ここからの展開はとても重要な意味を持っているが、まだ未開発な部分が多い。いつか開発されるのか、このままフェードアウトしてしまうのか。

    11)いつか再開することを期待する。

    <14>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<12>シンギュラリタリアンカテゴリについて

    <11>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <12>「シンギュラリタリアン」カテゴリについて

    1)「シンギュラリタリアン」は「シンギュラリティ」の後継カテゴリである。書かれたのは2007/07~2007/12の間。深層心理から超意識まで、科学も神秘主義も同一に並ぶ場を幻視して読み進めた。

    2)このカテゴリで「再読したいこのカテゴリこの三冊」の代りに、ひとつだけ「お気に入り」に上げたのはこれ。

    「2001年宇宙の旅」 スタンリー・キューブリック 148分

    3)ありきたりな結論ともいえるが、有象無象の「統一場」を探していた結果、大した結果も得られず徒労感もひどかったので、なにか癒しが必要だったのだ。たしかに「2001年宇宙の旅」は、かなりのものを包括しており、エンターテイメントとしての価値も高い。今見ても、SF映画の最高峰である。

    4)実はこの頃は、かなり雑多なジャンルに首をつっこみつつも、ひとつのまとめにかかっている時期であり、再読もかなり進んでいる。図書のみにかぎらず、ビデオやDVDなど視聴覚資料もかなり借り出してのブログ記録だったので、個人的にはわりと好ましいと思われる。

    5)この時期の結論が「2001年宇宙の旅」であったのは、象徴的である。最初にみたのが、1977年のプーナの映画館であったことも、何かの関係があろう。

    6)シンギュラリティもシンギュラリタリアンもなかなか面白いぞう。手を付けるとおわりがなくなるから、ほどほどにしなくてはいけないが。早く、無責任にこの世界で遊べるステージに進みたい。

    7)特異点と訳されるシンギュラリティ。イメージとしては、コンピュータと意識が一つに繋がってしまう世界。人類の意識が全部繋がってしまうという仮定の世界だ。そこに向きつつネット社会は成長しているともいえる。

    8)それを支える積極的なスピリチュアルな統合も必要になる。ケン・ウィルバーのような統合も必要になる。だが、それでは限界がある。映画「マトリックス」のような問題提起もある。「ハリーポッター」や「スターウォーズ」のようなSFもまた、ひとつの実験であるとは思う。

    9)ネット上におけるシンギュラリティは、まずはツイッターのような形で地球上に棲む人々は同時性を獲得した。また、これは将来的ではあろうが、バーチャルリアリティ・セカンドライフが将来的に大きく変貌と遂げて再登場してくることを期待する。

    10)スピノザのような哲学も、もっとシンプルで柔らかいシステムで再考される必要がある。そう言った意味では、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」は傑作である。

    <13>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<11>レムリアカテゴリについて

    <10>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <11>「レムリア」カテゴリについて

    1)「レムリア」カテゴリは、「アガルタ」カテゴリの後継である。書かれたのは2007/05~2007/11の期間。タイトル名にこだわらず、この期間に読んだ、いわゆる「神秘」ものを放り込んだカテゴリとなった。

    2)もちろん、レムリア、という言葉にそれなりの想い入れがある。無視はできないキーワードのひとつではあるが、表面に飾って役にたつものとは限らない。むしろ隠し味に使ってこそ生きるカテゴリといえるだろう。

    3)再読したいこのカテゴリこの三冊に選んだのは次のとおり。

    「アトランティスの暗号」 10万年前の失われた叡智を求めて コリン・ウィルソン 松田和也 2006/9 学習研究社

    「フラワー・オブ・ライフ(第1巻)」 ドランヴァロ・メルキゼデク /鈴木真佐子 2006/03 ナチュラルスピリット

    「ハートの聖なる空間へ」  ドランヴァロ・メルキゼデク /鈴木真佐子 2006/03 ナチュラルスピリット

    4)このカテゴリあたりになると、「再読したい」と選んでおいたものの、再読していないものが結構多く、とくにこのドランヴァロ・メルキゼデクの神聖幾何学シリーズなどは、極めて魅力的なのだが、再読できないでいる。本はすでに手元に準備してあるので、チャンスさえあれば、どっぷり漬かってみたいシリーズである。

    5)このあたりから積極的に「チベット密教」を読みこんだ。ネイティブ・アメリカンや人類学的なもの読み込んだが、それらは次なる「チェロキー」カテゴリへと分岐していった。その他、有象無象のいわゆる神秘なるものを手当たり次第読み込んだのがこのカテゴリである。

    6)個人的にはレムリアと言えば、ヘッセの「ガラス玉演戯」が連想され、イメージとしてはこれで決まりである。

    7)チベット密教については、後にかなり読み込んだので、一段階としてはもう十分という気がしている。ネイティブ・アメリカンに関しては、どこから手をつけていいか分からず放置している、という現状か。もう手はつけないで、ぶつかってしまったものだけ、読んでおく、というスタイルになるだろう。

