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2011年12月の43件の記事

2011/12/31

ニーチェから宮沢賢治へ<2> 永遠回帰・肯定・リズム 中路正恒

<1>からつづく

Ni
「ニーチェから宮沢賢治へ」 <2> 永遠回帰・肯定・リズム
中路正恒著 1997/4  創言社 四六判 / 238頁 

 哲学者とは自然の射放った一本の矢のようなものだと、ニーチェはいう。ひとはときどき哲学者になるのだとすれば、ニーチェもまた、ときどき哲学者になり、そのつど一本の矢になったのだ、と考えることができる。p3「はじめに---ニーチェと哲学の矢、そして宮沢賢治へ」

 いよいよ、究極の激動のカオスモスとなった3.11の2011年も紅白歌合戦の時間となった。私はもう、猪苗代湖ズを聞いたので、もういいかな。

 それは、実際に飛んでいるならば、われわれの上空を、さらに未来をさして、飛んでいるであろう。実際、ニーチェの提起した問題は、今日、何一つ克服されていないのである。p4同上

 さて、2011年最後の一冊となった。最後の一冊として選ぶべきなのはどんな本だろう。いろいろ考えてた結果、この本、「ニーチェから宮沢賢治へ」でしめくくることとした。

 どのような矢も、実際にはすぐに落ちる。哲学者の矢も、実際にはすぐに落ちてしまう。ニーチェの矢も決して例外ではない。そしてそれは、その落ちた地点でそれを拾い、再び弓につがえ、そうしてそれをまた別の時空に向かって射放つ者がないならば、実際には飛びつづけることができない。p4同上

 3.11後も、復活した図書館ネットワークを利用して、たくさんの本を読んだ。短期的にはひとつひとつが具体的な緊急を要するものであったが、本質的には、もっともっと長いスパンで取り組まなければならない問題ばかりであった。

 思いもかけないことであったが、リズムの概念を分析の道具に加えることによって、私は宮沢賢治が、まったく新しく解釈できるようになったのである。まさにリズムの概念によって。

 ---今まで誰も賢治の本質が理解できなかった。だれも賢治の本質をつきとめるための道具をもっていなかった。おそらく本書の中ではじめて、賢治の思索の本質の最も深いところまで、解釈の錘が届いた・・・・・p6同上

 賢治が射放った矢もまた、遠くまで飛び、落ちてはまた、それを拾いあげ、ふたたび射放ち続けた者たちがいた。本書もまた、そうあらんとしているし、また、当ブログもその列に並ぼうとしている。

 思うに、すべてのものごとには、「正しい時」があるのではないだろうか。私は、今が、この本を世に出す「正しい時」なのだ、と信じる。p7同上

 今が、「正しい時」なのだ、と信じることができるなら、行く2011年も、来る2012年も、きっと良い年回りなのだ。今だからこそ、あんなこと、こんなことが沢山あったカオスモスの今だからこそ、できる、なにかがあるのだ。

 今年、みなさん、どうもありがとう。

 そして、来年も良い年でありますように。

<3>へつづく

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2011/12/30

宮澤賢治と幻の恋人 澤田キヌを追って 澤村修治


「宮澤賢治と幻の恋人」
澤田キヌを追って
澤村修治 2010/08 河出書房新社 単行本 261p
Vol.3 No.0575★★★★★

 いくら高名な文学者とは言え、他人の色恋沙汰に首を突っ込むのは当ブログの趣味ではないので、この本はどうかなぁ、と後回しになっていた。違うなぁ、と思えばすぐやめようと思っていたのだが、この本、それほど皮相な本じゃぁなかった。

 宮澤賢治の人と作品にはさまざまな「謎」があるが、そのひとつにこの「きみにならびて野にたてば」の「きみ」とは誰か、という問いがある。研究者の間ではさまざまな憶測が行われており、定説をもつに至っていない。高瀬露説、伊藤チエ説、大畠ヤス子説、そして恋愛感情を濾過して出来上がった「きみ」でありとくべつ具体的な対象がいるわけではないという詮索不要説に大別される。p11「はじめに」

 それぞれの女性についても、それぞれに詳述されているのだが、本書においてはさらなる存在、澤田キヌを主人公として追っかけて見るという旅である。生涯不犯の童貞男と断定されている賢治ではあるが、いくつかの女性たちの姿が見え隠れし、その人生を彩る。

 彩る、というほどではないにせよ、春画を集めて30センチほどの厚さになっていた、という賢治だから、まるで性欲が欠如した人間ではない。さほど女性にはモテなかった「変人・奇人」賢治ではあったにせよ、言い寄ってくる女性は、いないわけではなかった。

 ある時から賢治は、自らをベジタリアンという生活に押し上げていったし、女性を忌避し、結婚を忌避する、というライフスタイルにこだわり抜いていった。清貧主義とか、聖人として偶像化される要因の一つにはなっているが、彼は彼なりに考えて生きていたのだった。

 東京から原稿でいっぱいのトランクをぶら下げて帰ってきた賢治は、弟の清六に、「子どもをつくる代りに原稿を書いた」と言っていたくらい、あるエネルギーを昇華するプロセスとして、沢山の作品を仕上げていったのだ。

 具体的なスキャンダルとしての恋愛事情ではなく、賢治のスピリチュアリティにおけるタントラとしての性に対する態度を知っておくには、なるほど、その幻の恋人たちの影を追うこともまた必要なことなのだろう。どちらかと云えば、自然とタナトスに傾きがちな賢治像だけに、時には(あるいは常時)、賢治のエロスに対する姿勢を対置しておくことも大事なことなのだ。

 「賢治は早熟な男で、仏教を知らなかったら始末のおえぬ遊蕩児になっただろう」という父・政次郎のことばが伝わっている。「彼は絶えず女性を求めていた」と親友の藤原嘉藤治にもいわしめている。p24「多面体・宮澤賢治」

 父・政次郎は、どちらかと云えば常識人であったし、父親の立場から見ればそうだったのかもしれないが、親友の立場から見ても、そういう印象を持たれていた、というのが賢治という存在の一面でもある。

 なんだか堅物でもなんでもなく、どこにでもいる健康な男性である。性的要求もまったく正常で、性的関心はふつうの男となんら変わるところがなかった。むしろ平均的男性よりやや欲求が強いくらいではないか。p29同上

 ほっとするやら、当然だろうと思うやら、いろいろだろう。時にはガッカリする人もいるのかも知れない。

 「性欲の乱費は、君自殺だよ、いい仕事はできないよ。瞳だけでいいじゃないか。触れて見なくたっていいよ。性愛の土壇場までいかなくてもいいのだよ」と賢治は藤原嘉藤治に語っていた。賢治の禁欲主義は仏教の教えばかりではなく、「いい仕事」をするために必要なことだとの認識もあったのである。p33同上

 今から100年前のことである。現在の人間関係や性風俗から見れば、考え方は、進歩的にも見えるし、また、いつもよくあることのような情景でもある。禁欲、という言葉は相応しくないと思うが、ブラフマチャリアとか、クンダリーニの上昇、なんて面から考えれば、あり得ない話ではない。ただ、賢治自身はそれを何処まで知っていて何処まで認識していたのかは、さだかではない。

 結局、賢治は、「著しく文学的天分はあったが、それを除けば、多少の変人性を含んだふつうの人である」という人物だとわたしは思う。やや非常識で子供じみているが、どこか明るい印象があるのは、育ちの良さなのだろう。そこのところが啄木との違いになる。啄木は賢治と比べると「暗い」のである。

 ともあれ、賢治については、そろそろ「聖人から人間へ」であろう。本書は確かに、賢治の実像を再検討する試みの一つであるといってよい。p135「幻の恋人・澤田キヌの発見」

 当ブログとしては、当然、「人間・宮澤賢治」が目下の探究目的であり、そもそも「ふつうの人間」としての「地球人」大歓迎である。

Kenjihoroscope  賢治のホロスコープを見ると、火星が双子座にあり、金星が乙女座にある。ここから恋愛運を見るとすると、賢治自身の男性性は、割とポーカーフェイスで女性と付き合うことができるだろうが、ここ一番という決め手に欠ける。また、お好みの女性像と云えば、実務的でありながら、控えめなちょっと地味目な人と言うことになる。

 太陽は乙女座だから、賢治自身もやはり才気活発で器用ではあるが、他の面に比べて、恋の手管はやや下手くそで、どちらかと言えば晩婚になる運気を持っていた。決して結婚しない人でもないし、その気がないわけでもないのだが、いまいち手が伸びない、というのが実像であったのではないだろうか。

 晩年に病臥していたころは、病者を献身的に看護する女性に、とくべつな思い、すがりつくような気持ちを抱くことは容易にあったと思われる。健康体だったら、看護婦を思う気持ちはこれほど強くなかったはずである。死をも意識していた病者ゆえに、みずからを護ってくれる看護婦と心理的に近くなった。それが「病気」と「宗教」に満ち満ちた「雨ニモマケズ手帳」のなかに、この清明な詩が唐突にあらわれる理由として考えられないか。

 「きみにならびて野に立てば」のどこかにキヌがいる----。キヌを、そして看護婦の姿に対する隠された慕情が見え隠れする。わたしにはそう感じられてならない。
p204「「隠された慕情」

 著者は1960年生まれ。編集者、文芸評論家。当初思っていたよりはるかに重厚な一冊である。論拠に子細あり、説得力のある推論が展開される。しかしながら、この本は、昨年の2010年8月に出版された本である。もし、この本が今年の3.11後に出されることになっていたら、推論はもっともっと精緻になっていったかもしれない。

 1886(明治29)年6月15日午後7時32分、三陸東海岸を大津波が襲う。旧丹後の節句で各家庭では夕食を終える時刻であった。(中略)
 日本赤十字社岩手県支部が自前で救護看護婦を養成する必要性に迫られたのは、この大災害がきっかけである。
p209「北のナイチンゲール」

 賢治と津波の不思議な関係はすでに有名である。しかしまた、イーハトーブの地において、看護婦が養成され始まったのは、この津波がきっかけだった。そもそも日本全体でも、日本赤十字社の看護婦養成は、1890(明治23)年に始まったばかり。日本における看護婦というの制度は、スタートしたばかりだったのだ。

 賢治にとって看護婦とは、「血のいろ」をしたあやしい月が患者たちを不安に陥れる「凶事」のなかで、「なべて且つ耐えほゝゑ」む存在であった。そして「いそがしく氷を割」ったり、「水銀の目盛を数」えたりして、けなげに立ち働く白衣の「聖女」たちであった。p213同上

 3.11以降、各地で賢治が立ち上がってくる。もう賢治がいなければ、この被災地の復興など成立しないかのような勢いだ。当ブログもまた、賢治おっかけに躍起となり始めている。しかし、なにかが足りない。被災地のカオスモスの中で、ひとり賢治が立っていても、タナトスのルーツに引きずり込まれて、いくら賢治だって、ついには大地の中に取りこまれていってしまいそうだ。

 ここでは、ウィングが必要なのである。高く飛翔する幸いなるエロスが必要だ。そう思った時、すこし謎が解けてきたように思われる。賢治と澤田キヌの出会いの子細は端折るとしても、このキヌの存在が大きい、と著者がいう意味が、実は3.11後にさらに明確になってくるのではないか。

 キヌは都合三回の召集を受けた。自己履歴書によると、初めは1933(昭和8年)3月3日になっている。このときは召集といっても、戦場に赴いたのではない。「震災海嘯救護のための召集」とある。三陸で大津波が起きたため、救護に向かったのだ。p219同上

 これは、賢治の亡くなった年の昭和三陸大津波の時のことである。賢治の生まれた年に起きた明治三陸大津波で看護婦養成が始まり、その後に生まれたキヌはやがて看護婦となって昭和三陸大津波の被災地へと救護に向かったのだった。

 賢治にまつわる恋人探しは、7~8人の女性の影がちらつくが、その多くは教員や看護婦である。教員は職場がそうだったからと言えそうだし、看護婦は何回かの入院体験があったから、とは言えそうだが、賢治は、特別な看護婦フェチ、という訳ではなかっただろう。

 賢治は、新しくできつつあった医療や看護の制度のなかに、新しい息吹を感じていた。そしてその看護婦という存在の中に、ひとりの女性や恋人というより、自未得度先渡他を理想とする菩薩像を見たのだろう。

 3.11後の賢治像には、「デクノボー」であるだけでは何かが不足している。エロスが必要なのだ。高く飛ぶウィングが必要だ。そのためには、タントリストとしての宮澤賢治が必要なのである。 

 このようにいわば毛穴の皮油まで晒された作家は史上、賢治だけではないか。生前は文学者として不遇であった賢治は、後年に起きた過剰なまでの手厚い扱われ方にどのような感慨を持つのだろうか。p56「聖職の女」

 すでに語り尽くされている賢治ではあるが、敢えて賢治を鏡として使い、自らの中に、理想の地球人としての「ケンジ」を見ようとするなら、当ブログは敢えて宮澤賢治の実在を細かく掘り起こす必要としない。新たなる「ケンジ」を生み出せばいいのだ。

 しかしまぁ、そうであったとしても、宮澤賢治という存在は、実に自由自在に、踊り、歌い、祈ってくれる、フィギュアであり、アイコンである。この本のおかげで当ブログも一歩前に進めそうだ。

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2011/12/29

南相馬10日間の救命医療 太田圭祐


「南相馬10日間の救命医療」津波・原発災害と闘った医師の記録
太田圭祐 2011/12 時事通信社 単行本 197p
Vol.3 No.0574

 南相馬市総合病院で勤務していた若い医師の当日から10日間の記録。出身地の名古屋に出産間近い妻をおいての単身赴任だった。3月一杯で帰る予定だったが、その直前に3.11に遭遇した。

 よくぞこの記録が残せたものだな、と思った。本人にしてみれば、決死の覚悟での勤務であり、万が一のことを考えて、数日後から家族へ残すためにノートを書き始めたという。途中からは、上司の指示もあり、現場の記録を残すためにノートが書き続けられた。

 一番衝撃的だったのは、宮城県の名取に津波が迫っている様子を映し出す、ヘリコプターからの映像だった。名取といえば、南相馬から車で30~40分のところであり、自分も時々買い物に行っていた場所だった。感覚的にはかなり近い。津波が到達するたびに街がのみ込まれていく名取の様子が中継されている。実際には、ほぼ同じ頃に南相馬の海岸線にも津波は押し寄せていたわけだが、まさか名取よりもっと身近な場所で同様の被害が起きているとは思いもよらなかった。p018「3.11---激震」

 私は当時、名取川の上流を徒歩で帰宅する途中にあったわけだが、私とて、その下流がそのような被害にあっているとは思ってもみなかった。

 テレビでは、三陸方面の被害が大きく、仙台でも甚大な被害が出ているとの報道ばかりが流れ、南相馬市に関する映像や情報はほとんどなかった。一体どうしてなのか、被害が少ないということなのだろうかと不思議に思っていた。p044「3.12---原発、新たな被災」

 この声は、他の被災地に行った人々からも聞こえてきた。宮城県山元町は、町外出身の町長だから放送しないのだの、石巻はあまりにも被害がすごすぎて報道規制がかかっただの、現地の人々は、みんな自分たちの地域の情報があまりに流れないことにいら立っていた。第三者の立場に立ってみれば、情報が偏っていたのではなく、あまりに膨大過ぎたので、個々人に直接かかわる情報の割合が少なかったのだと思う。

 「20キロなら大丈夫じゃないか?」
 「いや、チェルノブイリの時は20キロ圏内はダメだったはずだ。かなり危ないのかもしれない」
 口々にそう話をしたが、結局はどう判断し、どう行動していいのかわからず、時間だけが過ぎていった。これまで地震や津波災害にあれだけ翻弄されてきたのに、福島第一原発の爆発シーンが流れるたびに、すべてが放射能災害に塗り替えられていくようだった。
p054同上

 地震から津波。そして原発。特に南相馬市においては、この原発問題が大きく降りかかってきた。私がこの記録に大きな関心を寄せたのは、実は、この時、身内の医師が同じ南相馬市に赴任し、公共の医療機関で働いていたことを知っていたからである。6月に身内の集まりで顔を合わせたが、こまかいことを聞くことさえ憚れた。きっと、彼もまた、この著者と同じような体験をしていたに違いない。

 「この病院は、いずれ安全でなくなる可能性が高い。現状では薬も出せず、転院先も見つけてあげられません。しかしこの辺りはいつ危険地帯に入るかわからない状況です。なんとか北か西へ逃げてください」p056同上

 日本における原発は「安全神話」に彩られていた。安全なものだから、危険を想定する必要もないし、防災教育をする必要もない。極論すればそういうことになるのだが、原発から23キロ圏内の拠点としての公立総合病院に勤務する医師たちにおいても、原発に対する知識はほとんどなかった、という。これは、結果として、この極論がまかり通っていたという事実を示している。

 名古屋にいる妻に何度も電話をかけてみたが、つながらなかった。だが、この時もし妻と話をしていたら、自分を支えていた医師としての使命感なのか罪悪感なのかはっきりわからないが、その何かが崩れてしまったかもしれない。そう考えると、つながらなかった方がよかったのだと思う。p082「3.14---『被曝地域』南相馬」

 頭が下がる。涙がでます。ありがとうございます。南三陸町で最後までアナウンスをしてくださった遠藤未希さんを思い出します。

 震災後は、津波てんでんこという言葉さえまことしやかに語られることに、私自身はそうだったのか、と思いつつ、やはり、自らの使命感から事態に真っ向から立ち向かった人々のことを忘れることはできない。また、感謝しないではいられない。

 飯沼義勇でさえ、津波のあとに救命に向かった人々を「美談」にしてはいけないという。これもまた、逆面の真理である。普段から、津波や原発の災害の悲惨さを徹底的に教育し共有化したうえで、津波てんでんこ、は一面の真理を持っている。しかし、いずれの災害に対しても十分な準備がなかった段階では、このような善意の人々によって、私たちの命が助けられたということを忘れることはできない。

 普段あまり話さない父親ともメールでやりとりをするようになった。
「しばらくここに残るよ。もう少し頑張って見る。何かあったら妻をお願いします」
 そう書いて送ると、父から返信があった。
「誇りに思う。何も心配しないでいい」
 短い文章だったが、思わず涙がでた。
p094同上

 ありがとうございます。ご本人対してはもっともなことだけど、お父様にも、奥さまに対しても、ありがとうございます。

 青ビニールシートが体育館中に敷き詰められ、信じられない数の遺体が並んでいた。病院でも多くの患者を受け入れ、また多くのご遺体を見送ってきたが、それでもこの光景は信じがたいものであった。p116「3.17---20~30キロ圏内の孤立」

 津波で被災して亡くなった同級生の葬式には列席したが、結局私は、共同遺体安置所には一度も行かなかった。その付近を何度も、通りかかったし、大きいところも、小さいところもあったが、生半可な気持ちでは近寄りがたく思った。

 病院に戻ると、陸路チームの搬送も順調に終了していた。ようやく全患者の搬送が終わり、どのスタッフの顔にも安心感と達成感がにじみ出ていた。それを見て、これで自分の役割は終わったなと感じた。(中略)
 入院患者がいなくなって、病院は閑散としていた。そのまま上司のところへ向かい、「明日、名古屋に出発しようと思います」と話をした。
p126同上

 この記録は23年の12月になってから発行された。他の病院からのレポートもあるが、一人の医師によって、これだけの記録が残され、まとめるにはこれだけの時間がかかるのは当然であっただろう。ましてや、他の地域の状況に加え、南相馬市は原発の被災をもろにかぶっていたのである。貴重な記録として、この本の出版に対しても、著者は使命感を持っていたに違いない。

