南相馬10日間の救命医療 太田圭祐
「南相馬10日間の救命医療」津波・原発災害と闘った医師の記録
太田圭祐 2011/12 時事通信社 単行本 197p
Vol.3 No.0574★★★★★
南相馬市総合病院で勤務していた若い医師の当日から10日間の記録。出身地の名古屋に出産間近い妻をおいての単身赴任だった。3月一杯で帰る予定だったが、その直前に3.11に遭遇した。
よくぞこの記録が残せたものだな、と思った。本人にしてみれば、決死の覚悟での勤務であり、万が一のことを考えて、数日後から家族へ残すためにノートを書き始めたという。途中からは、上司の指示もあり、現場の記録を残すためにノートが書き続けられた。
一番衝撃的だったのは、宮城県の名取に津波が迫っている様子を映し出す、ヘリコプターからの映像だった。名取といえば、南相馬から車で30~40分のところであり、自分も時々買い物に行っていた場所だった。感覚的にはかなり近い。津波が到達するたびに街がのみ込まれていく名取の様子が中継されている。実際には、ほぼ同じ頃に南相馬の海岸線にも津波は押し寄せていたわけだが、まさか名取よりもっと身近な場所で同様の被害が起きているとは思いもよらなかった。p018「3.11---激震」
私は当時、名取川の上流を徒歩で帰宅する途中にあったわけだが、私とて、その下流がそのような被害にあっているとは思ってもみなかった。
テレビでは、三陸方面の被害が大きく、仙台でも甚大な被害が出ているとの報道ばかりが流れ、南相馬市に関する映像や情報はほとんどなかった。一体どうしてなのか、被害が少ないということなのだろうかと不思議に思っていた。p044「3.12---原発、新たな被災」
この声は、他の被災地に行った人々からも聞こえてきた。宮城県山元町は、町外出身の町長だから放送しないのだの、石巻はあまりにも被害がすごすぎて報道規制がかかっただの、現地の人々は、みんな自分たちの地域の情報があまりに流れないことにいら立っていた。第三者の立場に立ってみれば、情報が偏っていたのではなく、あまりに膨大過ぎたので、個々人に直接かかわる情報の割合が少なかったのだと思う。
「20キロなら大丈夫じゃないか?」
「いや、チェルノブイリの時は20キロ圏内はダメだったはずだ。かなり危ないのかもしれない」
口々にそう話をしたが、結局はどう判断し、どう行動していいのかわからず、時間だけが過ぎていった。これまで地震や津波災害にあれだけ翻弄されてきたのに、福島第一原発の爆発シーンが流れるたびに、すべてが放射能災害に塗り替えられていくようだった。p054同上
地震から津波。そして原発。特に南相馬市においては、この原発問題が大きく降りかかってきた。私がこの記録に大きな関心を寄せたのは、実は、この時、身内の医師が同じ南相馬市に赴任し、公共の医療機関で働いていたことを知っていたからである。6月に身内の集まりで顔を合わせたが、こまかいことを聞くことさえ憚れた。きっと、彼もまた、この著者と同じような体験をしていたに違いない。
「この病院は、いずれ安全でなくなる可能性が高い。現状では薬も出せず、転院先も見つけてあげられません。しかしこの辺りはいつ危険地帯に入るかわからない状況です。なんとか北か西へ逃げてください」p056同上
日本における原発は「安全神話」に彩られていた。安全なものだから、危険を想定する必要もないし、防災教育をする必要もない。極論すればそういうことになるのだが、原発から23キロ圏内の拠点としての公立総合病院に勤務する医師たちにおいても、原発に対する知識はほとんどなかった、という。これは、結果として、この極論がまかり通っていたという事実を示している。
名古屋にいる妻に何度も電話をかけてみたが、つながらなかった。だが、この時もし妻と話をしていたら、自分を支えていた医師としての使命感なのか罪悪感なのかはっきりわからないが、その何かが崩れてしまったかもしれない。そう考えると、つながらなかった方がよかったのだと思う。p082「3.14---『被曝地域』南相馬」
頭が下がる。涙がでます。ありがとうございます。南三陸町で最後までアナウンスをしてくださった遠藤未希さんを思い出します。
震災後は、津波てんでんこという言葉さえまことしやかに語られることに、私自身はそうだったのか、と思いつつ、やはり、自らの使命感から事態に真っ向から立ち向かった人々のことを忘れることはできない。また、感謝しないではいられない。