    8)レムリアカテゴリは、アガルタカテゴリと対になっている。本当は、縦横無尽にここをやれるといいのになぁ。

    9)ざっとふりかえってみると、なんとも無邪気にあちこちを散歩している。結局、私にとってのレムリアは、ヘルマン・ヘッセの「ガラス玉遊戯」に行き着く。あの小説、また読んでみたい。なんどでも読んでみたい。私の深いところのレムリアと共鳴する。

    <12>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<10>2ndライフカテゴリについて

    <9>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <10>「2ndライフ」カテゴリについて

    1)セカンドライフとは、高性能パソコンを介したバーチャルリアリティ・ゲームである。引退したあとの第二の人生のことではない。

    2)一時期、このゲームがかなりの人気を誇り、出版界もわれ先に関連の本を出した。当ブログでも、対応するために高性能なパソコンに買い替え、追っかけた。

    3)書かれたのは2006/07~2007/11の期間。インターネットやIT関連の未来像として、当然「ブログ・ジャーナリズム」や「ネット社会と未来」などの後継カテゴリと考えた。バーチャルリアリティという意味では、この仮想空間に「アガルタ」や「シンギュラリティ」との可能性もみたかったのである。

    4)結論としては、一時期の盛り上がりとは裏腹に、このブームは持続せず、いつの間にか誰の口にも上らなくなった。徒花だったのである。当ブログは、2008/10になって「追悼 セカンドライフ 合掌」などと揶揄的にまとめている。

    5)個人的には、なかなかパソコンを使いこなせかったものの、もっと没頭したいジャンルだった。英文ではあるがティム・ゲストの「セカンドライフを読む。」などが興味深かった。

    6)再読したいこのカテゴリこの三冊は次のとおり。

    「Linuxカーネル2.6解読室」 高橋浩和 /小田逸郎 2006/11 ソフトバンククリエイティブ

    「セカンドライフLinden Scripting Languageプログラミング入門」日本語版対応 バーチャルワールドガイドブックシリーズ 赤坂玲音 2007/09 アスキー

    「セカンドライフで作るリンデンスクリプト入門」 セカンドライフアーキテクト育成scripting ウェブインパクト 2007/08 インプレスR&D /インプレスコミュニケ

    7)本当は、こういう技術を完璧に読めて、その技術を活用できる人間になりたいと憧れるが、もうこの人生では無理なようだ(笑)。

    8)このセカンドライフは、技術に詳しい人たちにおいても必ずしも人気ではなく、成果は小さかった。一部の人たちには人気でも、話題からは消えた。

    9)2011年の現在、ネット上の人気は、大流行のツイッターやフェイスブックなどへと移行していった。ネット上の楽しみは、ネットの向こうに誰がいるかが、大きな分かれ目のようだ。

    10)この仮想現実はいずれまた浮上してくるはずだ、とは思うが、一利用者として便利なインターフェイスが出てこないことには、当ブログも次第と足が遠ざけてしまうだろう。

    11)セカンドライフもまた復活してやろうかなぁ、という気分にさえなる。いろいろ技術があるといいなぁ。はまってクリエイティブなことをやり続けることができれば絶対楽しいと思う。でも、なかなか集中できないからなぁ。

     カテゴリとして進行していた時点では「セカンドライフ」には、ツイッターやフェイスブック、モバゲーなども含まれていた。次なるネット社会の進行方向はどこにあるのか。そして、それは「意識」とうまく関わってくれるのか、そこがこのカテゴリにおける注目点である。

    <11>につづく 

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    2011/11/01

    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<9>ブッタ達の心理学1.0カテゴリについて

    <8>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <9>「ブッタ達の心理学1.0」カテゴリについて

    1)このカテゴリこそ当ブログの核心部分であり、すでに3.0まで続いている。あまりに長すぎるので、一旦終了してしまっているが、常にここに戻っていく必要がある。

    2)書かれたのは2006/07~2009/03の期間。長い期間に間延びしており、あちこちに派生しつつ、結局はここに戻ってきた。

    3)再読したいこのカテゴリこの3冊で選んだのは次のとおり。

    「究極の錬金術〈1〉」古代の奥義書ウパニシャッドを語る OSHO 2006/03 市民出版社

    「グレース&グリット―愛と魂の軌跡〈上〉〈下〉」 ケン・ウィルバー 1999/10 春秋社

    「芸術人類学」中沢新一 2006/03 みすず書房

    4)Oshoはわたしのマスターなので、常に彼の本に囲まれている。ただ、彼の本はただの「読書」ではない。彼の本をめくるのは私にとっては「読書」以上の意味がある。この「究極の錬金術」は、2006年当時の最も新刊であったが、読書としては、まだ完読していない。

    5)ケン・ウィルバーは興味はあるのだが、すこし小難しすぎる。その中にあってこの「グレース&グリット」は、妻との生活が綴られており、原寸大のリアリティがあった。現在は、彼の最新刊に属する「インテグラル・スピリチュアリティ」を読み進めている。