 「(略)市の施設とは言っても、スタッフ全員に、これまでと全く同じ生活が維持できる金銭保証ができるのか疑問だ。極論だが、南相馬に再び原子力発電所を誘致した方が、早く復興するかもしれない・・・・」p156「3.29---再び南相馬市へ」

 スタッフたちの非公式なオフレコの中の、半ば冗句として語られた言葉ではあるが、現場を生き抜いてきている人々たちの中から出てくる言葉である。重い意味を感ぜざるを得ない。

 「子どもの名前、『そうま』にしようと思うのだけど、どうかな」
 いろいろ考えた末に、南相馬から名前を取って「そうま」と名付けることにした。妻も異論はなく、「いいと思う」と言ってくれた。この子が元気に育っていくように、南相馬、そして被災地も着実に復興の道を歩んでいってほしい---。そう想いを込めた。自分の子どもに「そうま」と名付ければ、この震災を絶対に忘れないだろう。そして、いつか震災のことを子どもに話してあげようと思った。
p138同上

 ありがとう、太田先生。ありがとうございます。

 「そうま」は相馬にも通じるだろうけれど、「そうま」は、また「ソーマ」へと通じる。ソーマは古代インドの祭祈で使われた医薬品である。人々はソーマを通じて天啓へと繋がっていった。いかにも、お医者さんらしい素晴らしい、我が子のネーミングである。

 南相馬を離れ、名古屋での生活に戻ったことを本当に申し訳なく思う。被災地のためにできることは少ないかもしれないが、1人の仲間、支援者として息子「そうま」と南相馬の復興と地域医療の再生を心より願っている。2011年11月 太田圭佑 p191「エピローグ」

 ありがとうございます。

 

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2011/12/28

「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』」<4> NHKテレビテキスト100分de名著

<3>よりつづく 


「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』」 <4> NHKテレビテキスト100分de名著
ロジャー・パルバース 2011/11 NHK出版 ムック 89p

 裏番組の民放で、3.11の原発事故をドキュメンタリーとして再現していた。途中でこちらを見ようと思ったが、こちらはビデオに録画して、2時間以上の渡る原発特番をみてしまった。気が重い。そうとうに重い。

 巻頭大震災の翌年の暗い時代の中で書きはじめられた銀河鉄道の夜。賢治の物語を読んだとて、原発事故も、震災の被害も、すこしも解決にはならない。途方もない問題のただ中に投げ出されたままであることにはかわりはない。

 世界全体が幸福にならないうちは、個人が幸福になることはできない。賢治の農民芸術概論綱要の思想とされるこの考え方。だが、本当だろうか。誰か幸せになれない人がいたって、私が幸福である、ということはあるのではないだろうか。

 そもそも、幸福とはなんだろう。幸いとはなんだろう。私は今、自分がどうであったら、幸いだ、と思うのであろう。

 踊りましょう、歌いましょう、祈りましょう、と、ゲスト出演の鎌田東二は言う。彼は20年ほど前になるんが、SPSの時にすこし話したことがある。あの時、三日間のシンポジウムの合間を見て、牡鹿半島の先の金華山まで足を延ばしたはずだ。彼にとっても三陸海岸には熱い想いがあるだろう。今回も、センダード若林から、イーハトーブ久慈まで足をのばしたという。

 そしてロジャー・パルバースは、それに加えて、笑いましょう、という。原体剣舞連にも触れる。これから、宮沢賢治21世紀宇宙の旅、が始まるよ、と彼は言う。

 銀河鉄道の夜。もし、今、賢治が生きていたら、こういうかもしれない。銀河鉄道は今も走っている。あなたの心の中を。ナレーターはそう付け加える。

 賢治から教わったことは、自由。発想、生きがい、夢、希望。人間のポケットの中に、ハンドバックの中に、ジョバンニと同じ切符が入っているはずだと、パルバースは言う。

 ここで何気なく、「銀河鉄道の夜」を検索してみたら、松岡正剛の「千夜千冊」がでてきた。900夜を記念してか、賢治を語っているのだが、これが長い。正剛親分の賢治に対する思い入れの激しさが伝わってくる。

 最後の最後に、にロジャー・パルバースの翻訳による「語で読む銀河鉄道の夜」が紹介されている。当ブログでも、そのうち手にとって見ようと思う。まぁ、これだけたくさんの人々との共同性を持ちうるのだから、賢治ワールドは、本当にポラーノ広場を開いてしまったのだな、と思う。

 

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2011/12/27

3・11後に心のフタが壊れてしまった人たち 堀之内高久


「3・11後に心のフタが壊れてしまった人たち」 「疑似被災」という病
2011/09 産經新聞出版/日本工業新聞社 単行本 197p
Vol.3 No.0573★★★☆☆

 出口ナオののお筆先だったかに、地獄の釜の蓋が開くぞよ、というフレーズがあって、なんとも恐ろしげな風景が浮かんだものだが、割とそれほど怖い意味でないらしい。

 地獄の釜の蓋が開くの意味 
 正月の十六日の盆の十六日は、だれかれなしに仕事を休もうという意味で、この日には地獄の鬼も亡者の呵責を休み、罪人を煮る釜の蓋も開けっ放しになることから。かつてはこの日を「藪入り」といい、商家では商売を休み、使用人にも暇を与えた。
「ことわざ辞典」

 どすんと、地獄行きの底の板が抜けてしまうのかと思いきや、みんなでお休みを取りましょう、という意味になるようだ。さて、「心のフタが壊れてしまう」ということはどういうことを言うのだろう。

 普段は心の奥底に押さえ込んでおくことができた「怒り」や「悲しみ」といった強い感情が、一気に放出されてしまいます。このことを私は、本書の冒頭で説明しましたが、「心のフタが開く」、あるいは「心のフタが壊れる」と表現しています。

 心のフタの開き具合は、人によってさまざまです。ほんのちょっとだけ開いてすぐ閉じてしまう人もいれば、フタが壊れるほど開き、そのまま開きっぱなしになってしまう人もいます。p56「日本中がバーチャルな被災者で溢れている」

 私は被災地におり、現実に被災状況を把握しながら生きて行かなければならないので、疑似被災者とは言えないが、心のフタまではまだ壊れていないと見える。

 ただ、3.11直後の自分の在り方を考えたら、確かに心のフタが開きっぱなしになってしまっていたかなぁ、とは思う。何にもやる気が出ないし、他との連携もあったから、なかなかうまく自分を取り戻せなくなっていたことは確かなようだ。

 その後、ちょうど、なでしこジャパンのワールドカップ優勝あたりから、すこしづつ心のコントロールはできるようになったような感じもするが、気力も体力も、共に、なにかに奪われてしまったような期間を過ごしていたことはまちがない。

 しかし、か言って、あれだけの災害があったわけだし、何も感じない人などいないわけだから、心のフタが開いたり、多少は壊れたりする方が、正常な人間の感覚というものではなかろうか。血も涙もある生身の人間である。それこそ、地獄の釜の蓋を開いて、みんなでお休みしてみるのもいいのではないか。

 この本の著者は臨床心理士にして、メンタリング研究所スーパーアドバイザー、という肩書である。なかにもちょろちょろと、有効な手段がいろいろ書いてある。それらのひとつひとつは、他の誰もが思いつかない、という内容ではない。むしろ、誰でもが思いつきそうなことばかりだ、と言っても過言ではない。

 かと言って、実際にやってみれば効果がわるわけだし、やらないよりやったほうがずっといい。分かっていそうなことを、このような本をたよりに、実際にやってみることによって、心が心としての機能を取り戻してきそうな気になる。

 ただ、宮地尚子「震災トラウマと復興ストレス」にもあったように、本当に深刻なトラウマやストレスは、すでに失われてしまったり、表現されえない領域にあるのであり、自分の心といえど、そう簡単にフタを修理できないことはよくあることである。

 そういう場合はどうすればいいかというと、しばらくは、このままでいよう、と思うことも必要なのではないかと思う。急いでなんとかしようとせずに、時節を待つことも必要であろう。

 

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2011/12/26

古代東北と王権 ―日本書紀の語る蝦夷 中路正恒

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「古代東北と王権」 ―「日本書紀」の語る蝦夷
中路 正恒 (著) 2001/06 講談社 新書: 280p
Vol.3 No.0572★★★★☆

 ニーチェから宮沢賢治へ」が面白かったので、中路正恒追っかけを始めようかな、と思ったが、この人、割と寡作である。タイトルを見ると、この本はタイトルは面白そうで普段の私なら大好きなテーマなのだが、今のこのタイミングでこのタイトルはいかにも唐突かなぁ、と、ちょっと腰が引けてしまう。

 1995年8月にわたしは岩手県江刺の原体村の剣舞を見に行った。これは宮沢賢治の「原体剣舞連」という詩で有名な剣舞であるが、この詩や、賢治の他の作品の中に表れる剣舞のイメージの源泉をつきとめるために、わたしはどうしても原体剣舞の「太刀入剣舞」という演目をみせてもらわなければならない心境になっていた。庭元の菊池正美さんはそのわたしの願いを快く受け入れてくれた。それによってわたしは一つの論文を完成させることができたのだった。「あとがき」p277

 その論文こそはニーチェから宮沢賢治へ」の中の「『ひとつのいのち』考---宮沢健二の『原体剣舞連』をめぐって----」であろう。この人、この本にまとめられている部分においてはあまり「東北学」とは無縁のような雰囲気であったが、どうもこの賢治を入り口として、一気に東北学との接点が増えていったらしい。

 「古代東北と王権」に関していえば、それはそれでとても関心深いのだが、あまり深い追いすると、どこかユダヤ陰謀論に似て、あてどもない迷路を走り続けてしまうような徒労感を感じてしまう。だから、最近の私はこの部分に関してはほどほどに接することにしている。

 特に、今の3.11というタイミングでは、中央のヤマトと東北のエミシの対立の構図を際立たせることは、得策ではない。そのルサンチマンを掘り起こすことで、一体何が生れてくるだろう。

 東北には、国家の<外>には、つねに戦士たちがいた。戦士たちが<外>をつくり、それを活用し、奥の深い、さわやかな空気の飲める空間を、やすらかに息のできる小さな隠れた洞窟を、つくり、護ってきたのである。彼らのことを、宮沢賢治は「気圏の戦士」、と呼んでいた。そして「わが朋(とも)よ」と。p17「東北---多孔質の身体」

 中路正恒の東北は乾いている。どこか軽い。それが特に賢治ワールドと繋がってくると、なお、平坦な構図と浮遊感が生れてくるから面白い。ただ、賢治は、東北の戦士なのだろうか。

 賢治の祖先は、京都からの移民である。つまり、賢治の中に流れている地は蝦夷以来の、みちのくの土着ではない。天皇を頂点とするクニに反逆する血ではないのだ。畑山博他「宮沢賢治幻想紀行」p106「生涯」

 確かに、賢治の祖先はすでに数代、花巻に根付いていたし、父親も母親も京都からの移民の宮沢一族の出であったとしても、賢治の人生はまったく東北の地に囲まれた人生だった。だから東北の人、ということに、なんのこだわりもない。だが、東北のルサンチマンは、もっともっと深く、湿度が高いと、私は感じる。

 この本を読み進めると、これがまた厖大な時間と空間のつながりの中に引きづり込まれてしまうが、このような繋ぎとめをできるのは、この人が「東北」の人ではないからではないか、と思う。よくも悪くも、東北の人ではない。

 「東北」にもルーツとウィングがある。この本は、東北のルーツに深く突き刺さっていく。だがそれが割と軽い。サクサクと、さわやかな作業工程である。この軽さは、本当は「東北」的ではない、と思う。

 賢治は、東北のウィングであろう。修羅としてのルーツの錘をぶら下げつつ、夜だかのウィングで銀河まで飛び去ってしまう。星になってしまう。今、3.11以降のカオスモスの真ん中で、賢治に期待されているのは、そのルーツではなくて、ウィングであろう。

 この「古代東北と王権」を、飯沼義勇と突き合わせて読んでみたいと思う。それはそれで興味深く、面白いと思う。しかし、今、当ブログの流れは、ちょっと違う相に入り込んでいる。こちらの作業が一巡したら、また、その誘惑に身を任せてみるのもいいかもしれない。

つづく・・・かも、いつかは・・

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2011/12/25

「人や銀河や修羅や海胆は」 TheaterGroup“OCT/PASS” 石川裕人・作・構成・演出<3>

<2>からつづく 

Oct
「人や銀河や修羅や海胆は」<3>
石川裕人・作・構成・演出 2011/12/24  TheaterGroup“OCT/PASS”  センダード・エルパーク・スタジオホール

 この芝居はこれで3回見たことになる。同じ芝居を3回見るなんて、初めてのことだ。でも、本当は、せっかくだから、この芝居11回全部見てみたかったな、とさえ思う。それは、この3回見ただけでも、3回が3回とも、まったく違った印象を持っていたからだ。

第1期
07月09~10日  大河原 えずこホール
07月16~18日  仙台市 錦町公園いこいの広場
07月23日    仙台市 龍澤寺
07月24日    仙台市 ほうねん座民族芸能センター 
07月30日    古川市 荒雄公園(野外)

第2期
10月08日    石巻市 日和山公園内広場
10月15日    七ヶ浜町 国際村野外劇場アンフィンシアター
10月22日    東松島町コミュニティセンター 野外ステージ
10月29日    山元町 中央公民館大ホール
11月26日    あすと長町仮設住宅 集会所

そしてラストステージ決定版
12月24日    仙台市 エルパーク・スタジオホール

 とは言ってみたものの、第1期の頃は、私は「芝居」なぞ、見ようという気力があっただろうか。自分のブログを遡っても、この時期に私に目の前にある現実から目をそらす余裕などなかった。現実を現実としてとらえることさえできなかったのだから、もう一つ何か別な視点から見てみよう、などという試みの余裕はまったくなかったと言える。

 そんな自分がようやくこの芝居とクロスするのが、10月29日の山元町中央公民館での公演だった。ここの公民館はごく先日まで、被災者たちの避難場所になっていたのである。身近な親戚が何家族も被災したために、この避難場所には何回か通っていた。

 もちろん、震災前からこの施設があることは分かっていたし、正直言って特別な感情はなかった。そんな空間が、震災後、芝居を通して、一体、どの様に変容するのだろうか。日常から日常へ、非日常の日常化、そして、非日常からの演劇空間への変容。その辺の変化にとても関心があった。

 11月26日のあすとナーガの仮設住宅集会所においての公演もそうだった。列車操作場としての日常、区画整理からエコタウンを目ざしての都市化計画にそった変貌。そこに襲った3.11大震災。突如現れた数百の仮設住宅群。この地は、1300年前には多賀城に先駆ける国府があった場所ですらある。

 そして昨日、この芝居を、クリスマスイブの夜、センダードの杜のイルミネーションが輝くビル街でみることになった。ここは、先日、黒テントの公演を見た同じ場所であった。実際には、オクトパスの公演があることを知って、その「比較」の意味で、前もって黒テントを見ておこう、と思ったのだった。

 ようやくここでこの劇団とクロスしたように思うのだが、実は、もっと歴史は長いように思う。この劇団の芝居を最後にみたのは、1995年のことだった。すでにタイトルすらよく覚えていなかったが、劇団のHPによれば、それは「教祖のオウム 金糸雀のマスク」という作品だった。現代浮世草紙集 仙台演劇祭'95参加、と銘打たれている。

 私はこの芝居を見たあと、この劇団の公演には足を運ばなくなった。この芝居に対する他の評価がどうであったのか知らない。また私も、十全な演劇鑑賞者とは言いにくい。実にわがままに自らに引き寄せて観劇する一入場者に過ぎない。

 この芝居のテーマは分かっていた。自ら抱えていたテーマの解決の糸口を見つけようとして観客席に座っていたはずだ。そんな私は、観客席で必要以上にいら立っていた自分を感じた。これは違う。こんなことでは解決にも、解消にもならない。私のいら立ちは大きかった。大袈裟に言えば、私は芝居を見限った。

 そのいら立ちは、結局16年続いたことになる。その間、問題を直視していたかと言えば、そうは出来なかった。直視しなければならないという思いとは裏腹に、むしろ、その問題から回避しようというエネルギーの方が強かったとさえいえる。

 1995年には、大きな出来事が3つあった。1月17日の阪神淡路大震災であり、3月20日の地下鉄サリン事件であり、8月25日(国内版11月23日)のウィンドウズ95の発売である。いずれも大変な事件であった。

 リスクマネジメント関連の仕事をする上で震災の問題は大きなテーマであったが、阪神淡路は西日本のことであり、当事者意識は薄かった。そして、地下鉄サリン事件は、戦後文化のしわ寄せが膿となってほとばしったような事件であり、直視しようとしても、あまりにも見えないことが多すぎた。

 いきおい、90年代後半は、私はインターネットの進展に目を見張り、ネット空間の可能性の方へと逃げ込んできたのだった。2001年には9.11という大変な事件が起きたが、これもまたアメリカや中東の問題でもあり、当事者意識は薄かった。

 そんな私は、自分としては決して「逃げ込んだ」とは思っていなかった。Meditation in the Marketplace の意識のもと、一人分の現実の中で生きてきたとは言える。そして、2005年頃になって、SNSなどの発達によるネットワークの進展の中で、過去に先送りしてきた宿題をかたづけなくてはならなくなった。

 オウム真理教事件は、多くの未解決の問題をかかえつつも、今年、すべての刑事裁判が終了するという一応の「終決」を見た。16年かかった。長くもあり、短くもある期間だった。「終わって」見れば、教団側に対する配慮など何ひとつ必要なく、すべてきっぱり断罪されてしかるべき犯罪であった。

 この「終決」感が、ふたたび私をこの劇団の観客席に呼びこんだのだろう。ただ、私はかならずしも演劇観賞を趣味とするファンではない。どうも、観客席、というのは居心地が悪い。かと言って、自分がステージに立ったり、その制作にかかわるなどということは更に思いもよらないが、今回、この芝居団が抱えている「テーマ」について、私は「当事者」意識を持って見つめていたい。

 思えば、時代は一巡したのかも知れない。95年の三大事件は、2011年の三大事件に置き換えることができるかも知れない。東日本大震災、東京電力原発事故、そしてツイッターやフェイスブックの興隆。

 阪神淡路大震災のただ事ではなかったが、それを上回るのが東日本大震災である。修復するには何十年もかかるだろうし、ほとんど修復不可能である部分も多くある。地球から放出されたエネルギーは何万倍もの差がある。

 そう言った意味においては、地下鉄サリン事件も大変な事故だったが、東京電力原発事故は、比較にならないほどの「大犯罪」である。それこそ被害は、何万倍どころか、それこそ修復不可能な領域まで達しているのである。

 そして、ウィンドウズ95というOSの発売などに比較すれば、ツイッターやフェイスブックの日常化の効果は、それこそ何億倍の違いがある。パソコンの一般家庭への普及率など数パーセントに満たなかった95年に比べ、2011年現在、ネットに接続できる機器の普及率はほぼ100%に近付いている。しかもそれは、各人のポケットに入ってさえいる。

 さて、95年の私と2011年の私とでは、何がどう変わっているのだろうか。生きていくことに精一杯という現実にはそれほど違いはないが、育ち盛りの子供達をかかえて右往左往していた時代と、すでに子供達が自立してしまった後の時代とでは、視野の広がりに大きな違いがある。

 視野を狭め、自らの歩むべき道をのみ見つめて生きる姿勢と、すでに歩むべき道などそれほど遠くはなく、時にはふりかえって自らの道の修復を試みる姿勢とでは、大きな違いがあって当たり前だ。