飯沼義勇でさえ、津波のあとに救命に向かった人々を「美談」にしてはいけないという。これもまた、逆面の真理である。普段から、津波や原発の災害の悲惨さを徹底的に教育し共有化したうえで、津波てんでんこ、は一面の真理を持っている。しかし、いずれの災害に対しても十分な準備がなかった段階では、このような善意の人々によって、私たちの命が助けられたということを忘れることはできない。
普段あまり話さない父親ともメールでやりとりをするようになった。
「しばらくここに残るよ。もう少し頑張って見る。何かあったら妻をお願いします」
そう書いて送ると、父から返信があった。
「誇りに思う。何も心配しないでいい」
短い文章だったが、思わず涙がでた。p094同上
ありがとうございます。ご本人対してはもっともなことだけど、お父様にも、奥さまに対しても、ありがとうございます。
青ビニールシートが体育館中に敷き詰められ、信じられない数の遺体が並んでいた。病院でも多くの患者を受け入れ、また多くのご遺体を見送ってきたが、それでもこの光景は信じがたいものであった。p116「3.17---20~30キロ圏内の孤立」
津波で被災して亡くなった同級生の葬式には列席したが、結局私は、共同遺体安置所には一度も行かなかった。その付近を何度も、通りかかったし、大きいところも、小さいところもあったが、生半可な気持ちでは近寄りがたく思った。
病院に戻ると、陸路チームの搬送も順調に終了していた。ようやく全患者の搬送が終わり、どのスタッフの顔にも安心感と達成感がにじみ出ていた。それを見て、これで自分の役割は終わったなと感じた。(中略)
入院患者がいなくなって、病院は閑散としていた。そのまま上司のところへ向かい、「明日、名古屋に出発しようと思います」と話をした。p126同上
この記録は23年の12月になってから発行された。他の病院からのレポートもあるが、一人の医師によって、これだけの記録が残され、まとめるにはこれだけの時間がかかるのは当然であっただろう。ましてや、他の地域の状況に加え、南相馬市は原発の被災をもろにかぶっていたのである。貴重な記録として、この本の出版に対しても、著者は使命感を持っていたに違いない。
「(略)市の施設とは言っても、スタッフ全員に、これまでと全く同じ生活が維持できる金銭保証ができるのか疑問だ。極論だが、南相馬に再び原子力発電所を誘致した方が、早く復興するかもしれない・・・・」p156「3.29---再び南相馬市へ」
スタッフたちの非公式なオフレコの中の、半ば冗句として語られた言葉ではあるが、現場を生き抜いてきている人々たちの中から出てくる言葉である。重い意味を感ぜざるを得ない。
「子どもの名前、『そうま』にしようと思うのだけど、どうかな」
いろいろ考えた末に、南相馬から名前を取って「そうま」と名付けることにした。妻も異論はなく、「いいと思う」と言ってくれた。この子が元気に育っていくように、南相馬、そして被災地も着実に復興の道を歩んでいってほしい---。そう想いを込めた。自分の子どもに「そうま」と名付ければ、この震災を絶対に忘れないだろう。そして、いつか震災のことを子どもに話してあげようと思った。p138同上
ありがとう、太田先生。ありがとうございます。
「そうま」は相馬にも通じるだろうけれど、「そうま」は、また「ソーマ」へと通じる。ソーマは古代インドの祭祈で使われた医薬品である。人々はソーマを通じて天啓へと繋がっていった。いかにも、お医者さんらしい素晴らしい、我が子のネーミングである。
南相馬を離れ、名古屋での生活に戻ったことを本当に申し訳なく思う。被災地のためにできることは少ないかもしれないが、1人の仲間、支援者として息子「そうま」と南相馬の復興と地域医療の再生を心より願っている。2011年11月 太田圭佑 p191「エピローグ」
ありがとうございます。
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コメント
pexyさん
日記代りのブログですから、気ままに書き続けています。
そちらイーハトーブでも、よいお年をお迎えください。
投稿: Bhavesh | 2011/12/30 13:44
時折、覗いてます。
色々と勉強?になります。タフですね!1
投稿: pexy | 2011/12/30 12:15