    6)中沢新一「虹の階梯」1981/7)を書いて、日本の読書界に一風を吹かせた人ではあるが、私はこの人を批判的に読んでいる。当時の最新刊が「芸術人類学」。その言葉の中に「地球人スピリット」との類似項を見ようとしたが、彼は彼なりにアカデミズムの中に退却していく過程にあり、グローバルなスピリチュアリティを自らのテーマにしていたわけではなかった。

    7)この時代は何でも気になったものは読むというスタイルだったので、小説、チベット密教、心理学、Osho、仏教、評論、セラピー、人生論、童話、芸術、と渾然としたものだった。割と多様性に富んでおり、種としては殆ど揃っていたようである。

    8)いつでもつきまとうのは、ブッタ達、と言った場合の「ブッタ」であり「達」である。ブッタは言葉を持たないと仮定すれば、それは菩薩、と換言できるし、ブッタは全体に溶け去ってしまっているのに、複数形に成り得るのか、という問題もある。

    9)さらには、「心理学」という問題もある。科学として意識を解明しようとすれば、ついには失敗するのであり、ブッタの心境というものは「心理学」としてはとらえきれない。しかるに「ブッタ達の心理学」と敢えて表現するには訳がある。

    10)現在の心理学が、病者の心理学から、健康学としての心理学でとどまっていることへの焦燥感がある。そこからさらに「新しい心理学」へと飛翔するには、「ブッタ達の心理学」という淡い概念が必要となってくる。この概念は、ついには霧消しなくてはならないのだが、それは心理学だけに留まるものではなく、生命や存在すべてにおいて言えることである。

    11)当ブログの主テーマといいつつ、結局は、周辺の書籍に手を出して飛ばし読みしながら、周囲を埋めていただけ。2.0、3.0と続いていくが、これはもっと続けて、なおかつテーマのターゲットを絞り込んでいく必要があるだろう。

    12)麻原集団等の読み込みも行ったが、次なるステップにいくために必要だったのだろう。

    13)ケン・ウィルバーは小難しく面倒くさいが、あちこちに素晴らしい洞察がちりばめられている。ひとつひとつ拾って、再読してみる価値がある。

    14)図書館利用という技術が身に身に付き始めた頃でもあり、手当たりしだいに読み散らした感が強い。

    15)Osho本にも手をかけるのだが、なかなか読み込めない。

    16)中沢新一も読み込んだが、いわゆるニューアカデミズムとやらの中に逃げられてしまった感が強い。深追いは禁物。

    17)チベット密教やトンデモ本にも手をかけたが、断片的に終わった。

    18)意識やセラピーにも遭遇するが、ジャンルの拡大領域を確認する程度で終わった。

    <10>につづく 

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<8>マルチチュードカテゴリについて

    <7>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <8>「マルチチュード」カテゴリについて

    1)マルチチュードは、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの一連の作品から触発されて出来たカテゴリである。

    2)ひととおり目を通してしまえば、当ブログにおいてはなかなか難解で、旧マルキシズムにおけるプロレタリアートをマルチチュードと置き換えただけにすぎないのではないか、とさえ思える部分も多い。旧ソビエト亡きあとの亡霊か、という評論もある。

    3)マルチチュードはマルチである。多様性とか多面性と読むことができるが、原義は群衆である。無数のネットワークから湧きあがるシンギュラリティ、というのが当時の当ブログにおける幻視であった。現在のツイッターやフェイスブックで連絡を取り合って同時多発的にデモが起きている現象などは、ある意味マルチチュード的であるといえる。

    4)Oshoにとっては群衆はよい言葉ではない。ひとりひとりの覚めた個人においてしか革命は起きない、と彼は言う。私は一時、マルチチュードとサニヤシン・ネットワークと同義として読み換えてみようと試みたが、成功していない。

    5)このカテゴリは2006/10~2007/05の間に書かれた。

    6)再読したいこのカテゴリこの三冊は次のとおり。

    「スピノザの生涯と精神」 ルカス /コレルス 1996/02 学樹書院

    「スピノザ」 「無神論者」は宗教を肯定できるか 上野修 2006/07 日本放送出版協会

    「スピノザ エチカ抄」 バルーフ・ド・スピノザ /佐藤一郎 2007/03 みすず書房

    7)ネグリはことあるごとにスピノザに帰っていく。スピノザは単独で読みこまなければならないが、なかなか難解である。かなりの集中が要求される。意味的には共通する部分があるのだが、Oshoのセンスとは合わない。どこか生真面目で、哲学すぎる。

    8)したがって、当ブログとしては、スピノザやマルチチュード概念は、最後の最後まで残るものではないだろう。

    9)このカテゴリの中では、左翼や政治、経済の見直しを行った。麻原集団事件についてもかなり苦痛ではあったが多数読書した。関連で中沢新一島田裕己も一通り目を通した。金融やジャーナリズムについても読んだ。いろいろ可能性のあるカテゴリではあったが、当ブログとしてはこのジャンルはフェードアウトすべきものと判断している。

