カイエ・ソバージュ 中沢新一
「カイエ・ソバージュ」
中沢新一 2010/03 講談社 単行本 836p
Vol.3 No.0552★★★★★
1)当ブログにおける中沢新一追っかけは一応終了している。3.11以後において、すこしは再読してみたい本もでてきているが、それは優先課題にはなっていない。
2)ただ、3.11後の「緑の党みたいなもの」をつくりたいという中沢発言を見て、これはすこしフォローする必要があるかな、と思った。さっそく図書館のリストを見ると、この「カイエ・ソバージュ」があった。
3)このタイトルの5冊シリーズはすでに既読である。
「人類最古の哲学」 2002/1 講談社
「熊から王へ」 2002/6 講談社
「愛と経済のロゴス」 2003/1 講談社
「神の発明」 2003/6 講談社
「対称性人類学」 2004/2 講談社
4)この5冊が合本になって登場したのが、この「カイエ・ソバージュ」。
5)この人の本は面白いのだが、面白すぎるので困る。知や学をエンターテイメントにしすぎている。プロにかかればここまで楽しいか、とはおもうのだが、それほど面白なくてもいいのだ。もっと素朴な味わいが欲しい。
6)あの5冊の本がすべて、この「カイエ・ソバージュ」一冊にまとめられたのかどうかしらないが、一気には読めない。あちこちに散らばった気のきいたフレーズをかき集めるには体力がいる。そこで、ふ~、と溜め息をつきながら表紙を見ていた。
7)Nakazawa Shinichiという文字のデザインを見ていて、ふと気がついた。この人の名前は母音がa-a-a-a i-i-i でできている。なるほど~、この人が先駆的でありながら、全体的ではないのは、この名前にあったのではないか、と思った。
8)この人が、最近になって「緑の党みたいなもの」を言いだしたのは、Midorinotoumitainamonoの中のi-o-i-o-o-u-i-a-i-a-o-oが必要だったのではないか、と思う。それでもeが足りないようだが。
9)「中沢新一」だけでは何かが不足しており、「緑の党みたいなもの」が必要になってくるのだろう。
10)例えば、田中角栄Tanaka-Kakueiでは、a-a-a-a-u-e-iとなりoが不足している、という人がいる。佐藤栄作Satou-Eisakuではa-o-u-e-i-a-uと母音の5つが揃っている。中曽根康弘にしてもNakasone-Yasuhiroでa-a-o-e-a-u-i-oと母音5つが込められている。
11)立花隆はTachibana-Takashiとa-i-a-a-a-a-iとなり、こちらはかなり偏っている。それに比すると、松岡正剛Matuoka-Seigouなどはa-u-o-a-e-i-o-uとなって、五音が揃っている。
12)脱線次いでに、チャンドラ・モハン・ラジネーシュはChandora-Mohan-Rajineshuとなり、a-o-a-o-a-a-i-e--uとかろうじて5音が揃っている。ところが、バグワン・シュリ・ラジニーシ、となると、Baguwan-Syuri-Rajinisiとなり、a-u-a-u-i-a-i-i-iとなり偏り始める。晩年、彼はその不足を埋めるかのようにOshoと呼ばれるようになる。oが不足していたのである。
13)ラジニーシなのか、ラジネーシュなのか、という論争は全然ないが(笑い)、もしこの5音が必要だ、という主張を受け入れるとするながらば、和尚ラジネーシュOsyo-rajinesyuとするとo-o-a-i-e-uとなり、極めて円満な名前となる。これからは日本語としては和尚ラジネーシュと表記することにしよう(爆笑)。
14)さて、中沢新一を考えるなら、やはりこの合本「カイエ・ソバージュ」は欠かせない一冊となる。「野性のノートブック」という意味を持つこの「学問」の始まりは、「緑の党みたいなもの」へと展開していかなれば、全体性を得ることはないだろう。
15)ニューヨークの事件(9.11)の事件があった夜に、私がまっさきに思い浮かべたのが、宮沢賢治のことでした。p171「熊から王へ」
16)なんとも、宮沢賢治は、中沢新一ワールドでは便利に使われているものである。3.11後においても、中沢は「まっさきに宮沢賢治に思いうかべている」。
17)「東北人」としての私は、あまり「宮沢賢治」が好きではない。それは、同質なものを彼の中にみるからであり、外在としての宮沢賢治を崇敬する必要を感じないからだ。
18)外国人が「日本」と言えば、「京都」といい、「禅」と言えば「竜安寺」の「石庭」にターゲットを絞るように、「東北」と言えば、すぐに「宮沢賢治」と絞り込んでくる「非・東北人」に対する反感がある。
19)現代世界が「インド」というとすぐに「ガンジー」ということに、鋭く反発したOshoも、似たようなニュアンスを感じていたかもしれない。
20)「非・東北人」中沢新一が、すぐに「宮沢賢治」を持ちだすことには、私個人は反感を感じる。だからこそ、以前に「哲学の東北」をよみつつ違和感を感じ、意識的、あるいは無意識的に、カイエ・ソバージュの中の「熊から王へ」にもなにごとか感じた。
21)しかし、今、3.11を経過した中で、当ブログは「センダード2012」カテゴリのなかで、宮沢賢治は、大きな土台を提供するプラットフォームとして登場してきている。それはエスペラントならぬ、賢治言語ともいうべき共通概念を提供してくれる。
22)そのうち、合本「カイエ・ソバージュ」を概観する必要がでてくるだろう。
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