 今、私は、ツイッターやフェイスブックなどの、過大な期待は持っていない。日常の道具として活用されるべきだとは思うが、そこに「逃げ込もう」とは思わない。世界が同時につながるネット機能は、時にはアラブの春と呼ばれる解放の効果を生んでいるようであるし、もっともっとネットが広がることによって、地球上の人間の営みはどんどん変わっていくだろう。そのことには期待しているし、今でも「マルチチュード」的夢想をしていることは確かではある。

 原発の問題は大きな問題だ。捉え方によっては、オウム真理教などより、はるかに重大な犯罪である。16年などでは「終決」しないことは明確である。メルトダウンしてしまった原発を「廃炉」にすることなどほぼ不可能なのだが、それでも政府発表は、これから30年かかるということだ。少なくとも、現在57歳の私がこの地球上に生きている間は、この問題は解決も終息もしないことが明確となった。この問題と共存していかなくてはならないのである。

 そして、地震・津波による被害。こちらは200年サイクルとも1000年サイクルとも呼ばれる大きな周期的な地球の生命力の発露なのである。人間として避けるに避けることのできない宿命である。私たち地球人は、地球の上に生かされているのである。大自然を「敵」とすることはできない。大自然に抱かれながら、大自然から許される範囲の中で、自らのいのちを育んでいく姿勢が必要だ。

 シアターグループ・オクトパスのHPを見ると、この10数年間の演目には、色濃く宮沢賢治の影響を見てとれそうな作品名が並んでいる。いま、ようやく賢治ワールドに目を見張っている私などは、う~ん、この作品も、あの作品も、見ておくべきだったな、という後悔の念が走るものがある。しかし、時間はもどらない。文学作品とは違い、演劇は、その時間と空間にだけ現れるものだから、同じものは二度と見ることはできない。

 しかし、そのスピリットにおいて、大きな変化がなければ、時間や空間が違っても、そこに現出してくるエネルギーの本質に、そう大きな違いがあるわけでもなかろう。この劇団が難しい時代に、ずっと賢治をひとつの大きな支柱としてきたことは間違いないようだ。だとするなら、この2011年における「三大事故」というカオスモスの真ん中において、この劇団の、そして「私たち」の「賢治スピリット」は今後、どう生きつづけていくだろうか。

 観客席に座ることだけが観劇ではないとする私にとって、観劇しないということは、その芝居に参加しない、ということではない。今後も、このグループの芝居を見ることになるのかどうか、今の私には判断つかないが、少なくとも、その活動には目を見張り続けていこうと思っている。

 次回作は半年後に公演される「方丈の海」とか。語感としては、三島由紀夫の「豊饒の海」を連想するが、「方丈」と来るからには、鴨長明の「方丈記」とかかわりがあるだろう。作者自身は、地震のことを描いても仕方ないので、人間を描く、ということだから、むしろ、ここはグッと賢治ワールドを離れて、より純化した仏教的無常観でくるかな。

<4>につづく    

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2011/12/24

OSHO ZEN TAROT<25> THE REBEL(反逆者)

Zen005therebel   <24>よりつづく

OSHO ZEN TAROT <25>

4、THE REBEL(反逆者)

 人びとは怖れている。自分自身のことを知っている者たちをひじょうに怖れている。彼らには、活気のある若者たちを因習的な監禁状態から連れ出すある種の力、ある種のオーラと、ある種の磁力、カリスマがある……。

 光明を得た人は隷属させられることなどありえない——それが厄介なのだ——そして、光明を得た人は監禁されることもありえない……。内なるもののなにかを知った天才たちにはみな、受け入れられるには少しむずかしいところが必ずある。

 天才は秩序を乱す力になる。大衆は乱されたくはない。たとえ惨めであっても——事実、惨めなのだが、彼らはその惨めさに慣れている。そして、惨めでない人は誰であれ、よそ者のように見えるのだ。

 光明を得た人は、世界でもっとも偉大なよそ者だ。その人は誰かに属しているようには見えない。その人はどんな組織にも閉じ込められない。どんなコミュニティー、どんな社会、どんな国家にも——。Osho The Zen Manifesto: Freedom from Oneself Chapter 9

解説:

 この力強く、毅然とした人物は、明らかに自らの運命の支配者(マスター) です。彼の肩には太陽のエンブレムがついていて、右手で掲げている松明(たいまつ) は、苦労して勝ち得た彼自身の真理の光を象徴しています。

 裕福であろうと貧しかろうと、「反逆者」はほんとうに皇帝です。彼は社会の抑圧的な条件づけと意見の鎖を打ち砕いているからです。彼は虹のすべての色を身にまとって自分を形づくり、自己の無意識な過去の、暗く、そして形のない根源から浮かび出て、空へと飛び立つ翼をはやそうとしています。

 彼の在り方そのものが反逆です——誰かと、あるいはなにかと闘っているからではなく、自分自身の本性を発見し、その通りに生きようと決心しているからです。

 彼のスピリット・アニマルは鷲(わし) 、地と空のあいだのメッセンジャーです。「反逆者」は、自分自身としてあることの責任を取り、自分たちの真理を生きる勇気をもつようにと私たちを促しています。Copyright © 2011 Osho International Foundation

<26>へつづく 

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2011/12/23

地球人スピリット宣言草稿<17>カオスモス

<16>からつづく 


「地球人スピリット宣言草稿」 
<17>カオスモス

 さて、いよいよ次なるカテゴリが始まる。次なるカテゴリは「地球人スピリット宣言」とすることとした。次なる108の書き込みで一つの集約点を見つけることができるかどうか。出来なかったら、あとでこっそり、カテゴリ名の末尾に「草稿」を追加することにしよう。

 ふと気付いてみると、震災後、いつの間にか、箇条書きにすることが通常化して、番号を振ることが当たり前になっていた。これは、震災後にツイッターに情報を盛んに流したことがひとつの遠因になっている。細切れの情報は割と簡単に流せるのだな、ということを痛感した。

 そして、もうひとつの原因は、外部の事象があまりに煩雑であり、全体としてとらえることができなかった、ということも原因としてある。とにかくメモすることが先だ、という先走った姿勢があった。

 しかし、そろそろ箇条書きは減らしていこう。すくなくとも、一日や、一冊についてのメモは、大体の構想が決まった段階で、全体性をできるだけ統一した形で残していこうと思う。それは、この「地球人スピリット宣言」というカテゴリを、ひとつのまとまりのあるものにするためにも、大変重要なことだと思うのだ。

1)「メタ曼荼羅2011」で、とりあえずの統合を終えたことになる。

2)「メタ入れ子曼荼羅2011」 において、集約点と、今後の方向性が見えてきた。

3)二つの方向性がウロボロスの輪のように、ひとつの円環とすることが今後の大きな作業となる。

4)「カビール達の心理学」はいかにも落着きのわるい姿のまま放置されている。これをなんとか形あるものに落ち着かせたい。

5)賢治ワールドを「入れ子曼荼羅2011」的に読み直してみるのも面白そう。あるいは、それをやるしかないだろう。

6)そういえば「プロジェクトG・O・D」はどうなっているのだろう。

7)その他、いろいろあるが、後で追加予定。

 といいつつ、またまた箇条書きになってしまったが、これらの乱雑に抱えてしまった多様性を、ひとまとまりにしよう、というのが今後の当ブログの課題なのである。これをニューチェが言ったかも、とされるカオスモスと名付けていいのかどうか、まずはそのあたりから、話題は展開していくだろう。

<18>へつづく

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2011/12/22

2011年下半期に当ブログが読んだ新刊本ベスト10

2011年上半期よりつづく

2011年下半期に当ブログが読んだ
新刊本ベスト10 

(それぞれの本のタイトルをクリックすると、当ブログが書いたそれぞれの本の感想に飛びます)

第1位
Hukkoku
「仙台平野の歴史津波」 巨大津波が仙台平野を襲う! 
飯沼 勇義 (著) 復刻版 2011/09 本田印刷出版部 単行本 p234
 

第2位
3・11その日を忘れない。―歴史上の大津波、未来への道しるべ
「3・11その日を忘れない。」 ―歴史上の大津波、未来への道しるべ
飯沼 勇義 (著) 2011/6 鳥影社単行本 208p
 

第3位
【送料無料】震災トラウマと復興ストレス
「震災トラウマと復興ストレス」 岩波ブックレット
宮地尚子  2011/08  岩波書店 全集・双書 63p
 

第4位
【送料無料】東北を歩く増補新版
「東北を歩く」 小さな村の希望を旅する
結城登美雄 増補新版2011/07 新宿書房 単行本 331p
  

 

第5位
Oct
「人や銀河や修羅や海胆は」TheaterGroup“OCT/PASS”
石川裕人・作・構成・演出 2011/10/29 宮城県亘理郡山元町中央公民館大ホールなど10ヶ所以上の被災地仮設住宅などで公演

 

第6位

「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』」 NHKテレビテキスト100分de名著
ロジャー・パルバース 2011/11 NHK出版 

 

第7位 
【送料無料】美しい村に放射能が降った
「美しい村に放射能が降った」 飯舘村長・決断と覚悟の120日
菅野典雄 2011/08  ワニブックス   
 

第8位
Photo
「その時、閖上は」写真集
小齋誠進 2011/08 有限会社印刷センター 

 

第9位
Fight
「宮城県気仙沼発!ファイト新聞」 
ファイト新聞社 2011/07 河出書房新社

第10位
【送料無料】ガイガーカウンターGuideBook
「ガイガーカウンターGuideBook」 放射能から身を守る!!
日本放射線監視隊 2011/06 フレックスコミックス
 

次点
【送料無料】今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電
「今こそ知りたい最新ガイド太陽光発電」 NEWTON別冊
ニュートンムック 2011/08 ニュートンプレス

2012年上半期へつづく

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ニーチェから宮沢賢治へ<1>永遠回帰・肯定・リズム 中路正恒

Ni
「ニーチェから宮沢賢治へ」 <1>永遠回帰・肯定・リズム
中路正恒著 1997/4  創言社 四六判 / 238頁 
Vol.3 No.0571★★★★★

1)「ニーチェから宮沢賢治へ」。いいですね、このタイトル。当ブログの流れから言えば、このままでもいいし、「宮沢賢治からニーチェへ」であっても、決して可笑しくない。あるいは「ニーチェと宮沢賢治」でもいいだろうし、「ニーチェあるいは宮沢賢治」でも可笑しくない。「ニーチェ=宮沢賢治」でも場合によっては可だ。とにかくこの二つの存在に対しての論を、いろいろ聞いてみたい。

2)と、勢いづいてはみても、この本は、そう単純な本ではない。1949年生まれの「哲学者」中路正恒の48歳時における、自らの哲学の流れにつけた命名で、そもそも自分では「永遠回帰と肯定とリズムについての思索たち」と名づけていたものだが、友人の示唆を受けて「ニーチェから宮沢賢治へ」となったのだった。

3)一冊の本としてみても、ニーチェと宮沢賢治の間には、フェデリコ・フェリーニ、山中智恵子、森鴎外、伊藤静雄、などなどが挟まっている。

4)本書には、心地よいリズムが波打っている。そのリズムが、ともすれば乱雑に投げ出されたような幾つかのテーマを一気に読ませてしまう魅力となっている。

5)永劫回帰というニーチェのテーマは、肯定も否定もされ得ないテーマなのだが、本書のサブタイトルに敢えて「肯定」という文字が記されているのは、否定すべきなにかに光があたっておらず、肯定すべきものを羅列しているからだろう。あるいは、ボーダーラインにありながら、あえて肯定すべきものとして自己の領域に引っ張ってきてしまうのは、本人の力量でもあろうが、多少は「若さ」によるところも多いだろう。

6)最後に、わたしの将来をだれよりも案じながら、4年前の10月にこの世を去った父に、わたしの、哲学者としてのささやかな出発点となるこの本を、ささげたい。1997年3月6日 p229「あとがき」

7)ともすれば観念的な「わたし」「わたしたち」が語られる本であるが、ちらっと、本人の下世話な意味での実存が見え隠れする一瞬である。それにしても48歳にして「ささやかな出発点」とするような本を出すのは少しく遅すぎはしないだろうか。息子の将来を「だれよりも案じた」父、という時、賢治の父を思い出すし、すでに30代に手が届こうとする子供達を抱えている私にも、胸騒ぎする共通項が思い当たる。

8)著者はこの本で賢治を取り上げるにあたり、「春と修羅」から「原体剣舞連」を引っ張り出す。鹿踊りと並んで、賢治が愛した地元の芸能だ。

9)賢治は、この仮面の人物のペルソナを、この東北の地に伝わる伝説の、悪路王だ、と解釈したのである。平泉の西、達谷の窟に、城塞を構えて立て籠り、征夷の将軍・坂上田村麻呂らに逆らい、そして滅ぼされた賊主、と伝えられる、あの悪路王、として。p208

10)東北、そして野に生きた、という意味では、賢治をまつろわぬ人々の末裔として見ようとするのは、読む者の人情である。

11)賢治の祖先は、京都からの移民である。つまり、賢治の中に流れている地は蝦夷以来の、みちのくの土着ではない。天皇を頂点とするクニに反逆する血ではないのだ。「宮沢賢治幻想紀行」p106「生涯」

12)国柱会の会員として人生を全うした賢治ゆえ、賢治なりの国家観というものがあったはずだが、たしかに反逆する血ではなかったにせよ、天皇を頂点とするクニに自らの理想を見たわけではない。

13)むしろ、クニや蝦夷に対置する以上の存在として、自然をみたのであり、雪の結晶から、銀河や南十字星までの宇宙観に打たれていたのが賢治であった。そして、それを自らの内に見た時、法華経を通じて仏の世界につながり、無や空の世界へと繋がっていった。

14)生の本質的な多数性の、現実に把握され、享受される喜びにもとづく、承認と肯定において、宮沢賢治の思想は、ニーチェの思想と非常によく似た場所にあるのである。ニーチェもまた、生の本質的な多数性の、この承認と肯定によって、意志は根源において一つである、というまやかし的な思想を語る哲学者と対決したのである。p218「『ひとつのいのち』考」

15)二人の思想を似た場所にある、とみるより、当ブログは、あえて、二人を同じ場所においてみる、という試行をしつつある。そしてそれは、まやかしかどうかはともかくとして、「意志は根源において一つである」という場においてみようとしているのである。

16)マンダラとは、基本的には、こうして経験される、宇宙の完全な秩序を表現したもの、ということになるのではないだろうか?---あるいは違うかもしれないのだが。

 ところで、私がここに素描したいのは、こうした宇宙の完全な秩序の経験とはやや異なった経験についてであり、また、宇宙には完全な秩序が存在する、と明言することに、一抹の躊躇を覚えずにはいられない者の、<世界についての思い描き方>についてである。p191「カオスモスの変身装置」

17)多様性の中に秩序を見ようとすることこそ、当ブログにおける当面の課題だったわけで、一連の、いわゆるマンダラシリーズはその試行錯誤の結果である。しかし、そこに根源的なひとつのものを見ようとするところに、多少の無理が生じているのも確かなことだ。

18)カオスモス(Kaosmos)という言葉がある。これはニーチェの造語であったか、なかったか、いまは詳らかにしないが、いずれニーチェ的な概念であり、ごはカオス(混沌)とコスモス(秩序)とを合成したものである。

 世界はカオスでもなく、コスモスでもない。むしろ両者を複合した一つの流れ、と見られなければならないものだ、ということを語っていよう。人はそこでは、究極の世界を見る/見たいという安住に寄り掛かることができない。p192同上

19)たしかに、寄り掛かりたい、という気持ちがないわけではない。終わって、楽になりたい、という気持ちは確かにある。

20)そもそも、限界を超える格闘のなかに、どうして定まった方向などが存在するのだろうか? 段階とは、所詮は真空恐怖に対するまじないのようなものに過ぎないのではないだろうか。

 確認しておくべきことは、自分の限界を超えようとする格闘の現場を離れては、世界の<ほんとうの見え方>など、宇宙の秩序の経験など、何一つ存在しない、ということである。p192同上

21)ここで筆者は<カオスコスモスの変身装置>なる提案を出してくるわけだが、ここからは、各論的であり、それぞれの個性がでるところなので、深追いはしないでおこう。

22)当ブログの言葉づかいで言えば、無であり、空であり、あるいは瞑想であり、あるいはBeyond Enlightenmentである部分が、本著は本著なりのリズムの中で展開されている。あとは、それを自らの実存の中で了解しえるのかどうか、という部分へと進んでいく。

23)3.11以降に、各方面から立ち上がる宮沢賢治への憧憬を、当ブログなりに、予期しなかった方向転換を経ながら、なんとかわが曼荼羅の中心に賢治を置いてみることは可能であろう、という感触は得た。そして、それにはニーチェを媒介にすると、比較的やりやすいということも分かった。そして、ニーチェに不足しているものが、賢治が持っている、ということも分かったし、ニーチェや賢治を超えて、さらに向こうに歩いていく必要がある、ということもわかった。

24)目の前に展開される、現実としての「センダード2011」もまもなく暮れようとしている。この、多様性の曼荼羅の真ん中に、立って歩き始めなければならないのは、ニーチェでもなく、賢治でもなく、私自身なのだ、ということだけは確かなことのようである。

<2>につづく

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2011/12/21

「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』」<3> NHKテレビテキスト100分de名著

<2>よりつづく 


「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』」 <3> NHKテレビテキスト100分de名著
ロジャー・パルバース 2011/11 NHK出版 ムック 89p

1)数ある賢治の作品のうち、「銀河鉄道の夜」を代表作としてしまうことは可能なのだろうか。「雨ニモマケズ」や「風の又三郎」、「春と修羅」を初めとして、どれを中心とすればいいか、悩んでしまうほど、沢山の作品があり、また実に多様性に満ちている。

2)この番組では、「銀河鉄道の夜」について語り合う。この作品を中心において、宮沢賢治という人全体について考えてみようとすると、それはそれでできる。

3)私はなぜ私なのか。私はなぜあなたではないのか。いや、私はあなたである。森羅万象の中に私はいる。全ては繋がっているのだ。ベジタリアンだった賢治。動物たちにも、植物にも、風にも山にも星にも自分をみていた。

4)「何と云われても」

何と云われても

わたしはひかる水玉

つめたい雫

すきとおった雨つぶを

枝いっぱいにみてた

若い山ぐみの木なのである

5)水玉や雫、雨つぶや山ぐみの木、というところに、他のどんな言葉を入れても、この詩は成り立つのだった。

6)世界がぜんたい

幸福にならないうちは

個人の幸福はあり得ない 「農民芸術概論綱要」

7)禁欲、という言葉はかならずしも賢治にはふさわしい言葉だとは思わないけれど、あのような生活態度でなければ、たしかに見えてこない世界があったはずである。

8)次回はいよいよ第四回。最終回である。

<4>につづく

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竜のはなし 宮沢賢治


「竜のはなし」 
宮沢賢治/戸田幸四郎 1983/12 戸田デザイン研究室 絵本 1冊 Vol.3
No.0570★★★★★

1)図書館の「子どもの本のあんない」2011冬号のテーマは「竜」だった。

2)こわい竜、かわいい竜、恐竜・・・・。いろんな竜の物語が あつまったよ! 「BOOK TREE」 no.144

3)「ほしになったりゅうのきば」、「おまもりドラゴン」、「のんきなりゅう」、「タツノオトシゴ」、など、幼児向けの竜の本が20冊紹介されている。そればかりではなく、児童書にはコーナーまでできていて、紹介されていない本もたくさんならんでいる。へぇ~、こんなにあるのか。