    10)マルチチュードもなかなか興味深い。当ブログにとっては、マルチチュードとシンギュラリティは、裏表の一体として考えていた節がある。世界同時革命だ。

    11)ただ、ネグリ&ハートの本は、面倒くさい本が多い。ドグマだけが多く語られ、アジテーションをする存在が少ない。もし扇動力が高まり、要所要所のキーポイントを押さえるネットワーカーたちがキチンと自立するようになれば、意外や意外、という結果を生むのではないか。一ひねりが必要である。

    12)読書として展開するとすると、かなり広い領域へとリンクしていく。それをどうとらえ、どうひとまとまりと捉えるのかとなると、当ブログの手にあまることが多い。要点を捉えて、早期に退却したほうがいいのではないか。

    13)マルチチュードの概念は借りるとしても、別な名称が必要かもしれない。それでも、マルチチュードの「マルチ」が魅力的である。この「マルチ」は、シンギュラリティの「シングル」と対応している。「多」と「一」が、見事に対応している。しかし、西洋哲学ではここまでが限界だ。

    14)ここから「無」や「空」への量子的ジャンプが必要となるのだ。

    <9>につづく   

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<7>シンギュラリティカテゴリについて

    <6>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <7>「シンギュラリティ」カテゴリについて

    1)シンギュラリティの語源は一体何であっただろうか。ネグリの「マルチチュード」ゆかりであったと記憶しているが、定かではない。シンギュラリティはシングルに語源を持ち、統一的に全てが繋がってしまう、という概念であった。SFに「シンギュラリティ・スカイ」もある。

    2)この概念はもっと流行するのではないか、と期待したが、あまり発展はなかった。当ブログの中では108個の記事で足りなくなり、後に「シンギュラリタリアン」という後継カテゴリもつくった。

    3)書かれたのは2006/3~2007/06の期間。梅田望夫の「ウェブ進化論」もここに収めておいた。

    4)再読したいこのカテゴリこの三冊に選んだのは次の三冊。

    「シンギュラリティ・スカイ」 チャールズ・ストロス 2006/06 早川書房

    「スター・ウォーズ・シリーズ」 ジョージ・ルーカス 1977~2005

    「SEの持つべき『思想』」 秋月昭彦 /瓜生聖 2003/01 すばる舎

    5)SF的要素の強いカテゴリで、「シンギュラリティ・スカイ」 も読みはじめてみたものの、読書ブログとして冊数を稼ぎたい当ブログとしては精読はしなかった。

    6)SFなら、映画のほうが簡単だとばかり、「スター・ウォーズ・シリーズ」をはじめ、沢山の映画を図書館から借りだして視聴した。

    7)「SEの持つべき『思想』」を読んだのは、科学者としてのプログラマーやSEに理想の職業を重ね合わせてみたからだ。すでに老境に達した、携帯コンピュータ検定4級レベル(笑)の私には、もはや手の届かない世界である。未来の地球人たちに期待する。

    8)このカテゴリも面白い。そもそもシンギュラリティとは何だったのか、という再検討が必要だ。この段階で語られていたシンギュラリティは、徐々に徐々に現実のものとなっているのではないか。

    9)収拾過程に入って、破天荒な壮大なイメージが委縮してしまっていないか。無限の可能性が、次第に、おとなしいルーティンワークになっていないか。科学の最先端も、注目し続ける必要がある。

    <8>につづく 

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    宮沢賢治の銀河世界/賢治の素顔が見えてくる 宮澤和樹他

    Kenji3
    「宮沢賢治の銀河世界」
    賢治の素顔が見えてくる   
    宮澤和樹 鍋島直樹/出演 2009 龍谷大学 人間・科学・宗教オープンリサーチセンター方丈堂出版 DVD 77分 
    Vol.3 No.0514★★★★★

    1)3.11で壊滅した図書館ネットワークだったが、各方面の努力によって見事復活しつつあるばかりか、新しいサービスをはじめてくれている。本ばかりではなく、ビデオやDVD、CDと言った視聴覚資料も、ネットワーク上にあれば、最寄りの図書館まで取り寄せてくれるのである。しかもそれを自宅からネットでリクエストできるのようになったのだ。

    2)そのサービスでさっそく取り寄せてもらったのがこのDVD。2625円と値段は付いているが、広く一般に販売されているものではないようだ。賢治から原稿を受け取った弟・清六の孫にあたる宮澤和樹が、賢治の素顔、彼の願い等を語る。龍谷大学内での公演である。

    3)このビデオで初めて分かったことがいくつもある。先日メモしておいた、南三陸町の中学校校長が「雨ニモマケズ」の額を受け取ったのは、この和樹氏であったのだろう。そして、賢治の大事なメッセージである「行って」という部分は、校長が和樹氏に言ったというよりも、和樹氏が祖父である清六から教えられたことであった。

