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2011/12/01

科学者としての宮沢賢治 斎藤文一


「科学者としての宮沢賢治」 
斎藤文一 2010/07 平凡社 新書 226p
Vol.3 No.0557★★★★★

1)当ブログにおいて宮沢賢治が登場したのは3.11以後を意識してのことであり、敢えてそれを追っかけてみようと思ったのは、ひとつの「共通言語」としての賢治ワールドの魅力にひきつけられたからであった。

2)それはエスペラント語か、グロービッシュを習うようなものであり、コミュニケーションの幅をひろげ、相互交流する人びととの輪が広がるのではないか、という期待が暗にあった。1500語の基本的単語を習得すれば、まずは日常的な基本的会話ができるとするグロービッシュのように、深追いしたり、その道のプロにならずとも、ある程度の賢治ワールド言語を見につければ、仲間をみつけやすい、というのは本当だ。

3)しかし、「科学者として」賢治が、自らの世界を数式に置き換えて表現したら、さらにその世界は広がっただろうか。あるいは、もっと少ない表現で、自らの世界を写し取ることができただろうか。

4)賢治を翻訳して世界に紹介しようとする欧米の翻訳者たちの中には、賢治は日本に生まれて損をした、と表現している人もいる(たとえばロジャー・パルバース)。たしかに賢治の世界は、未発表のものが多く、手書きで、しかも未校了のものが多く、しかも大正年間の言葉が多用されたりで、現代日本人でさえ、なかなか読み下せない部分が多い。

5)にも関わらず、この賢治を「科学者として」みようとする著者は、宮沢賢治イーハトーブ館の館長を務めた人だ。1925年生まれ。記念館と隣接したイーハトーブ館をこの前訪れて、賢治の直筆の「銀河鉄道の夜」(写本)を求めてきた。

6)奇しくも、「銀河鉄道の夜」と(タゴール「ギータンジャリ」)の驚くべき類似が見られるように思う。このような両者の合致はほかにもいくつかあり、私はこれに触れたとき、魂が燃えるような感動を受けたことを忘れない。「銀河鉄道の夜」を読むための最良の指南書は、「ギータンジャリ」ではないかとさえ思うのである。p97「『銀河鉄道の夜』の世界」

7)タゴールは最初「ギータンジャリ」を母国語のベンガル語で発表した。英訳され評判になったが、あえて自らが英語で抄訳をつくったことがノーベル賞受賞のきっかけになったという。そして、英語の抄訳では、もともとのベンガル語の味わいは表現されていないという。ましてや、音読され、聞かれるべき詩である、とも言われている。

8)歴史に、もしも、たらば、ということはあり得ないのだが、もし、賢治がもっと長命で、自らエスペラント語や英語で作品を発表し、あるいは翻訳を自ら監修することがあったとしたら、その本質はもっとグローバルで、世界の多くに受け入れられたのであろうか。

9)わずか一カ月ちょっとの期間ではあったけれど、当ブログでは村上春樹関連の60冊ほどをおっかけたことがあった。小説「1984」が評判になった時で、むやみに読み込みを勧めたのであるが、そこに横たうハルキニストたちが構成する春樹ワールドともいうべきものがあるのだ、ということに気がついた。

10)その熱狂的献身的ファン層の厚さに、つい私はこの「集まり」をクラウドソーシングに見立てることによって、納得することにした。今回、宮沢賢治を追っかけてみると、こちらにもまたその層の厚いオープンソースなクラウドソーシングがあることに気がついてしまう。

11)今日、科学者といえば、何かせまい範囲の特殊な専門家と受けとられやすいが、科学者本来の姿からみれが、それはあやまっている。その姿とは、ひとことでいえば、宇宙や人間に関する真理や法則に学び、それにのっとり、日々創造的に生きる人といえよう。そしてその人間像といえば、賢治のデクノボーである。p145「東北砕石工場と『雨ニモマケズ手帳』」

12)賢治は深追いするとどこまでも深いのであるが、共通言語としての賢治ワールドを知る程度でいいだろう、とまずは思っている。

13)ここで芸術と言われているものが、たんなる美術とりわけ装飾美術のたぐいでないことはもちろんである。それは、大地や生物が内に蓄えているいのちの声を聞きわけ、それを言葉や舞踏として正しく表現するようなものである。大地に支えられ、大地を耕し、いのちを成長させる・・・・そういう労働がよろこびであり、それがそのまま芸術なのである。その意味で、アート(技術)に近いものだといえよう。p168「『まことのことば』と<小さないのち>」

14)科学者であり、芸術家であった宮沢賢治。そして、宗教的探究者でもあった。「農民芸術概論綱要」の中に、その全ての萌芽が含まれている。

15)この書は、2010/07の出版だが、2011年の3.11を予測していたかのような部分もある。

16)人類が核文明に到達したことで、私は思うのだが、文明が進歩するということは、とりもなおさす人間が「罪やかなしみを進化」させるということではないだおるか。産業革命であれ、原子力革命であれ、情報技術(IT)革命であれ、そうである。進歩の動機は、便利さと快適さの追求であるが、それをつめきったとき、その根底に流れているものは、過剰な富への欲望ではないのか。ここに罪の根源がある。

 核の平和利用とされるものであれ、その根底にあるものは、自己中心のあくなき、自己中心のあくなき欲望の追求ではないだろうか。

 核の支配にストップをかけ、核廃絶への道を歩まねばならない。しかしながら、あくなき力をもってこの道に立ちはだかるものは、いつも主権国家そのものである。核保有の前提のになっているのは、国家主権の維持だからである。p210「デクノボー・ビー・アンビシャス」

17)この意見が昨年ではかなり過激に思えるものだっただろうが、3.11以後では、むしろ当たり前の意見となっているのではないだろうか。

18)イーハトーブ村は、世界中どこにでも生まれえる。イーハトーブは単なる理念ではなく、イーハトーブ・ネットを実践的な課題にするのだ。 

 イーハトーブ・ネットは、おのずから主権国家をこえるものとなるであろう。p212「同上」

19)この本なかなか面白い。そのうち再読したい。

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