4)と、あきれついでに一冊借りてきた。こちらの本は「竜」というだけではなく、「宮沢賢治」がキーワードである。賢治には「竜と詩人」があるから、それを翻案したものかな、と思ったが違った。もとは「ポラーノの広場」(角川文庫)に含まれる「手紙一」であり、了解を得て、改題したという。

5)戸田幸四郎の絵がなんともやさしい竜となっている。昼寝をしていた竜はやさしい気持ちで狩人たちに自分の皮を与え、虫たちに肉を与えてしまった。そして死んでしまう。

6)死んでこの竜は天上にうまれ、後には世界でいちばんえらい人・おしゃかさまになって みんなにいちばんのしあわせをあたえました。
 このときの虫もみな、さきに竜の考えたようにおしゃかさまから教えを受けてまことの道に入りました。

7)なるほど、ブッタの前世の話しであったか、とは思うが、この話しは初めて聞いたので、これは賢治の創作であろう。そう思って、青空文庫を見ると、この後に数行つづいている。

8)このようにしてお釈迦さまがまことのために身をすてた場所はいまは世界中のあらゆるところをみたしました。このはなしはおとぎばなしではありません。

9)たしかに「このはなしはおとぎばなしではありません。賢治」とこの本にも巻頭に大きく書いてあった。

10)このお話を、童話や創作、あるいはブッタの前世、というだけで捉えてはいけない。これは実存のお話であり、読む者すべてにかかわる話しであった。

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OSHO ZEN TAROT<24> 独りあること(アロンネス) 

Zen010aloneness  <23>よりつづく

OSHO ZEN TAROT <24>

9. 独りあること(アロンネス) 

 ひとりでいるとき、あなたは独りではいない。ただ寂しいだけだ——。寂しさと独りあること(アロンネス)、そのあいだには途方もない違いがある。寂しいとき、あなたは誰かのことを考えている。

 相手がいなくて寂しいのだ。寂しさはネガティヴな状態だ。あなたは、もし誰かがここにいたらもっとよかったのに、と感じている。友人、妻、母、恋人、夫がいたらと——。誰か相手がいたらよかったのに、その相手はいない。

 寂しさは他者の不在だ。独りあることは自己の現存だ。独りあることはひじょうにポジティヴだ。それは現存、あふれ出る現存なのだ。あなたはあまりにも現存に満ちあふれているので、自己の現存で全宇宙を満たすことができるし、誰かを求める必要もない。
Osho The Discipline of Transcendence, Volume 1 Chapter 2  

解説:

 生において「大切な他者(ひと)」がいないときは、寂しくなるか、それとも孤独がもたらす自由を楽しむか、そのどちらかが可能です。

 自分たちが深く感じている真理をまわりの人たちが支持してくれないとわかったとき、私たちは孤立してつらい想いをすることもできますし、家族、友人、仲間に認めてもらいたいという人間の強い欲求にも耐えられるほど自分たちのヴィジョンは強靭だという事実を祝うこともできます。

 もしあなたが今、そういう状況に直面していたら、「独りあること」の見方を自分がどう選んでいるのかに気をつけ、そして、自分が下したその選択の責任を取ることに覚めていましょう。

 このカードの謙虚な人物は、内側から発する光で輝いています。人類のスピリチュアルな生へのゴータマ・ブッダのもっとも重要な貢献のひとつは、弟子たちに「自らの光となりなさい」と強調したことです。

 究極的には、どのような仲間も、地図も、あるいはガイドもなく、暗闇を進む自分たちの道をつくる能力を、私たちひとりひとりが自分の内側で開発しなければならないのです。Copyright © 2011 Osho International Foundation

<25>につづく

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2011/12/20

野の道―宮沢賢治随想<3>  山尾三省

<2>よりつづく

Photo_2
「野の道―宮沢賢治随想」 <3>
山尾 三省 (著) 1983/01 野草社 単行本: 234p
★★★★★

1)賢治を巡る旅も、いつの間にか50冊以上になりつつある。重複する内容のものもあれば、時代を経て古色蒼然とした研究もあった。思わぬところで賢治の名前が飛び出したり、あるいはその記念館まで足を運び、原稿を復元したものを入手したりもした。

2)科学者としての賢治、表現者、芸術家としての賢治、そして、信仰者、あるいは法華行者、あるいは野にある菩薩としての賢治、の姿もおおまかになぞってきた。

3)その中にあっても、当ブログにおける賢治の旅は、三省のこの一冊から始まったことを考えれば、時折、三省のことが想いをよぎり、何度も、この原点に戻ってくることになる。

4)賢治研究の書はあまた在るが、この「野の道」は格別の一冊である。すでに30年前の本ではあるが、いや、30年前の本であるからこそ、三省がいかに賢治を深く見つめていたか、賢治を友とし、賢治と一体化し、そしてまた、三省は三省として、いかに生きたのか、ということがあらためて深く偲ばれる。

4)当ブログ三省関連リストでは、比較的早い時期にこの一冊がでている。だが、賢治に対する予備知識がすくなかった私は、できれば飛ばし読みしたい一冊であった。この本の中に、三省の消息を探し、部族の記録を読み、周辺の情報を嗅ぎ取ろうとしていた。むしろ、賢治にかかわる部分はややもするとおざなりしか読めなかった。

5)しかし、いまは違う。すこしづつ賢治の作品に触れ、その評論に触れ、そして、3.11後における、大きなファクターとしての賢治の姿を期待し、この本から、三省を通した賢治の姿を読みとろうとしている。

6)賢治という実存を、三省という実存を通して読みとろうとしている。読みとろうとしているのは私なのであるから、私もまた、私の実存を賭けてそれらを読みとらなければならないのはもちろんである。賢治や三省を読みとるということは、私が私自身の実存を生きる作業でなければならないのである。

7)宮澤賢治は修羅の人ではあるが、彼の修羅は、修羅を超えたものとしての如来性を自覚しているが故での修羅であり、如来から断たれた修辞学としての修羅ではない。p60「マグノリアの木」

8)三省もまた、野の人として、百姓であり、詩人であり、意識の深みを求める実存の人であったすれば、彼もまた自らの如来性を自覚していたことであろうことは間違いない。

9)ここで私たちがよく見ておかなくてはならないことは、彼は世の中に背を向けていたわけではなく、世の中を恨んでいたわけでもなく、結核という、当時にあっては死病を意味する病気の予兆を身内に持ちながら、ひたすら自分の幸福のために、自分の幸福ということは、自分と共にある人々の幸福のために、その道を歩き始めたのだということである。p83「腐植質中の無機成分の植物に対する価値」

10)三省は、ふるさとならぬ異郷としての屋久島で百姓になろうとしながら、決して世に背を向けたのではなく、やはり、自分の幸福のため、自分と共にある人々の幸福のために、その道を歩いていたのだった。

11)ああ誰か来てわたくしに云へ
奥の巨匠が並んで生れ
しかも互いに相犯さない
明るい世界はかならず来ると

と叫んで見ても、自己を神と録した者に他から助けが来るものではない。自己を神と録したこと、祀られざるも神には神の身土があるとうかつにも録してしまったことが業なのである。
p107「祀られざるも神には神の身土がある」

12)一人で野にあることは、松の林の蔭の小さな小屋にいることと変わりはないが、それは、全体と在ることであり、一人の人間性を超えた何かになろうとしている姿でもあった。

13)賢治が一歩深く歩み入った世界は、父と子とか私と貴方とかの個別の世界ではなくて、法華経という法(ダルマ)の世界であった。p184「玄米四合」

14)科学者や芸術家としての賢治の面は高く評価されつつあるが、その心象としての宗教性を明瞭に評価することは容易ではない。それは賢治を見ようとするこちら側の深く掘り下げ、高く舞い飛ぶ力量を問われるからだ。

15)宮沢賢治はブッダによって開示され外化された真理としての法華経を信受した人ではあったが、それだけでは究極ではなかった。開示され外化された真理を、もう一度もとの自然存在のふところへ帰すこと、つまり、自分が愛した山々や森や峠の土の中にそれを埋めること、そうすることによってもう一度、その山々や森や峠から真理が流れ出すことを願ったのである。p208「み祭り三日」

16)三省もまた、部族というコミューン運動の流れや、屋久島で百姓として生きるという暮らしの中に、真理を思い、世界に向かって祈った。

17)私は私の野の道に立ち、この国家社会の内に生活している限りは、定められた法律を守る努力をするし、定められた義務もできる限りは果たす気持ちでいる。それは、怠惰や臆病からするのではなくて、私がガンジーのような非暴力による変革を希んでいるからであり、平和というものを何よりも尊いものであると感じているからである。

 けれどもそれは、国家を守り国家に賛成することではすこしもない。私の希望は国家にはなく、私達の太陽の下、土の上の野の生活にある。p230「野の道」

18)三省が憲法九条の精神性を語り、核エネルギーに強いアレルギーを示す時、それは単に憲法の問題であったり、健康問題だけが関心ごとではなかった。同じく、賢治が、賢治の暮らしや芸術の中で言わんとしたことは、賢治の暮らしや芸術そのものだけのことではなかった。

19)野にあるものは野でしかない。それで充分である。ここには太陽があり土がある。水があり森がある。風が流れている。大きそうな幸福と小さいな幸福とを比較して、それが同じ幸福であるかrないは小さな幸福を肯しとする、慎しい意識がここにはある。宮沢賢治が、「都人よ、来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ」と言ったのは、このような場からにほかならない。p230同上

20)3.11以後、賢治が多く語られる。すでに80年前亡くなった賢治が今でも生きているかのように私たちに語りかける。そして、30年前に三省が語った賢治が、二重写しになって存在しているかのようだ。彼らの実存がまた、それを読む者に、自らの実存に向き合うことを、暗に薦めている。

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2011/12/19

宮澤賢治 雨ニモマケズという祈り 重松清他


「宮澤賢治 雨ニモマケズという祈り」
重松清/澤口たまみ/小松健一/著 2011/07 新潮社 とんぼの本 単行本 p127
Vol.3 No.0569★★★★★

1)震災前の昨年に出版された一冊だが、コンパクトでよくわかりやすく編集されている。たくさんのカラーページがイメージをかきたてる。「春と修羅」の一部を読んでいて、ふと気がついたことがあった。

2)あの四月の実習のはじめの日
液肥をはこぶいちにちいつぱい
光炎菩薩太陽マヂツクの歌が鳴つた
  (コロナは八十三万四百……)
ああ陽光のマヂツクよ
ひとつのせきをこえるとき
ひとりがかつぎ棒をわたせば
それは太陽のマヂツクにより
磁石のやうにもひとりの手に吸ひついた
p72

3)この「光炎菩薩太陽マヂツクの歌が鳴つた」のところの、光炎菩薩とはなんだろうか。検索してみると、当ブログの「如是経 一名 光炎菩薩大獅子吼経 序品 つあらとうすとら」がトップに躍り出て来る。あ、やはりな、と直感がはたらく。

4)「光炎菩薩大獅子吼経」は、1921(大正10)年10月に登張竹張(信一郎)がニーチェの「ツァラトウストラ」を抄訳と論評をした一冊である。「春と修羅」の中で、賢治のこの文章が書かれたのは1922(大正11)年とされている。

5)宮澤賢治の「春と修羅」は、ニーチェに触発されて書かれたものではなかったか。

6)賢治が東京の国柱会本部を訪れたのは1921(大正10)年1月。トシの急病の報で花巻に帰郷したのは同年8月だった。

7)一方、同じ国柱会の田中智学に傾倒したのが、「文明批評家としての文学者」の中で、ニーチェの思想を個人主義の立場から紹介した高山樗牛だった。

8)太陽からは光や紫外線のほかに、太陽風と呼ばれる高速の電子なども降ってきていて、それがオーロラなどの発生原因にもなている。太陽風が激しくなって太陽風になれば、大規模な停電などを引き起こすことも知られている。賢治はたぶん、そういったさまざまな現象を踏まえたうえで、太陽マジックという言葉をつかっているのだろう。p73「陽光」

9)この本の解説のような捉え方も可能であろうが、むしろここで「光炎菩薩」と明記している限り、ここはニーチェつながりで捉えて、内的な精神活動の発露、とみるほうが正しいのではないだろうか。

10)そう思って検索してみると、中路正恒の 「ニーチェから宮沢賢治へ―永遠回帰・肯定・リズム」という一冊もあるようだ。うん、そうであろう。

11)「詩人は、夢の種さえ植えればいい。 自分で収穫しなくていい。」という考え方があるとすれば、当ブログにおいては、賢治、とりわけ「春と修羅」をニーチェの影響下において発表されたのだ、と捉えたほうが、これまでの流れに即しているし、今後の展開に大きな整合性がでてくる。

12)賢治が「春と修羅」を書き始めたのは、大正11年の1月であり、ヤスと親しくなっていったのと、ときを同じくしている。そしてその出版は大正13年の4月であり、ヤスが渡米する約1か月前のことだ。ヤスとの切ない恋が「春と修羅」を生み、賢治を詩人にしたと言っても、過言ではないのである。p107澤口たまみ「きみにならびて野にたてば---賢治の恋」

13)その名前は大畠ヤス。

14)当時、二人でゆっくりと野山を散策したりするのは、とても難しいことだったかもしれない。けれども私は、「春と修羅」に収められた詩の内容から、大正11年の6月27日、賢治とヤスは二人で北上山地のどこか---おそらくは種山が原あたりを訪れたのではないかと考えている。あれほど自然を愛した賢治が、愛した女性にもその美しさを伝えたいと願うのは、ごく自然な感情ではないだろうか。p111同上

15)著者澤口たまみには「宮澤賢治 愛のうた」(2010/04 盛岡出版コミュニティー)があるが、近隣の図書館に入っていない。

16)むしろわたくしはそのまだ来ぬ人の名を/このきららかな南の風に/いくたびイリスと呼びながら(中略)測量班の赤い旗が/原の向ふにあらはれるのを/ひとりたのしく待ってゐよう

 決して記すことのできない人の名を、賢治は鼻の名前に託して呼んでいる。こんな山中の開拓地でヤスとふたり、慎ましく土を耕して暮らしてゆけたのなら、賢治はほかに、何もいらなかったのだろう。

 「シグナルとシグナレス」にも記されているのだが、賢治とヤスは二人の恋が追い詰められてゆくなかで、どこかで畑でも耕してゆこうと考えたことがあったようだ。p120同上

17)他人の恋沙汰にあれこれ首の突っ込むのは私の趣味ではないが、賢治の作品を理解するうえでは、これらの背景を理解することも大事なことなのかもしれない。しかしだ。他にも「宮澤賢治と幻の恋人 澤田キヌを追って」澤村修治(2010/08)という本もでている。

18)その気になって探してみると、他にも幾人かの女性の影がチラチラする。賢治も、割とポーカーフェイスのプレイボーイだったりしたら、面白いかもな。ないしは、どちらかと云えばタナトスに傾きやすい賢治ワールドだけに、すこしはタントリックな話題でエロスのほうにバランスをとる必要があるだろう。

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2011/12/18

その時、閖上は 小齋誠進写真集

Photo
「その時、閖上は」写真集
小齋誠進 2011/08 有限会社印刷センター P80オールカラー。A4サイズ。税込み1500円。
Vol.3 No.0568

1)いやはや、このような写真集をレインボー評価しなければならないのは、極めて心苦しい。私にとっては、もっとも至近距離にある沿岸部の被災風景である。

2)著者は地震直前に駅からバスに乗り閖上に向かっていた。バスの中で被災し、地震で液状化し、家屋の倒壊した貴重な写真が幾枚も掲載されている。この直後に巨大津波が押し寄せ、その風景も一片に押し流された。ほんの数十分の間の極めて貴重な資料となろう。

3)造り酒屋の酒造店の写真も掲載されている。我が家ではこの町には直接の親戚はなかったが、小学生の頃、この酒造店の酒は、我が家の井戸水で作っていた縁で、遊びに行ったりしていた。あの大きな旧家がこのような状態になっている。

4)こんなこと言ってもしょうがないことだけど、地震だけだったら、被害はかなり限定的になっていたはずである。少なくとも死者は限りなく少なかったであろう。その直後の津波が全てを押し流した。

5)貞山堀そばの同業の事務所では、家族も失い、家も事務所も流された。かける言葉もない。

6)閖上大橋のたもとの五差路付近の風景も絶句する以外にない。同じ時刻ころ、この橋の上流の橋を、私もまた徒歩で渡っていた。道端の車のラジオから漏れてきた三陸地方に津波、という情報は耳に入ったが、まさか、私がいる橋の、ほんの下流に、このような津波が押し寄せているとは、想像もしてみなかった。

7)この写真集は、ほぼ自費出版にような形でだされたものだ。協力者として同窓後輩の市議の名前が載っている。

8)巻末に著者の「閖上4丁目の自宅」として4枚の写真が掲載されている。平成18年5月の改築前の家。平成20年の新築の家。そして今年23年4月の被災後の風景。そして、23年6月には更地になってしまった。

9)被災直後の現場からのデジカメやケータイでの撮影は多いけれど、この写真集はかなり本格的なカメラでの撮影のようだ。ここに掲載されなかった写真もたくさんあることだろう。

10)私にはカメラマンマインドがないので、ほとんど写真は撮影していないが、今から5年ほど前に閖上朝市に行った時に、傍らから朝日を撮影した写真が一枚残っている。私にとっては、被災前の貴重な思い出となってしまった。

Sunrise

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宮沢賢治幻想紀行 新装改訂版 畑山博他


「宮沢賢治幻想紀行」 新装改訂版
畑山博(作家)/石寒太 2011/07 求龍堂 単行本 127p
Vol.3 No.0567★★★★★

1)Vol.3の567番目の登場はこの本となった。新装改訂版となっているから、元本がでたのはいつかとひっくり返してみるが、よくわかない。巻末の「主な参考文献」としておよそ200の文献が列挙されているが、最新のもので平成7(1995)年12月。

2)1904生まれの弟清六が92歳(p27)として紹介されているのだから、やはり95~6年発行の本だと思われる。その本が15~6年の時間を経て新装改訂版として再版されたのは、今年の3.11とは無関係ではない。

3)賢治のふるさと、いわゆる彼のいう理想郷ドリームランド「イーハトーヴ」岩手も被害を受けた。
 そんな東北・宮城の瓦礫の中から一枚の描かれた壁画が遺った。その絵(写真・参照)は、「雨ニモマケズ」の賢治の書いた詩の絵・。宮城県の石巻市の大川小学校の児童たちが描いた壁画である。そこには賢治の「銀河鉄道の夜」の絵も遺こされていた。
p121

Amenimomakezu

4)親戚の小父さんは、この大川小学校出身だ。まともにこの小学校の話題ができない。感情が湧き上がってきて、お互いに話しをすることができないのだ。

5)この本は大判のカラーグラフィックス本だが、「幻想紀行」というタイトルにふさわしく、説明しすぎない写真がゾロっとそろっているので、ファンタジックな賢治ワールドがじわっと広がっていく。

6)そのとき西のざらざらのちぢれた雲のあひだから、夕陽は赤くなゝめに苔の野原に注ぎ、すすきはみんな白い火のやうにゆれて光りました。わたくしが疲れてそこに睡りますと、ざあざあ吹いてゐた風が、だんだん人のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上の山の方や、野原に行はれてゐた鹿踊りの、ほんたうの精神を語りました。p50「鹿(しし)踊りのはじまり」

7)昨日、ひさしぶりに高台にある友人宅を訪れて、彼らの小学生の子供が、低学年の時から地元の「鹿踊り」チームに参加していることを知った。この子ども、生まれた時から知っている。この子が、もう何年も前から鹿踊りを踊っていたのか。