    4)清六は第二次世界大戦中、花巻が米軍機による空襲を受けた時、防空壕にこもって、賢治から預かった原稿を守ったという。周りが火の海になり、熱がこもらないように、ドアや窓に、味噌を塗りたくったり、醤油をかけて冷やしたらしい。

    5)空襲後、周りはすっかり焼け野原になってしまったが、清六はむしろ「さっぱりした」気分だった。こうして、賢治の原稿は守られたのであった。

    6)「雨ニモマケズ」にある「ヒデリノトキハ」は、実際には「ヒドリノトキハ」になっている。花巻弁では「ヒドリ」とは「日雇い仕事」を意味する場合もあるらしい。だが、清六は出版するときにその言葉を知らず、「ヒデリ」となおしたという。賢治の本意は定かではないが、清六も知らなかったのだから、賢治もその方言を知らかったのではないか、という。「雨ニモマケズ」は全体に方言は使われておらず、そこだけを方言にするのはおかしい、と考えるらしい。いずれにせよ、そういうエピソードがある、ということで、それはどちでもいいだろう、ということだった。

    7)清六が言うには、賢治の根幹は「農民芸術概論綱要」にあるという。ここから賢治の世界が派生していったのだと。

    8)「銀河鉄道の夜」の中に、タイタニックで亡くなった人たちが登場してくるが、彼らは十字架のある駅で下車していった。賢治はキリスト教は途中で降りる人たちで、仏教はどこまで行っても限界がない、と感じていたのではないか、と清六は言っていたという。

    9)アニメ「銀河鉄道の夜」に曲をつけた細野晴臣の祖父は日本人としてタイタニック号に乗っていた唯一の日本人で、しかも生き残ったという。そのことで細野は賢治に縁を感じていたとも。

    10)「宮沢賢治・民家の世界展」で紹介されていた「注文の多いレストラン」と「セロ弾きのゴーシュ」の内山正一作になる人形やジオラマは、先日行った賢治記念館付帯の「童話館」の中に展示されていた。

    11)最後に和樹氏が経営する「林風舎」が紹介されており、賢治の肖像画などの管理をしているらしい。お店になっているらしいので、次回機会があれば、ぜひ足を延ばしてみよう。

    12)それと、賢治が畑に立ってうつむいている写真は、実はベートーベンをまねした姿であるという。賢治は決して陰気な人ではなくて、むしろひょうひょうとひょうきんな人であったと、家族は感じているらしい。

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<6>アガルタカテゴリについて

    <5>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <6>「アガルタ」カテゴリについて

    1)アガルタは、当ブログにおいては極めて重要なキーワードである。そもそものスタートは、1986/08に見た夢の中のメッセージによるものだ。当ブログのテーマが「意識」であるとするなら、「アガルタ」カテゴリは無意識や深層意識へとつづく入口である。

    2)その語が再び表面に浮上してきたのは、1993年、古書店で「謎の地底王国アガルタ」1983/10)と出会ってからである。やがて、2011年になって、夢枕獏の「上弦の月を食べる獅子」(1989/08)に出会うことによって、ある確信めいたものとなったが、この小説は1986年に書き始められたものであった。

    3)1986年に何か、深いどこかで、超無意識レベルのなにかが始まった、と見ることもできる。

    4)このカテゴリは2006/10~2007/05の間に書き続けられ、チベット密教などやネイティブ・アメリカン、その他スピリチュアル関連の本を盛んに読んだ。

    5)再読したいこのカテゴリこの3冊は次の通り。

    「超シャンバラ」 空洞地球/光の地底都市テロスからのメッセージ ダイアン・ロビンス著 ケイ・ミズモリ訳 2006/5 徳間書店

    「オサマ・ビン・ラディン発言」 ブルース・ローレンス編 鈴木主税 中島由華 訳 河出出版新社 2006/8

    「アガルタの凱旋」マイルス・デビス 1974

    6)「超シャンバラ」に連なるいわゆるトンデモ本は、実は当ブログの大好物である。ここに連なる本はいくつもあり、いまだ全面展開とはなっていない。今後次なる「センダード2011」カテゴリに連なって再浮上してくるだろう。

    7)「オサマ・ビン・ラディン発言」は、中東地方における転生魂にまつわる個所からの接近である。未消化のまま、放置してある。

    8)「アガルタの凱旋」は、マイルス・デビスの日本公演のライブ録音である。ジャケットを、大好きな横尾忠則が担当しており、聴覚的にも、視覚的にも、極めてアートな刺激を受ける一枚だ。ただし、ここからは、インスピレーションを受ける、という以上の展開はなさそうだ。

