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2012/01/29

地球人スピリット宣言草稿<28>Ultimate Truth

<27>からつづく 

「地球人スピリット宣言草稿」 
<28>Ultimate Truth

 自分のことをググッていたら、かつて自分は「先住民と新人類 : 和尚に捧ぐ」という文章を書いていたらしい、ということにあらためて気付いた。その経緯を細かくは覚えていないが、先立つこと他のミニコミに書いた文章が、編集者の目にとまり、「アース・スピリット」と言う本に収録されたのだった。この本はたしか、我が家の蔵書として何処かにしまわれているはずなので、いつか探してみようと思う。

 この本、よくよく見ると、「アース・スピリット宣言」の文字が躍っている。ああ、そうだったよなぁ、20年以上も前から、同じようなところを行きつ戻りつしているのであった。そして、その「宣言」たるや、どうなっているのだろう。

 「アース」と「地球人」、では、意味するところは違うし、哲学的に細かく探究していけば、またく180度違ったりするのだが、今は、そんなことは躊躇しない。意味する方向性は同じ方向なのだ。

 そして、「アース」のほうはともかくとして、「地球人スピリット」として、とりあえず、当ブログが現在、「宣言」したいことを煎じつめてしまえば、どうなるか、と考えてみた。

Buddham Sharanam Gachchhami
Sangham Sharanam Gachchhami
Dhammam Sharanam Gachchhami

 あのガッチャーミ―だ。

I go to the feet of the Awakened One
I go to the feet of the Commune of the Awakened One
I go to the feet of the Ultimate Truth of the Awakened One

 日本では三帰依文と呼ばれる。

みづから仏に帰依し奉る。

まさに願わくは衆生とともに、大道(たいどう)を体解(たいげ)して無上意(むじょうい)をおこさん。

みづから法に帰依し奉る。

まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて智慧海の如くならん。

みづから僧に帰依し奉る。

まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して一切無礙(むげ)ならん。

 私には以前から気になることがある。三帰依文では、仏→法→僧、の順番になっているし、このほうが語呂もいいようなのだが、Oshoのセンスでは、仏→「僧」→「法」、の順番になっているおkとだ。

 この順番は、ハリウッド映画などでは、法→仏→僧になっていたりして、さまざまなバージョンがあるようだが、東洋的な広がりの中でのガッチャーミーでは、普通に仏法僧になっていることが多そうだ。

 このことについて、ある時(1980年代だが)、ある禅寺の和尚さんに尋ねたことがある。その時、答えてくれたのは、次のような答えだった。

 仏法僧は、一体になっているもので、あり、順番はあまり重要ではありません。仏の蔭に法と僧があり、法の蔭に仏と僧があり、僧の蔭に仏と僧があります。どの順番に唱えてもいいのです。

 新参の若者に対する答えでは、これで正解だろう。これ以上の答えはないはずだ。それで納得したはずの私だったが、いまだに、この疑問にこだわりつづけているのはなぜだろう。

 Oshoは自分なりにガッチャーミーをアレンジしたのだろうか。それとも、仏教の伝統を大きく変革しようとしたのだろうか。いずれにせよ、Oshoにおいては、ダンマム、サンガム、ダンマムの順序は崩れたことがない。

 思惟するに、伝統的な三帰依文においては、仏、法、僧、とすることによって、僧に余韻を残したのではないだろうか。仏教は「僧」において伝えられ、守られてきた、という意識が残る。そこに「仏教」という、Buddism、というニュアンス、カラーが残る。

 その伝統に陰りが見えたからこそ、今、新たなるアース・スピリット、地球人スピリットが立ち上がろうとしているのではないか。もし、余韻を残すとすれば、僧とかコミューンとか、サニヤシン、とかに残すのではなく、Ultimate Truth、究極の真実、のほうに残すべきなのではないか。

 そこにこだわりを持ち続けている。

 だから、煎じつめて言うならば、当ブログにおける「地球人スピリット宣言」の中身は、ガッチャーミーであり、さらに煎じつめれば   I go to the feet of the Ultimate Truth of the Awakened One、ということになる。

 当ブログが、楽天ブログから、こちらのココログに移動してきたのは、こちらのほうがアクセスログが見やすいことも大きな要素としてあった。そのアクセス記録を辿ってみると、「神秘家の道」をたどるアクセス者が絶えない。

 自分で書きとめておいて、忘れてしまっていることも多く、最初から読み直してみると、これが実に意味深い。相変わらず、誤字脱字が多いのは御愛嬌で、いずれ手直しするとしても、自分がたどった読書記録としては、なるほどと思わせられる部分が残されている。

 であるなら、一冊まるまんま本を読みなおせばいいことなのだが、なかなかそうもいかないのが、Osho本を読む、ということなのだ。

 現在は、「Messiah 1-5」を、mp3のオーディオ講話を聞きながら、ネット上から下ろしたPDFの文章を読み進めているところだ。「Messiah」は1987年1月の講話であり、「神秘家の道」はそれに先立つ86年の5月の講話だ。おのずと、そこに流れが生じている。

 当ブログの現在の進行形としては「Messiah」を読み進めないことには前に進まない状況になっているので、あえて「神秘家の道」再読へは急ハンドルは切らないが、意味的には、まさにあの延長線上にある。

 別れの日を、集いの日とすべきなのであろうか。
そして、私の最後の夕が、まことなる私の黎明となるのであろうか。耕作を半ばにて、鋤を放り出してきた者に、私は何を与えればよいのだろう。葡萄酒しぼりの輪を停めてきた者に、私は何を与えればよいのだろう。
もし私の心が、果実のたわわになる木であるなら、その果実を、もいで与えるべきなのか。
もし、私の欲求が、泉のごとく溢れ出るものなら、それで彼らの杯を満たすべきなのではないのか。
私は、大いなるものの手が触れてかきならされる琴か。あるいはまた、大いなるものの息吹が過ぎる横笛なのだろうか。
ジブラーン「プロフェット」小林薫訳p19「船来たる」

 私もまた一人の農夫だった。あるいは葡萄酒絞りだった。鋤を投げ出し、その輪を停めて、走り出していた。

 3.11後の宮沢賢治として、石寛太の「祈りのことば」を再読している。心現れる素晴らしい一冊だ。ここから、それこそ「哀しみから這い上がる希望の力」を見つけることは、可能だろう。ゆっくり再読したい。

 そして、そう思うとともに、ゲシュタルトを転じてみると、3.11←→賢治、という図式を取り囲んでいる暗転部分のほうのなんと膨大なことかと痛感する。入子曼荼羅構造の中で、賢治ワールドは、Oshoワールドに取りこまれ、あるいはUltimate Truthのほうへと走り出す。

<29>につづく

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