8)センダードの地は、イーハトーブとは地続きの隣町である。ここでも鹿踊りがあるというのは、当然のことだろうが、いくつのも困難な歴史を超えて、今だに保存されていて、県指定無形民俗文化財にもなっている。

9)自分のセロを買いこんで、わざわざそれを持っての何度もの上京。でも、けっきょく最後には、ゴーシュのようにうまくはならなかった。
 東京は賢治にとっては夢の畑。あまりにもやりたいことが多すぎたのだ。
 でもそれでいいのだと筆者は思う。
 詩人は、夢の種さえ植えればいい。
 自分で収穫しなくていい。
p71 「夢の種を播いた場所」

10)たしかにこの本はうまくできている。一冊を持っているだけで、実に縦横に賢治ワールドにアクセスできる。ひとつの曼荼羅化されていると言っていい。

11)ふと思った、賢治ワールドをOsho「私の愛した本」と並べて読み進めるのも可能なのではないだろうか。例えば「よだかの星」「かもめのジョナサン」との繋がりで読むなんてのどうだろう。

12)思えば、「私の愛した本」に登場してくる「ツァラトウストラ」「不思議の国のアリス」、タゴールの「ギーターンジャリ」カリール・ジブランでさえ、賢治ワールドとの繋がりで読み進めることができるかもしれない。

13)「宮沢賢治と云ふ人は何処の人だか、年がいくつなのだか、なにをしてゐる人なのだか私はまるで知らない。しかし、私は偶然にも近頃、その人の『春と修羅』と云ふ詩集を手にした。近頃珍しい詩集だ、----私は勿論詩人でもなければ、評論家でもないが----私の観賞眼の程度は、もし諸君が私の言葉に促されてこの詩集を手にせられるなら直にわかる筈だ。(中略)

 この詩人は、まったく特異な個性の持主だ。芸術は独創性の異名で、その他は模倣から成り立つものだが、情緒や、感覚の新鮮さが失はれてゐたのでは話にならない。(中略)

 若し私がこの夏アルプスへでも出かけるなら、私は”ツアラトウストラ”を忘れても”春と修羅”を携へることを必ず忘れはしないだろう」(辻潤「惰眠洞妄語」) p110「売れなかった二冊の本---『春と修羅』と『注文の多い料理店』」

14)辻潤をして、ここまで激賞させている賢治とは、一体何者だったのだろう。そして、いま、ポスト3.11の2011年、2012年の中で、賢治はどのように立ちあがってくるだろう。そのことに思いを馳せるには、この「宮沢賢治幻想紀行」は、大いに示唆的な一冊だと思う。

15)この本で特筆すべきなのは2点。両親とも宮沢家の出身である、ということと、賢治はまつろわぬ人々の末裔ではない、ということ。

16)賢治の両親は、ともに姓を宮沢という。父方も母方も宮沢家である。祖先をたどってゆくと、一人の人物にで行き当たる。つまり遠縁の一族なのだ。その人物とは誰か。江戸中期の天和・元禄年間に京都から花巻にくだってきたといわれる、公家侍の藤井将監(しょうげん)である。この子孫が花巻付近で商工の業に励んで、宮沢まき(一族)とよばれる地位と富を築いていった。(中略)

 いずれにしても、賢治の祖先は、京都からの移民である。つまり、賢治の中に流れている地は蝦夷以来の、みちのくの土着ではない。天皇を頂点とするクニに反逆する血ではないのだ。p106「生涯」

17)この本の著者たちが、なぜにここを強調したのか、そのことは敢えて深追いしないでおこう。東北ということで、まつろわぬ人々の末裔とみたてようとする潮流もないわけではないが(私もその一人)、そこのところに賢治をおいてしまっては、賢治の意味がなくなるだろう。ここの意味を、もうすこし後で考えてみたい。

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2011/12/17

「2010年」 監督:ピーター・ハイアムズ <3>  

<2>よりつづく 

「2010年」<3>
監督:ピーター・ハイアムズ  1984年製作 米113 min 日本公開1985年
★★★★★

1)またまた、このビデオを見てしまった。「2001年宇宙の旅」の続編。小説ではさらに続編があるのだから、いずれはそちらも読みたいと思いつつ、ついついビデオを見てしまう。

2)ストーリーや配役などはもうどうでもいい。3.11を経過した2011年においても引きこまれてしまう。

3)”宇宙にも生命が”
いつか新しい太陽の子と
古い太陽の子は
友達になるだろう
いつの日か 人は
空を見上げて言う
”我々はこの世界の”
”間借り人にすぎない”
家主は契約更新と
警告を与えてくれたのだ

4)さすがにコンピュータ周りのハード面は古びて見えるが、だからこそむしろHALなどの知性を備えたソフトがいまだに越えられない目標としてあるように思う。

5)自然の中で生き、地球の上に生きていく私たちは、これからどう生きていくのか。そのことをあらためて突きつけられる。

<4>につづく

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2011/12/16

OSHO ZEN TAROT<23> RIPENESS(熟すこと)

 

Zen077ripeness <22>よりつづく

OSHO ZEN TAROT <23>

76. RIPENESS(熟すこと) 

 

 瞑想があなたに、どんな夜にも輝く光をもたらすようになって初めて、死さえもあなたにとっては死ではなく、神性への扉になる。あなたのハートのなかの光で、死そのものがひとつの扉へと変容され、あなたは宇宙のスピリットに入る。

 

 あなたは大海とひとつになる。そして、この大海のような体験を知るようにならないかぎり、あなたは無駄に生きてきたことになる。

 今がつねにその時だ。そして、実はつねに熟している。あなたは勇気をだして、自分の内なる森へと入っていけばいいだけだ。実はつねに熟しているし、機はつねに熟している。今はその時ではないということなどない。
Osho A Sudden Clash of Thunder Chapter 6

 

解説:

 

 果実は熟すと、おのずと樹から落ちます。あるときは樹の枝の生命の糸にぶら下り、活力に満ちたジュースではち切れんばかりですが、次の瞬間には落ちてしまいます——。それは無理やり落とされたり、ジャンプしようとしたからではなく、実が熟したことを樹が知って、ただ落ちていかせたからです。

 

 リーディングでこのカードが現われたときは、あなたには自分の内なる豊かさ、「ジュース」を分かち合う用意ができていることを示しています。あなたがしなければならないことは、まさに自分のいるところでリラックスし、それが起こるのを喜んで迎えることだけです。

 

 この自分自身を分かち合うこと、自分の創造性が広がることは、多くのやり方で訪れます——仕事、関係性、日々の生活体験のなかで。あなたの側で特別な用意や努力をする必要はありません。すでに機は熟しているからです。Copyright © 2011 Osho International Foundation

 

<24>につづく 

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水仙月の四日 烏の北斗七星 宮澤賢治原作 名作ビデオ絵本〜第二期18巻

水仙月の四日

烏の北斗七星
『水仙月の四日』『烏の北斗七星』 名作ビデオ絵本〜第二期18巻
原作 宮澤賢治 ピーマンハウス VHS 50分
Vol.3 No.0566★★★★☆

1)「水仙月」ってなんだろう。ひょっとすると、弥生や睦月や、神無月のように、こう呼ばれる月があったんだっけ。いやいや、そうじゃない。これは賢治がつくった、特別の月だ。

2)今日は雪が朝から降った。先日、ちょっとだけチラチラと来たが、今日こそが、雪らしい雪だったから、初雪と言っていいだろう。

3)ちょっと寒いが、思いきって外にでてみると、割とさわやかなすがすがしさだ。歩きだせば、中から暖かくなり、道端の白さが、さらに新鮮な気持ちに加速をかける。

4)雪を遊ぶ気になれば、いくらでも遊べそうだが、被災地や仮設住宅ではどうなのだろう、と思う。

5)賢治の水仙月には雪が降る。降って降り積もる。ほとんど雪しかない。太陽と、子どもや雪童子と、二匹の犬がいるだけだ。いつのまにか、賢治の世界へと旅している。

6)朗読、五輪真弓。

7)烏のお話。カラスは得手ではない。ずるかしこそうで、カ―カ―うるさい。ゴミ置き場をいつも食い散らかす。

8)だけど、賢治のカラスは、そうでもない。まるで人間のようだ(笑)。サイケデリックと言えば、言えなくもない。

9)このビデオ、先日もそうだったが、今日も、途中で眠ってしまった。以前「2001年宇宙の旅」を見ている時もそうだった。あの映画を通して見ることがなかなかできなかった。10回か20回見て、ようやく一本の映画として見ることができるようになったのではないだろうか。

10)いやいまだって、見逃しているシーンがあるはずなのだ。

11)小さな時、母親に添い寝してもらいながら、いつも同じお話なのに、最後の最後まで聞いたことがなかったことを思い出した。いつも昔話を聞きながら寝てしまうのだ。

12)賢治の世界、とりわけこのビデオは、私にとっては催眠効果があるようだ。

13)太陽と月、森と空、動物たちと、雪や雲や星。そして子どもや村人がすこし登場し、渾然とした世界の中で、賢治ワールドが進行していく。

14)壮大なファンタジーな世界で、輻輳した何かが進行しているようだ。賢治の意思、動物たちへの愛、自然への畏敬。そして、世界全体への憧憬。人生への希求。

15)なかなか一度だけでは味わいきれないものを感じる。

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ポスト3・11の子育てマニュアル 震災と放射能汚染、子どもたちは何を思うのか?冨永良喜他


「ポスト3・11の子育てマニュアル」 震災と放射能汚染、子どもたちは何を思うのか? 
冨永良喜/小城英子他 2011/11講談社 単行本 191p
Vol.3 No.0565★★★☆☆

1)身内の若夫婦は、3.11当時、福島県南相馬市に住んでいた。その後、転勤を機に郡山市に転居したが、震災後も医療機関の有る現地に通って仕事を続けていた。小学低学年と2歳の子供を抱えながら、右往左往してきた姿を見ていて、少なからず心を痛めてきた。

2)先日、こちらであった、母の90歳の誕生会に、その子供たちも参加していた。いろいろ楽しい雑談の中で、お互いの近況を分かち合った。郡山の児童公園も原発からの放射線の影響がつよくでているようだ。

3)2歳と言ってもまもなく3歳になる子供だが、外にでて遊びたくてウズウズしているらしい。時折、「公園のジョセン、終わったかなぁ」と、つぶやくという。

4)2・3歳の子供が、放射線の除染を心配しなくてはならない21世紀に、私たちは生きているのだ、ということを痛感した。

5)この本「子育てマニュアル」とはいうものの、主なるターゲットは小学生以上、時には中学生や高校生以上の「子ども」たちを、教育の研究者たちが断片的に書いている本である。かならずしも、2・3歳の「子育て」のことではない。

6)ましてや、個人的イメージだが、3.11後に出された、このような複数の著者(この本は5人)によるオムニバス形式の本は、いまいち面白くない。突っ込みが足らない。

7)人は絶望から立ち上がることができます。それには、人々の英知を集め、絆を深めて問題に対処することが大事です。
 津波は人のいのちや家屋、そして日々の営みを一瞬にして奪っていきました。しかし、悲しみから逃れるためにアルコールに依存したり、子どもに暴力を振るったりしてはいけません。心まで津波にさらわれてはいけないのです。
p44冨永良喜「人の英知と絆が災害を克服する」

8)長い文章の中の、ごく一部の文章だけを取り出してあげつらうのも、どうかとは思うが、この程度の手を差し伸べただけでは、現地の溺れる人々の手助けにはならない。心理臨床学会理事とか、ストレスマネジメント学会の長を名乗るような人々が、この程度のことしか言えないのか、と、礼を失するとは思うが、言わせていただきたい。

9)人は絶望から立ち上がれないこともある。集めるべき英知など何ひとつ役に立たず、求めても絆など存在せず、ただただ問題に巻き込まれていく、ということもあるのだ。悲しみから逃れるためにアルコールを多用したり、時には家族につらい表現をしてしまうことでさえ有り得ることである。あなたに「いけません」と言われたって、あるものはある。

10)「心まで津波にさらわれてはいけないのです」。もっともそうなお言葉ですが、これは誰が誰に言っている言葉なのだろうか。少なくとも言っている人は、自分の心は津波にさらわれてはいけない、と思っているのだろう。心を津波にさらわれてしまっている人にとっては、ああ、この人はそう言っているのだな、ということは分かるだろう。だが、手助けにはなっていない。

11)この人にとっては、心と津波は対峙するものであって、心は良いものであり、津波は悪いもの、であるようだ。こんな単純な図式では、納得できない。実際はこんなマンガチックなデフォルメでは現地は理解できない。

12)これでは「がんばろうニッポン!」と掛け声をかけているだけだ。

13)以前に、私は知人と別れ際に、「じゃぁ、お元気でね」とあいさつした時のことを思い出した。その言葉を彼女はどう取ったのか知らないが、「そういうことは、私には約束できないな」と返事してきたのだ。きっと、私の言葉を聞き間違ったのだろう、と長いこと思ってきたのだが、いや、彼女こそ、しっかりと私の言葉を聞いて、ズバリその答えを返してきたのではないか、と思う時がある。

14)「こんにちは」とは、「本日のご機嫌はいかがですか?」という意味であり、じっくりとその人と向き合い、ゆっくりとその人のエネルギーを感じるべきだのだ。しかし、日常的には、「こんにちは」というのは、玄関の鍵穴にキーを差し込むような、おざなりなルーティンワークになっていないか。

15)「お元気でね」と別れの挨拶をすることは、決して失礼になっていないとは思うが、本当にまごころからその言葉がほとばしっているかは、微妙なところである。表面だけをとりつくろい、その方の元気であることを願ってはいないことだって、有り得るのだ。

16)「お前なんか死んでしまえ」と、肩を突っつくことが、時には、本当の意味の元気づけになることだって、あるのかも知れないのだ。おざなりな言葉ではなく、本当にその相手に面と向かっているか、本当にオープンハートで対峙しているか、そこのところが問われる。

17)私はそういう意味で、この本は、本当に困っている人、絶望に打ちひしがれている人の役には立っていないと思う。子育てをタイトルにしているが、子について語っているのか、子を育てている若い人たちに語っているのか、明確ではない。むしろ、「専門家」としてのアリバイ証明の為に、一冊、モノした、というニュアンスさえ感じる。

18)大変失礼なモノ言いをしたけれども、文脈上、口当たりのよい文言を並べることだけが、まごころではないのだ、というところを理解していただければ幸いである。このような視点こそが今後大事だからこそ、さらに深化した研究を発表していただきたい。

<2>につづく

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2011/12/15

「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』」<2> NHKテレビテキスト100分de名著

<1>よりつづく 


「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』」 <2> NHKテレビテキスト100分de名著
ロジャー・パルバース 2011/11 NHK出版 ムック 89p

1)なんでこんなに、震災の後の風景に賢治はマッチしているのだろう。言葉にならない、表現をすることさえ臆してしまうような風景を、賢治と一緒なら、なんとか形に名前を与え、動きが、風や、音として再現されてくるようだ。

2)「第1回 賢治の伝言」につづいて、「第2回 悲しみから希望へ」。わずか25分の番組だが、そのコンパクトさがちょうどいい。

3)ロジャー・パルバースの気持ちはどんなものか、といぶかった第1回だったが、次第次第に、賢治と長く生きてきたこの米国出身のオーストラリアの作家、劇作家、の真意が伝わってくる。

4)賢治といると、素直になる。賢治となら、なんだか、この瞬間だけでも、なんとかやり過ごせるような気になってくる。

5)方十里 稗貫のみかも稲熟れて み祭り三日 そらはれわたる 賢治

6)ひとびとの幸いを願った賢治の最後の言葉は、「そらはれわたる」、だった。

<3>につづく

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甦れ!気仙沼港 日本一の漁港を瞼の奥に 吉川順一


「甦れ!気仙沼港」 日本一の漁港を瞼の奥に
吉川順一 2011/11 アートダイジェスト 単行本 131p
Vol.3 No.0564★★★★★

1)気仙沼生まれの70歳を超えたお医者さん。カメラを趣味として、いぜんより魚市場などの風景を撮りためてきた。震災後はなかなかレンズを向けることができなかったようだが、それらを含めて、一冊の写真集になった。

2)私は気仙沼には詳しくないが、2~30年前のある時期、仕事で盛んに気仙沼に通ったことがある。二ヶ月に一度、一週間ほど滞在した。観光ではなかったので、見たいところを十分に見れたわけではなかったが、宿に泊まったり、地域の人々に触れたり、なんともほんわかした時間を過ごしたのだった。

3)子供たちが小学生のころには、気仙沼湾内の大島にキャンプを張ったことがある。今でもアルバムを見ると、一番子育てに熱中している頃で、美しい思い出になっている。

4)個人的なトリップだが、国魂学で、日本列島に世界地図をあてはめてみると、朝鮮半島は牡鹿半島になり、日本列島は金華山に当たると思われる。ところが実際にその地に行ってみると、唐桑半島もまた朝鮮半島に対応しており、そこにある大島もまた日本なのではないか、という直感があった。

5)金華山の超絶した堅さ、孤高さと、気仙沼大島のおおらかさ、まほろば的な柔らかさは、陰陽裏表の関係にあるのではないか、と思われた。

6)酔っぱらった時など、生まれ変わるんだったら漁師になりたい、などとほざいては家族にいつも笑われる。ミミズも苦手で、釣りもあんまりしたことがない自分なので、漁師仕事など出来るわけがないのだが、なぜか自らの対極にあるように思われる漁師仕事に、魅かれていくようだ。

7)「甦れ!気仙沼港」などと、現地の事情もわからない他所の私に言えるわけなどない。そうあって欲しいとは思うが、声を出すことができない。先日も、半年以上過ぎた気仙沼を訪れてきた。通りがかりに気になって古い友人の自宅を訪ねてみた。すでに被災者住宅に移っており、無人地帯になっていたが、そこは3.11のままで、まだ修復も撤去もされていなかった。

8)現地の人から、「甦れ!気仙沼港」という声が上がってくるのは当然だろうし、そうでなければならない。しかし、それをどのような心で発しているかは、そこに住んでいない者にとっては、推し量りようがない。「甦れ!気仙沼港」。そっと私もちいさくつぶやいてみる。

9)巻末に参考資料として結城登美雄の文章が3つ掲載されている。かならずしもこの本のために書かれたものではないが、ここに載るのは彼の文章がぴったりだろうし、また、この文章があったればこそ、この写真集も更に生きる。

10)この本。気仙沼に住んでいる人が作った本だから「甦れ!気仙沼港」となったが、決して一部地域だけを取り立てて語った本ではない。気仙沼沿岸、三陸漁業全般の再生、宮城県沿岸からさらには東北、あるいは日本の第一次産業から、地球全体の人間の在り方を問うている本でもある。

11)いま行き詰った日本みたいな言い方をしますが、何が行き詰ったのか。東北はいま絶望的な状況にあるわけですが、決して行き詰ってはいない。ここからちゃんと立ち上がっていくし、新しい東北をつくり上げていくと思います。

 人間が生きるべき一番大事なものをきちんと示しながらね。それは十分にまだ見えていないけれっど、その姿は次の世代だけでなく、いまの世代も含めての希望になっていくような気がしますね。p126結城登美雄「東北はいつか希望の星となる」

12)むのたけじが96歳の健筆を振るって、「希望は絶望のど真ん中に」と、高々に歌い上げる。彼もまた東北人のひとりだ。比較的被害が少なかったとされる日本海側にありながら、なお、彼は彼の立場からエールを送る。

13)(高橋)純夫さんはある時、私にこう問いかけた。「なぜ宮澤賢治は”雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ”などと言ったのだろうか? 人間は雨や風には勝てないはずなのに。賢治はあの詩を本当は発表したくなかっんじゃないだろうか?」。それほど自然と向き合い、人のありようを考えた「てんばた師」だった。p128結城登美夫「連凧はひとつでもおかしくなると揚がらない」

14)先日12月12日、NHKプロフェッショナル仕事の流儀畠山重篤を取り上げていた。

15)やっと見通しが少し出てきたところだったんです。「森は海の恋人」のスローガンに山に木を植える運動を続け、魚付きの林の再生を進めたカキ養殖の畠山重篤さんたちの努力などもあって、ようやくこうすれば養殖で暮らしを立てていける、いよいよこれからだなと方向も見え始めたときに津波にやられてしまった。

 でも、畠山さんたちは今年も植樹祭をやって、何とか前に進む元気を取り戻し始めたようですよ。p123結城登美雄「東北はいつか希望の星になる」

16)あらためて、この写真集を見るのは悲しい。悲しい風景がいくつも写されている。しかしそれでも、元気だった頃の気仙沼の美しい写真も沢山残されている。

17)甦れ!気仙沼港 日本一の漁港を瞼の奥に! 