    9)「アガルタ」カテゴリは実に、他のカテゴリと連携のつかない、扱いの面倒臭いカテゴリである。であるがゆえに、当ブログにとっては、極めて重要な位置を占めている。

    10)ざっと見直してみると、実に面白い本が続々でてくるのでびっくりするカテゴリだ。無責任に読書を進めるなら、このような奇妙奇天烈な事象の連続は、とても楽しい。そして、これらの中から、極めて重要な一冊二冊を見つけることも可能だ。

    11)一旦は閉じてしまった「チベット密教」関連だが、この「タントラ」を現代に呼び起こすワークはとても重要だろう。また面白い作業になるに違いない。いつか時間ができたら、ジックリとほじくり返す価値がある。

    <7>につづく

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<5>ネット社会と未来カテゴリについて

    <4>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <5>「ネット社会と未来」カテゴリについて

    1)このカテゴリは2006/3/16~2006/12/31の期間における、ネット関連の本が放り込まれている。当ブログのきっかけとなった「ウェブ進化論」の後継カテゴリとなる。ネットの新しい展開を見つめ、その動きに注目した。

    2)グーグルの台頭が目覚ましかった。誰も彼もがパソコンへと向かった。ホリエモンが暗躍した。リナックスやプログラミングの単語は社会的な共通語にさえなりつつあった。ウェブ2.0という流行語が飛び交い、また、その弊害も一部叫ばれるようになった。

    3)文系の人々も当たり前にインターネットを使いこなし、社会論や意識論まで、インターネットと絡ませて語られるようになった。この時代に語られていた「ネット社会と未来」は、その5年後の現在、ほとんど現象化した。

    4)当時まだブログやSNSはスタート地点にいたが、2011年の現在では、スマートフォンとツイッターが象徴する「ネット社会と未来」が登場している。そして、中東や世界各地での革命が起き、中国内部でもさまざまな改革の足音が聞こえ始まった。

    5)再読したいこのカテゴリこの3冊に選んだのは次のとおり。

    「富の未来」<上><下> アルヴィン・トフラー 2006/06 講談社
    「オープンソースを理解する」 秋本芳伸 /岡田泰子 2004/01 ディー・アート
    「世界共和国へ」 資本=ネーション=国家を超えて 柄谷行人 2006/04 岩波書店

    6)トフラーの「第三の波」は、わが人生の中でも影響を受けた本の中でも重要な一冊に入る。生産者=消費者というプロシューマーとか、森の中でも情報を謳歌できるエレクトロニック・コテッジとか、オーケストラ型の宗教からジャズ型の精神性へ、など、眼を見張るような未来学者の「預言」がちりばめられていた。

    7)新刊としてトフラーの「富の未来」を読んだのだが、この時点での感想は、「トフラー、老いたり」というものだった。「第三の波」を超えるものではなかった。

    8)トフラーの「オーケストラ型からジャズ型へ」というビジョンは、インターネット上における「伽藍とバザール オープンソース・ソフトLinuxマニフェスト」につながってくる概念である。「オープンソースを理解する」も面白かった。ただ、それが、社会の中のコモンセンスになるのか、一時の徒花になってしまうのかは、微妙なタイミングの問題でもあった。

    9)偶然手にした柄谷行人「世界共和国へ」はさらに面白かった。特にネグリ「マルチチュード」にふれていたところがとても興味深かった。後の単独の「マルチチュード」カテゴリへ派生していくことになるのだが、ネグリにみた魅力の半分は「<帝国>」の共同著者であるアメリカ青年のハートのものであった。当ブログにおけるマルチチュード概念は健在であるものの、ネグリにおけるマルキシズムの亡霊は素直には引き継げるものではない。

    10)何はともあれ、当ブログにおける心口意として、科学、芸術、意識、の三つのカテゴリが、おぼろながら立ち上がってきたことになる。以後、当グログは、この3の柱を廻って上昇していった。

    11)この時点で語られた「ネットワーク社会」とは、未来のことではなくて、すでに現在のことだ。現在が「高齢化」社会ではなく「高齢」社会であるように、この「ネットワーク社会と未来」はすでに到達してしまっていると言える。

    12)パソコン依存で、ケータイ嫌いだった私も、いまやスマートフォンを持ち、奥さんもらくらくフォンをもたなければ生活できないようになっている。

    13)ツイッターとフェイスブックが中心となり、モバゲーのDeNAがプロ野球球団のオーナーになる時代である。

    14)リナックスやフリーソフトウェア、オープンソースに賭けた夢は、どっかに夢のまま霧散してしまった、という印象が強い。

    15)スティーブ・ジョブスが亡くなり、アップルがiPhonなどの新しいアイテムで切り拓いた「未来」は大きかったが、本番は、実はこれからだ。

    16)ウィキリークスや、ツイッターを使いながらデモを続ける人々の動向も気になるところ。

    <6>につづく

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<4>地球人スピリット・カテゴリについて

    <3>よりつづく 


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <4>「地球人スピリット」カテゴリについて

    1)読書ブログとしてスタートしてみると、それでは何を中心に読書をすすめていくのか、ということが課題になってきた。我が家の奥さんの主なるテーマは小説にある。特に現在流行している若い作家たちが中心だ。最初、その本を寸借して読んでみたが、全然読めない。それぞれの好みはこれほど違うのかということを確認したにとどまった。

