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2011/11/08

郡山遺跡 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡 長島榮一<1>

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「郡山遺跡」 日本の遺跡35 飛鳥時代の陸奥国府跡<1>
長島榮一  2009/02 同成社 全集・双書 185p
Vol.3 No.0527★★★★★

1)あたらしいカテゴリ「センダード2012」をはじめよう。センダードはイーハトーブの地続きの隣の町である。2012は、マヤ暦でひとつのサイクルが終了し、あらたなる時代がスタートする時代のことである。

2)センダードには、海と山と川があり、直径20キロ、総延長60キロの環状銀河高速道路が走っている。トーホー山脈から二つの川が流れ下り、海の近くで合流して、大洋へと流れそそいでいる。

3)環状銀河高速道路には10のインターチェンジがあり、それぞれに個性がある。今、始めようとしているのは、ナガナガタンICの直ぐそばにあるナガナガタンというエリアについてである。

4)3.11震災によって、環状銀河道の外側にある大洋から津波が押し寄せ、多くの被災者がでた。数百名から数千名の命が奪われたのである。命が助かった人々も、家も財産も墓も、先祖の遺骨も失い、身ひとつで、避難所や仮設住宅に身を寄せた。

5)銀河環状道のナガナガタンICの近くに「あすとナガナガタン」があり、そこに400戸ばかりの仮設住宅に約1000名ほどの避難者が暮らし始めている。ここでの暮らしは、これから2年とも3年とも言われる間続くことになるのだが、実際は、それ以上に続いていく可能性が指摘されている。

6)ここは、昔、飛鳥時代に陸奥国府があったところだ。だが、その歴史は長いこと人々に知られずにいた。この100年の間にさまざまなことが分かってきた。一つには、ここは、東北の地において、もっとも最初に国府として開かれて行った土地であろうことである。

7)この国府は長いこと栄えなかっただろう、と言われている。この時代に、巨大津波が押し寄せ、全てを押し流してしまったのだ。国もまたその失政を恥じ、歴史書には一切記録を遺さなかった。これらの都市機能は、やがて多賀城に移され、多賀城のみが、近年の歴史ブームで騒がれている。

8)ここが巨大な歴史津波に襲われたことは飯沼勇義「仙台平野の歴史津波―巨大津波が仙台平野を襲う!」(1995)にくわしい。同じ著者によって3.11以後に書かれた「3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ」2011/06)も大いに参考になる。

9)かつて津波に襲われた二本の川と合流地点に挟まれた三角地帯は、今回は震災から逃れ、人々が避難する仮設住宅の場となった。

10)この地は、長いことトーホー鉄道の列車操車場として使われて、この100年、その土地をひっくり返すなどということは、出来なかった。歴史は封印されたままだったのである。ところが、近年の鉄道会社の再編により、この地が都市部として再開発されることとなり、区画整理事業がおこなわれ。

11)この地を調査してみると、現在、多くの竪穴住居の遺跡を見ることができる。あすとナガナガタンと名付けられたこのエリアは、未来の副都心構想の中で開発が進んでいる。

12)その構想の一端は、丸尾直美他「ECOシティ 環境シティ・コンパクトシティ・福祉シティの実現に向けて」(2010/05)に見ることができる。

13)竪穴住居群、飛鳥陸奥国府跡、巨大津波、空白期、列車操車場、再開発、そして、震災被災者の仮設住宅、そしてさらなる明日の都市としての「あすと」構想。変遷してきたこの土地で、今月11月26日(土)、宮沢賢治の芝居が公演される。被災者たちの為の鎮魂劇だ。

14)賢治ワールドにインスパイアされた石川裕人・作「人や銀河や修羅や海胆は」はすでに約10ヶ所の被災地で公演されたきた。

15)この作品、この地において、賢治の夢を立ち上げることになるだろう。いや、弟の清六の「兄のトランク」(1987/09)にある、賢治がやろうとして出来なかったことを、さらに乗り越えていくことになるだろう。

16)ではなぜこのような竪穴住居が存在するのであろうか。発見された当初は官衙の造営にかかわるとの見方をしていたが、変更を余儀なくされつつある。それは郡山遺跡の西に接する西台畑遺跡や長町駅東遺跡の発掘が進んだことによる。

 この地域は、大規模な区画整理事業により「あすと長町」という、新しい街が創られている。その事前調査により、思いもかけなかった発見がつづいているのである。

 旧JR、さかのぼると国鉄の頃からの貨物駅のあった地区で、長町駅東遺跡という遺跡が平成になってから発見された。その土地は1918年(大正7年)から貨物駅として使われてきた。長く国鉄の施設であったため、撹乱(新しい穴により削平されたり、かき回されている状況をいう)により大規模な存在は予想されていなかった。

 しかし、試掘調査を実施すると、数多くの竪穴住居跡が発見されたのである。長町東遺跡から発見された竪穴住居跡は、270軒程である。現在全体の整理事業が進められつつあるが、今のところ明らかになりつつある概要は次のような内容である。

 集落が作られるようになったのは6世紀の終わりから7世紀の初め頃で、古墳時代の東北地方南半の土師器を使っていた人々である。「郡山遺跡」p16

17)ふむふむ、なかなか面白い展開になりそうだな。

18)え、あなたは誰ですか、って? 私は、川をひとつ挟んで生きてきたカヤの木の老木じゃよ。人間たちは、私をセンダード名木の一つに選んで、根元に社まで作って薬師如来を祀っているが、それはそれでよい。樹齢を1300年としているが、それはそれでいいだろう。

19)ひとつ言えることは、若い時から、私はずっとこの地方のことを見てきたということだ。昔は平原にあり、あるいは森の中にあり、時には川の氾濫で、岸辺に立ったこともある。このところ人間どもが開発したため、周囲の樹木はすべて切り倒され、乱立するマンション群の中に、残ったのは私だけになってしまった。

20)私もどれほどこれから命を保つことができるか分からない。聞きたいことがあったら、まぁ、私の知っていること教えてもいいよ。そうそう、源の頼朝が、馬を私の根元に繋いだ、という伝説もあるが、まぁ、それについては、ゆっくり話すことにしよう。

21)ひとつのバイオリージョン、あるいはアーバン・バイオリージョンの始まりである。

<2>につづく 

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