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2011/12/14

希望は絶望のど真ん中に むのたけじ


「希望は絶望のど真ん中に」 
むのたけじ 2011/08 岩波書店 新書 190p
Vol.3 No.0563★★★★☆

1)この本のタイトルは、必ずしもズバリと表現しているものとは言えないだろう。反骨のジャーナリスト、むのたけじ、最新のメッセージがこの本に込められている。その本にタイトルを与えるとすると、こうなった、ということだろう。

2)この人の名前が武野武治と書いて、むのたけじ、と読むのだ、と初めてわかった(p81)。

3)「戦争絶滅へ、人間復活へ」から3年。ますますご健康であられることをまずは喜びたい。先日、わが母親の90歳の誕生会が行われた。昔の記憶は明瞭で、思考も理路整然としてはいるが、すでに視力が低下し、体力は介添えなしには生活は不自由という状態だ。それに比すと、96歳の著者のなんとご健康なことか。

4)松原泰道師の「きょうの杖言葉一日一言 百歳の人生の師からあなたへ」(2006/12)も驚きつつ感謝した一冊だったが、著者のこの最新のメッセージも感謝しつつ受け取らざるを得ない。、

5)タイトルは、すぐに魯迅を下敷きにしているとわかる。魯迅を「師」であるとの感銘をうけつつ読み続けてきた著者だが、次のように言い放つ。

6)たった一つ、何としても私の受け付けない文章がある。「野草」という文章の中の「希望」と題した文章で、魯迅さんは40歳代半ばの自身と周囲の社会状況について明暗の交錯する思いをポエムのように述べたあと、ハンガリー詩人の一句を引用して「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」と言った。

 これに私の脳細胞が反発した。「魯迅さんよ、絶望も希望もウソだというのですか。それならそうと断定して、人生の大切な問題を希望だの絶望だのと形容詞のような名詞なんかで考えないで、スバリその実体と格闘したら、と言ったらどうですか」と反発した。

 以来、この一句をめぐって魯迅さんとの対論、討論を繰り返したあとで私自身は「希望も絶望も共にホント」と認識し、更に経験と省察を加えて、この本のタイトルに掲げた判断に到達した。p173「足元から世界を耕す」

7)私自身はこの言葉に出会ったのは16歳の高校生の時だった。70年安保の「敗北」ムードの中で、「朝日ジャーナル」の中で語られていた。当然、意味不明と感じたし、反発もした。しかし、次第にその意味することを解した。

8)「ジャーナリズムはとうにくたばった。死んだものは生き返らせることはできないけれど、ジャ―ナリズムを死なせておけば社会そのものが死んでしまう。だからみんなで大奇跡を起こしてジャーナリズムを生き返らせるためにいのちがけでがんばろう、と集まったのではないか、現状認識をごまかしてはだめだよ」p3「歴史の歩みは省略を許さない」1991年のジャーナリストたちの集まりの講演で

9)この本がでたのは3.11の後のことだが、この方の「絶望」は、3.11での被災ではない。原発の問題でもない。この方の絶望の第一ターゲットは「戦争」である。その「戦争」を無くすことのできない「国際政治」や「人間」に、絶望する。

10)そして、その絶望のど真ん中から、「希望」を立ち上げようとする。

11)物書きは、自分の文章が多くの人たちに読まれたら、無論うれしいに決まっているが、それは私は望まない。望むのは、確実に一人の人に読まれることだ。そして、その人と私との思いの交流が起こったら、連帯の始まりだ。

 そして一と一との一個の連帯が生まれたら、同様の出産があそこでも、ここでも、あちらでも続く。それが今日以降の歴史の特徴です。

 みんなの問題をみんなで協力して解決するという、全く初めての課題に、いま人間たちの誰もが試されつつある。みんなでみんなの「合作」を固めるため、一と一とのつながりが核として大切です。p169「足元から世界を耕す」

12)詩的表現としては理解できるが、「確実に一人の人に読まれる」ということを期待することは可能なのだろうか。あるいは「一と一との一個の連帯」が生まれる、ということを「希望」することは可能なのだろうか。

13)人生の先輩であり、日本ジャーナリズムの泰斗として拝する著者に対して、はなはだ無礼ではあるが、私は「否」と答えたい。むしろ、今の私は魯迅の「絶望の虚妄なることは、まさに希望と相同じい」という言葉のほうを「諒」とする。

14)ジャーナリズムに人生をかけたジャーナリストが、絶望しつつなお希望を探しだそうとし、戦争に反対してきた人間が、人間界から戦争をなくすことはできる、と前途を見い出そうとすることは、あり得ることであるし、また、もっとも人間らしい姿とも言える。

15)これ以上書くのは、自分でも悲しいが、ジャーナリズムには限界があり、また、人間界からは戦争はなくならないのではないか、と、今の私は思っている。

16)それならば、私の人生は一体なんであったのか。私はジャーナリズムに自分の人生を賭けることしなかったし、敢えて反戦を絶対唯一の人生の目的にはしなかった。

17)著者は、同じ東北人ながら、秋田県横手市を自らの場として選んで後半生を生きてきた人ではあるが、一個の人間であり、尊敬すべき地球人としての先達である。彼の視座から見える世界を、96歳という存在が語っている。そのことに対しては、心より敬服の意を表したい。

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2011/12/13

よだかの星 虔十公園林 名作ビデオ絵本 宮沢賢治

よだかの星
虔十公園林
『よだかの星』 『虔十公園林』 名作ビデオ絵本 第二期16巻
作:宮沢賢治 朗読:左時枝 絵:伊藤正道 朗読:新沼謙治 絵:若林常醉 企画:中田実紀雄 1993 VHS 50分 編集:NHK 制作協力:NHKエンタープライズ 企画・制作・発行:株式会社ピーマンハウス 発売元:株式会社放送映画製作所 
Vol.3 No.0562★★★★★

1)「よだかの星」は、なんだかイジメのお話のようで、ちょっと悲しくなった。あれじゃぁ、誰だって、星になりたくなってしまう。だけど、星になるのだって大変だ。何年もかかるし、金もかかる。だけど、「よだか」と呼ばれた「みにくい鳥」はついに星になる。

2)「虔十公園林」の虔十(けんじゅう)とは、宮沢賢治のけんじをもじったものだったのではないだろうか。なるほど、賢治はまさに虔十そのものだったのかもしれない。杉など植えても大きくなるはずのない粘土の土地に、700本の杉を植えた。

3)知っているはずだと思っている賢治のお話なのだが、ビデオの絵本となり、左時枝や新沼謙治のナレーションで賢治の世界に入ると、また新たなる感動が湧きおこる。

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2011/12/12

ポラーノの広場 宮沢賢治<3>

<2>よりつづく

Ginga
「銀河鉄道の夜,風の又三郎,ポラーノの広場 ほか3編」 <3>
宮沢 賢治 (著), 天沢 退二郎 (編さん) 1971/07 講談社文庫 文庫: 392p
★★★★★

1)「そうだ、ぼくらはみんなで一生けん命ポラーノの広場をさがしたんだ。けれども、やっとこのことでそれをさがすと、それは選挙で使う酒盛りだった。けれども、むかしほんとうのポラーノの広場はまだどこかにあるような気がしてぼくは仕方ない。」

「だからぼくらは、ぼくらの手でこれからそれを拵(こしら)えようではないか。」

「そうだ、あんな卑怯な、みっともない、わざとじぶんをごまかすような、そんなポラーノの広場ではなく、そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えば、もう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢がよくて面白いような、そういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう。」

「ぼくはきっとできるとおもう。なぜならぼくらがそれをいまかんがえているのだから。」p164

2)今年の漢字は「絆(きずな)」に決まったという。石川裕人戯曲「絆の都」を思い出した。

3)そして8月30日の午ごろ、わたくしは小さな汽船でとなりの県のシオーモの港に着き、そこから汽車でセンダードの市に行きました。31日わたくしはそこの理科大学の標本をも見せて貰うように途中から手紙をだしてあったのです。p143

4)センダードはイーハトーブの隣の町だ。当ブログのカテゴリ「センダード2012」は、どうやら2012年に届く前に終了することが決定的になったので、「センダード2011」と改称した。

5)まだ見ぬ未来に何かの夢を持ってこの場を過ぎ去ろうとするのか。あるいは、今こそ、ここから、さらなる別な世界へと飛び立つのか。

6)「つめくさの花の 咲く晩に
ボランの広場の 夏まつり
ポランの広場の 夏のまつり
酒を呑まずに 水を呑む
そんなやつらが でかけて来ると
ポランの広場も 朝になる
ポランの広場も 白ばっくれる。」 
p122

「つめくさの花の かおる夜は
ポランの広場の 夏まつり
ポランの広場の 夏のまつり
酒くせのわるい 山猫が
黄いろのシャツで 出かけてくると
ポランの広場に 雨がふる
ポランの広場に 雨が落ちる。」
 p123

7)センダードあすとナーガの仮設住宅の「人や銀河や修羅や海胆は」 TheaterGroup“OCT/PASS”公演の時、役者たちが、アコーディオンの伴奏で、この歌を歌いながら、仮設住宅の皆さんに振れ回っていた。♪ポランの広場の 夏まつり~ なんだか今でも耳に残っている。

8)芝居や演劇を通して何かをする、というのではなく、演劇空間は、そのまま、ひとつのほんとうのポラーノの広場なのではないか。

9)そこが、ポラーノの広場でなければ、そこにポラーノの広場を見れなかったら、それは演劇空間ではないのではないか。

10)センダードあすとナーガに、ひとつのポラーノの広場を見つけることができなかったら、いったい私はどこにポラーノの広場を見つけることができるだろう。

11)賢治や、演劇、というものの楽しみ方が、すこしわかってきたような気がする。

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2011/12/11

OSHO ZEN TAROT<22>TOTALITY(全一性) 

Zen043totality <21>よりつづく

OSHO ZEN TAROT <22>

42. TOTALITY(全一性)

 

 全一(トータル)でありうる可能性はあらゆる瞬間ごとにある。なにをやっていようとも、心(マインド)がなにも考えなくなるほどただそこに在り、まさに現存にすぎなくなるほど完全にそのなかに没頭するがいい。

 

 そうすれば、全一性(トータリティ) はますますやって来るようになる。そして、全一性のその味が、さらにもっと全一になる力を高めてくれる。

 そして、自分が全一でないときは、それを見ようとしてごらん。こうした瞬間は、少しずつ少しずつ落とされなければならない。あなたが全一でないとき、あなたが頭のなかにいるとき ——考え、くよくよ考え、打算的になり、ずる賢くなっているとき、あなたはきまって全一ではない。

 

 徐々にこういった瞬間から抜け出すがいい。それは古い習慣にすぎない。習慣はなかなか死なない。だが、死ぬことは確かだ——辛抱強くつづけたら、習慣は死ぬ。Osho Take it Easy, Volume 1 Chapter 12 

 

解説:

 

 この三人の女性は空中高く、楽しげで自由で、それでいて油断なく、互いを信頼し合っています。空中ブランコの演技では、一瞬の間といえ「ぼんやり」することは許されません。ここでは、この、現在の瞬間に完全に注意を集中しているという質が表わされています。

 

 いっぺんにやるには、やることが多すぎると感じるかもしれませんが、ひとつの仕事全体を取り上げていっぺんにやってゆく代わりに、ここを少し、あそこを少しやろうとしたのでは、結局はなにもできずに行き詰まってしまいます。

 

 あるいは、自分の仕事は「退屈」だと思うこともあるでしょうが、それは、なにをするかが問題ではなく、どうやるかが問題なのだということを忘れているからです。

 

 やって来るすべてのことに対して、その来るがままに全面的に応じるコツを覚えることこそ、あなたが自分に与えることのできる最大の贈りものです。

 

 一度に一歩ずつ生を歩むこと、一歩ごとに欠けることのない注意とエネルギーを注ぐことが、あなたのするすべてのことにびっくりするほどの新しい活力と創造性をもたらします。Copyright © 2011 Osho International Foundation 

 

<23>につづく

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2011/12/10

プロフェット(予言者)<7>メタ入れ子曼荼羅(暫定版)

<6>よりつづく 

Photo
「プロフェット(予言者)」<7>
ジブラーン (著)小林薫(翻訳) 1972/06 ごま書房 単行本 228p 
★★★★★

1)Osho「私の愛した本」から敢えて「入れ子曼荼羅2011をつくってみた。

Q2Q6Q5
Q9Q1Q3
Q8Q7Q4

2)そして、その中心にカリール・ジブランを置くとするなら、ちょうどうまい具合に9つのタイトルが登場していたので、そこからさらに「メタ入れ子曼荼羅2011」(暫定版)をつくってみた。

「大師の声」 「思想と瞑想」 「狂人」
「漂泊者」 「預言者」 「人子イエス」
「霊の言葉」 「預言者の園」 「散文詩集」

3)殆どは未読ないし、未精読だが、暫定的とは言え、その中心にくるのは「預言者」であることは間違いないだろう。

4)それなら、「預言者」の中には25タイトルがあるわけだが、このタイトルから更なるメタメタ入れ子曼荼羅をつくることは可能であろうか。

5)この本を読む場合、私は、「序章 船来る」と、「終章 別れ」は、他のタイトルに劣らずに素晴らしい要素であると思う。そして、一番、印象に残るのは「愛について」であろう。これで、9つのうち3つのマスは埋まってしまう。

6)残るは6つだが、ここは暫定的に敢えて、残る24タイトルから6つを選びだし、更なるメタ入れ子曼荼羅を作ってみる。

 美について     別れ  死について
友情について   愛について 自由について
話すことについて   船来たる 理性と情熱について

7)この曼荼羅というべきか、魔方陣と呼ぶべきか、ひとつの図式をつくる場合、27の選択肢をどのように組み合わせるかは、それぞれのパーソナリティやタイミングにより、相当の違いができるはずである。

8)だが、まずは、今日のところはこのメタメタ入れ子曼荼羅が一つの宇宙観ということになるだろう。この試行錯誤は、今後も折を見て、繰り返してみる必要がある。

9)そして、さらには、その中心に来たもの、つまり、今日であれば、「愛について」を更にウルトラメタメタ入れ子曼荼羅化することが可能なはずなのだが、ここからはもうすでに実用的なものではなくて、一つのパロディにさえなってしまうだろう。

<8>につづく

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2011/12/09

私の愛した本 OSHO<83>入れ子曼荼羅2011 

<82>からつづく 

Photo
「私が愛した本」 <83>
OSHO /スワミ・パリトーショ 1992/12 和尚エンタープライズジャパン 単行本 269p
★★★★★

 「Books I Have Loved登場回数の多い著者ベスト10」を使って、「入れ子曼荼羅2011」をつくってみた。

Q2Q6Q5
Q9Q1Q3
Q8Q7Q4

------------

第1位 カリール・ジブラン
「預言者」
「人の子イエス」
「大師の声」
「漂泊者」
「狂人」
「思想と瞑想」
「散文詩集」
「霊の言葉」   
「預言者の園」 

第2位 P・D・ウスペンスキー 
「テルティウム・オルガヌム」
「奇蹟を求めて」
「宇宙の新モデル」
「人間の未来の心理学」 

第3位 J・クリシュナムルティ
「大師の御足のもとに」
「最初にして最後の自由」   
「生と覚醒のコメンタリー」   

同3位 トルストイ

「復活」
「戦争と平和」
「アンナ・カレーニナ」 
     

同3位 ウィットゲンシュタイン
「論理哲学論考」
「哲学的考察」 
「哲学探究」 

同3位アラン・ワッツ
「タブーの書」 
「禅の道」
「This is It」

第7位 J・I・グルジェフ
「森羅万象」
「注目すべき人々との出会い」

同7位 フリードリッヒ・ニーチェ 
「ツァラトゥストラはかく語りき」
「権力への意志」   
 

同7位 F・ドストエフスキー
「地下室の手記」
「カラマゾーフの兄弟」

同7位 アジット・ムケルジー
「タントラ美術」
「タントラ絵画」 

同7位 ルイス・キャロル  
「不思議の国のアリス」
「鏡の国のアリス」 

同7位 ユベール・ブノア
「手放し」
「至高の教義」

 
同7位 アーヴィング・ストーン
「生への渇望」
「苦悶と歓喜」

 
同7位 カール・マルクス
「資本論」カール・マルクス
「共産党宣言」エンゲルスと共著

 
同7位 D・H・ロレンス
「精神分析と無意識」
「不死鳥」 

同7位 バートランド・ラッセル
「西洋哲学史」
「プリンキビア・マテマティカ」ホワイトヘッドと共著 

同7位 マルティン・ブーバー
「ハシディズムの話」
「我と汝」

 
同7位 アディ・シャンカラチャリア
「ヴィヴェク・チュダマニ」
「バージ・ゴヴィンダム・ムードゥ・マテ」

同7位 タラン・タラン
「シュンニャ・スヴァバーヴァ」
「シッディ・スヴァバーヴァ」

<84>につづく

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地球人スピリット宣言草稿<16>メタ曼荼羅 地球人スピリット・ジャーナル2011 

<15>からつづく 


「地球人スピリット宣言草稿」 
<16>メタ曼荼羅 地球人スピリット・ジャーナル2011 

4,78
596
21r3

<17>につづく

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OSHO ZEN TAROT<21> REBIRTH(再誕生)

Zen068rebirth  <20>よりつづく

OSHO ZEN TAROT <21>

67. REBIRTH(再誕生)

 

 禅では、あなたはどこからも来ていないし、どこにも行かない。あなたはまさに今、ここに在る。来ることもなければ、行くこともない。あらゆることが、あなたのそばを通りすぎていく。あなたの意識はそれを映しだす、が、それと一体化することはない。

 ライオンが鏡の前で吠えると、その鏡も吠えると思うかね? あるいは、そのライオンが行ってしまい、子どもが踊りながらやって来ると、鏡はライオンのことなどすっかり忘れて、その子といっしょに踊りだす——鏡は子どもといっしょに踊る、そう思うかね? 鏡はなにもしない、ただ映しだすだけだ。

あなたの意識は鏡にすぎない。
あなたは来ることもなければ、行くこともない。
ものごとは来ては去っていく。
あなたは若さを迎え、年を取る。あなたは生き、死んでしまう。
こうした状態はすべて、意識の永遠のプールに映しだされたものにすぎない。
Osho Osho Live Zen, Volume, 2 Chapter 16

 

解説:

 