    2)「ウェブ進化論」に刺激されてネット関連は意欲的に読み進めたが、じゃぁ、そのネットはどこを目ざすのか、あるいは、そのネットを使って、私は何処に行きたいのか、と考え始めた時、生まれてきたのは「地球」と「スピリット」という単語だった。

    3)よかれあしかれネット文化はグローバリズムを推進する。ネットを歓迎する私としては必然的にまずはグローバリズムを受入れていく、という姿勢をとった。ただし、この単語は、文化や経済、政治などの上から、充分デリケートに扱われなければいけないだろう。

    4)そのグローバリズムを象徴するものとして、「地球」は良い響きを持っていた。宇宙はちょっと広すぎる。両足を大地に着けて生きる「地球人」がもっとも標準になる時代が来る。日本人やアジア人という範疇ではなく、地球人という生き方が、まずは理想と思えた。

    5)スピリットは、当時の流行語でもあったが、それは私自身が昔から愛用していた言葉だ。精神とか神とか、さまざまな近隣語があるが、スピリットはまさにその軽さと語感と普遍性から、臭みのない良い言葉だ。

    6)ここに地球人スピリット、という単語ができた。でも、いまいち語呂がスッキリしない。地球スピリットとか、アーススピリットなどと言いかえてみたが、結局は、すこし長いがこのまま「地球人スピリット」を自分のブログのテーマに掲げた。

    7)このカテゴリが書かれたのは2006/03/29~2006/12/21の期間。実際には、最初はどんどん書き流し、後から一つのカテゴリに放り込んだので、必ずしも統一性がない。ただ、心理学や芸術、小説や表現論などが雑然となっている中でも、よりスピリチュアリティが感じられるものを入れた。

    8)再読したいこのカテゴリこの3冊で選んだのは次のとおり。

    「ハリー・ポッター」シリーズ J.K. ローリング 1999/12 静山社

    「秘伝カモワン・タロット」  フィリップ カモワン 2001/12 学習研究社 

    「天上のシンフォニー」 伯宮 幸明 2006/4/7 講談社

    9)「ハリ―・ポッター」シリーズは当時の流行でもあり、奥さんのお気に入りでもあった。小説として読むのは完全に挫折したが、図書館から借りだしたDVDで映画としてみることができた。こういうのが流行っているんだな、という時代性に対するリサーチになった。

    10)「秘伝カモワン・タロット」は古い友人の手ほどきを受けた。本格的なものではなかったが、私なりにタロットにはさわってきているので、大体の感覚はわかる。しかし、敢えて、ここでいくら源流に近そうだとはいうものの、カモワン流を一から学び直さなければならない、とは考える必要はなさそうだった。

    11)「天井のシンフォニー」は、ネット上で話題になっていた作品である。Oshoが一部でてくる。こういう形での小説があるのだ、ということを認識した。そのストーリーは面白くないわけではないが、じゃぁ、それから・・・、というと根は決して深くはなかった。 

    12)読み返してみると、当時の自分が、一生懸命もがいている姿がよくでている。「ブログ・ジャーナリズム」と「地球人スピリット」というカテゴリが明確になってくると、それを繋ぐものとして、「ネットワーク社会と未来」というテーマが浮かび上がってきた。

    13)「地球人スピリット」とはなにか、という再認識が必要となる。「地球人」、「スピリット」。ひとつひとつを、一歩前に進みながら、捉え直していこう。

    14)このカテゴリで視聴したファンタジーは、また見てみたいと思う。

    15)玉川信明シリーズにも目を通した。いろいろ批判があるが、いざ自分がまとめてみようとすると、中途半端な覚悟ではできることではない。せっかくのまとめがあるのだから、それを利用しない手はない。

    16)図書館にいって、目についた本に手を出して、なにはともあれ読んでみるというスタイルが目立ったカテゴリである。

    <5>につづく


     

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    地球人スピリット・ジャーナル・ダイジェスト版<3>ブログ・ジャーナリズム・カテゴリについて 

    <2>よりつづく


    「地球人スピリット・ジャーナル」
    ダイジェスト版


    <3>「ブログ・ジャーナリズ」カテゴリについて

    1)ブログを最初に登録したのは、2005年8月だった。それから遡ること、半年ほど前にSNSに誘われ、一大悶着に巻き込まれた。ネット上の炎上の整理役に呼ばれた、と言えなくもない。その過程で、友人の複数がブログを書いていることを知り、同じようなブログを登録したのだった。

    2)当時、HP作りやMLなどで、ネット上のワークは足りていたので、最初、敢えて更なるブログを書き続けることなど考えつかなかった。それに、ネット上における自我のつくり方がよくわからなかった、ということもあった。実質、何も書かずに半年が経過した。

