兄のトランク 宮沢清六 <1>
「兄のトランク」 <1>
宮沢 清六 1987/09 筑摩書房 単行本: 241p
Vol.3 No.0522★★★★★
1)賢治の8歳下の弟。生前、ほとんど読者を得られなかった賢治文学にとって、この人がなければ、現在のこれほどのブームは起きなかっただろう。「ひまわり」などで有名なヴィンセント・ヴァン・ゴッホが、生前に一枚の絵も売れず、死後、弟のテオ・ファン・ゴッホのサポートによって評価を得ていったことに似ている。
2)宮澤賢治の教え子たちの証言を綴った写真集「先生はほほーっと宙に舞った」(鳥山敏子/塩原 日出夫)や、宮沢賢治記念館発行の「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』の原稿のすべて」も、原寸大の賢治を伝えるには貴重な資料ではあるが、それ以上に、弟清六の業績は、賢治と一体であったことによって、さらに大である。
3)清六のの仕事は死後、「宮沢賢治の銀河世界--賢治の素顔が見えてくる」 に出演している清六の孫の和樹「林風舎」に引き継がれている。
4)吹雪はいつか静かになって、みちのくの野山には、いましんしんと雪が積もっているようだ。
こんな晩にも、第三紀の四次元世界のイギリス海岸では、怪鳥の群れが飛びめぐり、幾条もの飛竜は空に駆け上がり、怪鳥はつかんで来たものをなげつけたりしているのであろうか。
まことのことばはうしなはれ
雲はちぎれて空をとぶ
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
と、唾し歯軋り叫んだ兄はいまどこで何をしているのだろうか。1977年11月 p76
5)ここでも、あの宮地尚子の「環状島モデル」を思い出す。
6)詩として残された、あるいは「思い出」として残された賢治は、環状島の尾根に立つ三角標としての役目を果たしているにすぎないのではないか。不可視の真実を、円錐島と仮定するならば、その頂にあるものを、あるいは、その内海に深く沈む、そのものを幻視していくことが大事だ。
7)修羅のいかりがあまりにもはげしく、頭髪さえも針となれば、檜(チェブレッセン)や糸杉(サイプレス)も忿りに燃えて、巻雲を灼くように枝を空にのばすのだ。
それらの景色は、まさしくあのヴァン・ゴッホのカンヴァスの中である。
サイプレス
忿りに燃えて
天雲の
うづ巻をさへ灼かんとすなり
天雲の
わめきの中に沸きいでて
いらだち燃ゆる
サイプレスかも p99
8)この断片的ではあるが示唆的である清六の本には、いくつものインターフェイスを見ることができる。こまかく追求しないが、賢治から当ブログへのメッセージというものを見ようとすれば、かすかにだが、しかし、確実な系譜を読む取ることもできる。
8)最近その書き直すつもりの原稿の幾分を発見したので、読んで見るといろいろ興味深い点が多いので、次にそれを所々写してお目にかけよう。
「さる9月4日、花巻温泉で第十七回極東ビヂテリアン大会が行われた。
これは、世界食糧問題に対する相当の陰謀をも含むもので昔は極めて秘密に開催されたものであるが、今年は公開こそしなかったが別に隠しもしなかったやうだ。
たぶんそれは、世界革命の陰謀などに比べると、余りにこどもじみたものなので、誰もびっくりしないためであつたらうと思はれる。・・・・・(中略)p172
9)これは書きかけの原稿だけが残されて、完成しなかった作品だが、賢治の旺盛な創造力が見てとれる。ここにビヂタリアンと表現されているのは、ベジタリアンということであろう。賢治自身はベジタリアンであったようであるが、ここにある極東大会や万国大会、という表現の中に、コスモポリタンの賢治から、マルチチュードやサニヤシン・ネットワークなどへつながる系譜も見ることができる。
10)エスペラントにも強い関心を賢治は示していて、今なら、英単語1500語で成立するグロービッシュなどを普及させようとするのではないだろうか。ここ数日ダライ・ラマがセンダードを訪問していたが、彼は、学校生徒には、英語を学ぶようにといつも話している、と語っている。
11)「世界」と賢治が軽く童話の中などで書いている場合には、ふつうにいう「世の中」とか、あるいは「地球」とか、そういう意味で書いている場合もありますが、これが「農民芸術概論」のような場合には「世界」というのはもっと深い意味で言っていると思います。p199
12)清六は、ここで賢治のいう世界とは、過去、現在、未来、そして東西南北、上下をいうのであって、空間全体ということなのだ、と強調している。
13)もう案外賢治はあこがれの土地に生まれ変わって、「また起きて詳しく書きます。」ということばを実行に移しているではないかと、子供の考えるようなことを思うのである。
そしてそんな土地をいま仮りに瑞典あたりに仮定して、賢治が書き残してこれから書きたいと思った作品をそのメモの中から拾って見ると、
(中略)
などを賢治風の文体で、ストックホルムあたりで書いている青年があるだろうなどと考えることは楽しいことだ。
またウクライナあたりで、
(中略)
などという不思議な著述が、若いヒッピー族の一人によって発表されて、もうそういう本の日本語訳が出ていても、賢治の人生観や四次の世界では少しも可笑しくないと私は思うのである。
或るはいま日本に生まれている沢山の天才たちのうちの一人が、
(中略)
の著書によって投げ棄てられた後半の空白を、全然別の発想で書いているだろうと想像することも差し支えないことと思う。(中略) 1970/07 p209「臨終のことば」から
14)この部分を読むことは楽しい。賢治は1933年に亡くなったのだから、1930年生まれのゲーリー・スナイダーは賢治の転生ということにはならないが、スナイダーが賢治の詩を英訳して「The Back Country 奥の国」の中に収めたのは1967年のことであった。清六はこのことを当然知っていて、「不思議な著述が、若いヒッピー族の一人によって発表」される、という表現を使っていたのではないだろうか。
15)あるいは、山尾三省は1938年生まれだから、転生ということも、まさに「子供の考えるようなこと」も有り得るが、 「いま日本に生まれている沢山の天才たちのうちの一人」として、三省がその仕事を受け継いでいる可能性をゼロとはしないでおきたい。
16)ここにおいて、三省→賢治、スナイダー→賢治、というベクトルは、見事に賢治→スナイダー、賢治→三省、という逆方向の変遷を遂げ、見事なトライアングルが完成したようである。「野の道」、「聖なる地球のつどいかな」、「The Back Country」、そして賢治の遺言としての「兄のトランク」。ここに、当ブログ「3.11後を生きる」カテゴリのひとつのピークを見い出し、新カテゴリ「センダード2012」への橋渡しとする。
17)さて、それでは、ということで、上で(中略)にしてしまった部分が大きな存在になってくるのだが、それについては、次回に譲ろう。
18)死の十日前に教え子に出した手紙には「私の惨めな失敗は、まだまだ慢心という気分が残っていたため」と深く反省して書いている。p237「兄賢治の生涯」
19)南無妙法蓮華経 合掌
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