 このカードは、フリードリッヒ・ニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』で述べている意識の進化を表わしています。彼は駱駝(らくだ)、ライオン、子どもという三つのレベルを語っています。

 駱駝は眠たげで、怠惰で、自己満足しています。自分はお山の大将だと考えて妄想の世界で生きていますが、実は、あまりにも他人の意見を気にしすぎて、自分自身のエネルギーはほとんどありません。

 その駱駝から現われ出るのがライオンです。これまでずっと生を見逃してきていたことがわかったとき、私たちは他人の要求に対して「ノー」と言いはじめます。集団から抜け出し、独りで、誇り高く、自分たちの真理をうなりをあげて吠えるのです。しかし、これで終わりではありません。

 最後には、おとなしく従うこともなければ反逆することもなく、それでいて無垢で、自発的で、自分自身の実存に真実である子どもが現われ出ます。

 

 まさに今、あなたがどのようなスペースにいようとも——眠くて憂欝であろうと、あるいは吠えながら反逆していようと——それを許しさえすれば、それはなにか新しいものへと進化していくのだということに気づいていましょう。Copyright © 2011 Osho International Foundation 

 

<22>につづく

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2011/12/08

「スピノザとわたしたち」 アントニオ・ネグリ<1>


「スピノザとわたしたち」 <1>
アントニオ・ネグリ/信友建志 2011/11 水声社 単行本 217p
Vol.3 No.0561★★★★☆

1)仕事のついでに街中の大型書店をウォーキング。いやはや、世の中にはずいぶんいろんな本があるものだ。これだけあれば、これらの本を一生かかっても読み切るなんてことはできないだろう。もっとも、本当に読みたい本などというものは、それほど多くはない。

2)マンガはほとんど読まないし、レデイス向きの本や専門技術の本もそれほど読まないだろう。週刊誌は立ち読みまでして読まないし、学習参考書などは更に読まない。新書や文庫も、面白いのだが、本当に関心のあるのはごく一部だ。

3)そうなってくると、たくさんあるように思える書店の本だが、今日いま読みたいなぁ、と思える本はそれほど多くない。ほんの数冊だ。

4)この書店は、震災で壊滅し、集合ビルの高層階から、近くのビルの地下に移動してきた。ここのいいところは、立ち読みならぬ、座り読みができるように、椅子が用意してあること。だから、ちょっと興味ありそうな本は、書店にいるうちに大体読めてしまう。

5)当ブログが図書館の本にこだわってきたのは、自宅の本をもう増やしたくないからだ。もう書店で座り読みで終わればそれでいい。

6)そういう範疇でいうと、アントニオ・ネグリの「スピノザとわたしたち」は、書店内で座り読みするか、自宅までお持ち帰りするか悩む本。最寄りの図書館にはまだ入っていない。ひょっとすると、当面入らないかもしれない。

7)ただ、よくよく考えてみると、この本は、当ブログで読み進めるかどうかは、極めて厳しい分岐点の上にある。

8)当ブログの統合のプロセスにおいて、「ダイジェスト」の編成や「統合目次」の再編集をしていると、いままで「マルチチュード」「スピノザ」というカテゴリを作ったり、「マルチチュード2008」という曼荼羅まで作ってきておきながら、なかなか読み込みが進まなかった、ということを痛感する。

9)読解力がない自らの読書力をなげくしかないが、それであったとしても、この魅力ある道をなかなか進めなかったのは、それなりの理由があった。

10)政治、哲学、難解、頭志向、という方向は、どうも当ブログ向きではない。

11)非政治的、反哲学的、平易、ハート志向、というのが当ブログの方向性であるようだ。

12)そう思いつつも、この本は魅力ある。ネグリがいうところの「マルチチュード」を、他の何か、例えば「ネオ・サニヤス」とか、あるいは当ブログがいうところの「地球人」という単語に置き換えてみると、これがなかなか魅力的なのである。なんともうまくハマるところがたくさんある。

13)いずれゆっくり読み込むこともあるだろうが、それは、方向性が違うのだ、ということの確認になるだろう。だから、今日のところの座り読みは、この本は一つの「回答」でもあった。当ブログは、ネグリのいうところのマルチチュードの方にはいかないという、反語的な結論であった。

<2>につづく

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2011/12/07

「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』」<1> NHKテレビテキスト100分de名著


「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』」 <1> NHKテレビテキスト100分de名著
ロジャー・パルバース 2011/11 NHK出版 ムック ・ページ数: 89p

Vol.3 No.0560

1)あまりテレビも見ないので、こういう番組があることを知らなかった。バックナンバーを見て、「ツラトゥストラ」とか「ブッダの『真理の言葉』」などがあることを知った。ちょっと見には難解に思えるテーマも、このようにテレビ番組にしてくれると、とっかかりやすい。

2)25分づつで4回で100分。この宮沢賢治編は、「銀河鉄道の夜」をすでに5回の英訳をして、欧米に賢治を紹介してきたロジャー・パルバースがメインゲストだ。簡略化されているとは言え、お茶の間で、家族で見る番組としては素晴らしい。

3)4回シリーズの1回を見ただけだが、なるほど、と思えることがいくつもあった。「銀河鉄道の夜」のカンパネルラとは、妹トシとの繋がりがあったとは、なるほど、気がつかなかった。

4)賢治の英訳は、ゲーリー・スナイダー「奥の国」(1967)で手掛けてはいるが、その後、パルバース等の仕事があったとしても、必ずしも世界的にポピュラーな作家ではないだろう。いやいや、このテキストにおいては、賢治は日本ですらポピュラーでなかったことを指摘している。

5)1996年の賢治生誕100年において、ようやく賢治の全体像が見えてきたのではないか、とパルバースは言う。

6)いま賢治がいきていたら、どうしただろうか、という質問にパルバースは、「悲しみを受けとめ どう未来を 前向きに生きていくか」を伝えようとするのではないか、と答えた。

7)残り3回が楽しみである。

<2>につづく

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2011/12/06

OSHO ZEN TAROT<20> HEALING(ヒーリング)

 

 

Zen028healing <19>よりつづく

OSHO ZEN TAROT<20>

27. HEALING(ヒーリング)

 いや、あなたは自分の傷を持ち歩いている。エゴと共にあれば、あなたの実存全体が傷だ。そして、あなたはそれを持ってまわる。誰もあなたを傷つけることになど興味はない。誰もあなたを傷つけようと積極的に待ち構えているわけではない。

 誰もが自分自身の傷を守ることに忙しいのだ。いったい誰がそんなエネルギーを持っているかね? だが、それでも、それは起こる。傷つけてほしいといわんばかりに、まさにその準備を整えて、あなたがぎりぎりのところでなんでもかまわず待っているからだ。

 タオの人に触れることはできない。なぜ? 触れられる人がいないからだ。傷がない。その人は健康で、癒され、全一なのだ。この「全一(ホール)」という言葉は素晴らしい。

 「癒す(ヒール)」という言葉は、この「ホール」から来ている。そして、「神聖な(ホーリー)」という言葉も「ホール」から来ている。その人は全一(ホール)で、癒され(ヒールド)、神聖(ホーリー) なのだ。

 自分の傷に気づいているがいい。それが成長するのを助けてはいけない。癒されるのを許すがいい。そして、それが癒されるのは、あなたがその根のところに動いて行ったときだけだ。頭がなければないほど、傷は癒される。頭がなければ、傷はない。

 頭のない生を生きるがいい。全体的な実存として動き、ものごとを受け容れるがいい。ちょっと24時間、試してごらん——完全に受け容れること、なにが起ころうとも。誰かがあなたを侮辱する、それを受け容れる。

 

 反応せずに、なにが起こるか見てごらん。突然、以前には感じたことのなかったエネルギーが自分のなかを流れているのをあなたは感じるだろう。Osho The Empty Boat Chapter 10

 

 

 

解説:

 

 深く埋もれた過去の傷が表面に現われてきている時です。癒される用意を整えて、その場にいましょう。このカードの人物は裸で傷つきやすく、<存在>の愛にあふれたタッチに開いています。

 

 からだのまわりのオーラは光に満ち、まわりを包むくつろぎ、心づかい、そして愛の質が、彼の闘いと苦しみを溶かしさっています。肉体と、微細なエネルギー体——私たちひとりひとりを取り巻いていると癒し手(ヒーラー) たちが言う、その微細なエネルギー体のまわりには、光の蓮(ロータス) が現われています。

 

 この微細な層のそれぞれにヒーリング・クリスタルやヒーリング・パターンが現われています。「水のキング」のヒーリングを受けていると、私たちはもはや自分からも他人からも逃げ隠れしません。

 

 開き、そして受け容れているというこの態度があれば、私たちは癒されますし、ほかの人たちも健康で全一であるように助けることができます。Copyright © 2011 Osho International Foundation 

 

<21>につづく

 

 

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地球人スピリット宣言草稿<15>当ブログにおけるタントラの現況 

<14>からつづく


「地球人スピリット宣言草稿」 
<15>当ブログにおけるタントラの現況

1)「<1.0>&<2.0>統合版目次」、あるいは「曼荼羅の統合に向けて」 の編集過程において、いくつか気付いたことがある。

2)実に雑然とした読書であったなぁ、とは思うが、さすがに2600冊を読みこむ過程においては、それなりに整理をしないと、ただただ散らかしただけになってしまうので、いくつも工夫がされていたことをあらためて確認した。

3)カテゴリ別に集めたり、108でカテゴリをひとくくりしたり、ボリュームを1024に抑えて、新たな気分で再スタートを繰り返したこと。そして、曼荼羅という当ブログ独特のやり方で統合を随時試みてきたのだった。

4)「統合版目次」も最初はかなりでこぼこだったが、編集を続けていくと、いくつかのポイントが見え始め、集約すべき方向性も見えてきた。

5)ひとつにはブログとしての自己撞着はしかたないとしても、やはりOshoにかかわるテーマが圧倒的に多い、ということがわかる。さらに、その編集過程においては、「曼荼羅」という作業を繰り返している。

6)過去6年間で6個の曼荼羅ができているわけだが、かならずしもそれぞれ独立したものではなく、後に作ったものは以前に作ったものを吸収統合する形で進行している。同様であれば、現時点における最新版のものをいくつか作らなければならないようであるので、そのうち機運が盛り上がったら、最新のものをいくつか作ってみたい。

7)そして、北極星としてのZENを定め、当ブログにおけるZENの現況を振る返ってみたりした。そしてあらたに当ブログにおける「チベット密教」の意味の重さを再確認した。

8)禅を敢えてZENとしたように、チベット密教をこのままのネーミングで維持していくことに、やや違和感を感じる。地域や日本的呼称にこだわりすぎることになりはしないか。そこで一案、今後はこの「チベット密教」という単語で維持してきた意味を、今後は「タントラ」という呼称に変えようと思う。

9)そうすると、「チベット密教」は、地域性や歴史性から解放されて、「タントラ」として、現代人にとっての新たな意味を持ち始めるようである。

10)また、北極星としてのZENという言い方があるとするならば、当ブログにおいては、「龍としてのタントラ」、という捉え方はどうだろう、とイメージが湧いてきた。今後、この点については熟考してみよう。

11)そもそも読書でタントラを追いかけるというのもチグハグではあるのだが、まずは読書ブログとして思うことは・・・。

a)ヴィギャン・バイラブ・タントラ再読

b)ヴィギャン・バイラブ・タントラ カードの再確認

c)「Oshoタントラを語る」再読

d)「ミラレパの十万歌」の完読

e)ツォンカパ再追っかけ?

12)いまさら、追っかけというのも変な話しだが、再認識、捉え直し、というニュアンスだろう。

<16>につづく

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地球人スピリット宣言草稿<14> 曼荼羅の統合に向けて

<13>からつづく 


「地球人スピリット宣言草稿」 
<14> 曼荼羅の統合に向けて  (編集中)    

9)読書マンダラ2006~10

200610_3

8)第三の波プロジェクト曼荼羅2010

Photo_3

7)曼荼羅プロジェクトG.O.D 2009  

        空  間  軸  
        G 不可知   O 未 知   D 既 知
G 未 来 集合的宇宙意識 ブッダ達の心理学 菩薩としてのウェブ
O 現 在 死者の書と死の世界 私が愛した本 ブログ・ジャーナリズム
D 過 去 アガルタ探検隊 新しい地球人 ネット社会の未来

6)このカテゴリこの三冊曼荼曼荼羅2009

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5)agarta-david mandala 2008 

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4)Jurnal of Earth Spirit 両部マンダラ2008 

   胎蔵mandala.jpg金剛界mandala.jpg

3)曼荼羅マルチチュード2008

2008

2)地球人スピリット・ジャーナル曼荼羅2007

           2001年宇宙の旅.JPG
 アガルタ.JPG 地球人スピリット.JPG シンギュラリティ.JPG
 レムリア.JPG ブッタ達の心理学.JPG 2ndライフ.JPG
 チェロキー.JPG マルチチュード.JPG ネット社会と未来.JPG
             ブログ・ジャーナリズム.JPG

1)OSHO/gnu0.0.2のための21冊 2007

21世紀への指導原理 OSHO.JPG和尚の超宗教的世界.JPG和尚、禅を語る.JPG和尚、性愛を語る.JPG
和尚、聖典を語る.JPG現代社会とスピリチュアリティ .JPG湧き出ずるロータス・スートラ.JPGフリーソフトウェアと自由な社会.JPG
アメリカへの道.JPG和尚との至高の瞬間.JPG一万人のブッタたちへの百話.JPG和尚と過ごしたダイアモンドの日々.JPG
大いなる挑戦 黄金の未来.JPG新人類.JPGMy Life in Orange.JPGBODY MIND BALANCING.JPG
反逆のブッタ.JPGマイトレーヤ.JPG私が愛した本.JPG存在することのシンプルな感覚.JPG
存在の詩.JPGbook unkown.JPG 

<15>につづく

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2011/12/05

シンクロニシティ F.デヴィッド・ ピート

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「シンクロニシティ」
F.デヴィッド・ ピート (著), 管 啓次郎 (訳),1989/07 朝日出版社単行本: 343p
Vol.3 No.0559★★★★☆

1)この本を手に取ったのは、石川裕人「時の葦舟」の巻末に、引用作品として、この本が明示されていたからである。巻頭のノーバート・ウィナーは「サイバネティクス」の提唱者であることは分かった。しかし、ピートとは何者?

2)ということでF・D・ピートの名前で検索して、お手軽そうなブルーバックス「超ひも理論入門」という本を借り出してみた。読み始めはまずまずだったのだが、これを上下巻読み込むとなると、ちょっとタイムリーじゃないなぁ、と途中で放棄。メモすることさえ憚れるような結末となっていた。

3)ウィナーといいピートといい、これは全然、当ブログとの縁は薄いのではないだろうか。と青息吐息になっていたところ、表題通りの「シンクロニシティ」を見つけて、ようやくほっとした。うん、これなら、すこしづつ当ブログとのシンクロを確認することができるかもしれない。俄然、希望が湧いてきた。

4)私が、シンクロニシティ、という単語に持っているイメージは、この本の内容とそう違うことはない。ユングがでてきて、集合的無意識がでてきて、ということで、なるほど、こういう本を下敷きにして、かの戯曲作家はあのシナリオを書いたのだ、ということが分かればいい。

5)ニュートンのおかげで、わたしたちはいま、木からおちるリンゴには引力がはたらき、秒速32フィートでリンゴを加速しているということを、しっています。p73「機械論的宇宙」

6)物理学関係の本を読めば、ニュートンという名称は無尽蔵にでてくる。ニュートンなくしては物理学が成立しないかのようだ。なにげなく過ぎてしまうこの名前だが、かの作家にとっては、度重なるこの名称の登場はどういう意味を持っているであろうか。

7)かの戯曲集の発行者はNewton100となっている。ニュートンの100作目を記念して、という意味であろうが、とにかく、かの作家のニックネームは小学校の時からニュートンなので、それ以上呼びようがない。

8)そんなことを意識しながら、戯曲集第一作「絆の都」を再読した。賢治が出てきて、熊楠(桜)がでてくる。コンピュータ・テクノロジーがでてきて、タクラマカンがでてくる。ガイガー・カウンターもでてくる。上演されたのは1991年のことだが、時代設定は「未来」なのであり、2068年のようでもあり、2275年のようでもある。僅か2時間ほどの芝居ではあるが、時代設定がなかなか忙しい。

9)この他、引用作品には、トールキンの「指輪物語」も明示してあり、「指輪物語」など未読の当ブログにとっては、ますます遠のくばかり。一体、この戯曲集をどのようなとっかかりで読み始めたらいいのだろう、と迷う。

10)大体において、この芝居のテントに足を運んだ人たち(私もそのひとりだが)は、このような伏線なり予備知識を持ってあの芝居を見ているのだろうか。私はそう言った意味ではまったく予備知識が不足している。ただただ、役者たちの動きに圧倒されながら、2時間を体験する、ということになっていたのではないだろうか。

11)すこしづつ読みながら、登場人物に「タクラマカン」という人物がいることを意識し始めた。ここに登場するタクラマカンという「猫」がいるのだが、これはひょっとすると、中央アジアの秘境、シャンバラに通じる何かを暗示しているのではないだろうか、と思い始めた。

12)この本の翻訳者は管啓次郎。この名前も聞いたことあるなぁ、と思っていたのだが、ごく最近当ブログで呼んだ「現代思想」「エコロジーの大転換」の中沢新一の対談者であった。なるほど~、すこしづつ繋がってきたぞ。あそこでも賢治と熊楠が語られていた。

13)事実よりおおく推測をふくんでいるそうした議論は、無意識とは、まだ「より高次の」意識的志向を分泌することのできない、脳の寄り原始的な層から生じているものだ、と示唆しています。p150「こころと物質のパターン」

14)何を今さら、当ブログはこの劇作家のシナリオを追っかけてみようとし始まったのだろうか。作家が「私の畢竟の戯曲だと自負」(p260)するこの三部作を、決して1990年代のものと見てしまってはなるまい。3.11直前とは言え、2011年の2月に出版されたものである。今日的に対応するのが礼儀というものであろう。

15)「再読したが、古びたところが無かった」(p260)とまで明言している。本当だろうか・・・・。とするなら、20年間、この作家は、「進歩」しなかったのか。あるいはなんらかの理由で、それを超えることができなかったのか。あるいは、芝居という特性上、上演する環境が、あの時以上に調えることはできない、という意味であろうか。

16)「意識」(コンシャスネス)という単語は、ふつう宇宙全体というよりは、ある個人のこころをてらしだす、感知(アウェアネス)と注意(アテンション)の光を意味するものとしてつかわれます。ちょうど素粒子が量子場から展開し、ソリトンが非線型場から出現し、渦が川の流れからあらわれるように、個人の意識も、宇宙全体へとつらなってゆく意識の秩序の、複雑な背景から出現します。p292「時と変換」

17)名うてのサイエンス・ライターの文章ゆえ、知らず知らずのうちに、裏の暗がりに引きづり込まれ、ボカボカにやられてしまいそうだ。あまり深入りしてはならない。

18)当ブログもまた「意識をめぐる読書ブログ」を標榜している限り、自らの立ちべき位置は確認してある。基本的には、意識は無意識→集合的無意識→宇宙的無意識、と深化し、あるいは超意識→集合的超意識→宇宙的超意識、と拡大飛翔する、というモデルを採用している。

19)ただ、現在、この本に触れているのは、純粋な「意識」論からではない。問題は、この芝居が上演された1991年において、劇作家と、当ブログは、クロスしていたか、シンクロしていたか、あるいは否か、という一点に集約されている。巌流島の戦いにさも似ている。