    3)その沈黙を破ったのは、2006年2月にでた梅田望夫の「ウェブ進化論」であった。この本の出版を知ったのは、当時宅配で読んでいた朝日新聞上の記事。さっそく本を買って読んでみると、これが素晴らしく面白い。

    4)いちいち納得なのだが、どうも私の中から反射的に沈殿物がでてくる。若いリーダーに対する反感みたいなものが湧いてくるのだろうか。これは一体なんなんだ、と、すこし何か書いてみようかという気になった。ブログを登録していたことを思い出し、ひとつひとつ書き始めたのが、私のブログの出発点である。

    5)2006/3/14~4/15にまで、約一カ月かけて「ウェブ進化論」と格闘した。一章ずつ精読しながらメモし続けていると、われながら、かなり時代遅れになりつつあるなぁ、という反省と、インターネットはますます進化するぞ、という期待感がないまぜになった。

    6)この本を読むプロセスの中で、気になったのがブログ・ジャーナリズムという言葉だった。小さい時の将来の夢はジャーナリストになることだった。私の人生は結局そういう道にはならなかったが、私の中に、今でも「ジャーナリズム」という世界にやり残していたものがあったようだ。

    7)ブログ・ジャーナリズムは、まったくの個人でもできる。これはすこし積極的にブログを使っていくことも大事かな、と思い始めた。

    8)ちょうどその頃、我が家の奥さんが図書館勤務となり、茶の間で日常的に読書し、業務用の読書ノートをつけていることが多くなった。私はアッシー君として図書館への運転手を頼まれることもあり、ぶらぶらと新刊コーナーなどの本をめくったりすることも多くなった。

    9)かつて若い時は読書ノートをつけていたこともあったし、今回はブログとして始めてみるのも面白いかなと感じた。ここに、わが「読書ブログ」がスタートしたのだった。

    10)図書館で手当たり次第、面白そうな本をつぎつぎ手に取った。こんな本もあるのか、と次々関連の本に手を伸ばした。ブログにおけるカテゴリつくりは難しかったが、まずはとにかく気になるキーワードを10個ほど設定してみた。

    11)次第に、いくつかのキーワードが固まり始め、やがて、3つのキーワードを同時に進行させるというスタイルが出来上がっていった。最初にできたカテゴリは「ブログ・ジャーナリズム」だ。最初ランダムに書いていた記事をこのカテゴリに収めていった。

    12)時代はちょうど堀江貴文のライブドア事件が世間をにぎわせていた頃である。そこからこのカテゴリは2006/12/14まで続いた。他のカテゴリも進行していて、あとから、これに当てはまるものをほおり込んでいった。

    13)この時点で、ひとつのカテゴリの定量を108とすることにした。あまりに膨大になるとあとで整理に困るだろうということもあり、別に100でもよかったのだが、仏教に縁のある108個にした。

    14)再読したいこのカテゴリこの3冊で選んだのは、次の3冊。

    「ブログ・ジャーナリズム」湯川鶴章 /高田昌幸 2005/10 野良舎

    「ブログがジャーナリズムを変える」 湯川鶴章 2006/07 NTT出版

    「ブログ 世界を変える個人メディア」 ダン・ギルモア /平和博 2005/08 朝日新聞社

    15)当ブログの基本的土台はここにある。

    16)2011年11月現在、スマートフォンやツイッター、フェイスブックなどにインターネットの潮流が向かってきており、ブログ・ジャーナリズムというスタイルはやや廃れぎみである。「ジャーナリズム」という部分には期待できないかもしれないが、ブログという機能は、まだまだ有効だろう。

    17)じゃぁ、どんな本を読んでいくのか、当ブログのテーマは一体なんなんだ、ということで次なるテーマとしてでてきたのが「地球人スピリット」という言葉。次なるカテゴリ名となった。

    18)スタート地点の混乱がよく現われている。ブログという機能がはっきりわからないまま、とにかくやってみようという魅力があった。

    19)「世界を変える個人メディア」という可能性は感じられた。結局は限られたアルファ・ブロガーしか生き残れないのだが、個人の記録と考えれば、それなりに魅力のある機能である。

    20)2011年現在、ツイッターやフェイスブックなどが主流になってきているが、個人の記録として手元に残りにくい。そういった意味では、ブログはまだまだ存在価値があると思われる。

    21)「ジャーナリズム」という言葉にも魅力があったが、結局は個人は一次取材をほとんどできないわけだから、流れるニュースに対して、雑感を加えるだけになってしまうだけだ。

    22)当ブログが、読書ブログ、と言う形に落ち着いたのは、ネットにおける情報の危うさと、ちょうど解放されつつあった図書館ネットワークの利用が、ちょうどタイミングよくマッチしたからだった。

    23)地域図書館だけではなく、大学を含む学校図書館も利用できるようになった。視聴覚資料も利用できた。

    24)結局は、自然と「ジャーナリズム」と言う表現は落ちていった。

    <4>につづく

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