シンクロニシティ F.デヴィッド・ ピート
「シンクロニシティ」
F.デヴィッド・ ピート (著), 管 啓次郎 (訳),1989/07 朝日出版社単行本: 343p
Vol.3 No.0559★★★★☆
1)この本を手に取ったのは、石川裕人「時の葦舟」の巻末に、引用作品として、この本が明示されていたからである。巻頭のノーバート・ウィナーは「サイバネティクス」の提唱者であることは分かった。しかし、ピートとは何者?
2)ということでF・D・ピートの名前で検索して、お手軽そうなブルーバックス「超ひも理論入門」という本を借り出してみた。読み始めはまずまずだったのだが、これを上下巻読み込むとなると、ちょっとタイムリーじゃないなぁ、と途中で放棄。メモすることさえ憚れるような結末となっていた。
3)ウィナーといいピートといい、これは全然、当ブログとの縁は薄いのではないだろうか。と青息吐息になっていたところ、表題通りの「シンクロニシティ」を見つけて、ようやくほっとした。うん、これなら、すこしづつ当ブログとのシンクロを確認することができるかもしれない。俄然、希望が湧いてきた。
4)私が、シンクロニシティ、という単語に持っているイメージは、この本の内容とそう違うことはない。ユングがでてきて、集合的無意識がでてきて、ということで、なるほど、こういう本を下敷きにして、かの戯曲作家はあのシナリオを書いたのだ、ということが分かればいい。
5)ニュートンのおかげで、わたしたちはいま、木からおちるリンゴには引力がはたらき、秒速32フィートでリンゴを加速しているということを、しっています。p73「機械論的宇宙」
6)物理学関係の本を読めば、ニュートンという名称は無尽蔵にでてくる。ニュートンなくしては物理学が成立しないかのようだ。なにげなく過ぎてしまうこの名前だが、かの作家にとっては、度重なるこの名称の登場はどういう意味を持っているであろうか。
7)かの戯曲集の発行者はNewton100となっている。ニュートンの100作目を記念して、という意味であろうが、とにかく、かの作家のニックネームは小学校の時からニュートンなので、それ以上呼びようがない。
8)そんなことを意識しながら、戯曲集第一作「絆の都」を再読した。賢治が出てきて、熊楠(桜)がでてくる。コンピュータ・テクノロジーがでてきて、タクラマカンがでてくる。ガイガー・カウンターもでてくる。上演されたのは1991年のことだが、時代設定は「未来」なのであり、2068年のようでもあり、2275年のようでもある。僅か2時間ほどの芝居ではあるが、時代設定がなかなか忙しい。
9)この他、引用作品には、トールキンの「指輪物語」も明示してあり、「指輪物語」など未読の当ブログにとっては、ますます遠のくばかり。一体、この戯曲集をどのようなとっかかりで読み始めたらいいのだろう、と迷う。
10)大体において、この芝居のテントに足を運んだ人たち(私もそのひとりだが)は、このような伏線なり予備知識を持ってあの芝居を見ているのだろうか。私はそう言った意味ではまったく予備知識が不足している。ただただ、役者たちの動きに圧倒されながら、2時間を体験する、ということになっていたのではないだろうか。
11)すこしづつ読みながら、登場人物に「タクラマカン」という人物がいることを意識し始めた。ここに登場するタクラマカンという「猫」がいるのだが、これはひょっとすると、中央アジアの秘境、シャンバラに通じる何かを暗示しているのではないだろうか、と思い始めた。
12)この本の翻訳者は管啓次郎。この名前も聞いたことあるなぁ、と思っていたのだが、ごく最近当ブログで呼んだ「現代思想」「エコロジーの大転換」の中沢新一の対談者であった。なるほど~、すこしづつ繋がってきたぞ。あそこでも賢治と熊楠が語られていた。
13)事実よりおおく推測をふくんでいるそうした議論は、無意識とは、まだ「より高次の」意識的志向を分泌することのできない、脳の寄り原始的な層から生じているものだ、と示唆しています。p150「こころと物質のパターン」
14)何を今さら、当ブログはこの劇作家のシナリオを追っかけてみようとし始まったのだろうか。作家が「私の畢竟の戯曲だと自負」(p260)するこの三部作を、決して1990年代のものと見てしまってはなるまい。3.11直前とは言え、2011年の2月に出版されたものである。今日的に対応するのが礼儀というものであろう。
15)「再読したが、古びたところが無かった」(p260)とまで明言している。本当だろうか・・・・。とするなら、20年間、この作家は、「進歩」しなかったのか。あるいはなんらかの理由で、それを超えることができなかったのか。あるいは、芝居という特性上、上演する環境が、あの時以上に調えることはできない、という意味であろうか。
16)「意識」(コンシャスネス)という単語は、ふつう宇宙全体というよりは、ある個人のこころをてらしだす、感知(アウェアネス)と注意(アテンション)の光を意味するものとしてつかわれます。ちょうど素粒子が量子場から展開し、ソリトンが非線型場から出現し、渦が川の流れからあらわれるように、個人の意識も、宇宙全体へとつらなってゆく意識の秩序の、複雑な背景から出現します。p292「時と変換」
17)名うてのサイエンス・ライターの文章ゆえ、知らず知らずのうちに、裏の暗がりに引きづり込まれ、ボカボカにやられてしまいそうだ。あまり深入りしてはならない。
18)当ブログもまた「意識をめぐる読書ブログ」を標榜している限り、自らの立ちべき位置は確認してある。基本的には、意識は無意識→集合的無意識→宇宙的無意識、と深化し、あるいは超意識→集合的超意識→宇宙的超意識、と拡大飛翔する、というモデルを採用している。
19)ただ、現在、この本に触れているのは、純粋な「意識」論からではない。問題は、この芝居が上演された1991年において、劇作家と、当ブログは、クロスしていたか、シンクロしていたか、あるいは否か、という一点に集約されている。巌流島の戦いにさも似ている。
20)この際だから、限りなくこの戯曲集を手元に引き寄せて、今日的に、まさに3.11後的に読み下すことが、本当にできるのかどうか。そこのところが、この戯曲集に触れる第一の興味関心である。
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