20)この際だから、限りなくこの戯曲集を手元に引き寄せて、今日的に、まさに3.11後的に読み下すことが、本当にできるのかどうか。そこのところが、この戯曲集に触れる第一の興味関心である。

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探求の詩 OSHOが語る神秘家詩人・ゴラク


「探求の詩」OSHOが語る神秘家詩人・ゴラク
OSHO/スワミ・プレム・グンジャ 2011/02 市民出版社 単行本 589p
Vol.3 No.0558★★★★☆

1)出版社からの案内でこの本が出ることは知っていて、楽しみにしていた。実際に手に取ったのは、3.11後にようやく再開した書店でだった。帰り道、こちらもようやく再開し始めた電車の中で読み始めた。

2)「クリシュナ、パタンジャリ、仏陀、マハヴィーラ、ゴラク・・・・・カビールはゴラクに吸収される。ゴラクは根だから省けない。シャンカラは難なくクリシュナに吸収される。シャンカラはクリシュナの一部の表れ、クリシュナの単なる一面の科学的な解釈だ」
 すると彼は言った。「なら四人だけ残すとしたら」
 私は次の名前を挙げた。「クリシュナ、パタンジャリ、仏陀、ゴラクだ・・・・。マハヴィーラは仏陀と大差ないからね。違いは微々たるものだし、違いといっても単に表現上のことだから。マハヴィーラの偉大さは仏陀の偉大さで一つにしてもいい」
 彼はこう言いだした。「じゃあもう一人削って三人選んでください」
 私はこう続けた。「この四人の個人的な特徴は四つの方向性のようなもの、この四つの次元は時空の四次元のようなもの、この四つの腕は四つの腕を持った神の概念のようなものだ。実際、神は一人だが、腕は四本ある。誰かを省くことは腕を一本切り落とすようなことだから、それはできない。今までは話に乗ってきたけど、数を減らしてこれたのは、除外しなかったのが今までは服だったからだ。これ以上となったら腕を折らないといけない。私に腕は折れない。そういう手荒なことは勘弁してくれ」
 スミトラナンダンは言った。
 「ちょっと疑問に思
ったのですが、マハヴィーラが削れても、ゴラクは削れないのですか」p10「ダイヤの原石」

3)このレクチャーが行われたのは、文脈から考えて1970年代(1979?)のプーナ。インド人達を中心としてヒンディー語で行われた「Maro Hejogi Maro」が、英語に翻訳されたのが2004年?。そのタイトルも「Die O Yogo Die」である。「死ね ヨギよ死ね!」である。

4)ゴラクなくしてカビールはない。ナナクもダドゥーもワジドもファリッドもミーラも、ゴラクがいなければ誰もあり得ない。こうした人たちの基本の基本はみなゴラクにある。だから高々と寺院が建てられてきたのだ。黄金のたくさんの尖塔がこの寺院に建てられたが、土台の石は土台の石だ。金の尖塔は遠くからは見えても、土台の石よりも重要になることはあり得ない。土台の石は誰にも見えないが、この土台の石の上に全構造物が立っている。壁という壁が、尖った高い塔やドームがすべて立っている・・・・人々は塔やドームを崇拝し、土台の石のことをすっかり忘れてしまっている。同じようにゴラクも忘れられてきた。p11「同上」

5)相変わらずの順調な滑り出しだ。この調子でOsho節に乗って読み進めることはそれほど難しいことではない。しかし、と思う。3.11後に進めるべき読書として、果たしてこの本が優先されるべき一冊として存在するだろうか。結局は、この本は読みかけのままになっており、他の3.11関係の本などを読むことになった。

6)タイミングではない、といえば、3.11以降ということだけではなく、いつにおいても、このゴラクに対するヒンディー語レクチャーは、Oshoの第一冊目を飾る本ではないだろう。この本を、2011年において、しかも日本語で読み始める人がいたとしたら、それはそれが機縁なのだろうが、私はベスト本ではない、と思う。

7)ゴラクや他の法脈について、なかば常識的に刷り込まれているインドの大衆においてこそ語られ伝えられるべき内容が多く、しかもプーナ1におけるサニヤスなどがテーマになったりしている。その周辺は十分に理解しながら、読み進められるべきだろう。

8)いずれにせよ、当ブログにとってのOsho本は、単なる読書、という以上の重みがあるので、一気には読み進めることはできない。ひっかかり、とっかかりしながら、いつ終わるとしれない、新しいひとつの旅にでるような思いで、ひとつひとつの講話録に取りかかるのである。

つづく・・・・・だろう。

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2011/12/04

OSHO ZEN TAROT <19> THE SOURCE(源)

 

 

Zen049thesource_2 <18>よりつづく 

OSHO ZEN TAROT<19> 

48.THE SOURCE(源)

 

 禅は、頭から出て根源に行くことをあなたに求める ……。それは、頭でのエネルギーの使い方に禅は気づいていないということではなく、エネルギーがすべて頭で使われていたら、あなたは自分の永遠性にけっして気づかないからだ……。

 あなたは、全体とひとつであるとはどういうことなのか、それを体験として知ることはけっしてないだろう。

 エネルギーがまさに中心にあり、脈打っているとき、エネルギーが頭にもハートにも、どこにも動かずに、ハートがそこから受け取り、頭がそこから受け取る源そのものにあり、源そのもので脈打っているとき——それこそが、まさに坐禅の意味だ。

 坐禅とは、どこにも動かずに、ただ源そのものに坐ることだ。途方もない力が湧いてくる。光と愛への、もっと大いなる生への、慈悲への、創造性への、エネルギーの変容。エネルギーは多くの形を取ることができる。

 だが、あなたはまず、いかにその源にあるかを学ばなければならない。そうすれば、あなたの潜在能力がどこにあるのか、その源が決めてくれる。あなたは源でリラックスすればいい。そうすれば、源があなたの潜在能力そのものへと連れていってくれる。
Osho The Zen Manifesto: Freedom from Oneself Chapter 11

 

解説:

 

 「足が地についている」とか「中心が定まっている」と私たちが言うのは、この「源」のことです。創造的なプロジェクトを始めるとき、私たちはこの「源」に波長を合わせます。このカードは、私たちにはエネルギーの巨大な貯蔵庫が用意されていることを思い出させてくれます。

 そして、その貯蔵庫に入ってエネルギーをくみ取るためには、考えて計画を立てるのではなく、地に足をつけ、中心に定まり、「源」との接触がもてるほど沈黙しなければならないということも……。それは、生命と滋養を与えてくれる自分の、個人それぞれの太陽のように、私たちひとりひとりの内側にあります。

 

 脈打ち、入手可能な、純粋なエネルギー——それには、私たちがなにかをやり遂げるのに必要なものであれば、なんでも与えてくれる用意がありますし、休みたいときはいつでも家に帰るのを歓迎してくれます。

 

 ですから、あなたがなにか新しいことを始めようとしていて、まさにいまインスピレーションを必要としていても、あるいは、ちょうどなにかをやり終えて休みたいと思っていても、「源」へ行きましょう。それはつねにあなたを待っています。しかも、それを見いだすには、自分の家から一歩も出なくていいのです。Copyright © 2011 Osho International Foundation 

 

<20>につづく

 

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2011/12/03

OSHO ZEN TAROT <18> EXPERIENCING(体験している)

 



Zen041experiencing <17>よりつづく 

 

OSHO ZEN TAROT <18>

 

40.EXPERIENCING(体験している)

 

 ちょっとまわりを見てごらん。子どもの目、あるいは恋人、母親、友人の目のなかを見てごらん——あるいは、ちょっと樹を感じてごらん。 

 

 あなたは樹を抱いたことがあるかね? 樹を抱いてごらん。すると、いつの日か、自分は樹を抱いたのだというだけでなく、樹も応じることが、樹もあなたを抱いてくれることがわかる。

 

 そうして初めて、あなたは樹がただの形にすぎないのではなく、植物学者たちが言うようにある特定の種にすぎないのではなく、知られていない神なのだということがわかるようになる——あなたの中庭で青々と繁り、中庭で満開の花を咲かせ、すぐそばであなたを招き、何度も何度もあなたを呼んでいる。Osho Dang Dang Doko Dang Chapter 2  

 

解説:

 

 「体験e x p e r i e n c e 」は、ノートに書き記したり、写真に撮ってアルバムに貼ることのできるものです。「体験しているe x p e r i e n c i n g 」というのは、驚きそのものを感じていることであり、交感(コミュニオン) のスリルであり、私たちはまわりのすべてとつながっているという優しい感触です。

 

 このカードの女性は、ただこの樹に触れているだけでなく、その樹と交感し、その樹とほとんどひとつになっています。その樹は老木で、何度も困難な目にあってきました。彼女は優しく触れ、うやまい、ケープの裏の白は彼女のハートの純粋さを反映しています。

 

 彼女は謙虚で、素朴です——それこそ、自然に近づく正しい道なのです。自然は笛や太鼓の鳴り物入りで花を咲かせることもなく、秋になって葉が落ちるに任せるときも葬送曲を奏でたりしません。

 

 しかし、私たちが正しいスピリットをもって自然に近づくと、自然には分かち合う多くの秘密があります。もし、最近、自然が自分にささやきかけているのを聞いていなかったら、今こそ自然にささやくチャンスを与える絶好の時です。Copyright © 2011 Osho International Foundation

 

<19>へつづく 

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2011/12/02

マイトレーヤ <9>

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<8>よりつづく

 

 

 

「マイトレーヤ」 <9> The buddha lord maitreya.
OSHO スワミ・アナンド・ヴィラーゴ 1988/3 瞑想社 地方・小出版流通センター  単行本 p221
★★★★☆

1)震災後、書店や図書館を回る気力もなく、ましてや古書店を覗いてみることもなかったが、最近はようやく再開した古書店もある。覗いてみると、棚やコーナーが大きく変化しており、思わぬ本が目についたりする。

2)何冊か目についたのだが、この「マイトレーヤ」も普段ならとても店頭に並ぶような本ではない。思わぬ安価で並んでいた。ネットでなら、そうとう高値で流通しているはずと一冊、友人に送るために求めた。

3)震災した人たちが、改築のためなどに古書店に持ち込んでいることも考えられる。当面は古書店は要チェックかな。

4)長い間読みたいと思っていたが入手できず、初めてこの本を読んだ友人からメッセージがあった。なるほどなぁ、そういう感想なんだな、と確認しながら、敢えてこちらも、ひととおり目を通してみた。

5)何度もめくっている本なので、いつもお気に入りのところを拾い読みしてしまうのだが、あらためて通読してみると、新たに気付いた点がいくつかある。良い点も、これはなぁ、と思う点もいくつか気がついた。

6)巻頭にオリジナルテキストとして、「The Osho Upanishad」「The Silent Explosion」が挙げられている。前者はすでに当ブログでも読み込み始めているが、後者はまだ未読である。その他、「未知への扉」や英語版のニューズレターからの抜粋が含まれている。出版元の瞑想社のコメンタリーも入っているが、それはそれで、受け入れることができる。

7)今回読み直してみて、新たに気になったのは、二つの時代の期日。一つは「The Osho Upanishad」が語られた日程と、私が夢の中で聞いた「アガータ 彼以降やってくる人々」というメッセージの重なりは、どのタイミングであったのか、ということ。これは、現在では、夢枕獏「上弦の月を食べる獅子」と、中沢らとの鼎談「ブッダの方舟」がひとつの謎解きのヒントを与えてくれそうだ、というところまできた。関連でいっそ中沢「カイエソバージュ」再読、ということもあり得る。

8)もうひとつの期日は、やはり700年前というチベットの時代のことである。

9)カルマ派 Karmapa
 チベット仏教カーギュ派の分派のひとつ。カーギュ派の始祖マルパ(1012~1097年)の孫弟子ガンポパの高弟のひとりであるドゥススムケンパ(1110~1193年)が始めた宗派で、彼が1189年に建立したラサ北西のツゥルプ寺がその本拠。この派の特色は、カーギュ派の流れを受けつぎ、数学の学修よりもタントラの実践を重んじ、また後にはその相承形式に転生による化身ラマの制度を取り入れ、チベットにおける転生ラマの観念を確立した点にある。この派には黒帽派と紅帽派の二系統が生じたが、教義そのものにはそれほどの相違はない。カルマ派は一時、ツァン(西部チベット)地方の豪族と結んで大いに勢力を延ばし、新興宗派ゲルック派とたびたび勢力争いを演じたが、1642年蒙古のグシ汗と結んだゲルック派に敗れ、その政治勢力はもとより、多くの寺院、寺領をゲルック派に吸収されてしまった。佐和隆研編「密教辞典」(法蔵館)98頁
 p188

10)ドゥススムケンパという名を自分はタイピングしていながら、よく記憶していない。他のチベット関連でも、特記されていた記憶がない。少なくともこれだと800年前ということになるから、これからさらに100年下ることになる。世代にして2~3代。

11)なにもカギュー派と決まってしまたわけではないのだが、この時代的背景を知るには、この辺は落とせない。「西蔵仏教宗義研究5 カギュ派の章」あたりでも再読しながら、さらに時代背景をゆっくりスキャンしなおしておいたほうがいいだろう。

12)二つの期日を読み説くことは、別にOsho単独でのテーマではなく、それは私自身のテーマでもあり、「私は誰か」に通じる瞑想の道でもある。

13)この本は、緊急性もあり、インターネットどころか国際電話さえ怖れ多くてかけにくいという時代に、プーナのOshoの近況を早くしらせたいという出版社の要請で発行されたものだ。私たちのセンターでも数十冊仕入れて、周囲の人々に届けた記憶がある。

14)この本はいまや幻の一冊になりかかっており、万が一古書店やネットオークションで発見したら即買いすべき本である、と私は思う。もちろん、取扱いには十分注意しなければならないが。

<10>につづく

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2011/12/01

科学者としての宮沢賢治 斎藤文一


「科学者としての宮沢賢治」 
斎藤文一 2010/07 平凡社 新書 226p
Vol.3 No.0557★★★★★

1)当ブログにおいて宮沢賢治が登場したのは3.11以後を意識してのことであり、敢えてそれを追っかけてみようと思ったのは、ひとつの「共通言語」としての賢治ワールドの魅力にひきつけられたからであった。

2)それはエスペラント語か、グロービッシュを習うようなものであり、コミュニケーションの幅をひろげ、相互交流する人びととの輪が広がるのではないか、という期待が暗にあった。1500語の基本的単語を習得すれば、まずは日常的な基本的会話ができるとするグロービッシュのように、深追いしたり、その道のプロにならずとも、ある程度の賢治ワールド言語を見につければ、仲間をみつけやすい、というのは本当だ。

3)しかし、「科学者として」賢治が、自らの世界を数式に置き換えて表現したら、さらにその世界は広がっただろうか。あるいは、もっと少ない表現で、自らの世界を写し取ることができただろうか。

4)賢治を翻訳して世界に紹介しようとする欧米の翻訳者たちの中には、賢治は日本に生まれて損をした、と表現している人もいる(たとえばロジャー・パルバース)。たしかに賢治の世界は、未発表のものが多く、手書きで、しかも未校了のものが多く、しかも大正年間の言葉が多用されたりで、現代日本人でさえ、なかなか読み下せない部分が多い。

5)にも関わらず、この賢治を「科学者として」みようとする著者は、宮沢賢治イーハトーブ館の館長を務めた人だ。1925年生まれ。記念館と隣接したイーハトーブ館をこの前訪れて、賢治の直筆の「銀河鉄道の夜」(写本)を求めてきた。

6)奇しくも、「銀河鉄道の夜」と(タゴール「ギータンジャリ」)の驚くべき類似が見られるように思う。このような両者の合致はほかにもいくつかあり、私はこれに触れたとき、魂が燃えるような感動を受けたことを忘れない。「銀河鉄道の夜」を読むための最良の指南書は、「ギータンジャリ」ではないかとさえ思うのである。p97「『銀河鉄道の夜』の世界」

7)タゴールは最初「ギータンジャリ」を母国語のベンガル語で発表した。英訳され評判になったが、あえて自らが英語で抄訳をつくったことがノーベル賞受賞のきっかけになったという。そして、英語の抄訳では、もともとのベンガル語の味わいは表現されていないという。ましてや、音読され、聞かれるべき詩である、とも言われている。

8)歴史に、もしも、たらば、ということはあり得ないのだが、もし、賢治がもっと長命で、自らエスペラント語や英語で作品を発表し、あるいは翻訳を自ら監修することがあったとしたら、その本質はもっとグローバルで、世界の多くに受け入れられたのであろうか。

9)わずか一カ月ちょっとの期間ではあったけれど、当ブログでは村上春樹関連の60冊ほどをおっかけたことがあった。小説「1984」が評判になった時で、むやみに読み込みを勧めたのであるが、そこに横たうハルキニストたちが構成する春樹ワールドともいうべきものがあるのだ、ということに気がついた。

10)その熱狂的献身的ファン層の厚さに、つい私はこの「集まり」をクラウドソーシングに見立てることによって、納得することにした。今回、宮沢賢治を追っかけてみると、こちらにもまたその層の厚いオープンソースなクラウドソーシングがあることに気がついてしまう。

11)今日、科学者といえば、何かせまい範囲の特殊な専門家と受けとられやすいが、科学者本来の姿からみれが、それはあやまっている。その姿とは、ひとことでいえば、宇宙や人間に関する真理や法則に学び、それにのっとり、日々創造的に生きる人といえよう。そしてその人間像といえば、賢治のデクノボーである。p145「東北砕石工場と『雨ニモマケズ手帳』」

12)賢治は深追いするとどこまでも深いのであるが、共通言語としての賢治ワールドを知る程度でいいだろう、とまずは思っている。

13)ここで芸術と言われているものが、たんなる美術とりわけ装飾美術のたぐいでないことはもちろんである。それは、大地や生物が内に蓄えているいのちの声を聞きわけ、それを言葉や舞踏として正しく表現するようなものである。大地に支えられ、大地を耕し、いのちを成長させる・・・・そういう労働がよろこびであり、それがそのまま芸術なのである。その意味で、アート(技術)に近いものだといえよう。p168「『まことのことば』と<小さないのち>」

14)科学者であり、芸術家であった宮沢賢治。そして、宗教的探究者でもあった。「農民芸術概論綱要」の中に、その全ての萌芽が含まれている。

15)この書は、2010/07の出版だが、2011年の3.11を予測していたかのような部分もある。

16)人類が核文明に到達したことで、私は思うのだが、文明が進歩するということは、とりもなおさす人間が「罪やかなしみを進化」させるということではないだおるか。産業革命であれ、原子力革命であれ、情報技術(IT)革命であれ、そうである。進歩の動機は、便利さと快適さの追求であるが、それをつめきったとき、その根底に流れているものは、過剰な富への欲望ではないのか。ここに罪の根源がある。

 核の平和利用とされるものであれ、その根底にあるものは、自己中心のあくなき、自己中心のあくなき欲望の追求ではないだろうか。

 核の支配にストップをかけ、核廃絶への道を歩まねばならない。しかしながら、あくなき力をもってこの道に立ちはだかるものは、いつも主権国家そのものである。核保有の前提のになっているのは、国家主権の維持だからである。p210「デクノボー・ビー・アンビシャス」

17)この意見が昨年ではかなり過激に思えるものだっただろうが、3.11以後では、むしろ当たり前の意見となっているのではないだろうか。

18)イーハトーブ村は、世界中どこにでも生まれえる。イーハトーブは単なる理念ではなく、イーハトーブ・ネットを実践的な課題にするのだ。 

 イーハトーブ・ネットは、おのずから主権国家をこえるものとなるであろう。p212「同上」

19)この本なかなか面白い。そのうち再読したい。

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